宇宙創生以降 |
138億年前 | 宇宙創生。プランク時代。クォークが生成。 |
宇宙創生から10-44秒後 | 超統一力が大統一力と重力に分かれる。グルーオンが生成。 |
宇宙創生から10-36秒後 | 大統一時代が終わり、大統一力が電弱力と色の力(核力=強い力)に分かれる。真空の相転移による超膨大なエネルギーでインフレーションが始まり、宇宙は急激に膨張。 |
宇宙創生から10-34秒後 | インフレーションが終わり宇宙は極超高温・高密度状態になる(いわゆる「ビッグバン」)。電弱時代。宇宙の大きさはこの時点で量子レベルから数cm程度にまで拡大したと考えられる。 |
宇宙創生から10-10秒後 | 電弱力が電磁気力と弱い力に分かれる。物質と反物質の釣り合いが崩れ、対消滅により物質だけが残る。 |
宇宙創生から10-4秒後 | 宇宙の温度が1兆度ほどにまで下がり、クォークやグルーオンからハドロン(陽子・中性子など)が出来るQCD相転移がおこる。ハドロン時代。 |
宇宙創生から1秒後 | 陽子と中性子から出来た重水素原子核の核融合が始まる。 |
宇宙創生から3分~20分後 | 重水素原子核融合によりヘリウムと、ほんのわずかなリチウム、ベリリウムの原子核が合成され終了。宇宙は原子核、電子、光子によるプラズマ状態となる。 |
宇宙創生から38万年後 | 宇宙の温度が3000k程まで下がり、電子と原子核が結合して原子が生成されるようになる。電子との相互作用で進むことが出来なかった光子が通るようになり、宇宙は見通しが良くなる(宇宙の晴れ上がり現象)。 |
| この期間を暗黒時代と呼ぶ。宇宙が晴れ上がった後、恒星が誕生するまでの間は、光る天体がないため。 |
宇宙創生から1億年後頃 | 最初期の恒星(第一世代の天体)が生まれたと考えられる。 |
宇宙創生から1億~5億年後頃 | 最初期の銀河が生まれはじめる。地球のある銀河系もこの頃か。 |
宇宙創生から8億年後頃 | 宇宙の再電離。 |
70億年前 | 宇宙の膨張が再び加速。ダークエネルギーによるものか。 |
46億年前頃 | 半減期の短い元素が地球や隕石などから見つかることから、原始太陽が出来始めた頃、比較的近い場所で超新星爆発があった可能性が高く、その際の衝撃で星間物質が収縮し、太陽系の形成につながったと考えられる。 |
地球誕生以降 |
46億年前(冥王代) | 太陽周辺の原始惑星系円盤内で、塵が衝突して微惑星へと成長し、微惑星がさらに衝突して成長し、原始地球を含む惑星がいくつか誕生する。 |
45億5000万年前(冥王代) | 地球の衛星「月」が誕生する。現在は地球に火星くらいの大きさのトロヤ惑星テイアが衝突し、分離した大量の破片が集合して月になったとするジャイアント・インパクト説が有力視されている。 |
44億年前頃(冥王代) | 地球がマグマオーシャンから表面が冷えて地殻が出現する。 |
41億年前~38億年前(冥王代) | 地球や月に多数の天体が衝突したとされる仮説(後期重爆撃期)の期間。月の「海」と呼ばれる玄武岩質の平地は、多数の隕石衝突で溶融したマントルの跡と考えられている。要因として木星のようなガスジャイアントの公転軌道の変化に影響を受けた多数の小天体の軌道が太陽近くにまで移動したためとされる(否定的な説もある)。40億年より前の地殻の痕跡が現在ほぼ存在しないのは、この時期の大規模な隕石衝突で破壊溶融してしまったためという説もある。 |
40億年前頃(冥王代) | 地球に海洋が出現し、表面はほぼ海に覆われる。表面温度の低下で水蒸気が雨となって大量に降り注いだ結果と考えられる。なお30億年前ころまで海水温は100度前後あったとみられる。 |
40億年前頃(冥王代) | 地球に原始生命が出現したと考えられる。もっと古い43億年前くらいとする説もある。生命発生の起源については、粘土や鉱物などの界面で代謝が始まったとする表面代謝説、RNAの自己複製と代謝から始まったとするRNAワールド仮説、DNAの触媒を起源とするDNAワールド仮説、ペプチドやタンパク質分子の触媒から始まったとするプロテインワールド仮説、脂質分子膜内部での化学反応から始まったとするリピットワールド仮説、代謝や複製に似た機能を持った物質を生命の前段階として含めるガラクタワールド仮説、初期生命は宇宙から来たとするパンスペルミア説、これらの仮説を組み合わせた説などがある。発生場所も海中の熱水噴出孔説や陸上の温泉地帯説、地下説もある。 |
38億年前(始生代) | 生命が存在したと考えられる地質学的痕跡のある年代。真正細菌と古細菌の共通祖先から分かれたとされる。原始生命が地球環境が激変したと考えられる「後期重爆撃期」を生き延びたとする説が有力。また現在見られる最古の地殻岩石もほぼこの時代のもの。 |
35億年前頃(始生代) | 最古の化石の年代。 |
31億年前~28億年前頃(始生代) | 最初期の大陸のひとつ、バールバラ大陸が存在したとみられる年代。現在のアフリカ南部とオーストラリア西部に同時代の安定陸塊(クラトン)の痕跡が残っている。 |
29億年前頃(始生代) | 現在判明している最古の氷河期ポンゴラ氷河期の時代。 |
27億年前頃(始生代) | この頃から火山活動に伴い陸地が急速に広がり始める。陸上の風化によって金属イオンが海中に溶け二酸化炭素とくっつき炭酸塩鉱物として固定化するため、大気中の二酸化炭素の量が減り始める。温室効果も弱まり気温も下がっていったとみられる。 |
27億年前頃(始生代) | 光合成を行うシアノバクテリアとみられるストロマトライトの最古の化石の年代。この頃から生物によって大量の酸素が生み出され、海中に溶けていた鉄イオンが酸化鉄として堆積するようになる(縞状鉄鉱床)。酸素の苦手なタイプが多い真正細菌・古細菌に代わり、古細菌より分かれたと考えられる真核生物(細胞核を持つ生物)が現れ増えはじめる。この生物の置き換わりを大量絶滅のひとつに加える説もある。 |
25億年前(原生代) | シデリアン期。北半球高緯度地域にアークティカ大陸が広がる。 |
24億年前~21億年前(原生代) | ヒューロニアン氷期。地球全体が氷河期となる全球凍結もあったとされる。 |
21億年前頃(原生代) | 最古の真核生物の化石の年代。 |
20億2300万年前頃(原生代) | 現在の南アフリカフレデフォートに直径10~12km程度の小惑星が衝突。直径300kmのクレータが生じる。衝突のエネルギーは87Ttに達したとも。 |
19億年前頃(原生代) | 鉄イオンの酸化による鉄鉱床の生成が終わる。この頃、プレートテクトニクスにより最初の超大陸ヌーナが出現。 |
18億5000万年前頃(原生代) | 現在のカナダ・サドベリー付近に直径10kmほどの小惑星が衝突。直径200~250kmほどのクレーターが生じる。 |
15億年前頃(原生代) | 18億年前からこの頃にかけて、超大陸コロンビアが存在していたとみられる。 |
12億年前頃(原生代) | この頃、陸上に微生物が進出し始めたとも考えられる。 |
10億年前頃(原生代) | この頃には多細胞生物が現れたものと思われる。 |
10億年前頃(原生代) | この頃まで、超大陸パノティアが存在したとも言われる。 |
7億5000万年前(原生代) | ロディニア大陸が分裂。 |
7億4000万年前~6億3000万年前頃(原生代) | スターティアン氷期からマリノア氷期。地球全体が凍りつく最も激しい全球凍結時代だったとされている。生物の一部は深海や火山地帯で生き延びたと考えられる。この後の生命の大繁殖時代「カンブリア爆発」との関連も指摘されている。 |
6億年前~5億5000万年前頃(エディアカラン紀) | エディアカラ生物群が繁殖。軟体でしかも比較的大きな体格(数十cm程度)をした生物が多いのが特徴。 |
5億5000万年前(エディアカラン紀) | パノティア大陸が分裂し、ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸が出現。 |
5億4500万年前頃(エディアカラン紀) | 生物の大量絶滅が起こる。V-C境界。大規模な火山活動説がある。 |
5億4200万年前~5億3000万年前頃(カンブリア紀) | この頃、多種多様な動物が出現。現在の動物のほぼすべての「動物門」が登場したとみられる。通称「カンブリア爆発」。目や殻(外骨格)を持つ生物が現れ始める。 |
5億3000万年前頃(カンブリア紀) | バージェス動物群が繁殖。現在では類型が見られない動物も多数生息。1909年に古生物学者チャールズ・ウォルコットがロッキー山脈でバージェス頁岩を発見し、その後同地から多数の化石が採取されたことから付いた。 |
4億7000万年前(オルドビス紀) | この頃から徐々に陸上の湿地などに植物が広がり始めたと考えられる。 |
4億4000万年前(オルドビス紀) | 生物の大量絶滅が起こる。この期間に三葉虫の一部などが絶滅する。超新星爆発によるガンマ線照射でオゾン層が破壊され、浅瀬に住む生物に影響したという説もあるほか、絶滅期と同時期に短期的な氷河期の痕跡が見られる。 |
4億3000万年前(シルル紀) | この頃から節足動物や植物の陸上進出が本格化する。この頃繁殖した植物の一つがクックソニア。 |
4億2000万年前(シルル紀) | ローレンシア大陸・バルティカ大陸・アバロニア大陸が衝突しユーラメリカ(オールドレッド)大陸となる。3大陸の間に広がっていたイアペトゥス海は消滅。 |
4億年前(デボン紀) | この頃から、陸上では昆虫が、水中では魚類が大幅に増加する。 |
3億7400万年前(デボン紀) | フラスニアン期とファメニアン期の境(F-F境界)で海洋生物の大絶滅が起こる。原因は不明だが、酸素濃度の低下が挙げられている。 |
3億6000万年前~3億5000万年前(デボン紀・石炭紀) | この頃、板皮類・無顎類・三葉虫のほとんどが絶滅する。 |
2億9000万年前(ペルム紀初期) | この頃、大気の酸素濃度が35%に達する。その為、動植物とも大型化したとみられる。 |
2億9000万年前(ペルム紀初期) | この頃より、地球や月に衝突する小天体の数が増加したという説もある。 |
2億9000万年前(ペルム紀初期) | 現在のカナダケベック州に2個の隕石が衝突。直径36kmと直径26kmの2つのクレーターを形成。クレーターは隣接しており、地球では珍しい双子クレーター。1個の小惑星が崩壊して2個になったか、衛星を連れた小惑星がそのまま衝突したものと考えられる。 |
2億5160万年前(ペルム紀最末期) | この頃から以降の100万年で、海洋と陸上の生物の約95%が絶滅する。その約1000万年前のガダルピアン世末期の絶滅と共に「P-T境界の大量絶滅」と呼ばれる。他の絶滅期と異なり、生物種の回復までに非常に時間がかかっている。また、この頃より以降1億年に渡り、大気の酸素濃度が大きく低下した。マントルプルームによる大噴火で気候が変動したという説の他、隕石落下説もある(下記参照)。ちょうどこの頃、すべての大陸がつながり、超大陸パンゲアが出現している。 |
2億5000万年前(ペルム紀最末期) | 現在の南極ウィルクスランドの氷床の下に、直径480kmほどの重力異常地形があることが判明しており、これがクレーターである場合、2億5000万年前ころに直径50kmほどの小惑星が衝突した痕跡ではないかという説がある。これが「P-T境界の大量絶滅」を引き起こした要因ではないかとも考えられている。 |
2億1400万年前(三畳紀) | 破砕した小惑星の破片が地球各地に降り注ぐ。現在でもカナダのマニクアガン・クレーター、カナダのセント・マーティン・クレーター、フランスのロシュシュアール・クレーター、ウクライナのオボロン・クレーター、アメリカのレッド・ウィング・クレーターなどがその痕跡と考えられている。 |
1億9960万年前頃(三畳紀最末期) | 生物の大絶滅現象が起こる。中央大西洋マグマ分布域の火山活動の活発化、オスミウム層の存在から隕石の衝突などが原因とされている。これ以降、絶滅期を生き延びた恐竜が繁栄していく。 |
1億6000万年前頃(ジュラ紀) | この前後に大陸の乾燥化が急速に進み、生物の絶滅が起きたとされる。マントル内部などの要因で地殻が回転するように急に移動する「真の極移動」が起きて、南へ25度移動したことが原因という説もある。 |
1億5000万年前頃(ジュラ紀) | アーケオプテリクス(いわゆる始祖鳥)が現れる。鳥類が恐竜から分かれたものかが論争になった生物。 |
1億4500万年前頃(ジュラ紀末) | この頃から地球最大の火山タム山塊が形成されていったと考えられる。 |
1億4200万年前頃(ジュラ紀末・白亜紀) | 現在のオーストラリア中央部に直径1~2kmほどの隕石が衝突。直径22kmほどのゴッシズ・ブラフ・クレーターを形成。現在は衝突でできたクレーターの中央丘部分だけが残っている。 |
1億4000万年前頃(白亜紀) | この頃、裸子植物から被子植物が分かれたと考えられる。 |
1億2000万年前頃(白亜紀) | この前後に、オントンジャワ海台を形成した巨大噴火が発生し、海中の酸素濃度が低下。魚竜や首長竜の一部が絶滅したとみられる。 |
8200万年前頃(白亜紀) | 現在のアラバマ州に長径300m以上の隕石が落下。直径6.5kmのウェタンカ・クレーターを形成。 |
6600万年前頃?(白亜紀末期) | 現在のインド・ムンバイの西方海域に、直径40kmほどの小惑星が衝突し、シバクレーターを形成して、チクシュルーブ・クレーターの小惑星とともに恐竜絶滅のきっかけとなったという説がある(否定する説も有力)。 |
6600万年前頃(白亜紀末期) | 現在のユカタン半島の北部沿岸部付近に、秒速19kmほどの速度で、直径11~15kmほどの小惑星が衝突。チクシュルーブクレーターを形成。地球規模の災害を引き起こす。デカン高原の大火山噴火との関係を指摘する説もある。年代は6604万年前頃で、植物の化石から6月に衝突したとする説が有力になってきている。数ヶ月から10年間、気温が大幅に低下する「衝突の冬」(インパクトウィンター)が発生したとみられる。 |
6600万年前頃(白亜紀末期) | K-Pg境界層の大絶滅。陸上の恐竜、翼竜、エナンティオルニス類などの鳥類、大型の哺乳類が絶滅。水生では、プランクトン、藻類、有孔虫の多く、二枚貝や腕足類の多くが絶滅し、淡水サメ、首長竜、モササウルス、アンモナイトは完全に絶滅した。一方で理由はわからないが、魚類、小型の爬虫類、小型の哺乳類、真鳥類は比較的生き残っており、その後大きく繁栄する。またシダ植物もこの大絶滅期の直後に大繁殖しており、大地が荒廃していた可能性を示唆している。大絶滅の要因として有力なのが、ユカタン半島に落ちた小惑星による大災害。 |
4500万年前(始新世) | インド亜大陸が北上してユーラシア大陸に衝突。ヒマラヤ山脈が生まれる。 |
4000万年前(始新世) | この頃、オーストラリア大陸と南極大陸が分離し、どちらもほぼ独立した大陸となる。 |
3900万年前(始新世) | 直径約2kmの隕石がデヴォン島に落下。直径23kmほどのクレーターが生じる。デヴォン島はカナダの北極海クイーンエリザベス諸島にあり、風化や侵食が殆ど見られないことから、衝突時の状態が保存されている。 |
3720万年前(始新世) | 現在のカナダのサドベリー付近にあるクレーターの端に隕石が落下。ワナピティクレーターが生じる。 |
3500万年前(始新世) | 現在のアメリカバージニア州チェサピーク湾口付近に、直径数kmの大型の隕石が落下。直径90kmのチェサピーク湾クレーターを生じる。ほぼ同時期に落下したポピガイ・クレーター隕石と共に気候変動を起こしたのではないかという説がある。両隕石が同じ天体から分裂したものかは不明。現在クレーター自体は海底に埋没している。 |
3500万年前(始新世) | 現在のロシア・シベリア中部アナバル地方に、直径数kmの大型の隕石が落下。直径100kmのポピガイ・クレーターを生じる。ほぼ同時期に落下したチェサピーク湾クレーター隕石とともに気候変動を起こしたのではないかという説がある。現在もクレーターは地表にあってほぼ原型をとどめており、地球上のクレーターでは4番目の大きさ。大量の衝突ダイアモンドが産出される。 |
2800万年前(中新世) | この頃、エジプト付近に隕石が衝突。古代エジプトの宝飾に使われたリビアングラスを生み出した要因だと見られている。 |
2700万年前(中新世) | 北アメリカのサンファン山脈ラ・ガリータ・カルデラが超巨大噴火。1980年のセントヘレンズ山噴火の5000倍規模。 |
2300万年前(中新世) | この頃、南極と南米大陸南端の陸橋が消滅し、南極周辺に南極環流が生じるようになる。このため、暖流が南極大陸へ到達しなくなり、南極は急速に寒冷化が進む。これ以前は、南極でも温暖な時代があり、植生のほか多様な動物が生息していたと考えられる。 |
1500万年前(中新世) | 現在のドイツ・バイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州に、直径1.5kmと150mの大小2つの小惑星がほぼ同時に落下。リースクレーターとシュタインハイムクレーターを生じる。クレーター間の距離はおよそ42km。2つの小惑星は、連星のような共通重心を回る二重小惑星だったとも言われている。 |
1500万年前(中新世) | この頃までに、南極大陸は現在のような氷床に覆われた状態となる。この氷床の重さで、地表は最大海面下2500mほどまで沈降している。 |
1100万年前(中新世) | この頃、哺乳類など15%ほどの生物が絶滅。原因は不明だが、現在の南鳥島近海の西太平洋に直径数kmの隕石が落ちたのが原因という説がある。 |
596万年前頃(中新世) | 地中海に蒸発岩が現れ始める。大西洋と断絶したことで、地中海の蒸発が進み、干上がり始めたためと考えられる。 |
580万年前頃(中新世) | 猿人アルディピテクス・カダッバが出現。 |
555万年前頃(中新世) | 地中海がかなりの範囲で干上がったとみられる。メッシニアン期塩分危機。 |
533万年前頃(中新世) | 地中海と大西洋がジブラルタルのところで再びつながり、大西洋の海水が地中海へと流れ込み始める。 |
440万年前頃(鮮新世) | 猿人アウストラロピテクス・アナメンシスが出現。 |
360万年前頃(鮮新世) | この前後100万年の間に史上最大のサメ、メガロドンが絶滅。 |
350万年前頃(鮮新世) | 現在、銀河の中心から上下に広がるフェルミバブルという構造から、この頃、銀河の中心部で大規模な爆発現象が起きたと考えられている。 |
300万年前頃(鮮新世) | この頃、パナマ地峡が出現して、南北両米大陸がつながる。それぞれの地域に生息していた生物が他方へと生息地を拡大する「アメリカ大陸間大交差」が起きた。 |
260万年前頃(鮮新世) | 海洋生物の大量絶滅が起きる。 |
230万年前頃(鮮新世) | 最も古いヒト属であるホモ・ハビリスが出現。 |
215万年前頃(鮮新世) | 小惑星エルタニンが、南極大陸近海のベリングスハウゼン海に落下。直径が1km~4kmで、巨大津波が発生したと考えられる。 |
210万年前頃(鮮新世) | イエローストーン火山が超巨大噴火を引き起こす。2200から2450立方kmの噴出量があったとされる。 |
200万年前頃(鮮新世) | 猿人パラントロプス・エチオピクスが出現。 |
160万年前(更新世) | 旧称洪積世。氷河時代となる。海水面が下がり、陸地が広がる。 |
140万年前(更新世) | 現在のカナダ・ラブラドル半島の北西端に隕石が衝突。直径3.44kmの真円に近いピングアルイト・クレーター(ニューケベック・クレーター)が生じる。 |
130万年前(更新世) | イエローストーン火山が大噴火する。 |
100万年前(更新世) | 現在のガム星雲がその残骸とみられる超新星爆発が発生か。 |
79万年前 | インドシナ半島に直径1kmほどの隕石が落下。直径が13~17kmのクレーターが出来たと見られる。 |
70万年前 | 小御岳火山の噴火が始まる。現在の富士山の原型。愛鷹山と2つ並ぶように存在していたと見られる。 |
64万年前 | イエローストーン火山が大噴火する。 |
52万年前 | 小林カルデラ噴火。 |
33万年前 | 加久藤カルデラ噴火。現在の霧島山系はこのあとカルデラ南縁で噴火を繰り返し成長したとみられる。 |
30万年前頃 | 太陽系の比較的近傍で、現在のガンマ線源天体ゲミンガがその残骸とみられる超新星爆発が発生か。 |
現世人類出現以降 |
25万年前頃 | 現生人類であるホモ・サピエンスが出現。 |
13万年前 | 現在、世界中で人に飼われているイエネコのミトコンドリア遺伝子の解析ではこの頃のリビヤヤマネコが先祖に当たるとされている。 |
12万年前 | 屈斜路カルデラで大噴火が発生し、北海道の広範囲が火山灰で覆われる。 |
11万年前 | 阿多カルデラ噴火。 |
10万年前 | 小御岳火山のあとに古富士火山が噴火を始める。大量の噴出物で関東ローム層を作った。 |
9万年前 | 木曽御嶽山が大規模噴火。 |
9万年前 | 阿蘇カルデラで最大規模の噴火が起こる。約600立方kmの噴出量があり、九州の半分を火砕流が覆い、その先端は山口県に達する。降灰は北海道にまで到達。周辺地域に分厚い堆積台地を形成。 |
7万5000年前 | この頃、人類の遺伝子多様性が極度に減少。なにかの理由で現生人類であるホモ・サピエンスが千人から1万人程度にまで減少し、他のホモ属の人類(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトゥスなど)が滅びたためともいわれる。トバ火山の大噴火によると見られる気象変動が原因という説もある。現世人類が世界中へ広がり始めた理由にする説もある。 |
7万年前 | この頃、赤色矮星と褐色矮星の連星であるショルツ星系が太陽から約0.82光年の近傍を通過したとされる。 |
6万年前 | この頃、木曽御嶽山が噴火。摩利支天溶岩を流出する。 |
5万2000年前 | 現在のインド・ウッタル・プラデーシュ州に隕石が落下。直径1.2kmほどのロナール・クレーターを形成。現在も隕石湖となって残っている。 |
5万年前 | 現在のアメリカ・アリゾナ州に直径20~30mほどの小型の隕石(隕鉄)が衝突。直径1.2kmほどのクレーターが生じる。いわゆるバリンジャー隕石孔。 |
5万年前 | 現在の中国遼寧省鞍山市付近に隕石が衝突。直径1.8kmほどのクレーターが生じる。 |
4万年前 | 屈斜路カルデラで噴火が起こり、溶岩によって湖の南東部に円頂丘が生まれ、円形だった屈斜路湖は現在のようなそら豆状になる。 |
3万7000年前 | イタリア半島のカルデラ・フレグレイ平野カンパニアン・イグニンブライトで大規模な噴火が起こる。この噴火のほか、当時の南ヨーロッパなどで相次いだ噴火がネアンデルタール人を絶滅させたという説もある。 |
3万5000年前 | ルソン島の古期ピナトゥボ火山で大噴火が起こり、現在のピナトゥボ山の原型ができる。 |
2万9000年前 | この頃、姶良カルデラが短期間に二度も大爆発を起こす。一度目は妻屋火砕流を引き起こし、二度目は大規模な入戸火砕流を引き起こして、南九州一帯は噴出物に覆われ、関東平野にも10cmの降灰があった。 |
2万6500年前 | ニュージーランド北島のオルアヌイ火山が大噴火する。噴出量は1170立方km。 |
2万4000年前 | ネアンデルタール人のもっとも遅い絶滅推定年代。ジブラルタルなどイベリア半島の一部ではこの頃まで生存していたという説もある。 |
2万2000年前 | この頃から、姶良カルデラの一角に桜島が姿を現し始める。 |
1万5000年前 | 古富士火山の場所から新富士火山の噴火が始まる。山頂噴火も多く、現在の富士山へと成長。 |
1万2000年前前後 | この頃、ほ座超新星残骸のもとである超新星爆発が数百光年以内で発生か。 |
1万2900年前 | この頃、温暖化していた環境が急に寒冷化。ヤンガードリアス氷期に入る。温暖化に伴う氷床融解(特に当時世界最大の湖だった北米のアガシー湖からの流出)で起きた淡水の海洋流入が海流を変化させたのが原因という説、彗星もしくは隕石の北アメリカ大陸への落下もしくは空中爆発が原因という説もある。およそ1300年間続く。 |
1万2000年前 | この頃、インドネシアで起きた火山の大噴火によって、フロレス島にいた小型人類フローレス人が絶滅したとみられる。身長1m程の原人で、新種かそれまで知られている原人の島嶼化(孤立した島でやや大型の動物が小型化していく現象)かはっきりしない。この頃すでに同島には現生人類も居住していたと考えられる。同じ頃、同島にいた象の近縁種であるステゴドンも滅びている。 |
1万1000年前 | この頃にはすでに、メソポタミア西部ではライ麦を栽培する農業が始まっていたとみられる。ヤンガードリアス氷期の影響という説も。 |
1万前 | この頃までに、アメリカ大陸で繁栄していたネコ科のサーベルタイガーや、イヌ科のダイアウルフ、メガテリウム(オオナマケモノ)などの大型獣が滅んでいる。人間の進出による狩りで滅んだという説、気候と環境の変化による食糧不足説などがあるが、はっきりとはわかっていない。生息地についても草原説や森林説など諸説ある。同じ時代にすでにいたコヨーテなどは生き残った。 |
9500年前頃 | キプロス島ではこの頃、すでに猫を飼育していたことが遺跡で判明。 |
9000年前頃 | 中国の長江中流に彭頭山文化が、黄河流域に裴李崗文化が出現。どちらも農業を行い、土器を作っていたと見られる。 |
8200年前頃 | 世界最大の湖だった北米のアガシー湖(現在の五大湖とハドソン湾の間に広がっていた巨大氷河湖)が氷河の崩壊によって決壊しほぼ消滅。水の大半がハドソン湾を経て海へと流れ出たと考えられる。海面の上昇、海流の変化による寒冷化などを引き起こしたとされる。 |
8000年前 | この頃から5000年前ころまで、サハラ一帯の気候は湿潤化し砂漠が大きく減少していたとみられる。この後、乾燥化が再び始まり、それに伴い、ナイル川流域へ人々が移動し上下エジプト文明が発祥したとも言われる。 |
7300年前 | 薩摩半島南方の海底にある鬼界カルデラが大噴火を起こす。海面まで噴出した火砕流が九州南部に到達し(幸屋火砕流)、東北にかけての広範囲に大量の火山灰が降る(アカホヤ火山灰)。薩摩大隅地方の縄文文明はこのとき滅亡したと考えられる。また、この火砕流に飲み込まれたため、屋久島の屋久杉はこれより古いものはない、という説が有力。現在、海底に超巨大溶岩ドームがあることがわかっている。 |
6000年前? | アラビア半島のルブアルハリ砂漠のワバールに隕石が落ちたという説がある。衝突年は1500年代ころ、19世紀後半という説もある。同地には複数のクレーターの他、ガラス質に溶けた鉱物や鉄なども見つかる。聖地メッカのカアバ神殿にある「黒石」はワバール隕石ではないかという説もある。 |
有史以降 |
紀元前5500年頃 |
| メソポタミアにウバイド文明が生まれる。 |
紀元前5508年 |
| ビザンチン歴(世界創造紀元)元年とされた年。988年に東ローマ帝国で導入されその滅亡まで使用された。天地創造神話をもとに作られた暦。 |
紀元前5000年 |
| 中国三峡付近に大渓文化が出現。環濠集落などを構成し陶器も生産していたとみられる。同じ頃、長江河口北岸から太湖付近一帯に馬家浜文化が、長江河口南岸付近に河姆渡文化も出現。狩猟や漁猟と稲作などの農業が混在したと考えられる。 |
紀元前4860年頃 |
| 北米西海岸近くの現在のオレゴン州にあるマザマ山が大噴火によって崩壊。山体上部にカルデラが形成され、その後水がたまりカルデラ湖となる。現在のクレーターレイク。 |
紀元前4713年 |
1月 1日 | ユリウス通日の起点となる日。1583年にグレゴリオ暦導入による換算の混乱に備えてスカリゲルによって考案された。ユリウス通日を使うと、新旧の暦の換算の他、特定の日の曜日や干支も計算で導き出せる。 |
紀元前3900年頃 |
| メソポタミアに都市国家が生まれる。ウルク文化。 |
紀元前3500年 |
| ナイル川の中流域に上エジプト王朝が、ナイルデルタ地帯に下エジプト王朝が成立する。 |
| この頃、長江下流域に良渚文化が出現。玉器や絹などを生産していたと見られる。夏王朝などとの関係を指摘する説もある。 |
| この頃、阿多カルデラの池田カルデラ火山が噴火。 |
紀元前3200年頃 |
| メソポタミアでウルク古拙文字が使われるようになる。最古の文字の一つ。 |
紀元前3123年 |
6月29日 | 古代メソポタミアの都市ニネヴェの遺跡で見つかったシュメールの粘土板にある記録から、この日、小惑星が大気圏に突入し、アルプス上空で四散、破片が地中海一帯に落ちたという説がある。旧約聖書にある「性的に乱れて神の怒りを買い、火と硫黄の雨によって滅ぼされたソドムとゴモラの町」の話に結びついたとも。 |
紀元前3100年頃 |
| 上エジプト王朝のナルメル王が下エジプトも支配し統一王朝を立てる。エジプト第1王朝。後のギリシャ人歴史家ヘロドトスなどの記録ではエジプト第1王朝はメネス王によって始まったとされているが、遺跡から出土する遺物ではナルメルの記述しか見られないため、同一人物説もある。 |
紀元前3000年頃 |
| アナトリア西端のイリオス都市文明の始まり。 |
| 長江中流域に屈家嶺文化が、黄河中下流域には龍山文化が出現。小規模の都市国家。陶器の生産、農業などが発達。 |
紀元前2900年頃 |
| エジプト第2王朝がこのころはじまる。最初の王はヘテプセケメイとみられる。 |
紀元前2710年代頃 |
| エジプト第2王朝セト・ペルイブセン王の時に、上下エジプトの間に内乱が起こる。 |
紀元前2686年頃 |
| エジプト第2王朝最後の王カセケムイが死去。内乱平定後30年ほど統治していたみられる。 |
| カセケムイの娘ニマアトハピの夫サナクトが王位を継ぎ、エジプト第3王朝を開く。 |
紀元前2668年 |
| エジプト第3王朝2代目王ジョセル(ネチェルイリケト)が王位につく。大型の階段ピラミッドを最初に作った王。以後ピラミッドは大型化していく。 |
紀元前2613年 |
| エジプト第3王朝最後の王フニ王の息子であるスネフェルが異母妹ヘテプヘレスと結婚しエジプト第4王朝を開く。巨大ピラミッドが次々と建設された時代。 |
紀元前2589年 |
| スネフェルの子クフが第4王朝第2代王となる。最大のピラミッドを作ったファラオ。 |
紀元前2566年 |
| ジェドエフラーが第4王朝第3代王となる。巨大ピラミッドを作ったがほとんど破壊されている。在位期間がよくわかっていない。名前に太陽神ラーが最初に付いたファラオ。 |
紀元前2558年? |
| カフラーが第4王朝第4代王となる。ジェドエフラーの兄弟とみられる。2520年即位説も有力。スフィンクスとカフラー王のピラミッドを作ったファラオ(スフィンクスはもっと古いという説もある)。 |
紀元前2532年? |
| メンカウラーが第4王朝第5代王となる。クフ王、カフラー王のピラミッドに比べやや小ぶりのピラミッドを作る。 |
紀元前2500年頃 |
| この頃までに、メソポタミアのウルク古拙文字が絵文字から抽象化されて簡略化し、シュメール文字へと変化。その後、さらに簡略化が進み、楔形文字として周辺地方にも広まっていく。 |
紀元前2500年頃 |
| 長江中流域の石家河に城壁で囲まれた比較的規模の大きな都市が出現。一帯の集落を含めて石家河文化という。 |
紀元前2498年 |
| ウセルカフが第5王朝を興す。ジェドエフラーの孫で、メンカウラーの娘を妻にしている。ギザではなくアブシールに太陽の神殿を作ったファラオ。第5王朝はアブシールにピラミッドや太陽の神殿を作るが規模が小さく材質も粗雑。 |
紀元前2345年頃 |
| 第5王朝最後の王ウナス王の娘と考えられるイプト1世を妻にしたテティ1世が第6王朝を興す。古王国最後の王朝。この頃から地域を支配する州侯が勢力を拡大していく。 |
紀元前2334年頃 |
| メソポタミアの都市国家アッカドの王サルゴンが周辺地域も領有化していき、南東はペルシャ湾岸、北西は地中海に至るアッカド帝国を建国する。 |
紀元前2180年頃 |
| エジプト第6王朝が崩壊し、第7王朝が成立。しかし次の第8王朝も含めて短期間であり、州侯の力も拡大。エジプト第1中間期に入る。 |
紀元前2160年頃 |
| 上エジプトのヘウト・ネンネス侯メリイブラー・ケティが第9王朝を興す。実質統一王朝ではなく上エジプトの王朝。 |
紀元前2130年頃 |
| 上エジプトのヘウト・ネンネス侯政権を継ぐ第10王朝が成立したとみられるが詳細は不明。ほぼ同時にその南にテーベ侯の第11王朝も成立。両王朝は以後激しく争う。 |
紀元前2115年頃 |
| ウルク第5王朝の王ウトゥ・へガルの娘婿ウル・ナンムが、ウトゥ・ヘガルの死後、ウル第3王朝を興す。現存する最古の法典ウル・ナンム法典を制定した人物。 |
紀元前2100年頃 |
| 黄河中流域に都市国家が出現。二里頭文化。夏王朝との関係が指摘されている。 |
紀元前2040年頃 |
| 上エジプトのテーベ侯のメンチュヘテプ2世がエジプトを再統一。中王国時代に入る。 |
紀元前2004年頃 |
| エラムの軍勢がウルに侵攻してこれを破壊。ウル第3王朝が滅亡。ウルの最後の王イビ・シンはアンシャンへと連れ去られる。 |
紀元前1991年頃 |
| エジプト第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の宰相アメンエムハトと同一人物とみられるアメンエムハト1世が第12王朝を興す。 |
紀元前1894年頃 |
| スムアブムが都市国家バビロンの王となりバビロン第1王朝を興す。 |
紀元前1792年頃 |
| ハンムラビがバビロン第1王朝6代王となる。 |
紀元前1782年頃 |
| 第12王朝最後の王で女王のセベクネフェルの死後、大家令ヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフが王位を簒奪。さらにセベクヘテプ1世が王位につき第13王朝を興す。下エジプトが支配権から外れて独立(第14王朝)。第2中間期と呼ばれる時代になる。 |
紀元前1757年頃 |
| ハンムラビがシュメール、アッカドを含むメソポタミア地方を統一。 |
紀元前1680年頃 |
| アナトリア高原にヒッタイト王国が成立。 |
紀元前1663年頃 |
| 下エジプト地方でヒクソスと呼ばれた異民族(シリア方面から来た人々?)のサイテス王による第15王朝が成立。上エジプト系テーベの第17王朝が徐々に勢力を拡大しこれと争うようになる。また同時代に第15王朝影響下で同じヒクソスと見られる小規模の第16王朝も存在していたと考えられる。 |
紀元前1628年頃 |
| 地中海のサントリーニ島付近で海底火山の噴火が起こる。カルデラを形成。この大噴火により大津波が発生して各地を襲いミノア王国が滅ぶ。アトランティス伝説の元になったという説もある。 |
紀元前1600年頃 |
| この頃から黄河中流域に都市国家が勢力を拡大。二里岡文化。殷(商)王朝初期段階か。史記では夏王朝がこの頃、鳴条の戦いで、殷の湯王に滅ぼされたとされる。夏王朝の都と考えられている新鄭望京楼遺跡からは殺害された遺体も多数出土している。 |
紀元前1595年 |
| ヒッタイトの王ムルシリ1世が古バビロニア(バビロン第1王朝)を滅ぼす。カッシート人が勢力を拡大。 |
紀元前1570年頃 |
| 上エジプト系第17王朝カーメス王の弟であるイアフメス1世が下エジプトを滅ぼし、エジプトを統一。新王国時代最初の第18王朝を開く。 |
紀元前1500年代頃 |
| ミタンニ文明が興る。フルリ人がメソポタミア北方に興した国家。 |
| 富士山の山頂噴火が終わり、山腹などからの噴火へ移行する。 |
紀元前1479年頃 |
| 第18王朝4代王トトメス2世の妻だったハトシェプストが女王となる。夫と側室の間の子トトメス3世が幼かったため実権を奪って君臨したとして批判される一方、安定した政権で統治を行いトトメス3世との関係も良かったという説もある。旧約聖書でモーセを拾って育てたファラオの王女を彼女だとする説もある。 |
紀元前1475年頃 |
| カッシート王国のウラム・ブリアシュがバビロン第2王朝を滅ぼしてメソポタミアを統一(バビロン第3王朝)。 |
紀元前1450年前後頃 |
| トゥドハリヤ1世がヒッタイト帝国の王位につく。これ以降をヒッタイト新王国時代と呼ぶ。即位年は諸説あり不明。 |
紀元前1458年頃 |
| 第18王朝5代王ハトシェプストが退位し、トトメス3世が第6代王として実権を握る。ハトシェプスト女王の事跡を抹消したと言われる。以降、第18王朝の絶頂期となる。 |
紀元前1457年? |
| メギドの戦い。第18王朝6代王トトメス3世がカナン連合軍と戦い勝利する。シリア南部がエジプトの影響下に置かれるようになる。記録に残る最古の戦争の一つ。 |
紀元前1386年? |
| 第18王朝9代王にアメンホテプ3世が即位。ルクソール神殿を作ったファラオ。 |
紀元前1370年頃 |
| ミケーネ文明によるクレタ島の支配が終わる。自然災害とも戦争とも言われる。 |
紀元前1353年? |
| 第18王朝10代王にアメンホテプ4世が即位。 |
紀元前1343年? |
| 第18王朝10代王アメンホテプ4世が、多神教であるアメンの神官らの勢力が強まったため、首都のテーベを捨て、唯一神アテンのための町アケトアテンを建設して遷都する。記録上に残る最初の唯一神信仰とも言われる。自らの名前もアクエンアテンと改める。 |
紀元前1336年? |
| スメンクカーラーが即位。正体のほとんど不明なファラオ。男性とみられるが女性のような偶像や女性用の棺になっているなど奇妙な点が多い。在位が短く記録も少ない。 |
紀元前1333年? |
| ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)が即位。アメンホテプ4世とその同父同母姉妹の間の子。黄金のマスクで有名。記録は殆ど無い。病弱だが戦争を指揮したとも言われる。この代にアテン神からアメン神信仰に戻された(ツタンカーメンの名前の由来もアメン神)。実権は宰相アイ(アクエンアテンの王妃ネフェルティティの父親)と将軍ホルエムヘブ(後のファラオ)が握っていた。 |
紀元前1330年頃 |
| ヒッタイト帝国のシュッピルリウマ1世がミタンニを制圧する。 |
紀元前1324年? |
| ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)が死去。遺体の損傷は激しく、また体の各所に生来の障害があり、また足の骨折が原因で死亡したとみられるが、事故か事件かは不明。宰相アイ(アクエンアテンの王妃ネフェルティティの父親)がツタンカーメンの王妃アンケセナーメンと結婚して王位継承権を得て即位(ケペルケペルウラー王)。この前後、エジプトの「ダハムンズ」からヒッタイトに対して王子を夫に迎えたいという縁談が持ち込まれる。ダハムンズ(王妃の意か)が誰かはわからないが、アンケセナーメン説もある。ヒッタイトから送られた王子ザンナンザが暗殺されたため、ヒッタイトの王子アルヌワンダがカナン方面へ軍事侵攻することになる。 |
紀元前1323年? |
| ケペルケペルウラー王(アイ)が死去。軍の司令官で王女ムトノメジットを妻にしていたホルエムヘブがナクトミンらを倒して王に即位。第18王朝最後のファラオ。 |
紀元前1320年頃? |
| ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がエジプトとの戦争中に始まった疫病の大流行で死去。アルヌワンダが即位する。アルヌワンダもまもなく病死し、その弟のムルシリ2世が即位。 |
紀元前1300年頃 |
| 殷(商)王朝が殷墟に都を置く。史書では第19代王盤庚の時とされている。 |
紀元前1295年 |
| 第18王朝最後のファラオであるホルエムヘブ時代の軍司令官で宰相も務めた親友ラムセス1世が後継者に指名され即位。第19王朝を興す。共同統治者は息子のセティ1世。 |
紀元前1294年 |
| 高齢だった第19王朝初代ラムセス1世が死去。セティ1世が即位。領土を拡大し、エジプト美術を完成させたと言われるファラオ。 |
紀元前1290年頃? |
| セティ1世の子ラムセス2世が即位(年代は諸説あり)。66年間統治し、180人もの子がいたとも言われ、各地に遠征し、アブ・シンベル神殿など多数の神殿を作った。大王とも呼ばれる。 |
紀元前1286年頃? |
| エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世が戦う。 |
紀元前1274年? |
| カデシュの戦い。エジプトのラムセス2世の軍がカデシュを攻略しようとしてヒッタイト帝国の罠にはまり敗北。その後、エジプト側の援軍が到着しヒッタイト軍は退却するが、両者の間で和平条約が結ばれた。記録上最古の和平条約。 |
紀元前1208年 |
| ペルイレルの戦い。第19王朝4代王メルエンプタハが、海の民と呼ばれる民族とリビア人がともにエジプトまで遠征してきたため、これと戦う。 |
紀元前1200年前後 |
| この頃、ヒッタイトやエジプトなど、東地中海沿岸の大国が軒並み滅亡や衰退する。その原因は不明だが、気象異変や大規模な噴火などの説もある。カナン地方(後のパレスチナ)では小規模の国家が多数成立。アイスランドのヘクラ火山の大噴火ではないかという説もある。 |
紀元前1190年頃 |
| ヒッタイトが滅亡。侵略を受けたという説もあるが、自滅崩壊したという説もある。最後の王はシュッピルリウマ2世。 |
紀元前1185年 |
| エジプト第19王朝最後のファラオで女王タウセルトのあと短期間の空位を経てセトナクトが即位。第20王朝が興される。セトナクトの正体はよくわかっていない。セトナクトはまもなく死去し、共同統治者で息子のラムセス3世が即位。 |
紀元前1155年頃 |
| 第20王朝のラムセス3世が喉を切られて暗殺される。王妃ティイが息子ペンタウアーを後継にするために計画し、多数の参画者がいたと言われる。裁判でほとんどが処刑された。ラムセス4世が王位を継ぐがエジプト文明はこれ以降衰退し始める。 |
紀元前1141年 |
| 第20王朝第4代ファラオのラムセス5世が天然痘で死去。ミイラの頭部に天然痘による痕跡があるため、天然痘に感染していたとわかる最も古い人物。 |
紀元前1000年 |
| ダビデがユダの王となる。後のイスラエル王。 |
紀元前961年 |
| ダビデ王が死去。王位継承の争いを経てソロモンが跡を継ぐ。 |
紀元前931年 |
| ソロモン王が死去。レハブアムが跡を継ぐ。 |
紀元前922年 |
| イスラエル12支族のうち、レハブアムの政策に反発した10支族がヤロブアムを擁して、イスラエルはイスラエルとユダの南北に分裂。 |
紀元前900年 |
| この頃、西アフリカ・現ナイジェリアのジョス高原にノク文化が生まれる。土器・土偶の他、早くから製鉄技術を得ていたこともわかっている。 |
紀元前900年 |
| この頃、富士山で大規模な山体崩壊が起きる。 |
紀元前753年 |
4月21日 | ロムルスが都市国家ローマを建設し、その初代王に即位。 |
紀元前721年 |
| アッシリアがイスラエルに侵攻してこれを滅ぼす。部族指導者層が連れ去られたため、イスラエル民族の12支族のうちイスラエル王国を構成していた10支族はこれ以降消息不明となり、失われた十支族と呼ばれる。 |
紀元前660年 |
2月11日(神武天皇元年1月1日) | 「神武天皇の即位」。明治6年に天保暦から太陽暦へ変更される際に、記紀神話の記述から計算して都合をあわせたもので、グレゴリオ暦のこの年月日に即位したわけではなく、第2次大戦後は神武天皇の存在も否定的な説が主流。 |
| この頃、今のエストニアのサーレマー島に少なくとも9つの小隕石が落下。もっとも大きなクレーターは現在カーリ湖と呼ばれている。地元では神聖なる土地とみなされ、カレワラの叙事詩に異変を示唆するような神話が記述されている。 |
紀元前602年 |
| 現在の天津付近にあった黄河河口の位置が南へと変遷する。黄河は黄土高原の大量の土砂を運ぶため、川底に堆積して洪水も多く、河道や河口の位置がしばしば変遷している。 |
紀元前597年 |
| 新バビロニア帝国の王ネブカドネザルがカナンの地に侵攻する。 |
紀元前586年 |
| 新バビロニア帝国の王ネブカドネザルがユダ王国を滅ぼし、ユダの指導者層ら多数が連れ去られる(バビロンの虜囚)。 |
紀元前551年 |
9月28日 | 儒教の始祖、孔子こと孔丘が、魯国昌平郷陬邑に生まれる。 |
紀元前539年 |
10月17日 | アケメネス朝ペルシャ王国の攻撃で、新バビロニア帝国が滅亡。ペルシャ王キュロス2世は、バビロンに移住させられていたユダヤ人やその他の諸民族を解放。 |
紀元前509年 |
| 第7代ローマ王タルクイニウス・スペルブスが追放され、共和政ローマが成立する。 |
紀元前490年 |
9月12日 | マラトンの戦い。ペルシャ帝国と、ギリシャの都市国家アテナイとプラタイアの連合軍が戦い、連合軍が勝利。その報告を一人の兵士が、マラトンからアテナイまで走って伝えた伝説から、マラソン競技の元となった。 |
紀元前435年 |
| アドリア海沿岸の植民都市エピダムノスの内紛を巡って、母都市ケルキラが調停の要請を無視したため、支援要請を受けたコリントスがこれに参入。それに対しケルキラがエピダムノス攻略を開始すると、コリントスもケルキラに宣戦を布告。ケルキラはアテナイに支援を要請。アテナイがこれを受けて参戦したことから、のちのペロポネソス戦争へと発展する。 |
紀元前433年 |
| シュボタの海戦。ケルキラの援軍要請を受けたアテナイの艦隊が出動したこと受け、コリントス側も同盟諸都市と艦隊を編成して派遣。両者はシュボタ諸島付近で交戦。数の多いコリントス側が圧倒するも、ケルキラ攻略は出来ず、両者痛み分けで退却する。 |
| アテナイはデロス同盟国のポティダイアに圧力をかけて、コリントス勢力を排除しようと図る。ポティダイアはアテナイに反発しデロス同盟を離脱。アテナイはポティダイアへ兵を進め、コリントスも対抗して出兵。ポティダイアの戦いが始まる。スパルタが参戦するきっかけとなった。 |
紀元前431年 |
| スパルタがペロポネソス同盟軍を率いてアッティカに侵攻を開始。一方、アテナイは市民を城壁の内側へ退避させ籠城戦に入る。 |
紀元前430年 |
| この頃、アクラガス(現在のイタリア・シチリア島のアグリジェント)の哲学者だったエンペドクレスが神と一体となるため、エトナ山の火口に飛び込んで自殺したという伝承がある。 |
| ポティダイアがアテナイに降伏し、ポティダイアの戦いが終結。 |
紀元前429年 |
| アテナイとスパルタの対立のさなかに、アテナイで疫病が流行。戦争を指導したアテナイの指導者ペリクレスも病死。多くの市民が死亡したと言われる。のちに「アテナイのペスト」と呼ばれるようになったが、ペストではなく、天然痘かチフスではないかと考えられている。 |
紀元前425年 |
| アテナイの指導者クレオンは、ペロポネソス同盟側からの講和に条件をつけて拒否。自ら軍を率いて戦い勝利する。 |
紀元前423年 |
| スファクテリアの戦い。アテナイの指導者クレオンは、スパルタに奪われていたアンフィポリス奪回のため出兵し、マケドニアに援軍を要請するが、単独での決戦を避けるために後退したところをスパルタのブラシダスの攻勢にあい戦死。ブラシダスも重症を負い、それがもとで死亡した。 |
紀元前421年 |
| ニキアスの和約。ペロポネソス戦争の終結を図るため、アテナイの穏健派ニキアスと、スパルタ王プレイストアナクスが、占領地の返還を条件に講和する。 |
紀元前415年 |
| アテナイが、シケリア遠征を行う。シケリアの各都市国家はアテナイと近かったが、唯一規模の大きな都市シュラクサイはスパルタと通じていた。ただアテナイの大規模で長距離の遠征を行った目的はよくわかっていない。 |
紀元前414年 |
| アテナイのシュラクサイ包囲がほぼ完成したところでスパルタとコリントス同盟から援軍が到着。スパルタ軍が城壁を築いて体制を整えたため、アテナイ遠征軍司令官の一人で遠征に消極的だったニキアスは退却を検討するも、アテナイ本国から援軍が到着。 |
紀元前413年 |
| スパルタ軍の攻勢でアテナイ軍は大敗を喫する。残ったアテナイ軍兵士は陸上を南下して脱出を試みるが失敗しスパルタとシュラクサイに対し降伏。しかし司令官のデモステネスとニキアスは処刑され、捕虜の殆ども疫病などで死亡し、アテナイ軍は文字通り全滅に終わった。アテナイは海軍戦力をほぼ失い、デロス同盟も事実上崩壊。 |
紀元前405年 |
| アイゴスポタモイの海戦。アイゴスポタモイ川河口でスパルタ率いるペロポネソス同盟軍艦隊が、アテナイ軍を撃破。黒海方面の制海権も奪われ、アテナイは食料輸入ルートを失う。 |
紀元前404年 |
4月25日 | 飢餓に追い込まれたアテナイがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終結。 |
紀元前399年 |
4月27日 | アテナイのソクラテスが、無知の知を諭そうとして恨みを買い、「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落に導いた」として刑死する。処刑された理由に、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、スパルタ支配下で成立した「三十人政権」の指導者となったクリティアスがソクラテスの弟子だったため、反感を買ったこともあるとされる。 |
紀元前387年 |
| アッリアの戦い。ブレンヌス率いるガリア人セノネス族の軍勢がローマに侵攻。クイントゥス・スルピキウス率いるローマ軍は敗北し、はじめてローマが外敵に侵略された事件。記録では紀元前390年7月18日に起こったこととされているが、紀元前387年のことと考えられる。 |
紀元前338年 |
8月 2日 | カイロネイアの戦い。マケドニアとアテナイ・テーバイ連合との戦い。マケドニアのアレクサンドロス王子(後の大王)も軽装歩兵隊を率いて初陣。アテナイ・テーバイ連合は大敗を喫する。 |
紀元前336年 |
10月 | マケドニア王ピリッポス2世が護衛をしていたオレスティスのパウサニアスに暗殺される。王位は20歳の息子アレクサンドロスが継ぐ。 |
紀元前334年 |
5月 | グラニコス川の戦い。アレクサンドロス率いるマケドニア軍と、アルサメス、アルシテス、ミトリダテスらの率いるアケメネス朝ペルシア軍がグラニコス川で戦う。マケドニア軍が勝利し、小アジア征服へとつながっていく。 |
紀元前333年 |
10月 | イッソスの戦い。アレクサンドロス率いるマケドニア軍3~4万と、ダレイオス3世率いるペルシア軍10万が激突。ダレイオス3世が途中で戦線を離脱して逃走したため、ペルシア軍は大敗を喫する。 |
| カナン地方がマケドニアのアレクサンドロスによって征服される。 |
紀元前331年 |
10月 1日 | ガウガメラの戦い。アレクサンドロス率いるマケドニア軍とダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシアの軍がティグリス川上流のガウガメラで激突。マケドニア軍が大勝し、ダレイオス3世は敗走。アレクサンドロスはバビロンへ入る。 |
紀元前330年 |
| アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世が、逃走先のバクトリアで総督のベッソスに殺害される。ペルシア王国滅亡。ベッソスはスピタメネスやオクシュアルテスらと同盟を結びペルシア王アルタクセルクセスを名乗る。 |
紀元前329年 |
| ペルシア王アルタクセルクセスを名乗っていたベッソスが捕らえられ、アレクサンドロス大王によって処刑される。 |
紀元前327年 |
| アレクサンドロス大王のインド遠征(~前324年)。 |
紀元前323年 |
6月10日 | アレクサンドロス大王死去。ハチに刺されたのが原因と言われる。 |
紀元前323年 |
| アレクサンドロス大王の後継をめぐって有力者等によるディアドコイ戦争が起こる。以後約40年に渡り攻防を繰り返す。 |
紀元前316年 |
(周慎靚王5年) | 秦が古蜀王国の内紛に乗じて蜀へ侵攻し、これを滅ぼして併呑する。 |
紀元前293年 |
| 伊闕の戦い。秦が、同盟を結んだ韓・魏・東周の連合軍と戦う。連合軍は公孫喜が率い、秦軍は白起が率いる。秦軍が圧勝して、連合軍の将兵のほとんどである24万人を殺害。 |
紀元前287年 |
| 共和政ローマでホルテンシウス法が制定される。古くからのローマ市民のなかで貴族的な特権を持つ「パトリキ」と、それ以外の「プレブス(プレープス)」と呼ばれていた市民との間の法的平等を、独裁官クィントゥス・ホルテンシウスが定めたもの。これにより特にプレブス側から起こされていた身分闘争は終結。 |
紀元前281年 |
| セレウコス朝とリュシマコス朝によるコルペディオンの戦い。セレウコスが勝利。ディアドコイ戦争は終わり、アレクサンドロスの帝国の大半はセレウコス朝の支配下に置かれる。 |
9月 | セレウコスがプトレマイオス・ケラウノスに暗殺される。プトレマイオスはマケドニア王を名乗る。一方、セレウコスの後は、息子のアンティオコス1世ソテルが継ぐ。 |
紀元前280年 |
| 秦と楚の関係が悪化し、秦の司馬錯が軍を発して楚の黔中郡に攻め込む。 |
紀元前279年 |
| プトレマイオス・ケラウノスがガリア人との戦いで敗死。 |
| 黽池の会。秦の昭襄王が趙の恵文王を招いて、秦の黽池で祝宴の会を行う。楚との全面戦争に向かっていた秦にとって趙と関係改善を図るのが目的だったが、一方で恵文王を格下として扱おうとしたため、趙の藺相如が機転を利かして恵文王を守ったという。 |
| 秦の白起が大軍を率いて楚へ全面侵攻。鄧城を落とすと、つづいて鄢城へ進攻し、同城を水攻めにして陥落。そのまま西陵に進出。 |
紀元前278年 |
| 秦の白起が続けて、楚の領土を蹂躙。楚の都である郢を攻め落とす。 |
| 楚が滅亡寸前まで追い込まれたことを悲嘆して、楚の政治家で詩人だった屈原が汨羅江に身を投じて自殺。 |
紀元前277年 |
| 秦と楚は休戦。両国の消耗戦は他の主要国を利するというのが理由。 |
紀元前274年 |
| 第一次シリア戦争がはじまる。エジプトのプトレマイオス2世とセレウコス朝アンティオコス1世との戦い。エジプトが勝利しシリア方面へ勢力を広げる。 |
紀元前272年 |
| 共和政ローマがイタリア半島の各都市国家を手中に収める。 |
紀元前269年 |
| 閼与の戦い。秦が公孫胡昜に命じて韓へ派兵。それに対し趙は、趙奢を指揮官として韓へ援軍を派遣。趙軍が圧勝する。 |
紀元前262年 |
| 秦が白起を派遣して、韓の野王を占領。韓の上党郡が孤立。韓では、上党を秦に割譲して和睦する派と、趙に割譲して共に秦と戦うという派に国論が二分。韓と趙で連合する方針に決まる。 |
紀元前260年 |
| 第二次シリア戦争がはじまる。エジプトのプトレマイオス2世とセレウコス朝アンティオコス2世との戦い。セレウコス朝が勝利し、再びフェニキアなどを支配下に収める。 |
| 長平の戦い。韓と趙が連合したことを受けて、秦は王齕を趙へ派遣。趙は廉頗を迎撃に向かわせる。両軍は長平で衝突するが、秦軍が精強なのを見た廉頗は籠城戦による長期戦を企図。そこで秦の宰相范雎は趙の国内で廉頗を貶める噂を流し、それを真に受けた趙の孝成王は、廉頗を解任して、趙括を総司令官に任命。ここで秦は新たに白起を派遣。趙の名将趙奢の子で兵法家を自負する趙括は積極策に出たが大敗。長平に籠城するも食料が尽き、趙括は再出撃して戦死。20万の趙兵は降伏するが、食糧不足を理由に少年兵240人ほどを除いて全て殺されたと言う。范雎は、白起の名声と権力の増大を恐れ、韓・趙との和睦を図る。これにより白起との関係が悪化。 |
紀元前259年 |
| 贏政(後の始皇帝)が趙の国都邯鄲で生まれる。父親は秦の昭襄王の孫で、人質として趙に送られていた公子異人(子楚)、母親は呂不韋が寵愛していた趙姫とよばれる歌姫。 |
紀元前258年 |
| 秦が、将軍王陵を派遣して趙の国都である邯鄲を包囲。魏からは信陵君が独断で軍を動かして趙の援軍に駆けつける。秦から人質として送られていた子楚は呂不韋の手で秦に脱出し、趙姫と政の親子は匿われる。王陵は邯鄲を攻め落とすことができず、昭襄王は白起を起用しようとするが、白起はこれを受けず。代わりに王齕が派遣される。 |
紀元前257年 |
| 今のベトナム北部に甌雒国が建国される。都は古螺。古蜀王朝の王族出身だった蜀泮(開明泮)が文郎国を滅ぼして起こしたとされる。 |
| 秦の名将白起が、昭襄王の不興を買い自殺に追い込まれる。白起の名声を恐れた宰相の范雎との不和がきっかけで、趙攻略戦における昭襄王と范雎の対応を白起が非難したため。巻き添えで白起の副将だった司馬靳も自害させられた。 |
紀元前256年 |
| 秦の昭襄王は、西周の文公が各国と合従して秦と敵対したことを受けて、楊摎に命じて西周を攻めさせ、文公は秦に降伏。これにともない文公を頼っていた周の赧王も秦の管轄下に置かれたが、まもなく死去。秦は周の都だった王畿(洛陽)を併合して九鼎(周の王権を象徴する宝物)を接収し、周王朝は事実上滅亡。なお、この時点ではまだ東周の昭文君が残っており、九鼎も確保していたという説もある。 |
紀元前256年 |
| 秦の昭襄王の宰相を務めた范雎が死去。権力の対抗者がいなくなったことを受けて引退し天寿を全うしたとも、恩人であるため推挙した王稽が他国と通じたために誅殺され、それに連座して殺されたとも言われる。 |
紀元前251年 |
| 50年に渡り秦王の地位にあり、秦を強大国に押し上げた昭襄王が死去。 |
紀元前250年 |
| 秦の昭襄王の子で、喪が明けて正式に秦王の地位に付いた孝文王がわずか3日で死去。呂不韋が支援した荘襄王が即位。 |
紀元前249年 |
| 東周が秦によって滅ぼされる。昭文君は呂不韋によって殺されたとも、命は救われ、周の祭祀を執り行うことを許されたとも言われる。東周の場所に秦の三川郡が設置される。 |
紀元前247年 |
| 河外の戦い。魏の公子信陵君(魏無忌)が率いる魏・趙・韓・燕・楚の合従軍が、秦に攻め込む。秦は大敗して函谷関まで後退する事態に追い込まれる。勝利した魏の安釐王と信陵君の兄弟は、その後、秦の工作によって関係が悪化し、信陵君は失意のまま前244年に病死。秦は勢いを盛り返すことになる。 |
| 秦の荘襄王が死去。 |
紀元前246年 |
| 贏政が秦の王位を継ぐ。後見役として呂不韋が仲父の称号を与えられ、宰相として国政を担う。 |
| セレウコス朝アンティオコス2世が、前妻のラオディケに暗殺される。後継に息子のセレウコス2世をつける。ラオディケはその前にアンティオコス2世の後妻でエジプト王プトレマイオス2世の娘ベレニケも暗殺しており、エジプトとの関係が悪化。第3次シリア戦争が始まる。 |
紀元前240年 |
5月 (秦王政7年) | 中国で彗星が目撃される。ハレー彗星か。 |
| この頃、エジプトのギリシャ人科学者エラトステネスが、ナイル川中流のシエネ(現在のアスワン)で、夏至の日に太陽が天頂に来ることを知り(北回帰線)、ナイル河口のアレクサンドリアで夏至の日に立てた鉛直の棒の影の角度から、両都市の緯度の差を計算。地球の50分の1であることを算出。両都市の距離から、地球の全周距離は250000スタディアと計算。スタディアの長さについては諸説ある。 |
紀元前238年 |
(秦王政9年) | 秦王贏政の母である太后と嫪毐(ロウアイ)の醜聞が発覚し、嫪毐一族が殺害され、嫪毐を太后に紹介した宰相の呂不韋が失脚する。 |
紀元前235年 |
(秦王政12年) | 秦の元宰相だった呂不韋が、自殺に追い込まれる。失脚後も名声を保っていたことが贏政の警戒を招いたとされる。 |
紀元前234年 |
(秦王政13年 1月) | 彗星が現れる。 |
(秦王政13年) | 秦の桓騎が、趙の平陽を攻撃し、趙軍は大敗を喫し、将軍扈輒は戦死する。秦王政は河南に巡行。 |
紀元前233年 |
(秦王政14年) | 秦の桓騎が、趙の宜安・平陽・武城を攻略。 |
(秦王政14年) | 韓王安が、韓非を秦に送る。秦王政は韓非の著作を読んで気に入るが、李斯と姚賈の讒言に遭い、韓非は獄死する。韓王安が秦に降伏を願い出る。 |
紀元前232年 |
(秦王政15年) | 秦が、趙の鄴・太原を攻撃。狼孟を攻略。 |
(秦王政15年) | この年、秦(?)で大きな地震が起きる。 |
紀元前231年 |
(秦王政16年 9月) | 秦は、韓の南陽を併合。 |
紀元前230年 |
(秦王政17年) | 秦の内史騰が韓を攻め滅ぼし、韓王安は捕らえられる。秦はここに潁川郡を設置。 |
紀元前229年 |
(秦王政18年) | 秦王政は、王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせ、趙都邯鄲を包囲。李信は別動軍を率いて太原へ侵攻。趙は李牧と司馬尚を迎撃に出すも、讒言により李牧は殺され、司馬尚も解任される。 |
紀元前228年 |
(秦王政19年) | 王翦と羌瘣の軍勢が東陽を攻略し、趙王が捕虜となる。趙が滅亡。趙公子嘉が逃れて代王を称する。秦の軍勢はそのまま中山国へ侵攻。政は、出身地である邯鄲に入ると、母を貶めようとした人々を捕らえ生き埋めにする。 |
(秦王政19年) | この年、各地に飢饉が起こる。 |
紀元前227年 |
(秦王政20年) | 秦王贏政暗殺未遂事件。燕の太子丹が企図し、降伏の使者を装って贏政の前に現れた荊軻が贏政を刺殺しようとして失敗した事件。 |
(秦王政20年) | 先の暗殺未遂事件を受けて、秦王政は王翦と辛勝に燕の攻略を命じる。 |
紀元前226年 |
(秦王政21年) | 秦王政、王賁に楚を攻めさせる。王翦には援兵を送り、燕の国都薊を攻め落とす。燕王喜と太子丹は遼東に逃走。降伏を望む父の燕王喜は丹を殺すも許されず。 |
(秦王政21年) | 燕の攻略後、王翦は楚の攻略をめぐって秦王政と意見が異なったことから引退を表明。楚の公子であり秦王族の血も引く秦の相国だった昌平君が王翦引退を認めた秦王政を批判して失脚。 |
紀元前225年 |
(秦王政22年) | 秦王政が王賁に命じて、魏の国都大梁を水攻めにし、大梁は3ヶ月耐えたが城壁が崩壊。魏は降伏し滅亡する。 |
(秦王政22年) | 新鄭で旧韓の臣らによる反乱が起きる。これを受けて動揺が広がったため、昌平君を楚の旧都郢陳の民衆慰撫のため派遣。李信と蒙恬率いる20万の兵力による楚の攻略を開始。諸戦には勝利したものの、李信が発生した反乱鎮圧中に楚の反撃を受けて大敗。 |
紀元前224年 |
(秦王政23年) | 秦王政が引退していた王翦を再登用して60万の兵を動員し楚の侵攻を命じる。王翦は楚に侵攻し、郢を攻略。楚王負芻を捕える(前223年説もある)。楚の将軍項燕は、秦・楚両王家の血を引く昌平君を楚王に擁立して淮南で抵抗を続ける。 |
紀元前223年 |
(秦王政24年) | 王翦と蒙武が率いる秦軍が楚を攻略。抵抗を続けていた公子昌平君と将軍項燕を殺害し(項燕は前224年に戦死という説もある)、楚は滅亡。 |
| アンティオコス3世がセレウコス朝の王となる。 |
紀元前222年 |
(秦王政25年) | 李信と王賁率いる秦軍は燕の残存領土を攻め、燕王喜を捕らえ、燕を滅ぼす。広陽、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の6郡とする(広陽郡以外は燕の時代に設置された郡県制を踏襲)。 |
(秦王政25年) | 王翦率いる秦軍は会稽に至り、百越(東越)を降伏させる。 |
紀元前221年 |
(秦王政26年) | 斉王田建は、宰相の后勝と諮り、西の国境に兵を送って封鎖。 |
(秦王政26年) | 秦王政は、燕に駐留する王賁、李信、蒙恬に北から斉を攻めさせ、斉王田建は戦わずして降伏。 |
(秦王政26年) | 秦王政は、六国を平らげたことから、丞相の王綰、御史大夫の馮劫、廷尉の李斯らと諮って、上古の三皇のうちの泰皇と五帝から、新たに皇帝の称号を作り、始皇帝と称する。また子が父に、臣が帝に、死後の諡を贈るのは良くないとして、以降は二世、三世と万世まで称するよう決める。 |
紀元前220年 |
| アポロニアの戦い。セレウコス朝に反旗を翻し勢力を広げるメディア総督モロンに対しセレウコス王アンティオコス3世が行った遠征。モロンは敗れ自殺。モロンの兄弟でペルシス総督アレクサンドロスも自殺。 |
紀元前219年 |
(始皇帝28年) | 始皇帝、第1回目の天下巡遊を行う。途中、泰山で封禅の儀式を行う。 |
(始皇帝28年) | 秦の都咸陽の南、渭水を挟んだ対岸にある上林苑に、朝宮の前殿として阿房宮の建設が始まる。 |
紀元前218年 |
(始皇帝29年) | 始皇帝、第2回目の天下巡遊を行う。 |
紀元前217年 |
6月22日 | ラフィアの戦い。セレウコス朝アンティオコス3世とプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス4世とのシリア領を巡る戦い。プトレマイオス朝側が勝利し領土を維持するが、被支配層だったエジプト人の力が強まることにもなる。 |
紀元前216年 |
8月 2日 | 第二次ポエニ戦争・カンナエの戦い。カルタゴの将軍ハンニバルがローマ軍を包囲殲滅する。 |
紀元前215年 |
(始皇帝32年) | 始皇帝、第3回目の天下巡遊を行う。 |
紀元前214年 |
8月 2日(始皇帝33年) | 秦が運河「霊渠」の開削工事を開始する。 |
紀元前213年 |
(始皇帝34年) | 秦に仕える儒者の淳于越が郡県制を否定し始皇帝の子息を各地の王にすべきだと進言したこと受けて、丞相の李斯が、挟書律を進言。始皇帝はこれを良しとして全国の郡に命じて、庶民が所有する四書六経(楽経を含む)や諸子百家の書物を没収して焚書させる。なお、生活に関わる医学書・農学書・卜筮(占い)書は除外とされた。 |
紀元前212年 |
(始皇帝35年) | 秦の始皇帝、学者・方士ら460人を生き埋めにする。いわゆる坑儒。不老不死の仙薬作りを命じられていた方士の盧生と侯生が、実際には仙薬を作れず、しかも始皇帝を誹謗して逃亡。激怒した始皇帝は同様の人物がいるか咸陽の学者・方士らを取り調べたところ、お互いの告発が相次ぎ、始皇帝は見せしめに彼らを処刑した。儒者が対象だったわけではなく、叔孫通のように引き続き始皇帝の顧問として残った儒者もいる。坑儒を諌めようとした皇太子の扶蘇は北方辺境の軍務を命じられたという。思想弾圧の言葉として焚書とまとめて呼ばれるが、焚書と坑儒は全く異なる事件。 |
| セレウコス王アンティオコス3世が東方遠征を開始。領土を拡大する。 |
紀元前210年 |
(始皇帝37年) | 始皇帝、第4回目の天下巡遊を行う。巡遊中に平原津で病気に倒れる。 |
9月10日(始皇帝37年7月) | 始皇帝、巡遊の帰路、沙丘の平台で病死。趙高らの陰謀により始皇帝の末子胡亥が2代目皇帝として即位。皇太子だった扶蘇らは自害に追い込まれる。 |
紀元前209年 |
| 陳勝呉広の乱が勃発。反乱が各地へ拡大。 |
| 匈奴を大国家にした、記録上最初の単于である攣鞮頭曼(頭曼単于)が、息子の冒頓単于の謀反で殺害される。冒頓単于は後継者から外された上に月氏国へ人質に出され、その際に父親が月氏を攻撃して殺されかけたことから、反発していたと見られる。冒頓単于は、継母や異母弟らも殺害して王位を奪った。 |
紀元前208年 |
| 劉邦、沛公となり、泗水郡の秦軍と戦う。 |
| 魏の周芾が、泗水・沛付近に侵攻し、胡陵・方与・豊などが降伏する。 |
| 劉邦、碭を占領し、6千の兵を手に入れる。 |
| 劉邦、項梁の軍勢に加わり、指揮官の一人となる。この頃、魏に奪われていた故郷の豊を奪還する。 |
| 南越国の趙佗が、甌雒国を調略で分裂させた後、攻め滅ぼす。 |
紀元前207年 |
| 張良、景駒のもとへ向かう途上、留の町で劉邦と出会う。劉邦の度量の大きさに感銘し、そのまま劉邦の幕下に加わる。 |
| 雍丘の戦い。秦軍を率いる三川郡守李由と、劉邦軍が衝突し、李由が敗死。 |
| 定陶の戦い。秦軍を率いる章邯が定陶を攻撃。雍丘の戦いの勝利に油断していた項梁が敗死する。そのことを予測していた宋義が懐王の信任を受け楚軍のトップに立つ。 |
| 鉅鹿の戦い。章邯と王離率いる秦軍は、秦からの独立を画策した趙を攻撃。章邯が首都邯鄲を攻める一方、王離らが趙王と張耳が逃げた鉅鹿を攻撃する。救援の要請を受けた楚軍の項羽は、時間稼ぎをする宋義を誅殺して卿子冠軍を吸収し、全軍を掌握すると英布を派遣。更に自ら出撃し、秦軍と交戦。秦軍は大敗を喫し、王離は捕虜となり、蘇角は戦死、渉間は自殺した。これにより項羽は反秦連合軍の事実上の盟主となる。 |
| 章邯率いる秦軍が9度に渡り項羽率いる連合軍と交戦するが全て敗北し、司馬欣、董翳とともに項羽に降伏する。 |
| 項羽、英布に命じて、投降した秦兵20万を、新安で坑(穴埋め)にして殺害。秦軍はここにほぼ壊滅する。 |
| 劉邦の軍勢が武関を突破し、秦の中心地である関中へ進軍する。 |
| 秦の2世皇帝胡亥が宦官の趙高・閻楽らに殺される(望夷宮の変)。趙高は子嬰を擁立しようとするが、子嬰は趙高を殺害し、秦王3世となる。まもなく咸陽に攻め寄せてきた劉邦軍に降伏。劉邦は子嬰を殺さずにおく。なお子嬰については、始皇帝の長男扶蘇の子、胡亥の兄の子、扶蘇の弟で胡亥の兄、始皇帝の弟などの説があるが、はっきりしない。 |
紀元前206年 |
| 項羽軍が函谷関を突破し関中へ侵入。先に首都咸陽を制圧し函谷関を閉じた劉邦の謀反の罪を問い、両者は項伯の仲介で鴻門の会を開く。劉邦は許される。 |
| 項羽が、咸陽に進軍し秦王子嬰らを殺害。咸陽を焼き払い、秦が滅亡する。なお、阿房宮は焼失しなかったとみられる。 |
| 項羽が秦への反乱軍に加わった諸将や旧六国の王族らを各地の王として封ずる。劉邦は漢王とされ、辺境の巴蜀漢中を領土として与えられる。この恩賞を受けられなかった各地の有力者や恩賞に不満を持つ王らが続出し、その後反乱や謀反が相次ぐことになる。項羽は主君筋の楚の懐王に義帝という称号を与えて辺境へ流し、九江王に封じた英布に命じて殺害。 |
紀元前205年 |
| 漢王劉邦が漢中から関中へと進出しこれを占拠。楚漢戦争が勃発する。 |
(漢高祖2年4月) | 彭城の戦い。項羽が斉の攻略に手間取っているさなか、関中より出撃した劉邦に諸侯が集まり、総数56万の兵力で西楚の首都彭城になだれ込む。略奪に狂奔する連合軍に対し、項羽率いる3万が襲来。連合軍は大敗を喫し、10万人以上が殺害される。さらに睢水に追い詰められた10余万も殺害され、遺体は川をせき止めたという。 |
(漢高祖2年8月) | 劉邦、韓信と張耳に魏を攻略させる。 |
(漢高祖2年9月) | 井陘の戦い。韓信は張耳とともに趙を攻略するために出陣。対する趙の宰相陳余は、正攻法にこだわったうえ、韓信が「背水の陣」を敷いたことで油断し、城を奪われる大敗を喫する。陳余は捕らえられ処刑。趙王歇も逃亡したが捕らえられて処刑された。 |
紀元前204年 |
| 滎陽の戦い。彭城の戦いで大敗した劉邦は、九江王英布を寝返らせるが敗北。残兵を滎陽に集結する。項羽は滎陽を包囲。陳平が反間の計を用いて楚軍の君臣を離間させ項羽の軍師范増が失脚する。その上で囮を出して注意をそらし劉邦を関中へと逃がす。 |
(漢高祖3年6月) | 劉邦、再び関中より出撃し、宛・葉に進出。成皋へ軍を進める。この頃、彭越が下邳を攻撃。項羽、彭越軍に勝利したのち、滎陽を攻め落とす。漢の御史大夫周苛ら処刑される。さらに成皋を包囲。劉邦、成皋を脱出し韓信と張耳のいる趙の修武まで行く。ここで韓信の軍を奪い、韓信には斉攻略を命じる。 |
| プトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス4世が死去。5歳のプトレマイオス5世が即位する。セレウコス朝アンティオコス3世は再びシリア方面への進出を再開。 |
紀元前203年 |
(漢高祖4年) | 韓信、斉を制圧。濰水の戦いで楚の龍且を敗死させる。 |
| 成皋の戦い。項羽が彭越を討伐するため外黄攻略に向かった留守中に成皋で楚漢両軍が衝突。楚軍が大敗を喫し、曹咎・董翳・司馬欣ら自害。 |
| 広武山の和睦。劉邦は広武山に陣取り、項羽と対峙。項羽との論戦中に劉邦は負傷。また食糧不足のため両者は領土を分割することで合意し和睦。楚軍は撤兵を開始。劉邦は張良・陳平の進言を受け、楚軍を攻撃するも失敗に終わる。 |
| 固陵の戦い。劉邦は項羽軍を追い、韓信と彭越に出陣を要請して固陵に至るも、両軍は現れず敗北する。張良の献策で勝利すれば恩賞として広大な領地を約束することで両者に出兵を促す。韓信と彭越はこれを受けて出陣する。 |
| 秦の南海郡尉だった趙佗が、秦王朝の滅亡を受けて南海郡、桂林郡、象郡などを領土として独立。南越と号する。その後は漢と交渉しながら領土を広げ、福建からベトナム北部までの広大な領地を支配した。趙佗は漢の景帝の代に100歳以上で死去したといわれる。 |
紀元前202年 |
| 垓下の戦い。項羽は劉邦を盟主とした韓信・彭越らの連合軍に敗れ、烏江に至りここで自刃。楚漢戦争が終結する。劉邦、項羽を弔う。 |
2月28日 | 劉邦が皇帝に即位し、漢帝国が成立する。 |
10月19日 | ザマの戦い。第二次ポエニ戦争で、ローマとカルタゴが北アフリカのザマで衝突し、カルタゴが大敗を喫する。カルタゴは衰退していくことに。 |
| セレウコス朝がガザ方面へ侵攻。第5次シリア戦争が始まる。 |
紀元前200年 |
(漢高祖7年) | 白登山の戦い。匈奴の冒頓単于が40万の兵力で太原に攻め込み、それを受けて、劉邦が自ら32万の兵力で迎撃に赴くが誘い込まれて大敗。劉邦は匈奴に毎年貢納することで和睦する結果となった。 |
紀元前198年 |
| セレウコス朝がカナン地方を支配。 |
(漢高祖9年) | 劉邦の娘婿である趙王張敖の家臣貫高らが劉邦暗殺を企てたことが露見。貫高だけでなく張敖と劉邦の側室で元張敖の側室だった趙姫らも連座する。貫高の証言から張敖の罪は晴れるが、趙姫は呂后の嫉妬を受けて許されず、劉邦の子である劉長を産んで自殺。 |
紀元前196年 |
(漢高祖11年) | 春、淮陰侯韓信が鉅鹿太守の陳豨と反乱を計画。陳豨が挙兵するが、韓信の長安での挙兵は密告で露見し、蕭何の計略で捕らえられ一族ともども処刑される。陳豨も酈商に敗れ逃走。のち捕らえられ族誅となった。 |
(漢高祖11年) | 梁王彭越が陳豨の反乱の際に出兵しなかったことで謀反の疑いをかけられ捕らえられる。一旦は蜀へ流罪とされたが、呂后の主張によって処刑される。 |
(漢高祖11年) | 彭越の処刑を受けて疑心暗鬼となった淮南王英布が反乱を起こす。高祖劉邦自ら討伐に赴き激戦となるが、ついにこれを破る。英布、長沙王のもとへ逃走し、更に落ち延びようとして殺害される。 |
(漢高祖11年) | 劉邦、英布討伐後、若い頃から暮らしていた沛に立ち寄り、「大風の歌」を披露。沛を永代免租とする。また沛の父老の訴えを受けて出身地である豊も同様の措置とする(豊の町はかつて劉邦を裏切ったことがあるため恨んでいたという)。 |
紀元前195年 |
(漢高祖12年) | 劉邦の幼馴染で、燕王であった盧綰が失脚。匈奴へ亡命する。盧綰の臣下だったとみられる衛満も千戸を率いて朝鮮に逃亡し、まもなく衛氏朝鮮を興す。 |
(漢高祖12年6月1日) | 漢の高祖劉邦死去。 |
紀元前193年 |
| 劉邦の覇業を支えた相国蕭何が死去。 |
紀元前192年 |
| セレウコス朝アンティオコス3世がテッサリア方面へ進出。 |
紀元前191年 |
| テルモピュライの戦い。テッサリアに進出したセレウコス朝に対し、ローマが遠征軍を送った戦い。セレウコス軍は敗北し撤退。 |
紀元前190年 |
| マグネシアの戦い。ローマ軍を率いるグナエウス・ドミティウスと、セレウコス王アンティオコス3世の軍勢が会戦し、セレウコスは大敗。 |
紀元前188年 |
| ローマとセレウコス朝との間でアパメイアの和約が結ばれる。セレウコス朝はタウロス以西の領土を失った他、ローマに多額の賠償金を払うことになり、軍事力も大幅に制限されることになった。 |
紀元前187年 |
| セレウコス朝アンティオコス3世が暗殺される。 |
紀元前186年 |
| 漢の高祖劉邦の名参謀として漢帝国創業を補佐した張良が死去。 |
紀元前180年 |
| 漢の高祖劉邦の妻で事実上女帝として君臨した呂雉が死去。 |
| 漢の斉王劉肥の次男である朱虚侯劉章が、兄の斉王劉襄、元勲の周勃・陳平らと図りクーデターを起こす。呂一族が滅ぼされる。 |
| 代王劉恒が5代皇帝として周勃・陳平らに擁立され即位。文帝。劉章は城陽王とされる。生存している劉邦の子で最年長であり、母親の薄氏が没落した旧魏王族の娘と薄姓の男性との間に生まれており、外戚の力が弱いとして選ばれたと言われる。 |
紀元前178年 |
(文帝前2年) | 陳平が死去。漢の高祖劉邦の軍師として策謀を担い、呂后の死後、呂氏一族の専横を排除して帝国の命脈を伸ばした人物。 |
紀元前177年 |
(文帝前3年) | 匈奴が漢の領土へ侵入。灌嬰が騎兵8万5千を率いて迎撃に出陣、文帝も太原まで親征を計画。しかし匈奴はその前に撤退。 |
| 済北王劉興居が匈奴侵攻に便乗して謀反を起こす。しかし柴武が討伐軍を率いこれを撃破。劉興居は捕らえられ自殺。先に呂氏を滅ぼした際の、皇位継承も絡んだ内紛で恩賞が得られなかったことが原因とみられる。 |
| 淮南王劉長が長安に赴いた際に、審食其を襲撃して殺害する。貫高の皇帝暗殺未遂事件に連座した母趙姫の助命嘆願を審食其がまともに取り上げず、自殺に至った恨みから。 |
紀元前174年 |
(文帝前6年) | 淮南王劉長が、柴奇らと反乱を計画し露見。文帝は死罪相当の意見を退け、劉長を蜀に流罪とするが、劉長は食を絶って自殺。 |
紀元前167年 |
| セレウコス朝に対するユダヤ人の反乱「マカバイ戦争」が勃発。 |
紀元前154年 |
(景帝3年) | 呉楚七国の乱が勃発。漢の西半分を直轄する皇帝政府に対し、東半分を支配していた劉氏諸王(呉王劉濞・楚王劉戊・趙王劉遂・膠西王劉卬・膠東王劉雄渠・菑川王劉賢・済南王劉辟光)が挙兵。直接的には呉王劉濞が、息子を皇太子時代の景帝に殺されたことと、景帝が晁錯の「中央集権化」の進言に従い呉王ら諸王の領土減封を図ろうとしたため。景帝は反乱鎮圧のため周亜夫を抜擢。 |
(景帝3年) | 呉楚七国の乱が終結。景帝は大尉の周亜夫を抜擢して鎮圧軍の指揮を命じる。周亜夫は劇孟や鄧都尉らと協議し、呉軍とは直接戦わず、昌邑に城塞を築いて軍を集め、呉軍が梁を攻めている間にその補給線を断つ。窮した呉軍が昌邑に攻めてきたのを撃破。呉王劉濞は東越に敗走するが、すでに中央政府へ味方していた東越は呉王を殺害。また首謀者の一人である膠西王劉卬も斉の攻略に失敗後、遠征軍指揮官の頽当のもとに出頭して降伏し自決。他の王も自決し、反乱はわずか3ヶ月で鎮圧することに成功。 |
紀元前142年 |
| セレウコス朝の勢力が後退し、マカバイ戦争は終結。ユダヤ人が事実上の独立を果たす(ハスモン朝の成立)。 |
紀元前141年 |
3月 9日 | 武帝が前漢の第7代皇帝に即位。 |
紀元前132年 |
(元光3年) | 黄河下流の濮陽付近で南側の堤防が決壊し、大量の水が南の淮河方面へと氾濫。甚大な被害をもたらす。 |
紀元前120年 |
(元狩3年) | 武帝、財政再建のため、桑弘羊、孔僅らに塩鉄酒の専売制を実施させる。 |
紀元前119年 |
(元狩4年) | 武帝、匈奴の本拠を攻める。大将軍衛青と驃騎将軍で衛青の甥の霍去病をともに司令官として、前将軍李広、左将軍公孫賀、右将軍趙食其、後将軍曹襄らに騎兵10万、歩兵ら数十万を派遣。漠北の戦いで漢軍が大勝する。 |
紀元前110年 |
(元封1年) | 司馬談が死去し、その事業を司馬遷が受け継ぐ。 |
紀元前109年 |
(元封2年) | 武帝が衛氏朝鮮の王衛右渠討伐を命じる。 |
紀元前108年 |
(元封3年) | 衛氏朝鮮が滅び、遼東半島から朝鮮中部にかけて楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡が設置される。古朝鮮の時代が終わる。 |
(元封3年) | この年、司馬遷が太史令となる。 |
紀元前104年 |
(太初1年) | 司馬遷、壺遂ら学者数十名によって、太初暦が制定される。司馬遷、この頃より『史記(太史公書)』の編纂を開始。 |
紀元前99年 |
(天漢2年) | 武帝、匈奴討伐の遠征を命じる。別軍を率いた李陵が寡兵で善戦するも敗北し捕らえられて匈奴に降伏する。武帝、これに激怒。司馬遷は李陵を擁護したため、投獄される。 |
紀元前98年 |
(天漢3年) | 武帝のもとに、李陵が匈奴の兵に軍略を教えている誤報が届き(実際には李緒がしていた)、武帝は李陵の一族を処刑。司馬遷も宮刑に処せられる。 |
紀元前96年 |
(太始1年) | 司馬遷、釈放され中書令に任ぜられる。皇帝の詔書を扱う高官だが宦官が付く官職。 |
紀元前91年 |
(征和2年) | 巫蠱の獄が起こる。武帝の側近となっていた江充が、恨みを買った皇太子劉拠を陥れるため、呪詛を行っていると告発。劉拠は江充を捕らえて殺害するも、これにより武帝が劉拠の謀反を信じ、宰相劉屈釐に討伐を命じる。劉拠は敗北し、逃走先の湖県で自殺。一族や関係者も処刑される。しかしこれが江充の陰謀だと判明。武帝は江充の一族や関係者を処刑し、死んだ皇太子のために思子宮を建てた。 |
紀元前90年 |
(征和3年) | 匈奴討伐のため、李広利が出撃する。 |
(征和3年) | 郭穰によって宰相劉屈釐らが武帝を呪詛していると告発され、一族とも処刑される。縁者である李広利の妻子も連座。それを遠征先で知った李広利は匈奴に降伏。 |
(征和3年) | この年、司馬遷『史記』を完成する。 |
紀元前87年 |
(後元2年3月30日) | 漢の武帝死去。劉弗陵が即位(昭帝)。8歳であったため、政治は大司馬・大将軍の霍光、太僕・左将軍の上官桀、車騎将軍で匈奴の王子でもあった金日磾の3人が担当し、丞相の田千秋がこれを補佐する体制となる。 |
紀元前86年 |
| 昭帝の補佐役だった金日磾が死去。霍光と上官桀の両者が徐々に対立を深める。 |
紀元前81年 |
(始元6年) | 漢の朝廷において、有識者60人を召集し、桑弘羊の推進した塩鉄専売の是非を問う論争(塩鉄会議・塩鉄論)を行う。専売制は批判を受け、酒の専売制度が廃止されるが、財政逼迫のため塩と鉄は専売制が継続する。 |
紀元前80年 |
(元鳳1年) | 上官桀、燕王劉旦、御史大夫桑弘羊が反乱を企て失敗に終わる。上官皇后以外の関係者すべて処刑される(上官皇后は上官桀の子上官安と霍光の娘との間にできた子でまだ8歳)。 |
紀元前75年 |
1月10日 | 漢の朝鮮半島北部にあった植民行政区の一つ「玄菟郡」が廃止される。 |
| ローマとポントスとの間で第三次ミトリダテス戦争が勃発。 |
紀元前74年 |
| 漢の昭帝が急死したため、霍光によって劉賀が皇帝となる。しかし行いに問題があるとして、在位27日で廃位され海昏侯に落とされる。劉賀の臣下らが処罰されたことから、政変説もある。 |
| 霍光に擁立され劉病已(劉詢)が皇帝となる(宣帝)。巫蠱の獄で自殺した劉拠の子で、親族がすべて誅殺された際に、当時獄吏だった丙吉(後の宰相)に助けられ、獄中で養育されたのち、民間で育った異色の皇帝。 |
紀元前68年 |
(地節2年) | 漢の大権力者であった霍光が死去。宣帝は領尚書事を通さない封事を直接上奏することを認め、権力者霍一族の実態を知ることになる。 |
紀元前66年 |
(地節4年) | 霍禹らが反乱を企てたが露見し、一族及び関係する数千家が誅殺。霍皇后も廃され幽閉される。 |
紀元前65年 |
| 第三次ミトリダテス戦争でローマが勝利し、ポンペイウスは各地へ領域を拡大。 |
紀元前64年 |
| ポンペイウスがシリアを占領し、ハスモン朝を事実上属国化する。 |
紀元前57年 |
| 新羅六部の村が赫居世居西干を王に擁立。新羅の建国とされる。神話上の話であるため、史実では辰韓十二国のひとつ斯蘆国を原点とする小規模国家から発展したものと考えられる。 |
| サビス川の戦い。ガリア遠征に来たカエサル率いるローマ軍と、ベルガエ人系ネルウィ族のボドゥオグナトゥスらの率いるガリア人勢力との戦い。ネルウィ族らは大敗して降伏。 |
紀元前55年 |
8月23日 | ガリア遠征中のカエサルが、ブリタンニアに遠征。ブリタンニアがガリアと協力関係にあったため。遠征隊はホワイトクリフ一帯に上陸したが、ブリタンニア側の反撃もあり、ケント地方の海岸地帯付近にとどまったのみで冬になり撤退。 |
紀元前54年 |
| ガリア遠征中のカエサルが、ふたたびブリタンニアに遠征。5個軍団、800隻の船を動員する大規模な遠征となった。ブリタンニア側はカッシウェッラウヌスが中心となって反撃したが敗れ、ガリアのアトレバテス族の王コンミウスを通じて和睦。カエサルも同地を維持する兵を置くこともなく撤退した。 |
| アドゥアトゥカの戦い。ブリタンニア遠征から帰還後、ガリアに分散して冬営したローマ軍のうち、第14軍団をエブロネス族の王アンビオリクスらが攻撃。一旦は和睦するも、罠にはめてこれを壊滅する。ガリア遠征中、ローマ軍で最大の敗北となった。 |
紀元前52年 |
| アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスが、全ガリア諸部族に呼びかけ、ローマに反乱を起こす。 |
| アウァリクムの戦い。ウェルキンゲトリクスは、ローマ軍への補給を断つため、焦土作戦を展開し、主要拠点を除く町や村を焼き払うが、ビドゥリゲス族の城塞都市であったアウァリクムはそのままにしていたため、カエサル率いるローマ軍の攻撃を受ける。カエサルは25日かけて攻城塔を建設し、城壁を攻撃占拠。さらに城内のガリア軍の混乱に乗じて城内へ攻め込み、市民約4万人を殺戮、助かったのは逃れた800人だけだったと言われる。 |
| ゲルゴウィアの戦い。アウァリクムを攻略したカエサルは、アルウェルニ族の城塞都市ゲルゴウィアの攻略にも取り掛かる。しかしローマ側についていたハエドゥイ族のコンウィクトリタウィス、リタウィックスらがウェルキンゲトリクスについたことや、ゲルゴウィアの攻略に失敗したため撤退。しかし追撃に来たウェルキンゲトリクスのガリア軍に反撃してこれを破る。 |
8月 | アレシアの戦い。ウェルキンゲトリクス率いるガリア軍のこもるアレシアをローマ軍が大規模陣地を構築して包囲。 |
10月 2日 | アレシアの戦い。ウェルカッシウェラウヌス率いるアレシア救援のガリア軍が、ローマの攻囲陣地の一角を攻撃。アレシアからも出撃し、はじめはガリア軍が優勢に進めていたが、カエサルの反撃によって壊滅。ウェルキンゲトリクスはカエサルの前に進み出て降伏。ガリアはほぼ平定され、カエサルの事実上支配するところとなり、カエサルの勢力拡大に繋がった。 |
紀元前49年 |
1月10日 | カエサルが、彼の勢力を恐れる元老院の召還命令に逆らい、「賽は投げられた」として、麾下の軍勢を率いてルビコン川を渡り、ローマ帝国本土へ侵攻する。 |
紀元前47年 |
8月 2日 | ゼラの戦い。ボスポロス王国の国王ファルナケス2世とローマのガイウス・ユリウス・カエサルが戦い、カエサルが勝利。「来た、見た、勝った(Veni vidi vici:ウェーニー・ウィーディー・ウィーキー)」の言葉で有名。 |
紀元前46年 |
| 古代ローマにおけるローマ暦最後の年。ガイウス・ユリウス・カエサルが改暦を行ったため、以降はユリウス暦となった。現在の9月、10月、11月、12月の英語名(September,October,November,December)がラテン語の第7、第8、第9、第10を意味するのは、3月から1年が始まるローマ暦の名残り。 |
紀元前44年 |
3月15日 | ガイウス・ユリウス・カエサルが元老院出席のためポンペイウス劇場に来た所で、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスやマルクス・ユニウス・ブルートゥスらに暗殺される。その権力はガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(のちの初代皇帝インペラトル・カエサル・アウグストゥス)に受け継がれる。 |
紀元前37年 |
| 扶余の金蛙王の子とされる朱蒙によって高句麗が建国されると建国神話にある。史実ははっきりしないが、旧玄菟郡の高句麗県侯となっていた在地の勢力とも考えられる。建国神話は夫余系民族に共通する東明聖王神話から来たものか。 |
| ユダヤのハスモン朝がローマによって滅びる。ローマに従っていたヘロデが王位についてヘロデ朝が成立。 |
紀元前32年 |
| オクタウィアヌスが執政官として権力を握ったローマの元老院が、政敵であるアントニウスと手を組んだプトレマイオス朝エジプト王国に対し宣戦を布告。 |
紀元前31年 |
9月 2日 | アクティウムの海戦でオクタウィアヌス軍が、アントニウス軍に勝利。 |
紀元前30年 |
8月12日 | プトレマイオス朝エジプト王国のファラオ、クレオパトラ7世フィロパトルが自殺。事実上最後のファラオ。 |
9月 8日 | 聖母マリアが誕生したとされる日。 |
紀元前27年 |
1月13日 | 全権を掌握したオクタウィアヌスが、三頭政治時代の全ての特権を元老院に返還して共和政に復帰すると宣言。ただし実質的な権力である執政官にはとどまる。さらに属州を分けて、軍団駐屯地の属州統治権と軍の指揮権の法的権利を元老院から取り、事実上の全軍統括権を獲得する。 |
1月16日 | ユリウス・カエサルの副官だったルキウスが、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈ることを元老院に提案。元老院はこれを議決し、オクタウィアヌスは、「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」と名乗ることに。これをもって形式上も含め、オクタウィアヌスをローマ帝国初代皇帝アウグストゥスとし、帝政ローマが誕生。 |
紀元前23年 |
1月13日 | ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスに、護民官職権が与えられ、権力が強化される。 |
紀元前18年 |
| 高句麗建国の王朱蒙の三男温祚によって百済が建国される。これは建国神話に基づくもので、扶余系民族に共通する東明聖王神話に影響されているとみられる。 |
紀元前8年 |
| ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが、誤って運用されていたユリウス暦を修正する際に、8月に自身の名アウグストゥスを付ける(Augustの語源)。 |
紀元前7年 |
(綏和2年) | 賈譲が黄河の治水案をまとめた「治河策」を著す。 |
紀元前6年 |
| ローマがヘロデ王朝の王位を廃してユダヤの地を直轄領とする。ユダヤ属州の成立。 |
紀元前4年 |
| この頃、ナザレのイエス(いわゆるイエス・キリスト)が生誕。ルカ福音書の記載などからイエスはヘロデ王時代の末期に生まれているとみて間違いないので、ヘロデ王が死去したこの年までには生まれていたと考えられる。 |
1年 |
| 西暦1年。後の西暦525年にローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、新たな紀元歴を決めるため、復活祭の一巡とイエスの没年齢からディオクレティアヌス紀元248年がキリスト紀元532年として算出し、紀元1年を定める。実際に西暦が使われるようになるのは15世紀ころから。なお、西暦の略号ADは、ラテン語で「主の年」を意味するanno Dominiの頭文字。 |
| この頃、日本列島南側で南海トラフの大地震が発生した可能性がある(高知県の津波堆積物のあとから)。 |
8年 |
(居摂3年11月) | 王莽が前漢の皇太子の孺子嬰(劉嬰)より禅譲を受けて国号を「新」と改め建国。初始元年と改元。同12月朔日を始建国元年正月朔日と定める。孺子嬰を定安公とし、前漢は滅亡。 |
11年 |
(始建国3年) | 黄河が大氾濫を起こす。河口の位置がさらに移動し、現在の流路に近い形になる。 |
14年 |
8月19日 | ローマ帝国の初代皇帝インペラトル・カエサル・アウグストゥス没。 |
17年 |
(天鳳4年) | 琅邪郡の老女呂母が人々をあつめて、天鳳元年に息子を死刑にした県令を襲撃して殺害。呂母はまもなく死去するが、集まった軍勢は解散せず後の赤眉軍につながる。 |
| この頃、王匡・王鳳らが人々をあつめて荊州江夏郡の緑林山に立て籠もる。緑林軍の反乱。 |
21年 |
(地皇2年) | 黎丘郷の県吏秦豊、黎丘郷で挙兵。その後、勢力を広げ、楚の黎王を自称する。 |
22年 |
(地皇3年) | 疫病の発生により緑林軍が下江軍と新市軍とに分かれて緑林を離れる。転戦中に劉玄の平林軍や、同年挙兵した劉縯・劉秀兄弟の舂陵軍なども反乱軍に加わる。 |
(地皇3年 3月) | 王莽は反乱に対して王邑・王尋らに100万と号する討伐軍を出陣させる。 |
(地皇3年 5月) | 王邑ら討伐軍は、昆陽を包囲。劉秀は援軍を集めるため、昆陽を脱出。一方、劉縯は、宛を攻略。 |
(地皇3年 6月) | 劉秀は数千の援軍を率いて昆陽に戻り、王邑・王尋らを攻撃。昆陽城内からも呼応して出撃した結果、王尋が戦死し、王邑は敗走。討伐軍は大敗を喫する(昆陽の戦い)。 |
(地皇3年 冬) | 赤眉軍討伐のため出陣した新の更始将軍・平均公廉丹、太師王匡の軍勢と、軍閥董憲の軍勢が成昌で戦い、廉丹が討ち取られ、王匡は敗走する。 |
23年 |
(地皇4年 2月) | 平林軍の劉玄が更始帝として即位。更始元年。劉縯は大司徒となる。 |
(地皇4年 夏) | 更始帝が舂陵軍の一派に支持されている劉縯と劉稷を殺害。劉秀は監視下に置かれる。 |
(地皇4年9月) | 更始帝の軍勢が長安(常安)に攻め込み、混乱の中、王莽が殺される。 |
| この頃、隴西で隗囂が方望を軍師とし年号を漢復と称して独自勢力を拡大。 |
(更始1年10月) | 更始帝が劉賜の進言で、劉秀を河北への派遣軍の指揮官に任ずる。劉秀は各地を転戦。 |
(更始1年12月) | 王郎が劉林らの支持を受け、邯鄲で即位。 |
(更始1年) | この頃、盧江郡の李憲が淮南王を自称し独立。 |
24年 |
(更始2年 2月) | 更始帝が長安に都を遷し、有力者らを各地の王に封じる。しかしこれがきっかけで政権は分裂状態となる。 |
(更始2年 5月) | 劉秀率いる軍勢が王郎を邯鄲に追い詰め、これを陥落。王郎は逃走を図るが殺害される。 |
25年 |
(更始3年 1月) | 隗囂から離反した方望が長安にいた孺子嬰(劉嬰)を擁立して臨涇に政権を起こすが、まもなく更始帝の軍勢に滅ぼされる。 |
(更始3年 6月) | 劉秀、家臣の支持を受け即位。後の光武帝。建武と改元。 |
(更始3年 6月) | 赤眉軍の樊崇と徐宣が関中に侵攻。劉盆子を皇帝に擁立する。年号を建世とする。 |
(更始3年/建世1年/建武1年 9月) | 劣勢となった更始帝の重臣王匡が赤眉軍に寝返り、赤眉軍は長安を攻略。更始帝を捕らえ殺害。 |
(更始3年) | 更始帝敗北を受けて、更始帝から梁王に封じられていた劉永が独立し皇帝を自称。 |
26年 |
(建世2年/建武2年春) | 赤眉軍政権は食糧を確保するため、長安を出て西へと進軍するが、隗囂の軍勢に敗れ長安に戻る。 |
(建世2年/建武2年春) | 真定王劉楊、光武帝劉秀の召還命令に応じず、耿純らによって誅殺される。劉秀、謀反は起こしていないとして劉楊の子の劉得を真定王に封じる。 |
(建世2年/建武2年12月) | 赤眉軍政権は秩序を保てず瓦解。食糧もなくなり長安を放棄。 |
27年 |
(建世3年/建武3年) | 赤眉軍が光武帝劉秀の臣下である馮異らの軍勢によって阻まれ降伏。 |
(建武3年7月) | 光武帝劉秀配下の征南大将軍岑彭が黎丘郷へ進攻。秦豊らは大敗を喫する。秦豊は、軍閥の延岑と田戎らと姻戚関係を結んで陣営に引き入れる。 |
(建武3年 秋) | 劉永が光武帝劉秀配下の呉漢・蓋延の軍に本拠地の睢陽を攻め落とされ、敗走中に殺害される。 |
(建武3年 秋) | この年、淮南王李憲が皇帝を称して九卿百官を置く。 |
28年 |
(建武4年 7月) | 光武帝劉秀と梁王劉永の子劉紆の両勢力が蘭陵をめぐって攻防戦となる。劉紆の重鎮となっていた董憲が勝利し蘭陵を確保。 |
(建武4年 秋) | 光武帝劉秀自ら、寿春に親征。また舒で皇帝を自称し独立していた李憲に討伐軍を派遣。 |
29年 |
(建武5年 6月) | 光武帝劉秀の軍勢に黎丘郷を包囲され、窮した秦豊は一族を連れて降伏。洛陽に送られ処刑される。 |
(建武5年 8月) | 光武帝劉秀の大司馬呉漢が、梁に攻め込み、梁軍は大敗。劉紆、董憲らは郯へ敗走。しかし郯も陥落し、劉紆は殺害され、董憲と龐萌はさらに朐へ敗走する。 |
30年 |
(建武6年 1月) | 長期の籠城戦となっていた舒が陥落。李憲は敗走し、部下の帛意に裏切られて殺害される。 |
(建武6年 2月) | 光武帝劉秀の大司馬呉漢が、朐を攻め落とす。董憲と龐萌は降伏を決めるも呉漢軍校尉の韓湛によって殺害される。 |
| この頃、ユダヤ教の一派(初期のキリスト教)を率いたナザレのイエスがローマのユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑される。 |
33年 |
(建武9年) | 隴西の隗囂が病死し、後を継いだ隗純は光武帝に降伏。 |
36年 |
(建武12年) | 光武帝劉秀の軍勢が成都を攻略。蜀で独立していた公孫述を滅ぼし、公孫述と手を組んでいた軍閥の延岑らも滅ぼされ、中国を統一。 |
37年 |
| ヘロデ・アグリッパ1世がトランス・ヨルダンの統治権を任される。 |
40年 |
| 南越で有力者であった徴側と徴弐の姉妹が自立の動きを見せ、合浦・九真・日南各郡で65県の貉将・貉侯がこれに同調する。いわゆる徴姉妹の乱(ハイバーチュンの乱)。 |
41年 |
1月24日 | ローマ帝国の第3代皇帝カリグラが暗殺される。 |
42年 |
| 光武帝の派遣した伏波将軍馬援の遠征軍によって、徴姉妹は敗死。徴姉妹の乱(ハイバーチュンの乱)が鎮定される。ベトナムでは徴姉妹は英雄視されている。 |
| ヘロデ・アグリッパ1世がユダヤ王を認められる。 |
43年 |
| ローマ帝国クラウディウス帝によるブリタンニア遠征。ブリトン人の王カラタクスを破り、その王都カムロドゥヌムを占領。ここを帝国ブリタンニア属州として植民地化。ブリタンニア属州はその後、ブリテン島全体へと拡大していく。 |
48年 |
| ヘロデ・アグリッパ2世がユダヤの統治権を認められる。 |
54年 |
10月13日 | ネロがローマ帝国の第5代皇帝に即位。 |
60年 |
| この年、もしくは翌61年に、ブリタンニアのイケニ族の女王ブーディカが、圧政を敷いていたローマ帝国の総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌス、行政官カトゥスらに対して反乱を起こす。反乱軍はカムロドゥヌム、ロンディニウム、ウェルラミウムの3つのローマ植民都市を攻め落として、市民7万人以上を殺戮。スエトニウスはモナ島の反乱から引き返して、ワトリング街道の戦いでブーティカの軍勢23万を打ち破る。ブーディカは敗戦後自殺したとも言われる。反乱は失敗に終わるが、スエトニウスの強権支配は批判され、皇帝ネロの宥和政策導入とも相まってスエトニウスは更迭。以後、ブリタンニア支配は穏健的な政策に変わった。 |
64年 |
7月19日 | ローマ大火。市内の大半を焼き尽くす。ネロが焼け跡に宮殿を立てたためにネロの仕業という噂が流れ、ネロはキリスト教徒を放火の罪で弾圧する。 |
66年 |
| 第一次ユダヤ戦争勃発。 |
68年 |
6月 9日 | ローマ帝国皇帝ネロが元老院から公敵の宣告を受け自殺する。 |
70年 |
4月14日 | ローマ軍によるエルサレム攻囲戦が始まる。 |
9月 7日 | ローマ軍がエルサレムを陥落する。市街地やエルサレム神殿も徹底的に破壊された。ユダヤ戦争は事実上終結し、一部がマサダ要塞へと逃げ込み抵抗を続ける。これ以降、ユダヤ人は国を失い、各地へと離散していくことになる。 |
73年 |
5月 2日 | マサダ要塞の籠城戦が終わり、ユダヤ戦争が完全に終結する。 |
79年 |
8月24日 | イタリア中南部ナポリ近郊にある活火山のヴェスヴィオ山が大噴火を起こし、火砕流や大量の灰などで麓にあったポンペイやヘルクラネウムなどの都市が壊滅する。艦隊指揮官のガイウス・プリニウス・セクンドゥスは救援に向かってガスにまかれて死亡し、その状況を、甥の文人政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが、歴史家タキトゥスに伝えたことから、後世に詳しく残された。 |
97年 |
(永元9年) | 西域都護の班超が甘英を西の大秦に派遣。甘英は條支国を経て、大海の沿岸までくるが、安息国の西境の船乗りに大秦までの船旅の困難さを説かれて断念し帰国。大秦はローマ帝国、安息国はアルサケス朝パルティアとみられる。條支国については不明。大海はペルシャ湾・カスピ海・地中海など諸説ある。 |
115年 |
| 各地のユダヤ人が反乱を起こす(キトス戦争)。これを第二次ユダヤ戦争と称する場合もある。 |
132年 |
| ローマ皇帝ハドリアヌスの政策に反発したユダヤ人が反乱(バル・コクバの乱:第二次ユダヤ戦争)。シメオン・バル・コクバというメシア(救世主)を称した人物が起こした反乱。エルサレムの再建に際して、かつてのユダヤの神殿あとにユピテル神殿を作るという計画と、割礼を禁止するという勅令が反乱の大きな要因。キトス戦争を含めた場合は、第三次ユダヤ戦争と称する。 |
135年 |
| ローマ軍がエルサレムを占領。バル・コクバは戦死し反乱は終結。またハドリアヌス帝は、ユダヤ的なものをなくすため、ユダヤ暦を廃止し、かつての王都エルサレムをアエリア・カピトリーナと改名し、ユダヤ人が入ることを禁止。ユダの地という意味のユダヤ属州の名称も廃止して、かつてユダヤ人と対立したペリシテ人の地という意味で、シリア=パレスチナ属州と改めた。このため、ユダヤ人の離散がさらに拡大した。 |
140~190年頃 |
| 倭国で大乱が続いたが、その関係者らが共に卑弥呼という女性を王に立てることで収束させたと言われる。 |
160年 |
| 倭国王帥升等が生口160人を後漢朝廷に献上し、安帝の謁見を求める。後漢書の記載を書写した諸書物から、倭面上国王、倭面土国王という説もある。生口とは捕虜あるいは奴隷という説が有力。 |
166年 |
| 大秦国王の安敦から後漢の交州日南郡に使者が至り、象牙・犀角・玳瑁などを献上する。大秦国はローマ帝国、安敦はアントニヌスの音訳とみられるため、15代皇帝アントニヌス・ピウス、16代皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスなどが考えられるが、ローマ帝国の正式な使者だったかは不明。 |
181年 |
| ニュージーランド北島のオルアヌイ火山が大噴火し、カルデラを形成。現在のタウポ湖。 |
184年 |
4月 2日(光和7年 3月 5日) | 太平道の教組張角らが中国各地で36万人ともいわれる兵で武装蜂起。黄巾の乱が勃発。各地の役所などを襲う。 |
(光和7年10月) | このころ張角が病死し、主要幹部も戦死したため、組織的反乱は終息へ向かう。しかし以後も地域反乱は頻発することに。12月に中平元年に改元。 |
185年 |
| 超新星SN185が観測されたことが中国の記録に見られる。ケンタウルス座の3,300光年離れた星。記録に残る最古の超新星。 |
187年 |
| 張純の乱。黄巾の乱の混乱を受けて、元中山太守の張純と烏丸大人の丘力居らが幽州で挙兵。華北各地を席巻する。朝廷は公孫瓚に討伐を命じるが、平定できなかったため、劉虞に討伐を命じ、劉虞は丘力居を降伏させる。 |
188年 |
(中平5年10月) | 霊帝直属の西園八校尉(近衛軍司令官)を設置する。宦官(小黄門)の蹇碩を上軍校尉とし、その下に、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎校尉の鮑鴻を下軍校尉、議郎の曹操を典軍校尉、趙融と馮芳を助軍校尉、夏牟と淳于瓊を左右校尉とするもの。 |
189年 |
(中平6年 3月) | 鮮卑へ逃亡した張純が暗殺され、張純の乱は平定。 |
(中平6年 8月~9月) | 専横を極める宦官勢力を討伐するため、袁紹が宮中に乗り込むが、その混乱に乗じて皇帝を手に入れた董卓が権力を掌握。 |
190年 |
(初平元年 2月頃) | 群雄諸侯による反董卓連合が結成される。しかし群雄同士の駆け引きにより一向に行動に移さず。 |
192年 |
5月22日(初平3年 4月23日) | 董卓が呂布に殺される。呂布、王允、士孫瑞、李粛らによる謀反。 |
194年 |
(興平元年) | 曹操が徐州へ出兵している間に、張超と陳宮が張邈を引き入れて反旗を翻し、呂布を迎え入れる。荀彧と夏侯惇が死守している間に、曹操は急遽引き返し、呂布と対戦。 |
195年 |
(興平2年12月) | 曹操が雍丘を攻め落とし、張超らが自殺し、曹操側の勝利で終結する。 |
196年 |
(建安元年 8月) | 曹操が献帝を自らの支配地域である許(のち許昌)に迎え入れる。 |
200年 |
(建安5年 2月) | 袁紹幕下の陳琳が檄文を記して曹操を誹謗し、袁紹対曹操の官渡の戦いが始まる。 |
(建安5年 4月) | 曹操軍の関羽が白馬津で袁紹軍の顔良を斬り、さらに荀攸の献策で曹操軍は文醜軍を撃破。曹操軍の于禁と楽進は黄河を渡河し、北岸の袁紹軍の拠点を焼き払って退却する。 |
(建安5年 8月) | 官渡まで退いた曹操軍に対し、袁紹軍が東西数十里に渡って陣を築き、総攻撃をかける。さらに曹操の本拠地である許周辺でも袁紹側に寝返る勢力が相次ぐ。曹操は許への退却を検討するが荀彧に諌められる。 |
(建安5年10月) | 袁紹幕下の許攸が、袁紹を裏切って曹操に投降。烏巣にある袁紹軍の食料備蓄陣地の場所を教え、曹操自ら兵を率いて襲撃し焼き払う。その対応をめぐり袁紹軍内部で意見が対立し、張郃と高覧が曹操に投降。袁紹軍は撤退。官渡の戦いは終結する。 |
205年 |
(建安10年) | 袁紹と対立していた黒山賊の張燕が曹操に降伏する。張燕は平北将軍となる。 |
207年 |
(建安12年) | 袁熙と袁尚兄弟が烏桓王と組んで柳城で曹操と戦い敗れる。袁氏兄弟は遼東の公孫康のもとへ逃れる。 |
(建安12年 9月) | 袁熙と袁尚兄弟が公孫康に殺害され、公孫康は曹操に降る。華北全域から遼東にかけてが曹操の勢力下に置かれる。 |
208年 |
(建安13年 9月) | 劉琮が曹操に降伏し、荊州は曹操の支配下となる。 |
12月15日(建安13年11月20日) | 赤壁の戦い。朝廷の実力者で中原を支配する曹操の水軍と、長江流域の地域軍閥である孫権・劉備の連合軍が戦い、孫権側が勝利。孫権側の火攻めと疫病の流行も勝敗を決した理由とされる。 |
211年 |
(建安16年 3月) | 曹操が漢中の張魯討伐を名目に、その手前にある関中へ進出。韓遂、馬超ら関中の各軍閥と対峙。 |
(建安16年 7月) | 曹操と馬超らが潼関で衝突。曹操も危うく殺されかけるが、軍を大きく迂回して黄河を渡る。 |
(建安16年 9月) | 曹操が渭水を渡河し、離間策を企て韓遂・馬超に個別会談を持ちかける。韓遂と馬超は疑心暗鬼に囚われ分裂。曹操軍に敗北を喫する。 |
213年 |
(建安18年) | 曹操が臣下としては異例の魏公となる。本来は皇族のみが認められた地位。 |
214年 |
(建安19年) | 合肥の戦い。孫権が兵力10万で合肥へ侵攻。対する守将の張遼・李典・楽進と護軍の薛悌は7000の兵力しかなかったが、張遼が寡兵で孫権の陣へ突撃するなどして打ち破り、また揚州刺史劉馥が事前に準備していた物資のお陰で持ちこたえ、孫権軍は退却。 |
(建安19年) | 献帝の伏后が廃される。 |
215年 |
(建安20年) | 漢中の張魯が曹操に降伏。張魯を教祖とする五斗米道はその後各地へ広がり、のちに道教へと発展する。 |
216年 |
(建安21年) | 曹操が劉氏皇族以外では前漢初期を除いてほとんど例のない王位を与えられ、魏王となり、漢帝国内に魏国を興す。夏侯惇を除き曹操の家臣も魏の官職を与えられ魏臣となる(夏侯惇は曹操によって同列であるという特別扱いをうけ漢臣のままであった)。 |
217年 |
(建安22年) | この年、中国では疫病が流行。罹患した司馬朗は兵士を救うために自分の薬を分け与えたため、死亡したと言われる。また建安七子の王粲、応瑒、徐幹、陳琳、劉楨らはほぼ同時期にこの疫病で死亡した。この疫病かは不明だが、呉でも魯粛が同時期に病死している。 |
219年 |
(建安24年) | 漢中の定軍山で曹操軍と劉備軍が衝突し、曹操軍の総指揮官だった夏侯淵が戦死。劉備が漢中を制圧する。 |
220年 |
3月15日(建安25年 1月23日) | 後漢の丞相で魏王だった曹操が死去し、曹丕が魏王位と丞相を継ぐ。 |
12月11日(建安25年10月29日) | 曹丕が献帝からの禅譲を受け、皇帝(魏文帝)となり、魏帝国を建国。年号は黄初と改められる。献帝は山陽公に封ぜられる。 |
221年 |
5月14日(章武元年 4月 6日) | 劉備が蜀の皇帝に即位。蜀漢の昭烈皇帝。 |
7月 | 劉備が、関羽の復仇のため、呉に侵攻する(夷陵の戦い)。 |
222年 |
6月 (章武2年) | 呉の陸遜が呉軍を率いて長江を遡上し蜀の陣営に放火。蜀の多くの武官文官が戦死し、劉備は白帝城へ退却する。長江北岸にいた蜀将の黄権は退路を失い、魏に降伏。 |
223年 |
6月10日(章武3年 4月24日) | 劉備、白帝城で病没。劉禅があとを継いで即位する。 |
228年 |
(魏の太和2年・蜀の建興6年) | 街亭の戦い。蜀による第一次北伐で5回の北伐では最大の軍事作戦だったが、馬謖の作戦ミスから魏軍に大敗を喫し退却した。戦後、総司令官だった諸葛亮は自身を含む関係者を降格処分にし、愛弟子の馬謖を処刑した。「泣いて馬謖を斬る」の故事。 |
234年 |
(魏の青龍2年・蜀の建興12年) | 五丈原の戦い。蜀の第5次北伐戦だったが、魏の司馬懿は防衛に徹したため両軍対峙のまま、8月になって蜀の総司令官だった諸葛亮が病没し退却を余儀なくされた。追撃に出た司馬懿が蜀軍の反攻に驚いて退却し「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言われたとされる。一方で司馬懿は諸葛亮の北進を阻止した功績もあり、魏の要人として権力を掴んでいくことになる。 |
238年 |
(魏の景初2年 6月?) | 邪馬台国の使者難升米と都市牛利が魏へ赴く。公孫淵が滅び通行が可能になったことで魏へ赴いたと考えられることから、6月ではまだ遼東の戦役は終わっていないため、景初3年の誤りとする説もある(公孫淵は遼東戦役の途中から戦意を喪失しているため通行許可が降りた可能性もある)。皇帝(景初3年1月に病没した明帝曹叡か、次の曹芳)によって、卑弥呼に親魏倭王の印が贈られたという。 |
(魏の景初2年・燕の紹漢2年 8月23日) | 魏の司馬懿が遼東を支配する燕王公孫淵を滅ぼす。 |
241年 |
(魏の正始2年・呉の赤烏4年) | 芍陂の戦い。呉の孫権が、揚州と荊州の4路方面から魏に侵攻。全琮が淮南、諸葛恪が六安、朱然が樊城、諸葛瑾が柤中を攻撃。また蜀にも出兵を求める。しかし淮南で魏の孫礼と王凌に敗れ揚州方面から撤退。樊城では籠城戦となるが、魏の胡質が抗戦し、司馬懿が援軍に来たうえ、蜀も出兵しなかったため、呉軍は荊州攻勢も断念。撤退中に追撃を受け大敗を喫する。 |
244年 |
2月11日 | ミシケの戦い。サーサーン朝とローマ帝国の戦い。ローマ皇帝ゴルディアヌス3世が戦死。暗殺説もある。 |
(魏の正始5年・蜀の延熙7年) | 興勢の戦い。魏の有力者曹爽が、司馬懿に対抗するため、自らの軍歴を積もうと蜀出兵を計画。蜀の蔣琬が主力軍を引いたのを機に、10万の兵で攻め込む。しかし蜀将王平が興勢山まで迎撃に出て打ち破り、さらに費褘の援軍が到着したため、魏軍は撤退。 |
248年 |
(呉の赤烏11年) | 交州の九真で趙氏貞と兄の趙国達らが呉に対し反乱を起こす。交州刺史陸胤によって鎮圧される。 |
249年 |
(魏の正始10年 1月 6日) | 高平陵の変。魏の有力者司馬懿が病身を偽ったことで安堵した曹爽一派が、皇帝曹芳とともに先帝曹叡の高平陵を参拝して都洛陽を離れている間に、司馬懿がクーデターを決行。郭太后の勅を得て洛陽を制圧。洛水に陣を張り使者を送って曹爽らを説得。それを信じた曹爽らが降伏する。 |
(魏の正始10年 1月10日) | 先の政変で捕らえられた曹爽一派が、謀反を企図していたとしてことごとく処刑が決定する。司馬懿が事実上の最高権力者となる。 |
251年 |
7月 1日 | アブリットゥスの戦い。ゴート族らゲルマニア人がローマ帝国領内に侵攻し、ローマ皇帝デキウスと息子で共同統治者ヘレンニウスが戦死し、ゴート族が大勝利をおさめる。 |
9月 7日(魏の嘉平3年 8月 5日) | 魏の最高権力者である司馬懿が死去。司馬師が後を継ぐ。 |
252年 |
(魏の嘉平4年・呉の神鳳1年 4月) | 呉の初代皇帝孫権が死去。 |
(魏の嘉平4年・呉の建興1年12月) | 東興の戦い。孫権の死を好機と捉えた魏は、司馬師主導のもと諸葛誕、胡遵、王昶、毌丘倹らに呉へ出兵させる。これを予期していた呉の諸葛恪は、巣湖の東興堤を強化。これを全端と留略が防衛し、さらに丁奉が魏軍に急襲をかけたため、魏軍は大敗する。しかしこの戦いで勝利した諸葛恪は権力を謳歌して呉に混乱を招き、敗れた司馬師は自ら敗戦の責任を表明して誰も罪に問わなかったため、支持を得ることになる。 |
256年 |
(魏の甘露元年・蜀の延熙19年) | 段谷の戦い。蜀の姜維が魏を攻めるが味方との連携が取れず魏の鄧艾に大敗を喫す。蜀将多数が戦死し多くの兵を失ったため、以後、姜維は戦線を漢城・楽城まで後退させて専守防衛に徹することになる。 |
259年 |
| エデッサの戦い。ローマ帝国とサーサーン朝との戦い。ローマ側が大敗し、皇帝ウァレリアヌスが捕虜となりペルシアへ連行される(間もなく死去したとも)。これをうけて共同皇帝ガッリエヌスが単独皇帝となるが、ローマ帝国の権威は失墜。各地で皇帝僭称者が相次ぎ、「三十人僭帝」と呼ばれる時代に入る。 |
260年 |
6月 2日(甘露5年 5月 7日) | 魏の第4代皇帝曹髦が司馬昭の排除を企て、李昭・焦伯ら数百人と蜂起。王業・王沈の密告で事態を知った賈充が待ち構え、その命令で成済が曹髦を殺害。成済一族も皇帝弑逆の罪を着せられ処刑される。 |
| ローマ帝国の将軍マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが、ローマ皇帝を僭称し、帝国属州のガリア、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニアを領域として事実上独立。いわゆるガリア帝国。 |
261年 |
| サーサーン朝の王シャープール1世が、ローマ帝国の弱体化を見て、ローマ領への侵攻を開始するも、東方属州の総司令官セプティミウス・オダエナトゥスに大敗。 |
263年 |
(魏の景元4年・蜀の炎興元年) | 夏から秋にかけて魏は鐘会・鄧艾・諸葛緒ら18万の軍勢で蜀に攻め込み、剣閣で姜維が防衛している間に迂回した鄧艾が成都へ向けて進撃。蜀帝劉禅は降伏。蜀が滅亡する。 |
264年 |
(景元5年・咸熙元年) | 蜀で鐘会と姜維が組んで反乱を起こすも失敗に終わる。鐘会と姜維は殺され、またこの反乱に巻き込まれて鄧艾・張翼ら魏将、劉禅の子で蜀の太子だった劉璿、関羽の孫の関彝ら多数が殺害される。 |
266年 |
3月10日(泰始2年 1月17日) | 魏の滅亡・晋の建国。魏の晋王司馬炎が、第5代元帝曹奐から禅譲を受け、晋を建国、魏が滅亡。 |
| 曹操の時代から続いた屯田制が廃止される。代わりに280年ころから占田・課田制が導入されることになるが、実態は不明。 |
267年 |
| ローマ帝国東方属州の司令長官だったセプティミウス・オダエナトゥスが暗殺される。妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを後継者にし自ら後見人として実権を握る。パルミラ王国として事実上の独立。 |
268年 |
| 晋が泰始律令を制定。初めて律と令を区分した法令。 |
269年 |
2月14日 | ローマの司祭ウァレンティヌスが処刑される。皇帝クラウディウス・ゴティクスが決めた兵士の結婚禁止を破って式を挙げさせたため。聖バレンタインデーの由来のひとつとされる。ウァレンティヌスの実在性については諸説ある。 |
270年 |
| 西晋の秦州で鮮卑禿髪部の樹機能が反乱を起こす。万斛堆の戦いで秦州刺史胡烈を敗死させ、反乱は雍州・涼州へも拡大。 |
271年 |
| ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがパルミラの支配域へ攻略に乗り出す。ウァバッラトゥスは戦死。ゼノビアはパルミラ市へ敗走。 |
| 呉が西晋の支配下にあった交州を制圧する。 |
272年 |
| 西陵の戦い。呉の西陵督である歩闡が西晋に寝返ったため、呉の将軍陸抗がこれを攻め滅ぼす。 |
273年 |
| ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがパルミラ市を包囲攻撃し、ゼノビアは捕らえられ、パルミア王国は崩壊。 |
274年 |
| ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがガリア帝国攻略に乗り出す。シャロンの戦いで、ガリア側が敗北。テトリクス1世が捕虜となり、ガリア帝国も崩壊。ローマ帝国に再統一される。 |
275年 |
| ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがサーサーン朝遠征の途上、秘書官や将軍らの企てた陰謀で暗殺される。 |
277年 |
| 西晋の将軍文鴦によって樹機能の反乱は一旦鎮圧される。 |
278年 |
| 若羅抜能が樹機能と再び反乱を起こす。西晋は軍の主力を呉の攻略戦に振り向けていたため、馬隆を派遣してこれを鎮圧させる。樹機能は部下の没骨能によって殺害される。10年続いた反乱は平定されたが、西晋の呉攻略計画は大幅に遅延した。 |
279年 |
(天紀3年) | 夏、呉の合浦太守脩允の部下だった郭馬が呉に対して広州で反乱を起こす。郭馬の乱、広州の乱ともいう。反乱は蒼梧郡・始興郡に拡大。呉は滕脩・陶璜・陶濬らに鎮圧を命じるがうまく行かないうちに晋の呉侵攻が始まる。 |
(咸寧5年) | 西晋の司馬炎は、前年に亡くなった羊祜が推し進め、樹機能の反乱で大幅に遅れていた呉の攻略戦を開始。賈充は慎重論を説いて反対したが司馬炎は親征を匂わすことで賈充を半強制的に大都督にし、楊済を副将として、王濬と唐彬は水軍を率いて蜀から長江を下り、司馬炎の叔父の司馬伷は下邳から呉の都建業を目指して南下、王渾は寿春から建業を目指し、王戎は項城より武昌へ、胡奮は江夏から夏口へ、杜預は襄陽から江陵へそれぞれ進軍。 |
280年 |
(太康元年 1月) | 晋の王渾軍が長江の対岸から渡河して首都建業へ攻略の構えを見せたため、呉の皇帝孫皓は、張悌、沈瑩、孫震らを迎撃に向かわせるが大敗して呉軍は潰滅。 |
(太康元年 2月) | 晋の王渾軍、司馬伷軍が建業周辺を制圧して孫皓に圧力を加える一方、王濬と唐彬の水軍は長江中流域の江陵まで進出、胡奮は夏口・江安を攻略、杜預は長江を横断して荊州南部を攻略。呉は建平太守吾彦のみが唯一維持している状態となる。 |
5月 1日(太康元年 3月15日) | 晋の各攻略軍が建業を包囲、呉軍からは降伏が相次ぎ、呉の皇帝孫皓は降伏し呉は滅亡。西晋によって中国が統一される。三国時代の終焉。 |
285年 |
| 遼東の鮮卑慕容部の後継に慕容廆が就く。まもなく庶兄で分家した慕容吐谷渾との間で馬をめぐる紛争が起きる。慕容廆は和解を申し出たが吐谷渾は争いを避けるため故地を捨てて部衆を率い西へと向かう。慕容廆の子孫は勢力を拡大して前燕となり、慕容吐谷渾は遙か西方の甘松(青海)まで移り、子孫は同地に吐谷渾国を興した。 |
290年 |
5月16日(太熙元年 4月20日) | 晋の初代皇帝司馬炎が死去。皇太子司馬衷が即位(恵帝)。司馬衷の母親の一族である楊駿が権力を握る。 |
291年 |
(永平元年 3月) | 晋恵帝の后である賈南風が楚王・東安王らと組んで楊駿とその三族を殺害。八王の乱の始まり。 |
293年 |
| ローマ皇帝ディオクレティアヌスが4人の東西正副皇帝によってローマ帝国の分割統治を行うテトラルキアを導入。ローマ帝国が分裂したわけではなく、便宜的に帝国を4人で分担した形。 |
297年 |
(元康7年) | 『三国志』の著者陳寿が死去。 |
(元康7年) | この年、李特が10万もの人民を連れて渭水上流から漢中を経て蜀へ移住する。 |
300年 |
(永康元年 4月) | 趙王司馬倫がクーデターを起こし、晋恵帝の后である賈南風、甥の賈謐ら賈一族が処刑される。また司馬倫と不仲であった張華らも処刑される(張華は元康年間に政権を担った人物で多くの人材を推挙。呉の生まれである文人政治家の陸機・陸雲兄弟を登用し、『三国志』の著者陳寿も孝廉に推挙されている)。 |
(永康元年 8月) | 恵帝の弟淮南王司馬允が司馬倫に警戒されたことから石崇・潘岳らと挙兵するも敗死。司馬倫が九錫を授けられる。 |
301年 |
(永康2年 1月) | 司馬倫が恵帝に迫って退位させ、自ら即位。年号を建始とし、皇太孫である司馬臧を濮陽王に落としたうえで殺害。自分の気に入った人物に官位を乱発するなどしたため、他の皇族や朝臣らの反発を買う。 |
(建始元年 4月) | 斉王司馬冏・長沙王司馬乂・成都王司馬穎らが挙兵。司馬倫は恵帝を復位させて自らは謹慎するが許されず、側近の孫秀らとともに殺害される。斉王司馬冏が実権を掌握。 |
9月 3日 | 現存する世界最古の共和国と言われるサンマリノが建国。ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教徒の迫害から逃れた石工マリヌス(聖マリノ)が、イタリア半島中部のティターノ山に籠り、キリスト教徒たちの共同体を作ったとされる。 |
302年 |
(永寧2年 5月) | 李特が大将軍・益州牧を自称。晋書などではこの年、年号を建初と改める(もしくは翌年)。実質上の成漢の建国。 |
(永寧2年12月) | 斉王司馬冏が長沙王司馬乂・成都王司馬穎・河間王司馬顒らに殺害される。年号を太安と改める。 |
303年 |
(大安2年/建初2年 3月) | 李特が成都へ侵攻するが羅尚に敗死する。弟の李流が後を継ぎ、さらに李特の子の李雄が後を継いで羅尚と戦う。 |
(大安2年 8月) | 司馬乂と対立した司馬穎・司馬顒らが挙兵し、陸機が指揮をとって司馬乂を攻めるが大敗。一方司馬乂も洛陽に籠城するが、東海王司馬越に捕らえられ処刑される。司馬穎は、陸機に恨みを持っていた宦官の孟玖らの進言で陸機と陸雲の兄弟及びその一族を敗戦の罪でことごとく処刑。しかしこれが世論の反発を買ったため、孟玖を処刑せざるを得なくなる。 |
304年 |
1月21日 | ローマ帝国によって13歳の聖アグネスが処刑される。帝国の長官センプロニウスの息子との結婚を宗教的理由で拒絶したため。 |
(永安元年 7月) | 東海王司馬越・予章王司馬熾らが晋恵帝を擁して挙兵。蕩陰の戦いで司馬穎の軍に敗れる。 |
(永安元年 8月) | 東海王司馬越・予章王司馬熾らを支持した幽州都督王浚・并州刺史司馬騰らが挙兵し司馬穎を打ち破る。司馬越、司馬熾を皇太弟とする。 |
(建武元年10月) | 南匈奴の単于の家柄出身で、司馬穎と手を組んでいた劉淵が河西一帯で自立。国号を漢と称して建国。晋と激しく対立。五胡十六国の先駆け。 |
(建初2年10月) | 李雄が成都王を自称し、年号を建興とする。 |
306年 |
(永興3年 2月) | 劉柏根と王弥が挙兵。 |
(永興3年 5月) | 司馬越ら、長安を手中に収め、司馬穎ら殺害される。 |
(建興3年 6月) | 李雄が皇帝に即位し、国号を大成と称する。成漢の建国。 |
(永興3年12月) | 河間王司馬顒も殺害され、八王の乱はほぼ終息する。 |
307年 |
1月 8日(光熙元年11月18日) | 晋恵帝司馬衷が死去(病死とも暗殺とも言われる)。司馬熾が即位(懐帝)。事実上の司馬越政権が樹立。司馬越は残った皇族を各地に配して政権の安定化に務める。 |
308年 |
(永嘉2年 3月) | 王弥が河東一帯を攻略して許昌を制圧。洛陽に迫る勢いとなる。 |
(永嘉2年 6月) | 司馬越が宮中に入り、懐帝の親族や側近を粛清。 |
(元熙5年10月) | 劉淵が皇帝を称する。国号は漢(のち趙)。永鳳と改元。 |
310年 |
8月19日(河瑞2年 7月 8日) | 劉淵が死去。劉和が後を継ぐ。劉和は兵権を持つ異母弟劉聡を排除しようとして失敗し、逆に殺害される。劉聡が即位。 |
311年 |
(永嘉5年 1月) | 懐帝が苟晞に司馬越討伐の密詔を出し司馬越は軍を率いて洛陽を離れる。 |
(永嘉5年 3月) | 復権を図ろうとしていた司馬越が項城で病死。その葬列のために集結した司馬越の一族や部下とその軍勢に対し、漢(劉淵)の将軍となっていた石勒の軍勢が襲いかかり、皇族ら100人余りを殺害し、その兵10万を壊滅させる。この事件で晋の軍事力は大幅に低下。 |
| 劉聡・石勒・王弥らが洛陽へ向けて進軍、蒙城で苟晞の軍勢を破る。 |
(永嘉5年 6月) | 洛陽が陥落し、晋懐帝は捕らえられ平陽へ連行され、3万人以上が殺害される。 |
313年 |
3月14日(永嘉7年 2月 1日) | 懐帝が処刑される。生き延びていた甥の司馬鄴が長安で即位(愍帝)。しかしその支配域は長安とその周辺のみとなる。 |
316年 |
(建興4年11月) | 劉曜の軍勢に長安を包囲されていた愍帝が降伏し、平陽へ連行される。 |
318年 |
2月 7日(建興5年12月20日) | 晋愍帝が処刑される。西晋は滅亡。江南の建業に派遣されていた丞相・大都督中外諸軍事の司馬睿が即位して晋王朝を興す(東晋)。 |
324年 |
| ローマ帝国西方正帝コンスタンティヌス1世が他の勢力を打ち破って「唯一の正帝」となりテトラルキア(分割統治)が終了。しかし分割統治の影響は残り、コンスタンティヌス1世が死ぬと再びテトラルキアが復活する。 |
326年 |
| この年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母親フラウィア・ユリア・ヘレナが、エルサレムを訪れてヴィーナス神殿をゴルゴダの丘と特定し、そこでキリストを磔にしたときの十字架を含む3つの十字架と聖釘を発見したとされる(2つはキリストと同時に処刑された2人の盗賊の十字架)。ヘレナはロンギヌスの槍も見つけたという伝説もある。同地はその後、聖墳墓教会となった。 |
(仁徳天皇14年) | 日本書紀に、猪甘津(いかいつ)に橋を架けたという記録がある。記録上では日本最古の架橋。西暦については計算上による。猪甘津は、現在の大阪市生野区桃谷付近。当時上町台地は河内湾の半島で、百済川河口付近に津(港)があったと考えられる。 |
330年 |
5月11日 | ローマ帝国によって建設されたコンスタンティノポリスが開都する。 |
336年 |
12月25日 | ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ローマのミトラ教の冬至祭の日25日をイエス・キリスト生誕の日と定めたとされる。クリスマスの原点の一つ。 |
345年 |
12月 6日 | ミラのニコラオスが死去。貧窮者や冤罪で処刑されかけている人を救い、サンタクロースのモデルとされる人。352年という説も。 |
346年 |
| 百済第13代の王に近肖古王が即位。新羅と同盟し、高句麗を撃破し、東晋に朝貢。倭にも使者を送ったことで中国や古事記、日本書紀にも記載のある人物。これより以前の王は記録に乏しい。 |
347年 |
| 東晋の桓温が蜀にあった「成漢」を攻め滅ぼす。桓温の名声が高まり権力を強める。 |
351年 |
4月 | 後趙の将軍だった劉顕が冉閔討伐の遠征に失敗したことから、密かに冉閔に降伏して、後趙に戻ったあと後趙の君主石祗を始め、丞相楽安王の石炳、太宰の趙庶らを殺害して襄国を手中に収める。後趙は事実上滅亡。 |
7月 | 襄国の劉顕が冉閔からの独立を企てる。 |
352年 |
1月 | 冉閔が、常山に侵攻した襄国の劉顕を撃破し、そのまま襄国まで侵攻。劉顕らは捕えられて処刑され滅亡。この混乱に乗じて後趙の将軍だった段勤が繹幕で独立。趙帝を称する。 |
11月 | 華北へと勢力を拡大した前燕の第2代王慕容儁が、皇帝に即位。東晋からは独立。 |
356年 |
| 新羅の王に奈勿尼師今が即位。初めて記録に現れる『秦書』に377年に前秦に朝貢使節を送った新羅の王が彼とみられるため、史実の「新羅」と称した初代王か、初期の王という説もある。 |
378年 |
8月 9日 | ハドリアノポリスの戦いで、ローマ帝国軍が西ゴート諸族に敗北、皇帝ウァレンスも戦死する。 |
393年 |
| 超新星SN393が観測されたことが中国の記録に見られる。さそり座の方角にある星と考えられ、超新星残骸とされるRX J1713.7-3946がこれに該当すると考えられている。 |
| ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が古代オリンピックを廃止。 |
395年 |
1月17日 | ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が死去。長男アルカディウスを東の正帝とし、次男ホノリウスを西の正帝として分担統治させたことから、これをもって東西ローマ帝国に分裂したとする場合もある。 |
405年 |
(義熙元年 2月) | 東晋の益州刺史毛璩が出した桓振討伐の出兵命令に反発した蜀の兵らが安西府参軍で巴西梓潼二郡太守の譙縦を擁立して反乱。毛璩を殺して成都を占領し、譙縦は成都王を称する。後蜀の建国。 |
407年 |
| ローマ帝国がブリタンニアから撤退。ブリテン島はブリトン人の小王国が乱立する時代へと移っていく。 |
410年 |
8月24日 | アラリック1世率いる西ゴート族4万の兵がローマに侵攻。3日間に渡り、暴行・略奪が繰り広げられる。その後もアラリック1世の軍勢はイタリア半島南部まで侵攻。古代都市ローマはすでに帝国首都ではなかったが、ローマに侵攻されたこと自体大事件であった。 |
413年 |
(義熙9年) | この年、倭王讃が東晋に朝貢。 |
415年 |
3月 | アレクサンドリア図書館の女性科学者ヒュパティアが、キリスト教徒の手で惨殺される。異教徒に対する強硬派だったアレクサンドリア総主教キュリロスが関わっていたとされる。 |
416年? |
8月22日(允恭5年7月14日) | 『日本書紀』に地震が起こったとある(日本の最古の記録。ただし年代は正確ではない)。地震のあと、允恭天皇は、反正天皇の殯(葬儀)を命じていた玉田宿禰の様子を尾張連吾襲に殯宮まで確認に行かせたところ、玉田宿禰はおらず、別のところで酒宴を開いていた。発覚を恐れた玉田宿禰は尾張連吾襲を殺害。允恭天皇は玉田宿禰を呼び出し、武装しているのを確認すると、兵を出してこれを捕らえ誅殺した。 |
423年 |
(永初2年) | この年、倭王讃が宋に朝貢し、武帝より称号を与えられる。 |
425年 |
(元嘉2年) | この年、倭王讃が宋に司馬の曹達を派遣する。 |
430年 |
(元嘉7年) | この年、倭王が宋に朝貢。 |
| この頃、東北から関東にかけての太平洋岸で大規模な地震と大津波があったとみられる。 |
431年 |
| エフェソス公会議が開催される。キュリロス派とネストリオス派の対立。 |
438年 |
(元嘉15年) | この年、倭王珍が宋に朝貢。自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し承認を求める。 |
(元嘉15年 4月) | 宋の文帝、倭王珍を安東将軍倭国王に任ずる。また珍の求めに応じ、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍とする。 |
443年 |
(元嘉20年) | この年、倭王済が宋に朝貢。安東将軍倭国王に任ぜられる。 |
449年 |
| エフェソス強盗会議。キリスト教内部の宗派対立で開かれた公会議のひとつ。 |
451年 |
6月20日 | カタラウヌムの戦い。アッティラ率いるフン族・東ゴート族・ゲピド族などのゲルマン諸族の軍勢と、西ローマ帝国・西ゴート族・アラン族などが衝突。双方大損害を出し、アッティラは撤退。ローマ帝国の勢力も弱体化して、ゲルマン諸族が拡大する。 |
(元嘉28年) | この年、倭王済、宋文帝から安東将軍に追加して「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。 |
10月 8日 | カルケドン公会議が始まる。イエス・キリストの単性説を排除し、神性と人性がともにある両性説を採用する。 |
(元嘉28年 7月) | 倭王済、安東大将軍に進号する。 |
460年 |
(大明4年) | この年、倭王が宋に朝貢。 |
462年 |
(大明6年 3月) | この年、宋の孝武帝、倭国王済の世子の興を安東将軍倭国王とする。 |
476年 |
9月 4日 | 西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン族の将軍オドアケルによって退位させられ、西ローマ帝国が滅亡。まだ年少だったロムルスは殺されず、恩給をもらい隠棲。ロムルスを帝位につけた、彼の父親オレステスは殺される。 |
477年 |
| この年、倭王興が没し、その弟武が後を継ぐ。武、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称する。 |
(昇明元年11月) | 倭王(武?)、宋に使者を送る。 |
478年 |
(昇明2年) | 倭王武、宋に上表して自ら開府儀同三司(府を開くことのできる三公(太尉・司徒・司空)と同じ扱いとするの意味)と称し叙正を求める。これに対し宋の順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。 |
479年 |
(建元元年) | 宋の斉王蕭道成が禅譲により即位し(高帝)、南斉を興す。高帝、倭王武を鎮東大将軍(征東将軍)とする。 |
481年 |
| クローヴィス1世によってフランク人国家が統一される。メロヴィング朝フランク王国の成立。 |
482年 |
(清寧天皇3年3月~4月頃) | 富士山が噴火し、熱い灰が降り、五穀が実らなかったという。年代の正確性は不明。 |
495年 |
| この年、中国の南朝斉で天然痘と見られる疫病が流行する。 |
500年代前半 |
| 現在の超新星残骸ベラ・ジュニアを生み出したとみられる超新星爆発が発生。650光年以上離れているため、地球上で観測されたのは1200年ころ。 |
502年 |
(天監元年) | 南斉の皇族である蕭衍が梁王朝を樹立(武帝)、倭王武を征東大将軍とする。 |
525年 |
| ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、ローマ教皇ヨハネス1世の要請で、復活祭暦表を改定するため、ディオクレティアヌス紀元暦に代わる紀元歴として、キリスト暦(西暦)を定める。実際に普及するのは15世紀ころから。ディオクレティアヌス紀元暦は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害したことから、その殉教を記念して、皇帝の即位を1年とするキリスト教徒らが用いた暦。 |
528年 |
12月 7日(継体天皇22年11月11日) | 磐井の乱が終結。筑紫国造磐井が、朝鮮半島へ出兵しようとした近江毛野の軍勢を、新羅からの賄賂を受けて阻止し、朝鮮からの朝貢船も押さえたことがきっかけで、物部麁鹿火の討伐を受けたとされる内乱。磐井はこの日、麁鹿火の軍と筑紫三井郡で交戦したが敗死した。日本書紀には詳細に記載があるが古事記には一文しかなく、磐井の地位、乱の規模なども含め諸説わかれる。 |
532年 |
1月13日 | 東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルでニカの乱が起こる。政治党派とつながっていた戦車レースの観客らが、重税などに反発してユスティニアヌス1世に対し暴動を起こしたことをきっかけに元老院議員などが加わった騒乱。 |
1月13日 | 東ローマ帝国の将軍ベリサリウスがニカの乱を鎮圧。皇帝権力が強化されるきっかけとなる。 |
534年 |
| ユスティニアヌス1世の命令でベリサリウスがシチリアに上陸し、少数の兵で同地を制圧。 |
535年 |
| この頃、クラカタウ山が大噴火を起こす。ジャワ島にあったカラタン文明が衰退した要因の一つと考えられる。世界各地で気象異変を引き起こしたとみられる。 |
536年 |
| ベリサリウスがイタリア半島の東ゴート軍を撃破し各都市を制圧。東ゴート軍も反撃しローマ包囲戦に。 |
538年 |
(宣化天皇3年) | 日本に仏教が公式に伝わったと推定される有力な年。『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「欽明天皇御代の戊午年に百済の聖明王から仏教が伝来した」とあり、欽明天皇の御代が諸説あるため、近い戊午の年であるこの年が有力視されている。これ以前から大陸と繋がりのある個人で仏教を取り入れていたものはいたと考えられる。 |
540年 |
| ベリサリウスが、サーサーン朝の侵攻を受けて、イタリア方面の指揮権を剥奪され、シリアへ送られる。 |
542年 |
| この頃、ローマ帝国で腺ペストが流行。東ローマ皇帝ユスティニアヌスも感染したことから、ユスティニアヌスのペストとも呼ばれる。交通網の整備されていた帝国領内で猛威をふるい膨大な死者を出したが、それより外側の地域では比較的影響が少なかったとも言われる。 |
544年 |
| ベリサリウスが、ふたたびイタリア方面の指揮官となり、東ゴート王トーテイラの軍勢と対峙。 |
546年 |
12月17日 | ローマを包囲していた東ゴート王トーテイラの軍勢が市内になだれ込む。翌年にかけてローマ市内を略奪し城壁などを破壊。ローマ側も内紛状態でまともに防衛も出来ない状態だった。 |
548年 |
(太清2年) | 南朝の梁に北朝東魏の有力者侯景が支配する河南13州をもって帰順。梁の武帝はこれを受け入れるが、反発した東魏の攻撃に敗北。10月、追い詰められた侯景は梁へ反乱を起こして首都建康に侵攻。 |
| 東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが失脚。皇帝ユスティニアヌス1世による嫉妬とも、謀反を警戒されたともいわれる。イタリア半島での東ゴート王国の勢力が回復する。 |
549年 |
(太清3年) | 侯景が梁の首都建康を攻め落とす。武帝は捕らえられて幽閉され、2ヶ月後に死亡。侯景は簡文帝を擁立し、実質侯景政権となる。 |
550年 |
| ローマが再びトーテイラの軍勢によって陥落し破壊される。ローマ市はほぼ衰退。 |
552年 |
| ナルセス率いる東ローマ帝国軍がイタリア半島北方から南下し、トーテイラはローマを放棄して迎撃に向かう。ブスタ・ガロールム高原で両軍は衝突。ナルセスは弓兵を効率良く使いゴート軍を殲滅。 |
7月 1日 | 負傷したトーテイラが死去。東ゴート王位はトーテイラの部下のテーイアが継ぎ、ローマ人捕虜や元老院の人質らを殺害。 |
(承聖元年) | 侯景、梁皇族の蕭繹が派遣した王僧弁や陳覇先の軍勢に敗れ、擁立した簡文帝を殺し自ら即位して立て直しを図るも再敗北し、逃走中に殺害される。蕭繹が元帝として即位。 |
(欽明天皇13年) | 百済の聖明王から仏僧と経典が贈られる。このため仏教公伝の有力な年代の一つとされている。天皇は群臣を集めて仏像を礼拝すべきかを問い、蘇我稲目は「諸国は礼拝しており、日本だけしないのはおかしい」と答え、物部尾輿と中臣鎌子は「蕃神を礼拝すれば、天地百八十の国神の怒りを招く」と反対した。天皇は稲目に仏像を預けて、信仰させる(なお物部氏の拠点にも寺院の遺構があることから、単純な崇仏是非論争ではなく、豪族同士の対立だったとする説もある)。 |
553年 |
| イタリア半島南部のモンス・ラクタリウスで東ローマ帝国軍と東ゴート軍が衝突。テーイアが戦死し、東ゴート王国は事実上の滅亡。 |
554年 |
(天成元年) | 西魏軍が傀儡として興した後梁の軍勢とともに江陵を攻め落とし、迎撃に出ていた元帝も捕らえられまもなく殺害。元帝を支えた王僧弁と陳霸先は北周との政策を巡って対立。 |
555年 |
(承聖元年) | 陳霸先が王僧弁を殺害し実権を握る。 |
557年 |
(永定元年) | 陳霸先が禅譲により即位し陳を興す。 |
558年 |
| 突厥の有力者室点蜜と、娘婿でサーサーン朝の王ホスロー1世が、エフタルを攻撃。ブハラの戦い。エフタル傘下の多くの都市国家が突厥に奪われる。 |
562年 |
(河清元年) | この年の4月に黄河と済水が澄んだため、北斉の武成帝がこれを瑞兆として「河清」と改元する。「河」は黄河のこと。黄河は上流から大量の黄土を運ぶため常に黄色く濁っており、水が澄むことは非常に珍しい。なお、かつての黄河はもっと北を流れていたため、現在の黄河の最下流はかつての済水の下流にあたる。 |
567年 |
| この頃、突厥の室点蜜が、エフタルを攻め滅ぼし、その領土を奪う。ただし、その後もエフタルを称する勢力があったとみられる。 |
568年 |
| 突厥の室点蜜が、東ローマ帝国に使者を送り、貿易に関する盟約を交わす。 |
574年 |
2月 7日(敏達天皇 3年 1月 1日) | 用明天皇の子として厩戸皇子(聖徳太子)が誕生。 |
575年 |
| 突厥の室点蜜が没し、玷厥(達頭可汗)が後を継ぐ。 |
576年 |
(10月) | 平陽の戦い。北周の武帝が大軍を率いて長安を出立し、北斉の晋州攻略戦を開始する。晋州の各都市を攻略し、中心都市平陽に至る。対する北斉の後主(高緯)は、事態の深刻さを理解せず、馮淑妃と狩猟を楽しむなどしたため、対応が遅れ、平陽は陥落。 |
(12月) | 平陽陥落を受けて、北斉の後主は、観戦を望む馮淑妃とともに平陽奪還のための軍を率いて出立。北周軍は撤退を開始したため、北斉軍が平陽を包囲。攻略一歩手前まで来るも、後主が馮淑妃に観戦させるための準備に時間をかけてしまい、攻略に失敗。北周の武帝が再び軍を率いて平陽に現れ、両軍は平陽郊外で激突。その様子を観戦していた馮淑妃が負けるのを恐れてしまい、後主とともに逃走してしまう。これにより北斉軍は総崩れとなり、大敗を喫する。この時、北斉の有力者の穆提婆(後主の乳母陸令萱の子)は北周軍に降伏。武帝はそのまま、北斉各地へと侵攻を継続。北斉の後主は、副都晋陽を安徳王高延宗に押し付け、帝位も長男の高恒に譲位して逃走。晋陽も陥落する。 |
577年 |
(3月) | 北周軍が北斉の都、鄴を攻め落とし、逃走していた後主ら皇族も北周軍に捕らえられ、北斉は滅亡。北斉の皇族らは北周武帝によって許され貴族とされたが、まもなく穆提婆が反乱を起こそうとした、という嫌疑で討伐され、それに連座して北斉皇族らのほとんども殺害された。北周武帝は華北を事実上統一。 |
578年 |
(2月) | 呂梁の戦い。陳の司空呉明徹は、徐州城を水攻めにするが、北周の武帝は王軌を派遣。王軌は水中に罠を仕掛けて陳の水軍を撃破し、退却した呉明徹を捕らえる。武帝は呉明徹を懐徳公に封じるが、すでに重病だった呉明徹はまもなく死去。 |
(6月) | 北周の武帝は突厥攻略のため出兵するが、まもなく病に倒れ、21日に死去。あとを宇文贇が継ぎ即位(宣帝)。しかし暴君であり、妻女にすら鞭で打つことを好み、一族や忠臣を相次いで粛清する。 |
579年 |
(4月) | 北周の宣帝は即位わずか1年弱で、帝位を息子に譲り(静帝)、自らは天元皇帝と称して、猟色にふけり、政治を皇后の父親である隋国公楊堅に一任。王朝滅亡を早める要因を作った。 |
581年 |
3月 4日 | 北周の大将軍・隋国公の楊堅が静帝より禅譲を受けて隋王朝を興す。 |
585年 |
4月 5日(敏達天皇14年 3月 1日) | 物部守屋が、疫病の流行は、異国の神(蕃神)である仏教を崇拝して、この国の神が怒っているためだとして、中臣勝海と仏教禁止の奏上を行う。 |
587年 |
8月(用明天皇 2年 7月) | 仏教崇拝を巡って対立していた蘇我馬子と物部守屋の両勢力が衝突。馬子は諸皇子や諸豪族の軍勢を引き連れ勝利する。物部守屋は戦死。丁未の乱。 |
(用明天皇 2年) | 蘇我馬子が、飛鳥寺建立を発願。 |
588年 |
(崇峻天皇 元年) | 百済から技術者の派遣を受けて飛鳥寺の建設がはじまる。飛鳥の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の邸宅を壊した跡地を寺域とした。なお当時の寺の名前は法興寺とされる。 |
589年 |
2月 2日(禎明3年/開皇9年1月12日) | 隋が陳を滅ぼして中国を統一する。 |
592年 |
12月12日(崇峻天皇5年11月 3日) | 蘇我馬子の意向を受けた東漢直駒による崇峻天皇弑逆事件が起こる。 |
593年 |
5月15日(推古天皇元年 4月10日) | 厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政に就任。 |
596年 |
(推古天皇4年) | この頃、飛鳥寺がほぼ完成したと見られる。 |
599年 |
5月26日(推古天皇7年 4月27日) | 大地震があり舎屋がことごとく破損したという。これを受け、四方に命じて地震の神を祭る。日本史上では最も古い地震被害の記録。 |
604年 |
1月11日(推古天皇11年12月 5日) | 厩戸皇子(聖徳太子)が冠位十二階制度が定める。 |
5月 6日(推古天皇12年 4月 3日) | 厩戸皇子(聖徳太子)が十七条憲法を定める。ただし成立年は諸説がある。日本書紀に初出することや、その内容の文言の使い方から、奈良時代に日本書紀などと一緒に成立したという説も。 |
610年 |
| この頃、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが、メッカのヒラー山で、ジブリール(大天使ガブリエル)の啓示を受けたとして、一族に独自の教義を広め始める。ムハンマドは以降も度々ジブリールの啓示を受けたとされる。 |
| 隋の煬帝が京杭運河を完成させる。長江の南にある杭州から北上し、長江、淮河、黄河の三大河を横断して、天津に至るまでの総延長2500kmの大運河。いくつかの小運河をつなげ、文帝のときと煬帝のときで間を置いて実質わずか数年で完成させた。その工事には男女100万人以上が駆り出されたと言われ、特に工事の大半を推進した2代皇帝煬帝の評判は落ち、反乱が相次ぐ原因となった。一方で、南北の物流が盛んになり、次の唐王朝の繁栄の基礎にもなった。 |
615年 |
| この頃、ムハンマドの教えを受けた信者らが迫害を逃れてキリスト教徒の国アクスム王国へ逃れる。 |
618年 |
6月18日(武徳元年5月20日) | 李淵が隋の恭帝楊侑から帝位を禅譲されて皇帝に即位。唐を建国。隋が滅亡する。 |
619年 |
| 王世充が隋の恭帝楊侗(恭帝楊侑の異母兄)に迫って帝位を禅譲させ皇帝に即位。鄭を建国。恭帝楊侗は翌月殺害される。 |
620年 |
| 東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシャ語に変わる。 |
621年 |
| 王世充が唐の李淵に敗れ降伏。鄭は滅び、庶民に落とされた王世充も恨みを持っていた定州刺史独孤修徳により殺害される。 |
622年 |
5月15日(推古天皇30年 2月22日) | 厩戸皇子(聖徳太子)が病没。 |
7月16日 | ヒジュラ(聖遷)。メッカで布教を行っていたムハンマドは迫害を受けたため、信者を連れてヤスリブへ移住。のちにヒジュラ暦元年とされた。ヤスリブはマディーナ・アン=ナビー(メディナ)と改称。 |
624年 |
3月17日 | バドルの戦い。メッカのクライシュ族と、メディナに移住したムハンマドが戦い、寡兵だったムハンマドが勝利。ムハンマドはメディナでの権威を確立。 |
625年 |
| ウフドの戦い。メッカのクライシュ族が、各部族らを味方につけて、ムハンマド率いるメディナに反撃。当初はメディナ側が有利に進めていたが、後退したメッカ側をメディナ側が追撃したことで陣形が乱れ、メッカに味方したアラブ騎兵に襲撃を許してしまう。ムハンマドが負傷したことでメディナ側は敗走。 |
626年 |
7月 2日(武徳9年 6月 4日) | 唐王朝で玄武門の変が起こる。唐を建国した初代皇帝李淵の長男で皇太子の李建成と、次男で天策上将の称号を持つ李世民の対立から起きた李世民側のクーデターで、李建成が宮中へ参内した際に起こされた。李建成と弟の斉王李元吉が殺された。これを受けて李淵は李世民を後継者と定め、8月に譲位する。李世民は皇帝となったあと、この一件はあくまで家中の内紛であるとして臣下を処罰することはしなかったため、李建成側についていた人々も李世民に従い、貞観の治と呼ばれる繁栄を築くことになる。 |
627年 |
| ハンダクの戦い。ウフドの戦いに勝利したメッカのクライシュ族は、メディナ攻略に乗り出す。これに対しムハンマドはメディナに塹壕(ハンダク)を築いて籠城。対陣が長期化したため、メッカ側は退却した。勢いを得たムハンマドはクライシュ族に味方したユダヤ教徒のクライザ族を殲滅。 |
628年 |
3月 | ムハンマド、メッカ巡礼を企図。メッカのクライシュ族は、条件付きでこれを認め、両者はフダイビーヤで和議を結ぶ。 |
4月15日(推古天皇36年 3月 7日) | 推古天皇崩御。 |
| この年、真臘のイシャーナヴァルマン1世が扶南国を支配下に収め、これを滅ぼす。 |
629年 |
2月 2日(舒明天皇元年 1月 4日) | 蘇我蝦夷によって田村皇子が即位。舒明天皇。 |
(貞観3年) | 玄奘三蔵法師がインドを目指し唐を密出国。高昌王麴文泰の支援を受けインドへ向かう。 |
| ムハンマド、多数の信者を連れてメッカを巡礼。フダイビーヤの和約を遵守したことから評価が上がり、メッカでもイスラムの信徒が増え始める。 |
| 東ローマ皇帝ヘラクレイオスが、皇帝の称号を「インペラトル」から「バシレウス」に改める。公用語をギリシャ語にしたことと合わせて、後世、東ローマ帝国を古代ローマ帝国と切り離して、ギリシャ帝国、中世ローマ帝国、ビザンチン帝国などと称する要因ともなった。 |
630年 |
(舒明天皇2年10月) | 舒明天皇、飛鳥岡に遷宮し岡本宮と称する。 |
| この年、メディナと同盟するフザーア部族と、メッカと同盟するバクル部族が紛争を起こし、ムハンマドはこれを機に、フダイビーヤの和約を破棄してメッカへ進軍。 |
| この頃、吐蕃王のソンツェン・ガンポ(ティン・ソンツェン)がチベット高原を統一。 |
632年 |
6月 8日 | イスラム教の開祖、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが死去。指導者にムハンマドの親友でムハンマドの妻アーイシャの父親でもあるアブー・バクル・アッ=スィッディークが選出されカリフ(ムハンマドの代理人)となる。スンナ派ではこれ以降を正統カリフ時代とする。 |
634年 |
8月23日 | イスラム教のカリフ、アブー・バクル・アッ=スィッディークが死去し、ウマル・イブン・アル=ハッターブが後を継ぐ。ムハンマドの4番目の妻ハフサの父親で、初期のイスラム共同体を支えた武将。ヒジュラ暦やシャリーア(イスラム法)を定めた人物。 |
636年 |
(舒明天皇8年6月) | 岡本宮が火災で焼失し、舒明天皇は田中宮に遷る。 |
| 正統カリフ第2代のウマル・イブン・アル=ハッターブがエルサレムを占領。人頭税(ジズヤ)を払うことを条件に、キリスト教徒とともにユダヤ教徒も保護する政策を行う。 |
641年 |
5月13日 | ウマル・イブン・アル=ハッターブの部下アムル・イブン・アル=アースがローマの属州アエギュプトゥス(エジプト)のアレキサンドリアを包囲。 |
11月 8日 | アレキサンドリア攻囲戦で、守備軍の東ローマ側指揮官キルスが降伏。 |
11月17日(舒明天皇13年10月 9日) | 舒明天皇崩御。 |
642年 |
2月19日(皇極天皇元年 1月15日) | 皇極天皇即位。 |
643年 |
4月(皇極天皇2年4月) | 板蓋宮が完成し、天皇が居を遷す。 |
12月20日(皇極天皇2年11月 1日) | 蘇我入鹿が巨勢徳多らと兵100名を派遣して山背大兄王の館を攻める。入鹿のいとこである古人大兄皇子を即位させるのに邪魔だったからとも言われる(ただし山背大兄王も入鹿のいとこであるため、皇族同士の後継者争いに蘇我入鹿が加担したという説も有力)。山背大兄王らは一旦、山中に逃れる。 |
12月30日(皇極天皇2年11月11日) | 山背大兄王が一族らとともに飛鳥寺で自害し上宮王家は滅亡。事件を知った蝦夷は入鹿の行動に怒り、自身を危うくすると嘆いたという。 |
644年 |
11月 3日 | イスラム教の2代目カリフ、ウマル・イブン・アル=ハッターブがメディナのモスクで礼拝中、クーファの長官アル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷アブー・ルウルウに襲われ、重症を負い、後継者のルールを定めた後死去。3代目カリフにムハンマドの親族で娘婿のウスマーン・イブン・アッファーンが就く。穏健派で大富豪としてイスラム共同体を支えた人物。 |
645年 |
| 玄奘三蔵法師が唐に帰国。657部の経典を唐にもたらす。密出国については不問とされた。 |
7月10日(皇極天皇4年 6月12日) | 乙巳の変が起こる。三国の調の儀式の最中、中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我入鹿が暗殺される。外交儀式のさなかにクーデターが起きるという異様な点から、三国の調の儀式は史実かどうか疑問もある。 |
7月11日(皇極天皇4年 6月13日) | 蘇我蝦夷が自邸に火を放って自害。蘇我本家が滅亡。この時、『国記』『天皇記』のうち『天皇記』が焼失したとも言われる。『国記』は船恵尺が焼ける前に拾い出したとされるが現存していない。 |
646年 |
1月22日(大化2年 1月 1日) | 乙巳の変で蘇我本宗家を滅ぼした朝廷は、より中央集権を目指した政治改革の「改新の詔」を発布する。これがいわゆる「大化の改新」。 |
| ニキウの戦い。アムル・イブン・アル=アースが東ローマ帝国の軍勢を破り、ローマの属州だったアエギュプトゥス(エジプト)は完全にイスラムの支配下に入る。 |
649年 |
5月15日(大化5年 3月25日) | 乙巳の変で、中大兄皇子側に味方した蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑をかけられ、討伐軍が派遣されたため、山田寺で妻子とともに自害。 |
650年 |
| この頃、マオリ族のウイ・テ・ランギオラが漂流して南極近くにまで到達したという伝承がある。 |
651年 |
| サーサーン朝ペルシアのヤズデギルド3世が殺害され滅亡。 |
| 第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンが唐王朝にはじめて使者を送る。 |
656年 |
6月17日 | 第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンが反乱を起こした兵士に邸宅で襲われ殺害される。一族を重用したことや、兵士の俸給を減らしたことで反発を買ったためと言われる。第4代カリフの地位をめぐり、ムハンマドのいとこで娘婿のアリー・イブン・アビー・ターリブと、3代目ウスマーンの近親者で有力武将だったウマイヤ家のムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーンが争い、アリーが選出される。 |
12月 | ラクダの戦い。イスラム共同体内部のはじめての本格的内乱。第4代カリフのアリーと、ムハンマドの妻アーイシャら反アリー派が戦い、アリー側が勝利する。 |
657年 |
6月26日 | スィッフィーンの戦いが始まる。第4代カリフのアリーと、ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーンの間で起こった戦い。 |
7月27日 | スィッフィーンでアリー軍とムアーウィヤ軍が衝突。 |
7月30日 | アリー軍優勢の中、ムアーウィヤ軍の兵士が、槍の穂先に聖典クルアーン(コーラン)を掲げたためにアリー軍内部で動揺が走る。アリーは和平派に押し切られて講和を進めたため、反発した勢力が分裂しハワーリジュ派となる。アリーの勢力は低下し、逆にムアーウィヤは勢力を拡大する。 |
658年 |
| 第4代カリフのアリーが、分裂したハワーリジュ派をナフラワーンの戦いで打ち破る。 |
660年 |
| 百済の義慈王が唐の軍勢に攻められて降伏し、百済滅亡。 |
| ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーンがカリフを自称し始める。 |
661年 |
1月27日 | イスラム教第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブがクーファのモスクでハワーリジュ派のアブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャムに暗殺される。ハワーリジュ派はムアーウィヤも狙うがこちらは失敗し、ムアーウィヤが事実上の5代目カリフとなる。ムアーウィヤは、世襲王朝ウマイヤ朝を開き、イスラム教正統カリフ時代が終了。世俗的イスラム帝国の時代へとシフトする。ウマイヤ朝に反発したアリー派は弾圧を逃れ、後にシーア派となっていく。 |
663年 |
10月 4日(天智天皇2年 8月27日) | 百済の復興のため、朝鮮半島へ派遣された倭の軍勢と百済遺臣勢力が、唐・新羅連合軍と衝突。 |
10月 5日(天智天皇2年 8月28日) | 倭軍は4度の攻勢にも関わらず大敗し、半数近くを失って退却。百済復興を図る遺民らも多くが日本列島へと逃れる。 |
668年 |
(総章元年 8月) | 唐と新羅の連合軍による攻勢によって平壌城が陥落し、高句麗が滅亡。 |
(総章元年 9月) | 唐が平壌城に安東都護府を設置する。 |
(天智天皇7年) | この年、僧の道行が草薙の剣を盗んで新羅に向かおうとするが、風雨に遭い戻ってきたという。 |
671年 |
6月10日(天智天皇14年 4月25日) | 朝廷が漏刻(水時計)を設置し、鐘鼓を鳴らしてはじめて時を知らせる。 |
673年 |
| ウマイヤ朝がコンスタンティノポリスの攻略戦に乗り出す(687年まで)。 |
676年 |
| このころ、飛鳥の都の北側に大規模な条坊制の都の建設が始まる。後の藤原京(新益京)。 |
| この年の11月ころ、新羅軍が唐の薛仁貴を破って唐勢力を朝鮮半島から駆逐し、半島を統一する。 |
679年 |
1月~2月(天武天皇7年12月) | 筑紫国で大地震。幅2丈(約6m)長さ3000丈(約10km)の地割れが生じ、上の住居ごと移動したという。豊後では五馬山が崩れて多数の温泉が出る。土塁や古墳の破損状態、噴砂痕などから、水縄断層が動いたと考えられる。 |
680年 |
10月10日 | カルバラーの戦い。ウマイヤ朝の2代目カリフであるヤズィード・イブン・ムアーウィヤ・イブン・アブー・スフヤーンが、正統カリフ4代目アリーの子でムハンマドの孫であるフサイン・イブン・アリー一行72人を反乱防止の目的で3000の兵で襲撃し殺害。アリー支持派であったシーア派がスンナ派と決定的に敵対することになった事件。 |
(天武天皇9年 7月) | 駿河国のうち2郡をもって伊豆国が設置される。 |
684年 |
10月 (天武天皇13年) | 彗星が目撃される。ハレー彗星か。 |
11月26日(天武天皇13年10月14日) | 白鳳大地震。西日本で大きな揺れがあり諸国の官舎、百姓倉屋、寺社が多数倒壊。人民と家畜の死傷多数。土佐沿岸は大津波に襲われ田苑50余万頃が海没。伊予や紀伊で温泉が止まる。東方より鳴動があったこと、伊豆島で300余丈が隆起(もしくは噴火)。南海トラフの南海大地震だが、地質調査で東海、東南海地震も同時に起きたという説も有力。 |
685年 |
4月 (天武天皇14年3月) | 信濃国で降灰があり草木が皆枯れるという。浅間山など周囲のいずれかの火山の噴火とみられる。 |
689年 |
7月21日(持統天皇3年 6月29日) | 飛鳥浄御原令が発布される。 |
694年 |
12月27日(持統天皇8年12月 6日) | 藤原京に遷都。持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京(新益京)に移る。藤原京は古代最大の都で平城京や平安京よりも規模は大きい。一方で平城京や平安京と違い、最縁部に城壁がなく、大路の幅も狭い。王宮は都の中央付近にあった。 |
697年 |
| ウマイヤ朝が北アフリカ地中海沿岸をほぼ制圧。 |
698年 |
| 大祚栄が唐(武周朝)から独立し、旧高句麗の東牟山で震国を建国。後に唐へ入朝した際に与えられた称号「渤海郡王」、さらに3代大欽茂が得た「渤海国王」から渤海国と呼ばれる(渤海という地名自体は中国の地名)。大祚栄の出自ははっきりしていないが高句麗に仕えた靺鞨人の子孫と見られる。渤海の主な民族は靺鞨人で、領域は朝鮮北部、満州、沿海州にまたがる広大な地域となる。 |
700年 |
4月 3日(文武天皇4年 3月10日) | 法相宗の僧・道昭がその遺言によって火葬される。記録上は日本初の火葬とされる。 |
701年 |
5月 8日(大宝元年 3月26日) | 大宝地震。丹波国(のちの丹後国)で大きな地震が起こり、3日にわたって揺れるという。若狭湾一帯を大津波が襲ったとみられる伝承が多数あるが詳細は不明。 |
9月 9日(大宝元年 8月 3日) | 大宝律令が完成。二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の行政機関を設立。日本の国号が制定され、元号が本格導入される。 |
705年 |
2月22日(神龍元年 1月24日) | 武則天が退位し武周朝が終わる。 |
708年 |
6月 3日(和銅元年 5月11日) | 和同開珎(銀銭)の使用が始まる。 |
709年 |
9月 9日(和銅2年 8月 2日) | 和同開珎の銀銭をやめ、銅銭のみの使用が決まる。 |
710年 |
4月13日(和銅3年 3月10日) | 藤原京から平城京に遷都。まだ未完成の状態。 |
| 吐蕃などの西方異民族に対応するため、唐王朝がはじめて河西節度使を置く。軍事権と徴税権をもった地方官で、後に各地に置かれて軍閥となり、安禄山の乱や、五代十国の騒乱時代を生むことになる。 |
711年 |
7月19日 | ウマイヤ朝のターリク・イブン・ズィヤードが、イベリア半島の西ゴート王国と戦い、国王ロデリックは戦陣で消息不明となる(戦死したという説が有力)。翌年にかけて残存貴族も処刑されるなどして西ゴート王国は滅亡。ウマイヤ朝がイベリア半島を制圧する。 |
(和銅4年10月) | 蓄銭叙位令が出される。銭の流通を促進する目的で、銭を貯めると位階を与えることを決めた法令。 |
712年 |
3月 9日(和銅5年 1月28日) | 古事記が完成し、太安萬侶によって元明天皇に献上される。 |
718年 |
| 西ゴート王国の貴族で、ウマイヤ朝の攻撃から逃れたペラーヨが、この頃、イベリア半島北部のアストゥリアスにアストゥリアス王国を建国する。一般にはこれをレコンキスタの始まりとしている。 |
720年 |
4月11日(養老4年 2月29日) | 大隅国国史の陽侯史麻呂が殺害されたという報告が太宰府から朝廷にもたらされる。朝廷は討伐を決定。いわゆる隼人の乱の始まり。 |
4月19日(養老4年 3月 4日) | 朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命。 |
7月26日(養老4年 6月17日) | 隼人征討軍は隼人の立て籠もる7城のうち5城を攻め落とすが、曽於乃石城と比売之城は攻め落とせず膠着。 |
9月 9日(養老4年 8月 3日) | 藤原不比等が死去。 |
9月18日(養老4年 8月12日) | 藤原不比等死去の報を受け、征隼人持節大将軍の大伴旅人も都へ呼び戻される。隼人征討は副将らが継続。 |
721年 |
8月 4日(養老5年 7月 7日) | 隼人征討を終えて派遣されていた副将らが都に帰還。 |
722年 |
6月13日(養老6年閏4月25日) | 百万町歩開墾計画が実施される。陸奥地方の開発計画。 |
723年 |
5月25日(養老7年 4月17日) | 三世一身法発布。灌漑施設と共に開墾すれば本人・子・孫の3代、既存の灌漑施設を利用して開墾すればその人1代に限り私有を認めるという、開墾奨励法令。 |
729年 |
3月16日(神亀6年 2月12日) | 長屋王の変。藤原四兄弟らの陰謀で、長屋王や吉備内親王らが自殺。 |
732年 |
10月10日 | トゥール・ポワティエ間の戦い。イベリア半島のウマイヤ軍がピレネー山脈を超えてフランク王国へ侵攻。迎撃に出た宮宰カール・マルテルの軍勢と衝突し、ウマイヤ軍の指揮官アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーが戦死したため、ウマイヤ軍は退却。勝利したカール・マルテルは権力を強め、息子ピピン3世の代にカロリング朝を興すことになる。 |
734年 |
5月14日(天平6年 4月 7日) | 大地震。建物多数が倒壊し、圧死者多数。朝廷、諸国に使者を出して神社の被害を調べる。畿内の地震だったのか、南海トラフのような広域地震だったのかは不明。 |
5月19日(天平6年 4月12日) | 天皇、諸国に使者を出して神社の地震被害を調べる。 |
5月24日(天平6年 4月17日) | 天皇、陵墓と功ある王墓の地震被害を調べる。詔勅を出して、政治の欠失を認め、改めるよう指示。 |
5月28日(天平6年 4月21日) | 天皇、京と畿内各所に使者を送って人民の疾苦を調べる。 |
8月15日(天平6年 7月12日) | 天皇、地震を受けて大赦を行う。 |
735年 |
| 新羅の使者が来訪し、国号を変更したことを伝えたため、朝廷は無断で国号変更をしたことを責め、使者を追い返す。 |
| 九州北部で天然痘の流行が始まり、九州全土へと拡大する。異国船から広がったとも言われる。 |
9月14日(天平7年 8月23日) | 大宰府は九州で拡大する天然痘を受けて、管内の調の免租を朝廷に申請し受理される。 |
736年 |
(天平8年 2月) | 遣新羅使を派遣。前年に続き両国関係は悪化しており、正使としての待遇を受けられず帰国の途につく。この派遣の最中に、使節一行に天然痘感染者が相次ぐ。随員の伊吉宅麻呂は、新羅へ向かう途中に壱岐で死去、正使阿倍継麻呂も翌年1月、帰国途中に対馬で死去。 |
737年 |
1月(天平9年 1月) | 遣新羅使の生存者一行が帰国し京に入る。この頃、本州各地でも天然痘が広がり始め、新羅と関連付けられるようになった。 |
5月25日(天平9年 4月17日) | 藤原房前、天然痘で死亡。藤原氏主流北家の祖。 |
8月17日(天平9年 7月13日) | 藤原麻呂、天然痘で死亡。京家の祖。 |
8月29日(天平9年 7月25日) | 藤原武智麻呂、天然痘で死亡。死の直前、正一位左大臣を贈られる。南家の祖。 |
9月 3日(天平9年 8月 5日) | 藤原宇合、天然痘で死亡。式家の祖。 |
9月(天平9年 8月) | 天然痘の大流行を受けて、朝廷は九州のみに認めていた調の免租を全国に拡大。 |
| 天然痘による死者は100万人から150万人という説もある。国内で広がった疫病では、最も犠牲者の比率が高かった疫病の一つ。また詳細に記録された最初の疫病。貴族・官人が多く死亡したため朝廷が機能しなくなり、多くの農民が死亡して農生産力が低下したため、のちの開拓私有制度(墾田永年私財法)へとつながったとされる。 |
740年 |
9月28日(天平12年 9月 3日) | 九州で大宰少弐藤原広嗣が挙兵したとの報が入り、大野東人を大将軍として征討軍の編成が命ぜられる。 |
10月 9日(天平12年 9月14日) | 板櫃川の戦いが始まる。広嗣軍は敗走。 |
11月16日(天平12年10月23日) | 藤原広嗣が逃亡潜伏していた値嘉嶋(五島列島の宇久島)で安倍黒麻呂に捕らえられる。 |
11月24日(天平12年11月 1日) | 藤原広嗣が斬首される。 |
741年 |
3月 5日(天平13年 2月14日) | 国分寺・国分尼寺建立の詔が出される。 |
743年 |
6月23日(天平15年 5月27日) | 墾田永年私財法が発布される。開墾をしたものに永年の私有を認めるという法令。 |
11月 5日(天平15年10月15日) | 聖武天皇紫香楽に大仏造営の発願を行う。 |
745年 |
2月26日(天平17年 1月21日) | 民衆への布教と様々な社会事業を行った行基が日本最初の大僧正になる。大仏建立に協力したことが評価され。 |
6月 1日(天平17年 4月27日) | 美濃国で大きな地震が起こり、三日三晩揺れるという。正倉や寺院の堂塔、民衆の盧舎が大きな被害を受ける。以降20日間にわたって地震が続く。液状化とみられる現象もあったという。 |
6月12日(天平17年 5月 8日) | 地震を受けて、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺で読経を行う。 |
747年 |
6月15日 | アブー・ムスリムがアッバース家を支持し、ホラーサーンの都市メルヴでウマイヤ朝に対して武装蜂起。いわゆるアッバース革命のはじまり。ウマイヤ朝はイスラムで初めて世襲化した王朝で、アッバース家はムハンマドの叔父の子孫に当たる。 |
749年 |
8月 | ウマイヤ朝がアッバース家を弾圧。当主イブラーヒームを処刑。 |
9月 | アブー・ムスリム軍がクーファまで進出。 |
11月 | アッバース家の生き残りであるアブー・アル=アッバースがクーファでカリフに選ばれる。 |
12月 8日(天平勝宝元年10月24日) | 大仏の鋳造が完成。 |
750年 |
1月25日 | ザーブの戦い。ウマイヤ朝のマルワーン2世がアッバース家討伐のために遠征するも、アッバース軍のアブドゥッラー・イブン・アリーに大敗。マルワーンはシリア、パレスチナを経てエジプトへと落ち延びる。 |
8月 5日 | ウマイヤ朝のマルワーン2世がエジプトでアッバース軍の兵に殺害され、ウマイヤ朝は崩壊へと進む。 |
751年 |
| フランク王国の宮宰ピピン3世がメロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開く。 |
753年 |
5月26日(天平勝宝4年 4月 9日) | 東大寺蘆舎那仏の開眼供養。 |
755年 |
12月16日(天宝14年11月 9日) | 唐の節度使の安禄山らが、唐王朝最大の反乱、安史の乱を起こす。 |
757年 |
7月18日(天平宝字元年 6月28日) | 山背王が橘奈良麻呂の反乱計画を密告。 |
7月22日(天平宝字元年 7月 2日) | 上道斐太都が小野東人の反乱計画を密告。東人は逮捕される。 |
7月23日(天平宝字元年 7月 3日) | 小野東人が拷問の末に反乱計画を自白。 |
7月24日(天平宝字元年 7月 4日) | 反乱を計画したとして、橘奈良麻呂、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足らが逮捕され、拷問などにより相次いで獄死。佐伯全成が自白後に自殺。以後、連座して443人が処罰を受ける。通称「橘奈良麻呂の乱」。 |
763年 |
6月21日(天平宝字7年 5月 6日) | 唐の律宗の大僧正で、苦難の末に日本へ渡ってきた鑑真が唐招提寺で死去。 |
769年 |
11月 7日(神護景雲3年10月 1日) | 宇佐八幡宮神託事件。宇佐八幡宮で「道鏡が皇位に就くべし」との託宣が出たと上奏があり、道鏡を寵愛する称徳天皇が確認のため、和気清麻呂を派遣するが、皇位は天皇家が継ぐべし、という託宣が下ったと報告したため、和気広虫・清麻呂姉弟が流刑になった事件。結局、天皇が詔で道鏡へ皇位を譲らないことを宣言し終息。 |
770年 |
(神護景雲4年) | 百万塔陀羅尼が印刷され、小型の塔に納めて10万基ずつ大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺・崇福寺に奉納される。藤原仲麻呂の乱で亡くなった人々を弔うために、称徳天皇が作らせた。現存する世界最古の印刷物。 |
8月28日(神護景雲4年 8月 4日) | 称徳天皇崩御。病床に道鏡が呼ばれることもなく、平癒祈祷の記録もないことから、すでに権力体制が藤原永手・藤原百川らに移っていたとも見られる。 |
9月14日(神護景雲4年 8月21日) | 道鏡に造下野薬師寺別当の命が下り、下野国へ下向。後ろ盾であった称徳天皇の崩御で左遷されたもので、弟の弓削浄人らも配流された。 |
772年 |
5月13日(宝亀3年 4月 7日) | 道鏡、左遷先の下野国で死去。早くから女帝との姦通が言われ、皇位継承にまで絡む問題を起こした割には、自身は左遷だけで終わっているため、誇張されたという説もある。 |
| ザクセン戦争勃発。 |
775年 |
| この頃、地球上に大量の宇宙線が降り注いだとみられることが屋久杉の年輪調査や南極の氷床の調査などで判明。超新星爆発説、ガンマ線バースト説、大規模な太陽フレア説などが考えられるが、原因を特定するまでには至ってない。 |
780年 |
5月 1日(宝亀11年 3月22日) | 陸奥上治郡の大領・伊治呰麻呂が陸奥牡鹿郡大領の道嶋大盾と、陸奥国按察使の紀広純を殺害し反乱を起こす(宝亀の乱)。藤原継縄が征討大使に任ぜられるも出兵しなかったため罷免され、藤原小黒麻呂が征討大使となる。 |
781年 |
1月30日(宝亀12年 1月 1日) | 伊勢斎宮に美雲の瑞祥が現れたことを受けて天応と改元。元日改元唯一の例。 |
(天応元年8月) | 伊治呰麻呂の反乱征討に出ていた持節征東大使藤原小黒麻呂が征討を終了して帰京。反乱の行方、伊治呰麻呂の消息については記録が乏しく不明。 |
782年 |
2月26日(天応2年閏1月10日) | 氷上川継の乱。天武系皇族の氷上川継の家臣大和乙人が宮中で不審を咎められ捕縛。その尋問から氷上川継が反乱を企てたとして捜査が始まる。 |
3月 2日(天応2年閏1月14日) | 氷上川継が捕縛され、連座して京家藤原浜成、皇族の三方王、陰陽師の山上船主らが処罰される。大伴家持や坂上苅田麻呂も、短期間だが官職を解かれた。 |
783年 |
| この頃までの間に万葉集が成立したと見られる。万葉集は759年までに詠まれた多数の歌の中から複数の編纂者の手を経たのち、大伴家持によってまとめられたとする説が有力。大伴家持が首謀者と疑われた藤原種継暗殺事件の影響もあり、実際に広まったのはさらに20年以上も後と見られる。 |
785年 |
11月 3日(延暦4年 9月23日) | 長岡京建設現場で指揮を採っていた造長岡宮使の藤原種継が弓で射られる。 |
11月 4日(延暦4年 9月24日) | 藤原種継が死亡。早良親王を含む十数名が逮捕される。多くが処刑される事件に発展。大伴家持が首謀者とされたが直前に没していたため、官位剥奪の処分となった。 |
11月 8日(延暦4年 9月28日) | 早良親王が抗議の絶食により、淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近で死亡。 |
| ザクセン人の領主ヴィドゥキントがカール大帝に降伏し、キリスト教に改宗する。 |
788年 |
(延暦7年 6月?) | 蝦夷征討で衣川まで来た紀古佐美率いる朝廷軍が蝦夷を攻撃するが大敗を喫する(巣伏の戦い)。 |
794年 |
7月14日(延暦13年 6月13日) | 大伴弟麻呂、坂上田村麻呂が蝦夷征討を行い大勝する。 |
11月18日(延暦13年10月22日) | 桓武天皇が、物流の拠点と、仏教勢力から距離をおくため、山背国葛野郡と愛宕郡にまたがって建設された平安京に遷都する。山背国は山城国と改められることになる。 |
797年 |
7月17日 | 東ローマ帝国イサウリア王朝の第4代皇帝コンスタンティノス6世が、母親エイレーネーのクーデターで失脚し、復位させないよう母親から目を潰される。 |
8月15日 | クーデターで失脚し母親から目を潰されたコンスタンティノス6世が、傷がもとで死亡する。 |
800年 |
4月11日(延暦19年3月14日) | 富士山が大噴火し噴煙が覆う。火山雷などが観測され、大量の噴石や降灰があり、付近の河川の水が紅くなったという。 |
(延暦19年) | 蓄銭叙位令廃止。銭の流通を促進する目的だったが、貯蓄するだけで流通する効果が必ずしも出なかったため。 |
(延暦19年) | 藤原種継暗殺事件で流刑に処され憤死した早良親王へ、崇道天皇の称号を贈る。御霊を鎮め、呪いを解くため。 |
12月25日 | カール大帝が教皇レオ3世よりローマ帝国皇帝の帝冠を受ける。 |
802年 |
2月13日(延暦21年 1月 8日) | 駿河の国司より富士山の噴火により相模国足柄路が廃止されたという報告が入る。 |
5月19日(延暦21年 4月15日) | 蝦夷の武将、阿弖流爲と母礼が降伏。 |
6月22日(延暦21年 5月19日) | 富士山の噴火により筥荷路が新たに開かれる。 |
8月11日(延暦21年 7月10日) | 阿弖流爲と母礼が京へ連行される。助命か処刑かで意見が分かれるが処刑が決定する。 |
9月13日(延暦21年 8月13日) | 阿弖流爲と母礼が処刑される。 |
803年 |
5月31日(延暦21年 5月 8日) | 富士山の噴火で塞がれていた足柄路が復旧し、筥荷路が廃止される。 |
8月 9日 | 東ローマ帝国イサウリア王朝の皇帝で、初の女帝エイレーネーが没する。 |
806年 |
4月 9日(延暦25年3月17日) | 桓武天皇崩御。 |
(延暦25年3月) | 藤原種継暗殺事件に関わったとして処罰された人に対し、生死に関わらず恩赦が下され、復位や帰京などが認められる。 |
810年 |
10月 7日(大同5年 9月 6日) | 平城上皇が平城京遷都の詔を発し薬子の変が勃発。嵯峨天皇と平城上皇の対立事件。 |
10月12日(大同5年 9月11日) | 平城上皇の寵臣、藤原仲成が、紀清成・住吉豊継の手で処刑される(正規の処刑に則っておらず、左遷の罰が下った直後のことなので、暗殺とも言える)。 |
10月13日(大同5年 9月12日) | 平城上皇が剃髪して嵯峨天皇側に降伏。藤原薬子は自殺。薬子の変が終わる。 |
813年 |
4月 3日(弘仁4年 2月29日) | 肥前の五島・小近島(小値賀島)に、5隻の船に乗った新羅人110人が現れ、島民9人を殺害し、101人を捕虜とする。 |
819年 |
5月30日(弘仁10年 5月 3日) | 空海が天野社の地主神を高野山に勧請する。 |
821年 |
(長慶元年) | 唐王朝で、科挙を巡る不正をきっかけにして、権力闘争である「牛李の党争」が勃発。以後、20年にわたって、牛僧孺・李宗閔を中心とする牛党と、李徳裕を中心とする李党が頻繁に権力交代を繰り返し、国政を乱す。唐王朝滅亡の遠因となった。 |
835年 |
4月22日(承和2年 3月21日) | 弘法大師空海没。 |
(大和9年11月) | 甘露の変。唐の文宗に抜擢されていた李訓と鄭注が、権力を持つ宦官勢力を滅ぼそうと計画を立てるが、鄭注が節度使として鳳翔から兵を率いて宮中に乗り込む前に、功績独占を狙った李訓が「宮中に甘露が降った」ことを理由に宦官を集めて殺害しようと企てこれが露見。宦官の圧力を受けた文宗によって処刑される事件が起きる。鄭注も鳳翔で殺害された。李訓と鄭注は、牛李両党からは中立であったために抜擢されていた。これ以降、宦官の権力がさらに増大することに。 |
841年 |
6月25日 | フォントノワの戦い。フランク王国の王位と領土をめぐって、ロタール1世、ルードヴィヒ2世、シャルル2世の兄弟が争う。 |
843年 |
8月10日 | ロタール1世、ルードヴィヒ2世、シャルル2世は、ヴェルダン条約を締結し、フランク王国は3つに分裂する。 |
845年 |
(会昌5年4月) | 唐の宰相李徳裕と、皇帝武宗の師事する道士趙帰真が、かねてより進言していた廃仏政策を武宗のもとで実行に移す。4600の寺院が廃止され、26万人の僧が還俗させられる。いわゆる会昌の廃仏。唐に留学していた日本の僧侶らも影響を受けた。 |
846年 |
(文聖王8年) | 新羅の有力者で唐や日本との交易で勢力を築いた張保皐が反乱を起こし、閻長によって暗殺される。年代は異説あり。 |
852年 |
12月 5日(大中6年10月21日) | 朱全忠、唐の宋州に生まれる。 |
| アルメン・フィルマンという研究者がコルドバでパラシュート降下実験を行う。現在のものとは異なり、骨組みのついた大きな傘のようなものを使用。 |
861年 |
5月19日(貞観3年 4月 7日) | 直方隕石が落下する。燃え残った隕石を人々は神社に奉納する。 |
864年 |
7月 2日(貞観6年 5月25日) | 駿河国から報告があり、富士山が大噴火を起こすと伝える。溶岩が大量に流出し、本栖湖と剗の海に流れ込み、剗の海を埋めて、2つの小さい湖(西湖・精進湖)に分かれる。この溶岩の広がった跡が後の青木ヶ原樹海。大地震が3回発生。 |
866年 |
4月28日(貞観8年閏3月10日) | 応天門の変。平安京大内裏の応天門が炎上する事件があり、伴善男は、対立関係にあった左大臣源信を放火犯として、右大臣の藤原良相に訴える。藤原良相が、兵を源信の邸宅に差し向ける。良相の兄で太政大臣の藤原良房は、養子の参議藤原基経よりこの話を聞いて驚き、清和天皇も知らなかったことから、勅により兵は引き上げさせる。 |
9月15日(貞観8年 8月 3日) | 備中権史生の大宅鷹取が、応天門が炎上する直前に、伴善男、伴中庸、紀豊城の3人を見た、と訴える。清和天皇は勅を出して伴善男、伴中庸、紀豊城、生江恒山、伴清縄らを捕えて尋問にかけさせる。その結果、伴中庸と伴善男が「自白した」として、関係者が流罪に処せられる。また、藤原良相も失脚して間もなく病死、疑われた源信も隠棲したあと落馬がもとで死亡し、藤原良房が実権を握ることとなった。 |
869年 |
7月 9日(貞観11年 5月26日) | 貞観地震。東北の沖合を震源とするマグニチュード8.3~8.6の巨大地震が発生。建造物の倒壊、大津波で千人以上が死亡。 |
870年 |
| バイキングのインゴールヴル・アルナルソンらがアイスランドに移住。 |
874年 |
(乾符元年) | 塩の密売業者である王仙芝が長垣で挙兵。仲間の黄巣も参加し、大規模な反乱へと発展する。いわゆる黄巣の乱。 |
875年 |
| 後ウマイヤ朝の宮廷詩人で発明家でもあったイブン・フィルナースが、オーニソプター(羽ばたき式飛行機)を自作し、コルドバの花嫁の山(ジャバル・アル・アルース)で飛行実験を試み墜落、大怪我を負う。記録上人類最初の「飛行装置による飛行実験」ともいわれる。 |
| 平安朝の文人貴族である都良香が、「富士山記」を著す。山頂の様子などが詳しいため、本人か取材した人が富士登山をした可能性もある。 |
880年 |
12月(金統元年) | 黄巣の反乱軍が長安を攻め落とす。唐の皇帝僖宗は蜀へと逃れる。黄巣は皇帝と称し、国号を斉として建国。しかし虐殺や略奪などの非道が横行し、斉は国家としての体をなさず。 |
884年 |
5月(金統5年) | 王満渡の戦いで、黄巣軍は雁門節度使の李克用に大敗を喫し、斉はほぼ瓦解。 |
7月13日(金統5年 6月17日) | 黄巣は故郷へと落ち延び、狼虎谷で自害。 |
887年 |
12月 9日(仁和3年11月21日) | 阿衡事件。藤原基経の関白任命をめぐって、その詔勅の関白を指す「阿衡」の文字が「中身のない役職を意味している」として基経が問題にし、職務を半年にわたって放棄する。基経は歴史上はじめて、関白という名前の役職についた人物で、就任の年月日には異説もある。 |
892年 |
| 唐の盧州刺史楊行密が揚州一帯を手中に収め、淮南節度使となる。十国の一つ、呉の事実上の建国。 |
894年 |
(寛平6年) | 前年からこの年にかけて、対馬にたびたび新羅の軍勢が攻め寄せる。対馬守文屋善友がこれを撃退。 |
896年 |
| 杭州の軍閥杭州八都を率いる杭州刺史銭鏐が鎮海・鎮東両軍節度使となる。十国の一つ呉越の事実上の建国。 |
| 福州の有力者王潮が威武軍節度使となる。十国の一つ閩王朝の祖。 |
| 潭州の有力者馬殷が湖南節度使となる。十国の一つ楚の事実上の建国。 |
897年 |
1月 | ローマのラテラン教会で「死体裁判」が行われる。亡くなって間もない先々代の教皇フォルモススの生前の行為を罰するという政治的目的のため、教皇ステファヌス7世がフォルモススの遺体を墓から掘り起こし、教皇服を着せ、「教皇に就いた罪」を問い、有罪を宣告して、教皇位の剥奪、教皇時代の叙階をすべて無効とする判決を行った。フォルモススの遺体は平服を着せられ、平民の墓地に埋葬されたが、後に再度掘り起こされてテヴェレ川に捨てられたという。背景には、フォルモススがかつて一度破門されていること、ローマ教会に影響力のあったローマ皇帝グイード3世と東フランク王アルヌルフの介入がある(フォルモススは先にグイードの子ランベルトを、次にアルヌルフを西ローマ皇帝にしたため、ランベルトが反発していた)。なお、この裁判は民衆の反感を買い、教皇ステファヌス7世は暴動で殺害され、フォルモススの名誉回復がなされた。 |
| 威武軍節度使王潮が死去し、弟の王審知が後を継ぐ。閩の初代王。 |
899年 |
10月26日 | イングランドの原型を築いたウェセックスのアルフレッド大王が死去。 |
| 新羅の王族を称する弓裔が高句麗復興を唱えて挙兵。 |
900年 |
| 新羅の将軍甄萱が後百済(国号は百済)を建国。 |
901年 |
2月16日(延喜元年 1月25日) | 昌泰の変で菅原道真が大宰府へ左遷される。 |
| 弓裔が後高句麗を建国。最盛期には朝鮮半島の大部分を支配するに至る。 |
904年 |
| 封州刺史劉隠が、静海軍節度使の反乱を鎮圧して自ら静海軍節度使と名乗り、事実上独立。十国の一つ南漢の前身。 |
905年 |
5月21日(延喜5年 4月15日) | 古今和歌集成立(真名序による)。仮名序では旧暦4月18日(ユリウス暦5月24日)。 |
907年 |
2月27日 | 耶律阿保機が、可汗に即位。のちの契丹(遼)王朝の前身。 |
6月 1日(開平元年 4月18日) | 朱全忠が唐の哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。梁(後梁)を建国。五代十国のはじまり。 |
911年 |
4月 4日(乾化元年 3月 3日) | 後梁の南海王劉隠が死去。弟の劉龑が後を継ぐ。 |
912年 |
7月18日(乾化2年 6月 2日) | 後梁の太祖朱全忠が、後継者問題で第3子の朱友珪に殺害される。 |
| 後梁の荊南節度使高季興が、荊州など3州をもって事実上独立。十国の一つ荊南。 |
915年 |
(延喜15年) | 十和田湖が大噴火。 |
916年 |
3月17日 | 耶律阿保機が「契丹」を国号に定める。 |
917年 |
| 南海王劉龑が皇帝を称し国号を大越とする。 |
918年 |
| 大越高祖劉龑が国号を漢(南漢)と改める。 |
| 後高句麗の王弓裔が暴虐の振る舞いが増えたため、洪儒、裴玄慶、申崇謙、朴智謙らが実力者の王建を擁立、弓裔は追放されのち殺害される。王建は国号を高麗(高句麗の自称)と定める。 |
923年 |
| 李存勗は皇帝を名乗って後唐を建国。 |
926年 |
| 後唐の李存勗の悪政により反乱が多発。その鎮圧を任された李嗣源が、部下によって皇帝に推戴される。追い詰められた李存勗は、部下の手で殺害され、李嗣源が後唐の2代皇帝となる。 |
| 契丹の皇帝耶律阿保機率いる軍勢が渤海の都である上京龍泉府を攻め落とし、渤海は滅亡。耶律阿保機は渤海の領地のうち、沿岸部を分離してあらたに東丹国を興して長男の耶律突欲を東丹王とし、残りを契丹国に編入する。この直後、耶律阿保機は遠征先で急死。耶律突欲は耶律阿保機の遺体とともに帰国。 |
927年 |
| 耶律阿保機の次男耶律堯骨が、契丹の皇帝位を継承。耶律阿保機の長男で東丹国王となったばかりの耶律突欲との間で対立を生むことになる。 |
929年 |
| 東丹国の使者として、かつて渤海国使として来日したこともある裴璆が丹後に到着。しかし国号が変更になった理由を問われて、渤海が契丹に滅ぼされたこと、新しい支配者の非道を訴えたことが不興を買い、入京を認められなかった。 |
930年 |
| アイスランド全島から各集落の代表者が集まり、アルシング(民主議会)が開かれる。 |
7月24日(延長8年 6月26日) | 朝議の日に清涼殿に落雷。大納言民部卿藤原清貫、右中弁内蔵頭平希世、右兵衛佐美努忠包らが死亡し、菅原道真の呪いという噂が立つ。 |
10月16日(延長8年 9月22日) | 清涼殿落雷事件で、ショックを受けて病になった醍醐天皇が皇太子寛明親王に譲位。 |
10月23日(延長8年 9月29日) | 醍醐天皇が亡くなる。 |
| 東丹王耶律突欲が、弟で契丹皇帝の耶律堯骨の圧力を受け、後唐の2代皇帝李亶の誘いに応じて亡命する。東丹国は消滅したとされるが、制度は維持され、徐々に契丹に併合されていったものと見られる。なお突欲の長男の耶律兀欲は耶律堯骨のもとに残って将軍として活躍、耶律堯骨の死後、武力で権力を奪い契丹の第3代皇帝となった。 |
933年 |
| 王建が後唐に朝貢し、高麗王に封ぜられる。 |
934年 |
1月28日(承平4年12月21日) | 土佐の国司だった紀貫之が帰京のため土佐を出発。この旅の紀行文が『土佐日記』にまとめられる。日本最初の仮名で書かれた本。 |
| アイスランドのラキ火山(ラーカギーガル山)が巨大噴火。 |
935年 |
11月 | 新羅の敬順王が、後百済の圧力などで領土を大きく縮小したこともあり、高麗に降伏して、新羅は滅亡する。 |
936年 |
| 後百済が初代甄萱と二代神剣の内紛で高麗につけこまれ滅亡する。高麗が朝鮮半島の大部分を支配下に収める。 |
937年 |
| 李嗣源の娘婿だった石敬瑭が、反乱を起こし、契丹の耶律堯骨の支援で皇帝を称し、後晋を建国。 |
1月11日(清泰3年閏11月26日) | 石敬瑭が、後唐の都洛陽を包囲。後唐4代皇帝李従珂(末帝)は自殺し滅亡。 |
| 十国呉の第4代王楊溥(睿帝)が徐知誥に禅譲して滅亡。徐知誥(李昪)は斉(南唐)を建国。 |
12月18日(承平7年11月13日) | 富士山が噴火し、溶岩が流れ出て御舟湖を埋めたとされる。 |
940年 |
3月25日(天慶3年 2月14日) | 新皇と称し、関東平野を支配した平将門が、藤原秀郷ら討伐軍との戦闘で戦死する。 |
| 閩の景宗王曦と弟の建州節度使王延政との間で内戦が勃発。 |
941年 |
7月21日(天慶4年 6月20日) | 瀬戸内地方で海賊団を率い、天慶の乱を起こした藤原純友が死去。 |
| 呉越の都杭州で大火が起こり、大きな被害を出す。国王の銭元瓘も死去。敵国だった南唐の李昪は、このときだけは支援したと言う。 |
943年 |
| 閩の王延政が建州において皇帝を自称し、国号を殷とする。 |
944年 |
| 閩の朱文進が反乱を起こし、景宗王延羲を殺害して閩主を名乗る。後晋に臣従して威武節度使、つづけて閩王に封ぜられる。 |
945年 |
| 殷帝を称していた王延政が閩に侵攻。朱文進は林仁翰に殺害され、王延政が第7代閩王となる。しかしこの混乱に乗じて南唐が侵攻してくると降伏。閩は滅亡。 |
946年 |
| 朝鮮半島北部の白頭山(長白山)が大噴火を起こす。東北から北海道にかけて大量の降灰がある。 |
947年 |
1月11日(会同10年 1月1日) | 契丹の太宗(耶律堯骨)による親征で、後晋の都開封は陥落。2代皇帝の石重貴(少帝)は契丹に拉致され後晋は滅亡。太宗は開封に入城し、国号を「大遼」と改称、年号を大同とする。 |
2月 | 後晋の河東節度使で、突厥沙陀族の劉知遠が、皇帝を称して即位。後漢(こうかん)を建国。 |
6月 | 劉知遠、遼の軍勢が引き上げたのを受けて開封へ入城。節度使の地位を安堵する。 |
948年 |
1月 | 後漢高祖劉知遠が死去。劉承祐(隠帝)が2代目皇帝となる。 |
950年 |
4月 | 後漢の有力軍閥、郭威が天雄軍節度使に任ぜられ、対遼政策のため鄴都へ赴任。この間に隠帝側近らが有力武臣らの粛清を開始。 |
4月 | 郭威が粛清に対抗するため、反乱を起こし、軍を率いて南下、開封へ向かう。 |
951年 |
1月 | 郭威は軍を率いて開封へ入城。その混乱のさなか、隠帝も殺害される。郭威は劉知遠の甥の劉贇(徐州武寧軍節度使)を擁立。 |
2月13日 | 郭威、遼に備えて移った澶州で部下から皇帝に推戴され、自ら帝位に就き後周を建国する。劉贇は殺害され、それを知ったその父の劉崇(河東節度使)は、晋陽で自立し、北漢を建国。 |
| 楚の第6代王馬希崇が、内紛により南唐の支援を求め、南唐は潭州に攻め込み、楚は滅亡。 |
957年 |
| 後周の軍勢が南唐の淮河から長江にかけての一帯をほぼ制圧。南唐は後周に臣従することになり、国号を江南と改め、皇帝の称号も廃する。 |
960年 |
| 陳橋の変。後周の陳橋で、後周軍の有力者だった殿前都点検の趙匡胤が、弟の趙匡義ら部下に推されクーデターを起こす。この後、都の開封に戻り、3代恭帝から禅譲を受け、帝位につき、宋王朝(北宋)を興す。 |
962年 |
2月 2日 | 東フランク王オットー1世が、教皇ヨハネス12世から皇帝の冠を授けられる。神聖ローマ帝国の誕生とされる。 |
963年 |
| 荊南の王高継仲が宋王朝に降伏し荊南は滅亡。 |
964年 |
| ブワイフ朝の天文学者アブドゥル・ラフマーン・スーフィーが、アンドロメダ銀河を観測。 |
969年 |
4月14日(安和2年 3月25日) | 安和の変。左大臣の源高明が失脚し、藤原北家が権力を継続させるきっかけとなる。 |
971年 |
| 北宋が南漢に攻め込み、第4代皇帝劉鋹は逃走を図るも失敗して捕らえられ、南漢は滅亡。 |
975年 |
| 北宋軍が江南(南唐)の都金陵を包囲。第3代王李煜は降伏し、江南(南唐)は滅亡。 |
976年 |
11月14日(開宝9年10月20日) | 宋の太祖、趙匡胤が急死。死の際にそばにいたと言われる弟の趙匡義が2代皇帝(太宗)となる。同時代から趙匡義が趙匡胤を殺害したのではないかという疑惑「千載不決の議」が取り沙汰された。 |
978年 |
(太平興国2年) | 中国南部で最後まで残っていた呉越の王銭弘俶が家臣とともに自国を宋王朝に献上。銭弘俶は淮海国王に封ぜられる。呉越国は消滅。 |
979年 |
| 北宋の太宗の親征により、十国最後の国家、北漢は滅亡。最後の皇帝である英武帝劉継元は宋より彭城公に封ぜられる。十国時代は終わり、再統一される。 |
982年 |
| 赤毛のエイリークがグリーンランドを発見して命名。グリーンランドという名前の由来ははっきりしないが、入植を進めるため、あるいは当時温暖化の時代だったため、沿岸部は緑に覆われていたと言った説がある。 |
985年 |
| この頃から、赤毛のエイリークら、ヴァイキングによってグリーンランドに入植が始まる。現在の自治政府首都ヌーク付近にも入植。ただしこの入植地は16世紀までにすべて滅んでいる。 |
986年 |
4月14日(寛和2年 8月 1日) | 花山天皇が出家し一条天皇が即位する。寛和の変。右大臣藤原兼家が起こした政変で、関白藤原頼忠も事実上失脚した。兼家は大臣職を辞して摂政となったため、以後の先例となった。 |
995年 |
6月 2日(長徳元年 5月 2日) | 『蜻蛉日記』の著者、藤原道綱母死去。 |
995年 |
(長徳元年) | この年、日本各地で疫病が流行し、有力貴族らも多数死亡。中関白家が衰退し、藤原道長が台頭するきっかけとなった。麻疹とも疱瘡とも言われる。 |
997年 |
(長徳3年) | この年、九州各地の沿岸を「高麗の賊」が襲来。長徳の入寇、南蛮の入寇などともいう。朝鮮半島からの他に奄美島人が加わっていたという記録もある。 |
1000年 |
12月25日 | イシュトヴァーン1世が戴冠し、アールパード朝ハンガリー王国を建国。1001年1月1日という説もある。 |
| 997年からこの頃にかけて、アイスランド出身のバイキング、レイフ・エリクソンが船団を率いて北アメリカに到達する。発見した土地を「ヘルランド(平らな石の地)」「マルクランド(森の地)」「ヴィンランド(葡萄の地あるいは草の地)」と名付ける。最初に上陸した土地はバフィン島かラブラドール半島と言われ、ヴィンランドと名付けられた土地は、バイキングの遺跡が見つかったランス・オ・メドーのあるニューファンドランド島と考えられているが、その呼称の意味から、もっと南のどこか温暖な土地ではないかという説もある。 |
1004年 |
| 遼の聖宗による南進を受けて、北宋と遼の間で交渉が行われ、宋から毎年絹20万匹・銀10万両を送ることで和睦が成立。澶淵の盟が結ばれる。 |
1006年 |
5月 1日(寛弘3年 4月 2日) | 超新星SN1006が観測される。明月記や宋史に記述がみられる。おおかみ座の7,200光年の距離にある星。 |
| この頃、アイスランドのバイキングが入植した現在のニューファンドランド島ランス・オ・メドー付近で、入植者と先住民「スクレリング」との間で戦闘があったとされる。先住民との対立が原因で、この付近の入植地は短期間で放棄されたと考えられる。 |
1008年 |
12月 1日(寛弘5年11月 1日) | この日の紫式部日記にはじめて源氏物語の内容について記載が出てくる。少なくともこの年までには源氏物語が書き始められていたということになる。 |
1010年 |
| この頃、バイキングのソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソンが、60~250人の人々を率いて、北米のヴィンランドへの移住計画を実施したという伝説がある(1009年とも言われる)。ソルザルソンの息子スノッリ・ソルフィンソンは、この頃ヴィンランドで生まれたと言われ、北米大陸で最初に生まれた白人とも言われる。エリクソンの発見からここまでに5回のヴィンランド遠征があった。ヴィンランド入植地はその後、原住民との争いや気候変動で短期間で失われたが、北米交易はしばらく続いたという説もある。 |
| 11世紀の初頭に、イングランドのベネディクト会の修道士であったマルムズベリーのエイルマーが、両手両足に人工の翼を付けて、マルムズベリー修道院の塔から飛び降りる飛行実験を行う。一説には200mほど飛んで(滑空して?)路地に墜落し、エイルマーは重症を負って障害者となったが、それでも飛行実験に意欲を示したといわれる。 |
1019年 |
5月 4日(寛仁2年 3月27日) | 刀伊の入寇。朝鮮半島から賊船50隻3000人ほどが対馬を襲撃。殺戮放火略奪を行う。そのまま壱岐を襲い島分寺を焼き住民を連行、さらに筑前に上陸。太宰権帥であった藤原隆家や、松浦の源知らに率いられた武士団によって撃退される。住民365人が殺害され、1289人が連れ去られた。高麗人の捕虜が複数いたため、高麗の襲撃と考えられたが、対馬判官の長嶺諸近が家族を探して高麗へ行き得た情報と、高麗から救出された住民270人が送り返されたことから、「刀伊(とい)」と呼ばれる集団であったと判明。女真族の一派ではないかと見られている。 |
1024年 |
6月24日 | イタリアの修道士グイード・ダレッツォによって音階を表す「階名唱法」が誕生する。いわゆるドレミファソラシの原型。 |
1028年 |
1月 3日(万寿4年12月 4日) | 藤原五摂家の祖である藤原道長が死去。当時の記録から、糖尿病、癌、ハンセン病などが死因の候補として考えられる。 |
| この年、上総・下総・常陸に勢力を持つ有力豪族の平忠常が安房守平維忠を殺害して反乱を起こす。 |
1031年 |
(万寿4年 6月) | 平忠常の乱が、追討使となった源頼信に忠常が降伏したことにより終結。中央の権力争いや追討使の人選ミスで事態が悪化し長期化していた。この結果、源頼信の力が増し、関東に源氏勢力が地盤を築くきっかけとなった。 |
1034年 |
(景祐元年) | 黄河が大氾濫を起こす。以降、しばしば氾濫を繰り返すようになり、河道も細かく変遷するようになる。 |
1038年 |
8月15日 | ハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世が亡くなる。 |
10月11日 | 宋の夏国公李元昊が皇帝を称し、国号を大夏と定め西夏を建国。 |
1043年 |
4月 3日 | エドワード懺悔王がイングランド王に即位。 |
1054年 |
6月16日 | ローマ教皇の使者としてコンスタンディヌーポリを訪れていたフンベルト枢機卿が、総主教ミハイル1世らへの破門状を渡し、ミハイル1世もローマ側を破門。東西教会の分裂。 |
7月 4日(天喜2年 5月26日) | SN1054と呼ばれる超新星が出現。23日間にわたって昼間でも見える。おうし座の7,000光年の距離にある星で、現在はその残骸が「かに星雲」となっている。藤原定家の『明月記』や中国の『宋史』に詳しく、『一代要記』『天文志』などにも記述がある。史上最も有名な超新星の一つ。 |
1056年 |
4月 5日(天喜4年 3月18日) | 超新星が消える。653日間、夜空に輝いていた。最大で金星くらいの明るさがあったとされている。 |
1066年 |
10月14日 | ヘイスティングスの戦い。ノルマンディー公ギヨーム2世と、イングランド王ハロルド2世が、ヘイスティングス郊外のバトルで戦い、ハロルド2世は敗死。 |
12月25日 | ノルマンディー公ギヨーム2世が、ウェストミンスター寺院で戴冠し、ウィリアム1世としてノルマン朝を開く。いわゆる「ノルマン・コンクエスト」。 |
1077年 |
1月25日 | カノッサの屈辱。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、破門を解いてもらうため、ローマ教皇グレゴリウス7世の滞在するカノッサ城門で3日間立ち尽くした出来事。ただし皇帝は、破門解除後に教皇を軍事力で追い払っている。 |
| ハンガリー国王にラースロー1世が即位。国内の混乱を収め、勢力を拡大。 |
1084年 |
| 北宋の歴史家司馬光によって『資治通鑑』が完成する。紀伝体が一般的な中国で、編年体で書かれた歴史書の代表作。全294巻。 |
1085年 |
| イングランドで最初の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」が作られる。 |
1087年 |
12月11日(寛治元年11月14日) | 出羽清原氏の内紛から始まった後三年の役が終結。陸奥安倍氏の血を引き、出羽清原氏に育てられた藤原清衡が、奥州藤原氏の基礎を築く。 |
1088年 |
| イタリアのボローニャ大学が創立されたとされる年。実際にはそれ以前から教育機関が存在していたとみられる。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つで、近代大学最古のひとつ。 |
1095年 |
| ローマ教皇ウルバヌス2世によって聖地エルサレムの回復のために十字軍派遣が決まる。第1回十字軍。 |
1096年 |
8月 | 第1回十字軍の本隊が出発。 |
10月21日 | 民衆十字軍壊滅。十字軍に合わせて編成された民衆や騎士らの十字軍が、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世の軍勢に襲われ壊滅する。 |
1097年 |
5月14日 | 東ローマ帝国と十字軍がルーム・セルジュークの首都ニカイアを包囲。 |
6月19日 | 東ローマ帝国がニカイア側と降伏交渉を行い、ニカイアは降伏するも、十字軍は排除されたため、帝国と十字軍は対立。 |
6月26日 | 十字軍はニカイアを出発。 |
7月 1日 | 十字軍が、襲ってきたセルジューク軍とダニシュメンド朝の軍勢を破る。 |
10月20日 | 十字軍が、アンティオキアを包囲。 |
1098年 |
6月14日 | アンティオキアを攻略中に、ペトルス・バルトロメオによってキリストを貫いた「ロンギヌスの槍」が「発見」される。 |
6月28日 | 十字軍がアンティオキアを陥落。 |
1099年 |
2月16日(承徳3年1月24日) | 康和地震。興福寺や天王寺で建物の倒壊などの被害が発生。まもなく康和に改元。 |
4月 8日 | 幻視に従い「ロンギヌスの槍」を「発見」したペトルス・バルトロメオの主張が正しいかどうかを確かめるための神明裁判が行われる。炎の中を通り抜けようとしたペトルスは大やけどを負う。 |
4月20日 | ペトルス・バルトロメオが大やけどがもとで死亡する。彼が「発見」した「ロンギヌスの槍」も偽物とみなされ、その後行方不明に。なお、これより前に「発見」されたロンギヌスの槍は、東ローマ帝国首都コンスタンティノープルのアヤ・ソフィア大聖堂に保管されていた。 |
6月 7日 | 十字軍がエルサレムを包囲。 |
7月15日 | 十字軍がエルサレムを陥落し、一応の目的が達せられる。 |
1101年 |
(康和3年) | 大宰大弐大江匡房から対馬守源義親の乱暴狼藉の訴えがある。 |
1102年 |
(康和4年) | 朝廷は、源義親を隠岐流罪の処分と決定するが、義親は隠岐へは行かなかったのか、出雲で騒動を引き起こす。 |
| この年、ロンドンの郊外にある平原スミス・フィールドに、イングランド王ヘンリー1世の道化師レヒアが、聖バーソロミュー修道院を建設。周辺に市が立ち、劇場・見世物市・家畜市場として賑わうようになる。のちには処刑場としても知られるようになった。 |
1105年 |
3月 3日(長治2年 2月15日) | 藤原清衡が平泉に最初院多宝寺(中尊寺)を建立。 |
1108年 |
2月 2日(嘉承2年12月19日) | 平正盛が、出雲で勢力を広げる源義親討伐を命ぜられる。 |
3月 3日(天仁元年 1月19日) | 平正盛が源義親討伐を終える。 |
3月13日(天仁元年 1月29日) | 平正盛が源義親の首級を掲げて京に凱旋。見物人で大騒ぎとなる。白河法皇の評価も高く、後の平清盛につながる伊勢平氏台頭のきっかけとなった。なお、源義親を名乗る人物がその後、次々と現れて、大きな騒動に発展するため、この討伐で殺されたのは別人ではないかという説も当時からあった。 |
8月29日(天仁元年 7月21日) | 浅間山が大噴火。大量の降灰により上野国に甚大な被害をもたらす。 |
1112年 |
11月11日(天永3年10月20日) | この日以降何度か、京の都で東方から大きな音が響きわたり人々が不安におののく。東から上洛した人が、富士山の噴火を伝えるが駿河国司からの報告はなかった模様。 |
12月14日(天永3年11月24日) | 伊豆国司より使者が京に到着し、伊豆の東方沖合で火が見え大きな音がしたと報告。伊豆諸島で噴火があったと見て、27日に朝廷で吉凶を占う神事を行う。 |
1115年 |
1月28日(収国元年 1月 1日) | 女真族完顔部の族長阿骨打が、遼からの自立を図って皇帝を名乗り、大金国を建国。収国と建元。上京路に会寧州を置いて都と定める。 |
1120年 |
(宣和2年) | 北宋は、金王朝の台頭を見て、遼を挟撃するための「海上の盟」を金との間で結ぶ。しかし宋は南方で起こった方臘の乱鎮圧のため、対遼作戦が遅れることに。 |
11月25日 | ホワイトシップの遭難事件。ノルマン朝のヘンリー1世の嫡男ウィリアムや、王族らが乗ったホワイトシップ号がノルマンディー沖で遭難。ウィリアムの代わりにマティルダが王位を受け継ぐも内戦となる。 |
1121年 |
3月 7日 | 遼の天祚帝と、金の阿骨打が入来山で戦い、遼が大敗。天祚帝は燕京から逃走。 |
3月13日 | 天祚帝が敗走したことを受けて、遼の皇族の耶律大石と李処温らが、天祚帝を湘陰王に格下げし、その従父の耶律涅里(劉淳・天錫帝)を強いて擁立。北遼王朝。 |
6月 | 天錫帝が死去。耶律大石らは、耶律定を擁立。天錫帝の蕭徳妃が摂政となる。 |
1123年 |
2月 (保大3年・徳興2年) | 阿骨打、燕京を攻め、耶律大石らは耶律定・蕭徳妃らと天祚帝のもとへ逃走。天祚帝によって、耶律定は王位に格下げされ、蕭徳妃は処刑される。 |
5月 8日(神暦元年) | 蕭徳烈らが耶律雅里を北遼の皇帝として擁立。 |
9月19日(天輔7年8月28日) | 阿骨打、遼の天祚帝を追撃中に部堵濼で病死。同母弟の呉乞買が後を継ぎ、第2代皇帝となる。 |
10月 (神暦元年) | 耶律雅里は病没。そのため、耶律朮烈(英宗)が擁立される。 |
11月 (神暦元年) | 金軍が燕京を包囲し、英宗は家臣たちに弑されて北遼は滅亡。 |
1124年 |
| 呉乞買、遼を攻め、耶律大石は西方へ逃走。北庭都護府可敦城で自立。 |
1125年 |
(天会3年) | 呉乞買、北宋との盟約に基づき遼を攻め、遼の天祚帝は捕らえられて、遼は滅亡。 |
1127年 |
1月 9日(天会5年・靖康元年11月 5日) | 靖康の変。金の2代皇帝呉乞買の軍勢によって宋(北宋)の都開封が陥落し、皇帝欽宗と太上皇徽宗、多くの皇族や官僚、および皇族女性らが尽く金に連行され滅亡する。 |
6月12日(建炎元年) | 靖康の変を逃れた欽宗の弟の康王趙溝が江南に南宋王朝を興す。 |
1128年 |
(建炎2年) | 南宋の杜充が金軍の南下を阻止するため、黄河を決壊させる。このため南側で大氾濫し、水は淮河と合流。黄河の水の大部分は黄海へと流れ込むようになる。現在の位置に戻るのは700年後の1855年。 |
1129年 |
1月 (大治4年 1月) | 平清盛が、12歳で従五位下・左兵衛佐となる。 |
1130年 |
(天会8年) | 金、独立した耶律大石に対し、同族の耶律余賭を派遣して攻撃。しかし耶律大石は激戦を避けて西へ退却。ビシュバリクの天山ウイグル王国ビルゲ可汗のもとへ至る。ビルゲ可汗、耶律大石と対立するものちに従属。 |
1131年 |
| 秦檜が南宋王朝の宰相となる。金と手を組んで和平政策を推し進める。 |
1132年 |
(天承2年) | 平忠盛が、鳥羽上皇勅願の得長寿院造営を担当し、千体観音を寄進したことで、内昇殿を許される。武士としては当時かなり異例な破格の待遇で、反感を持った公家たちから命を狙われる。 |
5月 6日(天承2年(長承元年) 4月19日) | 末代と頼然が富士山頂に登る。頂上で金時上人・覧薩上人・日代上人らの遺品を発見したという。 |
| 耶律大石が西遼(カラ・キタイ)を建国。ベラサグンをグズオルドとあらため、都に定める。 |
(天会10年) | 耶律余賭・蕭高六・蕭特謀らが金の太宗暗殺の計画を立てるも露見。蕭高六は捕らえられ処刑、蕭特謀は自殺、耶律余賭は西遼を建国した耶律大石のもとへ逃走を図るが、中途にある西夏の崇宗(李乾順)が出兵したため、モンゴルへ向かうも捕らえられ処刑される。 |
1141年 |
(紹興10年) | 南宋と金の間で、紹興の和議が結ばれる。領土が確定し、南宋は金に対し、銀25万両と絹25万疋を収めることになる。 |
1142年 |
1月27日(紹興11年12月29日) | 南宋の将軍で対金強硬派の岳飛が、和平派である宰相の秦檜の手で誅殺される。 |
1143年 |
| 耶律大石が、遼の故地を奪還するため、金に対し7万の兵で出兵するが病死し、遠征は中止される。西遼の皇位は耶律夷列が継ぐ。 |
1147年 |
7月14日(久安3年 6月15日) | 祇園闘乱事件。祇園社へ参詣に出た平清盛の一行が、携行する武器をめぐって神人と言い争いになり、清盛の家人が放った矢が宝殿に刺さった事件。 |
7月25日(久安3年 6月26日) | 祇園闘乱事件を受けて、比叡山延暦寺が事件を上皇に告訴。平忠盛は下手人7人を差し出す。 |
7月27日(久安3年 6月28日) | 祇園闘乱事件の平氏の対応を受けて、比叡山延暦寺が僧兵を繰り出し、忠盛と清盛の処罰を求めて強訴に及ぶ。上皇側が処置を決済すると院宣を出したので一旦は引き下がる。 |
7月29日(久安3年 6月30日) | 上皇のもとで公卿らが集まり、祇園闘乱事件の処置について詮議が行われる。藤原頼長が平忠盛の責任を主張するも、大方は忠盛に非はなしと判断。 |
8月13日(久安3年 7月15日) | 祇園闘乱事件の処置が遅れているため、延暦寺が再び強訴に及ぼうとしたため、上皇は院宣でこれを止めるよう延暦寺に求め、北面の武士を派遣する。 |
8月22日(久安3年 7月24日) | 公卿等による祇園闘乱事件の処置が決まらないため、上皇が平清盛を「贖銅三十斤」の罰金刑とする決定を下す。 |
8月25日(久安3年 7月27日) | 朝廷から祇園社に対して、祇園闘乱事件の謝罪のための奉幣使が派遣される。 |
9月 1日(久安3年 8月 5日) | 平清盛が「贖銅三十斤」の罰金を支払う。 |
1148年 |
3月12日(久安4年 2月20日) | 祇園闘乱事件でこじれた関係を修復するため、平忠盛が祇園社へ自領を寄進し、法華八講を祗園社で行う。 |
1149年 |
5月24日(久安5年4月16日) | 末代が富士山頂に大日寺を建立。 |
1150年 |
| この頃、パリ大学が創設されたといわれる。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。 |
1156年 |
7月20日(保元元年 7月 2日) | 鳥羽法皇崩御。死に際に実子の崇徳上皇が見舞いに来るが拒絶される事件が起こる。 |
7月23日(保元元年 7月 5日) | 崇徳上皇と藤原頼長が手を組み、国家を傾けんと画策している、との噂が広がり、検非違使が招集される。 |
7月27日(保元元年 7月 9日) | 崇徳上皇が突如、鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河の統子内親王の御所に入る。平氏の拠点六波羅に近いため、平氏の支援を期待したものか(清盛の父、平忠盛の妻池禅尼は崇徳の子重仁親王の乳母で忠盛が後見を務めていたため)。しかし池禅尼は、崇徳方敗北を予測し、平氏は動かず。 |
7月28日(保元元年 7月10日) | 崇徳上皇のもとに、藤原頼長、藤原教長、藤原盛憲、藤原経憲、源為義、平忠正らが合流。源為朝が夜襲を進言するが、藤原頼長はこれを卑怯だと一蹴する。一方、後白河天皇方にも藤原忠通、藤原基実、源義朝、平清盛、源頼政らが集結。軍議により相手方への夜襲が決定する。 |
7月29日(保元元年 7月11日) | 保元の乱が始まる。後白河天皇方の軍勢が、崇徳上皇方を夜襲。一進一退の攻防となるが、源義朝らが白河殿に隣接する藤原家成邸を放火。崇徳方は混乱に陥り大敗を喫する。藤原頼長は逃走の際に首に矢が刺さり重症を負う。 |
7月31日(保元元年 7月13日) | 崇徳上皇が仁和寺の弟覚性法親王を頼って出頭。 |
8月 1日(保元元年 7月14日) | 藤原頼長が重症の身で大和奈良の父忠実のもとに逃走するが受け入れてもらえず、叔父千覚のいる興福寺に入り、そこで死亡。 |
8月10日(保元元年 7月23日) | 崇徳上皇が讃岐へ配流となる。 |
8月15日(保元元年 7月28日) | 平忠正が平清盛の手で処刑される。死刑は薬子の変以来行われていなかった。 |
8月17日(保元元年 7月30日) | 源為義が、息子の義朝の手で処刑される。 |
9月12日(保元元年 8月26日) | 源為朝が捕らえられる。伊豆大島へ流罪。 |
11月 2日(保元元年閏9月18日) | 後白河天皇によって、保元新制の宣旨7カ条が発せられる。荘園整理を目的にしたもので、後白河の側近、信西が台頭し政権を担って国政改革に乗り出す。 |
1157年 |
5月 6日(保元元年 3月26日) | 後白河天皇によって、武蔵守藤原信頼が抜擢され、右近衛中将となる。以後、急速に台頭。 |
1160年 |
1月19日(平治元年12月 9日) | 平治の乱が始まる。政権を握っていた信西一族を滅ぼすため、平清盛の熊野参詣の留守中を狙い、藤原信頼を中心に、二条天皇派と後白河院派が連携して挙兵。源義朝、源光保、源頼政らが御所と三条殿を襲撃して、後白河上皇・上西門院を捕らえる。信西は逃走。 |
1月23日(平治元年12月13日) | 信西は逃走不可能と判断し、山城田原で郎党の藤原師光らに自分を埋めさせ自害した(追手に見つかった後自害したという説もある)。信西の死により、二条派と後白河派の対立が再燃。 |
1月27日(平治元年12月17日) | 京の異変を知った平清盛一行が、熊野から帰京。信西派の内大臣三条公教が清盛と二条天皇派を説得し反信頼派を形成。 |
2月 4日(平治元年12月25日) | 平清盛は、藤原信頼に恭順の姿勢を見せる名簿を提出。一方で三条公教らと二条天皇の六波羅行幸を画策。天皇は軟禁場所から脱出し、六波羅の清盛邸へ入る。 |
2月 5日(平治元年12月26日) | 二条天皇の六波羅行幸が知れ渡り、公卿らが相次いで平氏側に旗色を鮮明にする。源義朝は事態を知り、油断していた信頼を罵倒、信頼・藤原成親と出兵するが、源師仲は内侍所(神鏡)を持ちだして逃走。源頼政も離反。両勢力は六波羅付近の六条河原で衝突。兵力差で平清盛側が勝利する。 |
2月 6日(平治元年12月27日) | 平治の乱の首謀者、藤原信頼が公卿の身で斬首される。藤原成親は、妹経子が平重盛の妻だった関係で、解官の軽い罪で許された。 |
2月 8日(平治元年12月29日) | 平治の乱後、比叡山の僧兵による落ち武者狩りで負傷した源朝長が死亡。 |
2月11日(平治2年 1月 3日) | 源義朝と鎌田政清が東国へ落ち延びる途中、政清の舅で義朝の家人であった長田忠致の尾張の邸宅で長田に裏切られ殺害される(裏切りに気づいて自刃したとも)。 |
3月 4日(永暦元年 1月25日) | 源義平が捕らえられ六条河原で処刑される。 |
1164年 |
9月14日(長寛2年 8月26日) | 保元の乱で敗者側に付いた第75代崇徳天皇(崇徳院)が、流刑先の讃岐で崩御。後白河上皇へ送った和解の写経を破られて送り返されたのを苦にして自殺したとも、暗殺されたという話もある。これらから怨霊伝説が生まれた。 |
1165年 |
1月30日(長寛2年12月17日) | 三十三間堂が落慶。後白河上皇が平清盛に協力させて建設した院の御所「法住寺殿」の本堂。 |
1167年 |
3月 4日(仁安2年 2月11日) | 平清盛が太政大臣に就任。武士階級では前代未聞の出世だが、摂関時代以降、官職そのものには実質的な権力はなかった。 |
(大定7年閏7月18日) | 王重陽が馬丹陽を弟子に迎え入れ、のちに道教二大宗派のひとつとなる全真教を興す。教団名は馬丹陽が提供した庵「全真」の名前から。 |
| イングランド王ヘンリー2世が、イングランドの学生がパリ大学で学ぶことを禁じたため、あらたにオックスフォード大学が開学する。ただしその前から、前身の教育機関があったと考えられる。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。 |
1169年 |
| イタリア半島のエトナ火山が大噴火。16000人が死亡。 |
(大定7年閏7月18日) | 王重陽が馬丹陽を弟子に迎え入れ、のちに道教二大宗派のひとつとなる全真教を興す。教団名は馬丹陽が提供した庵「全真」の名前から。 |
1170年 |
4月23日(嘉応2年 4月 6日) | 源為朝自害。生き延びて琉球へ旅だった説もある。 |
8月16日(嘉応2年 7月 3日) | 殿下乗合事件。法勝寺に向かう途中の摂政松殿基房の一行が、鉢合わせした女車の無礼をとがめて乱暴。その後、女車の主が平資盛であることがわかり謝罪するが資盛の父平重盛が反発。 |
11月30日(嘉応2年10月21日) | 高倉天皇の加冠の儀に参加するため朝廷に向かった松殿基房の車列を、平重盛の兵が襲撃し、4人が髷を切られる事件が起こる。加冠の儀は中止に。殿下乗合事件の報復とされる。 |
11月28日 | グウィネズの王で、ウェールズを事実上支配したオワイン・グウィネズが死去。グウィネズ家は内紛状態になる。またこの年、オワインの子とされるマドック王子が、100人の男女を率いて大西洋を横断し、北アメリカに到達し移住地を作ったとウェールズの伝承に出てくる。マドックは再度ウェールズに戻って移民を募り、再びアメリカへ渡り戻らなかったとされる。史実としては信憑性が薄いが、物語としては有名。 |
1171年 |
1月21日(嘉応2年12月14日) | 松殿基房、太政大臣となる。事態収拾を図る平清盛の推挙とも言われる。なお、『平家物語』では清盛と重盛の立場が逆で、清盛が報復し、重盛が収拾を図っている。 |
1175年 |
| モデナ・レッジョ・エミリア大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。 |
1177年 |
6月28日(安元3年 6月 1日) | 平氏打倒の鹿ヶ谷の陰謀が発覚。陰謀に加わった多田行綱が平清盛に訴えでた。後白河院による山門(延暦寺)攻撃強行を避けたい平清盛による陰謀とも言われる。西光や藤原成親らが拘束される。 |
1179年 |
12月17日(治承3年11月17日) | 治承三年の政変。平清盛が反平氏勢力の一掃をはかり京を制圧。後白河院の院政を停止し、公卿ら多数が逮捕され殺害されたり所領を没収されたクーデター事件。諸国の国主の入れ替えも行われ、中央政権に与するものが抜擢された。それが後の源氏の蜂起に諸豪族が加勢する遠因となったとも言われる。 |
1180年 |
5月18日(治承4年 4月22日) | 安徳天皇が2歳で即位。第81代天皇。 |
5月23日(治承4年 4月27日) | 源頼朝が、叔父の行家から以仁王の平家追討令旨を伝えられる。 |
6月20日(治承4年 5月26日) | 南都へ向かう途中の以仁王と源頼政の軍勢が、宇治橋で平家の追討軍と対峙。平家側の渡河により頼政ら摂津源氏の軍勢は敗北し、宇治平等院から脱出した以仁王も逃走中に討たれる。 |
9月 8日(治承4年 8月17日) | 源頼朝の軍勢が挙兵。伊豆目代山木兼隆を討ち取る。 |
9月14日(治承4年 8月23日) | 石橋山の戦い。源頼朝の軍勢が平家方の大庭景親、伊東祐親の軍勢に大敗を喫す。頼朝は山中に隠れているところを平家方の梶原景時に見逃され、土肥実平の助けで真鶴より房総へ向かう。 |
9月17日(治承4年 8月26日) | 源頼朝に味方し援軍を出そうとした三浦義明・義澄らは頼朝敗北を知って退却するが、本拠の衣笠城を畠山重忠の軍勢に攻められ海上へ落ち延びる。三浦義明は戦死。なお、三浦氏と畠山氏は縁戚関係にあったと言われる。 |
9月20日(治承4年 8月29日) | 源頼朝、安房に到着。三浦義澄、安西景益らと合流。千葉常胤、上総広常ら下総の有力豪族に使者を送る。 |
9月24日(治承4年 9月 4日) | 安房に逃れた源頼朝の要請を受けて味方し下総目代を殺害した千葉常胤と、下総守に任じられた判官代藤原親正が戦い、親正は敗北し捕虜となる。関東の諸豪族が頼朝方に付いたのは、治承三年の政変後に国主の入れ替えがあり地元豪族が不利に置かれたことが背景にあると言われる。 |
10月22日(治承4年10月 2日) | 源頼朝ら、武蔵国へ入る。平家方についていた畠山重忠、江戸重長、河越重頼らも降伏し許される。 |
10月26日(治承4年10月 6日) | 源頼朝、鎌倉へ入る。 |
11月 7日(治承4年10月18日) | 源頼朝の軍勢と武田信義ら甲斐源氏の軍勢が合流。 |
11月 9日(治承4年10月20日) | 富士川の戦い。源頼朝ら関東諸豪族の軍勢と武田信義ら甲斐源氏の連合軍に対し、討伐のために遠征してきた平家軍が富士川両岸で対峙するが、戦闘に至る前に平家軍が総退却、壊乱状態となる。平家軍退却の理由で有名なのは鳥が飛び立つ音に驚いたというもの。しかし元々平家軍は統率に失敗し離反者が相次いでおり、戦闘前から結果は出ていたという。なお、日付は諸本によって違いがある。 |
1181年 |
3月20日(治承5年閏2月 4日) | 平清盛病死。 |
7月26日(治承5年 6月13日) | 横田河原の戦い。平家より命を受けた越後の城助職が信濃に侵攻、木曽義仲と対戦し敗北、越後へ退却する。 |
8月 4日(治承5年 6月22日) | 超新星SN1181が出現。以降185日ほど輝いていた。カシオペア座26,000光年にある星。『吾妻鏡』や、藤原定家の日記『明月記』に書かれた超新星の一つで、これは同日記と同時代の現象となる。超新星残骸「3C 58」が残っており、中性子星か、クォーク星ではないか、と考えられている。 |
1183年 |
5月20日(寿永2年 4月27日) | 平維盛率いる平氏軍が越前火打城を攻め落とす。 |
6月 2日(寿永2年 5月11日) | 倶利伽羅峠の戦い。木曽義仲、源行家、樋口兼光らが、平維盛・平通盛・平知度・平行盛、平忠度ら平氏10万の軍勢を奇襲して倶利伽羅峠の崖に追い落とし大勝する。牛の角に松明を付けて襲わせる話で有名だが後世に脚色された話とも言われる。 |
8月17日(寿永2年 7月28日) | 木曽義仲、入京。平氏は安徳天皇を連れて西国へ移動。 |
8月19日(寿永2年 7月30日) | 朝廷で論功行賞が沙汰され、第一が源頼朝、第二が源義仲(木曽義仲)、第三が源行家となる。 |
9月 8日(寿永2年 8月20日) | 平氏が連れ去った安徳天皇と神器を戻すことが困難だったため、高倉天皇の子で、安徳天皇の異母弟に当たる尊成親王が即位し後鳥羽天皇となる。この際に、木曽義仲が以仁王の子である北陸宮を推挙したため、九条兼実ら公家から反感を買う。 |
10月 7日(寿永2年 9月19日) | 木曽義仲と後白河法皇が会談し、法皇は京の治安悪化などを問題にして責任を問うたため、義仲は平氏討伐を約束。西国へ向けて出陣する。 |
10月31日(寿永2年10月14日) | 朝廷より、源頼朝に対して「寿永二年十月宣旨」が下される。頼朝の提案(平氏に押領された寺社の領地や宮・公家の荘園を元に戻す、斬罪の計を緩和する)に基づき「東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべき」という内容。木曽義仲に対向するため、後白河法皇と頼朝が手を組んだものとされる。頼朝は北陸道も加えようとするが義仲の反発を恐れて朝廷は了承しなかった。またこれと合わせて頼朝を従五位下右兵衛権佐に戻す。頼朝は宣旨実行を名分に、範頼と義経を出陣させる。 |
11月17日(寿永2年閏10月1日) | 木曽義仲軍の足利義清ら、水島の戦いで平重衡らに敗北。義仲軍の将兵多数が戦死する。なお、この日、金環日食があったことが記録されており、これが戦闘に影響したという説もある。 |
12月19日(寿永2年11月 4日) | 源義経軍が不破の関に到着。木曽義仲はこれに対応するため出兵するが、義仲に不満を持つ源行家らと後白河法皇らが手を組み、法住寺に立て籠もる。 |
1184年 |
1月 3日(寿永2年11月19日) | 木曽義仲、後白河法皇らの籠もる法住寺を攻め落とす。後白河法皇は捕らえられ幽閉され、明恵・円恵法親王・源光長(土岐光長)らは戦死。 |
1月 6日(寿永2年11月22日) | 木曽義仲と松殿基房が手を組み、基房の子、松殿師家が摂政となって、新政権が樹立。 |
1月12日(寿永2年11月28日) | 摂政松殿師家によって前摂政基通の家領八十余所を木曽義仲に与えられることになり、また、中納言藤原朝方以下43人が解官となる。 |
2月28日(寿永3年 1月15日) | 木曽義仲、征東大将軍となる。 |
3月 4日(寿永3年 1月20日) | 宇治川の戦い。源範頼・源義経率いる5万騎を超える大軍に対し、この時点ですでに木曽義仲は千騎ほどにまで激減しており大敗。義仲は今井兼平が防戦していた瀬田方面へ逃走。義仲体制は崩壊。 |
3月 5日(寿永3年 1月21日) | 粟津の戦い。源範頼軍に追撃され木曽義仲戦死。今井兼平も自刃する。 |
3月20日(寿永3年 2月 7日) | 一ノ谷の戦い。源義経の「鵯越の逆落し」奇襲で平氏が大敗。 |
5月27日(寿永3年 4月16日) | 元暦に改元。ただし平氏側支配地では引き続き寿永が使われる。 |
10月 7日(元暦元年 9月 1日) | 源範頼軍が西国へ向けて出陣。 |
1185年 |
1月10日(元暦元年12月 7日) | 藤戸の戦い。源範頼軍が平行盛の児島に築いた城を攻め、この時、佐々木盛綱が海峡を馬で渡りこれを落とす。 |
3月22日(元暦2年 2月19日) | 屋島の戦い。源義経軍が海を迂回し、陸側から奇襲をかけ、平氏の拠点だった屋島を落とす。那須与一の扇の的のエピソードが起こる。 |
4月25日(元暦2年 3月24日) | 壇ノ浦の戦いで平氏の主流は滅亡する。平氏側の年号は寿永4年。 |
5月16日(元暦2年 4月15日) | 源頼朝が、京で頼朝の許しなしに朝廷より任官を受けたものを批判。鎌倉への帰還を禁じる。 |
6月23日(元暦2年 5月24日) | 源義経、兄頼朝から鎌倉入りを拒絶されたため、大江広元に書状(腰越状)を託す。 |
7月 7日(元暦2年 6月 9日) | 源義経、兄頼朝から平宗盛親子を連れて京に行くよう命じられる。義経、兄を恨む言葉を残したとされ、領地没収となる。 |
7月19日(元暦2年 6月21日) | 平氏の頭領で壇ノ浦で捕らえられた平宗盛が、義経の命で処刑される。 |
9月23日(文治元年 8月28日) | 戦火の被害にあった大仏の開眼供養が行われる。 |
10月19日(文治元年10月17日) | 源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊率いる83騎が京の六条にあった源義経の館を襲撃。義経自ら応戦し、これを撃退する。 |
10月20日(文治元年10月18日) | 源義経、後白河法皇に依頼していた頼朝追討の宣旨を受ける。しかし畿内の武士は義経のもとにはほとんど参集せず。 |
11月22日(文治元年10月29日) | 源頼朝、義経追討のため、鎌倉を出陣。 |
11月27日(文治元年11月 4日) | 前日に源義経一行ら数百騎が都落ちを決め西国へ向かおうとしたが、摂津河尻で太田頼基らがこれを襲撃。義経に撃退される。平家物語では3日。この後も、多田行綱、豊島冠者、藤原範資らが相次いで襲撃。義経の勢力は離散。 |
12月18日(文治元年11月25日) | 源義経追討の院宣が発せられる。 |
12月21日(文治元年11月28日) | 源頼朝が朝廷から諸国の守護・地頭の設置・任免を許可した勅許(文治の勅許)を得る。ただ、鎌倉時代の守護ではなく、その前段階にあたり、荘園地頭を発展させた、段別五升の兵糧米の徴税権と田地の知行権、武士の動員権を持つ国地頭の設置だったのではないかという説が有力。 |
1186年 |
7月 4日(文治2年 6月16日) | 源有綱が大和宇陀で義経探索を行っていた北条時定の手勢と交戦し自害。有綱は頼朝挙兵に参加し、義経の与力となっていた武将。義経の婿(もしくは妹婿)ともいわれる。 |
1187年 |
3月21日(文治3年 2月10日) | この頃、源義経、弁慶ら側近と正妻郷御前や娘らを連れて奥州藤原氏の元へ向かう。 |
7月 4日 | サラーフッディーンがヒッティーンの戦いで十字軍王国に勝利。エルサレムに侵攻。 |
11月30日(文治3年10月29日) | 奥州藤原氏の頭領藤原秀衡が死去。 |
1189年 |
6月15日(文治5年閏4月30日) | 衣川合戦。藤原泰衡に攻められて、源義経、妻女を殺害後に自害。弁慶らも討ち死に。 |
10月14日(文治5年 9月 3日) | 鎌倉軍が奥州征伐を行い、藤原泰衡ら滅びる。 |
1190年 |
1月(文治5年12月) | 藤原泰衡の郎従であった大河兼任の乱が陸奥で起こる。 |
2月13日(文治6年 1月 7日) | 源頼朝、大河兼任の乱討伐の動員令を発する。 |
3月19日(文治6年 2月12日) | 鎌倉軍と大河兼任の軍勢が栗原郡で衝突。大河兼任は敗北。 |
4月16日(文治6年 3月10日) | 大河兼任、逃走の末、栗原に戻ってきたところを、栗原寺で樵に殺害される。 |
1191年 |
9月 7日 | 第3回十字軍アルスフの戦い。リチャード1世がサラーフッディーンの軍勢を破る。 |
9月10日 | 第3回十字軍。リチャード1世がヤッファを占領。 |
1192年 |
4月26日(建久3年 3月13日) | 後白河法皇が崩御。 |
8月21日(建久3年 7月12日) | 源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられる。 |
| キプロス王国が建国される。エルサレム共同統治者だったギー・ド・リュジニャンが、第3回十字軍としてきていたリチャード1世より、エルサレムの王位継承権を放棄する代わりにキプロス島の領有権を得たことによる。 |
1193年 |
3月 4日 | アイユーブ朝の創始者で、聖地奪回を成し遂げたことから、イスラムの英雄とされるサラーフッディーン(サラーフ=アッディーン。本名ユースフ・イブン・アイユーブ)がダマスカスで病没。ティクリート出身のクルド人で、有能な軍事指揮官だった一方、捕虜を無条件で解放するなど、穏健な人物だったことから、イスラム世界で絶大な支持を得ただけでなく、キリスト教徒の間でも著名な人物であった。ヨーロッパではサラディンと呼ばれる。 |
6月28日(建久4年 5月28日) | 曾我兄弟の仇討ち。曾我十郎祐成、曾我五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を富士の巻狩りで殺害。源頼朝も狙うが兄は殺害され、弟も処刑される。 |
1194年 |
(南宋 紹熙5年・金 明昌5年) | 分流していた黄河下流の流れが大きく南へ移り、それに押される形で黄河の一部が合流していた淮河も南へと遷移。湖沼地帯に水が大量に溜まり現在の洪沢湖が形成される。淮河の流れはそこからさらに南へと移り、現在のような長江へ流れ込むルートに変わった。 |
1196年 |
12月16日(建久7年11月25日) | 九条兼実が関白を罷免される(建久七年の政変)。兼実の子九条良経も籠居。兼実の権力体制と保守的な政策に反発した土御門通親や新興中下級公家のクーデター。 |
1198年 |
| この年、ローマ教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍派遣を企画。しかし各地の王は参加せず、フランス貴族らによって計画が進められる。 |
1199年 |
1月25日(建久9年12月27日) | 稲毛重成が相模川に橋を架け、その落成供養に源頼朝も出席するが、その帰途に急に体調を崩す。落馬が原因という説もある。 |
2月 9日(建久10年 1月13日) | 源頼朝が死去。 |
2月22日(建久10年 1月26日) | 源頼家が家督を相続する。 |
3月12日(正治元年 2月14日) | 一条能保の遺臣である後藤基清・中原政経・小野義成らが権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとして捕縛される。3人の官職名から「三左衛門事件」と呼ばれる。頼朝危篤の情報から京の情勢が不穏になった際に起こった事件。同じ頃、文覚も逮捕される。 |
3月15日(正治元年 2月17日) | 「三左衛門事件」に連座して西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕停止。 |
4月 6日 | イングランド王リチャード1世(獅子心王)が、アキテーヌ公領のシャリュ城攻略中に、戦傷がもとで死去。 |
1200年 |
2月 6日(正治2年 1月20日) | 梶原景時の変。失脚した梶原景時一族が、上洛しようとしたところ、襲撃を受けて滅ぼされる。 |
1200年代前半 |
| 超新星残骸ベラ・ジュニアの元となった超新星爆発の光が地球に到達したとみられる年代。実際の爆発は西暦500年代前半ころ。かなりの規模の地球近傍超新星だが、この時代の記録には見当たらない。 |
1201年 |
2月27日(建仁元年 1月23日) | 城長茂が、京の大番役、小山朝政の邸宅を襲撃。小山朝政は留守だったため難を逃れる。長茂は後鳥羽上皇に鎌倉討伐の院宣を求めるが拒否される。建仁の乱。城一族は元平氏方だったが、鎌倉政権樹立後、身柄を引き受けた梶原景時のとりなしで許され御家人となっており、景時が滅ぼされたことに対して反乱を起こしたとみられる。また、同時期、越後で城資盛と坂額御前ら一族も鳥坂城に籠って反乱を起こす。 |
3月28日(建仁元年 2月22日) | 城長茂が、大和吉野で小山朝政らによって滅ぼされる。 |
4月 4日(建仁元年 2月29日) | 奥州藤原秀衡の4男で、城長茂に同調して挙兵した藤原高衡が討ち取られる。高衡も梶原景時のとりなしを受けていたため、反乱に同調したとも考えられる。 |
6月11日(建仁元年 5月 9日) | 坂額御前が負傷したことをきっかけに越後鳥坂城が陥落。城資盛は行方不明となり、坂額御前は捕虜となる。 |
7月29日(建仁元年 6月28日) | 坂額御前が鎌倉へ護送され、将軍源頼家の面前に連れてこられる。堂々とした態度を崩さず、それに感銘を受けた甲斐源氏浅利義遠が頼家に申し出て妻に迎えたと言われる。 |
| 第4回十字軍の参加希望者が少なかったため、資金も乏しい状態で出発できず。そこへ先の東ローマ皇帝イサキオス2世が息子アレクシオスを送り、資金提供と東西教会統一を条件に自分の皇帝への復帰支援を要請する。 |
1203年 |
7月 | 第4回十字軍が同じキリスト教国の東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスを攻撃。皇帝アレクシオス3世が逃亡したため、十字軍と組んだアレクシオス3世の兄イサキオス2世が復位し、その子のアレクシオス4世が共同皇帝となる。しかし市民と十字軍との関係は悪化。 |
10月 8日(建仁3年 9月 2日) | 比企能員の変。二代将軍源頼家と御家人との対立から起こった事変で、頼家と近い比企氏の権力増大を恐れた北条氏によって滅ぼされる。頼家の子で、母親が比企氏の出身である一幡も殺害される。 |
1204年 |
2月 8日 | 東ローマ帝国前皇帝アレクシオス3世の娘婿アレクシオス5世ドゥーカスが反乱を起こし、皇帝イサキオス2世と共同皇帝のアレクシオス4世を殺害。 |
4月13日 | 第4回十字軍がふたたびコンスタンティノポリスを攻撃し陥落。東ローマ帝国の皇族らは周辺地域に逃亡。複数の亡命国家を建設する。十字軍の兵士らは市民を虐殺し婦女子を見境なく暴行、美術品を略奪し、貴重な文化財をことごとく破壊する。東ローマ帝国は一旦滅亡。この事件は、現代にまで続く正教会のカトリックに対する対立姿勢の要因にもなった。 |
5月16日 | 旧東ローマ帝国の一部を領土とし、コンスタンティノポリスを首都とするラテン帝国が成立。フランドル伯ボードゥアン9世が皇帝ボードゥアン1世として即位。しかし十字軍本来の目的である聖地奪回・エジプト攻撃には向かわず。 |
| ヴィチェンツァ大学が設立される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。 |
1205年 |
7月10日(元久2年6月22日) | 畠山重忠の乱。由比ヶ浜で畠山重保が、二俣川で畠山重忠が、鎌倉の騒動を理由に招集を受けて出向いたところを、北条義時らに攻め滅ぼされる。武蔵国の支配権をめぐる国司平賀朝雅と御家人畠山重保の対立から、朝雅が妻の母である北条時政の後妻牧の方をして畠山を讒言し、時政が義時らの反対を押し切って畠山討伐を強引に進めた冤罪事件。 |
7月11日(元久2年6月23日) | 畠山重忠の乱討伐に加わっていた、同族の稲毛重成・小沢重政親子、榛谷重朝・榛谷重季・榛谷秀重親子らが畠山重忠を讒言して陥れたとして、三浦義村・大河戸行元・宇佐美祐村らの手で討伐される。 |
9月 5日(元久2年閏7月20日) | 北条時政が将軍源実朝を廃し、後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようとしたが、畠山重忠の乱以来、時政と対立していた政子・義時が先手を打ち、時政の執権職を奪い、牧の方とともに幽閉。牧氏事件。 |
9月16日(元久2年8月 2日) | 平賀朝雅が北条義時の命を受けた山内首藤通基に誅殺される。 |
| 旧東ローマ帝国の皇族が興したニカイア帝国とブルガリア王国が手を結び、ラテン帝国を攻撃。全土を蹂躙し、皇帝ボードゥアン1世も捕らえられ消息を絶つ。皇帝の弟アンリ・ド・エノーが摂政となって宥和政策を取ったことでかろうじて命脈を保つ。 |
1206年 |
2月 | テムジンがオノン川上流に諸部族を集めてクリルタイを開催。チンギス・カンの称号を得て、モンゴル帝国を建国。 |
1207年 |
(建永2年2月) | 承元の法難。かねてより諸宗派から批判されていた法然の教団に対して、後鳥羽上皇が処罰を命じた事件。ただし宗教的な理由ではなく、法然の弟子である遵西と住蓮が、後鳥羽上皇の熊野巡幸の留守中に、宮中の女官らの招きで宮中で説法を行い、そのまま宮中に泊まったあげく、女官のうち2名が出家してしまったことに上皇が激怒したため。2人は密通の疑いで処刑され、法然や親鸞も流罪となった。ただし当時の公的な記録に処刑された記載がないことから、検非違使などによって私的に殺害されたという説も根強い。承元となっているのは、この事件のさなかに改元したため。 |
1208年 |
| 史弥遠が南宋の宰相となる。和平派の代表。1233年に死ぬまで長期政権を築く。 |
1209年 |
| オックスフォード大学の学者2人が市民とのトラブルで処刑されたことから、学者らが抗議して各地の大学に移り、一部が教会の教育施設があったケンブリッジに住んだことがきっかけでケンブリッジ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。 |
1211年 |
| ナイマン部族のクチュルクが、彼を皇女の婿に迎えた西遼王朝を簒奪。 |
1212年 |
2月29日(建暦2年 1月25日) | 浄土宗の開祖、法然死去。 |
1213年 |
3月 8日(建暦3年 2月15日) | 信濃源氏の御家人泉親衡が、源頼家の遺児千寿丸を擁立して、執権北条義時を討とうと乱を起こす。泉親衡は敗北し逃亡。 |
5月23日(建暦3年 5月 2日) | 和田義盛らが、泉親衡の乱に関与したとして北条義時から屈辱的な扱いを受けた恨みから鎌倉で武装蜂起。市街戦となる。劣勢になった義盛勢は一旦退却。 |
5月24日(建暦3年 5月 3日) | 和田義盛軍と横山時兼の横山党が合流し鎌倉市内へ再突入。しかし時間とともに劣勢となり討ち取られる。和田義盛の三男の猛将朝比奈義秀は残党を引き連れて安房へ逃亡。 |
1215年 |
6月15日 | イングランド王ジョンが、マグナ・カルタを承認する。王の権限を制限した基本法。 |
| モンゴル帝国軍が、金の中都を攻め落とす。 |
1218年 |
| モンゴルが、西遼を乗っ取ったクチュルクを滅ぼす。 |
| スペインのサラマンカ大学が創立される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。それ以前から前身の教会付属の教育機関があったとみられる。 |
1220年 |
| モンゴルが、ホラムズ・シャー朝をほぼ壊滅させ、またホラーサーンの諸都市を根こそぎ破壊。 |
1221年 |
6月 5日(承久3年 5月14日) | 後鳥羽上皇が流鏑馬を口実に兵を集め、幕府に対し挙兵。承久の乱が始まる。 |
6月26日(承久3年 6月 5日) | 大井戸の戦い。幕府軍5万が2000ほどの上皇軍を撃破。上皇軍は京付近まで撤退。 |
7月 4日(承久3年 6月13日) | 宇治川の戦い。上皇軍と幕府軍が衝突し、上皇軍は宇治川の橋を落とすが、翌日に佐々木信綱らが増水の中、敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣を突破。京へなだれ込む。幕府軍の勝利に終わる。 |
1222年 |
3月30日(貞応元年 2月16日) | 日蓮が安房で誕生する。 |
1223年 |
5月31日 | カルカ河畔の戦い。ジェベ率いるモンゴル軍と、ルーシ諸公国連合軍との戦い。モンゴル軍の圧勝に終わる。 |
| モンゴル軍、ヴォルガ・ブルガール地方へ侵攻。 |
| ケルネク(サマラ屈曲部)の戦い。モンゴル軍と、ヴォルガ・ブルガール軍とが衝突し、ヴォルガ・ブルガールが勝利。 |
1224年 |
10月13日(貞応3年 8月29日) | 北条義時の後妻伊賀の方が、北条政子の手で伊豆に流罪となる。伊賀の方は12月末ころに配流先で死去。兄の伊賀光宗も信濃に流罪。伊賀の方が産んだ北条政村を次の執権に擁立しようとして、北条政子が弾圧した事件とされるが、北条泰時は陰謀を否定しており、伊賀光宗も後に赦されている。 |
| フェデリコ2世・ナポリ大学が創立される。ローマ教皇と対立した神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ(フェデリコ)2世が、教皇の庇護下にあったボローニャ大学に対抗するために創立したと言われる。 |
1225年 |
8月16日(嘉禄元年 7月11日) | 北条政子死去。 |
12月31日(太宗天彰有道2年12月1日) | ベトナム陳朝の始まり。李朝大越国の実力者、陳守度によって、李朝最後の皇帝である女帝李昭皇が、夫の陳太宗に譲位。 |
1227年 |
| モンゴル帝国の攻撃と、地震による飢餓などを受けて、西夏王朝の皇帝が降伏。西夏は滅亡する。 |
8月18日 | モンゴル帝国初代皇帝チンギス・カン没。 |
1229年 |
9月13日 | モンゴル帝国でクリルタイが開催され、チンギス・カンの3男オゴデイが第2代モンゴル皇帝に選ばれる。以後、オゴデイ・カアンとなる。 |
| この年、ククダイとブベデ率いるモンゴル軍が、再びヴォルガ・ブルガール地方へ侵攻。 |
| トゥールーズ大学が創設される。 |
1231年 |
| 皇帝フリードリヒ2世の勅令によってサレルノ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。前身のサレルノ医学校自体は9世紀ころにはすでに著名であった。 |
1232年 |
| 三峰山の戦い。モンゴル帝国の対金戦争で、金軍は15万の歩兵・騎兵を動員するが、猛将トルイの4万の軍勢に大敗。金帝国は一気に衰退する。 |
| モンゴル帝国軍、金の首都汴州(開封)に迫る。金側は和平を望むも、オゴデイ・カアンに拒絶される。 |
1233年 |
| 金の第9代皇帝哀宗(完顔寧甲速)が、汴州(開封)を出て逃走。 |
1234年 |
| モンゴル帝国軍と南宋の連合軍、蔡州城を包囲。 |
2月 9日(天興3年 1月 7日) | 金の第9代皇帝哀宗(完顔寧甲速)が、包囲された蔡州城で、軍の統帥であった完顔呼敦に帝位を譲り、幽蘭軒で自殺。その半日後、蔡州城は陥落し、第10代皇帝となったばかりの完顔呼敦(末帝)は、脱出を試みて捕らえられ、処刑される。末帝は中国歴代皇帝で最も在位が短かったとされる。 |
1235年 |
1月18日(文暦元年12月28日) | 霧島山が大きな噴火。火口は御鉢と見られる。山中や周辺の多くの寺社が焼失。周囲の広範囲に大量の噴出物が積もる。 |
| キリナの戦い。マンディンカ(マンデ人)のスンジャタ・ケイタがソソ王国の呪術王スマングル・カンテと戦い勝利。スマングルは戦死したともいう。こののちスンジャタ・ケイタは、ニアニを首都と定めると、領土を拡大。マリ帝国へと発展していく。 |
1236年 |
2月 | バトゥ、モンゴル征西軍司令官となる。35000の兵を率いて西へ向かう。 |
3月12日 | バトゥ率いるモンゴル軍、ヴォルガ・ブルガールの首都ビリャルを攻め落とす。ビリャルは完全に破壊され、住民と守備軍は全員処刑されたと言われる。 |
1237年 |
11月 | バトゥ、ウラジーミル・スーズダリ大公ユーリー2世に降伏を勧告。周辺のプロンスク公国、リャザン公国を攻撃してこれを滅ぼす。 |
1238年 |
2月 4日 | バトゥ、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルを攻め落とす。ウラジーミルは灰燼に帰し、ユーリー2世は脱出するが、一族は全員処刑される。 |
3月 4日 | シチ川の戦い。ウラジーミル・スーズダリ大公ユーリー2世率いる軍勢がモンゴル軍と戦うも大敗を喫し、ユーリー2世も戦死。 |
| この年、モンゴル軍はルーシ諸公国のうち、従属を決めた西部のスモレンスク、北西の湿地帯にあったため侵攻を免れたノヴゴロド、プスコフ以外の北側の諸都市をほぼ壊滅させる。これが後にモスクワなどが台頭する遠因となった。 |
1239年 |
| モンゴル軍、ルーシ南部へ侵攻。チェルニゴフ公国、ノヴゴロド・セヴェルスキー公国、フシチイシュ公国、ペレヤースラウ公国などを攻め滅ぼす。 |
1240年 |
9月 5日 | モンゴル軍、キエフに侵攻。 |
12月 6日 | モンゴル軍、キエフを攻め落とし、キエフ大公国を滅ぼす。つづけてハールィチ・ヴォルィーニ大公国も占領。 |
1241年 |
2月13日 | トゥルスクの戦い。バイダル率いるモンゴル軍とポーランド軍の戦い。モンゴル軍の勝利。 |
3月12日 | バトゥ率いるモンゴル軍、ハンガリーに侵攻。 |
3月18日 | フミェルニクの戦い。モンゴル軍とポーランド軍の戦いで、モンゴル軍が圧勝。 |
4月 1日 | モンゴル軍、クラクフに侵攻。クラクフを灰燼にする。 |
4月 9日 | ワールシュタットの戦い。ポーランドのレグニツァ近郊で、侵攻してきたモンゴル軍と、ポーランド王国、神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団、ホスピタル騎士団、テンプル騎士団の連合軍との戦い。モンゴル軍が圧勝。連合軍を指揮したヘンリク2世は戦死。モンゴル軍はヴロツワフに侵攻しこれを破壊。 |
4月10日 | ヘルマンシュタットの戦い。モンゴル軍とトランシルヴァニア軍とが衝突し、モンゴル軍が圧勝。 |
4月11日 | モヒの戦い。ズブタイ率いるモンゴル軍とハンガリー軍とが衝突。回回砲を使ったモンゴル軍が圧勝。ハンガリー軍はほぼ全滅する。 |
12月11日(太宗13年11月8日) | モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ・カアン死去。これを受けてモンゴル征西軍のヨーロッパ侵攻が中止することになる。 |
1246年 |
5月17日(寛元4年閏4月 1日) | 前執権北条経時が死去。北条一門の名越光時と反執権派の御家人らが執権北条時頼打倒を画策。 |
6月 3日(寛元4年閏4月18日) | 以後の数日、鎌倉市内で武士団が横行し、さらに周辺諸国から参集する騒動発生。 |
7月 8日(寛元4年 5月24日) | 鎌倉で地震。 |
7月 9日(寛元4年 5月25) | 執権北条時頼、鎌倉を封鎖。 |
7月 8日(寛元4年 5月24日) | 名越光時ら反執権派、北条時頼に降伏。 |
7月15日(寛元4年 6月 1日) | 名越光時自害。 |
8月23日(寛元4年 7月11日) | 前将軍藤原頼経が鎌倉を追放される。三浦光村が京まで同行し、頼経の復権を約束したといわれる。一連の騒動と頼経追放を総称して「宮騒動」と呼ばれる。 |
1247年 |
7月 8日(宝治元年 6月 5日) | 宝治合戦。執権北条家と三浦氏の対立を危惧して、和平を模索していた北条時頼と三浦泰村を差し置いて、強硬派の安達景盛が三浦邸を急襲。一方、三浦側も強硬派の三浦光村主導で一族らが応戦。最終的に三浦一族は自刃して終結。有力御家人による合議制が終わり、北条(得宗)家の専制体制が確立する。 |
1253年 |
| モンゴル四代皇帝モンケ・カアンが征西司令官に弟のフレグを命じ、モンゴル軍が出発。 |
1256年 |
(建長8年 5月) | 親鸞が息子の善鸞を破門にする。関東での布教で独自の教えを広めようとしたため。 |
11月27日 | フレグ率いるモンゴル軍がイスラム教ニザール派を滅ぼす。 |
1257年 |
| フランス王ルイ9世の宮廷司祭であったロベール・ド・ソルボンが、パリ大学に学寮を設立。後に神学部も興し、パリ大学は通称ソルボンヌ大学と呼ばれるようになる。 |
1258年 |
2月 | フレグ率いるモンゴル軍がアッバース朝バグダードを壊滅させる。 |
1259年 |
8月11日 | モンゴル四代皇帝モンケが死去。 |
| 鄂州の戦いで長江を渡河したクビライ軍を賈似道の指揮する南宋軍が撃破。その功績により賈似道が宰相となる。クビライは、皇位継承を巡る争いのため、北方へ退却。賈似道との間で密約があったとも。 |
1260年 |
2月 | フレグ率いるモンゴル軍がシリアのアレッポを攻め落とす。 |
4月 | フレグ率いるモンゴル軍がアイユーブ朝の都ダマスクスを攻め落とす。 |
5月 5日 | クビライがクリルタイを開いて、モンゴル帝国第5代皇帝(大ハーン)に即位を宣言。 |
| フレグのもとに、兄の皇帝モンケの死去の報が入り、モンゴル帝国本土へ引き返すことになる。遠征軍はキト・ブカに委任。 |
9月 3日 | アイン・ジャールートの戦い。中近東へ遠征していたモンゴル皇弟フレグの部下キト・ブカの軍勢とエジプト・マムルーク(奴隷兵)のスルタン・クトゥズとの戦いで、クトゥズが勝利。モンゴル軍の遠征が止まり、マムルーク朝拡大のきっかけとなる。 |
1261年 |
7月25日 | 東ローマ帝国からの亡命国家ニカイア帝国が、コンスタンティノポリスを奪回。ニカイアの実質最高権力者であった共同皇帝で大貴族のミカエル・パレオロゴスがローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとして即位し、東ローマ帝国を復活させる。ニカイアの形式上の皇帝ヨハネス4世ラスカリスは廃位され、目を潰された上で幽閉された。 |
1262年 |
| アイスランドがノルウェーの支配下に置かれる。 |
1264年 |
9月 8日 | ポーランドのボレスワフ敬虔公によって「ユダヤ人の自由に関する一般契約」(カリシュの法令)が発布される。ユダヤ人の立場を法的に保護したはじめての法令。商業や旅行の自由を認め、キリスト教徒との争いに関してのユダヤ人の法的保護を認めた。この結果、ポーランドには多数のユダヤ人が移り住むようになる。この一帯の中小都市には「シュテットル」というコミュニティが多数誕生した。 |
1266年 |
2月26日 | ベネヴェントの戦い。ローマ教皇の依頼を受けたフランス王アンジュー家のシャルル・ダンジューが、シチリアのマンフレーディ王(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子)を打ち破り、同地の支配を確立する。 |
1268年 |
| アジュ率いるモンゴル軍による南宋攻撃で、襄陽・樊城の戦いがはじまる。 |
1271年 |
| 范文虎率いる襄陽援軍10万がモンゴル軍に大敗。 |
1272年 |
3月11日(文永9年 2月11日) | 二月騒動が起こる。北条一門の名越時章・教時兄弟が得宗被官・御内人である四方田時綱ら5人によって誅殺される。前将軍宗尊親王側近の中御門実隆、六波羅探題南方の北条時輔、安達頼景、世良田頼氏らも連座。前将軍宗尊親王は出家した。 |
9月25日(文永9年 9月 2日) | 二月騒動で殺害された名越時章は冤罪であったとして、討手の御内人5人が処刑される。ただ二月騒動は執権北条時宗と連署北条政村の命で行われたとみられる。 |
1273年 |
| アジュ、史天沢らモンゴル軍が、回回砲を投入し、南宋の樊城を攻略。守将張漢英は降伏。漢水を挟んで隣接する襄陽城への砲撃も開始され、守将呂文煥は降伏。南宋は重要拠点を失い、一気に長江流域まで危機的状況に陥る。 |
1274年 |
11月 4日(文永11年10月 5日) | 高麗の王子王賰(のちの忠烈王)の執拗な日本征討の主張により、元・漢・高麗の日本遠征軍4万が対馬に侵攻。文永の役(元寇)がはじまる。 |
11月13日(文永11年10月14日) | 元・漢・高麗の日本遠征軍が壱岐に侵攻。激戦となり両方に大きな被害を出す。 |
11月15日(文永11年10月16日) | 元・漢・高麗の日本遠征軍が平戸・松浦方面に上陸し、松浦党らと交戦。 |
11月19日(文永11年10月20日) | 元・漢・高麗の軍勢と九州の軍勢が博多周辺で交戦。日本側が大敗するも、元軍側も副将の劉復亨が負傷、矢玉も付き、高麗へ撤退。沖合で暴風に遭遇して、1万3500人が未帰還という大損害を出す。 |
1275年 |
| 蕪湖の戦い。賈似道率いる南宋軍が、バヤン、アジュ、呂文煥らの率いるモンゴル軍に大敗。 |
9月(徳佑元年 8月) | 南宋の宰相賈似道が敗戦の責任で失脚し、追放される途上、会稽県尉の鄭虎臣によって殺害される。 |
1278年 |
8月26日 | マルヒフェルトの戦い。ボヘミア王オタカル2世とドイツ王に推戴されたルドルフ・フォン・ハプスブルクが戦い、オタカルは戦死し、ルドルフが勝利。ハプスブルク家の伸張のきっかけとなる。 |
1279年 |
3月19日(祥興2年 2月 6日) | 崖山の戦い。元艦隊と南宋残存艦隊が戦い、祥興帝が陸秀夫とともに自殺して南宋は完全に滅亡。南越方面へ逃走した張世傑も船が嵐に遭遇して沈み死亡。 |
1280年 |
(至元17年) | 元の郭守敬・王恂・許衡らが、新たな暦法をまとめて、皇帝クビライ・カーンに提出。「授時暦」の名を与えられる。元朝および明朝の大半で使用された。日本でも授時暦を元に経度の差を取り入れて補正した大和暦が採用されている。 |
1282年 |
3月30日 | シチリアの晩祷事件。フランス系シチリア王シャルル・ダンジューの圧政に対し住民が蜂起した事件。教会の晩祷の鐘が鳴った時に住民が蜂起したため、こう呼ばれる。 |
1283年 |
1月 9日(至元19年12月 8日) | 南宋の臣で、モンゴルに囚われた後も、クビライの誘いを『正気の歌』を詠んで断り続けた文天祥が処刑される。 |
1284年 |
6月26日 | ドイツ・ハーメルンの町で子供130人余りが消息不明になる事件が起こる。いわゆるハーメルンの笛吹き男事件。 |
1285年 |
12月14日(弘安8年11月17日) | 弘安霜月騒動。最後の有力御家人、安達泰盛が、得宗家被官の御内人で内管領の平頼綱の兵に襲撃され合戦、滅ぼされる。また同じ時期に全国の安達氏の一門、及び与党御家人も相次いで襲撃されて滅ぼされた。 |
1289年 |
| モンペリエ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。それ以前から教育機関があったとされる。 |
1290年 |
| ポルトガル王ディニス1世によってコインブラ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。 |
1291年 |
8月 1日 | 神聖ローマ帝国のウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州の代表者が、リュトリの野に集結し、ハプスブルク家アルブレヒト1世の支配権に対抗する永久同盟「誓約者同盟」を結ぶ。これが後のスイスの発祥となる。 |
1293年 |
5月19日(正応6年 4月12日) | 鎌倉大地震。関東地方で津波を伴う巨大地震が発生。神社仏閣が多く倒壊。 |
5月29日(正応6年 4月22日) | 平禅門の乱。北条得宗家の御内人で鎌倉幕府の実権を握っていた平頼綱一族が、地震直後の混乱の中、執権貞時に誅殺される。なお、頼綱の弟ともされる長崎光綱は執権側についていたためか処罰されず、また霜月騒動で滅ぼされた安達一門の生き残り安達時顕などが登用されるきっかけともなった。 |
9月 6日(永仁元年 8月 5日) | 地震や旱魃を受けて、永仁へ改元。 |
1295年 |
1月 | モンゴルの皇族ボルジギン氏族ボドンチャルの子孫で、バアリン部の出自としてクビライ・カーンの重臣となり、テムル(オルジェイトゥ・カーン)の即位に貢献した将軍バヤンが死去。 |
1297年 |
1月 8日 | ローマ教皇を支持するゲルフ派のフランソワ・グリマルディらが、修道士姿で神聖ローマ帝国皇帝派(ギベリン派)の抑えるモナコ要塞に侵入し占拠。すぐに奪い返されるが、これをしてモナコ建国としている。 |
1303年 |
9月 | アナーニ事件。フランス国王フィリップ4世が対立していたローマ教皇ボニファティウス8世を襲撃し、イタリアのアナーニで捕らえる。 |
1307年 |
10月13日 | フランス王フィリップ4世の陰謀によりテンプル騎士団が壊滅する。同騎士団は聖地エルサレムとその巡礼を守護し、巡礼者の財産を預かる金融機関でもあったため、その経済力と資産を狙われたと言われる。この出来事が、13日の金曜日を不吉だとする説の要因の一つに挙げられる。 |
11月18日 | 弓の名手ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜く。代官ヘルマン・ゲスラーに逆らったことで強制された出来事。 |
1308年 |
9月 | 教皇クレメンス5世がフランス王国の要請で教皇庁をアヴィニョンに移し、アヴィニョン虜囚がはじまる。 |
1314年 |
6月24日 | バノックバーンの戦い。スコットランドに侵攻したイングランド軍がバノックバーンの湿地帯で大敗を喫した。 |
1315年 |
11月15日 | モルガルテンの戦い。スイス原初同盟と神聖ローマ帝国オーストリア公国との戦い。同盟側が勝利し原初同盟は発展することになる。 |
| ニュージーランド北島のタラウェラ山が大噴火。 |
| この年、ヨーロッパでは長雨と気温の低い状態が続き、穀物生産量が低下。家畜も多くが死に、大飢饉が起きる。タラウェラ山の噴火に伴う気象異変が原因という説が有力。 |
1316年 |
| この年も、ヨーロッパでは長雨と気温の低い状態が続き、大飢饉は継続。 |
1317年 |
| この年の夏になり、ようやく異常気象が回復するも、大飢饉の影響は1325年ころまで続いたと言われる。 |
1319年 |
1月12日(文保2年12月20日) | 鎌倉殿中問答がはじまる。北条高時のもと、法華宗の日印が諸宗派と問答を行う。日静によって記録された。 |
10月28日(元応元年9月15日) | 鎌倉殿中問答が終わる。日印がことごとく論破し法華宗が布教を許されたという。 |
1320年 |
| この頃から数年間、中国でペストが流行する。 |
1322年 |
1月16日(元亨元年12月28日) | 後醍醐天皇の親政。院政の後宇多法皇の引退に伴い親政へ。 |
1324年 |
7月16日(元亨4年 6月25日) | 後宇多法皇が崩御。生前の法皇の意向に従い、大覚寺統の後二条天皇の皇子邦良親王に皇位を譲る動きが起こる(持明院統はこの次の皇位を受け継ぐことで了承)。本来中継ぎとして即位した後醍醐天皇はこれに反発し、鎌倉幕府の倒幕へ乗り出す。 |
10月 7日(元亨4年 9月19日) | 後醍醐天皇の意を受けた日野資朝、日野俊基らが倒幕のための工作を進めていることが発覚(倒幕派の土岐頼員が妻(六波羅評定衆の斉藤利行の娘)に漏らして発覚したと言われる)。倒幕側に与して上洛していた御家人多治見国長・土岐頼兼らが六波羅探題の小串範行、山本時綱らの討伐を受ける。日野資朝らは捕縛。正中の変。日野資朝が首謀者として佐渡流罪となるが、天皇は無関係として不問とされた。 |
| マリ帝国の第9代王マンサ・ムーサが数万の従者を連れてメッカへの巡礼を行う。大量の金を持っていき、エジプトのカイロでばらまいた大量の金のために、金相場が下落したと言われる。 |
1325年 |
6月 | モロッコのイスラム教徒イブン・バットゥータが聖地メッカへの巡礼の旅に出る。以後30年に渡り、彼は中東、アフリカ東岸、西アジア、南アジア、東南アジア、中国、さらにサハラなど世界各地へ大旅行を行ったと言われる(ただし記録はイブン・ジュザイイが彼の口述を聞いて記した書しかないため疑問点も多い)。 |
1326年 |
4月16日(正中3年 3月13日) | 14代執権北条高時が病のために出家する。後継を巡って、高時の弟北条泰家を推す安達時顕(高時の妻の父)と、高時の長男邦時を将来の候補として中継ぎに金沢貞顕を推す内管領長崎高資が対立。 |
4月19日(正中3年 3月16日) | 北条家の一門金沢貞顕が15代執権に就任。対立候補だった北条泰家は出家。 |
4月29日(正中3年 3月26日) | 金沢貞顕の執権就任に反対するものが多数出て身の危険を感じた貞顕は、出家して執権職を辞任。 |
5月26日(正中3年 4月24日) | 北条家の一門赤橋守時が16代執権に就任。最後の執権。実権は高時と長崎高資にあり、形式的なものだったとも言われる。なお守時は鎌倉幕府を倒した足利尊氏の義兄でもある。 |
1328年 |
| フランス・カペー朝のシャルル4世が男児の後継者を残さず没したため断絶(カペー朝は男系相続)。分家のヴァロワ家のフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝フランス王国が成立。母方がカペー朝の血筋であるイングランド王エドワード3世がカペー朝の王位継承権を主張し、百年戦争の要因の一つとなった。 |
1331年 |
9月26日(元弘元年 8月24日) | 後醍醐天皇、京を脱出。 |
9月29日(元弘元年 8月27日) | 後醍醐天皇、笠置山に入る。 |
10月 4日(元弘元年 9月 2日) | 幕府軍が笠置山を攻撃。笠置山の戦い。 |
10月13日(元弘元年 9月11日) | 楠木正成、下赤坂城で挙兵。 |
10月22日(元弘元年 9月20日) | 光厳天皇即位。 |
10月30日(元弘元年 9月28日) | 笠置山陥落。後醍醐天皇ら捕らえられる。 |
11月21日(元弘元年10月21日) | 下赤坂城陥落。楠木正成は行方をくらます。 |
1332年 |
4月 2日(元弘2年 3月 7日) | 後醍醐天皇、隠岐の島へ流される。 |
1333年 |
4月 9日(元弘3年閏2月24日) | 後醍醐天皇、隠岐の島を脱出。 |
6月20日(元弘3年 5月 8日) | 新田義貞が鎌倉に対し150騎あまりで挙兵。 |
6月21日(元弘3年 5月 9日) | 新田義貞の軍勢に足利尊氏の嫡男千寿王(後の足利義詮)が合流し、関東中の軍勢が参集し始める。 |
6月23日(元弘3年 5月11日) | 新田義貞率いる軍勢と鎌倉幕府軍が衝突。小手指原の戦い。新田軍が勝利する。 |
6月24日(元弘3年 5月12日) | 新田義貞率いる軍勢と鎌倉幕府軍が衝突。久米川の戦い。新田軍が勝利する。 |
6月27日(元弘3年 5月15日) | 翌16日にかけて新田義貞率いる軍勢と鎌倉幕府軍が衝突。分倍河原の戦い。一旦は鎌倉軍が勝利するも、新田軍が逆転勝利。 |
7月 4日(元弘3年 5月22日) | 新田義貞率いる軍勢が鎌倉を攻め、潮が引いたところを稲村ヶ崎から回って市街地へ侵入。北条基時、北条高時、北条貞顕ら北条一族283人と、長崎高重、安達時顕らを含む計870人が東勝寺で自刃し、鎌倉幕府は滅亡。 |
| 北条氏の一門名越時如と安達高景(異説あり)らが御内人の曽我道性のもとへ逃亡。陸奥大光寺城に籠城する。地元豪族らと交戦(大光寺合戦)。 |
1334年 |
12月15日(元弘4年11月19日) | 大光寺城・石川城・持寄城などで繰り広げられた大光寺合戦が終結。名越時如らは降伏する。 |
| ポーランド王国を整備し発展させたカジミェシュ3世大王がユダヤ人を保護するカリシュの法令を改めて承認。 |
1335年 |
7月(正慶4年/建武2年7月) | 北条時行が挙兵し、鎌倉を占拠する。中先代の乱。足利尊氏の遠征軍に敗れ20日ほどで壊乱。 |
1336年 |
1月24日(建武2年12月11日) | 箱根・竹ノ下の戦い。足利尊氏と後醍醐天皇側の新田義貞が軍事衝突した戦い。足利軍が勝利し、京へ進撃する。 |
2月23日(建武3年 1月11日) | 足利尊氏入京。 |
3月13日(建武3年 1月30日) | 足利尊氏と、北畠顕家・楠木正成・新田義貞の軍勢が戦闘し、尊氏らは京を退去。 |
3月23日(建武3年 2月10日) | 豊島河原の戦い。足利尊氏と、北畠顕家・楠木正成・新田義貞の軍勢が再度衝突し、尊氏ら大敗を喫して播磨室津へ退却。その後九州まで落ち延びる。 |
4月 2日(建武3年 2月20日) | 足利尊氏ら九州に到着。九州の少弐頼尚、宗像氏範、大友氏泰ら有力諸将が味方につく。 |
4月11日(建武3年/延元元年 2月29日) | 後醍醐天皇、年号を建武から延元に改元。足利方はこれを採用せず。 |
4月13日(建武3年/延元元年 3月 2日) | 多々良浜の戦い。足利尊氏ら諸将と後醍醐天皇方に付いた菊池武敏らが戦い尊氏が勝利する。 |
5月14日(建武3年/延元元年 4月 3日) | 足利尊氏、京に向かうため、博多を出発。 |
6月12日(建武3年/延元元年 5月 3日) | 足利尊氏、光厳上皇の使者として来た三宝院賢俊(日野賢俊)から院宣と錦旗を受け取る。 |
7月 4日(建武3年/延元元年 5月25日) | 湊川の戦い。東上してきた足利尊氏ら西国諸将の水陸軍と、楠木正成・新田義貞らの後醍醐天皇方諸軍が衝突。新田勢が後退したため、楠木勢は孤立し大敗。楠正成・正季兄弟は自害。新田勢は立て直しを図るが大敗し退却した。建武政権に不満を持つ西日本の有力諸将の多くが足利方に付き、新田勢などからも離反が相次いだことと、水軍の有無が勝敗を決めたとされる。なお楠木正成はこれを予測し、新田義貞排除と足利尊氏との和睦を訴えていたと言われる。 |
7月22日(建武3年/延元元年 6月14日) | 足利尊氏、京に戻る。 |
7月23日(建武3年/延元元年 6月15日) | 光厳上皇、年号を延元から建武に戻す。 |
9月20日(建武3年/延元元年 8月15日) | 光明天皇即位。 |
11月13日(建武3年/延元元年10月10日) | 後醍醐天皇、京に戻り、花山院に幽閉される。 |
12月10日(建武3年/延元元年11月 7日) | 足利尊氏、建武式目17条を制定。 |
1337年 |
1月23日(建武3年/延元元年12月21日) | 後醍醐天皇が花山院を脱出。 |
1月30日(建武3年/延元元年12月28日) | 後醍醐天皇が吉野吉水院に行宮を定め、南北朝対立が始まる。 |
11月 1日 | ギュイエンヌをめぐる対立と、フランスの王位継承問題、スコットランド問題が絡んで、プランタジネット朝イングランド王エドワード3世が、ヴァロワ朝フランス王国フィリップ6世に対し宣戦を布告。百年戦争が始まる。 |
1338年 |
9月24日(暦応元年/延元3年 8月11日) | 足利尊氏、征夷大将軍となる。 |
1339年 |
9月19日(暦応2年/延元4年 8月16日) | 後醍醐天皇が崩御。 |
1340年 |
6月24日 | 百年戦争スロイスの海戦。 |
7月26日 | 百年戦争サン・トメールの戦い。 |
1342年 |
1月30日(暦応4年12月23日) | 足利直義と夢窓疎石が交渉し、天龍寺造営のための資金を集めるため、元へ天龍寺船を派遣することを決める。8月(康永元年)天龍寺船を元に派遣。 |
1345年 |
9月25日(貞和元年8月29日) | 足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山とする天龍寺が落慶供養。足利尊氏が、敵対した後醍醐天皇の供養のために、夢窓疎石の進言で創建したもので、落慶供養は後醍醐天皇の七回忌に合わせた。 |
10月21日 | 百年戦争オーブロッシェの戦い。 |
| この年、イスラムの旅行家イブン・バットゥータが元朝の都、大都を訪れる。 |
1346年 |
7月26日 | 百年戦争カーンの戦い。 |
8月26日 | 百年戦争クレシーの戦い。 |
10月17日 | 百年戦争ネヴィルズ・クロスの戦い。 |
1347年 |
8月 3日 | 百年戦争中に起こったカレー包囲戦で、カレー住民がイングランドに降伏。この際、市民6人が、全市民の命を救うために処刑になるのを覚悟で自らイングランド王エドワード3世に出頭し、「カレーの市民」として有名になる。6人は最終的に許された。 |
10月 | シチリア島メッシーナに到着したコンスタンティノープルからの船でペストが上陸。以降、沿岸交易都市などへ徐々に広がっていく。年代は1346年説あり。 |
1348年 |
2月 4日(正平3年/貞和4年1月5日) | 四條畷の戦い。南朝方の楠木正行と北朝方の高師直との間で行われた闘いで、楠木正行は敗死。高師直は勢いに乗って吉野まで攻め、後村上天皇らは賀名生にまで落ち延びる。 |
4月23日 | イングランド王エドワード3世がガーター騎士団を創設。 |
| ペスト禍がヨーロッパ全土へと拡大。1350年までにヨーロッパの人口の3分の1から3分の2(2000万から3000万人)が死亡し、農民の減少で荘園制が大きなダメージを受ける。また人手のかからない牧羊が盛んになったといわれる。また多数のユダヤ人がペストの原因だとして殺された。ペスト菌は非常に致死率が高く、感染力も高い。内出血で皮膚が黒くなるため、「黒死病」とも呼ばれた。酒で消毒するなど生活習慣の違いや、ネズミを捕食する肉食獣の存在から感染が広がらなかった地方もある。全世界では8500万人が死亡したとみられ、人類史上もっとも規模の大きかったパンデミックのひとつ。 |
1350年 |
8月29日 | 百年戦争ウィンチェルシーの海戦。 |
1351年 |
3月 4日 | ラーマーティボーディー1世がアユタヤ王朝を興す。 |
10月14日(正平6年/観応2年 9月24日) | 観応の擾乱で、対立する足利尊氏と足利直義が、近江興福寺で和睦交渉を行うが決裂。 |
11月13日(正平6年/観応2年10月24日) | 観応の擾乱で、足利直義・直冬勢力に対し劣勢となった足利尊氏・義詮は、佐々木道誉らの提案を受け、南朝方に降伏する。これにより、南朝方の直義・直冬追討の綸旨を得る。いわゆる正平一統。 |
11月26日(正平6年/観応2年11月 7日) | 南朝方により崇光天皇が廃され、年号を正平に統一することとなる。 |
1352年 |
1月10日(正平6年/観応2年12月23日) | 南朝方勢力が京へ進出し、三種の神器が引き渡される。ここで一旦南朝政権となる。 |
1月14日(正平6年/観応2年12月27日) | 駿河まで進出した足利尊氏勢と、足利直義勢が由比・蒲原付近で衝突。尊氏側が大勝する。一般には薩埵峠の戦いと言われる。 |
1月22日(正平7年/観応3年 1月 5日) | 足利尊氏が鎌倉に入り、足利直義は降伏。 |
3月12日(正平7年/観応3年 2月26日) | 足利直義が急死する。敵対した兄尊氏による毒殺説も。 |
4月 5日(正平7年/観応3年閏2月20日) | 観応の擾乱が終息する方向へ動き出したことから、南朝方の北畠親房は足利尊氏排除を決め、正平の一統を破棄。楠木正儀、北畠顕能らを京に侵攻させる。七条大宮の戦いで足利方の細川頼春が戦死し、足利義詮は近江へ脱出。南朝の後村上天皇は、行宮を賀名生から摂津住吉を経て、京に近い男山八幡へと移す。 |
4月29日(正平7年/観応3年 3月15日) | 足利義詮は近江で各地の有力守護の軍勢を集結、京へ侵攻し奪還する。更に男山八幡の行宮を包囲。 |
6月23日(正平7年/観応3年 5月11日) | 後村上天皇らが光厳・光明・崇光の北朝3上皇及び廃太子直仁を連れて男山八幡の行宮を脱出。 |
9月25日(正平7年/観応3年 8月17日) | 足利尊氏・義詮は、三種の神器がないまま、南朝方の拉致を免れた第3皇子弥仁親王を即位させる(後光厳天皇)。 |
1353年 |
6月21日(文和2年 5月20日) | 北条高時の子で、中先代の乱で擁立され、その後は南朝方武将として各地を転戦した北条時行が鎌倉龍ノ口で処刑される。子孫は横井氏を名乗った(幕末の横井小楠(北条平四郎時存)など)。 |
1355年 |
(正平10年/文和4年) | 南朝方に拉致されていた北朝3上皇のうち光明上皇のみ京に戻される。 |
1356年 |
9月19日 | 百年戦争ポアティエの戦い。 |
(正平11年/延文元年10月) | 南朝方の菊池武光らが、侵攻してきた北朝方の一色範氏を打ち破る。 |
1357年 |
(正平12年/延文2年 2月) | 南朝方に拉致されていた北朝3上皇のうち残っていた光厳上皇と崇光上皇が京に戻される。この結果、北朝方の後光厳天皇と、戻った崇光上皇との間で、次の皇位継承に関する対立が起こる(後光厳天皇は緒仁親王を、崇光上皇は栄仁親王を推した)。皇位は緒仁親王が継ぐことになるが(後円融天皇)、のちに称光天皇のあとを崇光天皇のひ孫である後花園天皇が受け継ぎ、その弟貞常親王が伏見宮家を起こすため、現在の皇室と、伏見宮家の血統である旧皇族11宮家は、すべて崇光天皇の系統となる。 |
1358年 |
5月 | フランス北部で農民主体の反乱ジャックリーの乱が勃発。ギヨーム・カルルを指導者として各地へと拡大。 |
6月 | フランス王国軍によってジャックリーの乱が鎮圧される。 |
(正平13年/延文3年)11月) | 南朝方の菊池武光らが、日向守護で独立勢力を保っていた畠山直顕を破り、豊後へと敗走させる。これにより、九州から北朝方の主な勢力は失われる。 |
1359年 |
8月29日(正平14年/延文4年 8月 6日) | 筑後川の戦い。南朝征西府の懐良親王と菊池武光らが、侵攻してきた北朝方の少弐頼尚、大友氏時らと筑後川で対陣。この日激戦となり、南朝方が勝利。以後13年に渡り、九州は南朝方が席巻することとなる。 |
1361年 |
7月24日(正平16年/康安元年 6月22日) | 正平地震(康安地震)。京・大和で大きな地震がある。難波浦では大津波が襲い死者多数。雪が降ったという記録もある。 |
7月26日(正平16年/康安元年 6月24日) | 大きな地震があり、京・大和・摂津の各寺社の被害多数。 |
1362年 |
(正平16年/康安元年) 8月) | 長者原の戦い。九州探題斯波氏経が、大宰府を攻撃するが、菊池武義、菊池武光、城武顕らによって撃退される。 |
12月28日(正平22年/貞治6年12月 7日) | 幕府2代将軍足利義詮が病死。死の前に管領細川頼之に後事を頼み、幼少の足利義満が跡を継ぐこととなる。 |
1368年 |
(至正28年1月) | 朱元璋が、応天府で即位。明朝を建国。 |
(正平23年/応安元年 2月) | 将軍足利義詮の死去の混乱をついて、南朝征西府の懐良親王、菊池武光らは、全九州の諸勢力7万騎を率いて、東征を計画。手始めに周防・長門への進出を図るが、大内弘世に敗れ、早々に挫折することとなる。 |
9月10日(至正28年閏7月28日) | 明の軍勢が大都に迫り、元朝の第11代皇帝(モンゴルの第15代ハーン)トゴン・テムル(恵宗)は大都を放棄して北走する。明は大都を北平府と改称。一般的には、これを持って元朝は滅亡したとするが、モンゴルはその後も中国の北方からモンゴル高原、西域にかけて大きな勢力を維持したため(北元ともいう)、厳密には滅んではいない。 |
1370年 |
5月23日(至正30年4月28日) | 元朝の第11代皇帝トゴン・テムル(恵宗)が落ち延びた先の応昌府で崩御。明朝からは天命を失い、明に譲ったという皮肉を込めた意味で順帝の諡号を贈られた。子のアユルシリダラが即位するが、直後に明軍の遠征によって応昌府も陥落。 |
1371年 |
(洪武4年) | 明が、四川の大夏を攻め、2代皇帝明昇が降伏して、大夏は滅亡。 |
1372年 |
9月 9日(文中元年/応安5年(1372年)8月12日) | 今川了俊率いる北朝方が、大宰府を攻め落とし、南朝征西府の懐良親王、菊池武光らは、高良山へと撤退。征西府は事実上崩壊。 |
1373年 |
9月12日(文中2年/応安6年 8月25日) | 婆沙羅大名として知られた佐々木道誉(高氏)が死去。 |
12月29日(文中2年/応安6年11月16日) | 南朝方の有力武将として九州を席巻した菊池武光が死去。 |
1375年 |
9月22日(永和元年/天授元年 8月26日) | 水島の変。北朝方の今川了俊が九州探題になって以降、勢力を拡大したため、同じ北朝方だった少弐冬資と対立。了俊は肥後の南朝方に対抗するため、九州の有力守護である島津氏久、大友親世、少弐冬資を肥後水島に呼ぶが、少弐冬資のみ応じなかったため、島津氏久を介して来援を求める。しかし現れた少弐冬資を宴席で暗殺に及んだ。この事件を受けて島津氏は反発し、北朝方から離脱。大友親世も協力しなくなる。少弐氏は少弐頼澄があとを継ぎ、南朝方に転じる。 |
9月25日(永和元年/天授元年 8月29日) | 水島の変を受けて、南朝方の菊池武朝が菊池武義らとともに筑後で蜂起し、今川方が大敗する。 |
| マムルーク朝によってアナトリア南岸にあったキリキア・アルメニア王国が滅亡する。国王レヴォン6世らは捕虜になった後出国。 |
1377年 |
2月21日(永和3年/天授3年 1月13日) | 肥前蜷打の戦い。水島の変以降、勢いを盛り返した九州の南朝方勢力だったが、九州探題今川了俊が、大友親世・大内義弘の協力を取り付けることに成功し反撃。南朝方は大敗し、菊池武義、阿蘇惟武などが討ち死に。阿蘇氏はこれ以降内紛状態となり、菊池氏も肥後まで撤退。 |
1378年 |
4月 7日(天授4年/永和4年 3月10日) | 足利将軍家の邸宅として造営された花の御所(室町第)に幕府が置かれる。いわゆる「室町幕府」の語源。 |
9月20日 | カトリック教会大分裂(大シスマ)。ローマ教皇ウルバヌス6世に反発したフランス人枢機卿らが、ロベール・ド・ジュネーヴを教皇(クレメンス7世)に選出し、カトリックの教皇がローマとアヴィニョンに分裂並立する。 |
| フィレンツェ共和国で、下層梳毛工らが反乱を起こす。チョンピの乱(~1382年)。 |
4月 7日(天授5年/康暦元年閏4月14日) | 康暦の政変。管領細川頼之が、対立した守護や宗教勢力の圧力を受けて失脚。足利義満が権力を強めるために画策したとも言われる。 |
1380年 |
2月12日(洪武13年 1月 6日) | 明の洪武帝によって、建国の功臣である胡惟庸が処刑される。洪武帝の軍師だった劉基と対立したことや、敵対した勢力に対する弾圧などを行ったことから、洪武帝の猜疑心が強まり、「北元や日本と通じた」として粛清された。胡惟庸の一派もことごとく処刑されたため、胡惟庸の獄と呼ばれる。ただ、洪武帝の権力強化や海禁政策のための口実で処刑されたという見方もある。 |
1381年 |
5月30日 | イングランドで農民らが反乱。農民ワット・タイラー、ジョン・ボール神父らを指導者とし、カンタベリー、ついでロンドンに侵攻。国王リチャード2世と会見。 |
6月15日 | ワット・タイラー、国王リチャード2世との2度めの会見のさなかに、同席していたロンドン市長ウィリアム・ウォールワースによって殺害される。反乱も終息。 |
7月15日 | ワット・タイラーの乱の指導者の一人ジョン・ボール神父が処刑される。 |
(洪武14年) | 明が、雲南を平定して、中国を統一。 |
(洪武14年) | 明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)が、「文字の獄」を引き起こし知識層を弾圧。知識層が文書などに「光」などの文字を使っただけで「皇帝をそしっている」と難癖をつけて処罰した。出自の身分が低かったために、過剰反応したものと思われる。 |
1382年 |
(洪武15年) | 明の洪武帝によって「空印の案」の粛清事件が起きる。中央への収支報告書の煩瑣な手続きをなくすため、あらかじめ印を押しておいた書類を用意して記載する慣習が行われていることに洪武帝が激怒し、各地の地方長官と印の管理者を処刑した事件。 |
1385年 |
4月 7日(洪武18年2月27日) | 明の洪武帝の側近で、明朝建国に多大な功績のあった徐達が死去。右丞相・魏国公にまでのぼったが、あまりに功績が大きすぎたのと、地位に奢ることのなかった性格から人望が厚く、猜疑心の強くなった洪武帝に疎まれるようになっていたと言う。そのため、病死説のほかに暗殺説もある。 |
1386年 |
| かねて同盟関係にあったイングランドとポルトガルの間でウィンザー条約が結ばれる。現存最古の二国間同盟条約。 |
1389年 |
6月15日 | コソボの戦い。セルビア、ボスニア、ワラキアなどバルカン諸侯軍と、オスマン帝国軍が会戦し、オスマン軍が大勝。オスマン帝国のバルカン半島征服のきっかけとなる。 |
1390年 |
閏3月(明徳元年/元中7年4月) | 土岐康行の乱。将軍足利義満が任命した尾張守護を巡って起こった土岐氏の内紛から起きた反乱。敗北した土岐康行は美濃・伊勢の守護職を失い一時没落する(明徳の乱での功績で伊勢北半国守護に復帰)。 |
1392年 |
1月13日(明徳2年/元中8年12月19日) | 明徳の乱。11カ国を守護領有した「六分一殿」山名氏が、将軍足利義満と対立し挙兵。京・内野で戦闘となるが、1日で山名氏は大敗し、3カ国にまで減らされる。 |
11月12日(明徳3年/元中9年10月27日) | 明徳の和約。北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)の皇位継承で合一が決まる。将軍足利義満と、南朝総大将ながら一時北朝に属した経験のある和平派の楠木正儀との間で協議が行われ、北朝からは義満側近の神祇官吉田兼煕、南朝からは前内大臣阿野実為と、右大臣吉田宗房が交渉を受け継いだ。南朝の強硬派だった長慶天皇から穏健派の後亀山天皇に代わり、一気に交渉が進んだと見られる。南朝が北朝に「譲国」し、国衙領は大覚寺統に、長講堂領は持明院統に与えられ、後亀山天皇は京都へ戻り、皇位は北朝の後小松天皇がそのまま引き継いで、以降は両統迭立とするという内容だった。 |
11月19日(明徳3年閏10月5日) | 後亀山天皇が入った大覚寺から、後小松天皇のいる土御門内裏へ三種の神器が移される。南朝の終了に伴い、南朝が使用した年号も廃止される。 |
1393年 |
3月27日 | 権知高麗国事として事実上高麗国の王となっていた李成桂が正式に朝鮮王となる。李氏朝鮮の初代国王。なお出自は全州李氏とされているが、李成桂以前の歴代の記録が曖昧なため、女真族、モンゴル族という説もある。 |
| 明の洪武帝によって、大将軍・涼国公の藍玉が粛清され、一族や関係者ら最大3万人が連座する。藍玉が大きな権力を持ったことと、傲慢な振る舞いが目立ったことが要因。 |
1394年 |
4月 7日(明徳5年 3月 7日) | 梶山城の戦い。九州探題今川了俊と対立する島津氏討伐のため、了俊とその指揮下の肥後相良氏、日向伊東氏・北原氏・土持氏が島津方の和田正覚が籠もる梶山城を攻撃。島津氏と一族の北郷氏が応戦するが、北郷久秀らが討ち死にし、梶山城は陥落。 |
1395年 |
1月 8日(応永元年12月17日) | 足利義満が、9歳の子、足利義持を元服させ将軍位を譲る。 |
| ルケニ・ルア・ニミがコンゴ一帯を統一し、コンゴ王国を成立させる。 |
1396年 |
9月25日 | ニコポリスの戦い。オスマン帝国と、ハンガリーを中心としてフランス、イングランド、スコットランド、ワラキア、スイス同盟、ポーランド、神聖ローマ帝国、ジェノヴァ、ヴェネチアの諸国連合軍が衝突し、オスマン帝国が圧勝する。 |
1398年 |
| この頃、スコットランドとノルウェーの貴族であるオークニー伯ヘンリー・シンクレアが、グリーンランドと北アメリカを探検したという伝承がある。1400年ころにヴェネツィアのゼノ兄弟によって書かれたとされる手紙と北大西洋を描いたゼノマップ(1558年の書物に出てくる)に登場する人物ジクムニ王子に比定されているが史実の信憑性は低い。 |
1400年 |
1月17日(応永6年12月21日) | 応永の乱が終結。最大の守護大名、大内義弘と鎌倉公方による幕府への反乱。義弘は戦死するが、大内氏は滅亡せず、弟らが反乱し続けた結果、幕府が譲歩し守護大名に復帰する。 |
1(応永7年7月) | 信濃守護の小笠原長秀が京から下向し、信濃支配を強めようとしたため、善光寺平で、村上氏・海野氏・高梨氏・井上氏など中小国人領主の連合軍と合戦となり、小笠原長秀は敗北して京へ逃げ帰る。大塔合戦。 |
1402年 |
7月20日 | アンカラの戦い。バヤズィト1世率いるオスマン帝国軍と、ティムール率いる各国連合軍との会戦。退却中にバヤズィトが捕虜となりオスマン帝国は大敗。 |
1404年 |
| 李氏朝鮮、済州島の耽羅王朝王族が称していた各種称号を廃止。事実上の耽羅国の滅亡。 |
1405年 |
2月18日 | ティムール帝国を築いたティムールが明への遠征の途上で病死。死後ティムール王朝は分裂。 |
7月11日(永楽3年6月15日) | 明の時代の武将で宦官の鄭和、第1次航海へ出発。 |
1407年 |
| 明の鄭和艦隊、インドのカリカットに到着。同年帰国後、すぐに2回目の航海に出発。 |
1409年 |
3月25日 | ピサ教会会議でローマとアヴィニョンの枢機卿が集結し、全会一致でアレクサンデル5世の選出を決めるも、二人の教皇が了承せず、教皇が3人鼎立する異常事態となる。 |
| 明の鄭和艦隊、セイロンに到着。同年帰国後、すぐに3回目の航海に出発。 |
1411年 |
| 明の鄭和艦隊、インドやシャムなどをまわり帰国。 |
1412年 |
1月 6日 | ジャンヌ・ダルクがフランスのロレーヌ地方にあるドンレミ村の農家に生まれる。 |
1413年 |
| 明の鄭和艦隊、4回目の航海に出発。 |
(応永20年) | 薩摩島津氏の一族伊集院頼久が、かねて島津家家督相続の問題で対立していた守護島津久豊の留守中に居城清水城を奪う。伊集院頼久の乱のはじまり。 |
1414年 |
11月 1日 | 神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱により、コンスタンツ公会議がはじまり、3人の教皇が立つ教会大分裂の解消や、宗教改革運動などが議題となる。カトリックを批判したジョン・ウィクリフの著書が禁止され、ヤン・フスの処刑が決まる。 |
1415年 |
7月 6日 | 宗教改革を訴えたヤン・フスが火刑に処せられる。 |
| 明の鄭和艦隊、東南アジア、インド、セイロン、中東各地や東アフリカをまわり帰国。 |
1416年 |
10月22日(応永23年10月2日) | 上杉禅秀の乱勃発。鎌倉公方足利持氏に対し、関東管領職を追われた上杉氏憲(禅秀)が一族や縁者らを集めて起こした反乱。 |
| 明の鄭和艦隊、5回目の航海に出発。 |
1417年 |
1月18日(応永24年 1月 1日) | 上杉氏憲らが足利持氏側に付いた江戸氏、豊島氏の勢力を世谷原の戦いで破るも、この隙に駿河より今川軍が侵攻してきたため鎌倉へ退却。 |
1月27日(応永24年 1月10日) | 上杉氏憲らが自刃して上杉禅秀の乱が終息。しかしこの乱に関わったとして中央でも政変が相次ぐことに。 |
11月11日 | ローマ教皇マルティヌス5世が選出され、教会分裂が収束する。 |
(応永24年) | 数年に渡り争っていた島津久豊と伊集院頼久が、久豊が後妻に頼久の娘を娶り、頼久は家督を息子に譲って隠居することで和解し、伊集院頼久の乱が終結。 |
1418年 |
5月(応永25年4月) | 上杉禅秀の乱後の影響を恐れた上総の武士らが一揆を起こす。上総本一揆。 |
7月 2日(応永25年 5月28日) | 平三城が陥落して上総本一揆が一旦終息。 |
1419年 |
3月29日(応永26年 3月 3日) | 上総本一揆が再燃し、坂本城で戦闘が繰り広げられる。 |
5月30日(応永26年 5月 6日) | 上総本一揆の指導者埴谷重氏らが降伏し一揆は終結。 |
5月31日(応永26年 5月 7日) | 倭寇の集団が朝鮮庇仁県などを襲撃。 |
7月12日(応永26年 6月20日) | 李氏朝鮮の軍隊が対馬に侵攻。倭寇の拠点とみなされたため。 |
7月18日(応永26年 6月26日) | 対馬糠岳の戦い。 |
7月19日(応永26年 6月27日) | 李氏朝鮮の軍隊が退却を開始。朝鮮側の記録では宗貞盛が修好を求めたことと暴風の季節になったためとしているが、少弐満貞の記録では前日の糠岳での戦いで朝鮮側に大きな被害が出たためとしている。 |
7月30日 | 第一次プラハ窓外投擲事件。ボヘミアで宗教改革を訴えたフス派がカトリックや国王の態度に腹を立て、市庁舎を襲い、市長らを窓の外に放り投げて殺害する。 |
8月16日 | プラハ窓外投擲事件を聞いてショックを受けたボヘミア王ヴァーツラフ4世が死亡する。 |
| 明の鄭和艦隊、東南アジア、インド、セイロン、中東各地や東アフリカをまわり帰国。 |
1421年 |
| 明の鄭和艦隊、6回目の航海に出発。 |
1422年 |
| 明の鄭和艦隊、アラビア半島、東アフリカを回って帰国。 |
1425年 |
| ジャンヌ・ダルクが、聖女カトリーヌ、マルグリット、大天使ミカエルの、「オルレアンの包囲を解いてフランスを救うように」という「声」を聞き、王太子シャルルの元へ向かう。 |
1428年 |
9月(正長2年 8月) | 正長の土一揆が起こる。徳政などを求めた記録上最初の大規模農民一揆。 |
1429年 |
6月12日 | ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍がジャルジョーを占領し、イギリス軍司令官サフォーク伯を捕らえる。 |
6月18日 | パテーの戦いで、リッシュモン大元帥、ジャンヌ・ダルク、アランソン公らの率いるフランス軍が、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットとジョン・ファストルフの率いるイングランド軍に大勝利を収める。 |
7月17日 | シャルル王太子がノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げ、正式にフランス国王シャルル7世となる。 |
8月15日(正長2年 7月15日) | 大和永享の乱勃発。大和で豊田氏と井戸氏が紛争を起こし、これに長年対立している越智氏と筒井氏がそれぞれに加勢。興福寺や幕府を巻き込む戦乱に発展。 |
1430年 |
5月23日 | ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュの戦いでフィリップ善良公の率いるブルゴーニュ軍に捕えられる。 |
12月24日 | ジャンヌ・ダルクがイングランド軍に引き渡され、ルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。 |
| 明の鄭和艦隊、7回目の航海に出発。 |
1431年 |
2月21日 | フランスのルーアンにおいて、イングランドの影響下でジャンヌ・ダルクの異端審問裁判が始まる。 |
5月24日 | ジャンヌ・ダルクにサン=トゥアン修道院の仮設法廷で死刑判決が言い渡される。一旦は改宗を条件に永牢に減刑されるが、ジャンヌが牢内で男装したとして、異端再犯として死刑が確定する。 |
5月30日 | ジャンヌ・ダルクが火刑に処される。 |
1432年 |
5月 6日 | フランドル派を代表する祭壇画である『ヘントの祭壇画』が公開される。 |
1433年 |
10月28日(永享5年9月16日) | 永享大地震。関東から近畿にかけて大きな地震が発生。特に鎌倉で被害甚大。利根川が逆流したという記録があり津波があったとみられる。相模トラフを震源とするマグニチュード7以上の地震か。 |
| 明の鄭和艦隊、インド、セイロン、マラッカなどをまわり帰国。鄭和は間もなく死去。 |
1435年 |
(永享7年) | この頃、窪八幡神社別当上之坊普賢寺の『王代記』に、富士山中腹で火炎を観測したという記録がある。若干の溶岩流出を伴う噴火があったものか。 |
1437年 |
6月25日(永享9年 5月22日) | 大和永享の乱で、越智維通と斯波持有ら幕府方が合戦となる。決着つかず。 |
8月12日(永享9年 7月11日) | 足利義教の弟で対立関係にあった大覚寺義昭が大覚寺を出奔。大和吉野へ向かったという風聞が広まる。 |
1438年 |
7月(永享10年 6月) | 関東公方・足利持氏が、不和となっていた関東管領上杉憲実の諫言を無視して、将軍の許しを得ずに嫡男賢王丸の元服を鶴ヶ岡八幡宮で行い、八幡太郎義久と名乗らせる。永享の乱の始まり。 |
8月(永享10年 8月) | 上杉憲実、上野平井城へ逃れる。足利持氏、討伐軍を派遣。将軍足利義教は持氏討伐を命じる。 |
9月(永享10年 9月) | 大和吉野で大覚寺関係者などが討伐される。大覚寺義昭が関与していたかは不明。 |
10月16日(永享10年 9月27日) | 幕府軍の今川範忠、上杉持房らが持氏方の軍勢を破り、鎌倉に迫る。 |
10月22日(永享10年10月 4日) | 上杉憲実、上野平井城を出陣。持氏を攻めることをよしとしなかったため、家宰の長尾忠政が兵を率いて鎌倉へ向かう。 |
11月21日(永享10年11月 4日) | 足利持氏、称名寺に入り出家。将軍足利義教は、上杉憲実の持氏助命嘆願に対し、討伐を命じる。 |
1439年 |
3月24日(永享11年 2月10日) | 足利持氏、上杉憲実の軍に攻められ、永安寺で自刃。 |
4月(永享11年 3月) | 越智維通が討ち死にし、大和永享の乱は終息。 |
1440年 |
4月(永享12年 3月) | 結城合戦が勃発。永享の乱で滅ぼされた足利持氏に代わり、将軍足利義教は自らの子息を鎌倉公方にしようとしたため、結城氏朝・持朝らが持氏の遺児を擁して起こした反乱。 |
7月23日(永享12年 6月24日) | 結城氏朝・持朝らに呼応した東北諸将が篠川御所を襲撃し、篠川公方足利満直を滅ぼす。 |
8月26日(永享12年 7月29日) | 上杉清方や今川範忠らの率いる幕府軍が結城城を包囲攻撃。結城氏朝・持朝は滅亡、持氏の遺児春王丸、安王丸は捕らえられる。 |
1441年 |
4月 4日(嘉吉元年 3月13日) | 日向国串間に潜伏していた大覚寺義昭が、将軍義教の命を受けた島津忠国配下の山田忠尚・新納忠臣らに包囲され自刃。 |
6月 5日(嘉吉元年 5月16日) | 足利持氏の遺児春王丸、安王丸が、将軍足利義教の命を受けた長尾実景によって美濃国垂井宿金蓮寺で処刑される。 |
7月12日(嘉吉元年 6月24日) | 嘉吉の乱が起こる。播磨の有力守護大名赤松満祐が、京の自邸に結城合戦勝利の祝いと称して6代将軍足利義教を招待し、その宴席上で殺害。招待されていた守護大名山名熙貴も殺害、京極高数と大内持世も重症を負い、後死亡。細川持春も重症を負い、正親町三条実雅も負傷した。大名への圧力を強める将軍と対立したことが原因。伏見宮貞成親王の『看聞日記』には将軍が満祐を殺そうとして返り討ちにあったとある。 |
7月28日(嘉吉元年 7月11日) | 赤松満祐討伐の大手軍が出発。 |
8月17日(嘉吉元年 8月 1日) | 細川持之の要請で、赤松満祐討伐の綸旨が出される。 |
9月25日(嘉吉元年 9月10日) | 討伐軍に包囲された播磨城山城で、赤松満祐らが自刃し嘉吉の乱が終結。 |
1443年 |
9月(嘉吉3年) | 禁闕の変。後南朝の皇族を称する金蔵主、通蔵主、源尊秀らと有力公卿の日野有光・日野資親らが京の宮中を襲い、天叢雲剣と神璽(八尺瓊勾玉)を奪い、比叡山へ逃亡。しかし幕府の軍事介入を嫌がった比叡山側に討伐され、剣は奪還したが神璽は持ち去られる。金蔵主、日野有光、楠木正威らは討ち死に、通蔵主は謀殺され、日野資親は処刑、源尊秀は行方知れずとなった。 |
1446年 |
10月 9日(世宗28年 9月10日) | 李氏朝鮮第4代国王の世宗が朝鮮独自の文字としてハングルを発表する。 |
1447年 |
4月(文安4年 3月) | 足利持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方に任じられる。関東諸将の要請によるものと言われる。なお年月には宝徳元年(1449年)説など異説あり。 |
1449年 |
9月 8日 | 土木の変。明の皇帝英宗(正統帝)が自ら率いた軍勢が、遊牧民族オイラトのエセンの軍勢に敗北し、英宗も捕らえられる。 |
11月10日 | シャルル7世はイングランド軍を破ってルーアンに入城。 |
1450年 |
2月15日 | シャルル7世がジャンヌ・ダルク異端裁判の調査を命じる。 |
1451年 |
| 琉球王国の那覇の港に浮かぶ浮島と陸地とを結ぶ全長1kmほどの堤防と7つの石橋からなる「浮道」が建設される。のち中国の冊封使とともに琉球を訪れた胡靖が「長虹の如し」と評したことから、長虹堤と呼ばれるようになった。 |
1452年 |
| 翌年にかけて現在のバヌアツ・シェパード諸島にある海底火山クワエが大噴火を起こす。火山爆発指数はVEI6とかなり大規模で、これが原因と見られる寒冷現象が、北欧や中国などで記録される。穀物生産に影響があったという。 |
1453年 |
5月29日 | コンスタンティノポリスがオスマンの君主メフメト2世によって陥落し、東ローマ帝国は滅亡。 |
10月19日 | 百年戦争でイングランド軍最後の拠点であったボルドーが陥落。事実上イングランドが敗北。 |
| ポーランド王国のカジミェシュ4世王がユダヤ人の法的保護を定めたカリシュの法令を改めて承認する。 |
| 琉球王国で、王位継承権に伴う志魯・布里の乱が勃発。5代王尚金福の世子である志魯と、尚金福の弟である布里が争い首里城も焼失した。両者とも死亡し、王位は布里の弟の尚泰久が継いだ。 |
1455年 |
1月15日(享徳3年12月27日) | 鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を殺害。以後30年に及ぶ享徳の乱が勃発する。 |
7月30日(享徳4年 6月16日) | 上杉家援軍のために出陣した駿河守護今川範忠が、鎌倉を制圧。足利成氏は御料所があり支持者が多く住む下総古河に拠点を移す。以後、古河公方と呼ばれるようになる。 |
11月 7日 | ローマ教皇カリストゥス3世の命で、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われる。 |
| グーテンベルクが、ヨハン・フスト、ペーター・シェッファーらと、金属活版で聖書を印刷する。 |
1456年 |
7月 7日 | ジャンヌ・ダルクの処刑裁判の判決破棄が宣告される。 |
8月11日 | オスマン帝国をベオグラードの戦いで破ったハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュがペストで病没。 |
1457年 |
5月 1日(長禄元年 4月 8日) | 太田道灌が江戸氏の拠点跡に新たに築城した江戸城に移転。 |
12月18日(長禄元年12月 2日) | 長禄の変。後南朝に奪われていた神璽(八尺瓊勾玉)を、嘉吉の乱で一旦滅亡した赤松氏の家臣上月満吉、石見太郎、丹生屋帯刀左衛門、丹生屋四郎左衛門がお家再興のために奪い返そうとした事件。後南朝に付くふりをして1年以上をかけて実行に移した。奪取には一旦失敗するが、翌年3月に再び実行して成功、神璽は京に戻された。この功で赤松氏は再興を認められ、加賀半国を与えられた。なおこの事件で南朝の皇胤とも言われる忠義王が殺されている。 |
1458年 |
1月 4日(長禄元年12月19日) | 古河公方足利成氏に対抗するため、将軍足利義政の命で、異母兄の天龍寺香厳院主清久が還俗し、鎌倉公方に任命される。名も義政から偏諱を受けて足利政知と改める。 |
7月(長禄2年 6月) | 足利政知が、伊豆の堀越に入る。しかし鎌倉には入れず、以後、堀越公方と呼ばれる。 |
8月 | 琉球王国で護佐丸・阿麻和利の乱が勃発。建国の功臣で有力按司の中城城主護佐丸盛春が謀反の疑いで討伐を受け自殺。直後に有力按司の勝連城主阿麻和利も反乱を企てたとして討伐され滅亡する。従来、王位簒奪を狙う阿麻和利が忠臣護佐丸を讒言で滅ぼしたという物語で知られるが、実際に護佐丸は反乱を起こそうとした、弱体化していた尚王家が二大按司の両者を滅ぼした、といった見方もある。 |
1459年 |
(長禄3年) | この年、旱魃などの自然災害が相次ぎ、大規模な飢饉となる。いわゆる「長禄・寛正の飢饉」のはじまり。 |
1461年 |
(寛正2年) | 数年に及ぶ長禄・寛正の飢饉で、この年はじめの2ヶ月だけで洛中での病死者・餓死者が8万2千人に達する。後花園天皇は、将軍足利義政に「生き残った者らは首陽の蕨を食べている」という内容の漢詩を贈って、奢侈な政治を諌める。 |
1462年 |
(寛正3年 9月) | 京都で徳政令を求める大規模な土一揆が起きる。 |
(寛正3年10月) | 奈良でも馬借らが大規模な一揆を起こす。 |
1465年 |
2月 4日(寛正6年 1月 9日) | 比叡山の衆徒が、蓮如のもとで独自の活動をするようになった大谷本願寺を襲って破却。いわゆる「寛正の法難」。本願寺が分離独立するきっかけともなった。 |
10月15日(文正元年9月6日) | 文正の政変。権力を強めようとする将軍足利義政と大名との対立から、細川勝元らの圧力を受け、義政の側近、伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らが追放される。 |
1467年 |
| 黒羊朝最大の版図を築いたジャハーン・シャーが、白羊朝のウズン・ハサンを討伐するために出兵するも、野営地の奇襲を受けて殺害される。黒羊朝はこの後一気に崩壊。 |
1468年 |
2月 3日 | 活版印刷術を発明したヨハネス・グーテンベルクが死去する。印刷の権利を失ったり、騒乱に巻き込まれるなどして財産を失い、聖書の印刷の功績でアドルフ大司教に召抱えられ、ひっそりとこの世を去ったと言われる。 |
1471年 |
1月18日(文明2年12月27日) | 退位して後花園院となっていた後花園天皇が崩御。各地の騒乱に対して綸旨を発給し、将軍家の失政を諌めるなど、皇室の権威を復活させた人物。北朝の世襲親王家伏見宮系統の出身で、現在に至る天皇家の直接の祖となる(弟の貞常親王が現在の「旧皇族11宮家」の祖であり男系で天皇家と分かれたのはこの代から)。 |
10月25日(文明3年 9月12日) | 桜島文明噴火。死者多数。 |
1473年 |
| オトゥルクベリの戦い。オスマン帝国と白羊朝による軍事衝突。オスマンが勝利しアナトリア半島全域を支配下に置く。 |
1475年 |
9月15日(文明7年 8月15日) | 桜島南西部で噴火(文明溶岩が流出)。 |
| この頃、インカ帝国がチムー王国を滅ぼす。 |
1476年 |
9月29日(文明8年 9月12日) | 桜島大噴火。死者多数を出し、沖小島と烏島が形成される。 |
1477年 |
12月16日(文明9年11月11日) | 11年続いた応仁の乱が、西軍の解体で公式に終結。乱後に織物業者が西軍本陣跡地に集まって「西陣」(西陣織)と呼ばれたことから、乱終結の日は西陣の日とされている。 |
1478年 |
| 白羊朝最大の版図を築いたウズン・ハサンが死去。 |
1482年 |
| この頃、仏教界で一大勢力だった佛光寺の14世経豪が、主要48坊のうち42坊を率いて、蓮如の本願寺に帰依するという事件起きる。経豪は蓮敎の名を与えられ興正寺を興す。佛光寺13世光教は、経豪の弟経誉を新たに「14世」としたものの、佛光寺は急速に衰退し、本願寺が勢力を拡大することとなった。 |
1483年 |
1月 6日(文明14年11月27日) | 古河公方足利成氏と幕府との間で和議が成立し、享徳の乱が終結(都鄙合体)。成氏は伊豆一国の堀越公方支配を認める。 |
1485年 |
8月22日 | ボズワースの戦い。リッチモンド伯ヘンリー・テューダーが、ヨーク朝リチャード3世を打ち破り、薔薇戦争は終結。テューダー朝のきっかけとなる。 |
1486年 |
8月25日(文明18年 7月26日) | 太田道灌が、主君扇谷上杉定正の居館糟屋館に招かれた際に暗殺される。定正が実力者道灌に恐れを抱いたためと言われるが、これを機に扇谷上杉家は離反者が相次ぎ、衰退していく。 |
1492年 |
1月 2日 | イスパニア半島のイスラム教国ナスル朝が滅亡し、キリスト教徒によるレコンキスタが終結。 |
10月12日 | クリストファー・コロンブスが率いたスペインの艦体が「西インド諸島」に到達し、「サン・サルバドル島」に上陸。 |
11月16日 | 神聖ローマ帝国オーバーエルザス(現フランス・オー=ラン県)エンシスハイムの農園に隕石が落下する。 |
11月 | スンニ朝ソンガイ帝国のスンニ・アリ大王が死去。ソンガイ帝国の領域を拡大し、国家制度を整備。強力な水軍でニジェール川流域を支配下に置いた。あとをスンニ・バルが継ぐ。 |
1493年 |
3月15日 | コロンブスの一行が帰国。大絶賛される。 |
4月 2日 | ソンガイ帝国の将軍アスキア・ムハンマド・トゥレが、スンニ朝の王スンニ・バルに対し反乱を起こし、ガオ近郊でスンニ・バルを破り追放する。アスキアは王に即位し、アスキア朝を建てる。反乱を起こした要因は、スンニ・バルが非イスラム化をさらに進めたため。ソンガイ帝国は、スンニ・アリ時代、アスキア・ムハンマド時代、アスキア・ダーウード時代に最も栄えた。 |
5月 7日(明応2年 4月22日) | 畠山氏への対応などで将軍足利義材と対立した管領細川政元が日野富子らとともにクーデターを起こし、義材が河内出兵の留守を狙い、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院の清晃を還俗させて(足利義遐のち義澄)将軍職に奉じる(ただし後土御門天皇の反感を買い将軍宣下がすぐには降りず)。 |
| 教皇アレクサンデル6世の教書によって教皇子午線が引かれ、その東をポルトガル、西をスペインとすることが決まる。 |
1494年 |
6月 7日 | 教皇子午線に不満なポルトガルがスペインと交渉し、トルデシリャス条約締結。ブラジルはポルトガルが、それ以外のアメリカ両大陸はスペインが進出することになる。 |
1495年 |
1月23日(明応3年12月27日) | 足利義遐(義澄)の将軍宣下が降りる。 |
1497年 |
7月 8日 | ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ艦隊の4隻がリスボンを出発。約120人を乗せアフリカ周りでインドへ向かう。インド諸国との交易路確立が目的。バルトロメウ・ディアスが途中まで同行することに。 |
11月25日 | ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊が南アフリカで輸送艦のキャラック船を解体処分し3隻となる。 |
| この年、ジョン・カボット率いるイングランドの探検隊が、現在のケープ・ブレトン島に到達。ヨーロッパ人による北米到達はバイキング以来とみられる。 |
1498年 |
5月20日 | ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が西インド洋を横断してインドのカレクト(カリカット:現コージコード)に到着。 |
8月29日 | カレクト側と紛争状態になっていたヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が帰国のためカレクトを離れる。貿易風が弱く、一旦インド西岸を北上。 |
9月11日 | 南海トラフを震源とする明応地震が発生。大津波が関東から紀伊半島にかけての太平洋岸を襲い、甚大な被害を出す。鎌倉大仏が露坐になったのも、大仏殿が流出したためとされている。 |
1499年 |
1月 9日 | ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が復路アフリカ東部のマリンディに到着。インドからここまでの間に病死者が相次いで人員が減ったため、ここでサン・ラファエル号を焼却処分し、艦隊は2隻となる。 |
7月10日 | ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊のうち先行していたニコラウ・コエリョ指揮のベリオ号がリスボンに帰還。 |
1500年 |
1月26日 | スペイン人のビセンテ・ヤーニェス・ピンソンの艦隊がブラジル北部に到着。アマゾン一帯の探検を行う。 |
2月 | 琉球王国尚真王が、宮古の仲宗根豊見親を派遣して石垣の領主オヤケアカハチを攻め滅ぼし、八重山に勢力を拡大。 |
4月22日 | ポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルの艦隊がブラジル(後のポルト・セグーロ)に到着。新発見の地としてポルトガル領を宣言したこともあり、一般にはカブラルが「ブラジル発見者」とされている。なおこの時、赤い染料ブラジリンが取れるスオウ(ブラジル)に似た木があったため、地名も「ブラジルの地」と名付けられた。 |
| ウズベクの部族長ムハンマド・シャイバーニー・ハンが、ティムール朝の内紛に介入してスルタン・アーリーからサマルカンドを奪い占領。一旦はティムール朝のバーブルがサマルカンドを奪い返すも維持できず間もなく放棄してタシュケントへ退き、シャイバーニーは、マー・ワラー・アンナフルを支配下に置いてシャイバーニー朝ウズベク=ハン国を興す。 |
1503年 |
| ムハンマド・シャイバーニー・ハンが、タシュケントを攻略。同地を支配していたマフムード・ハンはモグーリスタンへ追放され、同家にいた甥のバーブルも敗走。モグール人らを糾合しホラーサーンへ向かう。 |
1504年 |
9月 | バーブルがカーブルを攻めて領主ミールザー・ムキームを降し、同地を征服。 |
1505年 |
1月 | バーブルが北インドに遠征。 |
1506年 |
5月20日 | スペイン王室からも見捨てられたコロンブスがスペインのバリャドリッドで病死。 |
5月 | シャイバーニーによるバルフ攻略戦に、バーブルらティムール朝系の君主らが連合軍を派遣。バルフは陥落したため、連合軍は解散。 |
1507年 |
2月 | バルフ攻防戦の遠征に出ていたバーブルが、冬季行軍の苦難の末カーブルへ帰国。シャー・ベギムらの反乱を鎮圧。 |
6月 | シャイバーニーがヘラートを征服。 |
8月 1日(永正4年 6月23日) | 細川政元が細川澄之支持派の手で暗殺される。細川家は細川澄之、細川澄元、細川高国の三派に分かれて後継者争いに発展。 |
1508年 |
5月15日(永正5年 4月16日) | 10代将軍でクーデターにより地位を追われていた足利義尹(義材)が大内義興の支持を得て軍を京に進めたため、近江へ逃れた11代将軍足利義澄は失脚。 |
7月28日(永正5年 7月 1日) | 足利義尹が細川高国らに迎えられて入京し征夷大将軍に復帰。 |
| サファヴィー教団の教主でサファヴィー朝を建国したイスマーイール1世が白羊朝を滅ぼす。同教団は白羊朝と対立したが、イスマーイール1世自身は白羊朝のウズン・ハサンの孫でもあるため、白羊朝を支えた部族らの支持を得たと言われる。 |
| この年から、カーブルの君主バーブルが、パーディシャー(皇帝)の称号を名乗り始める。 |
1510年 |
(中宗4年 4月 4日) | 李氏朝鮮の貿易規制策などに不満を持つ慶尚道三浦の倭人が対馬の宗盛順らの支援を受けて反乱を起こす。 |
(中宗4年 4月19日) | 三浦の乱が鎮圧される。 |
| サファヴィー朝のイスマーイール1世がシャイバニー朝ウズベク・ハン国に侵攻し、迎え撃ったムハンマド・シャイバーニーは敗死。 |
1511年 |
9月15日(永正8年 8月23日) | 船岡山合戦。足利義尹を支持する細川高国、大内義興、畠山義元らの軍勢と、失脚した足利義澄派の細川澄元、畠山義英、赤松義村らの軍勢が衝突。義尹派が勝利する。なおこの時すでに義澄は病死している。また細川氏、畠山氏、六角氏らの内紛も要因の1つ。 |
(永正8年 8月) | 『妙法寺記』などから、富士山の6~7合目付近にあった「カマ岩」が燃えたという。その直前に大きな音がしていることなどから、小規模の噴火と考えられる。 |
| サファヴィー朝によってシャイバーニーが敗死したことをうけて、カーブルのバーブルは、サファヴィー君主イスマーイール1世に臣従を申し出て、マー・ワラー・アンナフルへ進出。かつての領地であるサマルカンドに再入城するが、シーア派系のサファヴィー朝に反発する住民の抵抗にあう。 |
4月28日 | 勢力回復を目指すシャイバーニーの甥ウバイドゥッラーと、バーブルがクリ・マリクで戦う。バーブルは敗北。 |
11月 | ウバイドゥッラーとバーブルがグジュドワーンで戦い、バーブルはふたたび敗北。サマルカンドを失い、マー・ワラー・アンナフルから撤退。暫くの間バーブルはサマルカンドを伺っていたが、やがてティムール朝の旧領回復をあきらめ、東のインドへ進出するようになる。 |
1513年 |
9月25日 | 黄金郷を目指すバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア率いる探検隊が、パナマ地峡を横断し南側の海に到達。いわゆる「太平洋の発見」。これによりアメリカは2つの大洋に挟まれた独自の大陸であることも判明した。 |
1514年 |
8月23日 | チャルディラーンの戦い。アナトリア東部へ勢力を拡大していたサファヴィー朝のイスマーイール1世に対し、オスマン帝国のセリム1世が親征をおこない、両軍はチャルディラーンで衝突。銃火器を装備したオスマン軍に対してサファヴィー軍は大敗。イスマーイール1世はこれ以降、積極性を失い、宗教的権威も衰えるようになる。ティムール朝カーブル君主のバーブルもサファヴィー朝から離れる。 |
1516年 |
4月23日 | バイエルン公ヴィルヘルム4世がビール純粋令を定める。 |
| この年、中国明朝のドン族とヤオ族の住む南丹に隕石が降る。現在の広西チワン族自治区南丹県。隕石そのものも1958年に大躍進政策で鉄の原材料調査を行って発見された。 |
1517年 |
| カーブル君主のバーブルがサファヴィー朝の支配するカンダハールを攻めるが失敗。 |
1518年 |
| ティムール朝系君主であるカーブルのバーブルが、かつてティムールが遠征したインド北部のパンジャーブへ進出し同地を制圧。この頃からバーブルは重火器を多用するようになる。 |
1519年 |
11月 8日 | コンキスタドールのスペイン人エルナン・コルテスがアステカの都テノチティトランに現れ、アステカ王モクテスマ2世から、コルテスは神の化身と勘違いされる。 |
1520年 |
5月21日(永正17年 5月 5日) | 等持院の戦い。中央復帰を図り摂津まで進出した細川澄元の軍勢を指揮する三好之長と、細川高国らが京で衝突。三好之長が敗北。細川澄元の復帰はならず。なお高国と対立していた将軍義尹は澄元と和解していたため、戦後義尹と高国は対立。 |
5月27日(永正17年 5月11日) | 三好之長が捕らえられ処刑される。 |
6月24日(永正17年 6月10日) | 伊丹から阿波に逃げ戻った細川澄元が死去。 |
10月21日 | マゼラン(マガリャンイス)の艦隊が南米大陸南端とその先の島の間に海峡を発見。島の原住民ヤーガン族が点けたと見られる火を目撃。海峡はマジェラン海峡、島はフエゴ島と名付けられる(ティエラ・デル・フエゴは火の島という意味)。 |
11月 8日 | ストックホルムの血浴。デンマークの支配下にあったスウェーデンの反乱を鎮圧したクリスチャン2世が、スウェーデンの反乱関係者を和解の晩餐会と称して集め、皆殺しにした事件。生き延びた若き貴族のグスタフ・ヴァーサが反乱を起こす。 |
| カーブルの君主バーブルが再びインド遠征を行う。 |
1521年 |
4月13日(大永元年 3月 7日) | 将軍足利義尹が京を出奔し堺へ逃れる。細川高国は、代わりに義澄の遺児の足利義晴を将軍に擁立。 |
4月27日 | 航海途中のマゼランがフィリピンのマクタン島でイスラム教徒の領主ラプラプの手勢によって殺害される。マゼランが、友好関係を結び改宗までしたセブ島の領主ラジャ・フマボンへの従属と改宗を求めて周辺の諸領主に武力をもって圧力をかけたことがラプラプの反感を招いたとみられる。 |
5月 1日 | マゼラン艦隊の指揮権を継いだドゥアルテ・バルボサら主な幹部24人のほとんどが、ラジャ・フマボンに招かれた席で殺害される。バルボサが、マゼランの奴隷だった「マラッカのエンリケ」(マラッカ人。マゼランは自分の死後、遺産を分け与え、奴隷から解放すると遺言していた)を引き続き奴隷にすると脅したため、エンリケがフマボンをそそのかしたと言われる。艦隊は幹部の一人だったバスク人フアン・セバスティアン・エルカーノが率いることに。 |
8月13日 | エルナン・コルテスらの率いる軍隊によって、アステカの都テノチティトランが陥落。 |
1522年 |
9月 6日 | マゼラン艦隊で唯一残ったビクトリア号がスペインのサンルーカル・デ・バラメーダに帰港。世界一周を果たす。出発時の乗員265名のうち最後まで残ったのは最後の指揮をとったフアン・セバスティアン・エルカーノ、詳細な記録を残したアントニオ・ピガフェッタなど18名のみ。 |
| この頃、琉球王国尚真王が、与那国の領主鬼虎(うにとら)を滅ぼす。年代は異説あり。 |
| カーブルの君主バーブルがインド遠征から戻り、サファヴィー朝の勢力圏であったカンダハールを制圧。 |
1523年 |
| グスタフ・ヴァーサが、スウェーデン議会の承認で国王グスタフ1世として即位。デンマーク(カルマル同盟)からの独立を果たす。 |
1524年 |
8月23日 | サファヴィー朝を建国したイスマーイール1世が死去。10歳のタフマースブ1世が受け継ぐが、サファヴィー教団の信者でもあり同王朝を軍事的に支えた遊牧部族集団クズルバシュが内紛状態になる。 |
| カーブルの君主バーブルが3度めのインド遠征を開始。パンジャーブの中心ラホールまで進出する。 |
1525年 |
| カーブルの君主バーブルが4度めのインド遠征を開始。ダウラト・ハンを降す。 |
1526年 |
4月21日 | パーニーパットの戦い。カーブルの君主バーブルと、ローディー朝イブラーヒーム・ローディとが戦闘し、堅牢な陣と銃火器を多用したバーブルが、10倍の兵力と1000頭の象軍を率いたローディ軍に対し勝利。イブラーヒームは戦死。 |
4月27日 | バーブルがデリーに入城する。デリーの大モスクで金曜礼拝を自身の名で唱え、インド支配を宣言。ムガル帝国を樹立する。ムガルとはペルシャ語でモンゴルを意味するムグルから。バーブルの出自であるティムール王朝はモンゴル帝国の後継王朝の一つ。 |
5月10日 | バーブルがローディー朝の王都アーグラに入城する。ローディー朝は滅亡。ローディー朝王族によるバーブル暗殺未遂事件が起きる。 |
1527年 |
3月14日(大永7年 2月12日) | 桂川原の戦い。管領細川高国に弟香西元盛を自害に追い込まれ恨みを持つ波多野稙通・柳本賢治兄弟に細川晴元から援軍として合流した三好勝長・政長らの軍勢と、細川高国、武田元光の軍勢が衝突。高国らが大敗を喫し、京都から近江方面へ退却する。 |
3月17日 | カーヌワーの戦い。ムガル帝国を興したバーブルと、ローディ朝の復興を目指すマフムード・ローディ、ローディに味方したラージプートの諸勢力連合軍が衝突。火器を使うバーブル側が大勝。マフムード・ローディは敗走。 |
6月21日 | ニッコロ・マキャヴェッリが死去。『君主論』の作者でマキャベリズムのもととなった思想家。 |
| インカ帝国の皇帝で領土を拡張したワイナ・カパックが疫病により死去。同時期に皇太子のニナン・クヨチや、多くの兵士らも同じ疫病で死去していることから、各地に進出を始めていたヨーロッパ人から天然痘が広がり感染したという説も有力(マラリア説もある)。インカ帝国はこのあと、子のワスカルとアタワルパによる内戦が起き、スペイン人のフランシスコ・ピサロにつけこまれた。 |
1529年 |
4月22日 | アジアの領土分割を決める、スペインとポルトガルのサラゴサ条約が締結。 |
5月 6日 | ガーグラー川の戦い。ムガル帝国のバーブル軍に対して、ふたたびマフムード・ローディが攻撃を仕掛ける。ローディにはベンガル王国のヌスラット・シャーなどが味方につくも、バーブル側が勝利。ローディは再び敗走し、ヌスラット・シャーはバーブルと和睦。 |
1530年 |
12月26日 | ムガル帝国を興したバーブルが死去。 |
1531年 |
7月17日(享禄4年 6月 4日) | 大物崩れの合戦。将軍側の細川高国、浦上村宗の軍勢が、堺公方側の三好元長、赤松政祐に敗北する。翌日、高国が尼崎で捕縛される。 |
7月21日(享禄4年 6月 8日) | 細川高国が自害させられる。 |
7月 | ムガル帝国2代皇帝フマーユーンが、ラクナウの戦いでマフムード・ローディを撃破。 |
8月 | 彗星が出現し、ペトルス・アピアヌスが観測する。ハレー彗星。 |
| シェール・ハーンが、ムガル帝国2代皇帝フマーユーンからの独立を宣言。のちのスール朝。 |
1532年 |
7月22日(享禄5年 6月20日) | 堺公方の有力武将だった三好元長が、一向宗徒に襲われ和泉の顕本寺で自害。堺公方体制も崩壊する。 |
9月23日(天文元年 8月24日) | 法華宗徒の三好元長が一向宗徒に襲われ自害したことに反発した、京の法華宗徒や町衆が、六角氏らの支援を受けて山科本願寺を襲い、これを焼き討ちする。法華宗は京に勢力を拡大していく。 |
11月16日 | フランシスコ・ピサロが、改宗を拒否し聖書を冒涜したという理由で、会見に現れたインカ皇帝アタワルパを捕らえ、インカ兵を攻撃。インカ兵7000人が殺され、アタワルパは幽閉される。 |
1533年 |
7月26日 | フランシスコ・ピサロが、インカ皇帝アタワルパを偶像崇拝と実兄ワスカルを殺害した罪で処刑。ワスカルは側近に殺されているため、アタワルパが殺害した証拠はない。 |
1534年 |
6月23日(天文3年 5月12日) | 織田信長、清洲三奉行のひとり、織田信秀の嫡男として那古屋城で生誕(月日と出生地には異説あり)。 |
| サファヴィー朝の2代目君主タフマースブ1世が、クズルバシュ出身の大アミール・フサイン・ハーン・シャームルーを処刑。以降、親政を行い、クズルバシュの権力を削ぐようになる。 |
1535年 |
| ムガル帝国皇帝フマーユーンが、グジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーを破り、グジャラートとマールワーを併合。 |
12月29日(天文4年12月 5日) | 森山崩れ。西三河の有力者となった松平清康が尾張へ侵攻するが、この日の早朝、森山の陣中で家臣の阿部正豊にいきなり惨殺される。正豊は植村氏明に殺害された。松平宗家はあとを継いだ広忠も若くして亡くなったため、家康が出るまで衰退する。なお正豊の父親である阿部定吉は特に咎められておらず、事件の要因ははっきりとわかっていない。 |
1536年 |
4月 7日(天文5年 3月17日) | 駿河の守護大名今川氏輝と弟の彦五郎が急死。先代氏親の正室寿桂尼と太原雪斎らは、氏親の子である栴岳承芳を還俗させ(今川義元)、後継に押し立てる。 |
6月13日(天文5年 5月25日) | 今川氏親の子で、今川義元の異母兄に当たる玄広恵探が、義元擁立に反発した母方の祖父(もしくは同族の)福島正成(もしくは福島越前守)に擁立されて久能山で挙兵。花倉の乱が勃発。 |
6月28日(天文5年 6月10日) | 今川義元らの軍勢が、花倉城を攻め、玄広恵探は逃走。普門寺で自刃し、花倉の乱は終結。 |
8月13日(天文5年 7月27日) | 天文法華の乱。比叡山の僧兵と六角氏の軍6万が、京に勢力を伸ばしていた法華宗の寺院21カ寺を襲い放火。京の市街地も大きな被害を出す。 |
1538年 |
7月 8日 | フランシスコ・ピサロが、対立していたコンキスタドール(征服者)のディエゴ・デ・アルマグロを処刑。 |
10月29日(天文7年10月 7日) | 第一次国府台の戦い。小弓公方の足利義明が真里谷信応、里見義堯らを率いて国府台まで進出。古河公方と組んだ北条氏綱も兵を出し合戦となる。足利義明は討ち死。北条氏綱は下総方面へ進出し、無傷だった里見義堯も上総方面へ勢力を拡大。 |
1539年 |
| ポーランド王国のジグムント1世王がユダヤ人の法的保護を定めたカリシュの法令を改めて承認する。 |
12月 | チャウサーの戦い。シェール・ハーンの軍勢と、ムガル帝国軍が衝突。ムガル皇帝フマーユーンは大敗を喫し、アーグラへ敗走。シェール・ハーンはシェール・シャーとして即位し、スール朝を興す。 |
1540年 |
5月17日 | カナウジの戦い。シェール・シャー率いるスール朝軍がムガル帝国のフマーユーンの軍勢と衝突。ムガル帝国側が大敗を喫し、シェールはデリーとアーグラーを占領。ムガル皇帝フマーユーンはシンド地方へ逃走した後、一旦ペルシャのサファヴィー朝のタフマースプ1世のもとへと落ち延びる。 |
7月28日 | トマス・クロムウェル処刑。イングランド王ヘンリー8世の離婚と再婚のために宗教改革まで行った挙句に、そのヘンリー8世の怒りを買って処刑された。同日、ヘンリー8世は、キャサリン・ハワードと再婚。 |
1541年 |
6月26日 | インカ帝国を征服したコンキスタドール(征服者)フランシスコ・ピサロが暗殺される。殺したのは、ピサロによって処刑されたコンキスタドールのひとりディエゴ・デ・アルマグロの息子。 |
1542年 |
1月26日(天文11年 1月11日) | 大内義隆が出雲尼子氏攻略のため出陣。 |
9月 6日(天文11年 7月27日) | 大内軍が尼子側の赤穴城を攻略。 |
1543年 |
3月(天文12年 4月) | 第一次月山富田城の戦いが始まる。 |
6月 9日(天文12年 5月 7日) | 大内軍、月山富田城から撤退を開始。帰路、大内義隆の養嗣子である大内晴持は海路で遭難。殿軍の毛利勢も大敗を喫する。大内氏が衰退する一因となった。 |
9月23日(天文12年 8月25日) | 種子島の西村に中国のものと見られる大型船が漂着。乗客の中にいた儒者五峯と筆談したところ、2名のヨーロッパ人(フランシスコ、モッタ)がおり、彼らが持参していた火縄銃を領主の種子島時尭に披露。時尭が2丁を購入し、研究させる。いわゆる鉄砲伝来。それ以前にも鉄砲という正体不明の武器の記述は各地に見られるが、銃火器かどうかははっきりしない(蒙古襲来時の「てつはう」のような火薬兵器か)。なお銃火器の原型は中国宋王朝のときに発明され、西へ運ばれ、ドイツなどで「銃」へと発展した。 |
1544年 |
| インカ帝国の15代皇帝マンコ・インカ・ユパンキが、フランシスコ・ピサロを殺害したアルマグロ一派の手で殺害される。最後の皇帝。子のサイリ・トゥパックがあとを継ぎ、地方政権である「ビルカバンバのインカ帝国」皇帝となった。 |
1545年 |
5月22日 | スール朝を建国したシェール・シャーが砲弾の暴発事故で死去。イスラーム・シャーが後を継ぐも内紛状態へ。 |
10月31日(天文14年 9月26日) | 小田原の北条氏が駿河東部で今川・武田と対立したことを受け、関東の山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏が同盟して、8万の大軍で北条氏の河越城を包囲。河越城主北条綱成は籠城。 |
12月(天文14年11月) | 北条氏康、武田晴信の仲介の元、河東(駿河富士川以東)を放棄することで今川義元と和睦。 |
1546年 |
5月19日(天文15年 4月20日) | 北条氏康、河越城周辺の両上杉・古河公方連合軍に対して夜襲を仕掛ける。また河越城からも北条綱成が出撃し、連合軍は壊乱。上杉朝定、朝定の重臣で松山城主の難波田憲重らが討ち死に。上杉憲政は上州平井城へ逃走、足利晴氏も古河へ敗走する。通称「河越夜戦」。記録に乏しいため、詳細については諸説ある。北条氏は以後関東制覇へ向けて動き出す一方、扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏も衰退し、越後長尾氏を頼ることになり、上杉謙信の関東進出へとつながっていく。 |
7月10日 | シュマルカルデン戦争勃発。カトリック教徒の神聖ローマ帝国皇帝カール5世に対し、皇帝の政策に不満を持つ反皇帝派プロテスタント諸侯同盟(シュマルカルデン同盟)が起こした反乱。 |
1547年 |
1月16日 | イワン雷帝の即位。モスクワの生神女就寝大聖堂でツァーリとして戴冠式を行う。 |
4月24日 | ミュールベルクの戦い。神聖ローマ帝国皇帝カール5世がプロテスタント軍のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒを奇襲攻撃で破り勝利する。 |
5月19日 | ヴィッテンベルク降伏条約が締結され、シュマルカルデン戦争はカトリック側の勝利で終結。 |
8月 6日(天文16年 9月19日) | 小田井原の戦い。信濃へ勢力を広げる武田晴信に対し、信濃佐久郡の志賀城主笠原清繁は籠城。武田晴信は兵を出して城を包囲する。これに対し、上野の上杉憲政が笠原支援のため、金井秀景率いる軍勢を派遣。両軍は小田井原で衝突し、武田軍が勝利。 |
8月11日(天文16年 9月24日) | 志賀城が落城し、笠原清繁らは討ち死に。武田晴信は捕虜とした敵兵やその家族女子供を人身売買にかけるなど、かなり厳しい処置を行う。 |
1548年 |
3月10日(天文17年 2月 1日) | 武田晴信率いる軍勢が、北信濃に進出。同地の村上義清も出兵し、千曲川支流沿いに兵を展開。 |
3月23日(天文17年 2月14日) | 上田原の戦い。武田晴信と村上義清との戦いで、武田軍が大敗。板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門ら重臣が戦死する。 |
3月26日(天文17年 2月17日) | 敗戦後も上田原にとどまっていた武田晴信が甲府へ帰還する。 |
5月 | 神聖ローマ帝国の帝国議会でアウクスブルク仮信条協定が結ばれる。皇帝カール5世が、帝国内の反発を回避するため、カトリック有利ながら、プロテスタントにも一定の妥協を図った協定。 |
1549年 |
1月28日(天文17年12月30日) | 長尾景虎が隠居する兄の晴景のあとを受けて家督を継ぎ、越後国の守護代となる。有能な景虎を兄に代わって推す勢力が強まり、越後守護上杉定実の調停によって。 |
3月23日(天文18年 2月24日) | 織田信長と、斎藤道三の娘「濃姫」が結婚。 |
4月15日 | フランシスコ・ザビエルがインドのゴアを出発し、日本へ向かう。 |
6月(天文18年 5月) | 島津家家臣の伊集院忠朗が、樺山善久・北郷忠相らと、肝付兼演の加治木城を攻めた際に、鉄砲を使用したといわれる。 |
8月15日(天文18年 7月22日) | フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。 |
1550年 |
12月21日(天文19年11月14日) | 東山の戦い。足利義輝・細川晴元と、三好長慶側の三好長逸・十河一存らが京の市中で衝突した戦い。この戦闘で、幕府軍側が鉄砲を使用し、三好側の武将三好長虎の与力が撃たれたと、山科言継が日記に記録している。明確な鉄砲使用の実例が分かる最初の記録。 |
12月28日(天文19年11月21日) | 中尾城の戦い。三好軍が東山の中尾城に籠もる足利義輝の背後に回ろうとしたため、義輝は中尾城を放棄して近江へ退却。 |
1551年 |
9月28日(天文20年8月28日) | 大寧寺の変。周防・長門の戦国大名・大内義隆の重臣で守護代の陶晴賢が主導する反乱が起こる。 |
9月30日(天文20年9月 1日) | 大内義隆が長門大寧寺で自刃し、大内家は事実上滅亡。 |
1552年 |
3月 | プロテスタントながら、カトリックの神聖ローマ帝国皇帝カール5世に組みしたザクセン選帝侯モーリッツが、皇帝の政策に反発してカール5世を攻撃。 |
8月 | ザクセン選帝侯モーリッツと、カール5世の弟でローマ王(神聖ローマ帝国におけるドイツ王)のフェルディナンド1世が交渉し、カトリックとプロテスタントの融和を図るパッサウ条約を締結。モーリッツはカール5世と和睦。 |
10月 | イヴァン雷帝が、カザン・ハン国の首都カザンを攻略。タタール人の多くは殺されるか追放され、カザン・ハン国は形式上は残ったものの、事実上滅亡。 |
12月 3日 | フランシスコ・ザビエルが中国上川島で病死。 |
1553年 |
7月 9日 | ジーフェルスハウゼンの戦い。ザクセン選帝侯モーリッツらが、パッサウ条約を拒否したブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスを攻撃。戦いには勝利するがモーリッツは戦死する。 |
9月 8日(天文22年 8月 1日) | 東山霊山城の戦い。将軍位を継いだ足利義藤(義輝)が、京の三好政権を倒すため、三好長慶が留守を狙い、細川晴元とともに京に侵攻。船岡山と東山霊山で、三好側の今村慶満と戦うが敗北。義藤は近江朽木谷へと逃れ、しばらく逼塞することとなった。 |
10月 8日(天文22年 9月 1日) | 第一次川中島の戦い。村上義清救援のために出陣した上杉軍が武田軍と衝突。 |
1554年 |
6月 | シュヴァルツァハの戦い。ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスはプフォルツハイムへと落ち延びる。 |
12月 | ペルシャのサファヴィー朝に亡命していたムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが、スール朝の内紛を機に軍勢を率いてインド北部へ侵攻。 |
1555年 |
6月22日 | ムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが、スール朝の第6代君主シカンダル・シャーの軍勢をシルヒンドで打ち破る。 |
7月23日 | ムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが、スール朝を滅ぼし、ムガル帝国を復活させる。 |
8月 6日(天文24年 7月19日) | 第二次川中島の戦い。上杉・武田両軍は以降200日に渡って対峙。 |
9月25日 | アウクスブルクの和議。神聖ローマ帝国皇帝カール5世、弟でローマ王フェルディナンド1世が、プロテスタント諸侯の圧力でルーテル派を認める。各領主は宗派を選ぶことが出来、その領民はその宗派に属すると定める。帝国自由都市はこの原則の除外として宗教的自治権を認めず。 |
10月15日(天文24年 9月30日) | 厳島に布陣した大内家の実力者陶晴賢軍を攻めるため、毛利軍が荒天の中、二手に分かれて渡海。 |
10月16日(天文24年10月 1日) | 厳島の戦い。毛利軍が陶晴賢の軍勢を攻撃。狭い島内に数万の軍勢がひしめき合い、大混乱となった陶軍は大敗。陶晴賢は敗死し、毛利家伸張のきっかけとなる。 |
1556年 |
1月27日 | ムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが事故死。あとを13歳の息子のアクバルが継ぎ、バーブル時代からの重臣バイラム・ハーンが摂政となる。 |
5月28日(弘治2年 4月20日) | 斎藤道三が実子の斎藤義龍と長良川河畔で戦い戦死する。 |
8月 3日(弘治2年 6月28日) | 長尾景虎が、春日山城を出奔し、高野山へ向かう事件を起こす。家臣団同士の抗争や国人衆の謀反が頻繁にあったことに嫌気が差したためと言われるが、出奔してみせることで家臣団を結束させる狙いがあったという説もある。 |
9月20日(弘治2年 8月17日) | 長尾景虎の家臣らが、大和葛城で景虎に追いつき説得して出家を思いとどまらせる。 |
9月27日(弘治2年 8月24日) | 斎藤道三の戦死を機会と見た織田信長の同母弟織田信勝(信行)が、柴田勝家、林秀貞らと挙兵する。しかし稲生の戦いで敗北。 |
10月 6日 | ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが遠征中に、スール朝の将軍だったへームーがムガル帝国領へ侵攻。デリーを占領する。 |
11月 5日 | 第二次パーニーパットの戦い。ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが、スール朝の将軍へームーの軍勢と衝突。兵力差ではへームーの方が多く勝利目前だったが、へームーが片目を負傷して意識を失い軍は壊乱。ヘームーは捕らえられて処刑される。 |
11月 7日 | ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが、デリーを奪還。 |
12月 7日 | スール朝最後の君主シカンダル・シャーが蜂起し、マーンコートに籠城。ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが出陣し、これを包囲。 |
1557年 |
7月25日 | マーンコートの籠城戦でシカンダル・シャーがムガル帝国に降伏。 |
9月(弘治3年 8月) | 第三次川中島の戦い。 |
11月22日(弘治3年11月 2日) | 織田信長が河尻秀隆らをして清洲城内で弟の織田信勝(信行)を暗殺。 |
| シャイバニー朝ウズベク・ハン国の実力者アブドゥッラーフ2世が首都をサマルカンドからブハラへ遷す。以降ブハラ・ハン国と呼ばれる。 |
1558年 |
3月18日(弘治4年 2月28日) | 正親町天皇即位に合わせて改元が実施され「永禄元年」となる。しかし本来改元の協議を行う将軍足利義輝には相談されず、京の支配者三好長慶との間で決定したため、義輝は反発。各地でも永禄の年号はすぐには浸透しなかった。 |
7月 4日(永禄元年 6月 9日) | 北白川の戦い。京の三好政権に対し、将軍足利義輝と細川晴元が、六角義賢の支援を受けて、京方面へ侵攻。東山の将軍山城と如意ヶ嶽で攻防した後、この日、北白川で衝突する。しかし戦闘の膠着と、六角氏の消極な姿勢を受け、両者は協議し、6日に足利義輝と三好長慶は和睦。義輝が京に戻り、反発した細川晴元は離脱することになる。将軍が復権したこともあり、永禄の改元は全国に通達される。 |
11月17日 | イングランドで、エリザベス1世が即位。主に信仰上の理由で敵対した異母姉の女王メアリー1世が病死したことを受けて。テューダー朝最後の王。 |
1559年 |
1月15日 | エリザベス1世がウエストミンスター寺院で戴冠。 |
10月(永禄2年 9月) | 降路坂の戦い。石見銀山攻略のため山吹城を攻めていた毛利元就が、門司城を大友義鎮に攻められたことから退却を開始したところ、降路坂で追撃に遭い大敗を喫する。 |
1560年 |
3月 | ムガル帝国摂政のバイラム・ハーンが皇帝側の起こしたクーデターで失脚。バイラムは一旦皇帝の勧告を了承し、引退してメッカ巡礼に向かうも、追討の兵が来たため反乱を起こす。のちバイラムは降伏し、皇帝アクバルもこれを許す。 |
6月12日(永禄3年 5月19日) | 桶狭間の戦い。織田信長が2000ほどの兵で10倍する今川軍を奇襲し、今川義元は戦死。 |
9月16日(永禄3年 8月26日) | 長尾景虎(上杉謙信)が安房里見義堯の救援要請を受けて、北条氏討伐のため出陣。北関東の諸勢力も長尾側に参陣。北条氏は各拠点で籠城戦を強いられる。武田信玄と今川氏真は北条方に付くことを決める。 |
1561年 |
1月31日 | ムガル帝国の元摂政バイラム・ハーンがメッカ巡礼に向かう直前に暗殺される。個人的な怨恨だったとされる。皇帝アクバルはこれを悼み、妻子を引き取る。 |
3月(永禄4年 3月) | 長尾軍とその同盟軍が、小田原城を包囲。 |
4月30日(永禄4年閏3月16日) | 長尾景虎、小田原包囲戦のさなかに、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領職を相続。就任式を行う。名を上杉政虎と改める。 |
4月(永禄4年 4月) | 北条方についた武田信玄が北信濃へ出兵。また、北関東の諸将が長期遠征に不満を唱えて離反し始めたため、上杉政虎は小田原城包囲を解き、越後へ向けて退却を開始。 |
10月17日(永禄4年 9月 9日) | 第四次川中島の戦い。武田軍の高坂昌信ら別働隊が妻女山の上杉軍を背後から衝くために移動。しかし上杉軍は察知し、夜半、密かに山を降り、武田軍本隊の前へ展開。 |
10月18日(永禄4年 9月10日) | 第四次川中島の戦い。上杉・武田両軍の本隊が直接衝突。武田軍は武田信繁、山本勘助、諸角虎定らが討ち死にする大敗を喫する。しかし高坂昌信の武田別働隊が駆けつけ、上杉軍を挟み撃ちにしたため、上杉軍も大きな被害を出す。両者撤退。 |
1562年 |
7月12日 | スペイン出身のユカタン司教ディエゴ・デ・ランダが、マヤの絵文書を布教の障害になるとして焚書を命じ、マヤの貴重な書物のほとんどが失われる。 |
1563年 |
4月25日(永禄6年 4月 3日) | 湯所口の戦い。因幡守護山名豊数が、毛利氏に通じて離反した鳥取城主の武田高信を攻めるも、城内に討ち入った中村豊重が戦死したことで大敗。因幡国において山名勢が衰退するきっかけとなる。 |
8月31日(永禄6年 8月13日) | 白鹿城攻防戦が始まる。毛利氏による月山富田城攻略の前哨戦。 |
1564年 |
2月19日(永禄7年 1月 7日) | 第二次国府台の戦い。江戸城守将の太田康資が北条氏から離反したことをきっかけに進出した里見義弘と北条氏康の戦い。里見側が大敗し退却。上総は北条氏の勢力圏となる。この前年の正月に起こった両軍の戦闘と混同していると考えられている。 |
1565年 |
5月16日(永禄8年 4月17日) | 第二次月山富田城の戦いが始まる。 |
6月17日(永禄8年 5月19日) | 永禄の変。松永久通と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が、二条城に軍勢1万を送り、13代将軍足利義輝を襲撃。義輝側も激しく応戦したが、義輝を含め昼ころにほぼ全員が討ち死に・自害した。三好・松永側の動機は、将軍との対立、足利家の内紛への介入、訴訟取次から起きた偶発的な出来事など諸説ある。なお、この時大和にいた松永久秀が事件に関わっていたかははっきりしない。 |
8月23日(永禄8年 7月28日) | 松永久秀の監視下に置かれていた覚慶(足利義輝の実弟で興福寺一乗院門跡。後の足利義昭)が一色藤長・細川藤孝らの手で助け出される。 |
1566年 |
1月12日(永禄8年12月21日) | 松永久秀と対立した三好三人衆の軍勢が大和に侵攻。筒井氏らと連携し松永久秀の居城多門山城を攻撃する。しかし攻略に至らず。 |
1月22日(永禄9年 1月 1日) | 第二次月山富田城の籠城戦の最中、城の補給を担っていた宇山久兼が、大塚与三衛門の讒言を信じた尼子義久に殺害される。尼子勢内部で動揺が走り滅亡の要因の一つとなった。大塚与三衛門もこの後、大西高由に殺害された。 |
2月24日(永禄9年 2月 5日) | 備中の戦国大名である備中松山城城主の三村家親が、美作興善寺で遠藤秀清・俊通の兄弟により火縄銃で撃たれて死亡。美作方面で対立する備前の戦国大名宇喜多直家が示唆した暗殺事件。三村家は次男の元親が跡を継ぐも、美作方面からの撤退を余儀なくされる。 |
12月 7日(永禄9年10月26日) | 三ツ山城の戦い。伊東義祐が米良重方に命じて築城中の三ツ山城を、島津義久・義弘・歳久が2万の兵で攻撃。籠城戦となるが、米良重方・矩重兄弟の防戦により島津側は大敗し撤退する。島津義弘もこの戦いで重傷を負った。 |
1567年 |
1月 1日(永禄9年11月21日) | 尼子義久が毛利側に降伏し、第二次月山富田城の戦いが終結。 |
2月 8日(永禄9年12月29日) | 松平家康が個人として勅許を得て徳川姓に改める。その後、秀忠も徳川姓を認められるが、それ以外の松平家は含まれず。 |
8月(永禄10年7月) | 明善寺城の戦い。父親を暗殺された三村元親が、暗殺の黒幕である宇喜多直家を攻めるため、明善寺城を攻略。宇喜多直家も明善寺城周辺の豪族を調略。三村元親は、石川久智、植木秀長、庄元祐ら総勢2万で侵攻するが、直家は先手を打って明善寺城を攻略。続いて庄元祐、石川久智の軍勢を破ったため、三村元親は自らの軍で宇喜多直家を攻撃するも失敗。撤退した。この結果、三村氏は弱体化し、宇喜多氏が勢力を伸ばすことになる。 |
9月16日(永禄10年8月14日) | 甘水・長谷山の戦い。毛利勢の支援を受け古処山城に入った秋月種実に対し、大友宗麟は兵2万で侵攻。続けて邑城、休松城を攻略。 |
9月25日(永禄10年8月23日) | 三船山合戦。上総まで進出した北条氏政が、里見氏の拠点であった上総南部の佐貫城を攻略するため、三船台砦に入ったところ、里見義弘がこれを迎え撃ち、北条側が敗れ相模まで撤退した。これにより再び上総方面は里見勢力圏に入ることとなった。 |
10月 5日(永禄10年9月 3日) | 休松の戦い。古処山城攻略中に毛利勢の動きを警戒した大友軍が撤退を始めたところを秋月種実が急襲。一旦は撃退されるも、翌4日も再度夜襲をかけ、大友勢に大きな損害を出す。 |
11月10日(永禄10年10月10日) | 東大寺の戦い。松永久秀と三好三人衆が、東大寺の境内で戦い、おそらく失火から大仏殿などが焼失。大仏も溶け落ちてしまう。 |
1568年 |
11月 7日(永禄11年10月18日) | 足利義昭が従四位下に昇叙し、征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府15代将軍となる。 |
12月24日(永禄11年12月 6日) | 武田信玄が駿河侵攻を開始し、甲府を出発。 |
12月30日(永禄11年12月12日) | 薩埵峠の戦い。駿河侵攻を開始した武田勢に対し、今川氏真が迎撃の大軍を出すも、武田方の調略によって今川方の武将ら21名が内通し、氏真は駿府へ退却。これにより今川軍は総崩れとなり、武田軍は一気に駿府へ攻め込む。氏真、駿府籠城を諦め、朝比奈泰朝の居城、掛川城へ落ち延びる。この時、氏真正室の早川殿(北条氏康息女)が徒歩で落ち延びたことを知った北条氏康が激怒し、武田と手切れを決めたと言われる。 |
12月31日(永禄11年12月13日) | 武田軍が駿河を占領。一方、徳川家康も遠江へ侵攻を開始。 |
1569年 |
1月14日(永禄11年12月27日) | 徳川家康、遠江の各国衆を取り込み、各地を攻略。掛川城を包囲する。 |
1月21日(永禄12年 1月 5日) | 本圀寺の変。織田信長の畿内進出に反発する三好三人衆、斎藤龍興、小笠原信定らが、足利義昭の宿所である本國寺(現本圀寺)を襲撃した事件。明智光秀らが指揮する若狭衆が防衛に当たる。 |
1月22日(永禄12年 1月 6日) | 本圀寺の変で、細川藤孝、三好義継らのほか、摂津衆らが織田方の援軍として京に入り、三好方は退却。桂川での戦いで三好側は敗北し小笠原信定が戦死。織田信長は連絡を受けて急遽岐阜を発ち、8日に本國寺に入る。本國寺に変わる京の拠点として二条城の建設構想が立てられたとされる。 |
1月27日(永禄12年 1月11日) | 上杉謙信が、今川・北条から塩を止められた武田領へ塩を送る。 |
2月 3日(永禄12年 1月18日) | 北条氏康、今川家支援のため、氏政に4万5千の兵で駿河へ出陣。対する武田信玄は迎撃に向かう。両軍薩埵峠で対陣。武田信玄は常陸佐竹義重らを動かして北条を攻めさせ、北条氏康も越後上杉謙信と組んで信濃侵攻を画策。 |
6月 1日(永禄12年 5月17日) | 今川氏真が掛川城を開城し、徳川家康に降伏。武田勢が遠江に侵攻したため、家康が武田との関係を切り、北条の仲介で今川家存続に方針転換したことを受けたため。しかしこれ以降、氏真は徳川の庇護下に置かれ、駿河国主に復帰することはなく、大名としての今川家は滅亡。 |
7月 1日 | 元来関係の深かったポーランド王国とリトアニア大公国による同君連合が成立。ポーランド・リトアニア共和国となる(王国だがまもなく貴族と法による支配体制へ移行し、王権の法的規制が強くなったことから、一般に共和国と呼ばれる)。実質、ポーランドによるリトアニア大公国の支配。6月28日に貴族らの合意が成立し、7月4日にルブリンで調印したため、ルブリン合同と呼ばれる。現在のポーランド、バルト三国の他、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの一部を含む大国。 |
7月(永禄12年 7月) | 八流の戦い。土佐中央部を支配する長宗我部元親が、土佐東部に勢力を持つ安芸国虎と、土佐西部に勢力を持つ一条兼定とが同盟し、和睦を拒否したことなどから、安芸国虎に対して兵を動かす。安芸国虎も迎え撃つも、家臣の内応などで敗北。安芸城に撤退し籠城する。 |
9月21日(永禄12年 8月11日) | 籠城していた安芸国虎が、家臣と領民の命を救う代わりに自刃。長宗我部元親が土佐東部を併合。 |
11月13日(永禄12年10月 5日) | 武田信玄が小田原城の包囲を解き、退却を開始。北条方はこれを追撃する作戦を取り、北条氏照と北条氏邦の兵2万が三増峠に向かう。 |
11月14日(永禄12年10月 6日) | 三増峠付近で武田・北条両軍が対峙。 |
11月16日(永禄12年10月 8日) | 三増峠の戦い。武田・北条両軍が衝突し、前半は北条方が、後半は武田方が有利に進める。武田軍の箕輪城代浅利信種らが戦死。両軍とも自軍の勝利としている。戦に間に合わなかった北条氏政は進軍を停止し引き上げる。 |
1570年 |
3月30日(元亀元年 2月14日) | 布部山の戦い。尼子氏再興を図る尼子勝久・山中幸盛らの軍勢に対し、毛利輝元らの率いる軍勢が到着。布部山で激突し、尼子再興軍が敗れる。 |
5月24日(元亀元年 4月20日) | 織田・徳川連合軍は、公家や畿内諸侯とともに、朝倉勢を攻めるために京を出発する。 |
5月30日(元亀元年 4月26日) | 金ヶ崎の戦い。織田・徳川連合軍が、朝倉勢との戦いのさなか、浅井長政が朝倉方について出撃し、織田信長は躊躇せず京へ向けて撤退。朽木氏の協力と、羽柴秀吉ら殿軍の尽力で京にたどり着く。 |
9月25日(元亀元年 8月26日) | 三好三人衆と織田信長の戦闘(野田城・福島城の戦い)が始まる。 |
10月11日(元亀元年 9月12日) | 本願寺顕如の命により、門徒衆らが摂津福島で三好三人衆と対陣していた織田勢の陣を攻撃。石山合戦が始まる。 |
12月(元亀元年12月) | 上杉輝虎、不識庵謙信と称する。 |
1571年 |
9月30日(元亀2年 9月12日) | 織田信長による延暦寺焼き討ち。織田の敵対勢力に味方し、兵を擁し、女性を囲うなどの行為が要因となって、明智光秀らが主体となって攻撃。記録では堂宇500余りが焼失し、僧侶男女ら約1500~4000人が殺害されたという。なお被害の内容は主に焼き討ちに批判的な側からの記録による。後の発掘調査で山上の諸施設に焼け跡の痕跡が少ないことから、山下の近江坂本が主な攻撃対象だったという説もある。公家や諸大名の間で焼き討ちを非難する意見がある一方で、同時代から比叡山の堕落を批判する意見もあった。 |
10月21日(元亀2年10月 3日) | 北条氏康死去。 |
1572年 |
6月14日(元亀3年 5月 4日) | 木崎原の戦い。日向伊東氏が大敗し、島津家九州制覇の端緒となる。 |
8月17日 | フランスでカトリックとプロテスタント「ユグノー」の対立を解消する名目で、ユグノーの指導者で王位継承権もあるナバラ王アンリと国王の妹マルグリットの結婚式が行われ、ユグノー派貴族も集まる。 |
8月22日 | フランスでユグノーの指導者の一人、コリニー提督が狙撃され負傷。ユグノー派貴族らの反発が高まる。 |
8月24日 | フランスでカトリック教徒の貴族ギーズ公アンリによるユグノー派貴族の虐殺事件が起こり、全土へと拡大する。サン・バルテルミの虐殺。 |
9月24日 | 地方政権である「ビルカバンバのインカ帝国」最後の皇帝トゥパク・アマルがスペイン人によって処刑される。インカ帝国は完全に滅亡。この後も、権力への反乱の名前に「トゥパク・アマル」が使われている。 |
11月 6日 | ヴォルフガング・シューラーが超新星SN1572を観測。カシオペア座12,000光年。 |
11月11日 | ティコ・ブラーエが超新星SN1572を消滅するまで詳細に観測し、「新星」と名付ける。これによりティコの星と呼ばれる。ティコ・ブラーエはこの功績によって天文学者としての道を開くことになった。白色矮星に連星から降着した物質によって質量が増大し、その重力収縮の結果引き起こされたIa型超新星爆発と考えられている。 |
1573年 |
1月25日(元亀3年12月22日) | 三方ヶ原の戦い。三河に侵攻した武田信玄に徳川家康が決戦を挑んで大敗した合戦。 |
5月(元亀4年 4月) | 武田信玄の病状が悪化し、重臣らの協議で武田軍は本拠へ引き返し始める。 |
5月13日(元亀4年 4月12日) | 武田信玄、病死。 |
8月25日(元亀4年 7月26日) | 室町幕府の将軍、足利義昭が、彼を必要としなくなった信長によって京を追放される。征夷大将軍の地位を失ったわけではないが、事実上の室町幕府滅亡。 |
9月 4日(元亀4年 8月 8日) | 織田信長が北近江に侵攻。 |
9月10日(元亀4年 8月14日) | 刀根坂の戦い。織田信長が朝倉氏を急襲。朝倉勢は大敗し敗走、一乗谷の攻防戦に続く。この戦いで信長と敵対し続けた斎藤龍興も戦死。26歳。 |
9月14日(元亀4年 8月18日) | 織田信長の軍勢が、朝倉氏の拠点一乗谷に侵攻。一乗谷は焼け落ち、朝倉義景は一門の朝倉景鏡の進めで大野郡へ落ち延びる。 |
9月16日(元亀4年 8月20日) | 朝倉義景が避難していた六坊賢松寺で、朝倉景鏡に攻められ自害。越前朝倉氏は事実上の滅亡。 |
9月26日(元亀4年 9月 1日) | 小谷城が落城し、浅井長政、弟の浅井政元、重臣の赤尾清綱らが自刃。北近江浅井氏も滅亡する。 |
1574年 |
7月11日(天正2年 6月23日) | 浅井・朝倉勢を滅ぼした織田信長は、伊勢長島一向一揆の討伐戦に、水軍も含む過去最大の軍勢を投入し、攻撃を開始。 |
10月13日(天正2年 9月29日) | 最後まで残っていた伊勢長島城(長島願証寺)の下間頼旦らが飢餓状態の門徒を救うため、織田方に降伏を申し出るが、織田信長は城から出てきた下間頼旦、願証寺顕忍ら指導者層を射殺。これに反発した門徒らが捨て身の出撃をして乱戦となり、信長の弟織田秀成、叔父の織田信次、従兄弟の織田信成、一門の織田信直、義弟の佐治信方らが戦死。信長は激怒し、残っていた輪中を包囲の上で放火、門徒2万人が焼死したと言われる。約4年続いた長島一向一揆は終結。 |
11月(天正2年11月) | 毛利氏が宇喜多直家と同盟を組んだことに反発し、三村元親が離反し織田信長に付く。毛利勢は備中へ侵攻して三村氏領内の諸城の攻略を開始する(備中兵乱)。毛利・宇喜多同盟については、吉川元春が信義にもとるとして反対したが、推進派の小早川隆景の主張が通った。元春は三村氏攻略にも反対している。一方三村元親の叔父である三村親成は毛利からの離反に反対し、毛利側へ出奔している。 |
1575年 |
6月29日(天正3年 5月21日) | 織田・徳川連合軍と武田軍が長篠設楽原で戦い、鉄砲を多用するなどして織田・徳川連合軍が勝利。武田氏は重臣らが多数戦死し衰退していく。 |
6月30日(天正3年 5月22日) | 戦国大名三村氏の本拠である備中松山城が毛利勢によって陥落。 |
7月 9日(天正3年 6月 2日) | 三村元親が自害し、大名としての三村氏直系は滅亡。 |
7月13日(天正3年 6月 6日) | 三村氏の最後の拠点だった備中常山城も毛利方の攻勢で陥落。城主上野隆徳は自害。妻の鶴姫も乃美宗勝に一騎討ちを挑むが拒否されたため、城に戻って自害した。 |
7月(天正3年 7月) | 四万十川の戦い。長宗我部氏の圧力で一旦豊後に逃れていた一条兼定が旧領回復を企図して挙兵し3500の兵を集める。それに対し長宗我部元親は7500の兵を派遣。両軍は四万十川(渡川)で衝突。一領具足制で多数の兵を短期間で集められた長宗我部氏側が勝利し、一条兼定は再び落ち延びることとなる。長宗我部氏が土佐を統一。 |
1576年 |
8月 7日(天正4年 7月13日) | 第一次木津川口の戦い。石山本願寺を包囲している織田軍に対し、本願寺の求めに応じた毛利氏が兵糧などを運び込むため、毛利水軍、小早川水軍、村上水軍、宇喜多氏などの兵力を動員。対する織田方も九鬼水軍を出したが、毛利軍の使用する焙烙玉によって、織田方は大敗。 |
12月15日(天正4年11月25日) | 三瀬の変。織田信長が、前の伊勢国司北畠氏を完全に滅ぼすため、伊勢の三瀬御所に滝川雄利、柘植保重、加留左京進を派遣。北畠具教らを襲撃して殺害。北畠氏の養子となっていた織田信意(信雄)も、田丸城で長野具藤、北畠親成、坂内具義、大河内具良らを殺害。 |
12月23日(天正4年12月 4日) | 三瀬の変で北畠一族が討ち取られたことを知った家臣らが、北畠政成の霧山城に立てこもるも、織田信長が派遣した羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信らの兵15000人によって陥落。北畠政成らは自害。 |
1577年 |
2月19日(天正5年 2月 2日) | 織田信長が、石山本願寺に加勢する紀伊雑賀勢力の攻略を開始する。 |
7月(天正5年 7月) | 北条・里見両者の間で房相一和(「相房御和睦」)がなされる。安房上総の両者の勢力圏を確定することと北条の姫(龍寿院)が里見氏へ嫁ぐことで和睦が成立した。 |
11月 3日(天正5年 9月23日) | 手取川の戦い。能登攻略に出た上杉謙信と、七尾城の救援に赴いた織田軍が衝突。上杉軍の攻撃に対し、手取川に退却路を阻まれた織田軍は大敗を喫する。 |
11月19日(天正5年10月10日) | 信貴山城の戦い。織田信長に反旗を翻した松永久秀が、信貴山城に籠り、筒井順慶らを先陣に織田軍が攻撃を行う。久秀は落城の際に平蜘蛛の茶釜に火薬を詰めて自爆したとも言われる。 |
1578年 |
1月14日(天正5年12月 7日) | 島津軍が高原から日向の伊東領へと侵攻を開始。伊東義祐の重臣福永祐友と野村文綱が島津方に寝返り、伊東家の拠点佐土原へ島津軍が接近したため、10日、伊東家は領地を放棄。一旦は沿岸を通ろうとしたが、財部城主落合兼朝が反旗を翻したため、やむなく米良山中を通って豊後へと落ち延びる。伊東義祐の一族で重臣だった伊東祐松の横暴が家臣の反感を買い、家臣団崩壊の大きな要因になったとみられる。 |
4月15日(天正6年 3月 9日) | 上杉謙信が春日山城内の厠で倒れ、意識不明となる。 |
4月19日(天正6年 3月13日) | 上杉謙信が春日山城内で死去。15日ころを予定していた遠征の出陣は取りやめとなる。 |
5月16日(天正6年 4月10日) | 大友宗麟が日向へ侵攻し、島津方へ寝返った懸領主土持親成を滅ぼす。 |
6月12日(天正6年 5月 7日) | 武田四天王の一人で甲越同盟を推進した春日虎綱(高坂昌信)が死去。 |
8月 4日 | アルカセル・キビールの戦い(マハザン川の戦い)。ポルトガル王セバスティアン1世が、モロッコのサアド朝の内紛に乗じてに侵攻するも、この戦いで大敗を喫し、セバスティアンも消息を絶つ(戦死したものと思われる)。ポルトガル軍と戦ったサアド朝のアブー・マルワーン・アブドゥルマリク王も戦死し、アブドゥルマリクによって追放されセバスティアンに支援を求めた前王ムーレイ・ムハンマドも戦死したため、「三王の戦い」ともいう。ポルトガルはこの戦争で王を失い、多数の貴族の子弟が捕虜となり、その身代金の支払と軍事費で財政が破綻したため、スペインに併合されることになる(セバスティアンは死んではおらず、いつか帰還して祖国を救うという伝説が広まった)。一方、アブドゥルマリクの跡を継いだ弟のアフマド・アル=マンスール・アル=ザハビーのもとで繁栄する。 |
11月24日(天正6年10月25日) | 伊賀国進出を狙う織田信雄が、滝川雄利に命じて伊賀丸山城の改修に動き出したことから、伊賀国衆がこれを襲撃。第一次天正伊賀の乱の始まり。 |
12月 7日(天正6年11月 9日) | 耳川の戦い。日向高城川原で、大友勢と島津勢が戦い、島津が勝利。大友家臣団が崩壊していくきっかけとなった。 |
12月 4日(天正6年11月 6日) | 第二次木津川口の戦い。織田信長は九鬼嘉隆に建造させた6隻の鉄甲船を回航させて大坂湾に配備。侵攻してきた毛利水軍に対し砲撃戦を行い、毛利方は退却。織田方が勝利する。 |
12月 8日(天正6年11月10日) | 織田信長に反旗を翻した荒木村重の居城有岡城の包囲戦が始まる。 |
1579年 |
8月30日(天正7年 8月 9日) | 明智光秀が丹波黒井城を攻撃し攻め落とす。丹波平定戦はほぼ終結。 |
10月 5日(天正7年 9月15日) | 徳川家康の長男、松平信康が切腹。織田信長の命令で殺されたとも、徳川家(当時は松平家)の家臣団を巻き込んだ内部紛争とも言われる。 |
10月 6日(天正7年 9月16日) | 織田信雄が独断で兵力8000を率い、伊賀国に侵攻。しかし伊賀十二人衆らの反撃で大敗。柘植保重らが戦死する。織田信長はこれを知って激怒し、信雄を叱責。第一次天正伊賀の乱。 |
11月 7日(天正7年10月19日) | 有岡城が陥落。 |
1580年 |
2月 2日(天正8年 1月17日) | 秀吉が別所氏の播磨三木城を兵糧攻めにした三木合戦「三木の干殺し」が終結。 |
4月20日(天正8年閏3月 7日) | 正親町天皇の勅命で立入宗継が織田信長と石山本願寺の調停を行い、石山合戦が終結。 |
5月22日(天正8年 4月 9日) | 顕如が石山本願寺から鷺森別院に退去。 |
9月10日(天正8年 8月 2日) | 織田信長が石山本願寺を接収。直後に火災が起き、寺域の堂舎・寺内町が二日一夜に渡り燃え続け灰燼に帰す。失火説のほか、講和反対派による放火との説もある。 |
1581年 |
3月27日(天正9年 2月23日) | 織田信長とアフリカ・モザンビーク付近の出身とされる黒人「弥助」が面会。信長に気に入られ家臣となる。 |
4月 1日(天正9年 2月28日) | 織田信長が京都御馬揃えを行う。正親町天皇の御前で、信長の他、信長の武将、織田一門、公家衆、信長側近、柴田与力などが参列。 |
9月14日(天正9年 8月17日) | 織田信長、各地で捕らえた多数の高野聖を安土で処刑。荒木村重配下の者が高野山に逃げ込み、高野山が引き渡しに応じなかったことへの対抗措置と言われる。 |
9月30日(天正9年 9月 3日) | 織田信長、織田信雄を総大将に兵力5万で伊賀に侵攻。第二次天正伊賀の乱。日付は諸説あり。伊賀国衆は比自山と平楽寺の2箇所を拠点に抵抗。 |
10月 8日(天正9年 9月11日) | 織田軍勢、伊賀をほぼ制圧したとみられる。第一次と異なり、織田方の調略で伊賀国衆は分裂していた。 |
10月29日(天正9年10月 2日) | 織田信長、高野山攻めを開始。同山を巡る攻防は本能寺の変を受けて織田軍が撤退するまで続いたと言われる。 |
11月24日(天正9年10月28日) | 伊賀柏原城の滝野吉政が降伏。第二次天正伊賀の乱は終結。伊賀国の人口9万のうち、3万が死亡したと言われる。日付は諸説あり。 |
12月 1日 | 元イングランド国教会執事で信条からカトリック教会へ変わりイエズス会に所属した司祭エドマンド・キャンピオンが、カトリック普及のため亡命先のネーデルランドドゥエーからイングランドへ戻っていたところを逮捕され、信仰を捨てなかったことから、エリザベス1世殺害の企図容疑で首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑される。1970年に列聖。 |
1582年 |
2月 3日(天正10年 1月 1日) | 近江近隣の大名・小名、御連枝衆、それらの従者等による安土城参賀が行われる。百々橋から摠見寺へ続く道で、人の重みで石垣が崩れて多数の人が落ち死傷者が出たという。参賀者はまた、摠見寺毘沙門堂、天主白州、江雲寺殿、さらに本丸、御幸(みゆき)の間などを見学。織田信長自ら見物料を取ったという。 |
2月20日(天正10年 1月28日) | 天正遣欧少年使節が長崎を出航する。 |
2月23日(天正10年 2月 1日) | 武田信玄の娘婿で木曽の領主だった木曽義昌が、武田勝頼が進める新府城建設の賦役の負担に反発して織田方に寝返る。勝頼、人質としていた木曽義昌の母親と側室及びその子供を殺害。 |
2月25日(天正10年 2月 3日) | 織田信長が、武田攻めを下知し、動員令を発する。森長可、団忠正ら先発軍が岐阜城を出発。 |
3月10日(天正10年 2月16日) | 織田の支援を受けた木曽義昌と、武田勝頼の派遣した軍勢が鳥居峠で戦闘し、武田側が敗北。 |
3月12日(天正10年 2月18日) | 織田信忠軍の信濃侵攻を受けて保科正直は飯田城を、武田信廉は大島城を放棄。徳川家康は掛川城を発って、依田信蕃の田中城攻略を開始。 |
2月15日(天正10年 2月21日) | 徳川軍が駿府城に入る。 |
3月24日(天正10年 3月 1日) | この前後に武田の御一門衆であった穴山梅雪が徳川方に寝返る。 |
3月25日(天正10年 3月 2日) | 武田方の高遠城が陥落。仁科盛信、小山田昌成らは討ち死に。 |
3月26日(天正10年 3月 3日) | 武田勝頼は新府城を放棄、小山田信茂の要害岩殿城へと向かう。なお、武田信勝は新府城での籠城を、真田昌幸は真田領の上野岩櫃城への退避を、長坂光堅が岩殿城への退避を主張したとも言われる。 |
3月30日(天正10年 3月 7日) | 織田信忠が甲府に入り、武田残党狩りを始める。 |
4月 1日(天正10年 3月 9日) | この頃、小山田信茂が武田家を離反。武田勝頼一行は行き場を失い、天目山へと向かう。 |
4月 3日(天正10年 3月11日) | 滝川一益の軍勢に追いつかれた武田勝頼らは、天目山の戦いで敗れ自刃。甲斐武田氏が滅亡する。 |
4月 6日(天正10年 3月14日) | 武田方で最後まで残っていた駿河田中城の依田信蕃が開城。徳川家康に家臣に誘われるも、これを断り本拠地信濃へ戻る(のち徳川家臣となる)。 |
4月16日(天正10年 3月24日) | 織田軍に帰順を表明した小山田信茂が武田勝頼に対する不忠を理由に処刑される。 |
6月21日(天正10年 6月 2日) | 本能寺の変。明智光秀が謀反し、京に織田信長を襲撃。織田信長、織田信忠親子は自刃。グレゴリオ暦では7月1日。 |
6月23日(天正10年 6月 4日) | 羽柴秀吉の高松城水攻めで、城主清水宗治が自刃し開城となる。秀吉は本能寺の変の情報を得ていたが、切腹を見届けてから、畿内へ向かう。 |
7月 1日(天正10年 6月12日) | 羽柴秀吉率いる諸将の軍勢と明智光秀の軍勢が摂津と山城の境にある山崎で対陣。 |
7月 2日(天正10年 6月13日) | 羽柴秀吉軍の中川清秀隊と、明智光秀軍の伊勢貞興隊が衝突。山崎の合戦が始まる。一旦は明智勢が優勢に進めるが、池田恒興隊、加藤光泰隊らの襲撃で逆転し、明智軍は敗走する。明智光秀は敗走中に百姓の落ち武者狩りに襲われ殺害される(負傷後自刃したとも)。 |
7月16日(天正10年 6月27日) | 清州会議。織田信長の後継を決める重臣会議。織田信孝を推す柴田勝家と、織田信忠の子、三法師を推す羽柴秀吉が対立。諸将の協議の結果、三法師を後継、織田信雄・信孝が後見し、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興が補佐することでまとまる。柴田勝家も三法師を後継とすることでは一致していたという説もある。領地の再配分も決定。 |
10月15日 | カトリック教会がグレゴリオ暦を導入。イタリア半島諸国とスペイン、ポーランド・リトアニアが改暦を実施。ユリウス暦10月5日。 |
12月26日(天正10年12月 2日) | 羽柴秀吉が、近江長浜の柴田勝豊を攻め降す。 |
1583年 |
1月13日(天正10年12月20日) | 羽柴秀吉が、岐阜城の織田信孝を攻め降す。 |
1月24日(天正11年 1月 1日) | 滝川一益が、柴田勝家側に与して伊勢長島で挙兵。 |
5月 3日(天正11年 3月12日) | 柴田勝家、佐久間盛政、前田利家ら兵力3万が近江柳ケ瀬に進出し、賤ヶ岳の戦いが始まる。 |
5月10日(天正11年 3月19日) | 羽柴秀吉も、兵力5万で木ノ本へ進出。 |
6月 6日(天正11年 4月16日) | 織田信孝が、柴田勝家、滝川一益に呼応して挙兵し、美濃へと侵攻を開始。羽柴秀吉はこれに対応するため、美濃へと軍を移動させる。 |
6月 9日(天正11年 4月19日) | 柴田軍佐久間盛政による攻勢により羽柴勢の中川清秀が戦死。 |
6月10日(天正11年 4月20日) | 羽柴秀吉が大垣より前線に引き返し、丹羽長秀も琵琶湖を横断して賤ヶ岳の佐久間盛政を攻撃。 |
6月11日(天正11年 4月21日) | 前線から柴田勢の前田利家が撤退を開始し、その影響で柴田勢は混乱に陥る。羽柴軍が佐久間盛政を撃破したため、柴田勝家も退却。 |
6月14日(天正11年 4月24日) | 羽柴軍の攻勢により、北ノ庄城が落城。柴田勝家、お市の方などは自害。佐久間盛政は加賀へと逃走を図るが捕らえられる。 |
6月19日(天正11年 4月29日) | 織田信孝が自害。 |
7月 1日(天正11年 5月12日) | 佐久間盛政が秀吉の臣下への誘いを断り、自害も拒否して処刑される。 |
7月(天正11年 5月) | 滝川一益が出家して秀吉に降伏する。 |
| シャイバニー朝ブハラ・ハン国王イスカンダルが死去し、実質上の最高権力者だった子のアブドゥッラーフ2世が10代目として即位。シャイバニー朝は最盛期を迎える。 |
| エディンバラ大学開学(国王の勅許は前年)。 |
1584年 |
4月16日(天正12年 3月 6日) | 織田信雄が、3人の家老(浅井長時・岡田重孝・津川義冬)を秀吉方に与しているとして処刑。小牧・長久手の戦いが始まる。 |
4月27日(天正12年 3月17日) | 羽黒の戦い。小牧・長久手の戦いの一つ。 |
5月 4日(天正12年 3月24日) | 沖田畷の戦い。島津方に付いた有馬晴信を討伐するため出陣した龍造寺隆信が川上忠堅に討ち取られ、龍造寺軍は大敗を喫する。百武賢兼、成松信勝、江里口信常、円城寺信胤、木下昌直らもことごとく討ち死に。出兵を諌めた鍋島信生(直茂)もあわや7騎まで撃ち減らされるも、かろうじて脱出に成功。 |
5月18日(天正12年 4月 9日) | 長久手の戦い。羽柴秀吉勢と、織田信雄・徳川家康同盟軍が衝突。森長可、池田恒興、池田元助らが戦死する。 |
6月 9日(天正12年 5月 1日) | 羽柴秀吉が、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に比叡山の再興を認める。 |
8月10日(天正12年 7月 5日) | 天正遣欧少年使節がポルトガルの首都リスボンに到着。ローマを目指し各国を訪問していく。 |
12月12日(天正12年11月11日) | 織田信雄が、羽柴秀吉の求めに応じて単独講和が成立する。徳川家康は名分を失い戦争は終結。 |
1585年 |
3月 1日 | 天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。 |
3月31日(天正13年 3月 1日) | 羽柴秀吉による紀州根来攻めのため、小早川隆景に毛利水軍の進発を命じる。 |
4月19日(天正13年 3月20日) | 羽柴秀次軍が和泉の紀州勢力攻めを開始。 |
4月21日(天正13年 3月22日) | 千石堀城が羽柴軍の火攻めを受けて落城。畠中城の城兵は城に火を放って逃走。 |
4月21日(天正13年 3月23日) | 貝塚御坊の卜半斎了珍の説得を受け、積善寺城が降伏。同日、沢城も降伏し、和泉から紀州・根来勢力は撤退。羽柴軍はそのまま根来寺攻略を開始。根来寺の伽藍の多くが炎上する。 |
4月22日(天正13年 3月24日) | 粉河寺、雑賀勢の有力者土橋氏、日高郡の有力者湯河氏も攻められる。 |
5月 9日(天正13年 4月10日) | 羽柴秀吉、高野山に降伏を勧告。 |
5月15日(天正13年 4月16日) | 高野山が秀吉に降伏。 |
8月 6日(天正13年 7月11日) | 羽柴秀吉が、近衛家の猶子となった上で関白に就任する。五摂家ではない上に公家でもない武家の秀吉が関白に就任するのは前代未聞の出来事。 |
11月29日(天正13年10月 8日) | 粟之巣の変。二本松義継が伊達輝宗を拉致して逃走を図るが、輝宗の子である政宗は父親もろとも義継を殺害。 |
| モンゴルのカラコルム近郊ハルホリンに仏教寺院エルデネ・ゾーが建立される。仏塔が連なる独特の長い外壁をもった大規模寺院。建築物の多くは共産党によって破壊されているが外壁などは現存。 |
1586年 |
1月 2日(天正13年11月13日) | 徳川家康の重臣で徳川家の外交交渉を担当した石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔。 |
3月(天正14年 2月) | 聚楽第の建設が京の内野(かつての大内裏の跡地)で始まる。 |
8月28日(天正14年 7月14日) | 島津軍が大友領へ侵攻し、岩屋城の戦いが始まる。島津忠長らの島津軍2万以上が、大友側岩屋城の高橋紹運を攻めるが、高橋紹運は763名で防戦に徹する。 |
9月10日(天正14年 7月27日) | 岩屋城が陥落し、高橋紹運ら城兵は全滅。しかし半月もの籠城戦と兵の損害を受けて島津軍の侵攻は中断。 |
11月(天正14年10月) | 島津軍が再び大友領へと侵攻を開始する。日向から侵攻した島津家久軍は豊後大野郡の諸城を次々と攻略し北上する。一方、肥後路から豊後へ侵攻した島津義弘軍は、志賀親次の岡城と周辺の支城の攻略に失敗。 |
12月 3日(天正14年10月23日) | 島津家久は栂牟礼城の佐伯惟定に降伏を勧告するが、惟定はこれを拒否。攻撃を開始した島津軍に対し、佐伯家の軍監となっていた山田匡得(日向伊東氏の家臣)が反撃を指揮して島津軍は大敗。これを受けて、先に島津方に降伏していた柴田紹安の家臣芦別大膳が佐伯勢に内応して星河城が陥落。柴田氏は滅ぼされる。岡城と栂牟礼城の攻略に失敗したことで、島津軍は戦略が狂うことになった。 |
1587年 |
1月 5日(天正14年11月26日) | 島津家久は、大友宗麟の籠城する丹生島城の手前にある鶴賀城の攻略に取り掛かるが、城将利光宗魚、成大寺豪永らの徹底抗戦によって12月に入っても落とすことができず。 |
1月20日(天正14年12月12日) | 戸次川の戦い。鶴賀城攻略中の島津家久軍に対し、大友義統、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保の軍勢が攻勢をかける。しかし仙石秀久の強行論と、長曾我部元親らの慎重論が対立し、意見が一致しないまま出撃にいたり、島津側が勝利。長宗我部信親、十河存保らが戦死する。 |
1月21日(天正14年12月13日) | 戸次川の勝利の勢いで、島津家久は豊後府内城を攻略。大友義統はすでに城を離れており、ほぼ抵抗なく占領した。一方、大友宗麟の籠もる海上の丹生島城には攻略に手間取り、宗麟がポルトガルから手に入れたとされる大砲「国崩し」による反撃もあり被害を出す。丹生島城の支城である鶴崎城は抗戦の末に降伏するが、このとき城代として指揮した妙林尼は、巧みに島津方をもてなして油断させ、豊臣軍の侵攻に便乗して奇襲をかけ大きな損害を与えたと言われる。 |
1月27日(天正14年12月19日) | 羽柴秀吉が、太政大臣となる。この頃、氏を藤原から豊臣朝臣に変えたと考えられる(当時は氏姓と名字は別であり、羽柴秀吉が豊臣秀吉になったわけではなく、羽柴豊臣朝臣秀吉になったということ)。 |
4月 8日(天正15年 3月 1日) | 九州征伐で秀吉が大坂を出陣。 |
7月24日(天正15年 6月19日) | 九州に遠征していた豊臣秀吉が、筑前箱崎においてキリスト教の布教に関する禁制を発する。バテレン追放令。 |
10月(天正15年 9月) | 聚楽第の大部分が完成する。 |
11月 1日(天正15年10月 1日) | 豊臣秀吉が北野天満宮の森で、北野大茶会を催す。 |
1588年 |
2月 9日(天正16年 1月13日) | 形式的にも室町幕府が滅亡する。豊臣秀吉が島津氏を降服させるのに合わせるように足利義昭が将軍職を辞して出家。 |
5月 9日(天正16年 4月14日) | 後陽成天皇が聚楽第に行幸。 |
5月15日(天正16年 4月20日) | 黒田長政が、地元豊前の有力者だった城井鎮房を中津城に招いて謀殺。合元寺にいた城井家臣団もことごとく討ち取られる。また肥後国人一揆鎮圧のため出陣していた城井朝房も黒田孝高の手で殺害。鎮房の娘も磔に処せられ殺害された。黒田家は後々まで「城井家の呪い」に悩まされたという。なお懐妊していた朝房の妻龍子は子の宇都宮朝末を生んで父秋月種実のもとに逃れ、子孫は越前松平家に仕えた。鎮房の弟も薩摩に逃れたと言われる。 |
5月 | スペインの無敵艦隊が、イングランド侵攻のために出発。 |
7月31日 | スペインとイングランドによるプリマス沖海戦。いわゆるアルマダの海戦の始まり。イングランドではまだユリウス暦で7月21日。 |
8月 2日 | スペインとイングランドによるポートランド沖海戦。 |
8月 5日 | スペインとイングランドによるワイト島沖海戦。 |
8月 7日 | スペインとイングランドによるカレー沖海戦、続けてグラヴリンヌ沖海戦となる。 |
8月18日 | エリザベス女王が軍隊を鼓舞するためティルベリーで演説。 |
8月29日(天正16年 7月 8日) | 豊臣秀吉の刀狩令が発令される。百姓らの所有する刀のみを対象にしたもので、完全な武装解除ではなく、身分制を定めるためとも言われている。 |
8月 | アルマダの海戦で敗北したスペインの無敵艦隊が、補給のためアイルランドに向かうが、多くが座礁し、兵も殺される。 |
9月22日 | スペイン無敵艦隊の残存艦が母国に帰還をはじめる。兵の過半を失う。 |
| サファヴィー朝5代目君主として、アッバース1世がクズルバシュの支援を受けて即位。しかしアッバース1世はクズルバシュの権力を削ぎ、宮廷奴隷や異民族から有能な人材を抜擢し、衰退していた同王朝を復興させる。 |
1590年 |
1月18日(天正17年12月13日) | 豊臣秀吉が、惣無事令の違反を咎めて、北条氏討伐の陣触れを発する。 |
7月 6日(天正18年 6月 5日) | 小田原遠征に関連して、忍城の攻防戦が始まる。 |
8月 4日(天正18年 7月 5日) | 北条氏直が豊臣秀吉に降伏、小田原城開城。 |
8月16日(天正18年 7月17日) | 北条側で唯一陥落しなかった忍城が開城される。 |
8月25日(天正18年 7月26日) | 豊臣秀吉が宇都宮に入り、東国仕置を決定する。徳川家を関東に移封。 |
8月30日(天正18年 8月 1日) | 徳川家康が江戸城に入る。いわゆる八朔の記念日。 |
10月12日(天正18年 9月 4日) | 織田信長、豊臣秀吉が寵愛した絵師の狩野永徳が、東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れ死去。 |
1591年 |
3月21日 | トンディビの戦い。ソンガイ帝国の王イツハーク2世は、スペイン生まれでサアド朝のアフマド・アル=マンスールに仕える軍事指導者ジュデル・パシャに敗北し、翌年サアド朝の攻勢で滅亡する。 |
4月21日(天正19年 2月28日) | 千利休切腹。 |
1592年 |
2月11日(天正19年12月28日) | 豊臣秀吉が関白を辞職し、秀次が2代目の武家関白となる。太政大臣はもとのまま。 |
(天正19年) | 豊臣秀次の名で人掃令が布告される。村単位で老若男女の人数と職分を記録提出させた政令。朝鮮出兵のための兵士・人夫の動員数を調べるのが目的だったものか。 |
5月24日(天正20年 4月13日) | 釜山近郊に上陸した豊臣軍が総攻撃を開始し、文禄の役が始まる。 |
1593年 |
2月27日(文禄2年 1月26日) | 文禄の役、碧蹄館の戦い。日本軍と明軍が衝突し、日本軍が勝利をおさめる。中国では万暦21年。 |
7月25日 | ユグノーのアンリ4世が、国民の支持を獲得するため、サン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗。 |
1594年 |
2月27日 | フランス王の地位についたアンリ4世が、正式に戴冠。ブルボン王朝初代フランス王となる。 |
10月 8日(文禄3年 8月24日) | 京で盗賊団が捕らえられ、その首領、石川五右衛門が処刑される。 |
1595年 |
3月17日(文禄4年 2月 7日) | 会津の大大名、蒲生氏郷が癌とみられる症状で死亡。40歳。蒲生家お家騒動の始まり。 |
8月13日(文禄4年 7月 8日) | 豊臣秀次の元に石田三成らが訪れ、高野山追放を伝える。 |
8月20日(文禄4年 7月15日) | 豊臣秀次、雀部重政、東福寺の僧・玄隆西堂が青巌寺で切腹(豊臣秀次事件)。 |
9月 5日(文禄4年 8月 2日) | 豊臣秀次の妻子ら39人が処刑され、遺体は地面に掘った穴に捨てられる。この事件で秀次の側室になる前だったにもかかわらず娘を処刑された最上氏は、豊臣家を恨み、徳川家へ接近することになる。 |
9月22日(文禄4年 8月19日) | 豊臣秀次の重臣で、秀吉の側近として活躍してきた前野長康が秀次事件の責めを受けて自害。 |
1596年 |
9月 1日(文禄5年閏7月 9日) | 慶長伊予地震。 |
9月 4日(文禄5年閏7月12日) | 慶長豊後地震。瓜生島沈没伝説で知られる。 |
9月 5日(文禄5年閏7月13日) | 慶長伏見大地震。伏見城が崩壊し死者多数を出す。大和の大名で秀吉直参の横浜一庵も巻き込まれて圧死。石田三成との対立で謹慎中の加藤清正が、秀吉を救出して許されたという。方広寺の大仏も壊れたという。阪神・淡路大震災と同じ震源域とする説もある。 |
10月?(文禄5年 9月) | 豊臣秀吉と明の使者との会談が行われるが、明側が秀吉に順化王の称号を与えて冊封しようとしたため、秀吉は、明の皇女の天皇への降嫁、朝鮮南半の割譲という秀吉の要求が一切認められてないのを知り、会談は決裂する。秀吉は再戦を決定。事前の講和交渉で小西行長・石田三成らと沈惟敬らの偽装講和の工作が裏目に出たとみられる。 |
12月16日(文禄5年10月27日) | 相次ぐ災害を受けて、慶長に改元。 |
12月23日(慶長元年11月 4日) | 服部正成(半蔵)死去。家康の重臣で伊賀衆・甲賀衆を率いる。 |
1597年 |
2月 5日(慶長元年12月19日) | 長崎でキリシタンの日本二十六聖人が処刑される。日本人は20名で、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名。 |
5月26日(慶長2年 4月11日) | 徳川秀忠と江の娘、千姫生誕。 |
9月(慶長2年 8月) | 聚楽第に変わる豊臣氏の邸宅「京都新城」が完成する。当時は太閤御屋敷などと呼ばれた。のちの仙洞御所(現在の京都御所南東部)の位置に当たる。 |
| イングランドで最初の救貧法が制定される。貧困層が増加し、社会的不満が高まったことに対して、病気などで働けず貧困に陥った人々を救済する制度。 |
| 朝鮮半島北部の白頭山(長白山)が大噴火を起こす。 |
1598年 |
4月20日(慶長3年 3月15日) | 豊臣秀吉が醍醐寺で豪華絢爛な花見を行う。いわゆる醍醐の花見。 |
4月30日 | フランス国王アンリ4世がナントの勅令を出して、プロテスタントの信仰を認め、ユグノー戦争以来の宗教紛争は終結。 |
9月18日(慶長3年 8月18日) | 豊臣秀吉、伏見城にて死去。 |
11月13日(慶長3年10月15日) | 朝鮮半島に在陣する諸将に対し、半島からの撤退命令が発せられる。 |
| サファヴィー朝のアッバース1世が王都をカズヴィーンからイスファハーンに遷す。同年、北のホラーサーン地方へ侵攻しこれを奪う。 |
1599年 |
4月 4日(慶長4年 3月 9日) | 薩摩藩主島津忠恒が、伏見島津邸内で、島津家宿老で日向庄内8万石の領主である伊集院忠棟を殺害。忠棟が謀反を企てたとも、中央政権に近かった忠棟を島津家が警戒したためとも、島津家の内紛に巻き込まれたとも言われる。 |
4月27日(慶長4年閏3月 3日) | 島津義久が、日向庄内地方への交通を遮断。伊集院忠棟の息子の伊集院忠真は家臣の白石永仙の意見を入れ、島津家に対し反乱を起こす。庄内の乱。 |
6月 5日(慶長4年 4月13日) | 豊臣秀吉を阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬。麓には木食応其により鎮守社が創建される。 |
6月 8日(慶長4年 4月16日) | 朝廷より豊臣秀吉に豊国大明神の神号が与えられる。 |
6月10日(慶長4年 4月18日) | 鎮守社を元に豊国神社が設立される。 |
9月11日 | ベアトリーチェ・チェンチ斬首される。横暴で暴力的な父親を家族と共に殺害したことで家族ともども罪に問われた。背景にはチェンチ家の財産を狙ったローマ教皇クレメンス8世の暗躍も。 |
1600年 |
4月28日(慶長5年 3月15日) | 伊集院忠真が徳川家康の調停を受けて島津氏に降伏。庄内の乱も終結する。忠真は島津義弘の娘婿であり、再反乱も警戒されて、義弘が関ヶ原で島津家の支援を得られず孤立参戦の原因のひとつとなったという。また、加藤清正は忠真に密かに味方していたことが発覚して家康の怒りを買い、会津征伐(ひいては関ヶ原)に直接参戦できなかった。 |
4月29日(慶長5年 3月16日) | オランダの極東船団で唯一アジアまでたどり着いたリーフデ号が豊後の臼杵に漂着。 |
9月 8日(慶長5年 8月 1日) | 伏見城の戦いで伏見城が落城。関ヶ原の戦いの前哨戦。 |
10月21日(慶長5年 9月15日) | 関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利し、石田三成の西軍は壊滅。 |
10月24日(慶長5年 9月18日) | 石田家の佐和山城落城。開城交渉が進んでいるさなかに東軍兵が城を攻撃し石田一族が自刃した。 |
10月27日(慶長5年 9月21日) | 石田三成が田中吉政の軍勢によって捕縛される。 |
11月 6日(慶長5年10月 1日) | 石田三成、京の六条河原で処刑される。 |
| この年、南米アンデス山脈のワイナプチナ山が大噴火を起こす。 |
1601年 |
| イングランドでエリザベス救貧法が制定される。救貧法を改正し、国家管轄のもとで救貧を行うようにした初の法令。労働不能者の救済や孤児の養育をすすめる一方、健常な貧困層に強制労働させるなどの問題も残る。 |
| この年、異常気象の影響で、西ヨーロッパでぶどうの収穫が激減。ワインの生産が大打撃を受ける。また各地で飢饉と疫病が広がったという。前年のワイナプチナ山の大噴火が原因という説が有力。 |
| ロシアでも寒冷気候によって穀物生産が壊滅的な打撃を受け、1603年にかけて大飢饉が起き、人口の3分の1に当たる200万人が死亡したと言われる。その後の大動乱の要因ともなった。 |
1602年 |
10月 2日(慶長7年 8月17日) | 薩摩藩主島津忠恒が上洛の途中、日向野尻で催した狩りの最中に、同行させていた伊集院忠真を射殺。表向きは押川則義と淵脇平馬の誤射とされ、両人は切腹。しかし忠真の妻と娘を除く家族も同じ日に殺害されており、計画的暗殺であった。なお重臣平田増宗の嫡男宗次も巻き添えで死亡しているが、のちに増宗ら一族も処罰されており、島津家の内紛にともなう暗殺説もある。 |
12月 1日(慶長7年10月18日) | 岡山藩主、小早川秀秋が21歳で死去。 |
(慶長7年11月) | 再建中の方広寺大仏殿と大仏が失火により焼失。 |
1603年 |
3月24日 | イングランド女王エリザベス1世がリッチモンド宮殿で死去。生涯結婚をせず、後継者も定めなかった。 |
7月25日 | スコットランドの王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームス1世としても戴冠し、イングランドとスコットランドの同君連合が成立。 |
| 北条氏の元家臣で忍者集団を率いたと言われる盗賊の5代目風魔小太郎が密告によって幕府に捕らえられる。 |
| 星図書『ウラノメトリア』が発刊される。編纂したヨハン・バイエルは天文の専門家ではなかったが、同書は天文学に大きな影響を与え、同書に記載された星の命名規則バイエル符号は現在でも使われている。 |
1604年 |
3月 4日(慶長9年 2月 4日) | 江戸幕府が、大久保長安を奉行に、東海道・東山道・北陸道に一里塚の設置をはじめる。 |
10月 9日 | 超新星SN1604が地球上で初めて観測される。へびつかい座20,000光年以内。通称ケプラーの星。銀河系内で起こったものとしては記録上最後に観測された超新星。 |
10月17日 | この日、超新星SN1604をヨハネス・ケプラーが観測し記録を残す。ケプラーの星と呼ばれる所以。18ヶ月輝き、金星に次いで明るかったとされる。白色矮星に降着した物質による質量増大で引き起こされたIa型超新星爆発とみられる。 |
1605年 |
9月 6日(慶長10年7月23日) | かつて二条昭実と関白の座をめぐって争い、その結果、豊臣秀吉に関白の地位を奪われた近衛信尹が関白に就任する。 |
11月 5日 | イングランドの国王ジェームズ1世を国会もろとも爆殺しようと計画された火薬陰謀事件で、実行直前に主要メンバーのガイ・フォークスが逮捕される。 |
1606年 |
4月12日 | イングランド王ジェームス1世がユニオンフラッグを制定する。 |
4月25日 | 神聖ローマ帝国にある、プロテスタントが多数を占める帝国自由都市ドナウヴェルトで、カトリック信徒が行進しようとしたのを市の評議員が止めようとして対立に発展。 |
1607年 |
2月(慶長12年 2月) | 公卿で左近衛少将の猪熊教利が宮中の女官と密通したことが後陽成天皇に露見し、勅勘を受けて追放される。しかしまもなく密かに戻って公卿らと乱交に耽るようになる。 |
4月25日 | ジブラルタルの海戦。八十年戦争で、オランダ海軍艦隊が、ジブラルタルに入港していたスペイン艦隊を奇襲し圧勝する。 |
10月26日 | 佐賀藩の主権回復を訴えていた龍造寺高房が江戸で急死。一説には藩を事実上支配した鍋島家への恨みで、妻である直茂の孫娘を殺害して自殺をはかり、その傷が悪化して死亡したとも言われる。 |
10月27日 | 彗星が出現し、ヨハネス・ケプラーが観測する。ハレー彗星。 |
| 神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世が帝国自由都市ドナウヴェルトに対して「帝国アハト刑」の適用を決め、弟のカトリック教徒であるバイエルン公マクシミリアンに執行を命じて軍を派遣させる。同市はバイエルンに接収される。さらにカトリックとプロテスタントの和約であったアウクスブルクの和議を修正する動きを見せたため、プロテスタント側の反発を買う。 |
1608年 |
5月14日 | 神聖ローマ帝国に属するプロテスタント派の諸侯らが、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主としてプロテスタント同盟(ウニオン)を結成。 |
10月 2日 | ハンス・リッペルハイが、凸レンズと凹レンズを組み合わせた実用的な屈折式望遠鏡を世界で初めて開発し、この日特許を申請。この技術情報が広まって、翌年ガリレオ・ガリレイがより高倍率の望遠鏡を開発したことからガリレオ式とも言う。 |
| イングランドでカルヴィン裁判の判決が出される。臣民とは国王との個人的関係であり、イングランドとスコットランドが同君連合になったあとにスコットランドで生まれたカルヴィンは、スコットランド王の臣民であり、スコットランドの王はイングランドの王であるため、カルヴィンはイングランド王の臣民と認められ、イングランド王の保護の元、イングランドの土地を所有する権利を有するというもの。国籍の出生地主義(血統に関係なく生まれた場所の国籍を得られる)を明文化した先例。 |
(慶長13年) | 幕府が永楽通宝の通用を禁ずる。国産の慶長通宝が十分でなかったため、実際にはこの後も流通していたとみられる。また、永楽銭を年貢貫高の計算基準とする永高も引き続き使われた。永楽銭は本来明銭だが、国内流通規模から国内で私鋳されていた説も有力。 |
1609年 |
7月10日 | 神聖ローマ帝国に属するカトリックの諸侯らが、プロテスタント同盟(ウニオン)に対抗してカトリック連盟(リーガ)を結成する。 |
7月~8月(慶長14年 7月) | 猪熊教利と公卿らが、女官らと乱交を繰り返していたことが、後陽成天皇の耳に達し、天皇は激怒。全員を死刑にせよと命じる。いわゆる「猪熊事件」が発覚し、幕府が調査に乗り出す。 |
10月20日(慶長14年 9月23日) | 朝廷の大スキャンダル「猪熊事件」の関係者の処罰が決まる。中心人物の猪熊教利と宮中歯科医の兼安備後が死刑。公卿8人、女官5人、地下人1人を遠島。 |
1610年 |
1月 6日(慶長14年12月12日) | マードレ・デ・デウス号焼き討ち事件。マカオでのトラブルを受けて、長崎に寄港したデウス号を有馬晴信が家康の許可を得て攻撃し撃沈する。これが岡本大八事件へ発展し、有馬晴信が改易される。 |
1月 7日 | 木星の衛星イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストがガリレオの観測によって発見される。いわゆるガリレオ衛星。 |
5月10日 | 中国にヨーロッパ文化を伝え、宣教活動を行う一方、中国文化を西洋に紹介したマテオ・リッチが北京で死去。 |
12月 3日(慶長15年10月18日) | 徳川家康の側近中の側近で、徳川四天王に数えられた猛将、本多忠勝が死去。 |
1611年 |
10月30日 | グスタフ2世アドルフが17歳でスウェーデン王に即位。スウェーデンを軍事大国化し「北方の獅子王」と呼ばれた人物。 |
12月 2日(慶長16年10月28日) | 慶長三陸地震。 |
| デンマーク=ノルウェーとスウェーデンの間でカルマル戦争が起こる。 |
| ヨハネス・ケプラーが、凸レンズと凸レンズの組み合わせの望遠鏡のアイデアを発表(制作はせず)。いわゆるケプラー式屈折望遠鏡。 |
1612年 |
5月13日(慶長17年 4月13日) | 宮本武蔵と佐々木巌流(岩流・小次郎)が舟島(巌流島)で決闘。佐々木巌流が倒される。 |
6月 5日(慶長17年 5月 6日) | 岡本大八事件で領地獲得のために贈賄を行ったとして流罪になっていた有馬晴信が切腹を命ぜられ、キリスト教徒であったため、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせて死す。 |
1613年 |
1月20日 | デンマーク=ノルウェーとスウェーデンの間でクネレド条約が結ばれ、カルマル戦争は終結。デンマークは莫大な賠償金を獲得したが、スウェーデンはその代償に領土保全に成功。 |
9月26日(慶長18年 8月12日) | 盗賊の高坂甚内が密告によって捕らえられ、この日、浅草鳥越で処刑される。処刑の際に、「我は瘧に罹らなければ捕まることはなかった。我の魂魄はこの世に長く残るゆえ、瘧に悩むものは我に祈るがよい。そのものの瘧を治してやろう」と言い残したため、彼を祀る甚内神社が創られたという。 |
10月28日(慶長18年 9月15日) | 伊達政宗がヨーロッパへ派遣する使節団が陸奥国月の浦を出港。ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使とする。いわゆる慶長遣欧使節。目的は貿易の交渉であったという説もある。 |
1614年 |
1月28日(慶長18年12月19日) | 慶長遣欧使節の一行がヌエバ・エスパーニャのアカプルコに到着。日本人として初めて太平洋を横断。 |
5月24日(慶長19年 4月16日) | 豊臣秀頼、方広寺大仏殿を再建し、梵鐘が完成する。しかし銘文「国家安康・君臣豊楽」が問題に。 |
6月10日(慶長19年 5月 3日) | 慶長遣欧使節の一行がヌエバ・エスパーニャ大西洋側のベラクルスを出港。ハバナを経由してスペインへ向かう。 |
10月 5日(慶長19年 9月 2日) | 慶長遣欧使節の一行がスペインのサンルーカル・デ・バラメーダに上陸。日本人で初めて大西洋を横断。 |
11月 2日(慶長19年10月 1日) | 豊臣秀頼の重臣片桐且元が大坂城を退去。徳川方との内通を疑われ、他の重臣たちとの不和が解決しなかったため。これが大坂の陣の直接の理由とされた。 |
11月26日(慶長19年10月25日) | 東北から四国に至るかなり広範囲で地震を観測。池上本門寺五重塔が傾いたほか、銚子や越後高田で津波を観測、京でも多数の負傷者、大坂では寺社の被害が大きく、伊予松山の温泉が一時的に涸れたなどの記録がある。被害が広範囲なことから震源域がはっきりせず、一部の被害を疑問視する説もある。 |
12月19日(慶長19年11月19日) | 大坂木津川口で徳川・豊臣両軍が衝突。大坂冬の陣の始まり。 |
12月26日(慶長19年11月26日) | 鴫野・今福の戦い(大坂冬の陣)。 |
12月29日(慶長19年11月29日) | 博労淵の戦い、野田・福島の戦い(大坂冬の陣)。 |
1615年 |
1月 2日(慶長19年12月 3日) | 大坂城南・真田丸を巡る戦いで徳川方に大きな損害が出る(大坂冬の陣・真田丸の戦い)。同時に和睦交渉も始まる。 |
1月15日(慶長19年12月16日) | この頃より徳川・豊臣両軍の砲撃戦が激しくなる(大坂冬の陣)。徳川軍は海外から輸入した大型砲を投入。大坂城本丸付近にも着弾し淀殿の側仕えのものが死傷するなどして豊臣方に動揺が走る。 |
1月19日(慶長19年12月20日) | 徳川・豊臣両軍の間で和睦が成立。大坂冬の陣が終結する。 |
1月27日(慶長19年12月28日) | 今川氏真が江戸で死去。 |
1月30日(慶長20年 1月 2日) | 慶長遣欧使節の一行が、スペイン国王フェリペ3世に謁見。 |
2月 4日(慶長20年 1月 8日) | キリシタン追放でマニラに移った高山右近が客死する。 |
4月12日(慶長20年 3月15日) | 大坂城の浪人処遇問題で豊臣・徳川の間で再び対立が起こる。 |
5月 1日(慶長20年 4月 4日) | 徳川義直の婚儀に出席するという理由で、徳川家康が駿府を出立。 |
5月 3日(慶長20年 4月 6日) | 徳川家康が、諸大名に軍令を発する。 |
5月 7日(慶長20年 4月10日) | 徳川家康が名古屋に到着。徳川秀忠も江戸を出発。 |
5月15日(慶長20年 4月18日) | 徳川家康が京に入る。 |
5月18日(慶長20年 4月21日) | 徳川秀忠が京に入る。翌日、徳川軍の軍議が開かれる。 |
5月24日(慶長20年 4月27日) | 大和郡山城の戦い。豊臣軍が筒井氏の居城を攻撃。大坂夏の陣の始まり。 |
5月26日(慶長20年 4月29日) | 樫井の戦い。豊臣軍の大野治房、塙直之、岡部則綱、淡輪重政らが、徳川方の浅野長晟を攻撃。豊臣方は一揆を起こす予定だったが失敗し、また武将間の連携が取れず大敗。塙直之、淡輪重政らが討ち死にする。 |
6月 2日(慶長20年 5月 6日) | 道明寺・誉田の戦い。大和路を大坂へ向けて進軍する徳川軍に対し、豊臣方の後藤基次が迎撃。連携が出来ないまま、明石全登、薄田兼相、さらに真田信繁らが順次援軍に来るも間に合わず、後藤基次、薄田兼相らが相次いで討ち死にする。同日、河内路を進む徳川本隊に対して、木村重成、長宗我部盛親、増田盛次らが奇襲をかけ一定の戦果を上げるも、衆寡敵せず木村重成らが討ち死に(八尾・若江の戦い)。 |
6月 3日(慶長20年 5月 7日) | 天王寺・岡山の戦い。天王寺口に集結した豊臣方は、野戦築城の上で、真田信繁・毛利勝永・大野治房・大谷吉治・御宿政友・明石全登らが猛攻し、徳川方は総崩れとなる。先鋒大将の本多忠朝が討ち死に、小笠原秀政が重症を負い(後死亡)、徳川旗本衆も壊乱。家康自身も敗走。援軍に出た秀忠の陣も混乱状態に陥るなどの事態になるが、豊臣方の被害も大きく、最終的に兵力差で徳川方が勝利。真田信繁らは討ち死に。毛利勝永は残存部隊を率いて大坂城へ撤退。午後4時ころ大坂城が炎上する。 |
6月 4日(慶長20年 5月 8日) | 豊臣秀頼・淀殿が自刃。介錯を務めた毛利勝永も自刃し、大坂の陣は終結。豊臣姓羽柴宗家は滅亡する。 |
7月 6日(慶長20年6月11日) | 古田織部が豊臣側に内通した嫌疑で切腹。将軍茶頭木村宗喜の豊臣方内通疑惑に巻き込まれる形で。 |
8月 7日(慶長20年閏6月13日) | 徳川秀忠が諸大名に対し一国一城令を発令。国持大名は一国につき一城ずつ、一国に複数の大名の場合、一藩に一城というもの。 |
9月 9日(慶長20年 7月17日) | 江戸幕府が天皇と公家の道徳的規範と、僧侶の地位について定めた禁中並公家諸法度を発布。 |
10月25日(元和元年 9月 1日) | 慶長遣欧使節の一行が、ローマに到着。 |
11月 3日(元和元年 9月12日) | 慶長遣欧使節の一行が、ローマ教皇・パウロ5世に謁見。 |
1616年 |
1月 7日(元和元年11月18日) | 慶長遣欧使節の一行が、帰国の途につくべくローマを出発。セビリアを経由して、ヌエバ・エスパーニャへと向かう。 |
6月 1日(元和2年 4月17日) | 徳川家康、駿府城にて死去。元来は天ぷらの食中毒説が知られていたが、近年は胃がん説が有力。 |
1617年 |
3月28日(元和3年 2月21日) | 朝廷は、徳川家康を祀る久能山東照社に対し、正一位を贈り、東照大権現の神号を宣下。 |
1618年 |
4月 2日(元和4年 3月 7日) | 慶長遣欧使節の一行が、ヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出港。 |
5月23日 | 第二次プラハ窓外投擲事件。ハプスブルク家出身でカトリック強硬派のフェルディナンドが、ボヘミア王に即位してプロテスタント諸侯らを迫害、。これに反発したプラハの市民が、王の顧問官2人と秘書官を捕まえてプラハ城の3階の窓から外へ放り投げた事件(干し草の上に落ちたため助かる)。プロテスタント諸侯は、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎えて神聖ローマ帝国からの離反の動きを見せる。 |
7月24日(元和4年 6月 3日) | 肥前龍造寺氏に代わって佐賀藩の基礎を築いた鍋島直茂が耳の腫瘍で苦しみながら亡くなる。そのため、主権を回復できずに恨んで死亡した龍造寺高房の呪いと噂され、鍋島化け猫騒動の話が生まれる。 |
8月10日(元和4年 6月20日) | 慶長遣欧使節の一行が、ルソンのマニラに到着。 |
1619年 |
| 明軍10万が後金の拠点ヘトゥアラ(のちの興京)攻略に向かう。 |
(3月 1日) | サルフ山付近でヌルハチ率いる後金軍が明軍を奇襲攻撃。後金軍が大勝し、明軍の司令官杜松らは戦死。 |
(3月 2日) | ヌルハチ率いる後金軍は、続けてシャンギャンハダの明軍を攻撃。乱戦になるも、後金軍が勝利し、明軍は退却に追い込まれる。 |
(3月 4日) | ダイシャン、ホンタイジらの率いる後金軍が、アブダリおよびフチャの一帯で劉綎率いる明軍を攻撃。後金軍が勝利。明軍に参加していた朝鮮軍は降伏。 |
10月25日(元和5年 9月18日) | およつ御寮人事件。天皇家に娘の徳川和子を嫁がせることを企図していた徳川秀忠が、後水尾天皇と四辻与津子との間に男女二人の子(賀茂宮・文智女王)が生まれていたことを知って激怒し、四辻与津子と子供を宮中から追放し、万里小路充房・四辻季継・高倉嗣良を流罪、中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にする。憤慨した天皇は譲位を口にするが、幕府の使者藤堂高虎が和子入内が実現しないなら宮中で切腹すると脅し、天皇は幕府に従うことになった。 |
| オランダ船ホワイトライオン号がスペイン船と交戦した際にアフリカから連れてこられた奴隷20人を捕らえバージニア植民地へ輸送する。アメリカに送られたアフリカ人奴隷でもっとも古い記録。この頃はまだ年季奉公に近く、年季明けには解放されていた例もあったとみられるが、彼らがアフリカに戻れたわけではない。 |
1620年 |
1月23日(元和5年12月19日) | 直江兼続が死去。上杉景勝の家老で、上杉藩のトップとして差配した戦国武将。 |
5月26日(元和6年 4月24日) | イングランド出身の船乗りで徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムス(三浦按針)死去。 |
9月20日(元和6年 8月24日) | 慶長遣欧使節の一行が、日本に帰国。 |
11月 8日 | 白山(ビーラー・ホラ)の戦い。ボヘミアのプロテスタント諸侯らが神聖ローマ帝国から離反しようとしたため、ボヘミア王国の支配者ハプスブルク家などが制圧を図った戦い。半日でカトリック側の勝利に終わり、諸侯ら27人が処刑され、多くのプロテスタント諸侯や市民が追放される。ハプスブルク家によるボヘミア支配が強化され、三十年戦争が激化する要因となった。 |
11月20日 | メイフラワー誓約が交わされる。アメリカ初期の移民が乗った船、メイフラワー号が、目的地と違う場所に到着したため、乗船していた亡命ピューリタンらが安定した入植のために、公正で平等な法律を整備することをお互いに契約する。 |
1622年 |
(元和8年 4月19日) | 日光参詣に赴いていた将軍徳川秀忠が、帰路に泊まる予定だった本多正純の宇都宮城を素通りして壬生城に入る。宇都宮城内で将軍暗殺の仕掛けが用意されているという話が起きたため。いわゆる宇都宮城釣天井事件。 |
8月19日(元和8年 7月13日) | 朱印船船長の平山常陳とスペイン人で宣教師のペトロ・デ・スニガ、ルイス・フロレスほか、船員12名が処刑される。朱印船に2人を乗せていたことを、スペイン・ポルトガルから日本市場を奪おうと考えていたイギリスとオランダの商館が問題視したことから起きた事件。以降のキリシタン弾圧事件のきっかけとなった。 |
9月10日(元和8年 8月 5日) | 元和の大殉教。キリスト教の司祭9名を含む信徒55名が、長崎西坂で処刑される。 |
9月(元和8年 8月) | 出羽山形57万石藩主最上義俊が最上騒動(若い藩主と重臣らが対立した騒動)の処置として改易となる。山形城接収のさなかに、城受取の役についていた本多正純へ、謀反の問使が送られる事件が発生。 |
(元和8年 9月) | 宇都宮15万石藩主本多正純が改易となる。直接の原因は4月に起きた宇都宮城釣天井事件だが、実際には権勢を誇った正純への不満が、将軍秀忠や幕閣らにあったためとも言われる。 |
1623年 |
12月 4日(元和9年10月13日) | 江戸高輪大木戸の処刑場でキリスト教徒50人が処刑される。 |
1624年 |
4月 2日(寛永元年 2月15日) | 山城の狂言師出身の猿若勘三郎が江戸で座を開き興行をはじめる。のちの中村座。江戸歌舞伎の始まり。 |
8月26日(寛永元年 7月13日) | 豊臣秀吉の親族で、安芸広島藩の大名だったこともある福島正則が死去。 |
1625年 |
(寛永2年11月) | 上野山に寛永寺が創建される。創建したのは天海。このときは徳川家の菩提寺ではなく祈願寺。 |
1626年 |
5月 6日 | オランダ西インド会社がインディアンからマンハッタン島を25ドルで買収し、ニーウアムステルダムと命名(25ドルの話はあくまで伝承)。実際、この頃入植が始まったと見られる。 |
11月 3日(寛永3年 9月15日) | 江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠の正室、崇源院(江)が死去。浅井三姉妹の三女。 |
1627年 |
12月11日(天啓7年11月 4日) | 明王朝の宦官で政治の実権を握っていた魏忠賢が、即位したばかりの崇禎帝により罪に問われたことで自殺。 |
| この年、江戸幕府は、朝廷が幕府に相談もなく紫衣を勅許したとしてこれを無効にし、紫衣を取り上げる(紫衣事件)。沢庵宗彭らがこれに抗弁。 |
| この年、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが「ルドルフ星表」を作成。占星術などに使うため惑星の位置推算表や恒星カタログなどを付けたもので、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の勅命によって作られた。 |
| この年、家畜牛の先祖でもある野生のオーロックスが絶滅。 |
1628年 |
6月(寛永5年 5月) | 台湾のオランダ支配地タイオワン(台南安平)でオランダ行政長官のピーテル・ノイツと朱印船貿易商人浜田弥兵衛が紛争を起こしノイツを人質にする事件が起きる。貿易船への関税と日本人への態度が原因とされる。この一件で長崎代官の末次平蔵は解任・捕縛されたが、オランダ側がノイツの身柄を差し出したため、オランダ貿易は存続することになり、台湾も自由貿易地となった。 |
| ウイリアム・ハーベーが、『動物における血液と心臓の運動について』を発表。この中で初めて血液循環説を唱える。これは大論争に発展するが、徐々に浸透していく。 |
1629年 |
1月19日 | サファヴィー朝のアッバース1世が死去。絶対君主制、近代化、西欧諸国との同盟で同王朝の最盛期を作り上げたが、その死後、サファヴィー朝は徐々に衰退していく。 |
| 江戸幕府、紫衣事件に抗弁した沢庵宗彭らを流罪とする。 |
| 翌年にかけて、ミラノなどでペストが流行。大勢の死者を出す。 |
1630年 |
7月 5日(寛永7年 5月25日) | 元長崎代官の末次平蔵が、江戸で収監中に殺害される。詳細は不明。幕府高官の密貿易を知っていたための謀殺とも。 |
11月15日 | 近代天文学の祖と呼ばれる天文学者であり数学者でもあるヨハネス・ケプラー死去。 |
1631年 |
6月17日 | ムムターズ・マハルが亡くなる。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの第1皇妃。皇帝は彼女の死をいたみ、タージ・マハルの建設を開始。 |
1632年 |
| この頃、オスマン帝国の発明家だったヘザルフェン・アフメト・チェレビが、人工の翼を発明して、イスタンブールのガラタ塔から飛び降りる飛行実験を実施。ボスポラス海峡を飛び越え、ユスキュダルのドアンヂュラル広場に無事着陸したと言う。飛行距離は3000m以上と言われる。グライダーのようなものか。 |
1633年 |
1月26日(寛永9年12月17日) | 江戸幕府が大目付を設置する。 |
4月 6日(寛永10年 2月28日) | 江戸幕府が鎖国令を発する。 |
6月22日 | 検邪聖省の裁判でガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。 |
| オスマン帝国の発明家だったラガリ・ハサン・チェレビが、7枚の羽がついたロケットのような装置に火薬を詰め、それに乗り込んだ上で点火し有人飛行実験を行ったといわれる。数十メートル飛行し、火薬が燃え尽きると、体につけた翼で降下し、ボスポラス海峡に着水したという。この実験の話はヨーロッパにも伝えられた。事実であれば、記録上人類最初の動力装置による飛行実験をした人物となる。ラガリの兄は人工の翼で飛行実験をしたヘザルフェン・アフメト・チェレビ。 |
1634年 |
12月26日(寛永11年11月 7日) | 鍵屋の辻の決闘。日本三大仇討ち一つ。渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟で岡山藩主池田忠雄の小姓、渡辺源太夫の仇である河合又五郎とその護衛を討つ。 |
1637年 |
2月 3日 | オランダで庶民まで巻き込んだチューリップバブルが崩壊。 |
12月11日(寛永14年10月25日) | 島原の乱勃発。 |
1638年 |
2月14日(寛永15年 1月 1日) | 島原の乱で、板倉重昌が総攻めを強行して敗死する。 |
4月11日(寛永15年 2月27日) | 島原の乱で、松平信綱指揮する12万の兵が総攻撃をかけて、原城は陥落する。乱側はほぼ全滅。乱側の指導者とされる少年天草四郎は肥後藩士陣佐左衛門に討ち取られた(幕府は天草四郎の容姿を知らなかったため、天草四郎の母親マルタが陣佐左衛門の討ち取った少年の首を見て泣いたので判断した)。実質の指導者とも言われる天草四郎の父親益田好次や参謀役の蘆塚忠右衛門らも討ち死にした。なお一揆軍の一部は降伏したという説もある。 |
1640年 |
7月31日(寛永17年 6月13日) | 蝦夷駒ヶ岳の噴火が始まる。山頂600mほどが大きく崩壊し、土砂が内浦湾になだれ込んで大津波が発生。火道が崩壊したことで火砕流が起き、続けて大規模なプリニー噴火が発生する。規模の大きな噴火は3日ほどで収束したが津波被害などで約700名が死亡。 |
(寛永17年) | この頃から各地で飢饉が広がり始める。蝦夷駒ヶ岳噴火による降灰の影響もあったと見られる。 |
1641年 |
(寛永18年) | 天候不順などで飢饉が全国規模に拡大。寛永の大飢饉。幕府による武断政治の悪影響も大きかったとされる。 |
1642年 |
(寛永19年 5月) | 幕府が各大名に、帰藩して飢饉対策をするよう命じる。 |
1643年 |
(寛永20年 3月) | 幕府より田畑永代売買禁止令が発布される。大飢饉による農民の没落を防ぐため、天領の代官あてに出された法令。 |
| この年、エヴァンジェリスタ・トリチェリが、水銀を満たしたガラス管を使って実験を行い、水銀の高さが約76cmで止まり、その上は真空になることを発見。大気圧によるものであるとの結論に至る(トリチェリの真空)。水銀気圧計の元ともなった。 |
1644年 |
4月25日(永昌元年 3月19日) | 李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自殺し、明王朝が滅亡。李自成による順王朝が成立。しかしまもなく、山海関の守将だった呉三桂が満洲族の清王朝に寝返り、清軍とともに南下し北京を攻略。李自成は逃走。 |
1645年 |
6月10日(永昌2年 5月17日) | 各地を転戦していた李自成が九宮山で農民の手で殺される。 |
6月(順治2年/弘光元年) | 清朝の予親王多鐸の率いる軍勢が南明の揚州に攻め込み南京も攻略。弘光帝も捕らえられる。この際、多鐸軍が揚州で大虐殺を行う(いわゆる「揚州十日」)。80万人が殺されたと言われるが、人口よりかなり多い数なので誇張と見られる。 |
1646年 |
1月19日(正保2年12月 3日) | 神号東照大権現となっていた徳川家康に対し、朝廷から東照宮の宮号が宣下される。 |
1648年 |
4月 7日(正保5年 2月15日) | 正保から慶安に改元。正保が焼亡に似ているとか、保元の時のように乱世になると否定的な意見が広まったため。 |
10月24日 | ヨーロッパの主要国が参加してヴェストファーレン条約締結。カトリック勢力とプロテスタント勢力の講和を図るオスナブリュック講和条約と、神聖ローマ皇帝とフランス国王との講和を図るミュンスター講和条約が成立。三十年戦争は終結。神聖ローマ帝国の集権化が崩壊し、以後主要な地域大国に分かれていく。またスイス誓約者同盟とネーデルラント連邦共和国が神聖ローマ帝国から公式に分離し独立国となる。 |
| ロシアの探検家セミョン・デジニョフがロシアとアラスカの間の海域(のちのベーリング海)を探検。 |
1650年 |
5月13日(慶安3年 4月13日) | 町奴の頭領、幡随院長兵衛が死去。なお、歌舞伎などの物語では1657年8月27日(明暦3年7月18日)に敵対する水野十郎左衛門の屋敷で殺害されたことになっている。 |
1651年 |
6月 8日(慶安4年 4月20日) | 徳川家光死去。 |
9月 7日(慶安4年 7月23日) | 密告により丸橋忠弥が捕縛され、由井正雪の陰謀が露見する。いわゆる慶安の変。 |
9月10日(慶安4年 7月26日) | 由井正雪が駿府の宿で捕り方に囲まれ自決。 |
9月14日(慶安4年 7月30日) | 由井正雪の同志だった金井半兵衛が由井正雪の死を知り大阪で自決。 |
9月24日(慶安4年 8月10日) | 丸橋忠弥が処刑される。 |
10月 2日(慶安4年 8月18日) | 徳川家綱が第4代征夷大将軍となる。 |
1652年 |
10月15日(慶安5年 9月13日) | 承応事件。浪人別木庄左衛門らが徳川秀忠夫人崇源院の27回忌を利用して火を放ち老中らを暗殺しようとした事件。 |
1653年 |
2月10日(承応2年 1月13日) | 幕府が玉川上水建設を許可。 |
| このころ、タージ・マハルが完成する。 |
1654年 |
5月 8日 | マクデブルクの半球実験。神聖ローマ帝国の都市マクデブルクの市長で科学者のオットー・フォン・ゲーリケが、自作した銅製の半球同士をくっつけて内部を真空にした球体を馬16頭で引っ張って分離する実験を、レーゲンスブルク市の帝国議会議事堂前で行う。神聖ローマ皇帝フェルディナント3世がこれを見学。この実験で、真空と大気圧の力が証明される。 |
1655年 |
3月25日 | オランダの天文学者クリスティアーン・ホイヘンスが自作の望遠鏡で土星の衛星タイタンを発見。 |
12月17日(明暦元年11月20日) | 「最後の戦国大名」宇喜多秀家が八丈島で死去。 |
1657年 |
2月 7日(明暦2年12月24日) | 吉原遊郭を日本橋から浅草千束へ移転させる。 |
3月 2日(明暦3年 1月18日) | 明暦の大火「振袖火事」が起こる。死者3万~10万人とも言われ、江戸入府以来の江戸の街は焼失し、新たに拡大された江戸が誕生することになる。 |
4月10日(明暦3年 2月27日) | 水戸藩で『大日本史』の編纂がはじまる。 |
8月27日(明暦3年 7月18日) | 歌舞伎などで、町奴の頭領、幡随院長兵衛が敵対する旗本奴の水野十郎左衛門の屋敷で殺害された日(あくまで創作上の日付)。 |
11月16日(明暦3年10月11日) | 肥前大村藩で郡村矢次の農民でキリシタンの兵作が捕らえられる。キリシタン大量検挙となった郡崩れのはじまり。 |
1658年 |
| この年、明の復興を目指す鄭成功が大軍を率いて北伐に向かう。しかし南京攻略戦に失敗。 |
1660年 |
7月25日(万治3年 6月18日) | 大坂城青屋門の焔硝蔵に落雷があり、貯蔵していた火薬2万1985貫600匁が大爆発。爆風で天守・御殿などが損壊、城外も含む1481戸が倒壊する。城内にいた29人と城外の3人が死亡。130人以上が負傷する大惨事となる。青屋門は東に14kmの生駒山系暗峠まで飛んだと言われる。 |
1661年 |
| この年、鄭成功が再起を図るため、台湾に移動。オランダ東インド会社の勢力を駆逐し、政権を樹立。 |
1662年 |
5月 4日(寛文2年 3月16日) | 徳川家光の側近で川越藩主の老中、松平信綱が死去。 |
6月23日(永暦16年 5月 8日) | 鄭成功死去。台湾政権はのちに東寧王朝と呼ばれる。 |
1663年 |
| スコットランドの数学者ジェームス・グレゴリーがグレゴリー式反射望遠鏡を考案。どちらも凹面の主鏡と副鏡を対面させ、反射した像を主鏡の中央の穴を通して見る方式。実際に制作されるようになったのはニュートン式よりあと。 |
1664年 |
1月23日(寛文3年12月25日) | 明暦の大火の際に焼けた金銀の吹き直しを行った際に、目方をごまかして利潤を得ようとしたとして銀座人5人が遠島の処分を受ける。 |
4月23日(寛文4年3月27日) | 旗本奴として知られた水野十郎左衛門こと水野成之が行跡怠慢を理由に祖母の出自である蜂須賀家にお預けとなるところ、伊達男を気取った姿で出頭したため、切腹となる。息子百助も処刑され旗本水野家は断絶。町奴との対立を懸念したという事情もあるとみられる。 |
1665年 |
| 翌年にかけてロンドンでペストが流行。7万人が死亡したとされる。 |
1666年 |
1月22日 | ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン、幽閉先のアーグラ城で死去。タージ・マハルの建造者。 |
9月 1日 | ロンドン大火。市内のパン屋から出火した火災が4日間燃え続け、市街地の85%を焼失する大火となる。死者は5名と人的被害は少なかったが、木造家屋の殆どが焼失した。現在のロンドンの原型はこのあとの都市再開発による。市街地が焼失し、菌を媒介するネズミが激減したことでペストの流行が収まったという説もある。 |
3月11日(寛文6年 2月 6日) | 千姫死去。 |
1667年 |
7月31日 | 第二次英蘭戦争が終結。ブレダの和約で、北米ニーウネーデルラント(現ニューヨーク州)はイングランド領、南米ギアナはオランダ領となる。ニーウアムステルダム市もヨーク公領となってニューヨーク市と改められる。 |
1668年 |
4月13日(寛文8年 3月 2日) | 宇都宮藩奥平家の前藩主奥平忠昌の法要の席で、重臣同士の刃傷事件が起こる。のちの浄瑠璃坂の敵討ち事件の原因となる。 |
| アイザック・ニュートンがニュートン式反射望遠鏡を開発。凹面の主鏡で反射した像を焦点の手前で斜めの平面鏡で方向を変え筒外に出し、焦点の接眼レンズで拡大して見る方式。コストが抑えられる上に、観測姿勢が楽なので天体観測用の大型望遠鏡で普及した。 |
1669年 |
3月 8日 | イタリアのエトナ山で噴火が始まる。7月まで大規模な噴火が続き、死者1万人。 |
7月 | コサックのアタマン(指導者)スチェパン・ラージン率いる盗賊団に対し、ペルシアが討伐軍を出すも敗北。 |
| この年、ドイツの研究者ヨハン・ベッヒャーが、物質の元素を「空気」「水」「石の土」「燃える土」「流動する土」と区分する。 |
1670年 |
4月 9日(寛文10年2月20日) | 紀伊国宮崎を出帆した阿波国所属の蜜柑輸送船が遭難漂流し、無人島だった母島へ流れ着く。同船に乗っていた荷主の長右衛門ら生き残った6人は、しばらく島で滞在した後、乗ってた船の廃材や見つけた和船などを利用して帆船を作り出帆。 |
6月12日(寛文10年4月25日) | 母島から出帆した長右衛門ら6人が、父島、聟島を経由して八丈島にたどり着く。5月5日に八丈島を出帆し、5月7日に下田に到着。奉行所に報告したことで幕府に小笠原諸島の詳細が伝わる。 |
6月24日 | スチェパン・ラージン率いる盗賊団が、アストラハンを占領し、同地に平等社会の共和国建設を唱え、ロシア・ツァーリ国に対して反乱。 |
10月 1日 | ロシア・ツァーリ軍とスチェパン・ラージン率いる反乱軍が、スヴィリ川で戦う。 |
| イタリアの司祭フランチェスコ・ラナ・デ・テルツィが、小型船に真空球を4つ付けて浮かばせる空飛ぶ船「真空飛行船」を発案。これを使った空襲も考えている。実際には作成はされなかったが、軽い気体で浮かせる「飛行船」のアイデアの原型とも言える。 |
1671年 |
5月 6日(寛文11年 3月27日) | 伊達親族の領地争い(谷地騒動)から生じた伊達騒動の審問が行われた大老酒井忠清邸で、原田宗輔(原田甲斐)による刃傷沙汰が起こり、伊達宗重が斬殺され、応戦した柴田朝意、蜂屋可広も原田とともに酒井家家臣に殺害される。寛文事件とも言う。 |
6月16日 | スチェパン・ラージンがロシア・ツァーリ国によって赤の広場で処刑される。 |
10月25日 | ジョバンニ・カッシーニが土星の衛星イアペトゥスを発見する。このあと数度に渡って観測するが、土星の東側では観測できず、西側にいるときだけ観測できた。これはイアペトゥスの表面の公転先行側と側面が非常に暗く、公転後行側と極地方が非常に明るいという極端な二色構造になっており、そのどちらが地球側に向いているかで変わるため。 |
1672年 |
3月 2日(寛文12年 2月 3日) | 浄瑠璃坂の仇討。宇都宮藩奥平家の重臣同士の刃傷事件から発生した、赤穂浪士の討ち入りの参考にされたとも言われる集団による敵討ち事件。 |
8月20日 | 第三次英蘭戦争のさなか、ネーデルラント共和国の指導者ヨハン・デ・ウィットが兄コルネリスとともに、戦争に苦しむ民衆の怒りを買い殺される。ホラントの君主オラニエ=ナッサウ家が事実上の復位。 |
| この年までに、フランス人司祭で天文学者だったローラン・カセグレンがカセグレン反射望遠鏡を考案したと考えられる。凹面の主鏡と凸面の副鏡を対面させて反射した像を主鏡の中央の穴を通して見る方式。構造とカセグレンの姓だけ伝わったため発明の詳細は不明。ローランは有力候補の一人。 |
1673年 |
2月 4日(寛文12年12月18日) | 徳川秀忠の子で、松平会津藩の祖である保科正之が死去。 |
(康煕12年) | 清朝で三藩の乱が勃発。康熙帝がこの年、漢人の平西王呉三桂が領する雲南、平南王尚之信が領する広東、靖南王耿精忠が領する福建の三藩の廃止を決定。これを受けて呉三桂が反乱。 |
1674年 |
| アントニ・ファン・レーウェンフックが自作顕微鏡でバーケルス湖から採取した水を観察し、微生物を発見。アニマルクルと名付ける。 |
(康煕13年) | 呉三桂の反乱が拡大。耿精忠も呼応し、陝西、広西でも反乱が相次ぐ。 |
1675年 |
5月23日(延宝3年4月29日) | 母島へ漂流した長右衛門らの報告から幕府は32人の調査団を富国寿丸に乗せて派遣。この日、父島に到着。6月6日まで小笠原諸島を調査。この報告がのちの領有権問題で日本領とする根拠となった。 |
| イングランド王チャールズ2世によって、ロンドン市郊外にグリニッジ天文台が設立される。 |
| この年、デンマークはスコーネ領を奪還するため、スウェーデン・バルト帝国へ宣戦布告。スコーネ戦争が始まる。 |
1676年 |
| イギリス領バージニア植民地でナサニエル・ベイコンらが反乱を起こす。重税や物価高騰などに伴う貧困への不満やインディアン部族への強攻策を主張してバージニア総督らに対して起こしたとみられる。 |
10月26日 | ナサニエル・ベイコンが病死。反乱はそのまま継続するも、バージニア総督ウィリアム・バークリーの反撃で終息していく。 |
| この年、加賀藩4代藩主前田綱紀が、金沢城そばの御作事所跡地に別荘「蓮池御殿」を建設。ずっとのちの1822年(文政5年)前田斉広が同地に竹沢御殿を作った際に松平定信によって兼六園と命名される。 |
1677年 |
5月14日(延宝5年 4月13日) | 延宝八戸沖地震。 |
11月 4日(延宝5年10月 9日) | 延宝房総沖地震。夜、突如大津波が関東から東北南部の太平洋岸を襲う。沿岸各地で千軒以上の家屋が流失。船舶にも大きな被害を出し、数百人が流されるなどして死亡。大きな地震の揺れの記録がないことから、房総半島沖合で起きたマグニチュード8クラスの巨大地震による津波と考えられる。 |
1678年 |
2月27日(延宝6年 1月 7日) | 初代夕霧太夫が死去。京の花街島原の「扇屋」の太夫となり、のちに大坂新町に移転したことから新町の太夫としても知られた女性。江戸文学・浄瑠璃などの題材となった。命日は夕霧忌ともいう。 |
(康煕15年/昭武元年 3月) | 三藩の乱を起こした呉三桂が即位して周王朝を興し昭武と改元。 |
(康煕15年/昭武元年/洪化元年 8月) | 呉三桂が病死。孫の呉世璠が後を継ぎ、元号を洪化とする。 |
1679年 |
9月 | ルンド条約により、スウェーデンとデンマークが和睦し、スコーネ戦争は終結。領土は結局変わらず。フランスが介入してきたことに両国は反発し、結果として両王家は婚姻関係を結び、両国は同盟国となる。 |
12月 5日(延宝7年11月 3日) | 130人も殺したと言われる辻斬り強盗の平井権八が処刑される。絵画や歌舞伎の演目では白井権八という名で知られるほか、白浪五人男の赤星十三郎のモデルともされる。 |
1680年 |
9月13日(延宝8年 8月21日) | 徳川綱吉に征夷大将軍宣下。第5代将軍となる。 |
1681年 |
8月 5日(延宝9年 6月22日) | 将軍徳川綱吉が越後騒動の決着をつける。親藩である越後高田藩の家臣同士の内紛で、一度は幕府の裁定で決着がついていたものを再審したもの。逆意方と呼ばれた元家老小栗美作とその子に切腹、小栗と対立したお為方を自称した永見大蔵、荻田本繁らを遠島とする両成敗となる。 |
8月 9日(延宝9年 6月26日) | 越後高田藩は改易となる。先に裁定を下した幕府関係者も改易などの処分を受けた他、高田藩松平家の旧本家越前松平家の一門である姫路藩松平家は減封の上豊後へ移され、出雲広瀬藩松平家は減封となった。 |
(康煕20年/洪化4年) | 清朝政府軍が昆明を攻め落とし、周王朝2代目呉世璠は自害して滅亡。 |
| この年、マスカリン諸島モーリシャス島で最後のドードー鳥(モーリシャス・ドードー)が目撃される。間もなく絶滅。最初の目撃例からわずか83年。人間による乱獲と人間が持ち込んだ動物による捕食、森林伐採が原因。 |
1682年 |
9月15日 | 彗星が出現し、エドモンド・ハレーが、過去の彗星と同じではないかと気づく。次の彗星の出現を予言。 |
(天和2年) | 江戸幕府、勘定吟味役を設置。老中に属し、勘定所を監察、幕府直轄領や代官を監督する役職。 |
1683年 |
1月25日(天和3年12月28日) | 天和の大火。この大火で罹災した少女、八百屋お七が、避難先で出会った寺小姓に会いたいがために、後に放火をして処刑されたことから、通称「お七火事」と呼ばれる。死者3500人以上。 |
7月13日 | オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャによって第二次ウィーン包囲戦が始まる。直前に脱出した神聖ローマ皇帝が各地の諸侯に救援を要請。 |
(康煕22年/永暦37年 8月) | 台湾東寧王国の鄭克塽が清朝に降伏し、鄭氏王朝は3代で滅亡。鄭克塽は海澄公に封じられた。 |
9月12日 | オスマン帝国軍に包囲されているウィーン郊外に救援のポーランド国王ヤン3世ソビエスキ率いるポーランド・ドイツ諸領邦連合軍が到着。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒらも参戦。夕刻、救援軍は早々にオスマン陣地を攻撃。オスマン軍は大敗を喫し、退却。オスマン帝国の衰退のきっかけとも言われる一方、トルコ行進曲やコーヒーなどのトルコ文化が西洋に広まるきっかけともなった。勝利を祝してクロワッサンやベーグルが作られたとも言われる。 |
12月25日 | オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャが、第二次ウィーン包囲戦の敗北の責任を問われ、メフメト4世の勅によって処刑される。強権的だったことで政敵が多かったことも要因の1つ。同時に指導者を失いオスマン帝国は弱体化していく。 |
1684年 |
10月 7日(貞享元年 8月28日) | 堀田正俊暗殺事件。江戸幕府大老・堀田正俊が、江戸城内で、従叔父で若年寄の地位にあった稲葉正休に殺害される。 |
1685年 |
10月18日 | フランス国王ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令に署名。ナントの勅令を破棄し、新教徒ユグノーをカトリックに改宗させるための法令。多くのユグノーがフランス国外へ脱出・亡命し、ユグノーを受け入れたオランダでは金融業が、ドイツでは農業が、スイスでは時計産業が発達するきっかけとなった。一方のフランスでは産業・経済が大打撃を受けたと言われる。 |
1686年 |
4月30日(貞享3年閏3月 8日) | 石田三成の嫡子で、家康によって助命された石田重家(宗享)が104歳で亡くなる。年齢は諸説あるが、いずれにせよかなりの長命だったとみられる。 |
1688年 |
8月25日 | イギリスの海賊で、後に判事やジャマイカ代理総督など要職を歴任し、海賊を取り締まる側に付いたヘンリー・モーガンが死去。 |
| ドイツのザールラント州で炭層火災が発生。鎮火せず、21世紀の現在も内部でくすぶり続けている。ブレンネンダー・ベルク(燃える山)と呼ばれて早くから観光地化した。 |
1689年 |
9月 6日(康熙28年7月23日) | ロシア帝国と清がネルチンスク条約に調印。満洲地方の両国の国境を定めた条約。 |
1690年 |
10月20日(元禄3年 9月19日) | 日向国坪谷・山陰一揆が起こる。有馬氏延岡藩の圧政に苦しんだ農民1422名が高鍋藩領に逃散、高鍋藩に保護される。 |
11月14日(元禄3年10月14日) | 徳川光圀が隠居。水戸藩の家督で差し置いてしまった兄の松平頼重(讃岐藩主)の子である綱條に藩主の地位を譲る。 |
1691年 |
7月18日(元禄4年 6月23日) | 日向国坪谷・山陰一揆の幕府の裁定が下る。農民7名が首謀者として処刑され7名が遠島処分となり、残りは元の土地へ戻ることとされたが、一方で延岡藩の郡代梶田十郎左衛門と代官大崎久左衛門も追放。 |
12月27日(元禄4年11月 8日) | 延岡藩主有馬清純は糸魚川へ転封処分となり、山陰・坪谷は天領となる。 |
1692年 |
3月 1日 | セイラム魔女裁判が始まる。アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラムで、悪魔と契約したという理由で、住民同士が告発しあい、村人19名が処刑され、1名が拷問で死亡し、5名が獄死した事件。 |
1693年 |
| シチリア島で大地震が起こり、カターニアは壊滅。 |
1694年 |
3月 6日(元禄7年 2月11日) | 高田馬場の決闘。伊予西条藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が江戸高田馬場で決闘におよび、剣客中山安兵衛(のちの赤穂浪士堀部武庸)が助太刀した事件。 |
11月28日(元禄7年10月12日) | 松尾芭蕉が、大坂の御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で死去。 |
1695年 |
12月 5日(元禄8年10月29日) | 江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生類憐れみの令によって、現在の中央線中野駅付近に16万坪もの広大な犬飼育施設「中野犬屋敷」が完成する。 |
9月20日 | レイスウェイク条約締結。大同盟戦争終結。 |
| ドイツの医師ゲオルク・エルンスト・シュタールが、ヨハン・ベッヒャーの唱えた元素「燃える土」を元に、物が燃える現象を司る元素を「フロギストン(燃素)」と名付ける。フロギストン説。物質が燃えたり錆びたりするのは、物質とくっついたフロギストンが離れる現象とした。以降、フロギストン説は広まっていく。 |
1698年 |
9月(元禄11年 8月) | 将軍徳川綱吉の50歳誕生日を祝って、隅田川に永代橋が架けられる。 |
10月 9日(元禄11年 9月 6日) | 江戸で勅額火事が起こる。昼少し前に山下町より火災が起こり、強風により数寄屋橋の大名邸へ類焼、更に北側へと広がり、神田一帯を焼き、火勢は北上して下谷、浅草に、更に東進して本所に達する。夜、雨によって鎮火。死者3000人を超える。寛永寺の東山天皇の勅額が届いた日に火災になったことから勅額火事と呼ばれる。 |
1700年 |
3月 | 大北方戦争が勃発。北方同盟(反スウェーデン同盟)のデンマーク軍がスウェーデン(バルト帝国)の同盟国ホルシュタイン=ゴットルプ公領へ侵攻しテンニングを包囲。ほぼ同時期、ザクセン・ポーランド王アウグスト2世もスウェーデン領へ侵攻しリガを包囲。 |
7月 | スウェーデンはイングランド、ネーデルラントの両国の支持を得て、デンマークの王都コペンハーゲンへ侵攻。 |
8月18日 | スウェーデンとデンマークはトラヴェンタール条約を締結。大北方戦争からデンマークが離脱する。 |
11月30日(スウェーデン暦11月20日) | ナルヴァの戦い。バルト海沿岸の都市ナルヴァでスウェーデン軍とロシア軍が衝突。スウェーデン軍が吹雪の中ロシア軍を奇襲攻撃し勝利。 |
1701年 |
3月13日(元禄14年2月 4日) | 東山天皇の勅使饗応が行われることになり、饗応馳走役は播磨赤穂藩主浅野長矩と伊予吉田藩主伊達村豊で、高家肝煎の吉良義央が指導に当たることと決まる。 |
4月21日(元禄14年3月14日) | 東山天皇の勅使饗応が行われる予定にあった江戸城中松の廊下において、突如、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に対して抜刀の上襲いかかり、吉良上野介は額などに負傷するも品川伊氏と畠山義寧によって助けられ、浅野内匠頭は梶川頼照に取り押さえられ、即日、収監されていた田村建顕の屋敷で切腹。赤穂藩は取り潰しと決まる。 |
5月26日(元禄14年4月19日) | 赤穂城が開城となる。 |
7月19日(スウェーデン暦7月 9日) | ドヴィナ川(ダウガヴァ川)の戦い。スウェーデン軍がリガ救出のためにドヴィナ川を渡河し、ザクセン・ポーランド軍を撃破。リガを解放。 |
9月21日(元禄14年8月19日) | 幕府は吉良義央に旗本松平信望が本所に持っていた比較して小さな屋敷への屋敷替えを命じる。吉良への贔屓が批判されたためとも、赤穂浪士の討入を黙認したため、とも言われる。 |
9月23日(元禄14年8月21日) | 幕府は吉良義央実弟の東条冬重、吉良よりの高家大友義孝、浅野長矩を室内ではなく庭で切腹させた大目付庄田安利も役職を取り上げる。これも批判をかわすためとみられる。 |
1702年 |
1月 9日(元禄14年12月12日) | 吉良義央は高家肝煎職を返上し隠居。吉良義周が跡を継ぐ。 |
1月 9日(スウェーデン暦1701年12月30日) | 大北方戦争、エーレスターの戦い。ロシア軍がリヴォニアのスウェーデン軍を撃破。 |
8月11日(元禄15年7月18日) | 播磨赤穂浅野家再興の最後の可能性であった内匠頭弟浅野大学長広が広島の浅野本家に預けられることになり、再興の望みが消える。 |
8月23日 | カディスの戦い。八十年戦争。イングランド・オランダ連合軍が、スペインのカディスを9月30日まで1ヶ月以上に渡って攻めるが失敗に終わる。 |
1703年 |
1月30日(元禄15年12月14日) | 元禄赤穂事件。赤穂浪士四十七士が吉良邸へ討ち入る。吉良義央は死亡。吉良義周も重症を負う。四十七士に死者は無し。 |
3月20日(元禄16年2月 4日) | 赤穂浪士四十七士のうち、姿を消した足軽寺坂信行以外の46人は預けられた四大名邸で切腹し、その子らも流罪の処分を受ける。一方の吉良家も正式に改易され、吉良義周は信濃諏訪藩高島へ配流となる。 |
5月27日 | サンクトペテルブルク建都の日。ユリウス暦では5月13日。ロシア初代皇帝ピョートル1世によって建設。 |
11月19日 | バスティーユ監獄に収監され、人と会うときは面布を付けることを命ぜられていた「仮面の男」が死亡する。のちアレクサンドル・デュマ・ペールの小説で「鉄仮面」として取り上げられる。位の高い人物と考えられるが正体は諸説ある。 |
12月31日(元禄16年11月23日) | 元禄大地震。房総半島南端を震源とする大震災。小田原城下は壊滅。江戸市中にまで津波が押し寄せる。死者およそ2300人。宝永に改元することになる。 |
1704年 |
3月24日(元禄17年 2月19日) | 歌舞伎役者初代市川團十郎が、市村座で『移徙十二段(わたましじゅうにだん)』の佐藤忠信役を演じている最中に、役者の生島半六に舞台上で刺殺される。 |
5月 6日(宝永元年 4月 3日) | 生島半六が獄死。 |
8月 1日 | スペイン継承戦争で、イングランド、オランダ、オーストリアの連合軍がジブラルタルへ派兵。4日までに占領。ジブラルタルがイングランドの海外領土となる。 |
8月24日 | マラガの海戦。スペインのマラガ沖でフランス・スペイン連合艦隊とイングランド・オランダ連合艦隊の間で海戦となる。 |
1705年 |
10月14日 | ポーランド=リトアニア共和国の大半を占領したスウェーデン(バルト帝国)は、スタニスワフ・レシチニスキを同国の国王に就ける。同国国王であったザクセン選帝侯でもあるアウグスト2世との間で内戦状態に。 |
1706年 |
10月13日 | スウェーデン(バルト帝国)とザクセン・ポーランド=リトアニアとの間でアルトランシュテット条約締結。ザクセン選帝侯兼ポーランド=リトアニア共和国国王アウグスト2世は大北方戦争から離脱。 |
1707年 |
10月28日(宝永4年10月 4日) | 宝永大地震。震源域は紀伊半島沖から、四国沖、日向灘にかけて。いわゆる東海地震と南海地震が連続した起こったもので、地震、山崩れ、大津波で、大坂や土佐などで大被害を出す。死者は推定で2万人。 |
12月16日(宝永4年11月23日) | 昼少し前に富士山の噴火が始まる。宝永の大噴火。直前に鳴動と地震が観測されている。江戸などでも空振を観測。江戸でも灰が降り、日没頃その色が黒く変色。マグマ噴火とみられる。宝永大地震がきっかけになったという説もある。 |
12月17日(宝永4年11月24日) | 富士山の噴火は収束の方向へ向かう。この日の夜、比較的広範囲で大きな地震を観測(火山によるものか、宝永地震の余震かは不明)。 |
12月25日(宝永4年12月 2日) | 富士山が再び活発に噴火を始める。 |
12月31日(宝永4年12月 8日) | 夜、富士山で大きな爆発があった後、翌未明の爆発を最後に終息する。 |
1708年 |
12月 9日(宝永5年10月28日) | 富士山が再び噴火。『鸚鵡籠中記』などでは江戸でも降灰があったという。約1ヶ月で沈静化。 |
1709年 |
7月 8日(ユリウス暦 6月27日) | 大北方戦争、ポルタヴァの戦い。スウェーデン軍および同盟軍であるウクライナ・コサック軍と、ロシア軍が、ウクライナ東部で会戦。スウェーデン軍は大敗を喫する。北方同盟は復活し、バルト帝国は凋落へ進むことに。 |
8月 8日 | ポルトガルの飛行研究者バルトロメウ・デ・グスマンが、屋内で熱気球を飛ばすことに成功。 |
1710年 |
4月 4日(宝永7年 3月 6日) | 勘定奉行荻原重秀が、幕府の財政窮乏の打開策として、勘定組頭保木弥右衛門、勘定小宮山友右衛門、鋳造を担う御用達商人である銀座人とともに、将軍の承認を得ないまま、銀の含有量を減らした銀貨の吹き替え(貨幣改鋳)を密かに行う。宝永永字丁銀とよばれるもの。 |
4月30日(宝永7年 4月 2日) | 勘定奉行荻原重秀は、さらに悪銀の銀貨吹き替え(貨幣改鋳)を実施。宝永三ツ宝丁銀とよばれるもの。 |
1711年 |
9月14日(正徳元年 8月 2日) | 勘定奉行荻原重秀が、三度目の悪銀の銀貨吹き替え(貨幣改鋳)を実施。宝永四ツ宝丁銀とよばれるもの(改元後の鋳造だが宝永と呼ばれる)。前年からの宝永永字丁銀・宝永三ツ宝丁銀・宝永四ツ宝丁銀の3種類の悪貨は将軍の承認がなく、密かに市場に流され、市場を混乱させた。物価高騰を招いた他、鋳造の一部を支給される銀座人(御用達商人)の利益にもつながった。この件で荻原重秀は将軍家宣から問い糾されるが財政悪化を理由に正当性を主張。このため新井白石との間で激しく対立することになり、荻原の失脚の要因となったほか、銀座人の粛清に発展する。3種の銀貨は享保7年に通用停止となるまで市場に出回っていたが、品質の良い慶長銀とは交換されず、正徳銀とも扱いに差が付き、停止後はほとんどが正徳銀と交換されたため、皮肉にも現在では非常に希少価値が高くなっている。 |
1713年 |
2月26日 | イングランドとフランスの間でユトレヒト条約締結。スペイン継承戦争にともなう北米でのアン女王戦争が終結。 |
1714年 |
2月26日(正徳4年 1月12日) | 絵島生島事件。江戸城大奥御年寄の江島が、月光院の名代として徳川家宣の墓参のため、奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣し、その帰途、呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座に行き、芝居を見物。看板役者の生島新五郎と宴会を開き、大奥の門限に遅れてしまったことが問題となり、多くの処分者を出した事件。 |
3月 6日 | 神聖ローマ帝国とフランスの間でラシュタット条約締結。スペイン継承戦争が終結。 |
6月24日(正徳4年 5月13日) | 正徳の銀座粛清事件。勘定奉行荻原重秀が密かに行った貨幣改鋳による市場の混乱と物価の高騰の責任と、さらに鋳造に関わった銀座人(御用達商人)らが不当に利益を得たとして、貨幣をもとに戻すことを狙った新井白石が銀座年寄り深江庄左衛門、荻原と手を組んでいた銀座人関久右衛門らを捕縛し、遠島に処す。荻原と関によって失脚させられた五代目大黒長左衛門常栄が復帰。 |
8月 7日(ユリウス暦 7月27日) | 大北方戦争、ハンゲ沖海戦。フィンランドのハンコ半島(ハンゲ・ウト。ロシア語でガングート)の沖でスウェーデン海軍とロシア海軍が海戦。ロシア海軍が勝利し、バルト海東方の制海権を得る。 |
11月27日(正徳4年10月21日) | 宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが収容されていた江戸茗荷谷の「切支丹屋敷」で獄死。世話人に対し布教したため。 |
1716年 |
10月 8日(享保元年 8月23日) | 8代将軍徳川吉宗が諸国調査のため、御庭番を創設。 |
4月26日 | イギリスの海賊で海賊プリンスとも呼ばれたサミュエル・ベラミーが、マサチューセッツ州ケープコッド近海で遭難し消息を絶つ。はるか後の1984年にベラミーの海賊船ウィダー号が発見される。 |
1718年 |
11月22日 | 黒髭のあだ名で知られたイギリスの海賊エドワード・ティーチが殺害される。 |
12月11日(スウェーデン暦11月30日) | 大北方戦争のさなか、スウェーデン(バルト帝国)のカール12世が、フレデリックスハルドを包囲中に、何者かの狙撃で死亡。独身で子がいなかったため、妹のウルリカ・エレオノーラが王位を継承することに。 |
1719年 |
5月25日 | オスマン帝国(現在のトルコ)にあるイズミットのイズミット断層を震源とする巨大地震が発生。イズミット、ヤロヴァ、アダパザル、イスタンブールなどマルマラ地方一帯で約6000人が死亡。 |
1721年 |
9月10日 | ロシアとスウェーデン(バルト帝国)の間でニスタット条約締結。大北方戦争が終結。スウェーデンはロシアに対してカレリア、エストニア、リヴォニア、イングリアなどを割譲し、バルト海の覇権を失う。ロシアは列強へと名乗り出ることに。 |
| この年、ノルウェーからグリーンランドへ再入植が始まる。入植地はゴッドホープと名付けられる。 |
1722年 |
3月 8日 | ミール・マフムード・ホータキー率いるホータキー朝カンダハール王国の軍勢がサファヴィー朝の王都イスファハーンに迫ったため、サファヴィー朝の9代目君主フサインが迎撃軍を出すも、グルナーバードの戦いで大敗。王都は包囲される。 |
4月 5日 | オランダ海軍提督、ヤーコプ・ロッヘフェーンがイースター島を発見。 |
7月25日 | 北アメリカのイングランド植民地であるマサチューセッツ湾植民地の総督サムエル・シュートが、かねて紛争状態にあったネイティブのワバナキ連邦アベナキ族に対し宣戦を布告。背景には英仏の北米での対立と、それに巻き込まれた本来の住民であるネイティブの反発にある。ネイティブ側で指導していたセバスチャン・ラル神父の名をとってラル神父戦争とも、シュートのあとに総督になったウィリアム・ダマーからダマー戦争とも呼ばれる。ほかにネイティブ側の指導者としてはグレイ・ロック、ポーガスなどの部族長が有名。 |
10月23日 | サファヴィー朝の君主フサインが、ホータキー朝のミール・マフムードに降伏し、サファヴィー朝は滅亡。マフムードはイスファハーンで旧王朝関係者などを虐殺。そのためホータキー朝の支配は短期で終わる。 |
(享保7年) | 江戸幕府、財源を確保するため、大名に対し1万石につき100石を幕府に上納すれば、参勤交代での江戸滞在期間を半年に短縮する「上米の制」を定める。 |
1723年 |
(享保7年12月 4日) | 小石川薬園に小石川養生所が設立される。発案者の町医者、小川笙船が肝煎職に任命され、幕府の7人の医者が就任。 |
1724年 |
| ハンス・エゲデによってグリーンランドの再入植が行われる。ヴァイキングがかつて入植した場所の付近に入植地を作りゴッドホーブと名付ける(現在の自治政府首都ヌーク)。 |
1725年 |
6月29日(享保10年5月19日) | 新井白石死去。将軍徳川家宣のもとで正徳の治を行う。 |
12月15日 | マサチューセッツ湾植民地と、ネイティブのワバナキ連邦との間で和平条約が結ばれ、ラル神父戦争は終結。背景には、フランスとの植民地争奪戦があり、フランス寄りだったネイティブと戦争するより取り込むほうが良いと判断したことがある。 |
1726年 |
10月26日 | ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』初版が刊行される。イギリス人に対する強烈な批判・風刺内容だったため、出版したベンジャミン・モットによって内容の一部が改変・改竄されたものであったが、またたくまに人気作品となった。 |
1728年 |
8月16日 | ヴィトゥス・ベーリングがロシアとアラスカの間の海域を探検。その名が付いてベーリング海と呼ばれるようになる。 |
1729年 |
5月18日(享保15年4月15日) | 8代将軍徳川吉宗の紀州時代のご落胤を自称して浪人らを集めていた山伏の天一坊改行が、関東郡代伊奈忠逵と勘定奉行稲生正武の取り調べの上、鈴ヶ森刑場で処刑される。いわゆる「天一坊事件」。 |
1730年 |
5月31日(享保15年4月15日) | 江戸幕府、上米の制を停止し参勤交代制度を元に戻す。 |
12月19日(享保15年11月10日) | 8代将軍徳川吉宗が、次男宗武をして田安家を起こす。御三家に変わる新たな藩屏を興すことを想定したもの。のちに一橋家、清水家が興され、御三卿と呼ばれる。 |
1731年 |
| この年、ジョン・ベヴィスによって、かに星雲が発見され名付けられる。1054年に出現した超新星の残骸。 |
1733年 |
7月 7日(享保18年 5月26日) | 大森代官兼笠岡代官の井戸正明(正朋?)が、備中笠岡の陣屋で死去。享保の大飢饉の際に、独断で年貢の減免や官金の投入を行い、またサツマイモの栽培を奨励して民衆を救った人物。過労死とも独断で行った対策の責任を取って切腹したとも言われる。 |
7月 9日(享保18年 5月28日) | 両国の花火大会がはじめて開催される。 |
1735年 |
| ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の未改変版が、ジョージ・フォークナーによって刊行される。現在のガリヴァー旅行記の初版はこちらを指す場合が多い。 |
1736年 |
9月16日 | ポーランド出身の物理学者ガブリエル・ファーレンハイト没。水銀温度計を開発し、温度の単位「華氏」のもととなった人物。 |
1738年 |
| ヴェスヴィオ山の噴火で埋没していたヘルクラネウムが発見される。 |
| アフシャール朝の君主ナーディル・シャーが、ホータキー朝の王都カンダハールを攻め落とし、ホータキー朝は約30年で滅亡。 |
1739年 |
| フランス人の探検家ジャン=バティスト・シャルル・ブーヴェ・ド・ロジエがアフリカのはるか南方で、絶海の孤島を発見。この際、正確な位置の記録が出来なかったため、再発見が遅れた上に、再発見ごとに新しい島と勘違いされ、複数の名前を付けられた。後にブーベ島と名付けられる。地球上で最も他の陸地から隔絶された島。 |
1740年 |
10月20日 | 神聖ローマ帝国皇帝カール6世が崩御。娘のマリア・テレジアがハプスブルク家の後継となるが、各国が介入を始める。オーストリア継承問題に発展。 |
12月16日 | オーストリア継承問題に介入したプロイセンが、シュレージエンに侵攻。同地域を制圧。マリア・テレジアは抗戦を決意。オーストリア継承戦争勃発。 |
1741年 |
4月10日 | モルヴィッツの戦い。プロイセンとオーストリアがモルヴィッツで衝突。プロイセンが勝利し、列強としての地位を得る。 |
1742年 |
5月17日 | コトゥジッツの戦い。プロイセンとオーストリアの戦い。プロイセンが勝利。 |
6月11日 | プロイセンとオーストリアの間でブレスラウ条約が締結される。シュレージエンとグラッツはプロイセンに割譲される。プロイセンはこれを受けて同地方を担保としたオーストリアの債権を引き受ける。また、プロイセンは神聖ローマ帝国皇帝選挙でマリア・テレジアの夫であるロートリンゲン公フランツ1世を支持することを確約。またオーストリアは対フランス戦に戦力を集中することで継承戦争を優位に進めることになる。 |
(寛保2年) | 江戸幕府の法典である公事方御定書がまとめられる。 |
8月28日(寛保2年 7月28日) | 京で暴風雨。桂川が氾濫を起こす。以降、信濃や関東でも暴風雨が広まる。 |
8月30日(寛保2年 8月 1日) | 江戸で暴風雨。江戸で高潮が発生。さらに利根川などの洪水が江戸に達する。 |
9月 6日(寛保2年 8月 8日) | 江戸で再び暴風雨。洪水が広がる。幕府は西国10藩に救援を指示。 |
1744年 |
5月22日 | オーストリアのハプスブルク家伸長に対抗するため、プロイセン、バイエルン、プファルツ、ヘッセン=カッセルがフランクフルト同盟を締結。 |
8月 2日 | プロイセンがオーストリアのベーメンに侵攻。第二次シュレージエン戦争勃発。 |
9月 8日 | プロイセンによるプラハ攻略戦が始まる。 |
9月16日 | プラハ市がプロイセンに降伏。しかし、フランスが参戦を取りやめた他、在地の協力が得られず、プロイセン軍は物資不足が目立つようになる。 |
10月26日 | オーストリア側の反撃と物資不足のため、プロイセン軍はベーメンからの撤退を開始。 |
1745年 |
5月11日 | フォントノワの戦い。オーストリア継承問題に端を発し、ネーデルラントを巡ってフランスとイギリス・ハノーファーなどの連合軍が衝突。フランス側が勝利。 |
1747年 |
4月20日(延享4年 3月11日) | 東海地方を荒らし回った盗賊団の頭だった日本左衛門こと濱島庄兵衛が処刑される。歌舞伎「白浪五人男」に出てくる日本駄右衛門のモデル。 |
1748年 |
9月 6日(寛延元年 8月14日) | 大坂竹本座で人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」初演。 |
| ヴェスヴィオ山の噴火で埋没していたポンペイが発見される。 |
1749年 |
1月19日(寛延元年12月 1日) | 大坂中の芝居で歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」初演。 |
1752年 |
2月 3日(宝暦元年12月19日) | 大岡忠相が死去する。 |
5月 | 第6代ロシア皇帝エリザヴェータがエカテリーナ宮殿の建設に取り掛かる。設計は宮廷付き建築家バルトロメオ・ラストレッリ。 |
6月ころ | ベンジャミン・フランクリンが、雷雲に凧を上げ、ライデン瓶を繋いで雷が電気であることを確認。先にトマ・ダリバードが行ったともいわれる。 |
9月14日 | イギリスとその植民地で、グレゴリオ暦が導入される。 |
1753年 |
8月 6日 | ドイツの物理学者ゲオルク・ヴィルヘルム・リヒマンが、サンクトペテルブルクの研究室で、雷の中での絶縁の実験をしている最中に感電死。雷に打たれたとも、窓から飛び込んできた球電の直撃を受けたとも言われる(球電は雷雨のときなどに稀に発生する発光体。プラズマとも言われる)。 |
1754年 |
3月20日(宝暦4年 2月27日) | 宝暦治水工事着工。薩摩藩の財政弱体化が目的の公共工事で、幕府の妨害により抗議の自害や、疫病による病死で大勢の犠牲者を出すことになる。 |
1755年 |
| この年までに、スコットランド・エディンバラ大学の研究者ジョゼフ・ブラックが炭酸カルシウムなどの研究から、「燃焼を止めてしまう」固定気体を発見。のちに二酸化炭素と名づけられた。 |
1756年 |
7月30日 | ロシア・サンクトペテルブルク郊外プーシキンのツァールスコエ・セローにエカテリーナ宮殿が完成。 |
1757年 |
3月27日 | ルイ15世の殺害を図ったとしてロベール=フランソワ・ダミアンが八つ裂きの刑に処される。死刑執行人「ムッシュ・ド・パリ」ことシャルル=アンリ・サンソンが詳細に記録したことで知られる。 |
1758年 |
9月12日 | シャルル・メシエが「かに星雲」を観測し、メシエ・カタログの1番目(M1)に記載。 |
12月25日 | エドモンド・ハレーが予言したのとほぼ同時期に彗星が出現しヨハン・ゲオルク・パリッチュが観測。ハレー彗星と名付けられる。 |
1759年 |
1月15日 | ハンス・スローンの膨大なコレクションを収蔵展示するための博物館として大英博物館が開館。 |
9月 6日(宝暦9年閏7月15日) | 人吉藩竹鉄砲事件。肥後人吉藩薩摩瀬屋敷で、藩主相良頼央が、何者かに狙撃されて負傷。9月26日(8月3日)に死亡。しかし、何故か藩は狙撃事件ではなく、狙撃音は子供の遊ぶ竹鉄砲(爆竹)だったとして、縁戚関係の日向高鍋藩藩主秋月種美の3男晃長を末期養子にし、藩主は病死と公表した。なお晃長は秋月家出身の上杉鷹山の実弟にあたる。 |
1760年 |
10月31日(宝暦10年 9月23日) | 葛飾北斎生誕とされる日。生誕地は武蔵国葛飾郡本所の割下水付近とされる。出自、生誕日、生誕地、若い頃の経歴など不明なところの多い人物。 |
1761年 |
7月 4日 | 近代小説初期の作家で書簡体小説を書いたサミュエル・リチャードソンが死去。 |
1762年 |
2月27日(宝暦12年 2月 4日) | 人吉藩9代藩主相良晃長が病死。11歳だったため、17歳未満の末期養子は認められないことから、藩上層部は急遽縁戚の公家鷲尾隆煕の子頼完(晃長より3歳年上)を密かに藩主にして、幕府には晃長が病気回復したと(同一人物と装う)報告をした。 |
9月15日(宝暦12年 7月27日) | 後桜町天皇が即位。第117代。平成に至るまでの時点で最後の女性天皇。 |
1763年 |
2月10日 | パリ条約が調印され、ヨーロッパ中を巻き込み、北米やインドでも戦った七年戦争が終結する。 |
3月13日(宝暦13年 1月29日) | 宝暦八戸沖地震。 |
5月22日(宝暦13年 4月10日) | 豊後国耶馬渓の崖を掘った青の洞門が開通。 |
| メルヒオール・バウアーが「空中車」という飛行装置を考案。揚力を生む主翼と、推力を生む可動翼を分けた航空機の原型のようなもの。ロイス=グライツ侯ハインリヒ11世らに図面を提示したが、実物は制作されなかったとみられる。 |
1764年 |
4月 5日 | 英国議会で砂糖法が成立。西インド諸島の非英領植民地から輸入される糖蜜にかかる関税を下げる代わりに、消費財に課税し、徴税逃れや密貿易を取り締まり、確実に徴税するための関税法。フレンチ・インディアン戦争の負債を減らす目的もあったが、英領アメリカでは経済的悪影響と「代表がいないのに課税される」ことに不満が高まっていく。 |
1765年 |
| 清の軍勢が雲南省からミャンマーに侵攻。清緬戦争。チャイントンで起きた殺人事件を理由にミャンマーのコンバウン王朝を影響下に収めようとした。しかしミャンマー側の反撃で敗走。以後、清は1769年まで4回に渡ってミャンマーに攻め込む。 |
1766年 |
| ヘンリー・キャベンディッシュが、金属と酸が反応した際に出る、軽くて燃える気体を、フロギストンではないかと発表。のちにこの気体が(酸素と反応して)水を生むことがわかり、ラヴォアジエによって水素(hydrogen)と名づけられた。 |
1767年 |
| 第一次マイソール戦争勃発。南インドのマイソール王国と、イギリス東インド会社との戦争。 |
9月14日(明和4年 8月22日) | 明和事件。尊王論・大義名分論を唱えて幕府に警戒されていた山県大弐、藤井直明が、不敬罪を理由に処刑される。直接的には山県と関係の深かった小幡藩の内紛に巻き込まれた形となっている。竹内敬持も流罪処分。 |
1768年 |
8月 8日 | ジェームズ・クックのエンデバー号がイングランドのプリマスから出航。第一回太平洋探検の航海はじまる。 |
9月 | ゴルカ王プリトゥビ・ナラヤン・シャーが複数の小王国を征服してネパールのカトマンズ盆地を統一。シャー王朝を興す。 |
1769年 |
4月 2日 | 南インドのマイソール王国と、イギリス東インド会社との間でマドラス条約が締結され、第一次マイソール戦争終結。戦争は一進一退を繰り返したが、最終的にマイソール側がマドラスに攻め寄せたことから、イギリス東インド会社側が譲歩した。 |
11月 9日(明和6年10月12日) | 青木昆陽が病死。甘藷の関東地方普及に関わったと言われる他、書物奉行として古文書の調査、古銭の分類、オランダ語の研究なども行った人物。 |
| 清緬戦争、清の4回目のミャンマー侵攻。6万の大軍を擁したが反撃され大敗。皇帝の命により退却する。4回すべて清の敗北に終わる。清軍から和平が求められたため、ミャンマー側のマハティハトゥラ将軍が独断で和睦に応じる。清王朝はこれをもってミャンマーに勝利し朝貢国としたと称した(乾隆帝十全武功のひとつ)。 |
1770年 |
3月 5日 | ボストン虐殺事件。当時のマサチューセッツ湾植民地のボストンで、駐留イギリス軍兵士と住民との間でトラブルとなり、住民5人が銃で撃たれて殺害された事件。アメリカ独立戦争のきっかけの一つ。 |
1771年 |
4月18日(明和8年 3月 4日) | 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵が小塚原刑場で「腑分け」を見学。オランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」の図解の正確さを確認。 |
4月24日(明和8年 3月10日) | 八重山地震が発生し、大津波が宮古・八重山地方を襲う。死者・行方不明者1万2000人。 |
6月12日 | ジェームズ・クックの最初の航海が終わり、エンデバー号は南イングランドのダウンズに帰還。 |
| この年、スウェーデンの研究者カール・ヴィルヘルム・シェーレが炎を強くする気体を発見する。いわゆる酸素の発見。しかしシェーレはこれをしばらく発表しなかったため、後に別に酸素を発見したプリーストリーに発見者の地位を奪われた。 |
1772年 |
4月 1日(明和9年 2月29日) | 明和の大火。真秀という僧侶の放火による。死者は1万5000人、行方不明者は4000人。出火場所から目黒行人坂の火事とも言われる。 |
1773年 |
1月17日 | ジェームズ・クック率いる探検隊が、初めて南極圏に達する。伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス)を探している途上。この後、北上したため、南極大陸の発見には至らず。 |
9月 | ロシアでプガチョフの乱が勃発。ドン州のコサック領主の生まれであるエメリヤン・プガチョフが、ピョートル3世を名乗って挙兵。反乱はヴォルガ川からウラル山脈にかけての広大な地域に拡大。 |
12月16日 | ボストン茶会事件。植民地をめぐるフレンチ・インデアン戦争での莫大な負債に苦しむイギリス政府が、新大陸における東インド会社の茶葉独占販売権を決めたことで、貿易独占と課税権に反発した急進派市民約50人が、ボストン港に停泊していた貿易船を襲い、大量の茶箱を海に放り込んだ出来事。100万ドルもの損害を出し、イギリスは植民地支配を強化。これがアメリカ独立戦争の直接のきっかけとなった。 |
1774年 |
7月12日 | カザンの戦い。プガチョフの乱で、エメリヤン・プガチョフ軍2万5千人がカザンに侵攻。皇帝軍を打ち破り、市街地を占領・破壊する。しかしまもなく皇帝軍に増援が到着し、プガチョフ軍は大敗。以後、反乱は急速に縮小していく。 |
9月14日 | エメリヤン・プガチョフが捕らえられる。 |
| ジョゼフ・プリーストリーが、水銀灰(酸化第二水銀)を燃焼させて新たな気体を発見する。翌年再実験を行い、これが「火を強くし」「動物を長生きさせる」「良い気体」と結論。当時広く信じられていた物質「フロギストン(燃素)」を吸収する「脱フロギストン空気」と発表する。しかし、プリーストリーはフロギストン説支持者であったため、これがいわゆる酸素だとは気づかなかった。 |
1775年 |
1月21日 | エメリヤン・プガチョフがモスクワで処刑される。反乱は終息。 |
4月19日 | レキシントン・コンコードの戦い。イギリス軍と大陸民兵軍が衝突。アメリカ独立戦争に拡大。 |
1776年 |
1月10日 | 思想家トマス・ペインが、『コモン・センス』というパンフレットを売り出す。アメリカ独立を主張した内容で、民衆の間にも独立機運が高まる。 |
6月10日 | アメリカ独立宣言起草委員会が発足。独立宣言書は、トーマス・ジェファーソンが起草し、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンが修正を加えて完成する。 |
7月 2日 | バージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーが提出していた『独立の決議』が、大陸会議で可決承認。 |
7月 4日 | アメリカ独立宣言書が大陸会議で承認され、13植民地が、イギリスからの独立を宣言。アメリカ独立記念日。 |
1777年 |
6月14日 | アメリカの国旗として正式に星条旗が選定される。フラッグデー。 |
1778年 |
1月18日 | ジェームズ・クック率いる調査隊がハワイ諸島に到着。クックはこの諸島を調査探検の後援者であるサンドウィッチ伯爵の名を取って、サンドウィッチ諸島と命名。 |
1779年 |
2月14日 | ジェームズ・クックが、北西航路探検の拠点にしていたハワイ島のケアラケクア湾で、盗品を巡って先住民といさかいになり、小競り合いで殺害される。 |
6月18日 | アメリカ独立戦争に絡んで、アメリカ大陸軍のジョン・サリバンによってサリバン遠征が始まる。イギリス王党派とイロコイ連邦のイギリス側についたインディアン部族討伐を目指したもの。 |
8月29日 | アメリカ独立戦争、ニュータウンの戦い。サリバン率いる大陸軍と、イギリス王党派・イロコイ連邦の連合軍との戦い。 |
11月 8日(安永8年10月1日) | 桜島各所で噴火。火砕流と降灰を伴い、翌9日には溶岩の流出が始まる。10日に溶岩が海岸に到達(安永溶岩)。 |
| この年、アントワーヌ・ラヴォアジエが、プリーストリーの発見した気体を、金属と結合して酸化させる物質という意味で「oxygène(オキシジェーヌ)」と名付ける。酸素の語源。ラヴォアジエは、プリーストリーと異なり、フロギストン説にこだわらず、空気は2つの気体から構成されていると考えた。 |
1780年 |
8月 6日(安永9年7月6日) | 桜島北東海上で海底噴火。 |
1781年 |
3月13日 | ウィリアム・ハーシェルが天王星を発見。当初は彗星と考えていたが、アンデル・レクセルが軌道計算をして惑星と判明。なお、これ以前にも何度か観測されているが新惑星とはみなされなかった。 |
4月11日(安永10年3月18日) | 桜島北東海上で海底噴火。津波が発生。安永の一連の噴火の死者は153人。 |
1782年 |
4月 6日 | アユタヤの王族で、トンブリー王朝の将軍ソムデットチャオプラヤー・マハーカサット・スックが、遠征先から戻り、乱心していた国王タークシンを処刑。自ら即位してチャクリー王朝シャム王国を興す。初代国王ラーマ1世。 |
1783年 |
4月13日(天明3年 3月12日) | 岩木山が噴火。 |
6月 5日 | モンゴルフィエ兄弟による無人熱気球の公開飛行実験に成功。 |
6月 8日 | アイスランドの活火山ラキ山(ラーカギーガル山)が大噴火を起こす。二酸化硫黄ガスやフッ素化合物が大量に噴出。膨大な量の玄武岩質溶岩も流れ出す。多くの家畜が死亡し、住民も2割が死亡。ヨーロッパ各地へも大量の火山性ガスの流出と降灰があり、多数の死者を出す。その後、数年にわたって北半球全体で気象異変が起こる。この時、隣接するグリムスヴォトン山も噴火。 |
8月 4日(天明3年 7月 7日) | 小規模の噴火が続いていた浅間山が大噴火を起こす。大量の溶岩が流れ出す。現在の「鬼押出し」。 |
8月 5日(天明3年 7月 8日) | 浅間山の中腹で大規模な爆発が起きる。溶岩、火砕流、土石流が麓へ広がり、比較的大きな街道の集落だった蒲原村は土石流で完全に埋没し村人の9割が死亡。噴火はこのあと急速に終息するが、土石流は吾妻川をせき止め、決壊後の洪水によって流された人馬の遺体は江戸川にまで流れ着く。 |
9月 3日 | パリ条約でアメリカ独立宣言書がイギリスに承認され、アメリカ合衆国が正式に独立。 |
9月19日 | モンゴルフィエ兄弟、フランス国王ルイ16世とマリー・アントワネットの前で動物を乗せた気球飛行実験に成功。 |
11月21日 | モンゴルフィエ兄弟、世界初の熱気球有人飛行の実験を行なう。当初は死刑囚を乗せるはずだったが、研究者ピラトール・ド・ロジェとフランソワ・ダルランド侯爵の二人が名乗りを上げ、25分の飛行に成功。 |
1784年 |
2月 7日 | 噴火していたアイスランドのラキ山がほぼ終息。 |
4月12日(天明4年 2月23日) | 筑前志賀島で「漢委奴國王」の金印が発見される。 |
1785年 |
6月15日 | 世界最初の気球飛行者ピラトール・ド・ロジェが自ら考案した気球で、ドーバー海峡横断に挑戦中、爆発事故で墜落死し、同乗していたジュール・ローマンとともに人類最初の航空事故死者になる。 |
| 備前の表具屋だった浮田幸吉が自作のグライダーで、岡山の旭川に架かる京橋から滑空飛行を行う。騒動を聞きつけた岡山藩士によって捕らえられ岡山を追放された。のち、移り住んだ駿府でも飛行実験を行ったといわれる。 |
| この頃から、ラヴォアジエは、フロギストン説を否定する理論を主張。妻マリー・アンヌとともに批判を展開し、支持者を増やしてフロギストン説は衰退していく。化学が大きく進むきっかけを作った。 |
1786年 |
8月 8日 | 医者のジャック・バルマとポーターのミッシェル・ガブリエル・バッカールが、近代登山の祖オラス=ベネディクト・ド・ソシュールの支援を受け、初めてモンブラン登頂に成功。 |
1787年 |
1月11日 | ウィリアム・ハーシェルが天王星の衛星チタニアとオベロンを発見する。天王星で1番目と2番目に大きな衛星。 |
7月21日 | 飢饉が深刻化する中、京の市民が御所の周りに集まり回り始める。いわゆる「御所千度参り」の始まり。次第に人数が増え、大坂や近江などからも人が集まり、7万人に達する事態に発展。後桜町上皇は御所内にあった和りんご3万個を人々に提供。公家衆も、お茶やおにぎりを供出した。光格天皇と関白鷹司輔平は事態を受けて幕府に飢饉難民への救済策を求める。政治行為は「禁中並公家諸法度」に反する行為だったが、幕府は非常事態を受けてのこととして問題にせず、京に1500俵の米を出した。幕末に天皇家が発言力を持ち始めるきっかけになったとも言われる。 |
9月17日 | フィラデルフィア憲法制定会議が、アメリカ合衆国憲法案を採択。 |
11月 7日 | フランス国王ルイ16世が、ヴェルサイユの勅令に署名。フォンテーヌブローの勅令を廃止し、カトリックへの強制改宗をやめ、プロテスタントの信仰の自由が認められることになる。 |
12月 7日 | アメリカ独立13植民地のうち、デラウェアが最初に合衆国憲法を批准。1番目の州となる。デラウェア州の愛称は「First State」。 |
1788年 |
1月26日 | イギリスから囚人や貧困者ら1030人が、アーサー=フィリップ海軍大佐に率いられ、オーストラリアのポート・ジャクソン湾に到着し、初めて上陸する。 |
4月 9日(天明8年 3月 4日) | 第11代将軍徳川家斉が、老中松平定信を将軍輔佐に任命。寛政の改革がはじまる。 |
4月 9日(天明8年 3月 4日) | イギリス人ジョン・ミアーズ率いる船が、伊豆諸島で海から突き出た巨大な岩を発見。聖書の「ソドムとゴモラ」のエピソードに出てくる塩の柱にされたロトの妻から「ロッツワイフ」と名付ける。これをもとに明治になって孀婦岩と命名された。 |
7月27日(天明8年 6月24日) | 幕府の側用人・老中として権力をふるった田沼意次が病死。松平定信の政権下では非常に冷遇された。 |
8月 3日 | ベルサイユ広場で車裂きの刑に処せられる予定だった死刑囚ジャン=ルイ・ルシャールが、無実を訴えたことに群衆が同情し、処刑台を破壊して助け出す。これ以降、苦痛の大きい刑罰は行われなくなり、即死するギロチンの開発へとつながっていく。 |
1789年 |
2月 4日 | ジョージ・ワシントンが初代アメリカ合衆国大統領に選出される。 |
2月26日 | サラブレッドの近代始祖エクリプス死す。 |
7月14日 | バスティーユ監獄襲撃。第三身分の一般市民が政府に反発して蜂起。フランス革命の勃発。 |
8月26日 | フランス革命の基本原則として「人間と市民の権利の宣言」が採択される。通称「フランス人権宣言」。 |
8月28日 | ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星エンケラドゥスを発見する。近年の探査機カッシーニの観測で氷の地殻の下に広大な海が存在することが判明し、生命体がいる可能性も指摘されている。 |
9月17日 | ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星ミマスを発見する。後にボイジャー1号が観測した際に、直径の3分の1もある巨大なハーシェルクレーターを持つ姿が、映画『スターウォーズ』に出てくる宇宙要塞デス・スターにそっくりだったことから話題になった。 |
10月10日 | フランスの医師で議員のギヨタンが立憲議会に、当時複数の手段があった死刑方法を斬首に統一することと、苦痛の少ない機械的な斬首法の導入を提案。この提案を元に処刑執行人シャルル=アンリ・サンソン、外科医アントワーヌ・ルイ、楽器製造者トビアス・シュミットが開発したのがギロチン。なおギヨタン自身がギロチンで処刑されたというのは間違い。 |
1790年 |
5月29日 | アメリカ独立時の13植民地の最後の1つロードアイランドが合衆国憲法を批准し州となる(イギリスからの独立には積極的だったが、中央集権体制には反発していたため最後になった)。 |
7月 6日(寛政2年 5月24日) | 松平定信が、朱子学を正学とし、それ以外の学問を禁止する、寛政異学の禁を通達。主に幕府の教育行政についての指導で、諸大名・一般に対する強制では必ずしもない。 |
1791年 |
3月 | フランスでメートル法が導入される。地球の大きさをもとに長さの単位を決めたもので、その大きさをもとに決められた質量から重さの単位(g)もこれに合わせる。度量衡の不正がフランス革命の要因の一つにもなっていたため、革命後に統一化が進められた。 |
6月22日 | フランス国王一家が、国外の支援者と合流するため、一家で宮殿を脱出、国境へ向かうも発見され捕らえられる。ヴァレンヌ事件。 |
1792年 |
4月25日 | ギロチンが初めて死刑に使用される。死刑に処されたのはニコラ・ジャック・ペルティエという人物。 |
5月17日 | ニューヨーク証券取引所の前組織「ぼたんの木協定」(Buttonwood Agreement)が設立される。 |
5月21日(寛政4年 4月 1日) | いわゆる「島原大変肥後迷惑」が起きる。雲仙普賢岳のそばにある火山眉山が山体崩壊し、島原城下が壊滅。大量の土砂はそのまま有明海に流れ込み、発生した大津波で、対岸の肥後や天草も甚大な被害をうける。 |
8月10日 | フランス革命で、ジャコバン派がテュイルリー宮殿を襲撃して国王一家を拘束。 |
8月16日(寛政4年6月29日) | 甲府、江戸などで大きな地震があり、富士山では落石により20数人が死亡する。 |
9月 2日 | フランス革命で、ジャコバン派に先導された民衆が反革命派に対する九月虐殺事件を引き起こす。収監されていた貴族や聖職者などを含む1万4千人以上が殺されたと言われる。多くは特に反革命とは無関係だったとみられる。 |
9月21日 | フランス革命で、王政が廃止される。 |
9月22日 | フランス革命で、革命歴起点日。革命歴1年ヴァンデミエール(葡萄月)1日となる。 |
1793年 |
1月21日 | フランス革命で、ジャコバン派が主導して、国王を処刑。 |
2月 8日(寛政4年12月28日) | 西津軽地震。陸奥国沖合の日本海で発生した大地震で、津軽藩領に津波が襲来。鰺ヶ沢などで大きな揺れを観測。 |
2月17日(寛政5年 1月 7日) | 寛政地震。仙台沖の太平洋側で発生した地震で、東北・関東地方でやや強い揺れを観測。東北沿岸に津波が襲来。 |
3月11日 | ヴァンデの反乱勃発。フランス革命による教会弾圧と三十万人募兵令に反発したフランス西部ヴァンデ地方の農民らが王党派と組んで武装蜂起。大規模な反乱へと発展する。革命政府が強権的になるきっかけとなった事件。 |
5月15日 | スペインのディエゴ・マリン・アギレラがオーニソプター(羽ばたき式飛行機)を開発し初飛行。360mほど滑空して墜落したという。 |
7月14日 | ヴァンデの反乱を指揮したジャック・カトリノーが戦傷がもとで死亡。もと行商人で軍隊経験はないが指揮能力が高く、農民らに支持されていた。その死により反乱軍は求心力を失っていく。のちの王政復古時にカトリノー家は貴族に列せられた。 |
7月17日 | フランス革命で「暗殺の天使」シャルロット・コルデーが処刑される。ジャコバン派の中心人物ジャン=ポール・マラーを暗殺したため。 |
8月 8日 | フランス革命に反発したリヨン市を共和国軍が包囲。いわゆるリヨンの反乱が起きる。 |
9月18日 | フランス革命に反発した王党派とそれを支援するイングランド、スペインなどがトゥーロンを占領したため、共和国軍が攻勢を開始。共和国軍を率いたジャン・フランソワ・カルトーが負傷したため、ナポレオン・ボナパルトが指揮権を委ねられる。 |
10月 9日 | リヨン市が共和国政府に降伏。政府の有力者ジョルジュ・クートンは穏便に済ませようとしたが、国民公会はジャン=マリー・コロー・デルボワとジョセフ・フーシェを派遣。両者は市内を徹底的に破壊したうえ、市民2000人以上を処刑した。リヨンの大虐殺とも言われ、これがもとでロベスピエールとフーシェらとの間で対立に発展。テルミドールのクーデターの遠因の一つになった。 |
10月16日 | フランス革命で、マリー・アントワネットらが処刑される。 |
11月24日 | フランス革命で、革命歴が採用される。前年9月22日を起点とし、時間の単位を十進法に改めたもの(1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒)。 |
12月18日 | フランス共和国軍が、トゥーロンを攻略。指揮をしていたナポレオンは負傷したが准将に昇進。イギリス軍などは港湾施設などを焼き払って退却。制圧後、ポール・バラスやルイ=マリ・スタニスラス・フレロンらが到着し、捕らえた王党派や市民を虐殺。フレロンはこの虐殺でロベスピエールとの関係が悪化し、テルミドールのクーデターに加わることになる。 |
1794年 |
7月27日 | フランスで、国民公会会議中にロベスピエールに反発する議員ら主導で「テルミドールのクーデター」が起こる。恐怖政治に対する穏健派や市民の反発だけでなく、恐怖政治を強行してロベスピエールと対立した強権派の議員もクーデターに加わっていた。一方、ロベスピエールを支持する国民衛兵や市民も集結するが、ポール・バラス率いる国軍がパリ市中心部を制圧。ロベスピエールら恐怖政治を敷いていたジャコバン派の主要幹部らが逮捕される。 |
7月28日 | ロベスピエールら22人が処刑される。クーデターを実行したテルミドール派が権力を握る。 |
1795年 |
6月 8日 | マリー・アントワネットの息子ルイが病死。テルミドール派が実権を握ったのち、幽閉されていたタンプル塔の日の射さない汚物だらけの部屋で衰弱しているのが発見され、医者の手で治療が施されたが手遅れだった。10歳。 |
6月26日(寛政7年 5月19日) | 火付盗賊改方長官を8年務めた長谷川宣以が死去。 |
10月 5日 | フランスのテルミドール派政府が、法改正をして選挙に有利になる工作を行い、反発した王党派や民衆が暴動を起こす。通称「ヴァンデミエールの反乱」。ナポレオンが砲兵隊で鎮圧。ナポレオンはこの功績で国内軍総司令官となり、暴徒を鎮圧した「革命広場」は、後に融和を意味する「コンコルド広場」と改められた。 |
10月24日 | ブランデンブルク=プロイセン王国・ハプスブルク帝国・ロシア帝国による第三次ポーランド分割で、ポーランド・リトアニア共和国は消滅。 |
| カメハメハ1世がハワイ王に即位しカメハメハ王朝ハワイ国が成立。 |
1796年 |
4月11日(嘉慶元年 3月 4日) | 清朝に対する大規模な民衆の反乱、白蓮教徒の乱が起こる。 |
5月15日 | エドワード・ジェンナーが、ウシの牛痘の膿を用いた天然痘を予防する種痘を行なう。なお、この種痘に使われたウイルスは、正確には牛痘ではなく、牛に感染していた馬痘の一種と考えられる。ジェンナーの方法は当時の医学界から批判を受けるも、またたく間に世界中へと広がった。 |
6月 9日(寛政8年 5月 4日) | 油屋騒動事件。日本三大遊郭、伊勢古市の油屋で刃傷事件が起こる。 |
1797年 |
9月 4日 | フランス総裁政府のポール・バラス、ジャン・フランソワ・ルーベル、ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポーが、五百人会選挙で王党派の勢力が盛り返してきたことを受けて、ナポレオンを取り込んでクーデターを起こす。議員216人が逮捕される。通称「フリュクティドールのクーデター」。 |
10月22日 | フランスの気球研究者アンドレ=ジャック・ガルヌランが自作の熱気球から自作の布製の落下傘で飛び降り、無事着陸。それまでとは違い骨組みのない現代のパラシュートの起源となる。 |
| ロバート・フルトンが手動式潜水艦ノーチラス号を設計。 |
1798年 |
1月17日(寛政9年 1月17日) | 昌平坂学問所設立。幕府の朱子学以外の学問を規制する寛政異学の禁により、林大学頭家の私塾だった湯島聖堂を改称。幕府の機関とする。 |
1799年 |
7月15日 | ナポレオン・ボナパルトによるエジプト・シリア遠征の際、戦役の途上フランス軍人ピエール=フランソワ・ブシャールによってエジプトの港湾都市ロゼッタでロゼッタ・ストーンが発見される。 |
11月 9日 | ブリュメールのクーデター。ナポレオンがシエイエスの要請でポール・バラスの総裁政府を打倒し、権力を握る。フランス革命の終結。 |
1800年 |
8月21日(寛政12年 7月 2日) | かねてより問題視されていた銀座の幕府への上納滞銀を受けて、銀吹役の大黒長左衛門常房を3900両余の滞納により家職召放しの上永蟄居とし、銀座人らは解雇。銀座を京橋から蛎殻町へ移転し、新たに銀座人を雇い、御勘定附切り(事実上の幕府直轄)に切り替える。 |
10月27日(寛政12年 9月10日) | 日本美術史上類例のない独特の画風を描いた絵師、伊藤若冲が死去。 |
1801年 |
1月 1日 | パレルモ天文台長ジュゼッペ・ピアッツィによってケレス(セレス)が発見される。最初に発見された小惑星で、小惑星帯では極端に大きな天体。2006年、IAU総会により、冥王星、エリスとともに準惑星に指定される。 |
5月14日 | 北アフリカのオスマン帝国自治州トリポリのパシャ(知事領主)ユサフ・カラマンリが在トリポリアメリカ合衆国領事館の星条旗を旗竿から切り落とす。 |
6月14日 | オスマン帝国自治州トリポリとアメリカ合衆国の間で開戦する。第一次バーバリ戦争。 |
| ロゼッタ・ストーンがイギリスに奪われる。 |
1802年 |
| ロゼッタ・ストーンが大英博物館に収められる。 |
1803年 |
8月 9日 | ロバート・フルトンが、フランスのセーヌ川で、小型蒸気船の試験航行をする。 |
10月31日 | アメリカの派遣艦隊に所属する軍艦フィラデルフィアが座礁。乗員307人がトリポリ側の捕虜となる。アメリカ軍は小型船でフィラデルフィアに接近し爆破。第一次バーバリ戦争。 |
1804年 |
2月21日 | リチャード・トレビシックが、製鉄所の製品輸送のために試作した蒸気機関車ペナダレン号の試運転が行われる。9マイル(約14.5km)を、5両編成で鉄10tと70人の乗客を乗せて、時速5マイル(約8km)で走行。世界最初の蒸気機関車と言われる。 |
8月 3日 | アメリカ海軍が、トリポリ市街を艦砲射撃。第一次バーバリ戦争。 |
8月11日 | 神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世が、オーストリア皇帝を称する。 |
9月 4日 | アメリカ海軍が、トリポリ港に潜入してトリポリ側軍艦の爆破を狙うが、事前に発見され失敗。第一次バーバリ戦争。 |
10月 7日(文化元年 9月 4日) | ロシアの遣日使節船ナジェシダ号が長崎に来航。使節団長はニコライ・レザノフ、使節船艦長はクルーゼンシュテルンで、同船には漂流民で偶然にも日本人初の世界一周をする結果となった津太夫(仙台藩出身の水夫)と、他日本人3名も乗っており、日本に帰国している。 |
11月14日(文化元年10月13日) | 華岡青洲が全身麻酔による乳癌の摘出手術を成功させる。 |
12月 2日 | ナポレオン・ボナパルト、フランス皇帝に即位。ノートルダム大聖堂で自ら戴冠式を行う。 |
| イングランドの工学研究者ジョージ・ケイリーが模型のグライダーを制作。固定翼の概念を確立する。のちに実物のグライダーを作り、飛行に成功している他、回転翼機の模型も制作。内燃機関やキャタピラ車両の開発、建築など幅広く活動している。 |
1805年 |
4月 2日 | 童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの生誕日。4月2日は「国際こどもの本の日」。 |
4月27日 | ダーネの戦い。アメリカ海兵隊と傭兵部隊が、トリポリ側の都市ダーネを攻略。第一次バーバリ戦争。 |
10月21日 | トラファルガーの海戦。フランス艦隊とイギリス艦隊がトラファルガル岬沖で艦隊戦を行う。フランス艦隊が大敗。しかしイギリス艦隊のネルソン提督も戦死。 |
12月 5日 | アウステルリッツの戦いで、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世とロシア帝国皇帝アレクサンドル1世が、フランス帝国のナポレオンに大敗を喫する。三帝会戦とも。 |
12月26日 | プレスブルクの和約。フランスとオーストリアが講和。 |
1806年 |
7月12日 | 神聖ローマ帝国内のドイツ諸侯がフランス・ナポレオンを盟主とするライン同盟を結成。帝国宰相カール・テオドール・フォン・ダールベルクが首座大司教侯となる。神聖ローマ帝国の事実上の崩壊。 |
8月 6日 | 神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世が、アウステルリッツの戦いに敗れフランスに降服したことで、皇帝位を降り、神聖ローマ帝国の解体を宣言する。 |
11月21日 | ナポレオンが、イングランドを経済封鎖しようと大陸封鎖令の発令。 |
1807年 |
6月10日 | 第一次バーバリ戦争終結。アメリカとトリポリが講和。 |
8月17日 | ロバート・フルトンが、ニューヨークからオールバニまで、ハドソン川で実用蒸気船の試験航行を行い、高い評価を得る。 |
9月 4日 | ロバート・フルトンが、ハドソン川で蒸気船の運行営業を始める。 |
9月20日(文化4年 8月19日) | 富岡八幡宮祭礼の参拝客の重みで、隅田川にかかる永代橋の東側が崩落する。死者行方不明者1400人。 |
1808年 |
10月 4日(文化5年 8月15日) | フェートン号事件。ナポレオン戦争の余波で、イギリスの軍艦が、フランスの属国となっていたオランダの植民地や港湾を襲い、その一環で、フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、出迎えたオランダ商館の職員や長崎奉行所の通詞らを捕縛し、さらに食料などを要求、応じなければ攻撃すると脅す。 |
10月 6日(文化5年 8月17日) | フェートン号が長崎奉行やオランダ商館の提供で食料を確保し、人質を解放して港外に去る。責任をとって長崎奉行松平康英や鍋島藩家老らが切腹する。 |
11月 | ヤーコプ・デーゲンが、水素気球付きオーニソプター(羽ばたき式飛行機)を開発し、飛行に成功したと言われる。浮上は気球で行い、翼を動かして移動するもので、純粋な飛行機ではない。デーゲンは時計職人で、晩年は紙幣の偽造防止印刷技術も発明している。 |
1809年 |
| この頃、熱帯地方のいずれかで大規模な火山の噴火があったと考えられる。翌年以降異常気象が起こる。 |
1810年 |
| ハワイ王国のカメハメハ1世が、ハワイ諸島を統一。 |
1811年 |
5月31日 | ドイツ・ヴュルテンベルク王国の仕立て屋で発明家アルプレヒト・ルートヴィヒ・ベルブリンガーが、自ら発明したグライダーの飛行実験を行い失敗に終わる。 |
7月30日 | メキシコの独立を訴えた司祭ミゲル・イダルゴが処刑される。 |
12月 7日 | ロンドンのラドクリフ街道にある洋品店で一家と店員の4人が惨殺される事件が起きる。 |
12月19日 | ロンドンのラドクリフ街道の酒場で再び3人が惨殺される同様の事件が発生。 |
12月23日 | ロンドンのラドクリフ街道連続惨殺事件で船員のジョン・ウィリアムズが逮捕される。本人は容疑を否認。 |
12月27日 | ロンドンのラドクリフ街道連続惨殺事件で逮捕されたジョン・ウィリアムズが拘置所内で自殺(他殺説もあり)。犯人と断定され、遺体を衆人に晒される。しかしウィリアムズの単独犯行説には疑問も多く、治安と捜査の不備が論議される契機となった。のちのロンドン警視庁発足のきっかけとも言える事件のひとつ。 |
(文化7年) | この年、江戸の花火師「鍵屋」の番頭清七が暖簾分けして「玉屋」を興す。 |
1812年 |
6月23日 | ナポレオン率いるフランス帝国の大陸軍と同盟軍77万人以上がモスクワ侵攻を開始。 |
9月14日 | ナポレオン軍、モスクワに入城するが、脱落兵が多数出ており、モスクワ自体もロシア軍が放棄して空城になっていて、得るものは殆ど無かった。 |
10月19日 | ナポレオン軍、モスクワ退却を開始。 |
1813年 |
1月24日 | イギリスでロンドン・フィルハーモニック協会が設立される。現在のロイヤル・フィルハーモニック協会。 |
8月26日 | ドレスデンの戦い。ナポレオン率いるフランス軍と、オーストリア帝国、ロシア帝国、プロイセン王国との戦い。フランス軍が勝利。 |
10月24日 | ロシアとガージャール朝(今のイラン付近の王国)との間で、ザカフカース地方の支配域を決めるゴレスターン条約が締結。ロシアの軍事力に押されたガージャール朝は、ジョージア(グルジア)・アゼルバイジャン地方の大部分を失い、ロシアのカスピ海航行権も認めざるを得なくなる。 |
10月16日 | ライプツィヒの戦い。ナポレオン率いるフランス軍とライン同盟などの同盟軍に対し、対仏大同盟を組んでいたオーストリア帝国、ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国などの連合軍が、ライプツィヒで交戦。フランス軍がやや優勢に進める。 |
10月18日 | ライプツィヒの戦い。連合軍に大幅な増援があったため、フランス軍に対し総攻撃を行う。9時間の交戦の結果、ナポレオンは退却を命令。 |
10月19日 | ライプツィヒの戦い。フランス軍と同盟軍は退却。ワルシャワ公国のユゼフ・アントニ・ポニャトフスキなどが戦死。4万人以上の死傷者を出す。連合軍も5万4000人が死傷。フランスはライン以東を失う。 |
1814年 |
4月11日 | 1814年フランス戦役で大敗したナポレオンが退位。 |
5月 4日 | ナポレオンがエルバ島領主として追放され、ルイ18世が即位して王政復古する。 |
11月 1日 | ネパール王国とイギリスの間でグルカ戦争が勃発。 |
1815年 |
2月26日 | ナポレオンがエルバ島を脱出。 |
3月20日 | ナポレオンが、兵を率いてパリに入城。皇帝に復位。 |
4月10日 | インドネシア中南部のスンバワ島にあるタンボラ山が大爆発を起こし、上部1000m程が消失し、膨大な量の噴出物が周辺1000kmに降り注ぐ。 |
6月 9日 | ウィーン会議で体制維持に各国が合意し、ウィーン体制がはじまる。 |
6月16日 | リニーの戦い。フランス軍とプロイセン軍が衝突。プロイセン軍が大きな被害を出す。 |
6月18日 | ワーテルローの戦い。ナポレオン率いるフランス軍と、ウェリントン公率いるイギリス・オランダ軍およびブリュッヒャー率いるプロイセン軍が戦う。フランス軍の敗北。 |
6月22日 | ナポレオンが退位し、百日天下が終わる。 |
1816年 |
3月 4日 | グルカ戦争が終わり、スゴウリ条約が締結されてネパールは領土の多くを失う。 |
| この年、北アメリカ、北ヨーロッパ、中国北部などで低温現象が続き、夏でも降雪や氷が張るほど気温が低く、「夏のない年」と呼ばれている。作物は壊滅的な打撃を受けた。一方、温帯南部から亜熱帯では大雨となるなど異常気象が続いた。前年のタンボラ山の大爆発による噴出物で日光が遮られたことによる「ヴォルカニック・ウィンター」と考えられる。大規模な火山の噴火はこの頃世界中で頻発しており、さらに太陽の活動縮小期(1790年から1830年まで続いたダルトン極小期)でもあったため、タンボラ山の噴火だけではないとも言われる。また異常気象は1810年ころからという説もある。 |
1817年 |
4月12日 | フランスの天文学者シャルル・メシエが死去。メシエ天体カタログを作った人物。 |
5月 8日 | ボタンの木協定、New York Stock & Exchange Board に改称。現在のニューヨーク証券取引所スタート。 |
12月29日(文化14年11月22日) | 八王子周辺に隕石多数が落下。金剛院のそばに90cmほどの大きな隕石が落ちたという。東から飛来し多摩川上空付近で爆発して破片が降り注いだものと考えられる。隕石のその後の行方ははっきりしない。 |
| この年も北半球各地で低温現象が起こった。 |
1818年 |
1月 1日 | メアリー・シェリー作のゴシック・ホラー『フランケンシュタイン』出版。 |
1819年 |
8月16日 | ピータールーの虐殺。イギリスの都市マンチェスターで不況と失業に不満を持つ6万人の民衆が集会を開くが、政府が武力弾圧を行う。11人が死亡し600人以上が負傷。集会がセント・ピーター教会前の広場で行われたことから、ワーテルロー(ウォータールー)の戦いになぞらえて、ピータールーの虐殺と呼ばれた。 |
2月22日 | スペインとアメリカ合衆国はアダムズ=オニス条約で合意し、フロリダをアメリカ合衆国領とする替わりに、アメリカ合衆国はテキサスからカリフォルニアにかけての領有権主張を取り下げる。 |
1820年 |
1月28日 | ロシアの世界周航遠征隊のベリングスハウゼンとラザレフらが南極大陸を発見する。 |
1月 | アメリカの黒人解放・祖国再建運動の一環としてリベリア建国運動が行われる。 |
4月 8日 | エーゲ海のメロス島の農夫ヨルゴスが『ミロのヴィーナス』像を発見。 |
5月12日 | ナイチンゲールの生誕日。 |
1821年 |
3月25日 | アレクサンドロス・イプシランディス率いる、オスマン帝国のギリシャ独立運動組織フィリキ・エテリアが武装蜂起。各国や住民の協力が得られず反乱は失敗し、のちにイプシランディスは逮捕されるが、影響を受けたギリシャ各地で反乱が続発し、ギリシャ独立へとつながる。3月25日はギリシャ独立記念日。 |
5月 5日 | 元のフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが、南大西洋の孤島セントヘレナ島で死去。胃がん説およびヒ素中毒による病死説、医療ミスによる急死説も有力だが、暗殺かどうかは議論が分かれる。 |
5月24日(文政4年 4月23日) | 相馬大作事件。相馬大作こと盛岡藩士下斗米秀之進らが、弘前藩主津軽寧親を暗殺しようとして失敗した事件。ともに南部一族から出ている盛岡藩主南部氏と、弘前藩主津軽氏との軋轢が背景にあった事件。 |
6月24日 | カラボボの戦い。シモン・ボリバル率いる独立革命軍とスペイン軍が衝突し、革命軍が勝利して、南米諸国のスペインからの独立につながっていく戦い。 |
8月 7日(文政4年 7月10日) | 伊能忠敬らが測量し高橋景保らが製作した大日本沿海輿地全図が完成。 |
1822年 |
| ジャン=フランソワ・シャンポリオンがロゼッタストーンのヒエログリフ解読に成功する。 |
| アメリカの解放奴隷らによって、西アフリカに最初のリベリア移住区が建設される。 |
1823年 |
5月16日(文政6年 4月 6日) | 大田蜀山人死去。三大狂歌作者の一人。 |
6月 1日(文政6年 4月22日) | 千代田の刃傷事件が起こる。イジメが原因で起こった旗本同士による殺傷事件。 |
1824年 |
5月 7日 | ベートーベンの交響曲第9番がウイーンのケルントネル門劇場で初演される。ベートーベン本人はすでに聴力を失っていたため、ミヒャエル・ウムラウフが正指揮者としてともに式台に立った。演奏後、聴衆の拍手が聞こえていなかったベートーベンを、アルト歌手のカロリーネ・ウンガーが向きを変えて示した、というエピソードがある。 |
6月24日(文政7年 5月28日) | 水戸藩領の常陸大津浜に英国船数隻が現れイギリス人船員12名が上陸。水戸藩に捕らえられる。尋問の結果、水と食料を求めていることがわかり、提供の上で船員も釈放し船に帰す。この対応を巡って論争になり、翌年の異国船打払令に繋がったと言われる。 |
8月(文政7年 8月) | 薩摩領の宝島に英国船が現れ、イギリス人船員が上陸して牛を要求したため島民がこれを拒否すると、兵が多数上陸して牛3頭を奪い逃走。薩摩在番兵との間で紛争となり、イギリス兵1名が死亡。大津浜事件とともに翌年の異国船打払令に繋がったと言われる。 |
1825年 |
4月 6日(文政8年 2月18日) | 異国船打払令が出される。 |
9月 8日(文政8年 7月26日) | 四代目鶴屋南北作の歌舞伎演目、「東海道四谷怪談」が江戸・中村座で初演。 |
10月 9日 | ノルウェーからアメリカへ最初に組織的に移住した人々の乗った船がニューヨークに到着。ヨーロッパ人で最初に北米へ到達したバイキングのレイフ・エリクソンの日として記念している。 |
12月26日(ロシア歴12月14日) | サンクトペテルブルクでデカブリストの乱が起こる。政治改革を訴えた青年貴族らの秘密結社が、皇帝代替わりの混乱に乗じて起こした反乱。即位したばかりのニコライ1世によって、翌日鎮圧される。 |
1826年 |
7月 4日 | アメリカ独立宣言書の作成に携わったトーマス・ジェファーソンとジョン・アダムスが、ともに独立50周年記念のこの日に亡くなる。 |
1827年 |
4月30日(文政10年 4月 5日) | 淡路出身の廻船問屋で、蝦夷交易で財を成し、ゴローニン事件で拿捕され、ロシア外交を仲介した高田屋嘉兵衛が亡くなる。 |
1828年 |
1月13日(文政10年11月27日) | のちの東大赤門が建立される。加賀前田氏の第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に、藩邸に作った御守殿門。 |
2月10日 | ロシア帝国とガージャール朝との間で、トルコマーンチャーイ条約が締結され、ガージャール朝は、アルメニアと、アラス川以北の北アーザルバーイジャーン(1813年に失ったアゼルバイジャンの南側)を失う。 |
9月18日(文政11年 8月10日) | シーボルト事件。長崎出島のオランダ商館づきの医師だったシーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが発覚し、学者らが取締を受けた事件。 |
1829年 |
9月29日 | イギリスの首都警察スコットランドヤードが発足。初代庁舎が置かれた場所、ホワイトホールにあったスコットランドヤード広場から、スコットランドヤードと呼ばれる。 |
1830年 |
7月27日 | フランス7月革命勃発。王政復古後の旧態依然とした政策に対する市民の不満が爆発して蜂起。 |
7月29日 | フランス7月革命で、革命勢力が王宮を占拠。内閣は総辞職。 |
7月31日 | フランス7月革命で、アメリカ独立戦争の英雄として人気のあったラファイエット侯爵が国民軍司令官となり、オルレアン家のルイ・フィリップとともに収拾に動き出す。 |
8月 2日 | フランス国王シャルル10世は退位しオーストリアへ亡命。立憲君主制としてルイ・フィリップが国王に即位。 |
8月25日 | ベルギー独立革命勃発。当時オランダ(ネーデルラント連合王国)の支配下にあった南ネーデルラントのブリュッセルで、フランス7月革命の影響を受けた人々が、革命を題材にした人気オペラ「ポルティチの唖娘」鑑賞後に暴動を起こす。 |
9月15日 | イギリスで世界初の鉄道リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業。当日、参列した政治家が轢かれて死亡する世界最初の鉄道事故も起こる。 |
9月23日 | オランダ王国軍が、ブリュッセルの反乱鎮圧のために出動するが失敗に終わる。王国軍に地元出身の兵士が多くいたため、彼らが逃亡したことによる。 |
9月26日 | ブリュッセルに臨時政府が樹立する。 |
10月 4日 | ベルギーの独立宣言。 |
11月29日 | ポーランドの士官学校生徒ら武装蜂起。ワルシャワのベルヴェデル宮殿と武器庫を襲う。11月蜂起。総督のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公は脱出。 |
12月 3日 | ポーランド革命を図る急進派モフナツキらが愛国協会を組織。ロシアと穏便に解決を図ろうとするポーランド行政評議会を批判し臨時政府樹立を主張。 |
12月 5日 | ポーランド議会(セイム)が、ユゼフ・フウォピツキを臨時政府独裁官に任命。 |
12月13日 | ポーランド議会(セイム)が、「市民蜂起」を宣言。 |
12月20日 | ヨーロッパ列強各国はベルギー独立を容認。オランダはこれに反発。 |
1831年 |
1月 8日 | ロシアとの交渉が失敗に終わり、フウォピツキがポーランド臨時政府独裁官を辞任。 |
1月25日 | ポーランド議会(セイム)は、ポーランド王ニコライ1世(ロシア皇帝)の廃位を決議。ロシアとの同君連合を解消する。 |
1月29日 | ポーランド国民政府樹立。ロシア帝国首席大臣や外相も勤めたポーランド貴族チャルトリスキ公が政府首班に就く。間もなくロシア軍がポーランドへ向けて侵攻を開始し、ロシア・ポーランド戦争勃発。 |
2月14日 | ストチェクの戦い(ロシア・ポーランド戦争)。ポーランド軍はかろうじてロシア軍を撃退する。しかし以後もロシア軍は攻勢を強め、列強各国もポーランド独立には消極的な対応に終始。 |
2月25日 | ベルギー王に推された、ルイ・フィリップの息子ヌムール公ルイが拒否したため、一旦、シュルレ・ド・ショキエ男爵がベルギー摂政となる。 |
2月14日 | オルシンカ・グロホフスカの戦い(ロシア・ポーランド戦争)。ポーランド軍はワルシャワを防衛。 |
7月21日 | 初代ベルギー王としてザクセン=コーブルグ=ゴータ家出身のレオポルドが就く(後の英女王ヴィクトリアの叔父)。 |
8月 2日 | オラニエ公ヴィレム率いるオランダ軍がベルギーに侵攻。十日間戦争が勃発。 |
8月 4日 | オランダ軍がアントウェルペンを占領。 |
8月12日 | オランダ軍が撤退。フランスとの関係悪化を避けるためなどの理由による。事実上のベルギーの敗北に終わる。 |
8月21日 | バージニア州でナット・ターナーの反乱が起きる。50名ほどの黒人が加わり、57人の白人男女を殺害。まもなく民兵によって鎮圧される。 |
10月 5日 | ポーランド軍の残党兵力2万が、プロイセン側で降伏。ロシア・ポーランド戦争はほぼ終結し、11月蜂起から続いたポーランド独立への動きは失敗に終わる。多数のポーランド人がフランスなどへ亡命。チャルトリスキやユゼフ・ベム将軍などはその後も外国で独立運動を続けた。列強各国政府はポーランド独立に冷淡だったが、各国一般市民の間では支持する動きが大きかったと言われる。 |
10月30日 | ナット・ターナーが捕らえられる。 |
11月 5日 | ナット・ターナーに死刑判決がくだされる。 |
11月11日 | ナット・ターナーが絞首刑に処せられ、遺体は皮を剥がされバラバラにされる。この他に、反乱に関わったとして、55名の黒人が処刑され、無関係の黒人およそ200名も白人によるリンチなどで殺害されたと言われる。 |
12月27日 | チャールズ・ダーウィンを乗せたビーグル号がポーツマスを出港。ビーグル号としては2回めの航海となる。 |
1832年 |
9月13日(天保3年 8月19日) | 大名屋敷・武家屋敷専門の盗賊、鼠小僧次郎吉が、市中引き回しの上、獄門にかけられる。次郎吉は派手に着飾って刑場へ連れていかれた。 |
10月(天保3年 9月) | 富士講の一派「不二孝」の指導者小谷三志が、女性信者の高山たつを連れて富士山頂へ登る。基本的には女人禁制だったため、女性が富士山頂まで登った記録では最初の例。 |
1833年 |
| アフリカ西岸の解放奴隷による移住区がリベリアを中心に連邦になる。 |
1834年 |
4月 9日(天保5年 3月 1日) | 水野忠邦が老中に就任。天保の改革がはじまる。 |
1835年 |
9月15日 | チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島チャタム島に到着する。 |
10月 2日 | メキシコ合衆国のコアウイラ・イ・テハス州(現アメリカ合衆国テキサス州)ゴンザレスでメキシコ政府が入植地に配備されていた大砲を回収しようとしたことに住民が反発し、軍と戦闘となる。ゴンザレスの戦い。戦闘は小規模だったがテキサス革命の最初の戦闘となる。 |
1836年 |
2月23日 | テキサス反乱軍とメキシコとのアラモの砦の戦いがはじまる。 |
2月25日 | サミュエル・コルトがリボルバー式拳銃の特許を取得。 |
3月 2日 | テキサスの住民が独立宣言。 |
3月 6日 | アラモの砦が陥落する。英雄デイヴィッド(デイヴィー)・クロケットも処刑される。 |
4月21日 | サンジャシントの戦い。テキサス軍がメキシコ軍を奇襲し勝利。メキシコ軍を率いていたメキシコ大統領サンタ・アナは捕らえられる。 |
5月14日 | テキサス共和国政府と捕虜となっていたメキシコ大統領サンタ・アナの間でベラスコ条約が締結されテキサス共和国は独立。ただしサンタ・アナ個人との間のこととして、メキシコ政府は認めず。 |
1837年 |
3月25日(天保8年2月19日) | 大坂で大塩平八郎の乱が起こる。天保の大飢饉の影響と幕府の腐敗による米価高騰を受けて決起した事件。天満一帯を焼失する被害を出し、幕府軍に鎮圧される。 |
5月 1日(天保8年3月27日) | 大坂船場の商家美吉屋五郎兵衛宅に潜伏していた大塩平八郎の所在が通報され、養子の格之助と共に火薬で火を放ち自決。 |
7月30日(天保8年6月28日) | モリソン号事件。中国にいた独立宣教師カール・ギュツラフが、日本に関心を示し、各地で保護された日本人漂流民7人(音吉・岩吉・久吉・庄造・寿三郎・熊太郎・力松)を日本に送り届けることで日本入国を企図。日本との通商を考えていたアメリカ商人チャールズ・W・キングの協力を得て、アメリカ船モリソン号で浦賀に接近するが、沿岸より砲撃を受け退去した。その後モリソン号は薩摩山川に寄港し、薩摩藩家老島津久風と交渉するも、漂流民はオランダ船に乗せ換えて帰国させるという当時の対応策により交渉は成らず、モリソン号はマカオに帰港した。この事件が後に蛮社の獄に発展する。 |
1838年 |
1月 6日 | モールス、ヴェイル、ガレが電信の実験に成功。 |
12月 1日(天保9年10月15日) | 尚歯会(学者らの会)の集まりの席上で、幕府のモリソン号に対する方策案が示される。実際には幕府の評議で却下された「漂流民は受け取らず、船は打ち払う」という内容のみだったため会員らの反発を買う。 |
1839年 |
4月19日 | オランダを含めたヨーロッパ列強がロンドン条約に調印し、ようやくベルギー独立が正式に認められる。なおこの際に、ルクセンブルク大公国領とリンブルフ公国領は、ベルギーとオランダで半分ずつに分けられた。 |
6月24日(天保10年 5月14日) | 鳥居耀蔵が、渡辺崋山らに出頭を命じ、蛮社の獄が起こる。尚歯会メンバーによるモリソン号についての幕政批判や無人島渡航計画を問題にして行われた蘭学の弾圧とされているが、異説もある。 |
7月 2日 | アミスタッド号事件。スペインの奴隷船アミスタッド号で、輸送途中だったアフリカ人奴隷53名が反乱を起こす。しかし船員が彼らを騙して進路をアメリカへ向ける。 |
8月26日 | 補給のためにアメリカ東海岸に停泊したことから、アミスタッド号の反乱が明らかになる。アフリカ人は拘束される。 |
1840年 |
1月17日 | メキシコの北東に位置するコアウイラ、ヌエボレオン、タマウリパスの各州がメキシコから独立を宣言。リオグランデ共和国とし、ラレドに首都を置いて、ヘスス・デ・カルデナスが大統領に就任する。 |
2月 6日 | イギリスがニュージーランドのマオリ族とワイタンギ条約を締結し、同地の土地収奪をはじめる。 |
3月24日 | メキシコ軍とリオグランデ軍がモレロスで戦闘し、リオグランデ軍が敗北。アントニオ・サパタ大佐らリオグランデ共和国軍の指揮官らが処刑される。アントニオ・カナレス・ロシリョ司令官はテキサス共和国へ敗走。同地で兵を募る。 |
11月 6日 | メキシコ政府とリオグランデ軍の司令官アントニオ・カナレス・ロシリョが妥協し、カナレスがメキシコ側に降伏して、リオグランデ共和国は消滅。 |
| ハワイ王国に憲法が制定され、立憲君主制に移行する。 |
1841年 |
3月 9日 | アミスタッド号事件を起こしたアフリカ人が、奴隷貿易は非合法であること、アフリカで拉致されたことを理由に、解放されることが最高裁で確定。 |
| この年、りゅうこつ座η星が擬似的超新星爆発を起こしたときの光が地球で観測される。この時出たガスは現在人形星雲となっている。 |
1842年 |
5月 5日 | ハンブルク大火。8日まで延焼が続き、市街地の4分の1が焼失。教会3つを含む1700棟が失われた。死者は51名。一方で都市が近代化するきっかけともなった。 |
| アミスタッド号事件を起こしたアフリカ人が、支援者の資金でアフリカへ帰郷する。 |
1843年 |
5月16日(天保14年4月17日) | 江戸の二大花火師である玉屋から失火。周囲の半町を焼失する。玉屋は闕所(財産没収)、主人の市兵衛は江戸お構い(江戸追放)となり、一代で家名断絶となる。 |
1844年 |
8月13日(弘化元年6月30日) | 江戸伝馬町牢屋敷で火災が起き、蛮社の獄で永牢処分を受けて入獄していた高野長英が脱獄。その後、戻らず逃亡を続ける(火災による出獄は期日までに戻れば罪一等を減じられるが戻らなければ死罪となる)。なおこの火災も長英が放火させたという説がある。 |
1845年 |
2月28日 | 米国議会が、米国がテキサス共和国を併合する法案を可決。 |
4月18日(弘化2年3月12日) | アメリカの捕鯨船マンハッタン号が、小笠原諸島で救助した日本人漂流船員22人を乗せて浦賀に到着。4日間滞在した後出港。 |
12月29日 | アメリカ合衆国が、テキサス共和国を併合。テキサス州が成立する。米墨戦争のきっかけとなる。テキサス政府が抱えていた借金の肩代わりに、現在のコロラド州、カンザス州、オクラホマ州、ニューメキシコ州、ワイオミング州にまたがる広大な地域がアメリカ政府へ割譲される。 |
1846年 |
4月25日 | 米墨戦争が始まる。 |
6月15日 | イギリスとアメリカの間で、英領カナダとアメリカの国境問題を解決するオレゴン条約を締結。ただし大陸とバンクーバー島の間の諸島は曖昧のままに。 |
8月10日 | イギリス人の鉱物学研究者だったジェームズ・スミソンが、「知識の向上と普及」にとアメリカ政府に寄付した遺産で、スミソニアン博物館が設立される。 |
9月23日 | ベルリン天文台のヨハン・ガレとハインリッヒ・ダレストが、ユルバン・ルヴェリエの天王星の軌道の変化をもとに計算した結果に基づいて観測し、海王星を発見。太陽系の惑星で唯一、計算の結果に基づいた観測で発見された惑星。 |
10月10日 | イギリスの天文学者ウィリアム・ラッセルが、発見されたばかりの海王星の衛星トリトンを発見。直径2710kmと、海王星の衛星系では極端に巨大で、海王星の自転とは逆行する公転軌道を持つ特異な天体。 |
| ネパール王国の宰相ジャング・バハドゥールのクーデターにより、シャー王家は傀儡と化し、以後はラナ家が支配。 |
| インド北方のカシミール地方をめぐるチベット仏教系ラダック王国とイスラム教系カシミール諸侯との争いにイギリスが介入し、ジャンムー・カシミール藩王国が成立する。 |
1847年 |
3月 | 京都に公家の教育機関が設立される。平安時代の大学寮を模したもので、のちの学習院大学の原点。 |
5月 8日(弘化4年 3月24日) | 善光寺地震。松代藩、松本藩、飯山藩の領地で死者8600人以上。家屋全壊21000軒、焼失家屋3400軒に上る。 |
7月26日 | アメリカ合衆国の解放奴隷によって建国したアフリカ西岸の国リベリアが憲法を制定しアメリカから独立。 |
11月 4日 | スイスで分離同盟戦争が勃発。「スイス盟約者団(誓約者同盟)」を構成するカントン(自治州)のうちカトリック系保守派の「分離同盟」と、それ以外の自由主義的なカントンとが争った内戦。 |
11月29日 | スイスの分離同盟戦争が終結。「分離同盟」は敗北。憲法制定へと動き出す。翌年ヨーロッパで吹き荒れる1848年革命の端緒とも言われる。 |
1848年 |
2月 2日 | アメリカとメキシコでグアダルーペ・イダルゴ条約締結。米墨戦争が終結し、アメリカは1500万ドルと債務帳消しを条件に、カリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを併合し、さきに併合したテキサスの権利をメキシコに認めさせる。 |
2月21日 | 『共産党宣言』が出版される。社会主義秘密結社の正義者同盟から国際的運動のために依頼されて、マルクスが体系的にまとめた宣言文。 |
6月27日(嘉永元年 5月27日) | 日本に強い関心を持っていたカナダ人ラナルド・マクドナルドが焼尻島に上陸。 |
9月12日 | スイス連邦憲法が成立。前年に起きたカントン(自治州)同士の内戦の結果を受けて、盟約者団を発展させたカントンによる連合政府が成立。スイス連邦となる。 |
9月16日 | ウィリアム・クランチ・ボンドと息子のジョージ・フィリップス・ボンドが土星の衛星ヒペリオンを発見する。360km×205kmの非球形で、表面が空孔だらけでスポンジのような異様な姿をした衛星。 |
1849年 |
1月13日(嘉永元年12月19日) | 薩摩藩家老調所広郷が江戸芝の薩摩藩邸で急死。薩摩藩の琉球を介した密貿易の件で老中阿部正弘の聴取を受けた直後であったため、藩主斉興をかばうため服毒自殺したものと言われる。 |
4月18日(嘉永2年 3月26日) | 米国軍艦プレブル号長崎に来航。幕府へ漂流民の受け取りを求め、日本に滞在していたラナルド・マクドナルドを乗せて出港する。 |
4月26日(嘉永2年 4月 4日) | 米国軍艦プレブル号が、日本に滞在していたラナルド・マクドナルドを乗せて出港する。 |
1850年 |
1月15日(嘉永2年12月 3日) | 薩摩藩でお由羅騒動が勃発。この日、町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門の3名が突如解任され切腹に追い込まれる。島津久光とその母お由羅、久光派の重臣らに対する暗殺謀議の嫌疑により。以後、島津家世子斉彬派と見られた家臣50名以上が相次いで処罰される。 |
3月19日 | ヘンリー・ウェルズ、ウィリアム・ファーゴ、ジョン・バターフィールドの3人が、荷馬車宅配業としてアメリカン・エキスプレスを設立。現在はクレジットカードやトラベラーズ・チェックが主な業務。 |
6月13日(嘉永3年 5月 4日) | 陸奥国気仙郡(現在の陸前高田市気仙町丑沢)にある長圓寺前の畑に隕石が落下。通称気仙隕石。陸前高田市気仙町で行われている二日市虎舞は、この隕石がきっかけで始まった厄除けの芸能行事。 |
8月28日 | ワーグナーのオペラ『ローエングリン』がヴァイマル宮廷劇場で初演。 |
12月 3日(嘉永3年10月30日) | 高野長英が、潜伏先の江戸青山百人町で捕り方に襲撃され殺害される。 |
1851年 |
1月11日 | 洪秀全の組織した拝上帝会が、拠点の広西省桂平県金田村で太平天国を称して挙兵する。 |
2月 3日(嘉永4年 1月 3日) | 出漁中に遭難し漂流後に米国の捕鯨船に拾われてアメリカで暮らしていたジョン万次郎が帰国。 |
3月 4日(嘉永4年 2月 2日) | 薩摩藩主島津斉興が将軍徳川家慶から茶器を下され藩主の座を降りる(茶器の下賜は引退勧告)。斉興が嫡子斉彬への家督相続を拒絶し、お由羅騒動にまで発展したことを受け、島津家出身の筑前藩主黒田長溥と八戸藩主南部信順兄弟が、老中阿部正弘に働きかけた結果と言われる。島津斉彬が薩摩藩主の座に付く。 |
5月 1日 | 世界最初の万国博覧会であるロンドン万国博覧会開催。メイン会場の建物の名前から「水晶宮博覧会」とも呼ばれる。10月15日まで。 |
8月22日 | 万国博覧会に合わせて、ロイヤル・ヨット・スコードロン主催によるワイト島一周ヨットレースが開催される。出場したニューヨークヨットクラブのスクーナー「アメリカ号」が優勝して優勝カップ「RYS£100カップ」を授与されたため、大会名が優勝艇の名をとって「アメリカズカップ」と呼ばれるようになった。 |
11月20日 | のちのイタリア王妃で、ピザ・マルゲリータの名前のもととなった、マルゲリータ・マリーア・テレーザ・ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァが生誕する。 |
1852年 |
3月18日 | アメリカンエキスプレスを創設したヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴが、金融会社ウェルズ・ファーゴを設立。 |
9月24日 | フランスの技術者バティスト・ジャック・アンリ・ジファールが、蒸気エンジンで動くプロペラの付いた飛行船の初飛行に成功。人類史で判明している初の動力飛行。 |
11月24日 | ペリーが、蒸気船ミシシッピ号に乗ってノーフォーク港を出港。極東へ向かう。 |
11月27日 | 数学者で世界最初のプログラマと呼ばれることもある女性エイダ・ラブレスが死去。 |
12月 2日 | フランス大統領ルイ・ナポレオンが、国民投票の結果を受けて皇帝に即位。ナポレオン3世となる。フランス第二帝政。 |
1853年 |
5月23日(嘉永6年 4月16日) | ペリー率いるアメリカ艦隊が、琉球王国に来航。開国を求めたあと、小笠原へ向かう。 |
6月23日(嘉永6年 5月17日) | 小笠原を探検していたペリー率いるアメリカ艦隊が、再度琉球に来航。 |
7月 2日(嘉永6年 5月26日) | ペリー率いるアメリカ艦隊が、日本に向けて琉球を出港。 |
7月 8日(嘉永6年 6月 3日) | 黒船来航。ペリー率いるアメリカの蒸気船ミシシッピ号、蒸気船サスケハナ号、帆船プリマス号、サラトガ号の4隻が浦賀に現われる。幕府はオランダからの情報で来航を知っており、庶民にも通知していたため、大きな混乱は起こらず。多くの人が海岸まで見学に行ったと言われる。 |
7月17日(嘉永6年 6月12日) | 幕府に親書を渡したペリー一行が、日本を離れる。 |
7月26日(嘉永6年 6月21日) | 宮津藩藩主松平宗秀が、幕府の許可を得られなかったため、密かに富士山頂まで登る。 |
7月27日(嘉永6年 6月22日) | 12代将軍徳川家慶が死去。61歳。 |
8月 5日(嘉永6年 7月 1日) | ペリー来航を受けて、老中阿部正弘が大名・幕臣・庶民らに広く意見を求める。 |
| イングランドの貴族政治家で、科学者でもあったジョージ・ケイリーが、単葉グライダーの飛行に成功する。操縦者については、孫のジョージ・ジョン説、ケイリー家の執事説、使用人説など諸説ある。ケイリーは固定翼機の概念を考えた人物。それまで研究されていた飛行装置はオーニソプター(羽ばたき式飛行機)が主流だった。 |
1854年 |
3月28日 | オスマン帝国の権益をめぐって、イギリスとフランスが、ロシア帝国に宣戦布告。クリミア戦争が始まる。 |
7月 9日(嘉永7年 6月15日) | 伊賀上野地震(安政伊賀地震)。6月13日に最初の小規模の地震があり、この日伊賀と伊勢で大きな揺れを観測。伊賀上野城と城下が大きな被害を受け、死者995人のうち625人は伊賀上野一帯で死亡した。 |
12月23日(嘉永7年11月 4日) | 安政東海地震。マグニチュード8.4。激しい揺れと大津波により、東海道一帯で甚大な被害を出す。駿府の萩原四郎兵衛の記録によれば、地震のあと、富士山から煙と火が見えたという。小規模の噴火か、地震による大規模な土砂崩れが発生した可能性もある。 |
12月24日(嘉永7年11月 5日) | 安政南海地震。マグニチュード8.4。安政東海地震のわずか32時間後に起こる。大坂湾岸や土佐などで甚大な被害を出す。なお安政東海・安政南海地震は、正確には嘉永7年に発生しており、この地震災害を受けて安政に災異改元が行われた。 |
12月26日(嘉永7年11月 7日) | 豊予海峡地震。マグニチュード7.4。安政南海地震のわずか40時間後に起こる。豊後や伊予で大きな被害が出たと思われるが、南海地震との記録上の区別ができないため、詳細は不明。 |
1855年 |
1月15日(嘉永7年11月27日) | 内裏炎上、大地震、黒船来航など異変が相次いだことから、安政に改元。なお、この日より前の一連の大地震にも安政の名が付いているが、正確には嘉永年間に起きたもの。伊賀上野地震から飛越地震までの各地震を安政大地震と総称する場合もある。 |
1月28日 | パナマ地峡鉄道が開業。大西洋岸の港町コロンと太平洋岸の首都パナマシティを結ぶ。パナマシティからカリフォルニアへ船が出ていたため、アメリカ国内の横断鉄道とパナマ運河ができるまでの間、北米太平洋岸を目指す人々の主要な交通ルートになった。 |
3月18日(安政2年 2月 1日) | 飛騨地震。白川郷一帯で山崩れが多発。 |
11月11日(安政2年10月 2日) | 安政江戸地震。江戸直下を震源とするマグニチュード6.9の大地震で、江戸を中心に死者4000人~7000人を出したと言われる。 |
| この年、黄河が大氾濫を起こし、河道が北側へと大きく変遷して済水と合流。1128年の人為的洪水以来700年ぶりに渤海へと流れ込むようになる。 |
1856年 |
8月23日(安政3年7月23日) | 安政八戸沖地震。東北北部から北海道で強い揺れと大津波が襲来。 |
10月 8日 | 清の官憲がアロー号を臨検し、海賊容疑で乗員3人を逮捕。フランスとイギリスが反発。 |
1857年 |
1月13日(安政3年12月18日) | 徳川家定と島津篤子が婚儀をあげる。 |
8月(安政4年) | 土佐藩士山本琢磨が酔った勢いで拾った金時計を売り払ったことが問題になり、親戚である坂本龍馬、武市半平太の助けで逃亡。のち箱館で沢辺家の養子となり沢辺琢磨と改名。 |
9月17日 | 帝政ロシアに、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーが誕生。のちに帝政ロシアおよびソビエト連邦の科学者、ロケット研究者となった人物。現代ロケット工学の草分け的存在。 |
12月 7日(安政4年10月21日) | アメリカの駐日本総領事タウンゼント・ハリスが江戸城に登城し、アメリカの国書を提出。 |
12月29日 | アロー号事件をめぐってフランスとイギリスが侵攻。広州を占領する。アロー戦争。アメリカ、ロシアも乗り出す。 |
(安政4年) | この年、箱館奉行村垣範正の訴えを受け、桑田立斎らが蝦夷地でアイヌに対し大規模な種痘を実施。当時蝦夷地では天然痘が広がっており、多くの犠牲者が出ていた。幕府による公式の種痘の実施はこれが初めてで、国内でもまださほど行われていない。 |
| この年、フランス人エドワール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルが、音の振幅を紙の上に書き写す装置フォノトグラフを発明。音を目に見える形に記録するためのもので、再生はできなかったが、録音機としては世界最古となる。 |
1858年 |
1月14日 | オルシーニ事件。イタリア統一運動を支持していたフランス皇帝ナポレオン3世が態度を変えたと見て失望した運動のメンバーオルシーニ伯爵が、パリのオペラ座に来たナポレオン3世夫妻を爆弾で暗殺しようとした事件。ナポレオン3世夫妻は軽傷で済んだが、付近にいた18人が死亡、150人が負傷した。ただオルシーニは、裁判でナポレオン3世の統一運動への支持を求め、ナポレオン3世も、イタリアへの影響力を強めるため、統一運動の支持を続けることになった。 |
1月15日(安政4年12月 1日) | 南部藩の大島高任が、日本で初めて高炉による連続した製鉄に成功する。鉄の記念日。 |
1月25日(安政4年12月11日) | 日米間で通商条約交渉が始まる。 |
4月 9日(安政5年 2月26日) | 飛越地震(安政飛越地震)。ひだと越中で大きな揺れを観測し死者426人。立山連峰の鳶山が崩壊し、その土砂が常願寺川をせき止める。 |
4月23日(安政5年 3月10日) | 飛越地震の余震で常願寺川が決壊。大量の土砂が下流域に流れる。 |
4月25日(安政5年 3月12日) | 廷臣八十八卿列参事件。関白九条尚忠が朝廷に日米修好通商条約の議案を提出。これに対し反対する公家88人と、地下官人97人が条約撤回を求める。孝明天皇が幕府に対し反対を示し、これが安政の大獄の一因になった。 |
5月 3日(安政5年 3月20日) | 孝明天皇、通商条約締結の勅許を拒否。 |
6月 4日(安政5年 4月23日) | 彦根藩主井伊直弼、大老に就任。 |
6月 8日(安政5年 4月26日) | 大町地震。飛越地震の影響によるものとみられ、常願寺川が再び決壊。一度目の決壊後の修復工事中に発生し、多数の死者を出す。 |
6月13日 | アロー戦争をめぐって、清とロシアが天津条約を締結。 |
6月18日 | 清とアメリカが天津条約を締結。 |
6月26日 | 清とイギリスが天津条約を締結。 |
6月27日 | 清とフランスが天津条約を締結。 |
7月29日(安政5年 6月19日) | 日米修好通商条約が神奈川沖の米艦ポーハタン号で締結される。大老井伊直弼は条約調印に消極的だったが、老中の堀田正睦、松平忠固ら幕閣の大勢は調印積極派で、交渉担当の井上清直・岩瀬忠震らが井伊直弼の意向を無視して調印に踏み切ったと言われる。 |
8月 2日(安政5年 6月23日) | 老中の堀田正睦、松平忠固が罷免される。安政の大獄の始まり。一般に開国を推進し将軍継嗣問題で南紀派だった井伊直弼が、攘夷派で将軍継嗣に一橋慶喜を推す派を弾圧したとされるが、直弼は開国には消極的で、幕政に絡む権力闘争が発端でもあり、積極開国派の幕閣が真っ先に処分されている。 |
8月 3日 | アフリカ最大で、世界第3位の湖であるヴィクトリア湖がイギリスの探険家ジョン・ハニング・スピークによって「発見」される。白ナイル川の源流と判明。 |
8月13日(安政5年 7月 5日) | 水戸前藩主徳川家斉、越前藩主松平慶永、尾張藩主徳川慶恕、一橋慶喜らが、勅許無しの条約調印に関して井伊直弼を詰問する不時登城を咎められて謹慎処分となる。 |
8月16日(安政5年 7月 8日) | 薩摩藩主島津斉彬が軍事調練中に倒れる。 |
8月17日(安政5年 7月 9日) | 日蘭修好通商条約が締結される。 |
8月19日(安政5年 7月11日) | 日露修好通商条約が締結される。 |
8月24日(安政5年 7月16日) | 島津斉彬死去。コレラによる病死説が有力だが、当時から暗殺説があった。 |
8月26日(安政5年 7月18日) | 日英修好通商条約が締結される。 |
10月 9日(安政5年 9月 3日) | 日仏修好通商条約が締結される。 |
10月27日 | アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの誕生日「テディベアズ・デー」。 |
12月20日(安政5年11月16日) | 西郷隆盛と月照が入水自殺を図る。安政の大獄で幕府に追われた月照を薩摩藩が庇護せず東目(日向)送り(処刑を意味する)と決めたため。西郷は平野国臣らに助け出されるが月照は死亡。 |
| ニュージーランドのマオリ族が、イギリスの土地収奪に反発し、対抗するため、ワイカト族の首長ポタタウ・テ・フェロフェロをマオリ王に選出。 |
1859年 |
1月13日(安政5年12月28日) | 薩摩藩主に島津忠教(久光)の子で、先代斉彬の甥に当たる忠徳(後の島津忠義)が就任。後見人として島津久光がつくが、実質は祖父の島津斉興が復権した。 |
2月 6日(安政6年 1月 4日) | 薩摩藩は、幕府に追われている西郷隆盛を隠すため奄美送りとし、この日山川港から出帆する。 |
2月14日(安政6年 1月12日) | 西郷隆盛、奄美大島へ到着。奄美の在地領主である龍家の庇護を受ける。この頃、奄美に流罪になっていた若き日の重野安繹(明治期の歴史学の第一人者)と知り合う。 |
6月15日 | アメリカと英領カナダの間で、ブタ戦争(サンフアン諸島国境紛争)が起こる。帰属が曖昧だったサンフアン島で一頭のブタが射殺されたことがきっかけで起こった国境紛争。軍隊同士がにらみ合うも、人間の犠牲者はなし。 |
6月17日 | フランスとイギリスの艦隊が、天津条約の批准を求めて天津まで北上。清側と軍事衝突に発展。 |
7月 1日(安政6年 6月 2日) | 安政五ヶ国条約により神奈川が開港する。実際には神奈川ではなく横浜となったため、各国から抗議を受けるが、これが現在の横浜港の始まり。 |
9月 1日 | 大規模な太陽フレアが発生。翌日にかけて大量の電磁波、放射線、放出物質が地球に到達、地球の磁気圏、電離層に衝突し、比較的低緯度地方でも激しいオーロラが観測され、昼間のように明るくなったという。デリンジャー現象や磁気嵐も観測され、送電線や電信装置の故障も相次いだ。イギリスの天文学者リチャード・キャリントンの観測で知られることから、キャリントンのスーパーフレアとも呼ばれる。 |
9月17日 | ジョシュア・エイブラハム・ノートンが「アメリカ皇帝」への就任を宣言。 |
9月19日(安政6年 8月23日) | イギリスの貿易商トーマス・ブレーク・グラバーが長崎・大浦に、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店としてグラバー商会を設立。 |
10月 7日(安政6年 9月12日) | 島津斉興が死去。薩摩藩の実権は藩主忠義の父親で、斉興の子である島津久光が握る。 |
10月 7日 | 北京を占領したフランス軍が、離宮円明園へに入り略奪の限りを尽くす。 |
10月 9日(安政6年 9月14日) | 上田藩主で元老中の松平忠固が急死。暗殺説もある。開国貿易を積極的に推進した人物。 |
10月18日 | 北京を占領したイギリス軍が、捕虜殺害の報復として離宮円明園に放火。廃墟と化す。 |
11月21日(安政6年10月27日) | 吉田松陰が、安政の大獄で、死刑に処せられる。 |
11月24日 | ダーウィンがイギリスで『種の起源』を出版。 |
1860年 |
2月 9日(安政7年 1月18日) | ポーハタン号と咸臨丸によって万延元年遣米使節団が出発。 |
3月24日(安政7年 3月 3日) | 大老井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩浪士らに襲われ殺害される。桜田門外の変。 |
4月 9日 | フォノトグラフで紙に記録された音声データのうち再生に成功した最も古い録音日。2008年にコンピュータの解析で、フォノトグラフの発明者マルタンヴィル自身がフランス民謡『月の光に』の2番を歌っていることが判明した。現在判明している人類最古の音声データ。 |
6月30日 | オックスフォード進化論論争が行われる。ダーウィンの『種の起源』について、宗教関係者、科学者、哲学者らが論争したとされるもの。特にサミュエル・ウィルバーフォース大司教と、生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーとの皮肉を交えたやり取りが有名。 |
9月11日(万延元年 7月26日) | 英国公使オールコックが、測量を名目に富士山山頂まで登山。 |
9月29日(万延元年 8月15日) | 水戸の徳川斉昭が急死。強硬な尊王攘夷派で、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響をもたらした人物。一方で西洋の技術を積極的に取り入れる面もあった。 |
10月24日 | 清朝とイギリスが北京条約を締結。 |
10月25日 | 清朝とフランスが北京条約を締結。 |
11月 9日(万延元年 9月27日) | 万延元年遣米使節団が地球を一周して帰国。 |
11月14日 | 清朝とロシアが北京条約を締結。 |
11月27日(万延元年10月15日) | 江戸周辺での禁猟を破り、マイケル・モースが狩猟を行ったため幕府の役人とトラブルになり捕縛される。役人ひとりが負傷。モースは釈放後、領事裁判でオールコック公使により追放処分となる。 |
1861年 |
3月 4日 | ロシアの軍艦が対馬に現れる。その後、水兵が上陸し略奪を働く。 |
4月13日(文久元年 3月 4日) | 土佐国井口村刃傷事件。土佐藩郷士中平忠次郎が、通行中に肩がぶつかった上士山田広衛と口論の末に殺害され、同行者宇賀喜久馬から事態を聞いた忠次郎の兄池田寅之進が山田広衛と同行者の益永繁斎を殺害した事件。上士と郷士が一触即発の事態になるが、池田寅之進と宇賀喜久馬が自害したことで終息した。なお宇賀喜久馬を介錯した兄の寺田利正は寺田寅彦の父親。 |
3月17日 | イタリア王国が成立。首都をトリノに置く。 |
7月 5日(文久元年 5月28日) | 第一次東禅寺事件。オールコック英公使が長崎から江戸まで陸上を移動したことに反発した攘夷派志士がイギリス公使館の東禅寺を襲撃。 |
8月(文久元年 8月) | 土佐勤王党が結成される。一藩勤王を目指して武市瑞山がまとめた組織。 |
| この年、イギリスの科学者マイケル・ファラデーの「ロウソクの科学」が出版される。ファラデーが行ったクリスマス・レクチャーの内容を編集したもので、現在も出版され続けている科学啓蒙書。複数のノーベル賞受賞者が科学に目覚めたきっかけとして取り上げることでも知られる。 |
1862年 |
3月 7日(文久2年 2月 7日) | 人吉藩寅助火事。城下鍛冶屋町の鉄砲鍛冶恒松寅助の家から出火し、人吉城と城下町の大半が焼失する大火となる。奇跡的に死者はなかったが、復興に1万5千両もかかった(大坂の豪商と薩摩藩から借金)。出火元の恒松寅助は軽い過料で済んでいる。 |
3月11日(文久2年 2月11日) | 皇女和宮と徳川家茂の婚儀が執り行われる。 |
3月12日(文久2年 2月12日) | 西郷隆盛、島津久光の上洛に伴う京都斡旋の任務役のため、奄美から召喚される。 |
3月15日(文久2年 2月15日) | 西郷隆盛、島津久光と対面。久光の上洛については、久光に向かって「おそれながら地ゴロ(田舎者)」には無理として、その上洛政策の不可を主張し不興を買ったと言われる。なおこの日、大島三右衛門と名を改めている。 |
4月20日(文久2年 3月22日) | 西郷隆盛、下関の豪商白石正一郎邸で平野国臣から脱藩した過激浪士らが挙兵の計画を進めていると聞き、上京するため出帆。 |
5月 4日(文久2年 4月 6日) | 島津久光、西郷隆盛が待機の命に背き、過激浪士らと関わっているとして捕縛するよう命じる。 |
5月 8日(文久2年 4月10日) | 西郷隆盛、村田新八らを薩摩へ護送。 |
5月21日(文久2年 4月23日) | 伏見寺田屋事件。朝廷から過激志士の対処を命じられた島津久光が、京都所司代襲撃を計画し寺田屋に集結していた藩士を説得するため奈良原喜八郎、大山格之助ら9人を使者として派遣するが、志士側の有馬新七、田中謙助らはこれに応じず、戦闘に発展。奈良原と真木和泉らが残りの数十人を説得し終結。使者9人のうち1人が死亡、5人が重軽傷を負い、志士側は6人が死亡、2人が重傷を負い後に切腹。 |
6月 8日 | 豊臣時代に処刑された日本二十六聖人が、ローマ教皇ピウス9世によって列聖される。 |
7月 7日(文久2年 6月11日) | 西郷隆盛、徳之島への流罪のため、山川を出帆。 |
7月28日(文久2年 7月 2日) | 西郷隆盛、徳之島へ到着。同日、西郷が大島に残した妻愛加那が長女を出産。 |
8月18日 | ダコタ・スー族の反乱が起こる。不毛な居留地へ追い込まれ、さらに条約による補償すら支払わなかったアメリカ政府に対し、スー族の戦士らがミネソタ州で起こした。インディアン管理局の事務所を襲撃。鎮圧に出動した州民兵は敗走。 |
8月21日 | ダコタ・スー族が、リッジリー砦を攻撃。 |
9月 2日 | バーチクーリーの戦い。ダコタ・スー族とミネソタ州民兵隊が戦い、州民兵隊が大敗。この後、リンカーン大統領は、ダコタ・スー族の武力鎮圧を命じる。 |
9月14日(文久2年 8月21日) | 生麦事件。江戸から京へ戻る途中の島津久光の行列に入り込んだ騎馬の英国人4人に藩士が斬りかかり、1人が死亡、2人が重症を負う。 |
9月19日(文久2年 8月26日) | 徳之島の西郷隆盛のもとに愛加那らが子供2人と来訪。まもなく沖永良部島への遠島処分が決定される。 |
9月22日 | 南北戦争のさなかに、リンカーン米大統領が「奴隷解放宣言」。但し、敵対する南軍の奴隷解放を宣言したもので、味方である北軍の奴隷については除外。 |
9月23日 | ウッドレイクの戦い。シブレー大佐率いる民兵軍とダコタ・スー族の戦士らが衝突。マンケイトー酋長らが戦死し、民兵軍が勝利する。その後、ダコタ・スー族の大半が降伏。 |
10月 7日(文久2年閏8月14日) | 西郷隆盛、沖永良部島に到着。 |
12月 | ダコタ・スー族に対する裁判で307人が死刑判決。ミネソタ州の有力者ヘンリー・ウィップル主教の請願によりリンカーン大統領は264名の死刑を減刑し39名の処刑に署名。スー族の穏健派で反乱に反対した族長らも処刑されたと言われる。 |
12月26日 | ミネソタ州マンカトのスネリング砦でダコタ族死刑囚39人中38人(1人は執行猶予)の同時絞首刑が執行される。同時の処刑数ではアメリカ史上最大。この後、ダコタ・スー族は収容所や不毛地帯で多くが死亡し絶滅寸前にまで追い込まれた。 |
1863年 |
1月10日 | 世界最初の地下鉄路線であるロンドン地下鉄が開通。メトロポリタン鉄道のパディントン駅-ファリンドン駅間で現在のハマースミス&シティー線およびメトロポリタン線の一部。 |
4月22日(文久元年 3月13日) | 壬生浪士組が会津藩預かりとなり、新選組誕生へ。 |
7月 1日 | アメリカ南北戦争でゲティスバーグの戦いがはじまる。 |
6月25日(文久3年 5月10日) | 朝廷が攘夷決行日と定めた日。長州藩は馬関海峡でアメリカ船に対し砲撃。しかし幕府も諸藩も特に何もせず。攘夷派の人々は、攘夷決行を促すため、天皇の大和・伊勢行幸を画策。 |
7月 5日(文久3年 5月20日) | 京都御所朔平門外で、姉小路公知が暗殺される。薩摩藩士田中新兵衛が犯人として疑われる。朔平門外の変、猿ヶ辻の変。 |
7月11日(文久3年 5月26日) | 姉小路公知暗殺の犯人として京都町奉行の取り調べを受けていた薩摩藩士田中新兵衛が隙を見て自殺。真犯人かどうか不明で、また自殺も含め動機もはっきりせず。 |
8月11日(文久3年 6月27日) | 生麦事件について薩摩藩と交渉するため、イギリス艦隊が鹿児島沖に到着。 |
8月12日(文久3年 6月28日) | イギリス艦隊のニール代理公使と薩摩藩との間で交渉が始まる。イギリス側は賠償金と犯人の処罰を要求。薩摩藩側は鹿児島城内での会談を求める。 |
8月13日(文久3年 6月29日) | イギリス側は鹿児島での会談を拒否し、薩摩藩側の回答を求める。奈良原喜左衛門ら一部藩士がイギリス艦隊に乗り込む計画を立てるが失敗に終わる。 |
8月14日(文久3年 7月 1日) | イギリス側は武力攻撃を示唆。薩摩藩側も開戦やむなしとして、藩主島津茂久と、国父島津久光は鹿児島郊外の西田村に陣を置く。 |
8月15日(文久3年 7月 2日) | イギリス艦隊のうち5隻が、薩摩藩の蒸気船を武力で奪取。それを見た薩摩藩側も攻撃を決定。鹿児島の天保山砲台と桜島の袴腰砲台が艦隊に向けて砲撃。イギリス艦隊は鹵獲していた薩摩藩船3隻を沈め、沿岸の砲台へ向けて砲撃を開始。悪天候の中、午後3時頃、旗艦ユーライアラスの艦橋付近に砲弾が命中炸裂し士官らが戦死する。夜になり、艦砲で集成館を破壊。また城下で火災が発生する。 |
8月16日(文久3年 7月 3日) | イギリス艦隊は城下を砲撃。市街地を焼く。 |
8月17日(文久3年 7月 4日) | イギリス艦隊は人的被害(死傷者63人)と弾薬の消耗などを受け、鹿児島を離れ横浜へ向かう。一方薩摩藩側は死傷者は少なかったものの、鹿児島城の一部、集成館、各砲台、火薬庫などが破壊され、城下の1割を焼失し、蒸気船3隻を失う。国際的にはイギリス側が退却したと捉えられ、また賠償金を得ているのに無用の戦争を行ったと批判された。国内では薩摩藩が攘夷を実行したと受け止められている。 |
9月25日(文久3年 8月13日) | 長州派公卿らの活動により天皇の大和行幸の詔が出る。しかし、孝明天皇は攘夷主義者ではあるが秩序を乱す過激な攘夷思想を嫌い、これを受けて会津藩や薩摩藩は、長州藩追い落としを画策するようになる。 |
9月27日(文久3年 8月15日) | 公卿中山忠光、土佐浪士吉村寅太郎らが天皇の大和行幸に伴う攘夷決行を促すため、兵を率いて堺に上陸。天誅組の変の勃発。河内狭山藩などに協力を要請。 |
9月29日(文久3年 8月17日) | 天誅組一党が大和五条の幕府代官所を襲撃して同地を占拠。隣接する高取藩に協力を要請。三条実美は平野国臣を派遣して自重の説得を試みる。 |
9月30日(文久3年 8月18日) | 八月十八日の政変。長州藩と長州派公卿の失脚を求める天皇密勅を受け、会津藩主体で薩摩藩、淀藩、岡山藩、鳥取藩、徳島藩などが参加し、御所九門を封鎖。三条実美ら長州派公卿を禁足。朝議が開かれ、長州派公卿の追放、大和行幸の延期、長州藩主親子の処罰が決まり、長州藩は堺町御門警備の任を解かれる。 |
10月 1日(文久3年 8月19日) | 七卿落ち。失脚した長州派公卿7人(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉)が、長州藩兵とともに京都を離れる。 |
10月 2日(文久3年 8月20日) | 政変を知った天誅組一党は、天の辻へ拠点を移す。十津川郷士を脅迫して集め、抵抗した人々を処刑。高取藩は天誅組への協力を拒否。 |
10月 7日(文久3年 8月25日) | 天誅組一党は、高取藩へ攻め込むが、少数の高取藩兵に大敗を喫する。 |
10月 4日 | フランスの写真家ナダールが、巨大熱気球の公開飛行実験を行うが失敗に終わる。 |
10月17日(文久3年 9月 5日) | 幕府の天誅組追討令をうけ、周辺諸藩が出兵。 |
10月22日(文久3年 9月10日) | 天誅組への総攻撃が開始される。 |
10月25日(文久3年 9月13日) | 新選組副長で、芹沢一派と見られていた新見錦が切腹に追い込まれる。乱暴狼藉とも、職務怠慢とも、薩長や水戸藩との尊皇攘夷運動が原因とも言われる。なお、日付や切腹場所は諸説あり。 |
10月26日(文久3年 9月14日) | 天誅組の本陣があった天の辻が陥落。朝廷からの逆賊追討令旨が降りたことを受けて、十津川郷士らが離反。 |
10月30日(文久3年 9月18日) | 新選組の局長芹沢鴨と副長助勤の平山五郎が、壬生の八木邸で土方歳三、沖田総司らに襲撃されて殺害される。芹沢の愛人のお梅も殺害。同邸宅にいた芹沢家の家臣筋に当たる平間重助は難を逃れ逃亡。芹沢らの横暴行為の数々が朝廷や諸藩で問題になったのが直接の理由。 |
10月31日(文久3年 9月19日) | 中山忠光は天誅組を解散。残党は包囲網からの脱出を図る。 |
11月 5日(文久3年 9月24日) | 鷲家口で天誅組残党と紀州藩兵・彦根藩兵が遭遇して戦闘。中山忠光と池内蔵太は脱出に成功するが、松本奎堂、藤本鉄石、那須信吾など主なメンバーが討ち死に。中山忠光は長州藩に匿われるが後に暗殺され、池内蔵太は禁門の変などに参加したのち亀山社中に加わるが海難事故で遭難死した。 |
11月 8日(文久3年 9月27日) | 天誅組の幹部で、負傷して一行と離れていた吉村寅太郎が、津藩兵と遭遇し射殺される。 |
11月 9日(文久3年 9月28日) | 薩摩藩とイギリスとの間で和睦交渉が始まる。 |
11月15日(文久3年10月 5日) | 薩摩藩とイギリスとの間で和睦が成立。薩摩藩が賠償金に相当する2万5000ポンドを出してイギリスから軍艦を購入することが決まる(金は幕府が薩摩藩へ貸した)。以降、イギリスは薩摩藩と接近。 |
11月22日(文久3年10月12日) | 生野の変。攘夷派の平野国臣と北垣晋太郎らが七卿のひとり澤宣嘉を擁して、但馬生野に入る。天誅組壊滅の情報は入っていたため、兵を挙げるかどうかで論議となるが、強硬派の河上弥市らの主張が通り挙兵。攘夷の挙兵として農民らが集まる。 |
11月23日(文久3年10月13日) | 生野代官所の通報を受け、周辺諸藩が討伐に乗り出す。動揺した澤宣嘉が逃走。農民らも話と違うと激昂し河上弥市ら強硬派を襲ったため、河上らは自刃。平野国臣は部隊を解散させたが、鳥取藩に向かうも捕縛される(のち禁門の変の際に獄中で謀殺)。澤宣嘉、北垣晋太郎、進藤俊三郎らは逃げ延び、維新を無事迎えた。 |
1864年 |
3月28日(元治元年 2月21日) | 西郷隆盛の沖永良部島からの召還が決まり、蒸気船胡蝶丸で薩摩へ向かう。 |
4月 4日(元治元年 2月28日) | 西郷隆盛、薩摩に帰郷。 |
5月 2日(元治元年 3月27日) | 幕府へ攘夷の横浜鎖港を実施させることを目的として、水戸藩の藤田小四郎、田丸稲之衛門ら62名が筑波山で挙兵。天狗党の乱が起こる。 |
7月 8日(元治元年 6月 5日) | 池田屋事件。新選組が京三条木屋町の池田屋にいた攘夷志士を襲撃。長州、土佐、肥後の志士らが9人が殺害され、町人を含む20数人が捕縛される。新選組や、会津・桑名・彦根藩士らにも犠牲者が出る。 |
8月20日(元治元年 7月19日) | 禁門の変。八月十八日の政変で謹慎となった毛利藩主親子の処分撤回を朝廷に求めるため、国司親相、益田親施、福原元僴の三家老や、久坂玄瑞、来島又兵衛らが軍を率いて京に攻め込む。武力で御所に突入するも、長州藩各隊は連携が取れず、幕府軍・会津軍・薩摩軍などの連合軍に敗れる。御所鷹司邸付近と長州藩邸周辺から出た火災がひろがり、京都市街地は一条から七条に至る、全市街地の半分、27500戸が焼失。300人以上が死亡した(いわゆる「どんどん焼け」)。 |
8月24日(元治元年 7月23日) | 長州藩追討の勅命が幕府に対して下される。第一次長州征伐のはじまり。幕府は西国を中心に35藩に動員令を下し、15万人が動員される。征長総督は徳川慶勝、副総督は松平茂昭。 |
10月26日(元治元年 9月26日) | 長州藩正義派の有力者だった周布政之助が、椋梨藤太らの圧力を受け切腹。 |
10月30日(元治元年 9月30日) | 薩摩藩と長州支藩岩国藩の吉川経幹との間で交渉が始まる。 |
11月20日(元治元年10月21日) | 長州藩は藩内の非正規軍である諸隊に解散命令を出す。 |
11月21日(元治元年10月22日) | 大坂城で征長軍の軍議が行われ、11月18日を総攻撃と決定する。 |
11月23日(元治元年10月24日) | 西郷隆盛、征長総督徳川慶勝に対し、吉川経幹との間でまとめられた長州藩降伏の条件を進言。徳川慶勝はこれを受け入れ、西郷を参謀として交渉を命じる。 |
12月 2日(元治元年11月 4日) | 西郷隆盛、岩国で吉川経幹と会談し、降伏条件として提案を受けていた、禁門の変の責任者の三家老の切腹・四参謀の斬首・長州派五卿の長州からの追放を受け入れる。 |
12月 7日(元治元年11月 9日) | 長州藩が三家老の切腹を決定するが、諸隊幹部らは反対したため、萩の藩政府は鎮静奉行を山口へ送る。 |
12月 9日(元治元年11月11日) | 長州藩家老益田親施が徳山惣持院で切腹。 |
12月10日(元治元年11月12日) | 長州藩家老国司親相が徳山澄泉寺で切腹。同じく長州藩家老の福原元僴も岩国龍護寺で切腹。禁門の変の参謀だった宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛の4人も野山獄で斬首。三家老の首は幕府側へ送られる。諸隊幹部らはこれに反発。 |
12月14日(元治元年11月16日) | 広島国泰寺で三家老の首実検が行われる。幕府大目付の永井尚志が藩主処罰等を求めたのに対し、吉川経幹はこれ以上の処罰は長州側の徹底抗戦につながるとして難色を示し、西郷隆盛も妥協を進言。 |
12月22日(元治元年11月24日) | 長州藩の俗論派を率いる椋梨藤太が政務役となり幕府恭順を示す俗論派政権が実権を掌握。対する正義派藩士らが弾圧される(弾圧は吉川経幹の指示、あるいは幕府の要求説もある)。 |
12月29日(元治元年12月 1日) | 福岡藩から長州藩に対して、長州派五卿の身柄を九州の五藩で預かる提案がなされる。以後数度に渡って、五卿と、五卿に近い諸隊幹部への説得が行われる。 |
1865年 |
1月 2日(元治元年12月 5日) | 長州藩主親子の謝罪文が征長総督府へ提出される。 |
1月 9日(元治元年12月12日) | 西郷隆盛と交渉した福岡藩の月形洗蔵の説得で長州派五卿は九州行きを了承。 |
1月10日(元治元年12月13日) | 高杉晋作、諸隊幹部らに挙兵を訴えるが賛同は得られず。 |
1月12日(元治元年12月15日) | 高杉晋作、伊藤俊輔、石川小五郎ら84人が、俗論派政権打倒のため功山寺で挙兵。 |
1月13日(元治元年12月16日) | 高杉ら遊撃隊は馬関新地会所を襲撃。馬関奉行根来親祐は降伏し協力。 |
1月16日(元治元年12月19日) | 長州藩俗論派政権によって正義派の毛利登人・大和国之助・山田亦介・前田孫右衛門・松島剛蔵・渡辺内蔵太・楢崎弥八郎の7名が野山獄で斬首される。征長軍巡見使長谷川敬の意向だったとも言われる。 |
1月22日(元治元年12月25日) | 長州藩俗論派政権によって正義派の家老清水親知が切腹に追い込まれる。 |
1月24日(元治元年12月27日) | 征長軍解兵令により第一次長州征伐は終結。 |
1月25日(元治元年12月28日) | 高杉らの遊撃隊を鎮圧するための萩藩政府軍が出発。この頃、他の諸隊の多くは藩政府に恭順していたものと思われる。 |
1月28日(元治2年 1月 2日) | 高杉らの遊撃隊が伊崎会所を襲撃。 |
2月 1日(元治2年 1月 6日) | 絵堂の戦い。高杉らの遊撃隊に味方することに決した山県有朋率いる奇兵隊など200人が藩政府軍の駐屯する絵堂を襲撃。これを占拠する。ただし兵数が少ないこともあり、すぐに絵堂を放棄して転進。 |
2月 5日(元治2年 1月10日) | 大田の戦い。翌日にかけて奇兵隊などの諸隊と藩政府軍が衝突。 |
2月 9日(元治2年 1月14日) | 呑水峠の戦い。奇兵隊などの諸隊が藩政府軍を撃退。またこの日、高杉晋作ら遊撃隊メンバーも諸隊に合流。 |
2月11日(元治2年 1月16日) | 赤村の戦い。高杉率いる遊撃隊と、山県率いる奇兵隊などの諸隊が、赤村で藩政府軍を挟み撃ちにして撃破。山口も抑える。この時点で、萩の俗論派政府と、山口の諸隊政府とで長州藩は二分された状態となる。 |
2月23日(元治2年 1月28日) | 萩藩政府が諸隊に対して、休戦を申し出るが、諸隊は受け入れず。この頃すでに、各支藩は高杉側に付く動きを見せており、萩藩政府からの援軍要請にも従わない状態になっていた。 |
2月25日(元治2年 1月30日) | 諸隊は、陸海より萩への進攻を開始。これを受けて藩主の毛利敬親は俗論派政権の幹部らを罷免。俗論派政権瓦解により諸隊は進撃を停止。 |
4月14日 | リンカーン大統領が、フォード劇場で観劇中に、南部連合を支持する俳優のジョン・ウィルクス・ブースに暗殺される。 |
4月27日 | ミシシッピ川の貨客船サルタナ号が爆発火災を起こし、1450人が死亡。数百人が行方不明となる。 |
6月 9日 | イングランドのケント州ステープルハーストで、高架橋工事のために線路を外していたところへ列車が進入し脱線、一部車両が転覆して川に落ち、10人が死亡、40人余が負傷する。作家チャールズ・ディケンズが乗車していて遭遇したことでも知られる(ディケンズは無事)。 |
7月 3日(慶応元年閏5月11日) | 土佐勤王党の盟主、武市半平太(瑞山)が切腹。 |
7月20日(慶応元年閏5月28日) | 長州藩俗論派の首領だった椋梨藤太が処刑される。自分1人の罪なので自分だけを処罰するよう求めたと言われる。 |
8月13日 | 医師のセンメルヴェイス・イグナーツが死去。産褥熱による死亡率を下げるには、担当医師が手洗い消毒をすれば良いことに気づき、消毒法の普及を訴えた人物。しかし医学界から受け入れられず批判嘲笑され続けたため、精神疾患となり、収容された精神病院から逃げようとして衛兵に殴打され、それがもとで死亡した。彼の死後まもなく消毒法を唱えたジョセフ・リスターや、細菌による腐敗現象を発見したルイ・パスツールの業績で再評価された悲運の先駆者(リスターも当初は激しく批判されるなど、衛生に関する理解がない時代だった)。 |
12月24日 | ネイサン・ベッドフォード・フォレストらによって、黒人迫害組織KKK(クー・クラックス・クラン)が設立される。 |
| この年、ジュール・ヴェルヌのSF小説の古典『月世界旅行』が発刊。アメリカ南北戦争直後を舞台に、元砲術士官らが集まり、地面に埋めた超巨大な大砲で砲弾型宇宙船を打ち上げ、月へ人を送ろうとする物語で、科学的な計算もされた内容だが、風刺小説という側面もあると言われている。後に書かれたウェルズの『宇宙戦争』とともに、様々な小説や映画に影響を与え、のちのロケット研究者らの多くにも影響を与えた作品。 |
1866年 |
3月 7日(慶応2年 1月21日) | 京の薩摩藩家老小松帯刀邸で坂本龍馬仲介の元、薩長同盟が成立。 |
3月 9日(慶応2年 1月23日) | 寺田屋事件。坂本龍馬と三吉慎蔵が未明に伏見寺田屋で伏見奉行配下の幕吏に襲撃される。寺田屋で働いていたお龍の通報で気づいた二人は応戦、坂本龍馬は手を負傷。戦闘の末に脱出し、薩摩藩に助けられる。幕吏側も数人が死亡。 |
4月24日(慶応2年 3月10日) | 坂本龍馬とお龍が怪我の治療と庇護を兼ねて薩摩へ到着。小松帯刀に出迎えられる。そのまま日当山温泉・塩浸温泉へ向かう。10日ほど静養して釣りや鳥撃ちなどをしたあと、二人で霧島高千穂峰に登り、山頂に刺さっていた「天の逆鉾」を引っこ抜くなどした。 |
6月14日 | ドイツ連邦議会でプロイセンとオーストリアの対立が決定的となり、プロイセンがドイツ連邦を離脱。 |
6月15日 | 普墺戦争勃発。ドイツ連邦諸邦のうちドイツ中北部の諸国と自由都市はプロイセンに、主に中南部のバイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルク、ハノーファー、ヘッセン=カッセルなどの主要国はオーストリア側につく。プロイセン軍は直ちに対オーストリア戦と、対南部ドイツ諸国戦に乗り出す。 |
6月18日 | プロイセン軍が、ザクセン王都ドレスデンを占領。 |
6月20日 | イタリアがプロイセン側に味方する。 |
6月27日 | ランゲルザルツァの戦い。 |
6月29日 | ハノーファー王国がプロイセンに降伏し、同王国は滅亡。各諸邦がプロイセンへ恭順の動きを示す。 |
7月 3日 | ケーニヒグレーツの戦い。オーストリア軍が大敗する。 |
7月10日 | キッシンゲンの戦い。 |
7月14日 | アシャッフェンブルクの戦い。 |
7月16日 | プロイセン軍、フランクフルトを占領。 |
7月18日(慶応2年 6月 7日) | 幕府艦隊が周防大島へ砲撃を開始。第二次長州征伐始まる。薩摩藩は反対して参加せず。 |
7月20日 | リッサ海戦。アドリア海でオーストリア海軍とイタリア海軍が交戦し、オーストリア軍が勝利。 |
7月22日(慶応2年 6月11日) | 幕府軍と松山藩軍が周防大島へ上陸占領。松山藩兵による乱暴狼藉が問題になり長州藩は大島派兵を決定。 |
7月23日(慶応2年 6月12日) | 夜、高杉晋作の指揮する小型蒸気船丙寅丸が幕府艦隊に接近して砲撃し逃走。 |
7月28日(慶応2年 6月17日) | 長州軍が周防大島を奪還。また関門海峡を横断して田野浦に上陸。征長軍小倉口総督となった老中小笠原長行(唐津藩世嗣で小倉藩小笠原家の親族)の指揮のまずさに九州諸藩は消極的となり、長州藩優勢で推移。 |
7月28日 | プロイセン軍、ヴュルツブルクを占領し、ドイツ西部はプロイセン側の勝利で終結。 |
7月29日(慶応2年 6月18日) | 長州軍が浜田城を占領。長州藩と隣接する津和野藩や広島藩は中立を表明して参戦せず。 |
8月11日(慶応2年 7月 2日) | 大里の戦い。長州軍と小倉藩軍による本格的な戦闘。九州諸藩が消極的なため小倉藩単独で応戦することになり苦戦。 |
8月16日 | ジェネラル・シャーマン号事件。アメリカの帆船ジェネラル・シャーマン号が李氏朝鮮との通商を求めて平壌の羊角島に来航するが、朝鮮側の攻撃を受けて座礁。乗員は全員殺害される。朝鮮側の記録ではシャーマン号が一方的に住民を攻撃したために地元住民の怒りを買ったとしている。 |
8月23日 | プラハ条約締結。普墺戦争はオーストリア側の大敗で終結。プロイセン王国がオーストリアを排除する形でドイツ諸邦を吸収。 |
8月29日(慶応2年 7月20日) | 大坂城で将軍徳川家茂が死去。21歳。脚気衝心が死因と見られる。 |
9月 5日(慶応2年 7月27日) | 赤坂の戦い。長州軍と、小倉藩に援軍を出した熊本藩軍が戦闘に参加。熊本・小倉藩側が勝利。 |
9月 6日(慶応2年 7月28日) | 熊本藩軍が突如撤兵を開始。小笠原長行が熊本藩の援軍要請を拒否したことに反発したことが主な要因とみられる。小倉藩は劣勢に立たされる。 |
9月 9日(慶応2年 8月 1日) | 小倉藩が小倉城に火を放ち、香春に撤退して徹底抗戦に入る。九州諸藩も相次いで撤兵。 |
9月28日(慶応2年 8月20日) | 一橋慶喜が徳川宗家を継ぐ。しかし将軍職については拒否。 |
10月 8日(慶応2年 8月30日) | 廷臣二十二卿列参事件。第二次長州征伐で幕府軍の敗北が必至の状況を受けて、失脚していた尊攘派公家の復帰を、22人の公家が孝明天皇に訴えた事件。しかし天皇のさらなる怒りを買う結果となり、天皇が信任していた徳川慶喜の将軍就任が進むことになった。 |
10月10日(慶応2年 9月 2日) | 幕府側から勝海舟、長州側から広沢真臣と井上馨が出席して、宮島で休戦交渉を行い、第二次長州征伐の休戦が成立する。なお長州藩と小倉藩の戦闘は継続し、両者は翌慶応3年1月に和睦。 |
12月23日(慶応2年11月17日) | 松山藩が周防大島での乱暴狼藉について長州藩に対し正式に謝罪。この頃、幕府敗北の影響が諸藩に広がる。 |
1867年 |
1月10日(慶応2年12月 5日) | 徳川慶喜が将軍宣下を受け、第15代将軍となる。 |
1月17日(同治5年12月12日) | 八戸事件。清国広州の「中外新聞」に、英領香港在住の日本人「八戸順叔」なる人物が「江戸幕府が軍制を洋式化し、260の諸侯を集め、朝鮮を征討しようとしている」という記事を寄稿。この内容が清国政府へ伝えられ、清国政府から朝鮮政府にまで伝わり、外交問題に発展する。江戸幕府はこの疑惑を否定する文書を対馬藩経由で朝鮮政府に提出し一旦は落着するが、明治に入って再燃する。なお、この新聞記事が実際にあったものか不明で、八戸順叔という人物の正体もわかっていない。 |
4月 1日(慶応3年 2月27日) | パリ万国博覧会開幕。幕府と薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ独自に出展する。特に薩摩藩は、「日本薩摩琉球国太守政府」と名乗り、外交用に現地で独自に勲章(薩摩琉球国勲章)を制作。 |
4月26日 | 普墺戦争の結果を受けて、プロイセン王国はドイツ諸邦を傘下に収めた北ドイツ連邦を成立させる。後のドイツ帝国。なお、プロイセンに敗北した南部のバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセンの各国は加わっていない。 |
5月17日(慶応3年 4月14日) | 高杉晋作、肺結核で死去。 |
10月18日 | ロシアがクリミア戦争の戦費調達のため、アラスカをアメリカに720万ドルで売却する。 |
12月10日(慶応3年11月15日) | 近江屋事件。京の近江屋に潜伏していた坂本龍馬と、たまたま来ていた中岡慎太郎が数人に襲撃され、坂本龍馬は間もなく死亡。取次に出て斬られた山田藤吉が翌日死亡。中岡慎太郎が重症を負う。犯人は見廻組の佐々木只三郎、今井信郎、渡辺篤ら数名という説が有力。中岡慎太郎が狙われたという説もある。 |
12月12日(慶応3年11月17日) | 近江屋事件で重症を負った中岡慎太郎が死亡。絶命するまでの間に谷干城に語ったとされる内容が広まり、特に新選組が疑われることになった。これがこのあとの天満屋事件、近藤勇の処刑にも影響を与えている。 |
12月13日(慶応3年11月18日) | 油小路事件。新選組と、新選組から離脱して結成された御陵衛士(高台寺党)との間で起こった闘争。御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助らが殺害される。 |
1868年 |
1月 1日(慶応3年12月 7日) | 天満屋事件。当時海援隊のメンバーだった陸奥宗光(紀州藩出身)が、近江屋事件の黒幕は、いろは丸沈没事件で海援隊に恨みのある紀州藩であると疑い、特に紀州藩側の交渉担当者だった三浦安(休太郎)の襲撃を計画。それを知った紀州藩が新選組に護衛を頼み斎藤一らが担当するが、この日夜、天満屋で紀州藩士と新選組隊員が酒宴を開いているところを、陸奥ら海援隊士と陸援隊士16人が襲撃。乱闘の結果、襲撃側の中井庄五郎と、新選組の宮川信吉と舟津釜太郎が死亡した。なお陸奥も三浦も後に明治政府の高官となっている。 |
1月 3日(慶応3年12月 9日) | 王政復古の大号令。武力で御所を封鎖した薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩と岩倉具視らによって江戸幕府や摂政・関白職が廃止される。 |
2月13日(慶応4年1月20日) | 尾張藩で青松葉事件が起こる。藩の実権を握る元藩主徳川慶勝によって、藩内佐幕派「ふいご党」の主要メンバー渡辺在綱ら14名を斬首し、同派の家臣が多数が処分された事件。 |
2月20日(慶応4年1月27日) | 新政府によって大坂の大坂町奉行管轄域に「裁判所」が設置される(総督は醍醐忠順)。この「裁判所」とは、大名領地ではない旧幕府の奉行・代官・郡代の支配地だった地域を新政府が管轄する際に置いた行政機関(今でいう県庁に近い)のことで、司法裁判所ではない。順次、他の地方でも設置が進む。 |
3月 8日(慶応4年 2月15日) | 堺事件が起こる。堺で警備にあたっていた土佐藩士が上陸したフランス水兵を船に戻そうとしてトラブルになり、銃撃して11人を殺害。 |
3月16日(慶応4年 2月23日) | 堺事件で、土佐藩士20人がフランス人立ち会いのもと堺の妙国寺で切腹することになるが、腸を引き出して投げつけるなどの凄惨な状況と、藩士らが英雄扱いされることを恐れたフランス側が11人の切腹で中止し、9人を助命する。 |
3月29日(慶応4年 3月 6日) | 甲州勝沼の戦い。甲陽鎮撫隊ら幕府側勢力と、新政府軍の戦い。新政府軍の勝利に終わる。 |
4月 4日(慶応4年 3月12日) | 公家学校が新政府によって再開され、大学寮代となる。 |
4月13日(慶応4年 3月21日) | 天皇が大坂に行幸。 |
4月24日(慶応4年 4月 2日) | 沢辺琢磨・酒井篤礼らがニコライによってキリスト教に受洗。 |
5月 3日(慶応4年 4月11日) | 江戸城無血開城。 |
5月17日(慶応4年 4月25日) | 元新選組局長近藤勇、新政府軍の手で処刑される。 |
6月11日(慶応4年閏4月21日) | 新政府、政体書を発布。国家体制の基本方針、三権分立、官僚機構などについて定めたもの。府藩県三治制に移行(「裁判所」を廃止し、旧幕府領のうち城代・京都所司代・奉行の管轄を「府」、それ以外を「県」、大名の領地は「藩」として引き続き統治させるもの。公式にはこのとき初めて大名領を「藩」と呼称するようになった)。 |
6月22日(慶応4年 5月 3日) | 奥羽越列藩同盟が成立。会津・庄内両藩への寛大な処置を朝廷に求める運動から発展した新政府軍に対抗する同盟。 |
7月 4日(慶応4年 5月15日) | 上野山に籠った旧幕府側の彰義隊と長州・薩摩・土佐からなる新政府軍が衝突。通称上野戦争。新政府側の指揮官大村益次郎の采配で半日で新政府側勝利で終結。上野寛永寺は焼失。 |
7月13日(慶応4年 5月24日) | 徳川家が駿府70万石に移される。 |
7月19日(慶応4年 5月30日) | 病気療養のため新選組から離れていた沖田総司が江戸で病死。 |
8月 7日(慶応4年 6月19日) | 首都をどこに置くかで、木戸孝允と大木喬任が江戸を調査。 |
8月18日 | ピエール・ジャンサンが日食の観測で新たな物質の輝線を発見する。後にノーマン・ロッキャーとエドワード・フランクランドによってヘリウムと名付けられる。 |
8月24日(慶応4年 7月 7日) | 新政府部内で江戸を首都にすることが決まる。 |
9月 3日(慶応4年 7月17日) | 東京奠都。明治天皇が詔勅「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、東京で政務に当たることを宣言して、江戸から改称した東京が事実上の首都となる。 |
10月 6日(慶応4年 8月21日) | 会津戦争で、新政府軍の薩摩・土佐・長州・佐土原の諸藩の部隊が、母成峠の戦いで、会津や新選組ら旧幕府勢を打ち破る。 |
10月 8日(慶応4年 8月23日) | 会津戦争で、新政府軍が若松城下に突入。白虎隊のうち士中二番隊に属する20人が飯盛山で自決を図り、飯沼貞吉を除く全員が死亡する。 |
10月23日(慶応4年 9月 8日) | 明治に改元。一世一元の詔が出される。法的には慶応4年1月1日(1868年1月25日)より明治としている。 |
10月26日(慶応4年/明治元年 9月11日) | 咸臨丸事件。榎本武揚率いる旧幕府艦隊に参加し、暴風雨で破損し下田港で修理を受けていた咸臨丸を、新政府軍が攻撃。多数の死傷者を出す。遺体は逆賊として放置されていたが、侠客清水次郎長が収容して埋葬した。 |
10月31日(慶応4年/明治元年 9月16日) | 国学・神道の皇学所と、漢学・儒学の漢学所の設立が決定し、大学寮代が廃止される。 |
11月27日 | ワシタ川の虐殺。アメリカ陸軍のカスター連隊が、シャイアン族バンドの野営を襲撃し、女子どもも含めて虐殺する。 |
1869年 |
1月27日(明治元年12月15日) | 戊辰戦争のさなか、旧幕府軍の関係者によって、いわゆる「蝦夷共和国」が発足。入れ札により榎本武揚が総裁となる。 |
3月11日 | フランス人宣教師のアルマン・ダヴィドが、現在の四川省宝興県でジャイアントパンダの毛皮を目撃。西洋人にその存在を知られるきっかけとなる。 |
5月16日 | ポーランドの大工ヤン・ヴネンクが、オーストリア・ハンガリー帝国のオトポルイシェフで行われたカーニバルで、グライダー飛行を行い墜落、まもなく死亡。ヴネンクは鳥の翼の形状をもとにグライダーを設計し、何度か飛行に成功していた記録がある。ただ航空研究家ではなかったため、グライダーに関する技術的な記録が残されていない。 |
6月20日(明治2年 5月11日) | 土方歳三が箱館戦争で一本木関門の防戦中に馬上で銃弾に当たり戦死。 |
7月25日(明治2年 6月17日) | 版籍奉還。大名が領地と領民を朝廷に奉還する。藩主は知藩事として旧所領の管轄官となり、旧領の収入の10分の1を家禄とする。また同日行政官布達54号に基づき、公家142家は公家華族、諸侯285家は武家華族に列せられる。なお、この時は華族に階級はなかった。 |
8月15日(明治2年 7月 8日) | 職員令が発布され、太政官制が導入される。神祇官と太政官、太政官の下には民部省・刑部省・大蔵省・兵部省・外務省・宮内省が置かれる。政体書体制は終了。 |
10月 8日(明治2年 9月 4日) | 兵部大輔の大村益次郎が大阪で静間彦太郎、安達幸之助と会食中に神代直人、団伸二郎ら8人の刺客に襲われ重症を負う。静間と安達は死亡。 |
12月 7日(明治2年11月 5日) | 大村益次郎が大阪病院で死亡。足を切断する手術をうける際に勅許が必要となって手遅れになったともいわれる。 |
1870年 |
1月 1日(明治2年11月30日) | 長州藩の奇兵隊、振武隊などの諸隊で解雇された兵士らが脱退騒動を引き起こす。 |
1月 3日(明治2年12月 2日) | 旗本領の上知が決定され、府・藩・県に吸収される。 |
2月13日(明治3年 1月13日) | 脱退騒動を引き起こした兵士らが大森県浜田裁判所を襲う。 |
2月24日(明治3年 1月24日) | 脱退騒動を引き起こした兵士らが山口を襲い藩兵と交戦。更に勢力を拡大する。 |
3月12日(明治3年 2月11日) | 木戸孝允率いる鎮圧軍が脱退兵の軍勢を打ち破る。最終的に脱退兵らは60人が戦死し、133人が処刑された。 |
5月 1日 | 世界最初の近代高層ビルと言われるエクイタブル生命保険ビルがニューヨーク市に完成。高さ40m。 |
6月21日 | スペインの王位継承問題で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世が、ホーエンツォレルン本家であるホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のレオポルドを後継とすることを承認。フランスは猛反発する。 |
7月12日 | スペインの王位継承問題で、フランスの反発を受けて、ヴィルヘルム1世と、レオポルドが、スペイン王位を辞退することを決定。 |
7月13日 | スペインの王位継承問題で、フランス外相グラモン公爵が、ドイツのバート・エムスに滞在中のプロイセン国王ヴィルヘルム1世にベネデッティ伯爵を大使として派遣し、今回だけでなく将来に渡って、ホーエンツォレルン家からスペイン王位候補者を出さないよう文書を求める。これに対しヴィルヘルム1世は無礼であるとして拒否。宰相ビスマルクに事後を委任。 |
7月14日 | エムス電報事件。ヴィルヘルム1世から電報を受け取った宰相ビスマルクは、電報文の一部を意図的に省略して、フランス大使が無礼な振る舞いをしたために国王が激怒して会見も拒否したように装って新聞等に公表。これを知ったプロイセン、フランス両国民は一気に過熱し、相手国に対し戦争を主張。普仏戦争へと発展する。また従来プロイセン主導の北ドイツ連邦とは一線を画していた南ドイツ諸国も、プロイセンに同調し、ドイツ統一へのきっかけにもなった。 |
7月15日 | エムス電報事件を受けて、フランスでは上下議会が圧倒的多数で開戦を議決。閣議も開戦を決定する。ナポレオン3世は戦争には消極的だったが、閣僚、議会、世論に押される形で開戦を決意。 |
7月19日 | ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告。対するプロイセンも宣戦の詔勅を発して普仏戦争が開戦。プロイセンは普墺戦争勝利から間もなく、フランスに対して軍事力で優位にあったため、ドイツ統一を目論むビスマルクの思惑通りになったと言われる。 |
7月28日 | ナポレオン3世がルイ皇太子とともに出陣。皇后ウジェーヌの強い意向があったとされる。 |
8月 2日 | 普仏両軍がザールブリュッケンで衝突。フランス軍が占領。 |
8月 4日 | ヴィサンブールの戦い。フランス軍は大きな損害を出し退却。 |
8月 5日 | スピシャランの戦い。フロサール率いるフランス第2軍に対し、プロイセン軍が猛攻を仕掛け、フロサールは退却。 |
8月 6日 | ヴルトの戦い。南ドイツ諸国も参戦し、圧倒的兵力でフランス軍に勝利する。 |
8月16日 | マルス・ラ・トゥールの戦い。フランス軍は兵力で大きく勝っていたが大敗。 |
8月18日 | グラヴロットの戦い。フランス・プロイセン両軍最大の戦闘となる。損害ではプロイセン側のほうが大きかったが、フランス軍側がメス要塞まで敗走してしまう。プロイセン軍はメスを包囲。ナポレオン3世はメス救援のため自ら軍を率いる。 |
8月30日 | ボーモンの戦い。メス救援に向かっていたフランス軍を、プロイセン軍からムーズ軍団を分けて迎撃、プロイセン軍も大きな被害を出すものの、フランス軍はセダンに敗走。 |
9月 1日 | セダンの戦い。セダンで包囲下に置かれたナポレオン3世率いるフランス軍が、包囲しているプロイセン軍に対し攻撃を仕掛けるが、失敗に終わる。 |
9月 2日 | セダンから脱出できなかった皇帝ナポレオン3世は、10万4千の兵とともにプロイセンに降伏。なお、この時点でフランス軍にはメス市に籠もるバゼーヌ軍18万が残っていた。プロイセン王ヴィルヘルムは、ナポレオン3世をヴィルヘルムスヘーエ城にて暮らすことを認める。 |
9月 4日 | 皇帝ナポレオン3世がプロイセンに降伏したとの情報が入り、フランス国内でルイ・トロシュ、ジュール・ファーヴル、レオン・ガンベタらによる政変が勃発。フランス第二帝政が崩壊。フランスの君主制の終焉となる。プロイセンはフランス臨時国防政府に対し和平を提案。 |
9月 6日 | フランス臨時国防政府は戦争継続を決定。プロイセンに宣戦布告。 |
9月19日 | プロイセン軍、パリを包囲。パリ攻囲戦が始まる。なお、パリは包囲されたがフランス各地は占領されておらず各地でプロイセンに対する抵抗戦が激化する。 |
10月 7日 | フランス臨時国防政府の内相レオン・ガンベタが、写真家で気球研究者だったナダールの協力で、軍事用気球「アルマン・バルベス」号に乗って、パリを包囲しているプロイセン軍を飛び越えて脱出。トゥールに行き、ここで徴兵と抵抗組織を編成する。 |
10月13日(明治3年 9月19日) | 明治政府から平民苗字許可令が出される。 |
10月18日(明治3年 9月24日) | 明治政府が府県物産表を交付。近代日本最初の国家統計データ。 |
10月27日 | メスのフランス軍18万もプロイセンに降伏。 |
11月 2日(明治3年10月 9日) | 岩崎弥太郎が土佐開成社(九十九商会)を引き受ける。後の三菱商会。 |
11月 9日 | クルミエの戦い。フランス軍がプロイセン軍に勝利する。 |
1871年 |
1月 3日(明治3年11月13日) | 徴兵規則が制定される。徴兵令の前段階の規則で、全国の府・藩・県から1万石に付き5人を、身分を問わずに徴兵するというもの。 |
1月18日 | 普仏戦争のパリ攻略戦のさなか、パリ郊外にあるヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世が皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立。 |
1月25日 | フランス臨時国防政府のトロシュ首相が辞任。ジュール・ファーブルが首相となる。 |
1月28日 | プロイセン軍がパリを占領し、休戦協定が成立。 |
2月 6日 | フランス臨時国防政府、全軍の休戦を命令。 |
2月 8日 | フランス議会選挙。 |
2月17日 | フランス、アドルフ・ティエール政権樹立。 |
2月23日(明治4年 1月 5日) | 寺社領も上知となり、府・藩・県に吸収される。 |
2月26日 | フランス・ティエール政権と、ドイツ・ビスマルク政権との間で、講和予備条約調印。フランスはドイツ系住民の多いアルザス=ロレーヌ地方を失い、50億フランの賠償金を支払うことになった。 |
2月27日(明治4年 1月 9日) | 深夜、広沢真臣が自宅で惨殺される(広沢真臣暗殺事件)。犯人は不明。 |
3月 1日 | プロイセン軍が、戦勝パレードのためパリに入る。3日まで同市を占拠し、市民や国民衛兵の反発を買う。 |
3月18日 | モンマルトルを占拠したパリ市民らに対し鎮圧部隊が派遣されるが、逆に市民の抵抗によってルコント将軍らが殺害される。。ティエール政権は、首都をパリからベルサイユへ移す。 |
3月28日 | パリ市民らによる革命自治政府樹立宣言。いわゆるパリ・コミューン。ティエール政権は、革命政府鎮圧のため、プロイセンと交渉して、捕虜となっているフランス人兵士の解放を求める。 |
4月 2日 | フランス・ベルサイユ政府のマクマオン元帥率いる軍が、パリ・コミューンに対し攻撃を開始。 |
4月 2日(明治4年 2月13日) | 御親兵が編成される。廃藩置県実施時の不測の事態に備えて、薩摩・長州・土佐より天皇直属の兵として置かれた。兵数は8000人未満。薩摩兵を上京させるのに合わせて、当時鹿児島にいた西郷隆盛を政府に加える目的もあったとされる。 |
4月26日(明治4年 3月 7日) | 広沢真臣暗殺事件の捜査中に、公卿の愛宕通旭と外山光輔、元長州藩士大楽源太郎らによるクーデター計画が発覚。外山光輔が逮捕される(二卿事件)。 |
4月29日(明治4年 3月10日) | クーデター計画に関わったとして久留米藩への捜査がはじまり、藩知事有馬頼咸が弾正台の捜査を受け幽閉される(二卿事件)。 |
5月 2日(明治4年 3月13日) | 熊本藩から久留米藩へ兵が出され、久留米城が接収される。久留米藩参政で攘夷派の水野正名らが逮捕される(二卿事件・久留米藩難事件)。同藩に匿われていた大楽源太郎は逃亡。 |
5月 3日(明治4年 3月14日) | 愛宕通旭が逮捕される(二卿事件)。 |
5月 5日(明治4年 3月16日) | 大楽源太郎が久留米藩応変隊の川島澄之助らの手で殺害される(二卿事件)。 |
5月10日 | フランクフルト講和条約が締結。フランスとプロイセンの講和成立。予備条約で決まったアルザス=ロレーヌ地方の割譲、50億フランの賠償金がフランスに課せられる。またその賠償金を支払うことに同意するまでの間、フランス北東側はプロイセン軍が占領下に置いた。 |
5月21日 | フランス・ベルサイユ政権軍がパリ・コミューン政府のパリ市内に突入。パリ市街戦「血の週間」が始まる。 |
5月28日 | ベルサイユ政権軍がパリ市を制圧。パリ・コミューン政府崩壊。ベルサイユ軍による虐殺事件が起こり、その後多数の関係者が処刑された。また市街戦時にはコミューン側も市内にいたブルジョア銀行家などを殺害している。 |
6月10日 | 辛未洋擾。ジェネラル・シャーマン号事件の調査に来た米国アジア艦隊が朝鮮江華島で砲台と砲撃戦。その後、海兵隊が島に上陸。 |
6月27日(明治4年 5月10日) | 新貨条例公布。四進法の江戸時代の貨幣「両・分・朱」をあらためて、現代の通貨単位「円・銭・厘」とし、十進法に切り替えた法律。 |
7月 2日 | フランス議会選挙。国民議会が成立。 |
7月10日(明治4年 5月23日) | 太政官布告第251号により古器旧物保存方が布告される。全国で吹き荒れた廃仏毀釈運動による文化財の被害を受けて、町田久成らが提言し調査する『壬申検査』が始まる。町田のほか古美術研究者蜷川式胤、写真家横山松三郎、洋画家高橋由一らが協力して記録を進める。 |
8月31日 | アドルフ・ティエールが正式にフランス大統領となり、実質のフランス第三共和政が発足。ただし内実は、共和派、オルレアン派、ボナパルト派、王党派などが入り乱れる不安定な体制であった。 |
8月29日(明治4年 7月14日) | 廃藩置県。藩が廃止となり、府県制へ移行。統一国家体制樹立の目的とともに、維新前後の戦乱などで各藩の財政が深刻化していた事情もあった。そのため、大名らの抵抗は殆どなかった。 |
10月 8日 | シカゴ大火。死者250人以上、焼失建造物17400棟以上。高層建築が増えるきっかけとなった。 |
10月11日 | ハインリッヒ・シュリーマンがトロイアの発掘に着手。 |
1872年 |
1月12日(明治4年12月 3日) | 二卿事件の首謀者、愛宕通旭と外山光輔が切腹。 |
1月13日(明治4年12月 4日) | 創作物などで人斬りと称される幕末の尊皇攘夷志士、河上彦斎が明治政府によって処刑される。表向きは二卿事件や広沢真臣暗殺事件への関与嫌疑によるものだが、開国和親に転じた明治政府にとって、尊攘派の有力者だった河上彦斎の存在は危険と見られたため。 |
3月 1日 | 世界最初の国立公園「イエローストーン国立公園」設置。 |
4月 5日(明治5年 2月28日) | 明治政府が、兵部省を廃止して、陸軍省と海軍省を設置。 |
4月16日(明治5年 3月 9日) | 近衛条例制定。「近衛」兵の設立へ。 |
7月 9日(明治5年 6月 4日) | マリア・ルス号事件。横浜港に寄港していたペルー船籍のマリア・ルス号から数人の清国人が逃亡しイギリス軍艦アイアンデューク号に助けを求める。イギリス政府は清国人が奴隷として輸送される途中であったと見て、日本政府に救助を要請。外務卿副島種臣の判断で、大江卓神奈川権令が指揮し、船内捜索で230人の清国人が劣悪な環境に置かれているのを発見する。 |
8月 7日(明治5年 7月 4日) | マリア・ルス号事件で、明治政府は同船の横浜出港を禁止。 |
8月30日(明治5年 7月27日) | マリア・ルス号事件に関する特設裁判で、清国人を解放することを条件に出港を許可する判決が出される。これに対し同船側は不服を申し出る。また同船側弁護士フレデリック・ヴィクター・ディキンズは、奴隷問題について、日本の芸娼妓制度も人身売買と指摘。この事件はさらにペルー政府が日本を訴え国際仲裁裁判に発展した。 |
10月 1日 | ベルギーに「国際寝台車会社」が設立される。のちオリエント急行を運行した会社。 |
10月14日(明治5年 9月12日) | 日本で始めての、新橋駅-横浜駅の鉄道開業。新橋駅は現在の新橋駅ではなく、汐留にあった旧新橋駅。 |
10月21日 | サンフアン諸島国境紛争に、ドイツ皇帝が仲介し、アメリカ側の主張に基づいて、イギリスとアメリカの両国が合意。国境が確定する。 |
10月22日 | 国際寝台車会社が、ベルギーのオーステンデとドイツのベルリンの間で特急の運行をはじめる。 |
11月 2日(明治5年10月 2日) | 芸娼妓解放令。マリア・ルス号事件裁判で芸娼妓制度が人権問題にされたため、借金によって強制奉公させられてる遊女を解放する目的で発布される。急に決定されたことから、解放娼妓の社会復帰等政策がなかったため、実質私娼の身分等で妓楼に残ることになり、効果は低かったと言われる。一方で根本原因である貧困対策、女性教育普及、女性を雇用する軽工業発展へのきっかけにもなった。 |
12月 4日 | メアリー・セレスト号事件。10人が乗っていた同船が、アゾレス諸島付近の海域で無人で漂流しているのを、デイ・グラツィア号が発見。積み荷の工業用アルコールと食料はほぼそのままだったが、船内は荒らされており、救命ボートも降ろされていた。何が起きたのか、乗っていた10名も不明のまま。積み荷のアルコールが引火したのに驚き急いで脱出したが遭難したという説が有力。のちにコナン・ドイルが小説に書いたことで有名になり、まるで人だけがこつ然と消えたかのようなオカルト的な話として知られるようになった。 |
12月15日(明治5年11月15日) | 太陽暦への変更に合わせて、太政官布告第342号により、神武天皇即位紀元(いわゆる「皇紀」)が制定される。紀元前660年を基準とした暦。 |
12月28日(明治5年11月28日) | 徴兵告諭が出される。 |
12月29日(明治5年11月29日) | 奇兵隊出身の御用商人山城屋和助(野村三千三)が陸軍の公金およそ65万円(国家歳入の1%に及ぶ)を不正に融資を受けて生糸相場に手を出し、莫大な負債を抱えた責任を取るため陸軍省内で割腹自殺。通称山城屋事件。 |
1873年(明治6年) |
1月 1日(明治5年12月 3日) | 明治政府が、太陰暦(天保暦)をやめ、太陽暦を採用。明治5年12月3日を同6年1月1日と改める改暦を実施。 |
1月 8日 | ハワイ王国の第5代国王カメハメハ5世が死去したため、憲法により王国初の選挙が行われ、カライママフ系のウィリアム・チャールズ・ルナリロが即位する。 |
1月10日 | 徴兵令施行。 |
2月 7日 | 太政官布告で敵討ちが禁止される。 |
7月28日 | 税制の統一のため、地租改正法と地租改正条例を公布。年貢・田租に代わる地価の3%の地租を定める。トラブルが相次ぎ、地租改正一揆が各地で起こる。 |
10月15日 | 征韓論の是非を巡る対立で、西郷隆盛が下野をちらつかせて三条実美を脅し、朝鮮への使節派遣を決定させる。しかし責任を感じた三条実美はまもなく病気で倒れる。 |
10月23日 | 明治六年政変。三条実美の代わりに岩倉具視や大久保利通らが主導権を握り、朝鮮への使節派遣は延期。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが下野する。 |
1874年(明治7年) |
1月14日 | 喰違の変。赤坂にある仮皇居を退出した岩倉具視が、赤坂喰違坂で高知県士族武市熊吉、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の9人に襲われ負傷。 |
1月17日 | 武市熊吉ら9人が逮捕される。 |
2月 1日 | 佐賀の乱。前参議江藤新平らを擁立した征韓党などが佐賀で官金預かり業者小野組の店舗を襲う。政府、これを反乱とみなす。 |
2月 3日 | ハワイ王国の第6代国王ルナリロが肺結核で病死する。 |
2月 4日 | 政府、熊本鎮台司令官谷干城に佐賀鎮圧を命令。谷は反対したが派兵を決める。 |
2月 5日 | 三条実美、佐賀出身で初代秋田県権令(知事)の島義勇に佐賀鎮撫の説得を依頼。島は受諾して佐賀へ向かうも、新任の岩村高俊県令と同船した際の岩村の態度に反発し、江藤らの軍に加わることを決意。憂国党代表に擁立される。 |
2月 9日 | 内務卿大久保利通、佐賀に対して、東京鎮台、大阪鎮台を動員して征討軍を派遣。 |
2月12日 | ハワイ王国の第7代国王デイヴィッド・カラカウアが即位する。 |
2月15日 | 佐賀県令岩村高俊と江藤新平らの交渉が成立せず、江藤らは佐賀城の佐賀鎮台を攻撃。鎮台軍は大きな被害を出して敗走。 |
2月20日 | 大久保利通、政府軍を率いて博多に到着。 |
2月22日 | 政府軍本隊が朝日山で、佐賀軍と衝突。 |
2月23日 | 寒津川・田手川で、政府軍と佐賀軍が戦い、佐賀軍が敗走。情勢打開のため、江藤新平は味方にも内密に離脱し鹿児島の西郷隆盛の元へ支援要請に向かう。 |
2月27日 | 政府軍が佐賀軍に対し総攻撃を行う。佐賀軍は大敗を喫する。乱は事実上終結。 |
2月27日 | 江藤新平、鹿児島で西郷隆盛に支援を要請するも同意を得られず、高知県へ向かう。 |
2月27日 | 島義勇、鹿児島で逮捕される。 |
3月29日 | 江藤新平、高知県で逮捕される。 |
4月13日 | 大久保利通、助命嘆願を黙殺し江藤新平、島義勇を処刑。 |
5月 6日 | 日本による台湾出兵。 |
7月 9日 | 喰違の変の首謀者らに死刑判決が下る。 |
10月 9日 | 万国郵便連合が設立される。 |
10月11日 | 新橋駅構内で、ポイント通過中の機関車と貨車が脱線転覆、客車が脱線する事故が起こる。日本で最初の鉄道事故とみられる。死傷者はなし。 |
1875年(明治8年) |
1月 8日 | 外国郵便の業務が日本に移管され、横浜郵便局(現・横浜港郵便局)で開業式が行われる。 |
2月13日 | 平民苗字必称義務令により、国民は公的に名字を持つことになる(江戸時代は公家や武士以外の百姓や町人らの名字は公的に使えなかっただけで、名字がなかったわけではない)。 |
4月 4日 | 花見のため水戸家を訪れた明治天皇に木村屋のあんパンが提供される。天皇・皇后ともこれを非常に気に入り、宮中御用達となる。 |
5月20日 | パリでメートル条約制定。フランス革命時に定められたメートル法をもとに度量衡の国際基準を制定。またこの基準となるメートル原器とキログラム原器を正確で安定的なものに置き換えることも話し合われた。 |
6月 1日 | 気象記念日。東京気象台が気象観測を始める。 |
9月20日 | 江華島事件。22日にかけて、朝鮮の首都漢城に近い漢江河口の江華島付近で、測量中の日本の軍艦雲揚と朝鮮側の砲台が交戦した事件。 |
1876年(明治9年) |
2月26日 | 前年の江華島事件を受けて、朝鮮の江華島において、日本と朝鮮の間で日朝修好条規が締結される。日本側は外交関係の樹立と開港の目標が達成できたことで、朝鮮側は冊封国としての体面を保てることで成立した。しかし日本側が圧力をかけたこと、当初朝鮮側が問題にしていなかった関税や裁判権の問題が噴出したこと、欧米がこれに倣って開国を迫ったことで、後々朝鮮の反感が膨らむこととなった。 |
3月 3日 | ケンタッキー州のランキン近郊で、空から生肉のようなものが降ってくるという現象が起きニュースとなる。動物の肉という説の他に、塊を作る藍藻のネンジュモなどの説もある。 |
3月17日 | アメリカ陸軍と先住民とのパウダー川の戦い。 |
5月 9日 | 上野山の寛永寺の境内跡に上野公園開園。 |
6月17日 | アメリカ陸軍と先住民とのローズバッドの戦い。 |
6月25日 | リトルビッグホーンの戦い(グリージーグラス川の戦い)。アメリカ陸軍のカスター第7騎兵連隊長がスー族やシャイアン族を掃滅しようとして奇襲をかけるが逆襲されて全滅する。 |
7月20日 | 明治天皇が灯台巡視船「明治丸」に乗って、東北地方巡幸を終え横浜港に帰着。海の日の起源(1941年に村田省蔵逓信大臣の提唱により制定)。 |
10月24日 | 熊本で神風連(敬神党)の乱が勃発。敬神党を結成した太田黒伴雄らが熊本鎮台司令官種田政明、参謀長高島茂徳、熊本県令安岡良亮らを邸宅に襲撃し殺害、さらに熊本城内の熊本鎮台を襲って兵士らを殺害して営所を制圧する。 |
10月25日 | 熊本鎮台士官で難を逃れた児玉源太郎が指揮して神風連に対し反撃。指導者層の加屋霽堅・斉藤求三郎が戦死、太田黒伴雄が負傷して自刃したため神風連は瓦解。多数が自殺するなど死者124名を出す。政府側も兵士ら60名が死亡。鎮台兵の弱さが西南戦争に至る各地の反乱を招いたとも言われる。 |
10月27日 | 秋月の乱。福岡県秋月で、神風連の乱の発生を知った秋月士族らが今村百八郎(宮崎増賀)を擁立して挙兵。今村の実兄の宮崎車之助(重遠)や磯淳らも加わることに。今村は警察官穂波半太郎を殺害し、兵を率いて豊津に向かう。 |
10月28日 | 萩の乱。山口県の萩で元参議前原一誠ら殉国軍が武装蜂起。県庁襲撃は断念し東上を計画。 |
10月29日 | 武装決起した秋月党の勢力が同時挙兵を約した旧豊津藩士族の杉尾十郎らのもとへ来るが杉尾らは挙兵せず。決起の交渉中に、豊津側の通報を受けた小倉鎮台の乃木希典率いる歩兵第14連隊が襲撃。秋月党は応戦するも敗走。 |
10月29日 | 思案橋の変。萩の乱の発生を知った旧会津藩士族永岡久茂ら14人が千葉県で蜂起するために思案橋から出港しようとして、通報で駆けつけた警察官と斬り合いとなった事件。 |
10月31日 | 秋月党は解散し、宮崎車之助、磯淳、土岐清、戸原安浦、戸波半九郎、磯平八、宮崎哲之助ら幹部7人は自刃。今村百八郎ら27人は抗戦のため秋月へ戻り、翌11月1日、秋月の政府軍を襲撃するも戦局は好転せず散開。 |
10月31日 | 萩の殉国軍は悪天候で東上を断念し、萩に戻るが、すでに到着していた広島鎮台などの政府軍と交戦。前原は幹部5人で天皇直訴を計画し、殉国軍を小倉信一らに任せて別行動を取る。 |
11月 5日 | 前原一誠ら宇竜港で通報され逮捕される。 |
11月 6日 | 萩の殉国軍も鎮圧され、萩の乱は終結。 |
11月24日 | 今村百八郎が逮捕され秋月の乱は終結。 |
12月 3日 | 福岡裁判所にて、秋月の乱で逮捕された今村百八郎と、佐賀士族に挙兵の協力を求めていた益田静方が死刑判決となり即日執行。 |
12月 3日 | 山口裁判所・萩臨時裁判所にて、萩の乱の幹部らに対する死刑判決が言い渡され即日執行。 |
12月23日 | オスマン帝国が成文憲法を発布し、議会を招集。立憲君主制となる。 |
1877年(明治10年) |
1月 | 地租改正反対の一揆を受けて、地租を100分の3から100分の2.5に減額。 |
1月11日 | 大警視川路利良の命で、中原尚雄ら鹿児島県出身の警視庁警察官24名が帰郷。 |
1月29日 | 政府、陸軍の鹿児島にある草牟田火薬庫の弾薬を密かに運び出し赤龍丸に移す。鹿児島私学校の生徒らが、火薬庫を襲撃。 |
2月 1日 | 鹿児島私学校の使者として西郷小兵衛が大隅小根占の西郷隆盛の元を訪れ、火薬庫襲撃事件と警官24名の帰郷について説明。西郷は鹿児島へと戻る。 |
2月 3日 | 私学校の関係者が、鹿児島に帰郷した中原尚雄らを西郷暗殺を図ろうとしたとして捕らえ、拷問にかけ自白を強要し、これが西南戦争のきっかけの一つとなる。 |
2月 9日 | 川村純義が海路鹿児島に到着し、西郷隆盛との会談を求めるが失敗に終わる。また鹿児島に帰郷していた野村綱(鹿児島出身。元宮崎県学務課長・宮崎学校校長)も捕らえられ、大久保利通から西郷暗殺の密命を受けていたと自白させられる。 |
2月15日 | 西郷軍が鹿児島を出発。西南戦争が始まる。 |
2月19日 | 日本が万国郵便連合に加盟。 |
2月19日 | 明治政府、西郷軍征討の勅令を発する。 |
2月19日 | 熊本城内で火災が発生し天守閣などが焼失。原因は不明だが、西郷軍に対する籠城作戦のため、政府軍側が燃やしたという説が有力。 |
2月21日 | 西郷軍が熊本城の包囲攻撃を開始。 |
2月25日 | 野村文夫が神田雉子町(現・東京千代田区神田司町)に『團團社』を設立。 |
3月 1日 | 田原坂方面で政府軍と西郷軍の戦闘が激化。以降、両軍は一進一退を繰り返す。 |
3月 1日 | 政府軍の軍艦「孟春」が日向細島港に入港。 |
3月 4日 | チャイコフスキーのクラシックバレエの代表作品『白鳥の湖』が初演される。 |
3月10日 | 政府の勅使柳原前光らが鹿児島に入り、島津久光の上京を促す。久光、中立を表明した上でこれを拒絶。前光、西郷軍の武器などを没収。また私学校生徒らによって投獄されていた中原尚雄ら帰郷警察官24名を救出。神奈川丸で東京へ移送。 |
3月12日 | 熊本城そばの段山を巡って西郷軍と鎮台兵が戦闘。 |
3月19日 | 政府軍別働第2旅団が洲口・八代付近に上陸。続けて日奈久にも上陸を開始し、そのまま北上。 |
3月20日 | 政府軍、田原坂方面の西郷軍に対して集中砲火を行い、突撃を開始。西郷軍は応戦できず田原坂から植木方面へ退却。政府軍も田原坂攻防の20日間で大きな人的被害を出す。 |
3月20日 | 八代から北上中の政府軍と熊本から南下した西郷軍が氷川付近で交戦。 |
3月23日 | 政府軍、植木方面への攻撃を開始。 |
3月24日 | 野村文夫が『團團珍聞』(マルマルチンブン)を創刊。日本における週刊誌の原点。 |
3月25日 | 政府軍別働第3旅団も八代へ上陸を開始。政府軍再編成。西郷軍も鹿児島で追加徴兵。 |
3月26日 | 西郷軍が熊本市街を流れる坪井川と井芹川の水をせき止め氾濫させる水攻めを実施。熊本城西側などが水没。熊本南方の小川方面の西郷軍を破り、政府軍別働第1旅団(第2旅団から再編)が占領。 |
3月29日 | 政府軍軍艦「浅間」が日向細島港に入港。 |
3月30日 | 政府軍近衛鎮台軍が、隈府を攻撃。西郷軍がこれを撃退。一方、政府軍別働第1旅団、第2旅団は、熊本南郊の松橋、甲佐、宇土の一帯へ進出。西郷軍と激しく交戦。 |
4月 1日 | 政府軍別働第1旅団が、宇土を占領。 |
4月 3日 | 政府軍別働第3旅団が、甲佐を占領。西郷軍は退却。 |
4月 4日 | 鹿児島から人吉方面へ迂回しながら北上してきた西郷軍が八代の政府軍を攻撃。以降2週間に渡り八代近郊で戦闘を繰り返す。 |
4月 5日 | 政府軍第3旅団が、鳥巣方面へ進出。西郷軍敗走。 |
4月 6日 | 政府軍別働第4旅団が、宇土に上陸。八代萩原堤で政府軍と戦闘中の西郷軍熊本共同隊メンバーだった宮崎八郎(中江兆民の弟子で宮崎滔天の兄)が戦死。 |
4月 7日 | 政府軍が、鳥巣方面から退却。 |
4月 8日 | 熊本城内の鎮台兵が出撃し、北上してきた政府軍と連絡。また西郷軍から物資を奪って城内へ引き上げる。 |
4月 9日 | 政府軍が再度、隈府を攻撃。西郷軍の反撃に遭うも、西郷軍も退却。 |
4月10日 | 政府軍が再度、鳥巣再攻略を開始。 |
4月12日 | 政府軍別働第1旅団、別働第3旅団が緑川中流を横断して北上。西郷軍は敗走し永山弥一郎が自刃。一方、緑川下流の別働第2旅団と第4旅団は一進一退。 |
4月13日 | 政府軍別働第2旅団と別働第4旅団が緑川を突破し川尻を占領。別働第2旅団の山川浩中佐率いる選抜隊が熊本城に到達。 |
4月14日 | 西郷軍、本営を熊本城外の二本木から東の木山(益城町)へ移し、各方面の部隊に大津-木山-御船の南北線へ兵力を集中させるよう指令。 |
4月15日 | 西郷軍が植木、木留など城北方面から、熊本城南方面へ退却。 |
4月16日 | 札幌農学校教頭のクラーク博士が、Boys, be ambitious の言葉を残して辞任。 |
4月17日 | 熊本市街東方に陣を敷いた西郷軍に対し政府軍が順次攻撃を開始。 |
4月19日 | 政府軍と西郷軍が全面衝突。翌20日、戦況不利の中で野村忍介、池辺吉十郎らの意見により更に東方の矢部浜へ退却することを決定。 |
4月21日 | 西郷軍矢部浜で軍議を開き、人吉を拠点として薩摩・大隅・日向に勢力を広げることを決め、諸隊を再編成する。 |
4月23日 | 政府軍別働第1旅団・別働第3旅団の一部を鹿児島に派遣。 |
4月27日 | 西郷軍、人吉に本営を置く。 |
4月28日 | 西郷軍、中島健彦率いる振武隊を鹿児島に派遣。 |
4月30日 | 西郷軍、野村忍介率いる奇兵隊を豊後方面へ派遣。椎葉山を経て、日向富高・細島方面へ進出。 |
5月 1日 | 政府軍別働第2旅団、球磨方面攻略を開始。一方、西郷軍振武隊は鹿児島攻略を開始。以降、約1ヶ月に渡って鹿児島周辺で攻防が繰り広げられる。 |
5月 3日 | 岩村通俊が鹿児島県令として鹿児島に着任。 |
5月 4日 | 政府軍別働第3旅団、大口方面攻略を開始。西郷軍、日向三田井(高千穂)を抑え、延岡方面へ進出。ここを拠点に、宮崎方面へも兵を出し、旧日向国の支配化を進めていく。 |
5月 5日 | 政府軍、田ノ浦に上陸。 |
5月 6日 | アメリカ先住民族ラコタ・スー族の一支族、オグララ族の戦士クレイジー・ホースがアメリカ政府に降伏する。 |
5月 8日 | 辺見十郎太率いる大口の西郷軍雷撃隊が政府軍に反撃し勝利。 |
5月11日 | 辺見十郎太率いる西郷軍雷撃隊が久木野まで、淵辺群平率いる鵬翼隊が佐敷まで、池辺吉十郎率いる熊本隊が矢筈岳まで進出。 |
5月12日 | 野村忍介率いる奇兵隊が、豊後重岡を占領。 |
5月13日 | 野村忍介率いる奇兵隊が、豊後竹田を占領。 |
5月14日 | 西郷軍正義隊、延岡鏡山の熊本鎮台軍を攻撃。 |
5月15日 | 政府軍第1旅団、熊本鎮台軍が豊後竹田の攻略戦を開始。 |
5月20日 | 久木野に進出した政府軍別働第3旅団に対し、淵辺群平率いる大野の西郷軍干城隊が政府軍に反撃し勝利。 |
5月23日 | 政府軍別働第3旅団、大野を攻略。また矢筈岳の西郷軍を撃破。 |
5月24日 | 鹿児島紫原で政府軍と西郷軍が激戦となる。西郷軍敗走するも政府軍にも大きな被害が出る。 |
5月25日 | 政府軍第1旅団、三田井を占領。日之影の西郷軍と対峙。 |
5月28日 | 西郷軍の桐野利秋、鹿児島県宮崎支庁(現宮崎県宮崎市)に入り、宮崎軍務所を置く。不換の軍票(軍事紙幣)である「西郷札」の印刷を始める。この西郷札の強制通用により、宮崎では甚大な経済被害が出る。 |
5月29日 | 政府軍が豊後竹田を攻略。 |
5月31日 | 西郷隆盛が宮崎軍務所に入る。 |
6月 1日 | 政府軍が人吉への総攻撃を開始する。西郷軍奇兵隊は臼杵を占領。 |
6月 4日 | 人吉の西郷軍が降伏。 |
6月 7日 | 政府軍、久木野を攻略。 |
6月10日 | 政府軍、臼杵を攻略。西郷軍奇兵隊は、日向方面へ撤退。 |
6月12日 | 西郷軍、都城で軍を再編成。 |
6月19日 | 西郷軍の河野主一郎率いる破竹隊が飯野を攻撃するも失敗。 |
6月20日 | 政府軍、大口を攻略。 |
6月23日 | 政府軍、川内川流域の西郷軍に対し総攻撃を行い、翌日にかけて鹿児島までの西郷軍勢力を駆逐。 |
6月25日 | 西郷軍雷撃隊、大口再攻略を断念し退却。 |
7月 6日 | 政府軍、国分に進出し、踊の西郷軍を攻撃。西郷軍、大窪まで退却。 |
7月 8日 | 西郷軍振武隊、百引の政府軍を攻撃し勝利する。 |
7月11日 | 政府軍、小林を占領。 |
7月12日 | 西郷軍雷撃隊、財部に進出し、赤坂の政府軍を攻撃するも攻略ならず。また西郷軍奇兵隊・振武隊は大崎方面で政府軍に勝利するも末吉への転進のため退却。 |
7月14日 | 政府軍、高原を占領。 |
7月17日 | 西郷軍、高原の政府軍に対し全面攻勢に出て、激戦となるが攻略は失敗に終わる。 |
7月21日 | 政府軍幹部、都城総攻撃のための軍議を行い、各軍の配置を決定。 |
7月22日 | 政府軍、野尻を占領。 |
7月23日 | 政府軍と西郷軍が岩川で交戦し激戦となるが、西郷軍は末吉へと退却。 |
7月24日 | 政府軍、都城へ総攻撃を行う。西郷軍、防衛ならず敗走。政府軍、庄内、末吉、財部など都城盆地一帯を制圧。 |
7月25日 | 政府軍、山之口を制圧。 |
7月27日 | 政府軍、飫肥を占領。 |
7月28日 | 政府軍、紙屋で西郷軍と交戦。 |
7月29日 | 政府軍、高岡を占領。 |
7月30日 | 政府軍第3旅団、第4旅団、別働第3旅団が宮崎総攻撃を開始。 |
7月31日 | 政府軍、増水している大淀川を渡河して宮崎へ侵攻し、虚を突かれた西郷軍は、佐土原へ退却。 |
8月 1日 | 政府軍、佐土原の西郷軍を撃破。宮崎周辺を占領下に置く。政府軍新撰旅団が宮崎に入港。 |
8月 2日 | 西郷隆盛、延岡大貫村に入る。米良方面の干城隊も美々津へ退却。同日、政府軍、高鍋を占領。 |
8月 3日 | 政府軍、美々津攻略を開始。西郷軍も応戦し、激戦となる。 |
8月 4日 | 政府軍別働第2旅団が、迂回して鬼神野・渡川方面を攻撃。西郷軍、山陰(やまげ)方面へ退却。 |
8月 6日 | 西郷隆盛、各部隊に教書を出して督励。 |
8月 7日 | 政府軍、山陰を攻略し、続けて富高も攻撃。西郷軍、美々津から退却。また本営を熊田(北川)へ移す。 |
8月10日 | 西郷隆盛、大貫から無鹿・長井へと拠点を移す。 |
8月12日 | 政府軍第1旅団、別働第2旅団、別働第3旅団、別働第4旅団、新撰旅団で、延岡総攻撃を開始。西郷軍も応戦するが衆寡敵せず和田峠方面へ敗走。 |
8月14日 | 政府軍延岡市街地へ突入。西郷隆盛、可愛岳に到着し自ら陣頭指揮を取ることを決断。 |
8月15日 | 西郷隆盛、この戦争で初めて自ら陣頭指揮を行い、和田越で政府軍と交戦。政府軍も山県有朋が指揮を取り、激戦となる。しかし政府軍の猛攻によりついに長井へ敗走。 |
8月16日 | 西郷隆盛、長井村の児玉熊四郎邸に置いた本営で、全軍の解散を命令。関係書類や、自らの陸軍大将の軍服を焼却。西郷が降伏も認めたことから、降伏者が相次ぐ。西郷はここで最終決戦に及ぶつもりだったとも言われるが、一旦三田井(高千穂)まで退くことを決定。 |
8月17日 | 西郷軍残存兵1000名前後が、夜半に可愛岳に移動。 |
8月18日 | 西郷軍残存兵が、政府軍包囲網を攻撃。不意を突かれた政府軍は混乱して後退。西郷軍は武器弾薬食料を奪って、三田井方面へと向かう。 |
8月21日 | 西郷軍が、三田井に到着。 |
8月22日 | 西郷隆盛、残存軍をもって、山中を鹿児島方面へ向かうことを決める。 |
8月24日 | 西郷軍、神門に到着。 |
8月26日 | 西郷軍、村所に到着。 |
8月28日 | 西郷軍、小林に到着。しかしここで政府軍第2旅団が行く手を塞いでいたため、加治木方面を経て鹿児島に入ることを断念。迂回路を進む。 |
9月 1日 | 西郷軍、政府軍の隙きを突いて鹿児島へ入る。私学校と城山を占領。鹿児島市街地を制圧。 |
9月 3日 | 政府軍が次々と鹿児島へ到着。西郷軍は米倉の占領に失敗し城山へ退却。 |
9月 5日 | クレイジー・ホースが白人らによって刺殺される。 |
9月 6日 | 政府軍、城山を包囲。 |
9月 8日 | 山県有朋が鹿児島に到着。攻略より包囲を優先させる。 |
9月19日 | 西郷軍の山野田一輔と河野主一郎が、西郷の助命を談判するため、西郷の縁者である政府軍の海軍中将川村純義の元へ軍使として赴く(西郷隆盛は二人を政府側に「決死と義挙の意」を伝えるためとして送り出した)。 |
9月22日 | 西郷隆盛、決死の檄を飛ばす。 |
9月23日 | 山野田一輔が川村純義の降伏勧告書を持って戻る。 |
9月24日 | 城山の戦い。早朝、政府軍が城山の総攻撃を開始。負傷した西郷隆盛は、別府晋介の介錯で自刃し、残りの幹部も皆戦死、もしくは自決して、午前9時ころ戦闘は終了。西南戦争が終結する。 |
10月 1日 | 東海道線の住吉駅と西ノ宮駅の間で上り旅客列車と下り回送列車が衝突。乗員3名が死亡。日本最初の鉄道死亡事故とみられる。回送列車は西ノ宮駅で旅客列車と行き違う予定だったが、間に臨時列車が入ったため、臨時列車の後に出発してしまい旅客列車と正面衝突してしまった。 |
10月17日 | 華族学校が開校。廃止された皇学所と漢学所(大学寮代を受け継いだもので、その後の大学校代)の再興という形で、幕末以来の京にあった公家の教育機関を受け継いだもの。 |
12月 6日 | エジソンが蝋管蓄音機での録音再生に成功する。この時録音されたのは、童謡『メリーさんのひつじ』。この時録音されたレコードはすでに再生不可能になっている。 |
12月 | ハートレー事件。イギリスの商人ジョン・ハートレーが、上海から日本へアヘンを密輸入しようとして発覚。日本政府はハートレーを、日英修好通商条約の貿易章程違反で告訴。ところが翌年の領事裁判でイギリス政府はアヘンを「薬用」と主張し無罪判決。上訴はイギリスで行われることから、日本政府は外交交渉で解決を求めたが失敗に終わる。この事件と、後に起こるヘスペリア号事件は、不平等条約撤廃運動を盛り上げるきっかけとなった。 |
| この年、内国勧業博覧会で美術館が作られる。 |
1878年(明治11年) |
2月 4日 | 法制局の大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅が、華族を「公」「侯」「伯」「子」「男」の5等級とする案を提出。 |
2月14日 | オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世が制定間もない憲法を停止し、専制体制を復活する。 |
3月25日 | 家庭用の配電が始まり、また東京・銀座木挽町に開設された中央電信局の開局祝賀会が虎ノ門の工部大学校で開かれ、その大ホールに50個のアーク灯が点灯される。 |
5月14日 | 紀尾井坂の変が起こる。内務卿大久保利通が、麹町区紀尾井町清水坂付近を馬車で走行中に石川県士族島田一郎ら6人によって殺害される。 |
11月 2日 | 東京府に15区が設置される。 |
12月 5日 | 軍令を担当した陸軍参謀本部が陸軍省から独立する。海軍軍令機関も兼任。 |
12月 | イングランドの研究者ジョゼフ・ウィルスン・スワンが、40時間ほど持続する白熱電球を完成。 |
1879年(明治12年) |
1月 4日 | 梟首刑が廃止される。罪人を斬首にしたあと、その首を晒す刑罰。 |
1月11日 | 南部アフリカでイギリス軍が在地の独立国ズールー王国へ攻撃を開始。ズールー戦争が始まる。 |
1月22日 | ズールー軍が、イサンドルワナの戦いで、イギリス軍を撃破する。 |
1月31日 | 高橋お伝が斬首刑に処される。愛人の男の借金返済のため、金を借りようとした相手の古物商の男とトラブルとなり殺害した罪で。日本最後の斬首刑。 |
3月11日 | 明治政府が琉球藩を廃して沖縄県を設置するため、琉球藩王・尚泰王に東京居住を命じる。 |
3月27日 | 琉球処分官松田道之が首里城で廃藩置県を宣言。 |
3月29日 | カンブラの戦いでズールー軍が大敗。 |
4月 4日 | 琉球藩が廃止され、沖縄県が設置される。 |
4月 5日 | チリが、資源をめぐって対立するペルーとボリビアの同盟破棄を求め、両国に宣戦布告。「太平洋戦争」が勃発する。 |
6月 1日 | ズールー戦争で、イギリス軍に加わっていたナポレオン3世の息子ナポレオン・ウジェーヌ皇太子が戦死する。 |
6月 4日 | 東京招魂社を靖國神社に改称する。 |
7月 4日 | イギリス軍が、ズールーの首都ウルンディを攻め落とし、ズールー戦争が終結。同国は13の部族領に分割される。のち、トランスヴァールとナタールに分割合併され、イギリス植民地となる。 |
7月15日 | ヘスペリア号事件。コレラの流行している清からきたドイツ船ヘスペリア号に対し、日本政府が検疫のため長浦港への停泊を求めたのに対し、ドイツ政府は従わず、砲艦を護衛につけて横浜港へ入港を強行する。日本政府はドイツに抗議。またこれと前後して関東地方でコレラが流行したこともあり、日本国民の間で不平等条約撤廃を求める運動が高まる。 |
10月 8日 | アンガモスの海戦。ペルーとチリの艦船同士が砲撃戦を行い、チリがペルー唯一の装甲艦を拿捕。 |
10月21日 | エジソンが竹の繊維を使ったフィラメントを用いた白熱電球を発表する。 |
1880年(明治13年) |
1月 1日 | フランスのレセップスらが、パナマ運河の建設に取り掛かる。後に失敗に終わる。 |
2月28日 | 貿易金融・為替取引の横浜正金銀行が営業を開始する。 |
4月 5日 | 集会条例が制定される。 |
8月14日 | 1248年から建設が始まり、たびたび中断したドイツのケルン大聖堂が完成。 |
10月25日 | 現在の国歌のもととなった『君が代』が初演奏される。奥好義が旋律をつくり、林廣守が作曲し、フランツ・エッケルトが編曲したもの。 |
11月 3日 | 高評価を受けた『君が代』が天長節にあわせて発表される。当初は国歌としてではなく祝日の賀歌としての要素が強かった。 |
11月 6日 | シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴランがマラリア患者の血液中から、マラリア原虫を発見。 |
12月17日 | 最後の敵討ち事件。慶応4年に秋月藩の保守派干城隊の一派に惨殺された臼井亘理夫妻の息子の臼井六郎が、父親を殺害した一瀬直久を追い続け、この日、東京銀座付近でついに直久を発見し殺害、自首。世間を賑わし、日本最後の敵討ちと評された。臼井六郎は終身刑となった後、憲法発布の恩赦で釈放された。 |
1881年(明治14年) |
1月 | チリとペルー・ボリビアによる「太平洋戦争」で、チリ軍がペルー首都リマへ侵攻。ペルー政府はアンデス山中へ避難して抵抗するも劣勢に追い込まれる。 |
3月 | ハワイ王カラカウアが日本を訪れる。外国元首で初の訪日。日本との関係強化のため、カイウラニ王女と山階宮定麿親王との婚姻を要請する(のち謝絶される)。 |
6月30日 | 地租改正のための検地が終わり、地租改正事務局を閉鎖。地租改正は終了。 |
8月 1日 | 華族らが資金を出した日本最初の私鉄、日本鉄道の設立が決定する。 |
10月11日 | 明治十四年の政変。開拓使官有物払下げ事件をきっかけに、これを批判した大隈重信らが失脚。 |
11月11日 | 日本最初の私鉄、日本鉄道の設立特許条約書が下付されて設立される。 |
| 上野山に博物館が建設される。 |
| この年から1884年にかけて、ロシアや東ヨーロッパ各地で、ユダヤ人に対する虐殺事件「ポグロム」が頻発。難民がオーストリアなどに流入する。 |
1882年(明治15年) |
3月24日 | ロベルト・コッホが結核菌の発見を学会で報告する。 |
4月 6日 | 岐阜事件。板垣退助が岐阜で演説後に暴漢に襲われ重症を負う。「板垣死すとも自由は死せず」の事件。 |
10月 5日 | アメリカでロバート・ゴダード生誕。ツィオルコフスキーと並ぶ、ロケット研究者の草分け的人物。 |
1883年(明治16年) |
5月20日 | スンダ海峡のクラカタウ火山のひとつラカタ島のラカタ山で噴火が始まる。 |
7月28日 | ラカタ島が大噴火し、島の3分の2が吹き飛ぶ。火砕流は40km離れたスマトラ島ランプン湾に到達。大津波も発生し、死者は36417人に及ぶ。津波は日本にも到達しているほか、フランスでも潮位の変化が観測された。 |
7月28日 | 日本最初の私鉄、日本鉄道の上野~熊谷間が開業。華族らによる出資で建設されたが、予算不足の政府の代わりに鉄道敷設を進めたため、政府のバックアップが大きかった会社。計画上は東北、上越、中山道、北部九州で建設する予定だった。 |
10月 4日 | ベルギーの「国際寝台車会社」がパリからコンスタンティノープル(現イスタンブル)へ向かう国際豪華列車オリエント急行の運行を開始。 |
10月20日 | アンコン条約の締結。ペルー・ボリビアとチリの「太平洋戦争」が終結する。 |
11月28日 | 明治時代の迎賓館で、社交クラブだった鹿鳴館が開館。 |
1884年(明治17年) |
1月 4日 | イギリスでフェビアン協会が設立。暴力革命ではなく、議会政治などを経て漸進的に社会主義を進めていく組織。 |
1月 4日 | 松島事件。松島遊郭で兵士が警察署員に対して尿をかけたことがきっかけで、兵士1400名、警察官600名が出動して乱闘となる。死者2名、重軽傷者50名以上を出す。 |
1月 9日 | 大阪東区「本町曲がり焼」の大火。約1500戸が焼失。 |
4月 4日 | チリとボリビアがバルパライソ条約を締結し講和。ボリビアは唯一の沿岸領土をチリに譲渡することになり、内陸国になる。 |
6月 1日 | 東京気象台がはじめて天気予報を発表。6時、14時、21時の1日3回。 |
7月 7日 | 華族令制定。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵を定める。 |
7月20日 | ロシアの技術者アレクサンドル・モジャイスキーが蒸気エンジン付の飛行機を滑走台から発進させ、30mジャンプすることに成功。しかし操縦はできず、機体は落下して大破した。モジャイスキーは、1854年にプチャーチンが来日した際に同行しており、津波で沈没したロシア船ディアナ号の代わりに、戸田でヘダ号の設計建造を指揮した人物でもある。 |
11月15日 | 列強によるアフリカ大陸の分割を話しあうベルリン会議が開催(翌年2月26日まで)。 |
| この年、シカゴにホームインシュアランスビルが完成。鉄骨構造を持つ最初の高層ビルと言われる。10階建て42m。 |
1885年(明治18年) |
2月 5日 | ベルギー王レオポルド2世の私領「コンゴ自由国」が成立。残虐非道な支配が行われたことで知られる。 |
4月18日 | 特許を認める法律として明治18年太政官布告第7号が公布。 |
6月 2日 | 琵琶湖疏水起工。 |
8月14日 | 日本初の専売特許証を交付。特許第1号は、堀田瑞松が出願した「堀田錆止塗料及其塗法」。 |
8月19日 | 超新星SN1885Aをアイザック・ワードとエルンスト・ハルトヴィッヒが観測。アンドロメダ銀河内254万光年の距離にある星。supernovaと呼ばれた最初の星。他の銀河で発見された最初の星でもある。 |
10月13日 | 東海道線大森駅で深夜、旅客列車が分岐器上で脱線転覆。乗客1名が死亡。 |
11月23日 | 大阪事件。旧自由党の大井憲太郎らが朝鮮の改革派を武力支援しようとして139人が逮捕される。 |
12月22日 | 内閣制度が発足。太政官達第69号と内閣職権の制定により太政官制を廃止し、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任して、第1次伊藤内閣を組閣。 |
| イタリアがエリトリア地方を占領する。 |
1886年(明治19年) |
2月23日 | アルミニウムの電気分解法(ホール・エルー法)が発明される。 |
3月 2日 | 帝国大学令公布。東京の帝国大学が正式に設置される。 |
5月 8日 | コカ・コーラ、アトランタで発売開始。 |
6月10日 | ニュージランド北島のタラウェラ山が大噴火。約150名が死亡。 |
7月13日 | 時刻の基準となる標準時を定めた勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」が公布される。1888年1月1日の東経135度の子午線上の時刻を日本標準時とする、と定める。 |
9月 9日 | 著作権について定めたベルヌ条約が成立。これにより同条約加盟国では、著作した時点で著作権が自動で発生する無方式主義になる。 |
10月28日 | フランスから贈られたニューヨークの「自由の女神像」の除幕式が行われる。 |
1887年(明治20年) |
12月26日 | 保安条例の公布。三大事件建白運動を受けて、自由民権運動を弾圧するための法律。570人が東京市外へ追放される。 |
1888年(明治21年) |
4月 3日 | イギリスのロンドン市内にあるホワイトチャペルで売春婦が殺される事件が起きる。以後のおよそ1年にわたって連続する「ホワイトチャペル殺人事件」の一例目。8月から11月にかけての「切り裂きジャック事件」とも関連付けされる。 |
4月25日 | 市制および町村制公布。 |
5月 7日 | 25人に日本初の博士号が授与される。 |
8月31日 | イギリスのロンドン市内で売春婦を狙って体を切り刻んで殺害する「切り裂きジャック事件」が発生する。少なくとも11月9日までに5人の女性が殺害される。うち4人は被害者の年齢、職業、遺体の損壊状況が類似しているため、これが同一犯「切り裂きジャック」の犯行で間違いないとされているが、犯人の正体もわからないことから、ホワイトチャペル事件との関連も不明のまま。 |
10月14日 | 現存する最古の映画フィルムとされる『ラウンドヘイの庭の場面』が撮影される。監督・撮影はルイ・ル・プランス。ウェスト・ヨークシャー州のラウンドヘイにあるオークウッド邸の庭で、プランスの親族らが歩いている様子を撮影したもの。 |
11月 8日 | ロンドン警視庁のウォーレン警視総監が辞職。内務大臣との不和が原因だが、一連の猟奇殺人事件の影響、捜査を巡る対立なども要因。 |
| 華族学校に対し、明治天皇から『学習院』の勅額が下賜されて、宮内省管轄の官立学校「学習院」となる。 |
| 大阪市浪速区の遊園地に高さ31mの眺望閣と呼ばれる5階建ての建物が完成。日本最初の近代的高層ビルとされる。 |
1889年(明治22年) |
2月11日 | 大日本帝国憲法、皇室典範、議院法、貴族院令などが公布される。 |
2月11日 | 文部大臣、森有礼暗殺。歐化主義者だった彼の伊勢神宮での不敬な行動が原因とされるが、その元となった不敬事件の真実は不明。 |
2月12日 | 黒田清隆首相の超然主義演説。政府は政党の主張に対し超然として政策を進めていく、という意味の内容。 |
3月29日 | ニューヨークのオーバーン刑務所で、史上初めて電気椅子によって死刑が執行される。受刑者はウィリアム・ケムラー。すぐには死亡せず数度に渡る送電で死亡まで8分かかったと言われる。電気椅子を導入した背景には、直流送電を主張したエジソンが、ジョージ・ウエスチングハウスやニコラ・テスラの主張する交流送電を危険なものとして宣伝するために電気椅子を後押ししたという事情もある。 |
4月11日 | 東海道線安倍川付近で工事列車同士が衝突。4名が死亡。また名古屋へ向かうため便乗していた静岡県知事の関口隆吉が重症を負う。 |
4月20日 | オーストリアの都市ブラウナウで、税関吏アロイス・ヒトラーと妻クララの間にアドルフ・ヒトラーが生まれる。 |
4月22日 | アメリカ政府がインディアン・テリトリーへの白人の入植を認可。これにともない「ランドラッシュ」と呼ばれる移住ブームが起こる。 |
5月 5日 | パリ万博の目玉「エッフェル塔」が公開される。高さは312.3m。1930年にニューヨークにあるクライスラービルが完成するまで、世界一高い建物となる。当初はパリの文化人の間で大不評だった。 |
5月16日 | 博物館が、帝国博物館と改められる。現在の国立博物館の原型。 |
5月17日 | 東海道線の列車事故で重傷を負った静岡県知事の関口隆吉が破傷風で死亡。 |
9月23日 | 山内房治郎が「任天堂骨牌」という名称の花札製造会社を京都で創業。のちの任天堂。 |
11月15日 | ブラジル帝国の崩壊。近代改革や奴隷解放に反発した保守派らがデオドロ・ダ・フォンセカを擁立して軍事クーデター。皇帝一家は本家筋であるポルトガルや、フランスへ亡命。 |
11月18日 | 北海道炭礦鉄道設立。 |
12月11日 | 北海道の官営幌内鉄道の譲渡を受けて、北海道炭礦鉄道が営業を開始。 |
| この年、シカゴにオーディトリアムビルが完成(塔まで入れて高さ106m)。 |
| この年、大阪市北区に建てられた高さ39m、9階建ての凌雲閣が完成する。 |
1890年(明治23年) |
2月10日 | 裁判所構成法成立。 |
2月25日 | 日本麦酒醸造會社からヱビスビールが発売される。 |
3月 6日 | 明治政府が、三菱に丸の内一帯を払い下げる。 |
4月11日 | エレファント・マンことジョゼフ・ケアリー・メリックが死去。プロテウス症候群と言われる細胞・組織の異常増殖を起こす病気にかかった男性。 |
7月25日 | 集会及政社法制定により集会条例は廃止される。 |
7月 1日 | 第1回衆議院議員総選挙。 |
9月 9日 | 大阪西区「新町焼」の大火。約2100戸が焼失。 |
9月16日 | オスマン帝国の訪日使節団が乗った軍艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で遭難。地元住民が救助に当たる。 |
10月 9日 | フランス人発明家クレマン・アデールが蒸気エンジン搭載の動力飛行機エオール号の飛行試験を実施。20cmほど浮いて50m飛行したと言われる。コウモリのような独特の形状で軽量機だったが、操縦はできない構造であり、初飛行とは認定されていない。 |
10月29日 | 浅草に凌雲閣が完成。12階建て、高さ173尺(約52m・基盤も入れると66m)。10階まではレンガ造り、その上が木造2階建て。エレベーター搭載。これを日本の高層ビルの元祖という場合もある。 |
10月30日 | 『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)の発布。近代日本の新たな道徳教育の基本とされたもの。 |
11月 7日 | 鹿鳴館の隣接地に帝国ホテルが開業。設立は渋沢栄一と大倉喜八郎。 |
11月29日 | 大日本帝国憲法を、第1回帝国議会の開会の日に施行する。憲法とともに皇室典範、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法など基本的な法律も定められる。 |
11月29日 | 貴族院が開設される。 |
12月 4日 | 北里柴三郎とエミール・ベーリングが「血清療法」に関する論文を発表。 |
| カリフォルニア州知事で、パシフィック鉄道の創設者であるリーランド・スタンフォードが、亡くなった息子の名をつけたリーランド・スタンフォード・ジュニア大学を創設。通称スタンフォード大学。 |
1891年(明治24年) |
5月11日 | 日本を公式訪問中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ二世)が津田三蔵巡査に斬りつけられ負傷する(大津事件)。 |
5月12日 | 6個鎮台が廃止され6個師団が設置される。 |
5月31日 | シベリア鉄道起工式典がロシア皇太子ニコライ(後のニコライ二世)臨席のもとウラジオストクで挙行される。 |
9月 1日 | 日本鉄道上野-青森間全通。 |
10月28日 | 濃尾地震発生。6時38分にマグニチュード8程度の大規模な地震が発生。大規模な断層のズレによるもので、岐阜県と愛知県を中心に死者は7273人、重軽傷者17175人、家屋全壊14万2177戸と甚大な被害を出した。海外でも報道された。また近代地震研究のきっかけになった自然災害でもある。この時、富士山頂火口縁北側の牛ヶ窪から釈迦ヶ岳にかけて大規模な土砂崩れがあったという報告が静岡県より出ている。 |
12月14日 | 近衛が「近衛師団」となる。 |
12月22日 | 第2回帝国議会で自由党など「民党」が海軍予算の削減を主張し、樺山資紀海軍大臣が藩閥政府を支持する発言「蛮勇演説」を行い議会は紛糾。 |
12月25日 | 松方正義首相が初めて衆議院を解散。衆議院選挙が始まるが、選挙妨害で大混乱となる。 |
| ニューヨークワールドビルがニューヨークに完成。高さ106.4m、1955年に解体。 |
1892年(明治25年) |
10月31日 | アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの最初の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』が刊行。 |
11月25日 | ピエール・ド・クーベルタンが、ソルボンヌ大学で講演し、近代オリンピックの創設を訴える。 |
1893年(明治26年) |
1月 6日 | アメリカの地主やサトウキビ業者らによる武力クーデターでハワイ女王リリウオカラニが退位を強制され、ハワイ王国が滅亡。しかしアメリカ政府が併合を認めなかったため、暫定的にハワイ共和国が樹立する。日本は邦人保護を目的に巡洋艦2隻を派遣し牽制する。 |
3月 6日 | 三多摩地区が神奈川県から東京府に編入される。 |
5月10日 | トマト裁判。米国連邦最高裁でトマトが野菜か果物かの論争で野菜の裁定がくだされる。 |
1894年(明治27年) |
6月25日 | ヘルマン・オーベルト生誕。ドイツで宇宙旅行協会を立ち上げ、ロケット開発に大きな影響を与えたロケット愛好家にして研究者。 |
7月25日 | 日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸の豊島沖で海戦。日本側が英国国旗を掲げていた清国の兵員輸送船高陞号を撃沈したことが戦時国際法上正しかったのかが問題になる。 |
7月29日 | 成歓の戦い。日本軍と清国軍が朝鮮半島で衝突、日本軍が勝利。戦死したラッパ手の木口小平が死ぬまでラッパを離さなかったことから、日本中で賞賛される。しかし当初は同日に死亡した白神源次郎が間違ってラッパ手として発表され賞賛された。 |
7月31日 | 発明家ハイラム・マキシムが、ロンドン郊外で「フライングマシン」という全長60m・翼長32mもある巨大な複葉機で浮上試験を行う。滑走レールから浮き上がったとされるが機体は大破。飛行したとは認められていない。マキシムはマキシム式機関銃の発明者として有名。 |
8月 1日 | 日本と清国が宣戦布告により、正式に開戦。 |
9月 | フランス軍内部で、ドイツへの情報漏洩の噂が広がる。 |
10月 5日 | 日本初の月刊列車時刻表が発売される。 |
10月15日 | フランス軍情報漏洩事件で、参謀本部付きのユダヤ人アルフレド・ドレフュス砲兵大尉が証拠のないまま逮捕される。数少ないユダヤ人将校であるということが大きな要因となった。 |
11月24日 | 孫文がハワイのホノルルで反清組織の興中会を創立する。 |
| マンハッタン生命保険ビルがニューヨークに完成。高さ106m、1964年に解体。 |
| この年、イギリスの作家アンソニー・ホープが『ゼンダ城の虜』を発表。冒険小説のジャンルである「ルリタニアン・ロマンス」の原点となった小説。 |
1895年(明治28年) |
1月 5日 | ドレフュス事件で、ドレフュスが流刑の有罪となる。証拠はなかったが、反ユダヤメディアの追求で軍部は軍法会議で有罪とした。シオニズム運動のきっかけとなる。実際の犯人はフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐。少佐は無罪となったが、このことが世間に漏れ、ユダヤ人を迫害するために国を裏切った男を許した、と大きな反発を買うことになる。 |
1月14日 | 日本帝国政府が尖閣諸島が清朝に帰属していないことから、日本領に編入する閣議決定を行う。 |
4月17日 | 日清戦争の講和条約である下関条約(馬関条約)に調印。場所は下関の料亭春帆楼。伊藤博文、陸奥宗光、李鴻章、李經方が出席。 |
7月25日 | 夜半、山陽鉄道(現山陽本線)尾道駅-糸崎駅間を走行していた上り軍用列車が、高潮で300mに渡り崩壊した築堤に差し掛かり、機関車と客車23両のうち6両が脱線して瀬戸内海に転落。乗員乗客358人中11名が死亡、98名が負傷。 |
10月 8日 | 乙未事変。ロシアの力を借りて開化派政権にクーデターを起こした李氏朝鮮王妃閔妃に対し、三浦梧楼公使らが大院君を擁して再クーデターを図り、日本軍守備隊、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊などが景福宮に突入。その混乱のさなかに閔妃が殺害される。朝鮮王族同士の権力闘争や朝鮮内部の開化派と事大党の勢力争いに、ロシア、日本の思惑が絡んで起きた事件。 |
11月 8日 | フランス、ドイツ、ロシアの三国干渉で、圧力に屈した日本が、清との間で「遼東半島還付条約」に調印。日清戦争で得た遼東半島を返還する。国内は世論が沸騰。政府は臥薪嘗胆をスローガンに掲げる。 |
11月27日 | ノーベルが遺言「遺産を管理し、その基金で、人類に貢献した人に分配する」に署名(ノーベル賞制定記念日)。 |
11月29日 | 春生門事件。朝鮮の景福宮春生門で、親露派の李範晋らが、閔妃派の旧侍衛隊とアメリカ兵やロシア兵を使って、クーデターを企てた事件。 |
12月28日 | 写真技術者であったリュミエール兄弟が独自開発したカメラ映写機シネマトグラフ・リュミエールを使って、初めてパリのグランカフェで投影式の映画を商業公開。 |
1896年(明治29年) |
1月25日 | リュミエール兄弟が、『ラ・シオタ駅への列車の到着』を一般公開。ラ・シオタ駅に列車が入ってくる様子をワンショットで撮ったドキュメンタリー映画。観客がその迫力に驚いて逃げ惑った、という俗説があるが、真相は不明。 |
2月11日 | 李氏朝鮮王の高宗が、廃位の計画情報を受けてロシア公使館に逃げ込む。露館播遷。 |
2月29日 | 日本銀行本店が竣工。辰野金吾設計。 |
6月15日 | 明治三陸地震。東北沖200Kmの太平洋海底で起きた巨大地震。マグニチュードは8.2以上。揺れはさほどでもなかったが大津波が沿岸一帯を襲い、死者21915人、行方不明者44人。 |
8月10日 | 航空技術者オットー・リリエンタールが、試験飛行中に墜落、脊椎を損傷して死亡する。 |
8月27日 | 史上最も短い戦争とされる、イギリス・ザンジバル戦争が勃発。約40分で終了。 |
| ドレフュス事件を取材したテーオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』を出版して、ユダヤ人国家建設についての詳細な提案を行い、シオニズム運動に影響与える。 |
1897年(明治30年) |
2月 5日 | インディアナ州議会下院本会議で、246号議案(通称インディアナ州円周率法案)が可決される。地元のアマチュア数学者エドワード・グッドウィンが発見し著作権を取得したと称した「円積問題の解決法」を、州の公教育でのみ無償で教えるとする法案。 |
2月12日 | インディアナ州円周率法案に対し、予算獲得のために来ていたパデュー大学のワルドー教授が異論を唱え、マスコミも奇妙な法案と報道したため、上院では一転して凍結となる。そもそも円積問題は解決できないこと、円周率を3.2にするという間違いを含んでいたこと、数学の公式を著作物として有料化するという問題を含んだ事件。 |
2月20日 | 李氏朝鮮王の高宗がロシア公使館から慶運宮に戻る。 |
6月10日 | 古社寺保存法公布。 |
8月29日 | 第一回シオニスト会議が、スイスのバーゼルで開催。西ヨーロッパのシオニズム運動家テーオドール・ヘルツルが主催し、東ヨーロッパのシオニズム運動家ナータン・ビルンバウムが協力した。 |
10月 6日 | ロシアの駐朝鮮公使アレクセイ・ニコラヴィッチ・ジュペイエルが、度支(財務官庁)の顧問をイギリスの推薦したジョン・マクレヴィ・ブラウンから、ロシア人のキリル・アレキセーフに変えるよう要求。度支顧問事件。 |
10月12日 | 李氏朝鮮の高宗、国号を大韓帝国と改め、自主独立を宣言。高宗は皇帝(光武皇帝)を称する。 |
10月14日 | クレマン・アデールが、アヴィオン号と名付けた飛行機で飛行に成功したとされる。失敗したという説もあり詳細は不明。フランス政府の支援を受けていたが、この試験の後打ち切られているため、失敗したものか。フランス政府は、ライト兄弟の成功後、アヴィオン号は成功していたと発表。フランスでは飛行機のことをアヴィオンという。 |
10月26日 | 大韓帝国、度支顧問のジョン・マクレヴィ・ブラウンの解雇通告。 |
11月 5日 | 露韓合同条約締結。大韓帝国、度支顧問にキリル・アレキセーフを任命。 |
12月27日 | 度支顧問を巡る問題を受けて、イギリス東洋艦隊が朝鮮仁川に到着。 |
| この年、スコットランドの物理学者チャールズ・ウィルソンが、「ウィルソンの霧箱」を発明。過飽和蒸気の箱の中では粒子や放射線の軌跡を直接観測できることから、物理学の発展に大きく寄与した。1927年にノーベル物理学賞を授与。 |
1898年(明治31年) |
1月21日 | 絶影島問題。朝鮮半島南部の絶影島の日本人借入地にロシア軍艦が入り、貯炭庫を作ろうとした事件。 |
2月15日 | メイン号事件。キューバのハバナで米戦艦メイン号が謎の爆沈。米西戦争のきっかけとなる。 |
4月25日 | 日本とロシアの間で西・ローゼン協定が締結される。大韓帝国の内政に関する干渉を控え、韓国政府の依頼を受けて軍事・財政顧問を送る場合はお互いに事前承認を求めるとするもの。 |
6月25日 | 保安条例廃止法により保安条例が廃止。 |
7月 7日 | ハワイ共和国をアメリカに併合するニューランズ決議が発効し、ハワイは準州となる。 |
8月11日 | 毒茶事件。大韓帝国の高宗と皇太子が、晩餐中にコーヒーに毒をもられる暗殺未遂事件が起きる。10月10日に金鴻陸ら3名が処刑される。 |
9月18日 | ファショダ事件。アフリカに植民地を広げていたイギリスとフランスがスーダンのファショダで出くわし軍事対立する。 |
9月21日(光緒24年8月6日) | 戊戌の政変。清朝末期に戊戌の変法と呼ばれる近代政治改革を行おうとした官僚グループが西太后や保守派によって弾圧された事件。 |
12月 3日 | 山陽鉄道の夜行列車内で、陸軍第12師団の大尉が、金品を盗もうとした二人の男に殺害される事件が起こる。日本の鉄道内で起きた最初の殺人事件とされている。当時の客車に貫通扉がなく一種の密室状態にあったことも事件の要因となったため、改善されることになった。 |
12月28日 | ツァボの人食いライオン事件が終結する。ウガンダ鉄道建設中、同年3月ころからツァボ川の鉄橋工事現場に現れた2頭のライオンによって少なくとも28人の建設労働者が殺された事件。ライオンは2頭とも若いオスで、数カ月に渡って対策をとってきた現場総監督のジョン・ヘンリー・パターソンによって射殺された。ツァボ川の現場以外にも、この2頭のライオンによる犠牲者がいるとされ、その数最大で135人ともいわれるがはっきりとはわかっていない。 |
| H・G・ウェルズのSF小説の古典『宇宙戦争』が発刊。 |
| この年、帝国博物館及び東京美術学校内での九鬼隆一と岡倉天心の関係悪化から岡倉が辞職する事態になり、教授らが分裂する美術学校騒動が起こる。 |
1899年(明治32年) |
3月 2日 | 北海道旧土人保護法公布。経済的に困窮する北海道のアイヌを保護する名目で、同化を図った法律。 |
7月20日 | 現在の超高層オフィスビルのはしりとも言えるパークロウビルがニューヨーク市マンハッタン・パークロウに完成。119m、29階建て。 |
8月 4日 | 日本で最も古いビアホールとされる「ヱビスビヤホール」が銀座8丁目に開店。ヱビスビールの宣伝のため。 |
9月19日 | ドレフュス事件で世間の反発を買ったフランス政府は、冤罪のまま南米のディアブル島に流刑にしていたドレフュスを「特赦」によって釈放する。無罪と認めたわけではなかったため、ドレフュスはその後も無実を主張することになる。 |
10月 2日 | 発明家で飛行家のパーシー・シンクレア・ピルチャーが、グライダーのデモ飛行中に墜落。2日後に死亡。すでにこの時、動力式三葉機を設計・完成しており、そのスポンサー探しのためのデモ飛行だったが、エンジンが故障したため、グライダー飛行をしていて墜落した。飛行可能な機体設計だったことから、ライト兄弟より先に初飛行に成功していた可能性が高かった人物。 |
10月 7日 | 大雨の中、日本鉄道(現東北本線)矢板駅-野崎駅間の箒川鉄橋で、上野発福島行き第375列車が通過中に突風にあおられて、緩急車と客車7両が濁流の箒川へ転落。死者19名、負傷者38名。 |
| ヘンリー・フォードらがヘンリー・フォード社を設立。しかしフォードは後に退社。社名はキャディラックに変更される。 |
| 日本初の劇映画「ピストル強盗清水定吉」が制作上映される。制作は駒田好洋・柴田常吉。警官役の横山運平は「日本初の映画俳優」と呼ばれる。 |
1900年(明治33年) |
3月30日 | 治安警察法施行。 |
4月30日 | 神戸での観艦式で、戦艦富士の軍楽隊によって初めて『軍艦マーチ』が演奏される。 |
5月10日 | 皇太子嘉仁親王と九条節子が結婚。 |
5月19日 | 陸軍省官制・海軍省官制を改正し、軍部大臣の現役武官制が定められる。 |
8月14日 | 義和団の乱で八カ国連合軍が北京に侵攻。8カ国とは、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本。連合軍による破壊と略奪が行われる。 |
9月14日 | 津田梅子が女子英学塾を創立。 |
10月 2日 | 娼妓取締規則発布。娼妓名簿登録制となる。 |
10月14日 | ジークムント・フロイトの『夢判断』が出版される。 |
| 3つの帝国博物館を帝室博物館と改称。 |
1901年(明治34年) |
1月10日 | テキサス州のボーモント近郊にあるスピンドルトップのルカス1号油井から原油がはじめて噴出。テキサス油田の始まり。 |
1月22日 | イギリス帝国の黄金期と呼ばれた「ヴィクトリア朝」時代の女王、アレクサンドリナ・ヴィクトリアが崩御。現ウィンザー朝の祖でもある。 |
2月25日 | アメリカ最大の製鉄会社USスチールが創業。 |
7月13日 | 碓氷線退行事故。20時40分ころ横川駅-軽井沢駅を登坂中の長野行き第51列車機関車で、蒸気管が破裂し、噴出した蒸気によって機関車内の機関助士2名が車外に飛ばされ重軽傷。残った機関士が制動を行うも上手く行かず、列車は坂道で自然停止後、退行しはじめたため、乗客1名が飛び降りて軽井沢駅へ向かい事故を通報。さらに同乗していた日本鉄道副社長の毛利重輔男爵は、技術者であったため、危険と判断。乗客に飛び降りるよう指示し、息子の助三郎と列車を飛び降りる。しかし2人は列車に巻き込まれて死亡。列車は約1.9km退行したところで、機関士の制動が成功し停止。車内に残った乗客は無事。 |
8月14日 | ドイツ生まれのアメリカ人技術者グスターヴ・ホワイトヘッドが、コネティカット州フェアフィールドで動力飛行試験を実施。最大高度15m、距離800mを飛行したと、当時の新聞に記載されている。しかし写真などの裏付ける証拠は見つかっていない。この前後にも飛行に成功したと主張しているが、正確な記録はない。設計上は飛行可能だったという説もあり、飛行とは認められない「無操縦浮上」という見方もある。 |
9月16日 | 沖縄那覇の辻にある遊郭街で大火。 |
11月14日 | カール・ラントシュタイナーがABO式血液型(当時はABC式)を発表。 |
11月18日 | 日清戦争で得た莫大な賠償金を元手にして、官営八幡製鉄所が操業開始。当時は官営製鐵所という名称だった(八幡製鉄所は民営の日本製鐵になってから)。 |
| フィラデルフィア市庁舎が竣工。167m。ルネサンス様式のオフィスビルで、塔の部分が当時世界で最も高かった。 |
| ペルセウス座GK星の新星爆発が観測される(ペルセウス座新星1901)。その後、この星は矮新星を繰り返すようになる。白色矮星と主系列星の連星で、主系列星から降り積もる物質の質量で白色矮星が新星爆発を起こし、その後は白色矮星の周りにできた降着円盤が崩壊するたびに増光するようになっていると見られる。 |
1902年(明治35年) |
1月23日 | 日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山での行軍訓練のため、青森の駐屯地を出発。のち遭難。 |
1月25日 | 北海道旭川市で日本における最低気温の記録-41℃を観測(日本最低気温の日)。 |
1月30日 | 日英同盟成立。 |
5月 8日 | プレー火山噴火。火砕流により、死者3万人以上。 |
8月22日 | 都電の元祖、東京電車鉄道が、新橋-品川間で路面電車の運行を開始する。 |
9月 1日 | 映画『月世界旅行』公開。ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』とH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』を組み合わせた内容で、砲弾型ロケットで月に行くストーリー。監督は「世界初の職業映画監督」と呼ばれるジョルジュ・メリエス。ファンタジックな舞台劇風の演出になってはいるが、様々な特撮技法を考案して作られており、SF映画の元祖といわれる。 |
10月19日 | 東京専門学校から改名した早稲田大学で、創立20周年記念式典と「大学開校式」が行われる。 |
| ヘンリー・フォードが経営方針で対立し、ヘンリー・フォード社を追い出される。社名はキャディラックに変更。 |
1903年(明治36年) |
1月 3日 | アロイス・ヒトラー死去。息子アドルフ・ヒトラーとは対立関係にあり、それがヒトラーの思想に影響したという説もある。アロイスは父親が不明でユダヤ人説もある。 |
1月 4日 | コニーアイランド遊園地で買われていた象のトプシーが、飼育員を殺した理由で殺されることになり、直流送電を推していたエジソンの交流送電は危険という宣伝のために交流電流によって公開処刑される。 |
2月23日 | スペインより独立したキューバ政府により、グァンタナモ基地がアメリカに永久租借される。 |
3月 1日 | 第5回内国勧業博覧会が大阪天王寺で開かれる。7月31日まで。最後の内国勧業博覧会。 |
4月21日 | 無鄰庵会議。京都の山県有朋別邸である無鄰庵の洋館で、山縣有朋・伊藤博文・桂太郎・小村寿太郎によって対ロシア政策が話し合われる。桂太郎首相のロシアの満洲権益優越権を認める代わりに日本の朝鮮における権益をロシアに認めさせることで交渉し、そのためには武力も辞さないという態度をとることが決定する。 |
5月 7日 | ロシア帝国、李氏朝鮮との間で結んだ森林伐採事業に関する約定を利用し、朝鮮半島への軍事進出を決定。鴨緑江河口の龍岩浦に軍事基地の建設を開始。いわゆる龍岩浦事件。 |
6月10日 | 七博士建白事件。東京帝国大学の戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨教授と、学習院の中村進午教授の計7人が、政府に対ロシア強硬論を主張する建白書を提出する。 |
6月12日 | ロシアの陸軍大臣アレクセイ・クロパトキンが来日。 |
6月16日 | ヘンリー・フォードが、自動車製造会社フォードを設立する。 |
6月23日 | 無鄰庵会議で決定された対ロシア政策が御前会議で承認される。 |
7月20日 | 韓国とロシアが、龍岩浦租借条約を締結。日本政府これに抗議。 |
8月13日 | ドイツ人研究者のカール・ヤトーが、ハノーファーで動力飛行試験を行う。30cmほど浮いて、20m飛行したと言われる。操縦していない浮上であるため、初飛行とは認定されていないが、操縦機能は就いており、実際このあと、ヤトーは操縦飛行にも成功し(ドイツで最初に飛行した人物となる)、飛行機会社を設立している。 |
10月 7日 | ライト兄弟にも技術を教えたスミソニアン協会のサミュエル・ラングレーが、エアロドロームという動力飛行機の実験を行い失敗。 |
11月 4日 | 黄興らが反清組織の華興会を創立する。 |
11月21日 | 初の早慶戦。早稲田大学野球部と慶應義塾大学野球部が、三田綱町球場で野球対戦を行う。 |
12月 7日 | サミュエル・ラングレーが、動力飛行機エアロドロームの実験を再度行うが失敗に終わる。 |
12月17日 | ライト兄弟がノースカロライナ州キティホークの南郊にあるキルデビルヒルズ付近で、動力飛行に成功する。12秒間飛行した。同日4回飛行を行っている。滑走レールを使い、浮上しやすい強風に向かって滑走離陸した。一方で機体を操縦している。正確な記録が残っているものとしては人類初の動力飛行となるため、それ以前の他の研究者が行った浮上記録や、はっきりしない飛行記録については、初飛行と認められていない。なお、この日の飛行は、多くの新聞で否定的に取り上げられ、学者らから批判された。また特許裁判に巻き込まれた他、先を越されたラングレーによって初飛行無効を宣伝されたため、兄弟は不遇な半生を過ごしている。 |
1904年(明治37年) |
2月 6日 | 日露国交断絶。 |
2月 8日 | 日本海軍、第一次旅順口閉塞作戦および旅順港内ロシア艦隊への攻撃を開始。日露戦争開戦。 |
2月 9日 | 仁川沖海戦。 |
2月10日 | 日本政府、公式にロシアへ宣戦布告。 |
2月11日 | 日本、大本営を設置。 |
2月17日 | プッチーニの歌劇『蝶々夫人』が初演。大失敗に終わるが、以降改良を加えて、代表作になる。 |
2月23日 | 日韓議定書締結。 |
3月27日 | 第二次旅順口閉塞作戦のさなかに、広瀬武夫中佐が戦死する。最初の「軍神」に指定。 |
4月 2日 | 小泉八雲がアメリカで『怪談(Kwaidan)』を刊行。 |
4月30日 | 鴨緑江会戦。日本側が勝利し、鴨緑江渡河作戦は成功する。 |
5月 2日 | 第三次旅順口閉塞作戦開始。天候悪化により中止が決まるが、連絡が間に合わず、沿岸砲台の攻撃で多数が戦死。閉塞作戦は失敗に終わる。 |
5月 4日 | 日本政府、軍事費調達目的の第1回目の外債発行調印にこぎつける。日本側に好意的だったイギリスや、ロシア帝国のユダヤ人虐殺(ポグロム)に反発したアメリカのユダヤ系投資家などを引受先として500万ポンドを発行。 |
5月15日 | 旅順港外の老鉄山沖で、日本海軍の主力戦艦6隻のうち、戦艦初瀬が2度触雷し爆沈。救助に当たろうとした戦艦八島も触雷で沈没。八島救援に向かった通報艦龍田も旅順港外で座礁。同日、巡洋艦吉野に巡洋艦春日が衝突し、吉野が沈没。日本海軍は大幅に戦力を失う。 |
5月23日 | 主力戦艦2隻を同時に失ったことを受けて、日本海軍は急遽、装甲巡洋艦2隻の建造を決定する(筑波型巡洋戦艦)。 |
5月25日 | 南山の戦い。ロシアが金州城市街地南郊に築いた要塞を第2軍が攻撃。同戦役初の要塞攻略戦となる。 |
5月26日 | 南山の戦い。日本軍は大きな損害を出すも、ロシア軍が要塞を放棄して旅順へ撤退。乃木希典の長男乃木勝典はこの戦いで腹部に銃弾を受け27日に死亡している。 |
6月14日 | 得利寺の戦い。第2軍が得利寺に展開中のロシア軍を攻撃し勝利する。 |
6月15日 | 常陸丸事件。ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が、通商破壊作戦のため、輸送船和泉丸を拿捕後、乗船者を退去させて撃沈。続けて兵員輸送船常陸丸と佐渡丸を発見しこれを砲撃。常陸丸は撃沈され、船長らイギリス人3名と、将兵ら1091名が戦死(147名は救助)。佐渡丸は大破して236名が戦死するが沈没は免れ沖ノ島へたどり着く。国内ではウラジオストク巡洋艦隊を見失った海軍第2艦隊への批判が噴出。 |
6月16日 | ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が、イギリス輸送船アラントンを拿捕。 |
6月23日 | ロシアの旅順艦隊が、ウラジオストク回航を図り出港するも、連合艦隊に遭遇し断念。 |
7月12日 | 日本海軍、旅順港閉塞によるロシア旅順艦隊の無力化を断念。海軍軍令部長伊東祐亨は、陸軍参謀総長山縣有朋に旅順艦隊壊滅の協力を要請。 |
7月22日 | ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が、ドイツ輸送船アラビアを拿捕。 |
7月24日 | ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が、イギリス輸送船ナイトコマンダーを撃沈。 |
7月24日 | 大石橋の戦い。第2軍がロシア軍の展開する大石橋を攻撃し勝利する。 |
7月25日 | ロシアのウラジオストク巡洋艦隊が、ドイツ輸送船テアを撃沈し、イギリス輸送船カルカスを拿捕。 |
7月26日 | 日本陸軍による大孤山などの攻略を開始。 |
7月30日 | 大孤山陥落。 |
8月 5日 | 日本陸軍、東京湾要塞と芸予要塞に設置されている二十八珊米榴弾砲(二十八サンチ砲)を朝鮮鎮海湾と対馬大口湾に移設することを決定。さらにその後、旅順攻略戦への投入を決める。 |
8月 7日 | 日本海軍、大孤山に観測所を置き、旅順港へ12センチ砲での砲撃を開始。 |
8月 9日 | 旅順艦隊の各艦に日本側の砲弾が命中。旅順艦隊は再びウラジオストク回航を決定。 |
8月10日 | 黄海海戦。旅順艦隊を発見した連合艦隊が追撃し、混乱して各艦ばらばらになった旅順艦隊は、各地で座礁、拿捕、鹵獲などが相次ぎ艦隊戦力を喪失。 |
8月14日 | 蔚山沖海戦。旅順艦隊と合流すべく南下していたウラジオストク巡洋艦隊と、第2艦隊が遭遇。砲撃戦によりロシア側は巡洋艦1隻が沈没、2隻が小破。 |
8月19日 | 日本陸軍第3軍による旅順要塞総攻撃を開始。熾烈な砲撃戦のあと、各要衝攻略のため歩兵突撃を開始。 |
8月20日 | コルサコフ海戦。黄海海戦から逃れた旅順艦隊の巡洋艦ノヴィークが太平洋側からウラジオストクを目指すも燃料不足で樺太コルサコフに寄港。追ってきた日本側の巡洋艦千歳と対馬との間で砲撃戦となる。ノヴィークは自ら座礁して乗員は対艦。 |
8月24日 | 乃木希典、旅順要塞第1次総攻撃を中止。戦死者5017名という甚大な被害を出す。 |
8月30日 | ロシア軍、日本軍が占領した盤龍山堡塁を奪還するため攻撃をしかけるも失敗に終わる。 |
9月 1日 | 第3軍、旅順要塞攻略のため、塹壕の建設を開始。 |
9月19日 | 第3軍、旅順要塞第2次総攻撃1回目を開始。 |
9月20日 | 第3軍、水師営と海鼠山を占領。 |
10月 1日 | 第3軍、海鼠山に観測点を置き、二十八糎榴弾砲を投入し旅順港砲撃を開始。 |
10月 9日 | 日露両軍による沙河会戦。沙河でロシア側が積極攻勢をかけるが、膨大な死傷者を出し断念。しかし日本側も反撃で大きな被害を出す。 |
10月16日 | ロシアのバルチック艦隊が出港。 |
10月26日 | 第3軍、第2次総攻撃2回目を開始。 |
10月30日 | 乃木希典、第2次総攻撃を中止。多数の戦死者を出すも、ロシア側の被害も深刻となる。 |
11月14日 | 御前会議で203高地攻略が決定する。艦隊砲撃用観測点を確保するため。しかし現地の満洲軍総司令官大山巌は、要塞攻略を目的とすべきと反発。 |
11月26日 | 第3軍による旅順要塞第3次総攻撃が開始される。 |
11月27日 | 乃木希典、旅順要塞攻撃から、203高地攻略へ方針を変更(観測点確保ではなく、ロシア側に消耗を強いるためともいわれる)。二十八糎榴弾砲による砲撃を開始。 |
12月 1日 | 乃木希典、203高地攻略を一時中断。ここまで、何度か山頂の一部を占領するも、奪還されることを繰り返す。乃木希典の次男も戦死。 |
12月 5日 | 第3軍が203高地を完全占領。すぐに観測点を設け、残存旅順艦隊への砲撃を開始。旅順艦隊は壊滅。日本側5052名が戦死。 |
12月10日 | 第3軍が東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。 |
12月15日 | 旅順艦隊で唯一港外へ脱出していた戦艦セヴァストポリが日本海軍の水雷艇の攻撃を受けて大破着底。 |
12月15日 | ロシア軍の勇将コンドラチェンコ少将が戦死。ロシア側の士気を大きく下げたと言われる。 |
12月18日 | 第3軍、東鶏冠山北堡塁が陥落。 |
12月20日 | 三越デパートの誕生。江戸時代の呉服商「越後屋」が元の三井呉服店が三越呉服店と改称。「デパートメントストア」宣言を行う。 |
12月28日 | 第3軍、二龍山堡塁攻撃を開始。 |
12月29日 | 第3軍、二龍山堡塁陥落。 |
12月31日 | 第3軍、松樹山堡塁への攻撃を開始し、これを占領。 |
| この年、ドイツは南西アフリカ(現ナミビア)で、ドイツの侵攻に抵抗した先住民のヘレロ族とナマクア族に対する虐殺を行う。ヘレロ族の8割、ナマクア族の5割が殺されたと言われる。 |
1905年(明治38年) |
1月 1日 | 第3軍、望台への攻撃を開始し、これを占領。旅順要塞司令官のアナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ中将は降伏を決定。 |
1月22日 | ロシア血の日曜日事件。サンクトペテルブルクで社会状況の改善を求めた労働者に兵士が発砲。千人以上が死亡する。ロシア革命の遠因。ロシアのユリウス暦で1月9日。 |
1月23日 | 奈良県東吉野村鷲家口でニホンオオカミの最後の一匹が捕獲される。 |
1月25日 | 日露両軍による黒溝台会戦。機関銃の投入と塹壕戦が本格的に行われたはじめての戦い。ロシア軍が退却したため、日本側の辛勝。 |
1月28日 | 日本政府は閣議で竹島を島根県隠岐島司の所管の島と決定。 |
2月21日 | 日露両軍による奉天会戦。両軍甚大な被害を出すがロシア軍が退却。 |
5月27日 | 日本海海戦。大国ロシアのバルチック艦隊を小国日本の連合艦隊が撃破したことで世界中に衝撃を与える。艦隊規模はロシアのほうが上だったが、長距離回航だった上に、日本側が新技術の導入や情報収集で優位に立ったことが結果につながった。また斉射という制御された長距離砲戦術が導入されたことは、戦艦設計思想に影響を与え、ドレッドノート級戦艦の建造に発展する。 |
5月28日 | バルチック艦隊の特務艦のイルティッシュ号が島根県和木の沖合で航行不能となり投降。同艦は翌日沈没。 |
5月31日 | 小村寿太郎外相が米国政府にロシアとの交渉仲介を依頼するよう高平小五郎駐米公使に訓電。 |
6月22日 | 堀江六人斬り事件。大阪の堀江遊郭にあった「山梅楼」の主人中川萬次郎が、妻女とのもつれから狂気に走り、家族や芸妓ら6人を日本刀で斬り5人が死亡、1人が重症を負った事件。 |
6月27日 | ロシア帝国海軍黒海艦隊に所属する戦艦ポチョムキンで水兵らが反乱。 |
6月30日 | アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論に関する最初の論文「運動している物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌『アナーレン・デル・フィジーク』に提出。 |
7月 7日 | 樺太の戦いが始まる。講和を有利に進めようとした日本側が樺太に侵攻。 |
7月31日 | 樺太の戦いが終結。ロシア軍のリャプノフ中将が降伏し、日本は樺太を占領する。 |
8月10日 | 日露講和会議が米国の仲裁で、アメリカポーツマスの海軍造船所で始まる。 |
8月24日 | 戸水寛人東京帝国大学教授が日露講和会議に反対する論文を発表して休職となる。 |
8月28日 | 御前会議で、賠償金取得や領土割譲を放棄してでも講和すべきだと決定する。 |
8月29日 | 日露講和成立。 |
9月 1日 | 日露休戦条約締結。 |
9月 4日 | ポーツマス条約締結。革命前夜の不穏な状況にあるロシアに対し、継戦能力を失った日本側が妥協したため、ロシア軍が満洲から撤退し、日本が南樺太の領有権と、満洲南部・関東州の租借権と鉄道の運営権、沿海州の漁業権、大韓帝国に対する排他的権利を得るという当初目的を達成するも、賠償金は得られず。 |
9月 5日 | 日比谷焼打事件。日露戦争の講和交渉で、賠償金を得られないという内容を知った民衆が暴動を起こす。これは交渉前、マスコミや一部学者・知識人らが賠償金30億円は取れるなどと煽ったことと、対ロシア交渉のため、日本政府が継戦能力喪失という実情を国民に説明できなかったため。 |
9月 6日 | 東京に戒厳令が敷かれる。 |
9月11日 | 佐世保港内で戦艦三笠の弾薬庫が爆発し沈没。339名が死亡。原因は不明。 |
9月14日 | 日本陸軍満洲軍が戦闘停止。 |
9月27日 | アインシュタインの特殊相対性理論の論文『物体の慣性はその物体のエネルギーに依存するか?』が科学雑誌に掲載される。有名なE=mc2が掲載。 |
10月10日 | 日本政府、ポーツマス条約を批准。 |
10月14日 | ロシア政府、ポーツマス条約を批准。日露戦争終結。 |
10月17日 | 小村寿太郎が帰国。講和を批判する右翼などから狙われていたため、特別列車で新橋駅に到着した際に、桂太郎首相と山本権兵衛海相が小村寿太郎を挟むようにしてかばったと言われる。 |
11月17日 | 第二次日韓協約締結。大韓帝国の外交権が失われる。 |
12月12日 | 日清両国が満洲善後条約を締結。ポーツマス条約によってロシアから日本へ満洲・関東州の諸権限が移ったことを清国が承認するという内容。 |
12月21日 | 韓国統監府設置。伊藤博文が初代統監となる。 |
1906年(明治39年) |
2月10日 | 英海軍の戦艦「ドレッドノート」が進水。「弩級(ド級)」「超弩級(超ド級)」の語源となった軍艦。副砲などを廃止し単一連装主砲を5基も搭載して斉射力を高め、蒸気タービン機関を採用して高速化を図ったもので、旧式艦に比べて長距離砲戦で絶対有利になったことから、これを機に各国海軍の建艦計画は根底から変更されることになった。 |
3月31日 | 鉄道国有法公布。陸上輸送の要である鉄道の国家管理の目的の他、日露戦争戦費調達のため発行した莫大な外債を低利に切り替えるための担保という目的があった。 |
7月12日 | ドレフュス事件で冤罪のまま流罪となったユダヤ人将校ドレフュスの無罪が認められる。軍に復帰するも、流刑中の環境により健康を害しており、まもなく退役。 |
8月 8日 | 佐世保港内で事故で爆沈した戦艦三笠を引き上げる。 |
9月11日 | 路面電車を運行する東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道が統合し、東京鉄道が誕生。 |
10月 1日 | 鉄道国有法により私鉄の買収が始まる。翌年にかけて主要な私鉄が順次買収国有化。 |
11月 1日 | 日本鉄道が国有化。ここまでに東日本の大半の鉄道路線を敷設した。 |
11月26日 | 南満洲鉄道(満鉄)設立。 |
1907年(明治40年) |
1月12日 | セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ生誕。ソ連の航空技術者、ロケット技術者として大陸間弾道ミサイルと宇宙ロケット開発にあたった人物。 |
4月 1日 | 国有鉄道の現業部門、帝国鉄道庁が発足。 |
5月 7日 | 新たに皇室令が公布され、それにともない華族令も新たに公布され、旧華族令は廃止される。 |
5月31日 | 大阪駅の駅員清水太右衛門が同駅西第一踏切で踏切番の勤務中、踏切内に入った幼女を発見し保護するも西成線の列車に接触。太右衛門は翌日死亡。その後、多数の義捐金が集まり、殉職記念碑が建てられた。 |
6月 | 大韓帝国皇帝高宗が第2回万国平和会議に密使を送り、列強に支援を求めるも拒否される。いわゆるハーグ密使事件。 |
7月20日 | 大韓帝国皇帝高宗が退位させられる。純宗が即位。 |
7月24日 | 第三次日韓協約で日本が韓国内政権を得る。 |
8月 1日 | 大韓帝国軍が解散させられる。 |
8月 1日 | ロバート・ベーデン=パウエルが、21名の少年を連れて、ブラウンシー島でキャンプを行う。ボーイスカウト活動の始まり。 |
9月26日 | ニュージーランドが英連邦内の自治国として独立。 |
11月16日 | アメリカ政府が、オクラホマ準州とインディアン・テリトリーを統合して、オクラホマ州に格上げし、インディアン・テリトリーはすべて消滅。 |
12月17日 | ブータンの東部トンサの有力者ウゲン・ワンチュクがチベット仏教界や有力貴族、国民の代表らの会議で、宗教・世俗を超えた国王として認められ、初代ブータン国王に即位。 |
| この年、アドルフ・ヒトラーは、ウィーン美術アカデミーを受験するも失敗。課題提出が足りなかったことや作風が当時の流行に合わなかったことなどがあると言われる。この年、ヒトラーの母クララも病死し、ヒトラーの思想形成に大きな影響があったとされる。 |
1908年(明治41年) |
3月 5日 | 日本初の美人コンテスト。日本初のミスに選ばれたのが、学習院女子部3年生の末弘ヒロ子。 |
3月 7日 | 青函連絡船に日本初の蒸気タービン船比羅夫丸が就航。 |
3月22日 | 東京大久保で風呂屋から出てきた女性が殺害される。池田亀太郎が犯人として逮捕され、彼のあだ名が出歯亀だったことから、覗き魔を意味する「出歯亀」の語源となる。「でばがめ」は、でしゃばりの亀(出張亀)という説も。 |
6月30日 | シベリアのエニセイ川の支流、ポドカメンナヤ・ツングースカ川上流の森林地帯で、謎の大爆発が起こる。落下してきた小規模の隕石が空中爆発を起こしたものと考えられ、その規模は5Mtに匹敵すると言われる。2150平方kmの範囲で樹木が倒壊。天然ガスの大規模爆発説のほか宇宙人の乗った宇宙船の爆発説まで登場したが、近年の調査で隕石とほぼ断定されている。また、8kmほど離れたところにあるチェコ湖という小さな湖が、この時生じたクレーターかどうかで論争となっている。 |
7月 3日 | オスマン帝国の軍の青年士官らが、憲法復活を求めて武装蜂起。鎮圧軍も加わる。 |
7月23日 | オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世が軍の反乱を受けて憲法復活を認める。議会も復活。青年トルコ人革命。 |
8月25日 | ウランから出る放射線(アルファ線)を発見した物理学者アンリ・ベクレルが死去。 |
8月30日 | ナータン・ビルンバウムらの指導のもと、チェルノヴィッツでイディッシュ語世界会議を開催。「ユダヤ民族」の定義と主導権をめぐり、イディッシュ語を使う東欧ユダヤ人と、西欧ユダヤ人の間で対立が大きくなる。 |
9月17日 | ライト兄弟のライトフライヤー号が、バージニア州のフォートマイヤー陸軍基地でデモフライト中に墜落。操縦していたセルフリッジ中尉が死亡。飛行機事故による最初の死亡者となった。 |
11月15日 | ベルギー政府は、ベルギー王レオポルド2世の私領「コンゴ自由国」での住民に対する残虐非道な行為の数々が各国で批判を浴びたことを受け、国王と条約を結び、国王に補償金を出す代わりに、領地を事実上買い上げて、国王の私有地から、ベルギー領コンゴとなる。 |
12月 5日 | 帝国鉄道庁が内閣鉄道院となる。 |
| シンガーミシンの本社ビルとなったシンガービルがニューヨークに完成。186.57m。ほんの一時期世界一の高さだった。1968年解体。倒壊や崩壊ではなく、解体作業で壊されたビルではもっとも高いとされている。 |
1909年(明治42年) |
4月 6日 | ロバート・ピアリーの探検隊が北極点に到達。 |
4月18日 | ジャンヌ・ダルクがローマ教皇ピウス10世によって列福される。 |
5月 6日 | 大学昇格を目指していた東京高等商業学校の専攻部について、文部省が文部省令を出し、1911年をもってこれを廃止すると決定。代わりに本科生の学生は帝国大学商科大学に入学を認めるとする。いわゆる申酉事件。 |
5月11日 | 文部省の東京高等商業学校専攻部廃止の決定に反発した、東京高等商業学校の全学生が、総退学を決議。神戸高等商業学校もこれに同調する。 |
5月20日 | 鈴木製薬所が味の素を発売。 |
6月19日 | 太宰治、青森県北津軽郡金木村に生誕。本名は津島修治。父親は地元の名士である大地主。 |
6月25日 | 申酉事件を受けて、渋沢栄一が調停に乗り出し、東京高等商業学校専攻部の4年間存続が決定。 |
7月27日 | オーストラリアからイギリスへ向かっていた大型貨客船ワラタが南アフリカダーバンを出港した翌日、乗員乗客211名とともに消息を絶つ。直前まで複数の船に目撃されているにもかかわらず忽然と姿を消したため、原因は諸説ある。英海軍をはじめ多くの調査が行われたが今持って不明のまま、残骸も遺体も発見されていない。一発大波と呼ばれる巨大波に遭遇して短時間で転覆沈没したという説もある。 |
7月31日 | 大阪「北の大火」。空心町のメリヤス工場から出火し、強風の中、翌日にかけて西へ類焼し福島に達する。軍まで動員して消火を行ったが、焼失家屋11,365戸、官公庁11、学校8、橋21などが焼け落ちた。死者は3名、負傷者は689名。 |
10月 8日 | クロアチアの地震学者アンドリア・モホロビチッチによってモホロビチッチ不連続面が発見される。地震波P波の伝達が速くなる場所で、地殻とマントルの境界面を指す。すなわちマントルは柔らかいのではなく逆に硬いということが判明。 |
10月12日 | 鉄道院告示第54号によって鉄道院の各路線名が制定される。現在まで続く鉄道路線名の始まり。 |
10月26日 | 韓国統監伊藤博文がロシアとの交渉でハルビンを訪れた際に、安重根に射殺される。 |
| ニューヨークにメトロポリタン生命保険会社タワーが完成。時計塔の部分が高さ213.36m。1913年まで世界一。 |
| この年、パレスチナの地中海沿岸にある古代都市ヤッフォ(ヤッファ、ヤーファー)の近郊砂丘に東欧から移住したユダヤ人が新都市建設を始める。テルアビブ(春の丘)と命名。 |
1910年(明治43年) |
3月26日 | 安重根の死刑執行。 |
4月15日 | 第六潜水艇事件。第六潜水艇がガソリン潜航実験の訓練中に浸水沈没。乗員はパニックに陥ることもなく配置についたまま死亡していたため、世界から賞賛される。 |
5月14日 | イギリスロンドンのシェパーズ・ブッシュで日英博覧会が始まる。10月29日まで。 |
5月19日 | ハレー彗星が地球にもっとも接近する。シアンガスで人類は全滅するといった噂が流れパニックになる。 |
5月31日 | 南アフリカ連邦が成立。 |
8月20日 | 世界最初の超弩級戦艦オライオンが英国ポーツマス海軍造船所で進水。 |
8月22日 | 韓国統監寺内正毅と大韓帝国首相李完用が漢城で「韓国併合ニ関スル条約」に調印。 |
11月22日 | ブラジル海軍の反乱。この時代、ブラジル海軍は士官が白人であるのに対し、水兵はムラートや黒人が当てられ、ちょっとしたことでも鞭打ち刑などを行っていた。11月21日、黒人水兵に対する250回もの鞭打ちが行われたことに反発した新鋭弩級戦艦ミナス・ジェラエスの水兵が反乱。他の艦船でも次々と反乱が起こり、海軍は機能停止状態に追い込まれる。 |
11月26日 | ブラジル海軍の反乱に対し、ブラジル議会は、海軍の奴隷的制度の廃止と、反乱参加者への恩赦を決定。 |
12月13日 | ビタミンの日。鈴木梅太郎が、脚気を予防する成分を抽出する方法を確立し「アベリ酸」と命名して東京帝国大学講堂で発表。オリザニンとして発売され、のちビタミンB1と判明。 |
12月14日 | 日野熊蔵が、代々木練兵場で、飛行機を滑走中に浮上する。これをして日本人で初めての飛行機操縦とする説もある。ただし一時的な浮上で「飛行操縦」をしたと言えないという説も。 |
12月19日 | 徳川好敏と日野熊蔵が、代々木練兵場で、日本人で初めて飛行機を離陸させ操縦する。 |
1911年(明治44年) |
1月12日 | オーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が高田歩兵第58連隊に、高田の金谷山などで指導。日本近代スキーの発祥。 |
1月18日 | 大逆事件(幸徳事件)の判決で、幸徳秋水ら24名に死刑、2名に有期刑の判決が下される。12名が処刑され、5名が特赦による死一等減刑で無期刑となり獄死。 |
1月30日 | フィリピンのルソン島にあるタール湖内のタール火山で噴火。火砕サージが発生して1307人が死亡。 |
3月29日 | 日本ではじめて、労働時間や年齢制限などを定めた「工場法」が公布される。 |
4月 3日 | 日本橋が石造りアーチ橋になる。設計には米元晋一、妻木頼黄、渡辺長男らが関わる。 |
4月 9日 | 吉原大火。午前11時30分頃、東京市浅草区の吉原遊郭の一角から出火し、吉原全体に火は広がる。さらに周辺の家屋などにも延焼していき、約6500戸を焼失する大火災となる。 |
8月 1日 | 東京市が東京鉄道を買収。路面電車は東京市電となる。 |
10月10日 | 中国の武昌で反清武装蜂起が起こり、辛亥革命が勃発。 |
10月24日 | アメリカ・ロードアイランド州ニューポート市にあるライムロック灯台の女性灯台守アイダ・ルイスが死去。女性の灯台守としても、また多数の遭難者を救ったことでも知られる人物。 |
11月 1日 | 鴨緑江橋梁が開通。船舶を通すため、中央部分が90度回転する可動橋。 |
12月14日 | ノルウェーのロアール・アムンセン隊が南極点に史上初めて到達。 |
12月29日 | モンゴルの独立運動で、チベット人活仏のジェプツンダンバ・ホトクト8世がハーンに即位する(ボグド・ハーン)。 |
1912年(明治45年・大正元年) |
1月 6日 | アルフレート・ヴェーゲナーが大陸移動説を発表。 |
1月 9日 | 世界最初の高層ビルとも言われるエクイタブル生命保険ビルが火災で崩壊。 |
1月16日 | 白瀬矗率いる日本の南極探険隊が南極大陸に到着。 |
1月16日 | 大阪南区「ミナミの大火」。難波新地乙部遊廓、千日前繁華街が全焼。約5000戸が焼失。再開発に伴い移転を求められた各遊郭は阪南土地会社を設立し、1916年、南の天王寺村阿倍野墓地のそばの何もなかった場所に移転開業する(いわゆる飛田遊郭。遊郭全体を一種の企業とした初期の例)。千日前繁華街は千日土地建物会社が設立され、テーマパークの建設へと動き出すことに。 |
1月17日 | イギリスの南極遠征隊(テラノバ遠征隊)のうち極点へ向かったスコット大佐ら5名がアムンセンに遅れること1ヶ月で南極点に到達。アムンセンが帰途に遭難した場合を想定し、2番めに到達する隊へ宛てて、南極点に到達したことをノルウェー国王に報告する手紙を残していたことから、スコットはそれを持って帰途につく。 |
1月31日 | 日本ではじめて、中央線に女性専用車両が導入される。 |
2月 4日 | 発明家フランツ・ライヒェルトが、自作のパラシュートスーツを着てエッフェル塔のデッキから飛び降りるが、パラシュートは開かず、地面に激突して死亡。一部始終は映像に残されている。飛び降りる寸前に心臓発作を起こして死亡したという説もある。 |
3月23日 | ヴェルンヘア・マグヌス・マクシミリアン・フォン・ブラウン生誕。一般にはヴェルナー・フォン・ブラウンで有名なロケット研究者。ドイツの貴族で、のちナチスのV2やアメリカのアポロ計画に深く関わった人物。 |
3月25日 | 文部省は東京高等商業学校専攻部の専攻部の存続を決定。1909年から続く申酉事件は一旦、東京高商側の勝利に終わる。しかし、その後も文部省内部で、東京高商を廃止し、東京帝国大学に一本化する動きが続く。 |
3月29日 | 南極点から帰途中のスコット大佐が日記を最後に記した日。残っていた3人全員が間もなく凍死したものと思われる(他2人はその前に死亡)。猛吹雪に阻まれ、物資補給キャンプのわずか18km手前だった。 |
4月14日 | 豪華客船タイタニック号が氷山に衝突し翌日未明に沈没。死者は1513人(犠牲者数は諸説あり)。 |
4月22日 | 膃肭獣保護条約締結により臘虎膃肭獣猟獲禁止ニ関スル法律が制定される。臘虎はラッコ、膃肭獣はオットセイのこと。毛皮確保のための乱獲を取り締まる法律。 |
5月 5日 | 第5回夏季オリンピックストックホルム大会開催。日本が初めて参加した近代オリンピック。 |
7月 3日 | 初代通天閣が遊園地「ルナパーク」にオープン。 |
7月30日 | 明治天皇が崩御。 |
8月 5日 | 東京有楽町に設立されたタクシー自働車株式会社が、この日に、日本最初のタクシー営業を開始する予定だったが、明治天皇の崩御やタクシーメーターの取り付け遅れから、延期になる。しかしこれを記念したタクシーの日となっている。 |
8月15日 | タクシー自働車株式会社が、上野駅、新橋駅でタクシーの営業を開始。 |
9月13日 | 明治天皇の大葬が青山練兵場で行われる。遺体は列車で京都へ。乃木希典夫妻が殉死。 |
9月14日 | 明治天皇の遺体は、京都の伏見桃山陵に埋葬。 |
10月 8日 | 第一次バルカン戦争勃発。オスマン帝国・オーストリア=ハンガリー帝国と、バルカン同盟との戦争。 |
1913年(大正2年) |
3月28日 | バルセヴァール飛行船の公開テスト飛行で、所沢-青山練兵場間の飛行に成功。しかし着陸に失敗。さらに飛行に並走した陸軍の軍用機が所沢に帰還する際に突風で翼が折れて墜落。木村鈴四郎陸軍歩兵中尉と徳田金一陸軍歩兵中尉が300m上空から地上に落下し殉職。日本最初の航空死亡事故となる。 |
4月24日 | 当時世界一高いオフィスビル、ウールワースビルがニューヨークで開業。241.4mで、1930年まで世界一の座にあった。ゴシック・リバイバル様式で、教会聖堂を思わせるデザイン。 |
5月30日 | 第一次バルカン戦争終結。オスマン帝国はバルカン半島の一部の領有権を放棄。放棄した土地を巡って、バルカン諸国同士で対立。 |
6月 4日 | イギリスのエプソム競馬場で開催されたダービーステークスで、女性参政権運動「サフラジェット」のメンバーだったエミリー・ワイルディング・デイヴィソンが、コースに侵入し、ジョージ5世の所有する馬アンマーと衝突。アンマーは転倒し、騎手のハーバート・ジョーンズが重症を負い、エミリーは跳ね飛ばされて4日後に死亡。彼女が王の馬と知って衝突したのか、何をしようとしていたのかは諸説ある。 |
6月10日 | 森永ミルクキャラメルが誕生。 |
6月13日 | 陸軍省官制および海軍省官制を改正し、軍部大臣・次官の任用資格を現役将官に限るとする規定を削除し、予備役に拡大。軍部大臣現役武官制の廃止。 |
6月25日 | 日本ハリストス正教会のクリスチャンで、最初の日本人司祭だった沢辺琢磨が死去。坂本龍馬のいとこでもある人物。 |
6月29日 | 鹿児島で火山性の地震が発生。桜島大噴火の前兆現象とみられる。以後異変が相次ぐも、鹿児島測候所が噴火はないと発表したため、信じなかった住民は自主避難を始める。 |
6月29日 | ブルガリアがセルビアとギリシャに侵攻。バルカン諸国は対ブルガリア連合を組んでこれに対抗。第二次バルカン戦争。 |
7月10日 | ルーマニアが第二次バルカン戦争に参戦。ブルガリアに侵攻を開始。 |
7月15日 | 小林一三によって宝塚唱歌隊(現在の宝塚歌劇団)が創設される。 |
7月20日 | オスマン帝国も第二次バルカン戦争に参戦し、ブルガリアに侵攻。 |
7月31日 | ブルガリアが休戦を申し出て、一時休戦が成立。 |
8月10日 | バルカン同盟・ルーマニアと、ブルガリアとの間でブカレスト条約が成立し、第二次バルカン戦争終結。マケドニアの地を三分割し、大部分をセルビア、エーゲ海沿岸部をギリシャ、一部がブルガリアの領土となる。 |
8月13日 | 名古屋市で繭小売商の男性が殺害される強盗事件が起こる。のちに無実の吉田石松が逮捕され、吉田巌窟王事件となった事件。 |
8月16日 | イギリス・ヴィッカース社に発注されていた日本海軍の巡洋戦艦「金剛」が竣工。最後の外国製戦艦。 |
8月26日 | 木曽駒ヶ岳大量遭難事故。悪天候となり中箕輪高等小学校の生徒ら11人が死亡。後に新田次郎が小説『聖職の碑』にしている。 |
9月 4日 | ドイツのミュールハウゼン村で、エルンスト・アウグスト・ワグナーという教師が、家族と住民9人を無差別に殺害するワグナー事件が起こる。責任能力が問われて実刑とはならなかった初めてのケース。 |
9月30日 | オスマン帝国とブルガリアとの間でコンスタンティノープル条約成立。 |
10月10日 | 袁世凱が初代中華民国大総統に就任。 |
10月17日 | 東岩瀬駅事故。午前4時23分頃、富山市の北陸本線東岩瀬駅(現東富山駅)で、上り臨時列車と下り臨時貨物列車の行き違いを行う予定のところ貨物列車がオーバーランして本線に進入し停止。その退行作業中に、上りの善光寺参詣客を乗せた臨時団体旅客列車が停止信号を見落として冒進。貨物列車に衝突して脱線転覆。24名が死亡、107名が重軽傷。この事故を受けて、単線の行き違い時の衝突を避けるため、安全側線(オーバーラン時に強制的に脱線させて本線に進入しないようにする側線)が設けられることになる。 |
11月14日 | ギリシャとオスマン帝国との間でアテネ条約が成立。 |
12月21日 | 『ニューヨーク・ワールド』紙の日曜版にワードクロスパズルと呼ばれるパズルが掲載される。クロスワードパズルの始まり。 |
12月 | 宝塚唱歌隊が宝塚少女歌劇養成会に改められる。 |
1914年(大正3年) |
1月12日 | 午前10時過ぎに桜島の2箇所で大噴火。大量の軽石によって海面が覆われ、島民の避難が混乱。午後6時28分、桜島沖合の鹿児島湾海底地下を震源とするマグニチュード7の大きな地震も発生。鹿児島市周辺は震度6に達し、各地で土砂崩れが起きて29人が死亡。パニックが鹿児島側でも拡大。 |
1月13日 | 桜島から火砕流が麓の小池、赤生原、武の集落を襲い、焼失。溶岩も流出が始まる。15日には海岸に達する。 |
1月18日 | オーストリアの徴兵を拒否し、ミュンヘンで暮らしていたアドルフ・ヒトラーが逮捕され送還される。ただし徴兵検査は不合格に。まもなく第一次世界大戦が勃発すると、一転、志願兵として出兵する。 |
1月29日 | 桜島の噴火で流出した大量の溶岩で瀬戸海峡が埋まり、大隅半島と陸続きになる。最終的に58名が死亡。 |
2月12日 | ブラジャーの日。アメリカ人女性メアリー・フェルプス・ジェイコブ(カレス・クロスビー)が乳房を支える下着を開発して特許を取得し、ブラジャーと命名する。ただし、他にもエルミニー・カドルなど複数のブラジャーの発明者なる人物がいる。 |
3月14日 | セルビアとオスマン帝国との間でコンスタンティノープル条約が成立。バルカン戦争の主要な国が関係を回復する。 |
4月 1日 | 宝塚少女歌劇養成会が、宝塚新温泉で初演。演目は歌劇『ドンブラコ』『浮かれ達磨』、ダンス『胡蝶』など。 |
6月28日 | オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーがサラエボでセルビア民族主義者のガヴリロ・プリンツィプに暗殺される。 |
6月30日 | ウラジーミル・チェロメイ生誕。ソ連のロケット研究者で、弾道ミサイルの研究を進めた人物。現代のロシアの宇宙船に大きな影響を残す。 |
7月28日 | オーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦がはじまる。 |
8月 9日 | ムーミンの原作者、トーベ・ヤンソンが生まれる。 |
8月15日 | パナマ運河が開通。 |
12月18日 | 旧新橋駅に代わり、東京の新たな玄関口として、東京駅が開業。第一次世界大戦でドイツ領青島を占領した神尾光臣中将の凱旋とあわせて開業式が行われる。 |
| 森永ミルクキャラメルが黄色い箱入りで発売される。 |
1915年(大正4年) |
1月18日 | 日本政府が、中華民国に対して、権益を求める対華21ヶ条の要求を出す。 |
3月 3日 | NASAアメリカ航空宇宙局の前身である国家航空諮問委員会NACAが設立される。 |
3月18日 | 英戦艦ドレッドノートが、ドイツ潜水艦U-29に体当りしてこれを撃沈する。戦艦が潜水艦を沈めた唯一の例。ドレッドノートにはそれまでの戦艦に付いていた体当たり用の衝角は不必要として付いていなかった。 |
4月22日 | イーペルの戦い。ドイツ軍によって史上最初の大規模な毒ガス攻撃が行われる。使用したのは糜爛剤のマスタードガス。このため、マスタードガスのことをイーペルから採ってイペリットとも呼ぶ。 |
5月 7日 | ルシタニア号事件。イギリス海域で無制限潜水艦作戦を行ったドイツがイギリスの豪華客船ルシタニア号をアイルランド沖で撃沈。乗員乗客1959人のうち、1198名の乗客が死亡。このうちアメリカ人128名が含まれていたため、アメリカの反発を買う。 |
5月 9日 | 中華民国の袁世凱政権が、対華21ヶ条のうち第5号(日本人の顧問を採用する)を除く残りについて受諾。 |
5月25日 | 対華21ヶ条のうち16ヶ条が、2つの条約と、13の交換公文として日中両国で締結。 |
7月14日 | 翌年にかけて、イギリスのエジプト駐在高等弁務官ヘンリー・マクマホンとメッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとの間で複数の書簡が交わされ、イギリス政府の外交方針としてアラブ人の独立を認める。敵対するオスマン帝国領のアラブ地方を取り込むための方策。 |
8月19日 | ドイツの潜水艦が客船アラビック号を撃沈。 |
8月27日 | ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が無制限潜水艦作戦を中止させる。 |
12月 9日 | 三毛別羆事件。北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(現在の苫前町古丹別三渓)の集落に巨大なヒグマが現れ、たった2日で女性と子供(胎児を含む)7人が殺され、一部を除き食べられた他、男性ら複数の重軽傷者を出した事件。軍隊まで出動した。熊は14日にマタギの手で倒される。 |
1916年(大正5年) |
1月22日 | 初の国産飛行船「雄飛号」が所沢-大阪間でテスト飛行を実施。 |
5月16日 | オスマン帝国領分割を定めた英仏露によるサイクス・ピコ協定が結ばれる。シリア領をめぐる権利ではフサイン=マクマホン協定とは矛盾する内容だった。 |
7月 1日 | ソンムの戦いがはじまる。英仏軍とドイツ軍がフランス北部ベルギーとの国境近くにあるソンム河のそばに塹壕を築いて対峙。英仏軍側が侵攻し、この日だけでイギリス軍は2万人近い死者を出し、5万人を超える負傷者を出す。このとき伝令兵だったヒトラーも負傷したと言われる。 |
7月30日 | ブラック・トム爆破事件。アメリカ合衆国ニュージャージー州ジャージーシティのブラックトム埠頭で、軍需物資が連合国側諸国に輸送されるのを阻止するため、ドイツ帝国の工作員によって起こされた爆破事件。7人が死亡、多数の負傷者を出す。大規模な爆発によって吹き飛んだ破片と爆風により、ジャージーシティだけでなく、対岸のマンハッタン島でも多数の建物で窓ガラスが割れるなどの被害が出た他、自由の女神も損傷した。 |
12月22日 | 明治時代の公害事件である大阪アルカリ事件で、大審院は会社側の上告を受けて、控訴院での審理差し戻しを命じる。再審理で公害予防措置としての設備(煙突)を設けてないことを理由に大阪アルカリ側の敗訴が確定するが、「予防措置がされていれば故意の不法行為とはみなさない」という判例になった。 |
1917年(大正6年) |
1月18日 | ヴァシーリー・ミシン生誕。この人物もソ連のロケット開発に貢献した人物。 |
1月31日 | ドイツがふたたび無制限潜水艦作戦をはじめる。 |
2月27日 | ロシア国会議員らがメンシェヴィキと組んでソヴィエトを結成。皇帝を退位させる。 |
3月 7日 | 千葉心中事件。芳川顕正伯爵の四女で、婿養子芳川寛治の妻であった鎌子が、伯爵家のお抱え運転手倉持陸助と恋仲になり、駆け落ちして千葉駅近くで列車に飛び込み自殺を図る。ふたりとも重症を負い、倉持は自殺。鎌子は回復後、ふたたびお抱え運転手の出沢佐太郎と駆け落ち事件を起こしている。 |
6月19日 | 理化学研究所創設。総合自然科学研究機関。 |
10月15日 | フランスでダンサーをやっていたマタ・ハリが、ドイツ軍に情報を漏らしたという理由でフランス政府によって処刑される。 |
11月 2日 | バルフォア宣言。イギリスのバルフォア外相が、ロスチャイルドへ書簡を出し、パレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」の建設を援助すると約束。一方で、アラブ民族にも国家建設を認める約束(フサイン・マクマホン協定)をしており、のちのパレスチナ問題の原因の一つとなる。 |
12月 6日 | ハリファックス港の大爆発。貨物船同士の衝突で積荷の火薬2600tが爆発。市街地が壊滅する。1500人が即死し、さらに重症者や家屋の下敷きになった人ら数百人が死亡。 |
1918年(大正7年) |
3月 7日 | 松下幸之助が松下電気器具製作所(現パナソニック)を創業。 |
4月 1日 | イギリス空軍(王立空軍)の発足。世界最初期の独立した空軍。 |
4月16日 | 軍需工業動員法公布。 |
4月21日 | ドイツ軍のエース「レッドバロン」ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン戦死。 |
6月 | ロシアで、チェコスロバキア兵が蜂起し、これがきっかけで、内乱が勃発する。 |
7月17日 | 内乱中のロシアで、ボリシェビキが、ロシア皇帝一家を殺害。ユリウス暦7月4日。 |
7月22日 | 富山県魚津港に主婦らが集結し、北海道へ米を輸送する「伊吹丸」の輸送中止を訴える。米騒動の勃発。 |
9月29日 | 原敬が第19代内閣総理大臣に就任し、原内閣が成立。 |
10月29日 | 第一次世界大戦の末期、ドイツ太洋艦隊の水兵らが出兵を拒否。ドイツ革命がはじまる。 |
1919年(大正8年) |
1月 3日 | ファイサル・ワイツマン合意。アラブとの友好協力の下ユダヤ人入植が進められる。 |
1月16日 | アメリカで国家禁酒法が成立。1933年12月5日まで「禁酒法時代」。 |
1月18日 | パリ講和会議が始まる。第一次世界大戦の講和条件を話しあい、戦後処理を行うために行われる。 |
1月 | 宝塚音楽歌劇学校が設立され、これにあわせて少女歌劇養成会は解散して、新たに宝塚少女歌劇団として発足。 |
3月 3日 | 信玄公旗掛松事件の大審院判決が出される。中央本線日野春駅そばに生えていた「信玄公旗掛松」と呼ばれた著名な巨木が蒸気機関車のばい煙などで枯死したことを受けて、松の所有者で地元の名士だった清水倫茂が国に損害賠償を請求した事件。大審院は「鉄道という公共性を持ってしても、他人の権利を侵害することは出来ない」として国側敗訴というこの時代では異例の判決を下す。「権利濫用」に関するの初期の事例としても有名。 |
3月23日 | ベニート・ムッソーリニによって反共主義の「イタリア戦闘者ファッシ」が結成される。のちのファシスト党。反共主義だが左派勢力も参加していた。 |
4月 1日 | 新たな帝国大学令が施行され、旧帝国大学令は廃止される。 |
4月13日 | 大英帝国支配下のインド・アムリッツァルで軍がローラット法(令状なしの捜査や陪審員なしの裁判を認める法令)に抗議する市民集会に発砲し1500人以上が死傷する虐殺事件がおこる。 |
5月 4日 | 中国北京大学の学生らが、ベルサイユ条約に反対して起こした大規模な反日デモ、五・四運動が北京の天安門で始まる。 |
5月19日 | ジャワ島のケルート山が噴火。火山泥流が発生して麓の村を直撃し5000人以上が死亡。この調査で、火山泥流という現象が明らかとなり、現地の言葉をとって「ラハール」と呼ぶようになった。 |
6月 1日 | 史蹟名勝天然紀念物保存法が施行される。 |
6月28日 | ヴェルサイユ条約調印。戦勝国によるドイツの処分を主とした条約。以降ヴェルサイユ体制となる。 |
7月31日 | ドイツ議会がヴァイマル憲法を採択。 |
8月14日 | ドイツでヴァイマル憲法が公布・施行される。 |
9月12日 | アドルフ・ヒトラーがドイツ労働者党(党首はドレスクラー・後のナチ)に参加する。ヴァイマール共和国軍の調査任務で調べていて興味を持ったとも言われる。 |
10月10日 | 中華革命党が中国国民党に改組。 |
11月18日 | 神道系新興宗教の「大本」(大本教)が、本拠とするため、亀山城を買収する。 |
1920年(大正9年) |
1月30日 | 東洋コルク工業設立。後の自動車メーカーマツダ。 |
2月 1日 | 久原鉱業所から日立製作所が独立。 |
3月11日 | ニコラエフスクで、共産パルチザンと日本軍守備隊が衝突。守備隊全滅。日本人も多数殺害される。いわゆる尼港事件。 |
3月15日 | 鈴木式織機製作所が株式会社化。のちの自動車メーカースズキ |
4月 1日 | 前年施行された大学令に基づき、10校が大学に昇格。文部省と対立を続けていた東京高等商業学校専攻部も東京商科大学となる(のちの一橋大学)。 |
5月 2日 | 上野公園で友愛会主催による第1回メーデー開催。 |
5月15日 | 時ノ展覧会を開催。 |
5月15日 | 鉄道省が発足。 |
5月16日 | ジャンヌ・ダルクが、ローマ教皇ベネディクトゥス15世によって列聖される。 |
5月25日 | 共産パルチザンによるニコラエフスク市民虐殺事件が起こる。市民6000人が犠牲になり、日本人も700人が殺される。いわゆる尼港事件。 |
8月10日 | 連合諸国とオスマン帝国との間で講和条約であるセーヴル条約が締結される。パレスチナの英国統治、エジプトの英国保護下、モロッコ・チュニジアのフランス保護下、レバノンとシリアのフランス統治、トラキア・イズミルのギリシャ移管、アナトリア南部のイタリア支配、アルメニア、ヒジャーズ王国の独立などが決まり、オスマン軍の軍備縮小も決定される。 |
9月30日 | 市街地建築物法施行令公布。建築物の高さを百尺(30.3m。のち31m)に規制する。ただし塔屋など一部が超えているものもある。 |
11月25日 | 八八艦隊計画最初の戦艦、「長門」が竣工する。世界で初めて16インチ級の主砲を搭載。 |
12月17日 | ヴェルサイユ条約を受けて、旧「ドイツ領ニューギニア」だった南洋群島が日本の委任統治領となる。 |
| ロバート・ゴダードが論文『高々度に達する方法』を発表しロケットで宇宙へ出ることを説明。ニューヨーク・タイムズは社説で、<「何もない」真空中をロケットが飛行するのは不可能だと誰でも知っている>と痛烈に批判。同紙は49年後のアポロ月着陸の直前に、この社説の「過ちを後悔する」と表明した。 |
| 通天閣に広告看板が取り付けられる。企業はライオン歯磨。 |
1921年(大正10年) |
2月12日 | 第一次大本事件。神道系新興宗教の「大本」(大本教)が、政府の弾圧を受ける。 |
6月 8日 | 長門級戦艦2番艦の戦艦陸奥が就役。ただし軍縮交渉で廃艦の対象になりかねなかったため、完成を急ぎ、艤装などは完全ではなかったとされる。 |
7月11日 | ソビエト連邦の支援を受けたモンゴル人民党が、モンゴル人民政府を樹立。君主はジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)。 |
7月23日 | 中国で興されていた複数の共産主義政党を統合して中国共産党が結党される。 |
7月24日 | ソビエトで高速輸送用に研究されていたエアロワゴンが、モスクワと郊外のトゥーラとの間をテスト走行中、脱線事故を起こし、乗っていた22人のうち、開発したバレリアン・アバコフスキー、政治家でジャーナリストのフョードル・セルゲイエフら7人が死亡。エアロワゴンは車両にプロペラを付けて時速140km程で走行する鉄道の一種。 |
9月21日 | オッパウ大爆発事故。ドイツ南西部のオッパウにあったバーディシェ・アニリン・ウント・ソーダ・ファブリーク社の化学工場で製造していた約4500トンの硫硝安混成肥料の塊を崩すためダイナマイトを使用したところ、大爆発を起こし、工場は全壊。周辺の都市も大被害を受けた。死者509人、行方不明160人、負傷者1952人。230km離れたバイロイトにも爆風が到達したという。 |
10月 | 宝塚少女歌劇団に花組・月組が誕生。 |
11月 4日 | 原敬首相が関西政友会大会に向かうため、東京駅丸の内南口コンコースに現れたところを、右翼青年中岡艮一(大塚駅転轍手)に刺殺される。 |
11月 9日 | イタリアのファシスト運動家や民兵などで構成される連合組織「イタリア戦闘者ファッシ」が政治組織「国家ファシスト党」へ発展。ムッソリーニが最高指導者となる。 |
12月 6日 | 英愛条約締結。大英帝国政府と、アイルランド共和国暫定政府との間で、アイルランド独立戦争の休戦が結ばれ、大英帝国内の自治国(同君連合)として、アイルランド自由国が建国されることに。 |
1922年(大正11年) |
2月 6日 | ワシントン海軍軍縮条約締結。 |
2月 8日 | ソ連に「ゲーペーウー(GPU)」が設置される。人民委員会のチェーカーを前身とし、のちのKGBにつながる秘密警察。 |
2月11日 | 日本とアメリカが、南洋群島に関する「『ヤップ』島及他ノ赤道以北ノ太平洋委任統治諸島ニ関スル日米条約」に調印。 |
2月25日 | 『旬刊朝日』が創刊される。 |
4月 1日 | 南洋庁官制を施行し、南洋庁をパラオのコロール島に設置し、各諸島にも6つの支庁を設置。統治を本格的に開始する。 |
4月 2日 | 『サンデー毎日』が創刊され、『旬刊朝日』が『週刊朝日』となる。現在のタイプの週刊誌が登場する。 |
10月27日 | ムッソリーニ率いる国家ファシスト党が、政権奪取を目指して武装民兵などをローマへ向かわせるため集結。いわゆる「ローマ進軍」。 |
10月28日 | イタリア王国ファクタ政権が、国家ファシスト党の武装進軍計画に対し戒厳令施行を目指すも、国王が署名を拒否。ファクタ首相は辞任し、ファクタ政権は崩壊。ムッソリーニは政府と交渉。 |
10月29日 | ムッソリーニがローマで国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に謁見し、国王はムッソリーニに組閣を命じる。黒シャツ隊25000名も鉄道などで続々ローマに入城。 |
10月31日 | ムッソリーニ政権樹立。 |
11月 5日 | ハワード・カーターによって発見されたツタンカーメン王墓が開かれ、調査が始まる。 |
12月 6日 | 英愛条約をもとに、イギリス皇帝の勅により、アイルランド南部26州で構成されたアイルランド自由国が建国される。北部アルスターはイギリス領として残る。 |
12月27日 | 最初から空母として設計された世界初の航空母艦「鳳翔」が竣工。 |
12月30日 | 世界最初の共産主義国家、ソビエト連邦が正式に誕生する。 |
| 帝都防衛用の航空基地として、立川飛行場が開港。 |
1923年(大正12年) |
1月 9日 | ファン・ド・ラ・シェルバによって発明されたオートジャイロが初飛行。 |
1月22日 | 宝塚のパラダイス劇場・公会堂劇場が焼失。 |
2月 5日 | 現在の国際刑事警察機構(インターポール)につながる国際刑事警察委員会が創設される。 |
2月20日 | 東京駅の正面に丸ノ内ビルヂングが竣工する。 |
3月26日 | フランスの女優サラ・ベルナールが死去。世界最初の国際女優であり、その肖像や舞台のデザイン様式はアール・ヌーヴォーの代表とされた。また自身も彫刻や絵画を描く芸術家であった。フランス政府によって国葬。 |
6月 | ヘルマン・オーベルトの論文を元に『惑星空間へのロケット』が出版されドイツで評判となる。ドイツで先進的にロケット研究が進んだ要因の一つ。 |
8月31日 | コルフ島事件。バルカン諸国の国境線を確定するための国際調査に加わっていたイタリア軍のエンリコ・テルリーニ将軍が暗殺されたため、調査に反発していたギリシャ政府による犯行を疑ったイタリア政府がギリシャ領ケルキラ島(コルフ島)を武力占領。 |
9月 1日 | 関東大震災発生。マグニチュード7.9。東京と横浜を中心に大きな被害を出し、死者は10~14万人に達する。 |
9月16日 | 甘粕事件。関東大震災の混乱の中、アナキストの大杉栄、その内縁の妻の伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一の3人が、憲兵隊に連行され、殺害される。 |
9月17日 | 日本橋にあった各市場が関東大震災で大きな被害を受けたため、芝浦に仮市場が設置される。この後、海軍用地のある築地へ移転が進められる。 |
10月 3日 | 関東大震災の直後、沼津測候所の職員が、富士山頂近くの伊豆ヶ岳で噴気を確認したため、10月3日から5日に富士山とその周辺で調査が行われる。 |
11月 8日 | ヒトラーなどのドイツ国家社会主義労働者党のメンバーやルーデンドルフらが、イタリア・ファシスト党のローマ進軍をモデルにして独立性の強いミュンヘンで蜂起しベルリン進軍を計画する(ミュンヘン一揆)。しかし協力姿勢を見せていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールが鎮圧したため失敗に終わる。 |
11月11日 | ヒトラー逮捕される。しかし法廷での弁舌が彼の支持者を増やす結果につながる。 |
11月15日 | ドイツでハイパーインフレと化した紙幣パピエルマルクの暴走を終息させるため、不動産を担保とする金不換紙幣のレンテンマルクが発行される。 |
12月27日 | 虎ノ門事件。摂政皇太子が自動車で移動中に虎ノ門で難波大助に狙撃される。皇太子は無事。難波は群衆に取り押さえられる。天皇制打破といった理由ではなく、皇室を崇拝するプロレタリア階層へのインパクトに皇族を狙ったのが動機とも。難波の父、難波作之進衆議院議員は絶食自殺。 |
1924年(大正13年) |
1月 5日 | 二重橋爆弾事件。大韓民国臨時政府から送られてきた金祉燮が皇居外苑で警官や近衛兵に向けて爆弾を投げつけるが不発に終わる。 |
1月 7日 | 虎の門事件を受けて山本権兵衛内閣が総辞職。 |
1月20日 | 中国国民党の蒋介石が、共産党との連携を決定。第一次国共合作。北京政府(北洋軍閥政府)に対抗する共同戦線。 |
4月 1日 | ヒトラー、ミュンヘン一揆の首謀者として要塞禁錮5年の判決。しかし要塞刑務所にも彼の賛同者は多く、待遇は良かったという。収監後、『我が闘争』の執筆を開始。 |
6月 6日 | イギリスのエベレスト第三次遠征隊が頂上を目指すが失敗に終わる。 |
6月27日 | 大阪市内に、市内1円均一のタクシー「円タク」が登場。 |
7月15日 | 宝塚大劇場が竣工。雪組が新設される。 |
12月20日 | ヒトラー、予定より大幅に前倒しで釈放される。 |
1925年(大正14年) |
1月 3日 | それまで連立政権維持に努め、野党とも交渉していたムッソリーニが、議会で独裁体制へ移行することを宣言。 |
3月 1日 | ラジオの試験放送が始まる。 |
3月22日 | 社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)がラジオ放送を開始。送信施設は東京芝浦にあった東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)。 |
4月22日 | 治安維持法公布。 |
5月 5日 | 普通選挙法(衆議院議員選挙法の改正)公布。 |
5月12日 | 治安維持法施行。 |
6月 1日 | 大阪でラジオの仮放送が始まる。三越大阪支店の屋上から送信。 |
7月12日 | 社団法人東京放送局(現在のNHK東京)によるラジオ本放送がはじまる。愛宕山送信所から送信。 |
7月12日 | 名古屋でもラジオの本放送がはじまる。 |
7月18日 | ヒトラーの『我が闘争』第一巻が発売される。のちナチス時代にはほぼ義務的に各家庭に一冊ずつ置かれたと言われるが、戦後は逆に発禁処分となり、現在も継続している。 |
9月28日 | 信玄公旗掛松事件の損害賠償額決定裁判が終結。地裁での和解額案500円から72円にまで大幅に減額され(銘木を基準とせず薪材としての価格を基準とした)、さらに原告側が訴訟費用9割を負担するという、事件そのものを審議した国側敗訴の判決とは真逆の結果となった。 |
12月 1日 | 京都学連事件。マルクス主義の研究や普及をすすめる京都帝国大学を始めとした各大学の学生社会科学連合会(学連)が特高警察の摘発を受ける。 |
12月21日 | 鶴見騒擾事件。西日本を基盤とした東邦電力の松永安左エ門が関東での電力事業のために作った東京電力(現在の東京電力とは別会社)が、川崎白石町に進めていた火力発電所建設工事の利権をめぐって、ヤクザ組織同士が起こした抗争事件。 |
12月24日 | ムッソリーニが新たに首席宰相及び国務大臣職を創設し、権限を大幅に強化した政府の長として自ら就任。 |
12月28日 | 大日本大相撲協会設立。摂政皇太子の台覧と奨励金の下賜で、摂政宮賜杯(現天皇賜杯)を作ったことをきっかけに。大阪相撲も吸収することになる。 |
1926年(大正15年/昭和元年) |
2月16日 | バンベルクでナチ党幹部会議が開かれ、ヒトラー収監中に起こった分裂に対し、ヒトラーの指導体制が確立。党内左派勢力は衰退する。 |
2月28日 | 松島遊郭疑獄事件。大阪の松島遊郭を移転する構想に関して、与党憲政会の箕浦勝人、野党政友会の岩崎勲、野党政友本党の高見之通などが収賄の疑いを持たれる。 |
3月16日 | ロバート・ゴダードが、マサチューセッツ州オーバーンの農場で初めての液体燃料ロケット「ネル」の発射実験を行い成功。しかし、危険な実験だと騒ぎになり、新聞記者らの間違った記事や、「専門家」らによる「科学的」批判を受ける。 |
6月10日 | 大阪に続き、東京にも市内1円均一のタクシー「円タク」が登場。 |
12月25日 | 大正天皇崩御。昭和天皇即位。 |
12月25日 | 浜松高等工業学校電気学科の助教授だった高柳健次郎が、ブラウン管を使ったテレビの送受信の実験に初めて成功する。最初に表示されたのは、カタカナの「イ」の字。走査線は40本だった。 |
1927年(昭和2年) |
3月14日 | 第52回帝国議会で、片岡直温大蔵大臣が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言し、取り付け騒ぎが起こる。 |
3月18日 | アメリカより青い目の人形1万2739体が贈られる。 |
3月20日 | イギリスとサウード家がジッダ条約を結び、ヒジャーズ・ナジュド王国として独立。後のサウジアラビア。 |
3月27日 | 台湾銀行が貿易商社鈴木商店への融資打ち切りを通告し、すでに負債を抱えていた同社の資金繰りが悪化。 |
3月29日 | 日本帝国海軍の戦艦日向が朝鮮半島の西側はるか沖合の東シナ海を航行中に暗礁に接触。調査され「日向礁」と名付けられる。現在も中国では「日向礁」と呼ばれているが、韓国は可居礁と呼び、施設を建造。 |
4月 5日 | 鈴木商店が倒産。台湾銀行の貸付金も焦げ付く。ふたたび金融不安が広がる。 |
4月12日 | 蒋介石が上海クーデターを起こし、共産党を攻撃。国共合作は瓦解。北京北洋軍閥政府の勢力を弱体化させ、張作霖とは反共で一致したために、国共合作の意味が無くなったことから、従来の反共に戻ったことによる。 |
6月 5日 | ドイツのヨハネス・ヴィンクラーらロケット愛好者、研究者らが「宇宙旅行協会(VfR)」を設立。月へ行くことのできる宇宙飛行可能なロケットの研究が目的。軍にも接近し、ベルリンに実験場「ベルリンロケット発射場」を確保。 |
7月13日 | 中国共産党が対時局宣言を発し、国共内戦が始まる。 |
9月21日 | 日本で初めてのファッションショーが、三越ホールで行われる。一般から募集したデザインの着物を水谷八重子、東日出子、小林延子の3人の女優が着用して披露。 |
12月30日 | 日本初の地下鉄、東京地下鉄道・浅草駅-上野駅間が開業。現在の銀座線。 |
| セブンイレブンを生んだ会社「サウスランド・アイスカンパニー」設立。 |
| ドイツ映画『メトロポリス』が公開される。フリッツ・ラングとテア・フォン・ハルボウ夫妻の制作。100年後の未来を舞台にしたSF映画で、その緻密な設定とストーリー仕立て、映像美から、その後の映画に大きな影響を与えた。オリジナル版は非常に長時間の作品だが、興行目的でカットされたり、戦争などを経たため、フィルムの多くが失われており再編集版しか残っていない。 |
1928年(昭和3年) |
5月20日 | ドイツ国会議員選挙でナチ党が初出馬するが、12人の当選にとどまる。景気が好転したために、政府批判よりで危機感を煽るナチ党に支持が集まりにくかった。 |
6月 4日 | 張作霖爆殺事件。関東軍の河本大作主導により、北京から奉天へ列車で移動中だった張作霖を狙い、南満州鉄道との立体交差地点で爆破。列車は大破し、重症を負った張作霖はまもなく死亡した。張作霖は満州最大の軍閥を率い、中華民国政府にも影響力をもっていたが、蒋介石の北伐に伴い勢力を弱めつつあった。関東軍が直接満州統治を考えるようになったことから、排除したという説が有力だが、河本大作の動機や独断だったかどうか、また爆破の具体的方法など、不可解な点も多い。奉天軍閥は張学良が後を継ぐ。 |
6月18日 | 北極探検飛行で遭難した飛行船「イタリア」の救援に水上機で向かっていた探険家のアムンセンが消息を絶つ。 |
6月29日 | 治安維持法改正。厳罰化。 |
7月28日 | アムステルダムオリンピック開会。 |
8月12日 | アムステルダムオリンピック閉幕。日本は織田幹雄が三段跳びで、鶴田義行が200m平泳ぎで金メダルを、人見絹枝が陸上800mで銀メダルを、高石勝男が100m自由形で銅メダルを取る。女子800mはドイツのリナ・ラトケと人見絹枝がゴールに倒れ込む激戦となったため、次の大会から女子陸上は200mまでとなり、800mが復活するのは1960年のローマ大会となった。 |
9月28日 | 細菌学者アレクサンダー・フレミングが、黄色ブドウ球菌の培養中に混ざった青カビのコロニー周辺に黄色ブドウ球菌が生育しないことを発見。青カビが産生する物質によるものと考え、翌年この物質をペニシリンと名付ける。 |
10月 2日 | のちにバチカンの「属人区」(教会区の一種)となるオプス・デイがホセマリア・エスクリバーによりスペインで創立される。 |
| フリッツ・ラングによる映画『月世界の女』が公開。この作品ではロケット研究者らが制作に関わった。 |
1929年(昭和4年) |
2月11日 | イタリア政府とバチカンとの間でラテラノ条約が成立。バチカン市国が誕生。 |
2月14日 | 聖バレンタインデーの虐殺。シカゴのギャング、アル・カポネが命じて、敵対組織モラン一家の構成員と市民をマシンガンで射殺した事件。 |
3月24日 | イタリア総選挙が実施され、国家ファシスト党の党大評議会によって選出された定員400名の候補者を信任するかどうかの2択投票という形になる。賛成98.43%。 |
4月 8日 | 個性と人格を重んじた全人教育を主張する小原國芳が玉川学園を創設。 |
4月14日 | 第1回モナコグランプリ開催。モナコのモンテカルロ市街地コースを使ったレースの始まり。 |
4月15日 | 阪急百貨店開店。日本初のターミナルデパート。 |
7月 1日 | 国宝保存法施行。国宝が指定される(旧国宝で現在の国宝重要文化財ではない)。 |
7月 2日 | 張作霖爆殺事件にともなう処分をめぐって天皇の怒りを買った田中義一首相が辞表を提出し、内閣総辞職。 |
8月15日 | エルサレムにある「嘆きの壁」で、ユダヤ人青年らの自衛団であるベタルのメンバーが同地のユダヤ人の権利を求めるデモを行う。この話が拡大してアラブ側に伝わり、アラブ側のデモを誘発。 |
8月23日 | エルサレムなど各地で武装したアラブ側の住民らがユダヤ人居住区を襲撃。統治者のイギリス軍も出動して、アラブ民兵を攻撃したため、ユダヤ人、アラブ人に多数の死傷者を出す。いわゆる「ヘブロン虐殺事件」。 |
9月 3日 | ニューヨーク株式市場が史上最高値に達する。以降、徐々に下落を始める。 |
10月 1日 | ソビエトでソビエト連邦暦が導入される。グレゴリオ暦はそのままに、7曜制をなくして週5曜日とし、各曜日を5色に色分けして、国民全員にそれぞれの色を配色、自分の色の日が休日となるシフト制システム。宗教色を排し、休日が増える代わりに生産を止めることなく効率を高める目的で導入された。国民からは大不評だったと言われる。 |
10月24日 | ニューヨーク株式市場が一気に大暴落。いわゆる「暗黒の木曜日」。世界恐慌の始まり。 |
| イギリス空軍のフランク・ホイットルがターボジェット機の論文を軍需省に提出する。 |
1930年(昭和5年) |
1月 1日 | 東京地下鉄道が上野から万世橋仮駅まで延長。開削式で建設していたため、神田川をくぐる工事が困難なことから、一旦、川の手前で開業したもの。 |
1月21日 | 海軍国である英、米、日、仏、伊の5カ国で、ロンドン海軍軍縮会議が始まる。 |
2月 9日 | 重光葵駐華公使が中華民国国民政府外交部の王正廷部長に対し、吉林省など中国各地で広まっている「田中上奏文」は偽物であるため取り締まるよう要請する。「田中上奏文」というのは田中義一首相が昭和天皇に対して、世界征服のためにまず中国を支配しなければならず、中国を支配するためにはまず満蒙を支配しなければならないとして、その具体的な政策を記したもの。内容に現実と異なる部分が多々あり、偽文書であるのは確かだが、極東裁判の直前まで米・中・ソ連の対日プロパガンダに利用された。誰が制作したかは諸説あり不明。 |
2月18日 | アメリカのクライド・トンボーが、師のパーシヴァル・ローウェルの主張をもとに、1万枚以上の写真の中から冥王星を発見する。 |
4月22日 | ロンドン海軍軍縮会議で英、米、日の妥協が図られ軍縮条約が成立。仏、伊は条件が折り合わず事実上の離脱。 |
4月 | バンク・オブ・マンハッタン・トラスト・ビル(283m、70階・のち40ウォール・ストリートと改名)がニューヨークに完成し、高層ビル世界一の座をウールワースビルから奪う。 |
5月17日 | 第一次世界大戦のドイツの賠償案の変更を定めたヤング案が発効する。ドイツへの資本投下を行うアメリカの思惑を反映し、ゼネラル・エレクトリック社会長オーウェン・ヤングらによってまとめられた賠償軽減案だが、ドイツ国民の反感を買い、ナチ党飛躍の要因の一つとなった。大幅に減額し超長期の返済期間を定めている。 |
5月28日 | 建設中から世界一競争をしていたクライスラービルが完成し、バンク・オブ・マンハッタン・トラスト・ビルを追い抜いて、世界一となる(塔頂部まで高さ320m)。エッフェル塔(当時312m)も追い抜いたことでビル以外の高層建築でも世界一に。アールデコ様式の独特のデザインで有名。 |
5月30日 | 間島共産党暴動。満洲の東方、朝鮮との国境沿いにある豆満江北岸の間島で、日本および奉天軍閥と対立していた朝鮮独立派社会主義者らが、中国共産党の支援を受け武装蜂起。日本領事館や鉄道施設などを襲う。以後1年ほど暴動が頻発。無関係の一般朝鮮人市民も巻き込まれて土地を追われる。 |
8月18日 | 作家谷崎潤一郎が、妻・千代と離婚し、作家佐藤春夫がその千代と再婚することを連名で発表し、細君譲渡事件と世間で騒がれる。 |
9月14日 | ドイツ国会議員選挙。世界恐慌の影響で社会不安が強まり、ナチ党が15.7%の得票率で第二党(107議席)、ドイツ共産党が13.1%の得票率で第三党(77議席)に躍進する(総数は577議席)。 |
10月 1日 | 枢密院でロンドン海軍軍縮条約を可決。 |
10月 2日 | 日本がロンドン海軍軍縮条約に批准。天皇の統帥権干犯問題に発展する。 |
11月28日 | 太宰治が、知り合ったばかりの女給田部シメ子と心中を図り、田部だけが死亡。 |
| この年、香川県に豊稔池堰堤が完成。日本国内では非常に珍しい5連式マルチプルアーチダムで、地元の資材と、地元住民の労働力で作られた。 |
1931年(昭和6年) |
1月21日 | 宇宙旅行協会が、液体ロケットの発射実験を行う。高度90mに到達。 |
1月28日 | メキシコとフランスが領有権を争ったクリッパートン島事件の仲裁判決が出される。太平洋の無人島である同島の発見はスペイン(継承者はメキシコ)のほうが古いが、同島の主権を主張し公表したのはフランスのほうが先であるため、フランスの領土とするもの。無人島の領有権は、同地に主権の表示を残さず離島したとしても、公的に通告し新聞等で公表した時点で成立するという国際法上の慣例となった。なお島の名前は、同島を拠点にしたイギリスの海賊ジョン・クリッパートンから来ている。 |
2月14日 | 映画『魔人ドラキュラ』公開。監督はトッド・ブラウニング。ハンガリー人俳優ベラ・ルゴシ(ルゴシ・ベーラ)の演じるドラキュラは、その後のドラキュラのイメージのもとになった。 |
3月14日 | 宇宙旅行協会のヨハネス・ヴィンクラーらがデッサウでロケットHW-Iの打ち上げ実験を行う。 |
4月18日 | アマチュアの考古学者、直良信夫が、兵庫県明石市の西八木海岸で、腰骨の一部を発見。いわゆる「明石原人」。のち空襲で失われ、実際にいつの時代の人間の骨だったのかは不明。 |
5月 1日 | ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングが完成。高さは443.2m、102階建て。クライスラービルを抜いて世界一高いビルとなり、その後42年間世界一の座を守った。 |
6月21日 | ドイツの鉄道車両シーネンツェッペリンが、230km/hを達成。 |
7月 2日 | 万宝山事件。中国長春の近郊にある万宝山で入植した朝鮮人(間島共産党暴動に巻き込まれ住居を失い、日本政府の政策で万宝山に移住した)が地主郝永德から土地を借り水路を掘ったところ、中国人農民と対立、騒動に発展。中国と日本の警察が出動して収拾を図る。死者はなし。ところが朝鮮日報などが朝鮮人多数殺害と報道。 |
7月 3日 | 万宝山事件で朝鮮人多数が犠牲になったという誤報を信じた朝鮮市民が、京城、仁川などで中国人襲撃事件を次々と起こす。いわゆる朝鮮排華事件。 |
7月 5日 | 平壌で中華街が襲われる大規模な暴動が発生。中国人88人が死亡。警察と駐屯軍が出動。 |
7月 9日 | 日本と中華民国両政府関係者が各地で起こっている中国人襲撃暴動について会合。 |
7月12日 | 万宝山事件について「朝鮮人多数殺害」の誤報を書いたとされる朝鮮日報の長春支局長金利三が訪ねてきた朝鮮人3人に連行され暴行の上、謝罪文を書かされる。 |
7月15日 | 朝鮮日報の長春支局長金利三が射殺される。 |
8月25日 | 羽田空港が開港。当初は300m×15mの滑走路1本。 |
9月18日 | 柳条湖事件。南満州鉄道が爆破され、それを理由に関東軍が満洲の武力制圧に動く。満洲事変の始まり。 |
9月18日 | ヒトラーが結婚まで考えたほど溺愛していた姪のゲリ・ラウバル(異母姉アンゲラの娘)が自殺。画家との交際を反対された挙句の自殺だったと言われる。 |
10月 1日 | 東京日日新聞が、政府の行財政整理原案を報道し、その中で東京商科大学の予科と専門部を廃止することが含まれていたため、東京商科大学の教授、学生、およびOBで作る如水会が反発。その後、校舎に籠城し、警察と衝突するなどの事件に発展。いわゆる「籠城事件」。最終的には政府側が折れて、廃止は撤回された。 |
11月21日 | 東京地下鉄道が神田まで延長。万世橋駅は廃止。 |
12月 5日 | ソ連政府により、モスクワの救世主ハリストス大聖堂が爆破解体される。跡地に大ソビエト宮殿の建設が進められるが、戦争とスターリン体制の崩壊で中止となった。大聖堂は2000年に再建。 |
12月11日 | 英国で、英連邦を法的に定めるウェストミンスター憲章が成立。イギリス、アイルランド自由国、カナダ、ニューファンドランド、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦が同格の連邦を構成する。 |
| 映画『フランケンシュタイン』が公開される。メアリー・シェリーの原作とはかなり異なった内容だが、この映画でボリス・カーロフが演じた面長で四角い顔に縫い目、ボルトがはまった不気味な怪物「フランケンシュタイン」のイメージが定着するきっかけとなった。原作ではフランケンシュタインは発明家の名前で、人造人間は知的な存在であり「怪物」ではない。 |
1932年(昭和7年) |
1月 6日 | 春秋園事件。天竜や大ノ里ら多数の力士が、相撲協会に対し待遇改善と、集客増加のための改革を求める。 |
1月 8日 | 桜田門事件。陸軍始観兵式を終えて戻る途中の昭和天皇が乗車した馬車(御料車)に韓人愛国団のメンバー李奉昌が爆弾を投げつける。一木喜徳郎宮内大臣の乗る馬車が破壊される。 |
1月 9日 | 春秋園事件。天竜や大ノ里らは協会側との意見対立が解消せず、新たな賛同者も含めた幕内・十両力士の大半の48人が脱退して新組織を起こす。協会側は番付編成が混乱し、十両や幕下からも急遽昇進させる事態に。 |
1月18日 | 上海で日蓮宗僧侶らが襲われ、1人が死亡、2人が重症を負う。 |
1月28日 | 第一次上海事変。桜田門事件に関する「民国日報」の報道と、日蓮宗僧侶襲撃事件を受けて現地日本人が反発。これをきっかけに日中両軍が衝突。 |
2月 9日 | 井上準之助前蔵相が血盟団員・小沼正に射殺される。血盟団事件の始まり。 |
3月 1日 | 満洲国建国宣言。 |
3月 5日 | 三井銀行本店の玄関前で三井財閥の團琢磨が血盟団の菱沼五郎の手で射殺される。 |
3月 7日 | 玉ノ井バラバラ事件。バラバラ殺人事件という表現の始まりとなった殺人事件。 |
3月11日 | 血盟団の代表、井上日召が自首。血盟団が一斉摘発される。 |
4月29日 | 上海天長節爆弾事件。韓人愛国団のメンバー尹奉吉によって、天長節の集会会場に爆弾が投げ込まれ、上海派遣軍司令官白川義則大将と上海日本人居留民団行政委員長の河端貞次が死亡、第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使重光葵・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負う。 |
5月 9日 | 坂田山心中事件。新聞の「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」で有名に。 |
5月15日 | 五・一五事件勃発。海軍の青年将校らによって、首相の犬養毅が暗殺される。 |
5月20日 | アメリカ人女性飛行士アメリア・イアハートが、ニューファンドランド島からアイルランド島のロンドンデリーまで飛行し、単独大西洋横断に成功。 |
7月 8日 | ニューヨーク株式市場が再び最安値に達する。 |
7月31日 | ドイツ議会の選挙が行なわれ、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が230議席を獲得し第一党となる。 |
9月23日 | アラビア半島のサウード家が、ヒジャーズ・ナジュド王国とハッサ、カティフなどの地域を統合して、サウジアラビア王国を興す。 |
10月 1日 | 東京府東京市に、近隣の荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の5郡82町村全域が編入されて、新たに20区を置き東京市35区となる。 |
10月 6日 | 宇宙協会のヨハネス・ヴィンクラーらが、政界関係者の視察の中、ロケットHW-IIの公開打ち上げを行うも、爆発して失敗に終わる。しかしこれらの実験で政界・軍部の注目を得るようになる。 |
10月 3日 | 満洲開拓武装移民団第一陣416人が出発。 |
10月10日 | 桜田門事件の李奉昌が処刑される。 |
11月 9日 | スターリンの2番めの妻ナジェージダ・アリルーエワが、寝室で死亡しているのが発見される。公式には虫垂炎の悪化によるとなっているが、自殺、もしくはスターリンに殺されたという説も有力。 |
11月 | 宇宙旅行協会のフォン・ブラウン、ドイツ陸軍のロケット開発に携わるようになる。当時のロケットは大砲の延長線上のようなイメージだったため、陸軍砲兵部隊の管轄。 |
1933年(昭和8年) |
1月30日 | ヒトラーが首相となり、ヒトラー内閣が成立。 |
2月 1日 | ヒトラー、ドイツ国会を解散し、総選挙を決定。 |
2月20日 | 築地署事件。プロレタリア作家の小林多喜二が特高警察による拷問で死亡する。 |
2月24日 | 国際連盟ジュネーブ特別総会で、満洲をめぐる日本と中華民国の紛争を調査したリットン調査団の報告書(日中和解対策法)が可決される。松岡洋右代表らが退席。ただし言われているような、ここで脱退の宣言をしたわけではない。 |
2月27日 | ドイツ国会議事堂放火事件。ドイツ共産党への非合法化と弾圧の口実となる。 |
3月 2日 | 映画『キング・コング』公開。怪獣映画のはしりとも言える作品で、その後の映画に大きな影響を与える。メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザックが監督・制作。 |
3月 8日 | 国際連盟ジュネーブ特別総会での、リットン調査団の報告書可決を受け、日本政府は国際連盟の脱退を決める。 |
3月22日 | ナチス・ドイツの強制収容所のモデルと言われるダッハウ強制収容所が開所する。 |
3月24日 | ドイツでナチ党に国家人民党と中央党が協力する形で全権委任法が成立し、ヒトラー内閣に立法権が与えられ、大統領と議会は形骸化。法制度上もナチスの独裁となる。 |
3月28日 | ドイツで「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」が出され、ナチス党員によるユダヤ商店への妨害・破壊行為が日常化する。 |
4月 1日 | 重要美術品等ノ保存ニ関スル法律施行。国宝保存法で定めていない美術品の保護に関する法律。 |
4月 4日 | 航空機5機を搭載できる大型硬式飛行船「空中空母」アクロン号が、嵐の中、ニュージャージーの沖合に墜落。乗員73名が死亡。 |
4月 7日 | ドイツで職業官吏団再建法が成立し、ユダヤ人が公務員職から追放される。 |
5月 6日 | ナチス政権、性研究者で同性愛擁護運動を行っていたマグヌス・ヒルシュフェルトの性学研究所を破壊しその蔵書を焼却する。 |
5月10日 | ドイツ各地の大学のある34の都市で、ナチス高官や大学教授、学生等によって、「非ドイツ的」な書物を焚書する一大儀式が行われる。 |
6月17日 | ゴー・ストップ事件が起こる。陸軍兵士の交通ルール違反をめぐって陸軍と警察が対立した事件。 |
7月10日 | 戸塚球場で行われた早大ニ軍対新人戦で、初めてナイター試合が行われる。なおプロ野球の初ナイター試合は1948年8月17日。 |
7月14日 | ヒトラー政権、ナチ党以外の政党を禁止。 |
7月20日 | ナチ党とバチカンのコンコルダート(政教条約)締結。カトリック教徒への迫害を避けるため。 |
7月25日 | 山形県山形市で40.8℃の気温を観測。2007年に更新するまで日本最高気温であった。 |
7月 | 宝塚少女歌劇団に星組を新設。東京での公演増加に伴い。 |
8月11日 | 関東防空大演習が行われる。信濃毎日新聞の主筆、桐生悠々が、帝都上空に敵機を侵入させた時点ですでに負けているのを前提とした演習を批判する『関東防空大演習を嗤う』の社説を執筆して大問題となる。 |
9月30日 | 宇宙旅行協会のロケット発射場「ベルリンロケット発射場」が閉鎖。水道料金の未払いが大きな理由。 |
11月12日 | ネス湖の怪物「ネッシー」がはじめてヒュー・グレイによって写真に撮られ報道される。 |
11月12日 | 新疆省政府に反乱を起こしたウイグル人によって東トルキスタン・イスラム共和国が成立。翌年崩壊。 |
11月15日 | 東京朝日新聞が、赤坂のフロリダダンスホールの主任教師が検挙された事件を報道。この男の情事相手が吉井勇伯爵の妻徳子であったこと、徳子が複数の華族の妻女など上流階級の女性らを男に斡旋していたことから、不良華族事件として注目される。 |
11月20日 | 昭和天皇の特命を受けた白根竹介兵庫県知事の調停で、陸軍と警察が和解。ゴー・ストップ事件は終結。 |
12月 5日 | アメリカで憲法修正第18条が廃止され、国家禁酒法は違憲となり、禁酒法時代が終了。 |
12月21日 | 不良華族事件を受けて、宗秩寮審議会が開かれ、関係した吉井徳子を礼遇停止、近藤廉治・泰子夫妻を除族などとする処分を決める。 |
12月26日 | 日本産業のグループ会社として自動車製造株式会社が設立される。後の日産自動車。 |
1934年(昭和9年) |
1月 1日 | 東京宝塚劇場が開場。 |
2月 7日 | 中島久万吉商工相が、1921年(大正10年)に静岡の清見寺で足利尊氏自作の木造を拝観し、同人雑誌『倦鳥』に尊氏を再評価すべきではないかと投稿した文章が、雑誌『現代』に転載されたことから、議会で「逆臣」足利尊氏を礼賛していると攻撃される。 |
3月16日 | 瀬戸内海・雲仙・霧島が、日本で初めて国立公園として指定される。 |
3月21日 | 函館大火。市街地の1/3(4146平方m)1万1105棟が焼失、2166名の死者を出す。 |
5月23日 | ボニーとクライドが射殺される。 |
6月 1日 | 自動車製造株式会社の商号を日産自動車株式会社に改称。 |
6月21日 | 東京地下鉄道が当初の予定である新橋まで開通。 |
6月30日 | ヒトラー、「長いナイフの夜」事件を引き起こして、党内突撃隊(当時ドイツ最大の軍事組織)のレーム一派、元左派のグレゴール・シュトラッサー、元首相のクルト・フォン・シュライヒャーなどを殺害。 |
7月22日 | アメリカで大衆に人気のあった銀行強盗のジョン・デリンジャーがFBIに射殺される。 |
7月25日 | オーストリアの独裁者で反ナチス政策を推進したエンゲルベルト・ドルフースがオーストリア・ナチス党員8人に首相官邸で射殺される。 |
8月 2日 | ドイツのヒンデンブルク大統領が死去。ヒトラーは大統領職は継がず、フューラー(指導者・総統)として首相職と兼任して最高指導者となる。 |
8月19日 | ドイツでヒトラー信任の民族投票を行い89.93%という支持率を得て承認される。 |
11月 2日 | アメリカ・メジャーリーグの選抜選手が来日。 |
11月16日 | 昭和天皇誤導事件が起こる。群馬県桐生市で、視察に訪れた昭和天皇を道案内する際に道を間違え、担当した警部が責任をとって自殺を図り、重症を負った事件。 |
11月19日 | 噴火をきっかけに要望の高まっていた桜島と対岸の鹿児島を結ぶ村営定期船が運行開始。今の桜島フェリー。 |
12月 1日 | 東海道本線の丹那トンネルが開業。 |
12月 5日 | エチオピアと、イタリア領ソマリランドとの国境問題から、エチオピア・オガデン地方のワルワルで両者が武力衝突。ワルワル事件。 |
12月 | ドイツでA2ロケットの発射実験に成功。フォン・ブラウンらが開発に関わったロケット。V2ロケットの前段階的な機体。 |
| この年、ドイツの宇宙旅行協会が解散。軍部の協力要請を拒否したことや、資金面の問題などが理由といわれる。メンバーの多くは、その後、軍のミサイル開発に関わるようになる。 |
1935年(昭和10年) |
1月11日 | アメリカ人女性飛行士のアメリア・イアハートが、ハワイからカリフォルニア州までの単独飛行に成功。 |
1月 | 宝塚大劇場が火災で焼失。 |
2月12日 | 硬式飛行船「空中空母」メイコン号が、カリフォルニア州サー岬沖で嵐に遭遇し、海上へ墜落。同型艦アクロン号の遭難の教訓で乗員の犠牲は2名にとどまる。 |
2月14日 | 日本の野球選抜チームが渡米。 |
2月18日 | 天皇機関説事件。貴族院本会議で菊池武夫議員が機関説の代表的主唱者であった憲法学者の美濃部達吉議員を非難。 |
3月 8日 | 忠犬ハチ公が渋谷駅前の稲荷橋付近で死亡しているのが発見される。 |
3月16日 | ヒトラーによりドイツ再軍備が決定。ドイツ空軍(ルフトバッフェ)が発足する。 |
3月20日 | 大井川電力の専用鉄道線として、千頭-大井川発電所間の運行が始まる。大井川鐵道。 |
3月21日 | 世紀の冤罪事件、吉田巌窟王事件で、吉田石松が出獄。再審請求がはじまる。 |
4月21日 | 台湾の新竹州を震源とするマグニチュード7.1の大地震が発生。台湾新竹州と台中州で死者3279名、家屋全壊17927戸と大きな被害を出す。 |
4月 | 宝塚大劇場が再建される。 |
6月 7日 | 日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)が、愛知県の鳳来寺山で「ブッポウソウ」と鳴く鳥の声を中継放送を行う。その後、放送に反応して鳴いた鳥が東京浅草でみつかり、調査の結果、ブッポウソウと鳴くのは、ブッポウソウ科の鳥ではなく、コノハズクであることが判明。 |
8月12日 | 相沢事件。統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山少将が皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省軍務局長室で斬殺される。 |
9月15日 | ドイツで「ドイツ人の血と名誉を守るための法」と「帝国市民法」が制定(ニュルンベルク法)。本来宗教で区別されるユダヤ人を、祖父母及び両親の何れかにユダヤ教徒がいれば、本人の宗教は関係なくユダヤ人とする「人種化」を定めた法律。 |
9月19日 | ソ連のロケット研究者ツィオルコフスキーが78歳で死去。国葬が行われる。運搬装置のロケットだけでなく、人工衛星や軌道エレベーターの構想もしていた先進的な人物。SF作家でもあり、「ロケット工学の父」と呼ばれている。 |
9月26日 | 第四艦隊事件。日本海軍が演習のために編成した第四艦隊が、三陸沖の太平洋上で、台風の中で演習を強行したところ、参加艦艇の半数が損傷するという事態に。 |
10月 2日 | イタリア政府、エチオピア帝国に対して宣戦布告。 |
10月11日 | 国際連盟でイタリア政府の侵略行為に対する経済制裁が決議される。ただイギリスやフランス政権内部にもファシズムに好意的な閣僚がいたため、石油などは対象から外される。 |
11月24日 | ドイツで、帝国市民法第一次施行令が発布され、祖父母4人のうち1人がユダヤ教徒である場合はドイツ人とし、2人以上であればユダヤ人とする厳密な区別が定められる。 |
12月 8日 | 第二次大本事件。新興宗教団体大本(大本教)が、政府によって徹底的に弾圧され、本部も完全に破壊される。 |
| 博文館より国語辞典『辞苑』発行。 |
1936年(昭和11年) |
1月15日 | 日本、ロンドン海軍軍縮条約から離脱。 |
2月 5日 | 現在のプロ野球の祖、職業野球連盟が設立。東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋ドラゴンズ、東京セネタース、名古屋金鯱軍、阪急軍、大東京軍の7チームが加盟。 |
2月26日 | 二・二六事件勃発。陸軍皇道派の青年将校が、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊を率いて帝都中枢を占拠。斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害。鈴木侍従長が重症を負う。警備の警官数名も死傷。 |
2月29日 | 二・二六事件終結。反乱と対応策に激怒した昭和天皇の鎮圧の命令と、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が下り、軍は鎮圧に動くことになり、反乱将校らは一部が自決し、残りは法廷闘争のため降伏。 |
3月 7日 | ヒトラー政権、ヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して、非武装地帯ラインラントへ進駐。各国からは明確な批判がなく、ヒトラーの拡張政策につながっていく。 |
4月 9日 | 中国共産党の周恩来と、国民党に従っていた旧奉天軍閥の張学良が極秘に会談。 |
5月 2日 | イタリア軍がエチオピア全土を制圧し、皇帝ハイレ・セラシエは列車でジブチへ落ち延びる。 |
5月 5日 | イタリア軍を率いたバドリオ元帥がエチオピアの王都アディスアベバに入城。ムッソリーニは対エチオピア戦争の勝利を宣言し、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が皇帝となり、イタリアはローマ以来の帝国となった事も併せて宣言する。 |
5月18日 | 軍部大臣現役武官制が復活する。 |
6月26日 | 世界初の実用ヘリコプター、Fw61が初飛行。ドイツの研究者ハインリヒ・フォッケが開発。 |
7月15日 | 国際連盟で対イタリア経済制裁が解除される。エチオピア戦争がイタリアの勝利に終わったため、経済制裁を強く主張した反ファシズム派のイギリス外相イーデンに対し、イタリアを支持していたチェンバレンやチャーチルが力を持ったことによる。 |
7月17日 | スペイン植民地のモロッコで反乱が発生。人民戦線政府に反発していた軍部や資本家などもこれに加わり、スペイン内戦が始まる。 |
7月19日 | 人民オリンピックが開催される予定だった日。ナチスドイツのベルリンオリンピック開催を批判したスペイン人民戦線政府がバルセロナで開催を進めていた競技大会で、22カ国が選手団を送ることにしていた。しかし17日に勃発したスペイン内戦により幻となった。 |
7月31日 | 第12回夏季オリンピックを東京で開催することが決定される。 |
8月 1日 | 第11回夏季オリンピック、ベルリン大会開催。16日まで。聖火リレーのイベントが始めて行われる(聖火自体は古代オリンピックから、聖火台は1928年のアムステルダムオリンピックから存在)。 |
9月 5日 | ロバート・キャパがスペイン内戦のさなかに『崩れ落ちる兵士』を撮影。 |
9月 7日 | オーストラリア・タスマニアの動物園で飼育されていた有袋類の一種フクロオオカミの最後の1頭「ベンジャミン」が死亡し絶滅。 |
9月19日 | 関門海底トンネルの建設を開始。 |
9月25日 | 澤村栄治が日本プロ野球初のノーヒットノーラン。 |
10月 1日 | フランコがスペイン内戦の反乱軍総司令官に就任。スペイン・フランコ独裁政権の原点。 |
10月 4日 | ケーブル・ストリートの戦い。ロンドンのイーストエンドで、ユダヤ人排斥を訴える「イギリスファシスト連合(BUF)」のデモに対し、住民やユダヤ人、社会主義らが反ファシズムを掲げて抵抗したため、争乱に発展した事件。 |
10月 1日 | 東京府東京市世田谷区に北多摩郡砧村と千歳村が編入される。現在の東京都区部の範囲が定まる。 |
11月 7日 | 国会議事堂竣工。高さ65.45mで日本一の建物となる(それまでは三越本館)。 |
11月25日 | 日独防共協定締結。 |
11月30日 | ロンドンのクリスタル・パレス(水晶宮)が火災で焼失。ロンドン万国博覧会の会場になった鉄骨とガラスでできた巨大な建物をロンドン南郊シデナムに移築拡張したもの。再建はされず、現在は地名となって残っているのみ。 |
12月12日 | 西安事件。国民党の蒋介石が対共産党戦「剿共」の督戦に赴いた西安で張学良・楊虎城のクーデターで監禁される。のちの抗日国共合作に至った事件。張学良は、直前まで共産党軍と戦っていて、弱体化していた共産党勢力を軽視しており、なぜこの事件を起こしたのか動機ははっきりしない。国共合作後に国民党によって逮捕監禁され、台湾に移ったあとも監禁は1991年まで続いたが、2001年に100歳で亡くなるまで西安事件の動機を一切語らなかった。中共側では共産党を救った人物として評価が高く帰国の招聘もしたが、張学良はそれを拒絶し生涯大陸には戻らなかった。楊虎城は国民党第17路軍の司令官だが、地元の軍閥であり、事件後大規模な略奪などを行っている。のちに国民党によって監禁され、1949年に処刑された。 |
12月13日 | 西安事件を受けて、国民党の黄埔軍官学校書記長鄧文儀は猛反発し、西安攻撃を主張。国民党軍は共産党の拠点に対し攻勢を強める。 |
12月19日 | 中華民国政府の要人である宋子文が、蒋介石夫人の宋美齢の依頼で張学良との交渉を行うため、西安に入る。事件に対する支持が乏しかったことから張学良もこれに応じる。 |
12月22日 | 宋美齢も西安に到着して交渉に入る。 |
12月25日 | 蒋介石の身柄が解放され洛陽へと移動。共産党の周恩来らとの間で、張学良が事件の際に示した抗日のための8項目を遵守することで解放が決まったとされる。またソ連のスターリンが、中国共産党の温存と、日本を対中国戦に向けさせることを目的に、毛沢東に蒋介石と合意するよう圧力をかけたとされる。 |
1937年(昭和12年) |
1月20日 | アメリカ合衆国憲法修正第20条の成立により、大統領の任期の切り替えが1月20日となる。フランクリン・ルーズベルトの2期目から実施。 |
2月17日 | 死のう団事件。日蓮会殉教衆青年党の信者5人が皇居前広場などで「死のう死のう」と叫んで切腹する。全員軽症。 |
4月 3日 | 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩が、東京の軍人会館で結婚式を挙げる。 |
4月 6日 | イギリス皇帝ジョージ6世の戴冠式の奉祝として、朝日新聞社主催の亜欧連絡飛行計画で「神風号」が東京立川飛行場を離陸。 |
4月 9日 | 亜欧連絡飛行の「神風号」がロンドンに到着し成功する。立川を離陸して94時間17分56秒(実際の飛行時間は51時間19分23秒)かかる。 |
4月26日 | スペイン内戦でゲルニカがドイツ空軍「コンドル軍団」によって無差別爆撃される。 |
5月 6日 | ドイツの飛行船ヒンデンブルク号爆発事故。アメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場で、ドイツ・フランクフルトから飛来したドイツの硬式飛行船・LZ129ヒンデンブルク号が爆発炎上し墜落。乗員乗客35人と地上の作業員1名が死亡。当初は浮揚ガスの水素が炎上したとされていたが、のちに外皮の塗料が放電によって発火したという説が有力になる。 |
5月17日 | 日本初の気象観測船「凌風丸」が進水。室戸台風の被害を受けて建造された。 |
7月 2日 | アメリカ人女性飛行士で冒険家のアメリア・イアハートが、赤道上世界一周飛行中に南太平洋で消息を絶つ。 |
7月 7日 | 北平(北京)郊外の盧溝橋で日本陸軍支那派遣軍と中華民国国民革命軍第29軍が武力衝突。盧溝橋事件。 |
7月11日 | 盧溝橋の武力衝突で、日本の松井特務機関と、現地自治政府である冀察政務委員会の間で休戦協定が締結される(松井・秦徳純協定)。しかし日本政府は追加派遣を決定。蒋介石も抗日戦を主張し、日中戦争へと拡大する。 |
9月 6日 | 岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の3人の発起により劇団「文学座」が創立される。 |
9月10日 | 写真化学研究所(PCL)、ピー・シー・エル映画製作所、ゼーオー・スタヂオ、東宝映画配給の4社が合併し、東宝映画株式会社が誕生する。 |
9月11日 | 後楽園スタヂアムがオープン。 |
10月25日 | 企画庁と内閣資源局が統合して企画院が発足。 |
11月 6日 | 日独伊防共協定成立。 |
12月26日 | 第1回極東ユダヤ人大会で、陸軍ハルビン特務機関長だった樋口季一郎少将が出席して、「ユダヤ人に土地を与えよ」とナチスを批判する祝辞を述べて、ドイツから猛反発を買い大問題に発展する。 |
1938年(昭和13年) |
1月21日 | 映画監督ジョルジュ・メリエス死去。大衆向けの映画製作者として映画界黎明期に活躍しその発展に貢献した。世界初の職業映画監督と呼ばれる。SF、ファンタジー、ホラー、ドキュメンタリーからポルノ映画まで531本の映画を作成したが、軍による没収、本人の焼却処分、劣化などで200本ほどしか残っていない。 |
1月26日 | ヒトラー、国防相ブロンベルク元帥をスキャンダルを理由に罷免。 |
1月27日 | 東京帝国大学経済学部の河合栄治郎教授(自由経済主義者)の書籍が発禁処分を受けたことをうけて、平賀譲総長が、河合栄治郎への休学処分にあわせて、河合と激しく対立する土方成美教授(統制経済主義者)も休学処分とする。同学部の教授らが学問に対する侵害だとして辞表を提出する事態に発展する。 |
1月28日 | ヒトラー、国防相ブロンベルク元帥に続き、陸軍総司令官フリッチュ上級大将をスキャンダルを理由に罷免し、独立志向のあった軍を掌握。 |
2月16日 | ソ連の発注で、耐氷貨物船の「ボロチャエベツ」が、川南工業香焼島造船所で進水。後の南極観測船「宗谷」。 |
3月 3日 | 「黙れ事件」。衆議院の総動員委員会で、陸軍軍務局の佐藤賢了中佐の発言が長引いたことに対し政友会の宮脇長吉議員が批判をしたところ、佐藤中佐が「黙れ」と発言し委員会が紛糾したもの。杉山陸軍大臣が遺憾の意を示して収拾を図った。 |
3月12日 | ヒトラーに併合への最後通牒を受けたオーストリア首相クルト・シュシュニックが、やむなく要求を飲んで辞任。ドイツ軍がオーストリアに進駐を開始する。 |
3月13日 | あらたにオーストリア首相となったアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが合併法を発布し、オーストリアはドイツに併合される。いわゆる「アンシュルス」。 |
3月17日 | 西尾末広除名事件。衆議院本会議で、国家総動員法成立を目指す近衛内閣に対する賛成演説を行った社会大衆党の西尾末広議員が「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」と発言したことに、スターリンの名を出すのはけしからんとして除名処分に発展。なお全く同様の発言をあえてした尾崎行雄議員にはなんのお咎めもなかった。 |
3月25日 | 文学座の初公演。「みごとな女」「我が家の平和」「クノックス」の3本が上演される。 |
3月30日 | ムッソリーニは、イタリア帝国の統帥権を持つ帝国元帥首席を創設。国王と自らが共同就任。国王はムッソリーニを公爵にしようとしたがそれは断っている。 |
3月 | この頃、ソ連を横断して満洲国境沿いのオトポールまで逃げてきたユダヤ人に対し、ハルビン特務機関長の樋口季一郎少将が、上海のユダヤ人租界まで行けるよう手配。少なくとも1940年までは同様の手配がされてユダヤ人が入国しているが、その総数は不明。100人程度から2万人という説まである。ドイツが前年の樋口少将のユダヤ人擁護の発言とこれを取り上げ日独間の外交問題に発展するが、東条英機によって不問にされた。オトポール事件とも言う。樋口は戦後、ソ連から戦犯に指定されたが世界ユダヤ人会議などの依頼で米国に保護された。 |
4月 1日 | 国家総動員法施行。電力国家統制法3法も施行され、配電を除く発送電事業は日本発送電株式会社に統合される。 |
4月24日 | チェコスロバキア・ズデーテンのズデーテン・ドイツ人党党首コンラート・ヘンラインが、チェコスロバキア政府に対し、同地方に多く住むドイツ人の自治権を要求。これがきっかけでナチス・ドイツとチェコスロバキアの対立に発展。 |
4月 | 宝塚少女歌劇団の星組が一旦廃止される。 |
5月28日 | ヒトラー、チェコスロバキア侵攻を決定。 |
6月 9日 | 「黄河決壊事件(花園口決堤 |