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    年月日はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦を基準に表記します(地域によってはユリウス暦もあります)。
    宇宙創生以降
    138億年前宇宙創生。プランク時代。クォークが生成。
    宇宙創生から10-44秒後超統一力が大統一力と重力に分かれる。グルーオンが生成。
    宇宙創生から10-36秒後大統一時代が終わり、大統一力が電弱力と色の力(核力=強い力)に分かれる。真空の相転移による超膨大なエネルギーでインフレーションが始まり、宇宙は急激に膨張。
    宇宙創生から10-34秒後インフレーションが終わり宇宙は極超高温・高密度状態になる(いわゆる「ビッグバン」)。電弱時代。宇宙の大きさはこの時点で量子レベルから数cm程度にまで拡大したと考えられる。
    宇宙創生から10-10秒後電弱力が電磁気力と弱い力に分かれる。物質と反物質の釣り合いが崩れ、対消滅により物質だけが残る。
    宇宙創生から10-4秒後宇宙の温度が1兆度ほどにまで下がり、クォークやグルーオンからハドロン(陽子・中性子など)が出来るQCD相転移がおこる。ハドロン時代。
    宇宙創生から1秒後陽子と中性子から出来た重水素原子核の核融合が始まる。
    宇宙創生から3分~20分後重水素原子核融合によりヘリウムと、ほんのわずかなリチウム、ベリリウムの原子核が合成され終了。宇宙は原子核、電子、光子によるプラズマ状態となる。
    宇宙創生から38万年後宇宙の温度が3000k程まで下がり、電子と原子核が結合して原子が生成されるようになる。電子との相互作用で進むことが出来なかった光子が通るようになり、宇宙は見通しが良くなる(宇宙の晴れ上がり現象)。
    この期間を暗黒時代と呼ぶ。宇宙が晴れ上がった後、恒星が誕生するまでの間は、光る天体がないため。
    宇宙創生から1億年後頃最初期の恒星(第一世代の天体)が生まれたと考えられる。
    宇宙創生から1億~5億年後頃最初期の銀河が生まれはじめる。地球のある銀河系もこの頃か。
    宇宙創生から8億年後頃宇宙の再電離。
    70億年前宇宙の膨張が再び加速。ダークエネルギーによるものか。
    46億年前頃半減期の短いヨウ素129からβ崩壊で生まれる安定同位体キセノン129が地球や隕石などから見つかることから、原始太陽が出来始める頃、比較的近い場所で超新星爆発があった可能性が高く、その際の衝撃で星間物質が圧縮し、その密度の差から微重力によって星間物質が集まるようになり、太陽と太陽系の元となる原始惑星系円盤の形成につながったと考えられる。
    地球誕生以降
    46億年前(冥王代)太陽周辺の原始惑星系円盤内で、塵が衝突して微惑星へと成長し、微惑星がさらに衝突して成長し、原始地球を含む惑星がいくつか誕生する。
    45億5000万年前(冥王代)地球の衛星「月」が誕生する。現在は地球に火星くらいの大きさのトロヤ惑星テイアが衝突し、分離した大量の破片が集合して月になったとするジャイアント・インパクト説が有力視されている。地球全体が溶融したことで、鉄などの重金属が沈降し、核の形成につながったと考える説もある。
    44億年前頃(冥王代)地球がマグマオーシャンの状態から表面が冷えてきて地殻が出現する。海ができ始めたのもこの頃とされる。
    42億8千万年前頃(冥王代)カナダ・ケベック州の沖合海底の熱水噴出孔から見つかった微生物の化石は、この頃のものとする説がある。
    41億年前~38億年前(冥王代)地球や月に多数の天体が衝突したとされる仮説(後期重爆撃期)の期間。月の「海」と呼ばれる玄武岩質の平地は、多数の隕石衝突で溶融したマントルの跡と考えられている。要因として木星のようなガスジャイアントの公転軌道の変化に影響を受けた多数の小天体の軌道が太陽近くにまで移動したためとされる(否定的な説もある)。
    40億年前頃(冥王代)地球に海洋が出現し、この頃までには表面はほぼ海に覆われる。表面温度の低下で水蒸気が雨となって大量に降り注いだ結果と考えられる。なお30億年前ころまで海水温は100度前後あったとみられる。
    40億年前頃(冥王代)地球に原始生命が出現したと考えられる。もっと古い43億年前くらいとする説もある。生命発生の起源については、粘土や鉱物などの界面で代謝が始まったとする表面代謝説、RNAの自己複製と代謝から始まったとするRNAワールド仮説、DNAの触媒を起源とするDNAワールド仮説、ペプチドやタンパク質分子の触媒から始まったとするプロテインワールド仮説、脂質分子膜内部での化学反応から始まったとするリピットワールド仮説、代謝や複製に似た機能を持った物質を生命の前段階として含めるガラクタワールド仮説、初期生命は宇宙から来たとするパンスペルミア説、これらの仮説を組み合わせた説などがある。発生場所も海中の熱水噴出孔説や陸上の温泉地帯説、地下説もある。
    40億年前頃(冥王代)この頃、火星の北半球にあるアラビア大陸で大規模な噴火が繰り返し起きたとみられる。
    38億年前(太古代)生命が存在したと考えられる地質学的痕跡のある年代。真正細菌と古細菌の共通祖先から分かれたとされる。原始生命が地球環境が激変したと考えられる「後期重爆撃期」を生き延びたとする説が有力。また現在見られる最古の地殻岩石もほぼこの時代のもの。
    35億年前頃(太古代)最古の化石の年代。
    32億6千万年前頃(太古代)直径37~58kmほどの巨大な隕石が落下し、今の南アフリカ・バーバートングリーンストーンベルトを形成したとされる。
    31億年前~28億年前頃(太古代)最初期の大陸のひとつ、バールバラ大陸が存在したとみられる年代。現在のアフリカ南部とオーストラリア西部に同時代の安定陸塊(クラトン)の痕跡が残っている。
    29億年前頃(太古代)現在判明している最古の氷河期ポンゴラ氷河期の時代。
    27億年前頃(太古代)この頃から火山活動に伴い陸地が急速に広がり始める。ケノーランド大陸が形成されたと言われる。陸上の風化によって金属イオンが海中に溶け二酸化炭素とくっつき炭酸塩鉱物として固定化するため、大気中の二酸化炭素の量が減り始める。温室効果も弱まり気温も下がっていったとみられる。
    27億年前頃(太古代)光合成を行うシアノバクテリアとみられるストロマトライトの最古の化石の年代。この頃から生物によって大量の酸素が生み出され、海中に溶けていた鉄イオンが酸化鉄として堆積するようになる(縞状鉄鉱床)。酸素の苦手なタイプが多い真正細菌・古細菌に代わり、古細菌より分かれたと考えられる酸素を利用する真核生物(細胞核を持つ生物)が現れ増えはじめる。この生物の置き換わりを大量絶滅のひとつに加える説もある。
    25億年前(原生代)シデリアン期。北半球高緯度地域にアークティカ大陸が広がる。
    24億年前~21億年前(原生代)ヒューロニアン氷期。地球全体が氷河期となる全球凍結もあったとされる。シアノバクテリアによる大規模な光合成による酸素発生によって大気の組成も変化し、二酸化炭素やメタンが大幅に減少して温室効果が薄れ、氷期が訪れたという説が有力。深刻で長期に渡る氷期によりシアノバクテリアを含む多くの生物が死滅したと考えられる。
    21億年前頃(原生代)最古の真核生物の化石の年代(推定)。
    20億2300万年前頃(原生代)現在の南アフリカフレデフォートに直径10~12km程度の小惑星が衝突。直径300kmのクレータが生じる。衝突のエネルギーは87Ttに達したとも。
    19億年前頃(原生代)鉄イオンの酸化による鉄鉱床の生成が終わる。この頃、プレートテクトニクスにより最初の超大陸ヌーナが出現。
    19億年前頃(原生代)遅くともこの頃までには、真核生物が現れたとされる。
    18億5000万年前頃(原生代)現在のカナダ・サドベリー付近に直径10kmほどの小惑星が衝突。直径200~250kmほどのクレーターが生じる。
    15億年前頃(原生代)18億年前からこの頃にかけて、超大陸コロンビアが存在していたとみられる。
    12億年前頃(原生代)この頃、陸上に微生物が進出し始めたとも考えられる。
    12億年前頃(原生代)この頃には多細胞生物が現れたものと思われる。エクタシアン期末の地層からは有性生殖をしていた藻類と見られる化石が見つかっている。
    10億年前頃(原生代)この頃、超大陸ロディニアが形成されたと考えられる。現在の南太平洋のあたりにあったと推測されている。
    8億年前(原生代)この頃、地球と月に大量の隕石が降ったという。地球近傍に近づいた直径100kmほどの天体が崩壊したため。
    7億5000万年前(原生代)ロディニア大陸が分裂。ゴンドワナ大陸、シベリア大陸、ローレンシア大陸などが形成。その前に再集結してパノティア大陸ができたという説もある。
    7億4000万年前~6億3000万年前頃(原生代)スターティアン氷期からマリノア氷期。地球全体が凍りつく最も激しい全球凍結時代だったとされている。生物の一部は深海や火山地帯で生き延びたと考えられる。この後の生命の大繁殖時代「カンブリア爆発」との関連も指摘されている。
    6億年前~5億5000万年前頃(エディアカラン紀)エディアカラ生物群が繁殖。軟体でしかも比較的大きな体格(数十cm程度)をした生物が多いのが特徴。
    5億5000万年前(エディアカラン紀)パノティア大陸が分裂し、ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸が出現。
    5億4500万年前頃(エディアカラン紀)生物の大量絶滅が起こる(V-C境界)。大規模な火山活動説、海洋無酸素事変説がある。
    5億4200万年前~5億3000万年前頃(カンブリア紀)この頃、多種多様な動物が出現。現在の動物のほぼすべての「動物門」が登場したとみられる。通称「カンブリア爆発」。目や殻(外骨格)を持つ生物が現れ始める。
    5億2400万年前頃(カンブリア紀)最も初期の「広義の魚類」であるミロクンミンギアの生息していたと推定される年代。澄江動物群に見られる。
    5億1800万年前頃(カンブリア紀)澄江動物群が繁殖。葉足動物や節足動物、古虫動物など、バージェス動物群と特徴がよく似ていて、種類も多い。
    5億1800万年前頃(カンブリア紀)シリウス・パセット動物群が繁殖。現在はグリーランドの北部に位置するが、当時は赤道近くに位置した。澄江動物群やバージェス動物群と共通点が多い。
    5億800万年前頃(カンブリア紀)バージェス動物群が繁殖。現在では類型が見られない動物も多数生息。ただこれらは原生動物の初期系統だとする説もある。1909年に古生物学者チャールズ・ウォルコットがロッキー山脈でバージェス頁岩を発見し、その後同地から多数の化石が採取されたことから付いた。
    4億7900万年前(オルドビス紀)この頃、六脚類が出現。昆虫や内顎類などの分類群。元々は多足類の一種と見られていたが、近年は甲殻類の一種と考えられている。
    4億7000万年前(オルドビス紀)この頃から徐々に陸上の湿地などに植物が広がり始めたと考えられる。
    4億7000万年前(オルドビス紀)この頃、カメロケラスが出現。非常に巨大な頭足類で、まっすぐの体をしたアンモナイトのような生物。6m~11mもあったとみられる。
    4億4000万年前(オルドビス紀)生物の大量絶滅が起こる(O-S境界)。この期間にフデイシや三葉虫の一部など、動物の科の49%が絶滅する。超新星爆発によるガンマ線照射でオゾン層が破壊され、浅瀬に住む生物に影響したという説もあるほか、酸素の減少、海中の金属の含有率の増加説(酸素減少・火山噴火などによる)、さらに2度の絶滅期が短期的に起きた氷河期の発生時期と消滅時期に一致しているという。絶滅種の多さは史上2番めの規模だが、影響期間は短く、むしろその後、生物の多様性は広がっている。
    4億4000万年前(オルドビス紀)分子系統学によれば昆虫はこの頃に現れたと考えられる。
    4億3000万年前(シルル紀)この頃から節足動物や植物の陸上進出が本格化する。この頃繁殖した植物の一つがクックソニア。
    4億2000万年前(シルル紀)ローレンシア大陸・バルティカ大陸・アバロニア大陸が衝突しユーラメリカ(オールドレッド)大陸となる。3大陸の間に広がっていたイアペトゥス海は消滅。
    4億2000万年前(シルル紀)この頃、現在のスコットランド・グレンコーにある火山が大規模なカルデラ噴火を起こす。
    4億年前(デボン紀)この頃から、陸上では昆虫が、水中では魚類が大幅に増加する。
    3億8500万年前~3億6000万年前(デボン紀)この頃、板皮類がほぼ世界中の海で繁栄する。魚類の一種で、顎に骨のある最初の脊椎動物。体を硬い骨板に覆われていた。最大のダンクルオステウスは4m~6mもあった。なぜかデボン紀のみの短期間で滅びた。
    3億8000万年前(デボン紀)肉鰭綱のエウステノプテロンが繁殖。見た目は魚類だが、分厚い胸鰭と腹鰭の骨には指状のものがあり、この鰭で這うように、汽水域の浅瀬を、水生植物をかき分けて進むことができたと考えられている。手の原型と言える骨格や肺とエラの両方で呼吸できるなど、陸上動物の原型ともいえる。一方で陸上での重力から体を支えるような構造にはなっておらず、基本的には水中で生息していた。
    3億7400万年前頃(デボン紀)フラスニアン期とファメニアン期の境(F-F境界)で海洋生物の大絶滅が起こる。原因は不明だが、酸素濃度の低下が挙げられている。巨大隕石の衝突説、マントルプルームによる大噴火説のほか、大繁殖した植物の分解に伴う酸素の欠乏も指摘されている。隕石の方はスウェーデン中部にあるシリヤンリングクレーターが有力候補。生態系の回復に時間がかかっている。
    3億6000万年前~3億5000万年前(デボン紀・石炭紀)この頃、板皮類・無顎類・三葉虫のほとんどが絶滅する。
    3億6000万年前~3億4500万年前(デボン紀・石炭紀)この頃の地層からはその前後の地層に比べて化石の数が少なく、ローマーのギャップと呼ばれる。
    3億1200万年前(石炭紀)この頃、両生類から有羊膜類が分岐する。卵の中に羊膜が作られる種で、陸上での繁殖がよりしやすくなる要因の一つとなった。爬虫類・鳥類・哺乳類の共通先祖になる。
    2億9000万年前(ペルム紀初期)この頃、大気の酸素濃度が35%に達する。その為、動植物とも大型化したとみられる。
    2億9000万年前(ペルム紀初期)この頃より、地球や月に衝突する小天体の数が増加したという説もある。
    2億9000万年前(ペルム紀初期)現在のカナダケベック州に2個の隕石が衝突。直径36kmと直径26kmの2つのクレーターを形成。クレーターは隣接しており、地球では珍しい双子クレーター。1個の小惑星が崩壊して2個になったか、衛星を連れた小惑星がそのまま衝突したものと考えられる。
    2億6000万年前頃(ペルム紀中期)テトラケラトプスが現れる。獣弓類と推測され、現哺乳類の最も古い先祖の一つ。
    2億5160万年前(ペルム紀最末期)この頃から以降の100万年で、海洋と陸上の生物の約95%が絶滅する。その約1000万年前のガダルピアン世末期の絶滅と共に「P-T境界の大量絶滅」と呼ばれる。他の絶滅期と異なり、生物種の回復までに非常に時間がかかっている。また、この頃より以降1億年に渡り、大気の酸素濃度が大きく低下した。マントルプルームによる大噴火で気候が変動したという説の他、隕石落下説もある(下記参照)。ちょうどこの頃、すべての大陸がつながり、超大陸パンゲアが出現している。
    2億5000万年前(ペルム紀最末期)現在の南極ウィルクスランドの氷床の下に、直径480kmほどの重力異常地形があることが判明しており、これがクレーターである場合、2億5000万年前ころに直径50kmほどの小惑星が衝突した痕跡ではないかという説がある。これが「P-T境界の大量絶滅」を引き起こした要因ではないかとも考えられている。
    2億2500万年前(三畳紀)この頃、アデロバシレウスが出現。哺乳類の原型とも言える哺乳形類で最も古い種のひとつ。小型のネズミのような形状をしていた。卵生だったとみられる。
    2億1600万年前(三畳紀)この頃、コエロフィシスが出現。最初期の肉食恐竜。長さは長くて3mほど。脚が体の横側からでなく下側に出ているという恐竜の特徴を持っていた。
    2億1400万年前(三畳紀)破砕した小惑星の破片が地球各地に降り注ぐ。現在でもカナダのマニクアガン・クレーターとセント・マーティン・クレーター、アメリカのレッド・ウィング・クレーター、フランスのロシュシュアール・クレーター、ウクライナのオボロン・クレーターなどがその痕跡と考えられている。小惑星は最大で直径8km弱、重さ5000億tほどあったとみられる。
    2億130万年前頃(三畳紀最末期)T-J境界の生物の大絶滅現象が起こる。中央大西洋マグマ分布域の火山活動の活発化、オスミウム層の存在から隕石の衝突などが原因とされている。陸上の方で先に起こり、海洋はあとから起きたと見られる。海洋生物の20%が滅んだほか、獣弓類、主竜類にも大きな影響を与えた。これ以降、絶滅期を生き延びた恐竜が繁栄していく。この大絶滅を境に地質学的にもジュラ紀へと移行する。
    1億6000万年前頃(ジュラ紀)この前後に大陸の乾燥化が急速に進み、生物の絶滅が起きたとされる。マントル内部などの要因で地殻が回転するように急に移動し、南へ25度移動したことが原因という説もある。
    1億5000万年前頃(ジュラ紀)アーケオプテリクス(いわゆる始祖鳥)が現れる。鳥類が恐竜から分かれたものかが論争になった生物。
    1億4500万年前頃(ジュラ紀末)この頃から地球最大の火山タム山塊が形成されていったと考えられる。
    1億4200万年前頃(ジュラ紀末・白亜紀)現在のオーストラリア中央部に直径1~2kmほどの隕石が衝突。直径22kmほどのゴッシズ・ブラフ・クレーターを形成。現在は衝突でできたクレーターの中央丘部分だけが残っている。
    1億4000万年前頃(白亜紀)この頃、裸子植物から被子植物が分かれたと考えられる。
    1億2000万年前頃(白亜紀)この前後に、オントンジャワ海台を形成した巨大噴火が発生し、海中の酸素濃度が低下。魚竜や首長竜の一部(プリオサウルス)などの海棲爬虫類が絶滅したとみられる。
    1億1600万年前頃(白亜紀)アプティア中期の絶滅。ステゴサウルスなどの剣竜類はこの頃絶滅したとみられる。当時南インド洋にあったインド亜大陸で起きた大規模な火山活動によると考えられている。
    9000万年前頃(白亜紀)絶滅が進行していた魚竜がこの頃までに完全絶滅。他の海洋生物でも多くが絶滅した。セノマニアン/チューロニアン境界の絶滅。主にマントルプルームによる大規模火山活動で起きた広範囲の海洋無酸素事変(OAE2/ボナレリイベント)が原因と考えられる。
    8200万年前頃(白亜紀)現在のアラバマ州に長径300m以上の隕石が落下。直径6.5kmのウェタンカ・クレーターを形成。
    7400万年前頃(白亜紀後期)この頃までに翼竜の殆どは、非常に大型のケツァルコアトルスを除いて絶滅したものと思われる。
    6800万年前頃(白亜紀末期)この頃、ティラノサウルスが現れる。最も有名な恐竜だが生息期間は白亜紀の最末期マーストリヒチアンの時代のみ。
    6600万年前頃?(白亜紀末期)現在のインド・ムンバイの西方海域に、直径40kmほどの小惑星が衝突し、シバクレーターを形成して、チクシュルーブ・クレーターの小惑星とともに恐竜絶滅のきっかけとなったという説がある(否定する説も有力)。
    6600万年前頃(白亜紀末期)現在のユカタン半島の北部沿岸部付近に、秒速19kmほどの速度で、直径11~15kmほどの小惑星が衝突。チクシュルーブクレーターを形成。地球規模の災害を引き起こす。デカン高原の大火山噴火との関係を指摘する説もある(デカン高原の大噴火は隕石より数十万年早いという説もある)。年代は6604万年前頃で、ユリ植物の化石から6月に衝突したとする説が有力になってきている。数ヶ月から10年間、気温が大幅に低下する「衝突の冬」(インパクトウィンター)が発生したとみられる。
    6600万年前頃(白亜紀末期)K-Pg境界層の大絶滅。陸上の恐竜、翼竜、エナンティオルニス類などの鳥類、大型の哺乳類が絶滅。水生では、プランクトン、藻類、有孔虫の多く、二枚貝や腕足類の多くが絶滅し、淡水サメ、首長竜(プレシオサウルス)、モササウルス、アンモナイトは完全に絶滅した。一方で理由はわからないが、魚類、小型の爬虫類、小型の哺乳類、真鳥類は比較的生き残っており、その後大きく繁栄する。一部の恐竜は生き延びたとする説もある。またシダ植物もこの大絶滅期の直後に大繁殖しており、大地が荒廃していた可能性を示唆している。海洋の生態系回復に40万年、陸上の植生は回復までに150万年かかったという説も。大絶滅の要因として有力なのが、ユカタン半島に落ちた小惑星による大災害。
    6000万年前(暁新世)この前後に現れ繁栄したプレシアダピスが、霊長類の先祖とする説もある。
    5500万年前(始新世)この頃、一時的に温暖化が進む(始新世高温期)。
    4500万年前(始新世)この頃から、北上していたインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突。浅いテチス海を押し上げるようにして隆起し、のちのヒマラヤ山脈が形成されていく。ヒマラヤ山脈は、今でも隆起し続けている。
    4000万年前(始新世)この頃、オーストラリア大陸と南極大陸が分離し、どちらもほぼ独立した大陸となる。
    3900万年前(始新世)直径約2kmの隕石がデヴォン島に落下。直径23kmほどのホートン・インパクト・クレーターが生じる。デヴォン島はカナダの北極海クイーンエリザベス諸島にあり、風化や侵食が殆ど見られず、植生もないことから、衝突時の状態が保存されている。
    3720万年前(始新世)現在のカナダのサドベリー付近にあるクレーターの端に隕石が落下。ワナピティクレーターが生じる。
    3500万年前(始新世)現在のアメリカバージニア州チェサピーク湾口付近に、直径数kmの大型の隕石が落下。直径90kmのチェサピーク湾クレーターを生じる。ほぼ同時期に落下したポピガイ・クレーター隕石と共に気候変動を起こしたのではないかという説がある。両隕石が同じ天体から分裂したものかは不明。現在クレーター自体は海底に埋没している。
    3500万年前(始新世)現在のロシア・シベリア中部アナバル地方に、直径数kmの大型の隕石が落下。直径100kmのポピガイ・クレーターを生じる。ほぼ同時期に落下したチェサピーク湾クレーター隕石とともに気候変動を起こしたのではないかという説がある。現在もクレーターは地表にあってほぼ原型をとどめており、地球上のクレーターでは4番目の大きさ。大量の衝突ダイアモンドが産出される。
    2800万年前(中新世)この頃、エジプト付近に隕石が衝突。古代エジプトの宝飾に使われたリビアングラスを生み出した要因だと見られている。
    2700万年前(中新世)北アメリカのサンファン山脈ラ・ガリータ・カルデラが超巨大噴火。1980年のセントヘレンズ山噴火の5000倍規模。
    2300万年前(中新世)この頃、南極と南米大陸南端の陸橋が消滅し、南極周辺に南極環流が生じるようになる。このため、暖流が南極大陸へ到達しなくなり、南極は急速に寒冷化が進む。これ以前は、南極でも温暖な時代があり、植生のほか多様な動物が生息していたと考えられる。
    1600万年前(中新世)この頃までに、ヒト上科からヒト科とテナガザル科が分岐。
    1500万年前(中新世)現在のドイツ・バイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州に、直径1.5kmと150mの大小2つの小惑星がほぼ同時に落下。リースクレーターとシュタインハイムクレーターを生じる。クレーター間の距離はおよそ42km。2つの小惑星は、連星のような共通重心を回る二重小惑星だったとも言われている。
    1500万年前(中新世)この頃までに、南極大陸は現在のような氷床に覆われた状態となる。この氷床の重さで、地表は最大海面下2500mほどまで沈降している。
    1400万年前(中新世)この頃、ヒト科から、ヒト亜科とオランウータン亜科が分岐。
    1100万年前(中新世)この頃、哺乳類など15%ほどの生物が絶滅。原因は不明だが、現在の南鳥島近海の西太平洋に直径数kmの隕石が落ちたのが原因という説がある。
    1000万年前(中新世)この頃、ヒト亜科から、ヒト族とゴリラ属が分岐。
    700万年前(中新世)この頃、ヒト族から、ヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐。大きな分類ではここでヒト(人類)のグループが誕生したことになる。
    596万年前頃(中新世)地中海に蒸発岩が現れ始める。大西洋と断絶したことで、地中海の蒸発が進み、干上がり始めたためと考えられる。
    580万年前頃(中新世)猿人アルディピテクス・カダッバが出現。
    555万年前頃(中新世)地中海がかなりの範囲で干上がったとみられる。メッシニアン期塩分危機。
    533万年前頃(中新世)地中海と大西洋がジブラルタルのところで再びつながり、大西洋の海水が地中海へと流れ込み始める。
    440万年前頃(鮮新世)猿人アウストラロピテクス・アナメンシスが出現。
    390万年前頃(鮮新世)猿人アウストラロピテクス・アファレンシスが出現。
    360万年前頃(鮮新世)この前後100万年の間に史上最大のサメ、メガロドンが絶滅。
    350万年前頃(鮮新世)現在、銀河の中心から上下に広がるフェルミバブルという構造から、この頃、銀河の中心部で大規模な爆発現象が起きたと考えられている。
    330万年前頃(鮮新世)猿人アウストラロピテクス・アフリカヌスが出現。ホモ(ヒト)属とパラントロプス属が分かれる直前の猿人。
    300万年前頃(鮮新世)この頃、パナマ地峡が出現して、南北両米大陸がつながる。それぞれの地域に生息していた生物が他方へと生息地を拡大する「アメリカ大陸間大交差」が起きた。
    300万年前頃(鮮新世)この頃、パラントロプス属の猿人が石器を使っていたという説がある。
    260万年前頃(鮮新世)海洋生物の大量絶滅が起きる。
    240万年前頃(更新世)最も古いヒト属であるホモ・ハビリスが出現。
    215万年前頃(更新世)小惑星エルタニンが、南極大陸近海のベリングスハウゼン海に落下。直径が1km~4kmで、巨大津波が発生したと考えられる。
    210万年前頃(更新世)イエローストーン火山が超巨大噴火を引き起こす。2200から2450立方kmの噴出量があったとされる。
    200万年前頃(更新世)猿人パラントロプス・エチオピクスが出現。
    180万年前(更新世)この頃ホモ・エレクトスが出現。二足歩行をしていたことが確実で、精巧な石器を作っていた。海岸沿いにアフリカとユーラシアに広がり、7万年前ころまでいたとされ、いくつもの種に分岐し、その一つがホモ・サピエンスへと進化した。
    160万年前(更新世)旧称洪積世。氷河時代となる。海水面が下がり、陸地が広がる。
    150万年前(更新世)この頃、ホモ・エレクトスがユーラシア大陸沿岸部に広がる。
    150万年前(更新世)この頃の旧石器人の遺跡から火の痕跡、火を使わないと作れない土器の破片らしきものが見つかっているが、自然発火の可能性、あとから焼かれた可能性などもあり、確定ではない。
    140万年前(更新世)現在のカナダ・ラブラドル半島の北西端に隕石が衝突。直径3.44kmの真円に近いピングアルイト・クレーター(ニューケベック・クレーター)が生じる。
    130万年前(更新世)イエローストーン火山が大噴火する。
    100万年前(更新世)現在のガム星雲がその残骸とみられる超新星爆発が発生か。
    100万年前(更新世)今のカザフスタンに隕石が落下。直径約14kmのザマンシンクレーターが生じる。
    79万年前インドシナ半島に直径1kmほどの隕石が落下。直径が13~17kmのクレーターが出来たと見られる。
    79万年前イスラエルのゲシャー遺跡で、この頃のホモ・エレクトスかホモ・エルガステルが火を使ったような痕跡がある。
    70万年前小御岳火山の噴火が始まる。現在の富士山の原型。愛鷹山と2つ並ぶように存在していたと見られる。
    66万年前この頃から47万年前の間に、ホモ・サピエンスの原型となる原人がホモ・エレクトスから分岐したか。
    65万年前八甲田火山が大噴火。
    64万年前イエローストーン火山が大噴火する。
    52万年前小林カルデラの大噴火。
    40万年前ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)が生存していた遅い推定年代。ネアンデルタール人より前のホモ属の原人だが、脳の容量はホモ・エレクトスよりは大きい。かなり大柄だったと見られる。
    40万年前この頃、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)が出現。ホモサピエンスとは別種の可能性が高いが、交雑が可能な近縁種でもあり、見た目はコーカソイドに似ているという説もある。中東からヨーロッパにかけて生息域を広げた。比較的高い技術を持ち、道具を作り、衣服を着用し、火炉もあった。壁画や装飾の痕跡もあり、屈葬するなど、宗教的な文化もあった可能性がある。一方で家族単位で暮らし、集団社会を形成せず、総人口も数万程度だったと考えられる。
    40万年前八甲田火山が大噴火。八甲田カルデラを形成。現在の八甲田山系はカルデラの縁にある。
    33万年前加久藤カルデラ噴火。現在の霧島山系はこのあとカルデラ南縁で噴火を繰り返し成長したとみられる。
    30万年前頃太陽系の比較的近傍で、現在のガンマ線源天体ゲミンガがその残骸とみられる超新星爆発が発生か。
    現世人類出現以降
    25万年前頃現生人類であるホモ・サピエンスが出現。ホモ・エレクトスの一種から分岐したものが、この頃までに進化したと思われる。アフリカで誕生したアフリカ単一起源説と、アフリカからユーラシア各地に生息域を広げたホモ・エレクトスが各地で同時期に進化していった多地域進化説に分かれる。
    20万年前頃中東地域ではホモ・エレクトスが絶滅。より進化したネアンデルタール人との生存競争に敗れたものか。他の地域でも、ネアンデルタール人やホモ・サピエンスに生息域を奪われていったものと思われる。
    16万年前頃東アフリカ沿岸部にホモ・サピエンス・イダルトゥが暮らしていたとされる年代。ホモ・サピエンスの一種で、現代人類(特にネグロイド)の直系の先祖と考えられる。
    13万年前現在、世界中で人に飼われているイエネコのミトコンドリア遺伝子の解析ではこの頃のリビヤヤマネコが先祖に当たるとされている。
    12万5千年前ホモ・ローデシエンシス(ローデシア人)の生存していた最も遅い推定年代。ホモ・ハイデルベルゲンシスの一種とされる説も有力。現生人類の直接の先祖の可能性が高いホモ・サピエンス・イダルトゥの直接の先祖の可能性もある。虫歯の痕跡がある最も古い化石が出土している。
    12万5千年前この頃、すでに人類は、日常的に火を使っていた見られる。
    12万年前屈斜路カルデラで大噴火が発生し、北海道の広範囲が火山灰で覆われる。
    11万年前阿多カルデラ噴火。
    10万年前小御岳火山のあとに古富士火山が噴火を始める。大量の噴出物で関東ローム層を作った。
    9万年前木曽御嶽山が大規模噴火。
    9万年前阿蘇カルデラで最大規模の噴火が起こる。約600立方kmの噴出量があり、九州の半分を火砕流が覆い、その先端は山口県に達する。降灰は北海道にまで到達。周辺地域に分厚い堆積台地を形成。
    7万5000年前この頃、人類の遺伝子多様性が極度に減少。なにかの理由で現生人類であるホモ・サピエンスが千人から1万人程度にまで減少し、他のホモ属の人類(ホモ・エルガステル、ホモ・エレクトスなど)が滅びたためともいわれる。トバ火山の大噴火によると見られる気象変動が原因という説もある。現世人類が世界中へ広がり始めた理由にする説もある。
    7万年前この頃、赤色矮星と褐色矮星の連星であるショルツ星系が太陽から約0.82光年の近傍を通過したとされる。
    6万年前この頃、木曽御嶽山が噴火。摩利支天溶岩を流出する。
    5万2000年前現在のインド・ウッタル・プラデーシュ州に隕石が落下。直径1.2kmほどのロナール・クレーターを形成。現在も隕石湖となって残っている。
    5万年前現在のアメリカ・アリゾナ州に直径20~30mほどの小型の隕石(隕鉄)が衝突。直径1.2kmほどのクレーターが生じる。いわゆるバリンジャー隕石孔。
    5万年前現在の中国遼寧省鞍山市付近に隕石が衝突。直径1.8kmほどのクレーターが生じる。
    4万5千年前この頃、倶多楽火山が繰り返し大規模噴火。倶多楽カルデラ(倶多楽湖)を形成。
    4万年前屈斜路カルデラで噴火が起こり、溶岩によって湖の南東部に円頂丘が生まれ、円形だった屈斜路湖は現在のようなそら豆状になる。
    4万年前支笏カルデラが形成される大噴火が起きる。
    3万7000年前イタリア半島のカルデラ・フレグレイ平野で大規模な噴火が起こる(カンパニアン・イグニンブライト)。この噴火のほか、当時の南ヨーロッパなどで相次いだ噴火がネアンデルタール人を絶滅させたという説もある。
    3万5000年前ルソン島の古期ピナトゥボ火山で大噴火が起こり、現在のピナトゥボ山の原型ができる。
    2万9000年前この頃、姶良カルデラが短期間に二度も大爆発を起こす。一度目は妻屋火砕流を引き起こし、二度目は大規模な入戸火砕流を引き起こして、南九州一帯は噴出物に覆われ、関東平野にも10cmの降灰があった。
    2万6500年前ニュージーランド北島のオルアヌイ火山が大噴火する。噴出量は1170立方km。
    2万4000年前ネアンデルタール人のもっとも遅い絶滅推定年代。ジブラルタルなどイベリア半島の一部ではこの頃まで生存していたという説もある。ホモサピエンスの遺伝子には数%以上のネアンデルタール人由来の遺伝子があることから、広く交雑していたことは間違いないが、最終的に集団で生活し繁殖するホモサピエンスとの生存競争に破れた可能性が高い(ホモサピエンスとの交雑が進み、吸収消滅したという説もある)。
    2万2000年前この頃から、姶良カルデラの一角に桜島が姿を現し始める。
    2万年前男体山が繰り返し噴火し、溶岩などによって湯川が堰き止められ中禅寺湖と戦場ヶ原のもととなった湖が形成される。
    1万6000年前浅間山が大噴火する。火山爆発指数VEI6。
    1万5500年前十和田火山が大噴火。大規模な火砕流が発生したと見られる。
    1万5000年前古富士火山の場所から新富士火山の噴火が始まる。山頂噴火も多く、現在の富士山へと成長。
    1万5000年前恵庭岳が大噴火。
    1万2000年前前後この頃、ほ座超新星残骸のもとである超新星爆発が数百光年以内で発生か。
    1万2900年前この頃、温暖化していた環境が急に寒冷化。ヤンガードリアス氷期に入る。温暖化に伴う氷床融解(特に当時世界最大の湖だった北米のアガシー湖からの流出)で起きた淡水の海洋流入が海流を変化させたのが原因という説、彗星もしくは隕石の北アメリカ大陸への落下もしくは空中爆発が原因という説もある。およそ1300年間続く。
    1万2000年前この頃、インドネシアで起きた火山の大噴火によって、フロレス島にいた小型人類フローレス人(ホモ・フローレシエンシス)が絶滅したとみられる。身長1m程の原人で、新種かそれまで知られている原人の島嶼化(孤立した島でやや大型の動物が小型化していく現象)かはっきりしない。この頃すでに同島には現生人類も居住していたと考えられる。同じ頃、同島にいた象の近縁種であるステゴドンも滅びている。
    1万1500年前馬鹿洞人(ばろくどうじん)が生存していたとされる最も遅い推定年代。頭蓋骨の形が現生人類とかなり異なるため、新種の旧人の可能性もあるが、ホモサピエンスとデニソワ人の混血種、あるいはホモサピエンスの一種と考える説もある。広西チワン族自治区の老磨槽洞と、雲南省紅河ハニ族イ族自治州の黄家山馬鹿洞から化石が見つかっている。「赤鹿人」とも称される。
    1万1000年前この頃にはすでに、メソポタミア西部ではライ麦を栽培する農業が始まっていたとみられる。ヤンガードリアス氷期の影響という説も。
    1万前この頃までに、アメリカ大陸で繁栄していたネコ科のサーベルタイガーや、イヌ科のダイアウルフ、メガテリウム(オオナマケモノ)などの大型獣が滅んでいる。人間の進出による狩りで滅んだという説、気候と環境の変化による食糧不足説などがあるが、はっきりとはわかっていない。生息地についても草原説や森林説など諸説ある。同じ時代にすでにいたコヨーテなどは生き残った。
    9500年前頃キプロス島ではこの頃、すでに猫を飼育していたことが遺跡で判明。
    9000年前頃中国の長江中流に彭頭山文化が、黄河流域に裴李崗文化が出現。どちらも農業を行い、土器を作っていたと見られる。
    8200年前頃世界最大の湖だった北米のアガシー湖(現在の五大湖とハドソン湾の間に広がっていた巨大氷河湖)が氷河の崩壊によって決壊しほぼ消滅。水の大半がハドソン湾を経て海へと流れ出たと考えられる。海面の上昇、海流の変化による寒冷化などを引き起こしたとされる。
    8000年前この頃から5000年前ころまで、サハラ一帯の気候は湿潤化し砂漠が大きく減少していたとみられる。この後、乾燥化が再び始まり、それに伴い、ナイル川流域へ人々が移動し上下エジプト文明が発祥したとも言われる。
    8000年前燧ヶ岳が山体崩壊し、尾瀬沼が形成されていく。
    7300年前薩摩半島南方の海底にある鬼界カルデラが大噴火を起こす。海面まで噴出した火砕流が九州南部に到達し(幸屋火砕流)、東北にかけての広範囲に大量の火山灰が降る(アカホヤ火山灰)。薩摩大隅地方の縄文文明はこのとき滅亡したと考えられる。また、この火砕流に飲み込まれたため、屋久島の屋久杉はこれより古いものはない、という説が有力。現在、海底に超巨大溶岩ドームがあることがわかっている。
    6000年前?アラビア半島のルブアルハリ砂漠のワバールに隕石が落ちたという説がある。衝突年は1500年代ころ、19世紀後半という説もある。同地には複数のクレーターの他、ガラス質に溶けた鉱物や鉄なども見つかる。聖地メッカのカアバ神殿にある「黒石」はワバール隕石ではないかという説もある。
    5900年前頃三内丸山遺跡のある場所に縄文人が住むようになったと言われる。
    有史以降
    紀元前5550年前頃
    温禰古丹島の黒石山幽仙湖カルデラで大規模な噴火が起きる。
    紀元前5500年頃
    メソポタミアにウバイド文明が生まれる。
    紀元前5508年
    ビザンチン歴(世界創造紀元)元年とされた年。988年に東ローマ帝国で導入されその滅亡まで使用された。天地創造神話をもとに作られた暦。
    紀元前5000年
    中国三峡付近に大渓文化が出現。環濠集落などを構成し陶器も生産していたとみられる。同じ頃、長江河口北岸から太湖付近一帯に馬家浜文化が、長江河口南岸付近に河姆渡文化も出現。狩猟や漁猟と稲作などの農業が混在したと考えられる。
    紀元前4860年頃
    北米西海岸近くの現在のオレゴン州にあるマザマ山が大噴火によって崩壊。山体上部にカルデラが形成され、その後水がたまりカルデラ湖となる。現在のクレーターレイク。
    紀元前4713年
    1月 1日ユリウス通日の起点となる日。1583年にグレゴリオ暦導入による換算の混乱に備えてスカリゲルによって考案された。ユリウス通日を使うと、新旧の暦の換算の他、特定の日の曜日や干支も計算で導き出せる。
    紀元前3900年頃
    メソポタミアに都市国家が生まれる。ウルク文化。
    紀元前3500年
    ナイル川の中流域に上エジプト王朝が、ナイルデルタ地帯に下エジプト王朝が成立する。
    この頃、長江下流域に良渚文化が出現。玉器や絹などを生産していたと見られる。夏王朝などとの関係を指摘する説もある。
    この頃、人類は文字を使い始めたという説がある。
    この頃、阿多カルデラの池田カルデラ火山が噴火。
    紀元前3200年頃
    メソポタミアでウルク古拙文字が使われるようになる。最古の文字の一つ。
    紀元前3123年
    6月29日古代メソポタミアの都市ニネヴェの遺跡で見つかったシュメールの粘土板にある記録から、この日、小惑星が大気圏に突入し、アルプス上空で四散、破片が地中海一帯に落ちたという説がある。旧約聖書にある「性的に乱れて神の怒りを買い、火と硫黄の雨によって滅ぼされたソドムとゴモラの町」の話に結びついたとも。
    紀元前3100年頃
    上エジプト王朝のナルメル王が下エジプトも支配し統一王朝を立てる。エジプト第1王朝。後のギリシャ人歴史家ヘロドトスなどの記録ではエジプト第1王朝はメネス王によって始まったとされているが、遺跡から出土する遺物ではナルメルの記述しか見られないため、同一人物説もある。
    紀元前3000年頃
    アナトリア西端のイリオス都市文明の始まり。
    長江中流域に屈家嶺文化が、黄河中下流域には龍山文化が出現。小規模の都市国家。陶器の生産、農業などが発達。
    紀元前2900年頃
    エジプト第2王朝がこのころはじまる。最初の王はヘテプセケメイとみられる。
    紀元前2710年代頃
    エジプト第2王朝セト・ペルイブセン王の時に、上下エジプトの間に内乱が起こる。
    紀元前2686年頃
    エジプト第2王朝最後の王カセケムイが死去。内乱平定後30年ほど統治していたみられる。
    カセケムイの娘ニマアトハピの夫サナクトが王位を継ぎ、エジプト第3王朝を開く。
    紀元前2668年
    エジプト第3王朝2代目王ジョセル(ネチェルイリケト)が王位につく。大型の階段ピラミッドを最初に作った王。以後ピラミッドは大型化していく。
    紀元前2613年
    エジプト第3王朝最後の王フニ王の息子であるスネフェルが異母妹ヘテプヘレスと結婚しエジプト第4王朝を開く。巨大ピラミッドが次々と建設された時代。
    紀元前2589年
    スネフェルの子クフが第4王朝第2代王となる。最大のピラミッドを作ったファラオ。
    紀元前2566年
    ジェドエフラーが第4王朝第3代王となる。巨大ピラミッドを作ったがほとんど破壊されている。在位期間がよくわかっていない。名前に太陽神ラーが最初に付いたファラオ。
    紀元前2558年?
    カフラーが第4王朝第4代王となる。ジェドエフラーの兄弟とみられる。2520年即位説も有力。スフィンクスとカフラー王のピラミッドを作ったファラオ(スフィンクスはもっと古いという説もある)。
    紀元前2532年?
    メンカウラーが第4王朝第5代王となる。クフ王、カフラー王のピラミッドに比べやや小ぶりのピラミッドを作る。
    紀元前2500年頃
    この頃までに、メソポタミアのウルク古拙文字が絵文字から抽象化されて簡略化し、シュメール文字へと変化。その後、さらに簡略化が進み、楔形文字として周辺地方にも広まっていく。
    紀元前2500年頃
    長江中流域の石家河に城壁で囲まれた比較的規模の大きな都市が出現。一帯の集落を含めて石家河文化という。
    紀元前2498年
    ウセルカフが第5王朝を興す。ジェドエフラーの孫で、メンカウラーの娘を妻にしている。ギザではなくアブシールに太陽の神殿を作ったファラオ。第5王朝はアブシールにピラミッドや太陽の神殿を作るが規模が小さく材質も粗雑。
    紀元前2345年頃
    第5王朝最後の王ウナス王の娘と考えられるイプト1世を妻にしたテティ1世が第6王朝を興す。古王国最後の王朝。この頃から地域を支配する州侯が勢力を拡大していく。
    紀元前2334年頃
    メソポタミアの都市国家アッカドの王サルゴンが周辺地域も領有化していき、南東はペルシャ湾岸、北西は地中海に至るアッカド帝国を建国する。
    紀元前2180年頃
    エジプト第6王朝が崩壊し、第7王朝が成立。しかし次の第8王朝も含めて短期間であり、州侯の力も拡大。エジプト第1中間期に入る。
    紀元前2160年頃
    上エジプトのヘウト・ネンネス侯メリイブラー・ケティが第9王朝を興す。実質統一王朝ではなく上エジプトの王朝。
    紀元前2130年頃
    上エジプトのヘウト・ネンネス侯政権を継ぐ第10王朝が成立したとみられるが詳細は不明。ほぼ同時にその南にテーベ侯の第11王朝も成立。両王朝は以後激しく争う。
    紀元前2115年頃
    ウルク第5王朝の王ウトゥ・へガルの娘婿ウル・ナンムが、ウトゥ・ヘガルの死後、ウル第3王朝を興す。現存する最古の法典ウル・ナンム法典を制定した人物。
    紀元前2100年頃
    黄河中流域に都市国家が出現。二里頭文化。夏王朝との関係が指摘されている。
    紀元前2040年頃
    上エジプトのテーベ侯のメンチュヘテプ2世がエジプトを再統一。中王国時代に入る。
    紀元前2004年頃
    エラムの軍勢がウルに侵攻してこれを破壊。ウル第3王朝が滅亡。ウルの最後の王イビ・シンはアンシャンへと連れ去られる。
    紀元前1991年頃
    エジプト第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の宰相アメンエムハトと同一人物とみられるアメンエムハト1世が第12王朝を興す。
    紀元前1894年頃
    スムアブムが都市国家バビロンの王となりバビロン第1王朝を興す。
    紀元前1792年頃
    ハンムラビがバビロン第1王朝6代王となる。
    紀元前1782年頃
    第12王朝最後の王で女王のセベクネフェルの死後、大家令ヘテプイブラー・アアムサホルネジュヘルアンテフが王位を簒奪。さらにセベクヘテプ1世が王位につき第13王朝を興す。下エジプトが支配権から外れて独立(第14王朝)。第2中間期と呼ばれる時代になる。
    紀元前1757年頃
    ハンムラビがシュメール、アッカドを含むメソポタミア地方を統一。
    紀元前1680年頃
    アナトリア高原にヒッタイト王国が成立。
    紀元前1663年頃
    下エジプト地方でヒクソスと呼ばれた異民族(シリア方面から来た人々?)のサイテス王による第15王朝が成立。上エジプト系テーベの第17王朝が徐々に勢力を拡大しこれと争うようになる。また同時代に第15王朝影響下で同じヒクソスと見られる小規模の第16王朝も存在していたと考えられる。
    紀元前1628年頃
    地中海のサントリーニ島付近で海底火山の噴火が起こる。カルデラを形成。この大噴火により大津波が発生して各地を襲いミノア王国が滅ぶ。アトランティス伝説の元になったという説もある。
    紀元前1600年頃
    この頃から黄河中流域に都市国家が勢力を拡大。二里岡文化。殷(商)王朝初期段階か。史記では夏王朝がこの頃、鳴条の戦いで、殷の湯王に滅ぼされたとされる。夏王朝の都と考えられている新鄭望京楼遺跡からは殺害された遺体も多数出土している。
    紀元前1595年
    ヒッタイトの王ムルシリ1世が古バビロニア(バビロン第1王朝)を滅ぼす。カッシート人が勢力を拡大。
    紀元前1570年頃
    上エジプト系第17王朝カーメス王の弟であるイアフメス1世が下エジプトを滅ぼし、エジプトを統一。新王国時代最初の第18王朝を開く。
    紀元前1500年代頃
    ミタンニ文明が興る。フルリ人がメソポタミア北方に興した国家。
    富士山の山頂噴火が終わり、山腹などからの噴火へ移行する。
    紀元前1479年頃
    第18王朝4代王トトメス2世の妻だったハトシェプストが女王となる。夫と側室の間の子トトメス3世が幼かったため実権を奪って君臨したとして批判される一方、安定した政権で統治を行いトトメス3世との関係も良かったという説もある。旧約聖書でモーセを拾って育てたファラオの王女を彼女だとする説もある。
    紀元前1475年頃
    カッシート王国のウラム・ブリアシュがバビロン第2王朝を滅ぼしてメソポタミアを統一(バビロン第3王朝)。
    紀元前1450年前後頃
    トゥドハリヤ1世がヒッタイト帝国の王位につく。これ以降をヒッタイト新王国時代と呼ぶ。即位年は諸説あり不明。
    紀元前1458年頃
    第18王朝5代王ハトシェプストが退位し、トトメス3世が第6代王として実権を握る。ハトシェプスト女王の事跡を抹消したと言われる。以降、第18王朝の絶頂期となる。
    紀元前1457年?
    メギドの戦い。第18王朝6代王トトメス3世がカナン連合軍と戦い勝利する。シリア南部がエジプトの影響下に置かれるようになる。記録に残る最古の戦争の一つ。
    紀元前1386年?
    第18王朝9代王にアメンホテプ3世が即位。ルクソール神殿を作ったファラオ。
    紀元前1370年頃
    ミケーネ文明によるクレタ島の支配が終わる。自然災害とも戦争とも言われる。
    紀元前1353年?
    第18王朝10代王にアメンホテプ4世が即位。
    紀元前1343年?
    第18王朝10代王アメンホテプ4世が、多神教であるアメンの神官らの勢力が強まったため、首都のテーベを捨て、唯一神アテンのための町アケトアテンを建設して遷都する。記録上に残る最初の唯一神信仰とも言われる。自らの名前もアクエンアテンと改める。
    紀元前1336年?
    スメンクカーラーが即位。正体のほとんど不明なファラオ。男性とみられるが女性のような偶像や女性用の棺になっているなど奇妙な点が多い。在位が短く記録も少ない。
    紀元前1333年?
    ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)が即位。アメンホテプ4世とその同父同母姉妹の間の子。黄金のマスクで有名。記録は殆ど無い。病弱だが戦争を指揮したとも言われる。この代にアテン神からアメン神信仰に戻された(ツタンカーメンの名前の由来もアメン神)。実権は宰相アイ(アクエンアテンの王妃ネフェルティティの父親)と将軍ホルエムヘブ(後のファラオ)が握っていた。
    紀元前1330年頃
    ヒッタイト帝国のシュッピルリウマ1世がミタンニを制圧する。
    紀元前1324年?
    ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)が死去。遺体の損傷は激しく、また体の各所に生来の障害があり、また足の骨折が原因で死亡したとみられるが、事故か事件かは不明。宰相アイ(アクエンアテンの王妃ネフェルティティの父親)がツタンカーメンの王妃アンケセナーメンと結婚して王位継承権を得て即位(ケペルケペルウラー王)。この前後、エジプトの「ダハムンズ」からヒッタイトに対して王子を夫に迎えたいという縁談が持ち込まれる。ダハムンズ(王妃の意か)が誰かはわからないが、アンケセナーメン説もある。ヒッタイトから送られた王子ザンナンザが暗殺されたため、ヒッタイトの王子アルヌワンダがカナン方面へ軍事侵攻することになる。
    紀元前1323年?
    ケペルケペルウラー王(アイ)が死去。軍の司令官で王女ムトノメジットを妻にしていたホルエムヘブがナクトミンらを倒して王に即位。第18王朝最後のファラオ。
    紀元前1320年頃?
    ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がエジプトとの戦争中に始まった疫病の大流行で死去。アルヌワンダが即位する。アルヌワンダもまもなく病死し、その弟のムルシリ2世が即位。
    紀元前1300年頃
    殷(商)王朝が殷墟に都を置く。史書では第19代王盤庚の時とされている。
    紀元前1295年
    第18王朝最後のファラオであるホルエムヘブ時代の軍司令官で宰相も務めた親友ラムセス1世が後継者に指名され即位。第19王朝を興す。共同統治者は息子のセティ1世。
    紀元前1294年
    高齢だった第19王朝初代ラムセス1世が死去。セティ1世が即位。領土を拡大し、エジプト美術を完成させたと言われるファラオ。
    紀元前1290年頃?
    セティ1世の子ラムセス2世が即位(年代は諸説あり)。66年間統治し、180人もの子がいたとも言われ、各地に遠征し、アブ・シンベル神殿など多数の神殿を作った。大王とも呼ばれる。
    紀元前1286年頃?
    エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世が戦う。
    紀元前1274年?
    カデシュの戦い。エジプトのラムセス2世の軍がカデシュを攻略しようとしてヒッタイト帝国の罠にはまり敗北。その後、エジプト側の援軍が到着しヒッタイト軍は退却するが、両者の間で和平条約が結ばれた。記録上最古の和平条約。
    紀元前1208年
    ペルイレルの戦い。第19王朝4代王メルエンプタハが、海の民と呼ばれる民族とリビア人がともにエジプトまで遠征してきたため、これと戦う。
    紀元前1200年前後
    この頃、ヒッタイトやエジプトなど、東地中海沿岸の大国が軒並み滅亡や衰退する。その原因は不明だが、気象異変や大規模な噴火などの説もある。カナン地方(後のパレスチナ)では小規模の国家が多数成立。アイスランドのヘクラ火山の大噴火ではないかという説もある。
    紀元前1190年頃
    ヒッタイトが滅亡。侵略を受けたという説もあるが、自滅崩壊したという説もある。最後の王はシュッピルリウマ2世。
    紀元前1185年
    エジプト第19王朝最後のファラオで女王タウセルトのあと短期間の空位を経てセトナクトが即位。第20王朝が興される。セトナクトの正体はよくわかっていない。セトナクトはまもなく死去し、共同統治者で息子のラムセス3世が即位。
    紀元前1155年頃
    第20王朝のラムセス3世が喉を切られて暗殺される。王妃ティイが息子ペンタウアーを後継にするために計画し、多数の参画者がいたと言われる。裁判でほとんどが処刑された。ラムセス4世が王位を継ぐがエジプト文明はこれ以降衰退し始める。
    紀元前1141年
    第20王朝第4代ファラオのラムセス5世が天然痘で死去。ミイラの頭部に天然痘による痕跡があるため、天然痘に感染していたとわかる最も古い人物。
    紀元前1000年
    ダビデがユダの王となる。後のイスラエル王。
    この頃、箱根カルデラ中央の神山が噴火に伴い山体崩壊を起こし、大涌谷を形成。土砂で仙石原湖が埋まり、また早川の上流部を堰き止めて芦ノ湖ができる。
    紀元前961年
    古代イスラエルのダビデ王が死去。王位継承の争いを経てソロモンが跡を継ぐ。
    紀元前931年
    古代イスラエルのソロモン王が死去。神と契約して知恵を得たとされ、神と悪魔を使役した、動物と会話ができたなどの伝説がある人物。古代イスラエル王国最大の繁栄を築く。息子のレハブアムが跡を継ぐも王国は分裂の道を進むことになる。
    紀元前922年
    イスラエル12支族のうち、レハブアムの政策に反発した10支族がヤロブアムを擁して、イスラエルはイスラエルとユダの南北に分裂。
    紀元前900年
    この頃、西アフリカ・現ナイジェリアのジョス高原にノク文化が生まれる。土器・土偶の他、早くから製鉄技術を得ていたこともわかっている。
    紀元前900年
    この頃、富士山で大規模な山体崩壊が起きる。古富士の残っていた山頂部分が崩壊か。
    紀元前800年
    この頃、硫黄島で大規模な噴火があったと見られる。
    紀元前753年
    4月21日ロムルスが都市国家ローマを建設し、その初代王に即位。
    紀元前721年
    アッシリアがイスラエルに侵攻してこれを滅ぼす。部族指導者層が連れ去られたため、イスラエル民族の12支族のうちイスラエル王国を構成していた10支族はこれ以降消息不明となり、失われた十支族と呼ばれる。
    紀元前660年
    2月11日(神武天皇元年1月1日)「神武天皇の即位」。明治6年に天保暦から太陽暦へ変更される際に、記紀神話の記述から計算して都合をあわせたもので、グレゴリオ暦のこの年月日に即位したわけではなく、第2次大戦後は神武天皇の存在も否定的な説が主流。
    この頃、今のエストニアのサーレマー島に少なくとも9つの小隕石が落下。もっとも大きなクレーターは現在カーリ湖と呼ばれている。地元では神聖なる土地とみなされ、カレワラの叙事詩に異変を示唆するような神話が記述されている。
    紀元前624年
    南伝仏教では、この年に釈迦ことガウタマ・シッダールタがルンビニで生まれたとされる。ルンビニは現在のネパール最南部タライ平原にある村。シャーキヤ族の出自とされ、シャーキヤ族の聖者を意味するシャーキヤムニが音写されて、釈迦牟尼、釈迦となった。
    紀元前602年
    現在の天津付近にあった黄河河口の位置が南へと変遷する。黄河は黄土高原の大量の土砂を運ぶため、川底に堆積して洪水も多く、河道や河口の位置がしばしば変遷している。
    紀元前597年
    新バビロニア帝国の王ネブカドネザルがカナンの地に侵攻する。
    紀元前586年
    新バビロニア帝国の王ネブカドネザルがユダ王国を滅ぼし、ユダの指導者層ら多数が連れ去られる(バビロンの虜囚)。
    紀元前565年
    北伝仏教の一部では、この年に釈迦ことガウタマ・シッダールタがルンビニで生まれたとされる。
    紀元前551年
    9月28日儒教の始祖、孔子こと孔丘が、魯国昌平郷陬邑に生まれる。
    紀元前539年
    10月17日アケメネス朝ペルシャ王国の攻撃で、新バビロニア帝国が滅亡。ペルシャ王キュロス2世は、バビロンに移住させられていたユダヤ人やその他の諸民族を解放。
    紀元前509年
    第7代ローマ王タルクイニウス・スペルブスが追放され、共和政ローマが成立する。
    紀元前490年
    9月12日マラトンの戦い。ペルシャ帝国と、ギリシャの都市国家アテナイとプラタイアの連合軍が戦い、連合軍が勝利。その報告を一人の兵士が、マラトンからアテナイまで走って伝えた伝説から、マラソン競技の元となった。
    紀元前466年
    鳥海山で大規模な山体崩壊が発生。崩れ落ちた大量の土砂が沿岸に達して多数の島(流れ山)を形成。のちの「象潟」の原型となった。
    紀元前435年
    アドリア海沿岸の植民都市エピダムノスの内紛を巡って、母都市ケルキラが調停の要請を無視したため、支援要請を受けたコリントスがこれに参入。それに対しケルキラがエピダムノス攻略を開始すると、コリントスもケルキラに宣戦を布告。ケルキラはアテナイに支援を要請。アテナイがこれを受けて参戦したことから、のちのペロポネソス戦争へと発展する。
    紀元前433年
    シュボタの海戦。ケルキラの援軍要請を受けたアテナイの艦隊が出動したこと受け、コリントス側も同盟諸都市と艦隊を編成して派遣。両者はシュボタ諸島付近で交戦。数の多いコリントス側が圧倒するも、ケルキラ攻略は出来ず、両者痛み分けで退却する。
    アテナイはデロス同盟国のポティダイアに圧力をかけて、コリントス勢力を排除しようと図る。ポティダイアはアテナイに反発しデロス同盟を離脱。アテナイはポティダイアへ兵を進め、コリントスも対抗して出兵。ポティダイアの戦いが始まる。スパルタが参戦するきっかけとなった。
    紀元前431年
    スパルタがペロポネソス同盟軍を率いてアッティカに侵攻を開始。一方、アテナイは市民を城壁の内側へ退避させ籠城戦に入る。
    紀元前430年
    この頃、アクラガス(現在のイタリア・シチリア島のアグリジェント)の哲学者だったエンペドクレスが神と一体となるため、エトナ山の火口に飛び込んで自殺したという伝承がある。
    ポティダイアがアテナイに降伏し、ポティダイアの戦いが終結。
    紀元前429年
    アテナイとスパルタの対立のさなかに、アテナイで疫病が流行。戦争を指導したアテナイの指導者ペリクレスも病死。多くの市民が死亡したと言われる。のちに「アテナイのペスト」と呼ばれるようになったが、ペストではなく、天然痘かチフスではないかと考えられている。
    紀元前425年
    アテナイの指導者クレオンは、ペロポネソス同盟側からの講和に条件をつけて拒否。自ら軍を率いて戦い勝利する。
    紀元前423年
    スファクテリアの戦い。アテナイの指導者クレオンは、スパルタに奪われていたアンフィポリス奪回のため出兵し、マケドニアに援軍を要請するが、単独での決戦を避けるために後退したところをスパルタのブラシダスの攻勢にあい戦死。ブラシダスも重症を負い、それがもとで死亡した。
    紀元前421年
    ニキアスの和約。ペロポネソス戦争の終結を図るため、アテナイの穏健派ニキアスと、スパルタ王プレイストアナクスが、占領地の返還を条件に講和する。
    紀元前415年
    アテナイが、シケリア遠征を行う。シケリアの各都市国家はアテナイと近かったが、唯一規模の大きな都市シュラクサイはスパルタと通じていた。ただアテナイの大規模で長距離の遠征を行った目的はよくわかっていない。
    紀元前414年
    アテナイのシュラクサイ包囲がほぼ完成したところでスパルタとコリントス同盟から援軍が到着。スパルタ軍が城壁を築いて体制を整えたため、アテナイ遠征軍司令官の一人で遠征に消極的だったニキアスは退却を検討するも、アテナイ本国から援軍が到着。
    紀元前413年
    スパルタ軍の攻勢でアテナイ軍は大敗を喫する。残ったアテナイ軍兵士は陸上を南下して脱出を試みるが失敗しスパルタとシュラクサイに対し降伏。しかし司令官のデモステネスとニキアスは処刑され、捕虜の殆ども疫病などで死亡し、アテナイ軍は文字通り全滅に終わった。アテナイは海軍戦力をほぼ失い、デロス同盟も事実上崩壊。
    紀元前405年
    アイゴスポタモイの海戦。アイゴスポタモイ川河口でスパルタ率いるペロポネソス同盟軍艦隊が、アテナイ軍を撃破。黒海方面の制海権も奪われ、アテナイは食料輸入ルートを失う。
    紀元前404年
    4月25日飢餓に追い込まれたアテナイがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終結。
    紀元前399年
    4月27日アテナイのソクラテスが、無知の知を諭そうとして恨みを買い、「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落に導いた」として刑死する。処刑された理由に、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、スパルタ支配下で成立した「三十人政権」の指導者となったクリティアスがソクラテスの弟子だったため、反感を買ったこともあるとされる。
    紀元前387年
    アッリアの戦い。ブレンヌス率いるガリア人セノネス族の軍勢がローマに侵攻。クイントゥス・スルピキウス率いるローマ軍は敗北し、はじめてローマが外敵に侵略された事件。記録では紀元前390年7月18日に起こったこととされているが、紀元前387年のことと考えられる。
    紀元前338年
    8月 2日カイロネイアの戦い。マケドニアとアテナイ・テーバイ連合との戦い。マケドニアのアレクサンドロス王子(後の大王)も軽装歩兵隊を率いて初陣。アテナイ・テーバイ連合は大敗を喫する。
    紀元前336年
    10月マケドニア王ピリッポス2世が護衛をしていたオレスティスのパウサニアスに暗殺される。王位は20歳の息子アレクサンドロスが継ぐ。
    紀元前334年
    5月グラニコス川の戦い。アレクサンドロス率いるマケドニア軍と、アルサメス、アルシテス、ミトリダテスらの率いるアケメネス朝ペルシア軍がグラニコス川で戦う。マケドニア軍が勝利し、小アジア征服へとつながっていく。
    紀元前333年
    10月イッソスの戦い。アレクサンドロス率いるマケドニア軍3~4万と、ダレイオス3世率いるペルシア軍10万が激突。ダレイオス3世が途中で戦線を離脱して逃走したため、ペルシア軍は大敗を喫する。
    カナン地方がマケドニアのアレクサンドロスによって征服される。
    紀元前331年
    10月 1日ガウガメラの戦い。アレクサンドロス率いるマケドニア軍とダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシアの軍がティグリス川上流のガウガメラで激突。マケドニア軍が大勝し、ダレイオス3世は敗走。アレクサンドロスはバビロンへ入る。
    紀元前330年
    アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世が、逃走先のバクトリアで総督のベッソスに殺害される。ペルシア王国滅亡。ベッソスはスピタメネスやオクシュアルテスらと同盟を結びペルシア王アルタクセルクセスを名乗る。
    紀元前329年
    ペルシア王アルタクセルクセスを名乗っていたベッソスが捕らえられ、アレクサンドロス大王によって処刑される。
    紀元前327年
    アレクサンドロス大王のインド遠征(~前324年)。
    紀元前323年
    6月10日アレクサンドロス大王死去。ハチに刺されたのが原因と言われる。
    紀元前323年
    アレクサンドロス大王の後継をめぐって有力者等によるディアドコイ戦争が起こる。以後約40年に渡り攻防を繰り返す。
    紀元前316年
    (周慎靚王5年)秦が古蜀王国の内紛に乗じて蜀へ侵攻し、これを滅ぼして併呑する。
    紀元前300年
    この頃、富士山頂からの最後の大規模噴火が起きる。以降は側火山の噴火が中心となる。
    紀元前293年
    伊闕の戦い。秦が、同盟を結んだ韓・魏・東周の連合軍と戦う。連合軍は公孫喜が率い、秦軍は白起が率いる。秦軍が圧勝して、連合軍の将兵のほとんどである24万人を殺害。
    紀元前287年
    共和政ローマでホルテンシウス法が制定される。古くからのローマ市民のなかで貴族的な特権を持つ「パトリキ」と、それ以外の「プレブス(プレープス)」と呼ばれていた市民との間の法的平等を、独裁官クィントゥス・ホルテンシウスが定めたもの。これにより特にプレブス側から起こされていた身分闘争は終結。
    紀元前281年
    セレウコス朝とリュシマコス朝によるコルペディオンの戦い。セレウコスが勝利。ディアドコイ戦争は終わり、アレクサンドロスの帝国の大半はセレウコス朝の支配下に置かれる。
    9月セレウコスがプトレマイオス・ケラウノスに暗殺される。プトレマイオスはマケドニア王を名乗る。一方、セレウコスの後は、息子のアンティオコス1世ソテルが継ぐ。
    紀元前280年
    秦と楚の関係が悪化し、秦の司馬錯が軍を発して楚の黔中郡に攻め込む。
    紀元前279年
    プトレマイオス・ケラウノスがガリア人との戦いで敗死。
    黽池の会。秦の昭襄王が趙の恵文王を招いて、秦の黽池で祝宴の会を行う。楚との全面戦争に向かっていた秦にとって趙と関係改善を図るのが目的だったが、一方で恵文王を格下として扱おうとしたため、趙の藺相如が機転を利かして恵文王を守ったという。
    秦の白起が大軍を率いて楚へ全面侵攻。鄧城を落とすと、つづいて鄢城へ進攻し、同城を水攻めにして陥落。そのまま西陵に進出。
    紀元前278年
    秦の白起が続けて、楚の領土を蹂躙。楚の都である郢を攻め落とす。
    楚が滅亡寸前まで追い込まれたことを悲嘆して、楚の政治家で詩人だった屈原が汨羅江に身を投じて自殺。
    紀元前277年
    秦と楚は休戦。両国の消耗戦は他の主要国を利するというのが理由。
    紀元前274年
    第一次シリア戦争がはじまる。エジプトのプトレマイオス2世とセレウコス朝アンティオコス1世との戦い。エジプトが勝利しシリア方面へ勢力を広げる。
    紀元前272年
    共和政ローマがイタリア半島の各都市国家を手中に収める。
    紀元前269年
    閼与の戦い。秦が公孫胡昜に命じて韓へ派兵。それに対し趙は、趙奢を指揮官として韓へ援軍を派遣。趙軍が圧勝する。
    紀元前262年
    秦が白起を派遣して、韓の野王を占領。韓の上党郡が孤立。韓では、上党を秦に割譲して和睦する派と、趙に割譲して共に秦と戦うという派に国論が二分。韓と趙で連合する方針に決まる。
    紀元前260年
    第二次シリア戦争がはじまる。エジプトのプトレマイオス2世とセレウコス朝アンティオコス2世との戦い。セレウコス朝が勝利し、再びフェニキアなどを支配下に収める。
    長平の戦い。韓と趙が連合したことを受けて、秦は王齕を趙へ派遣。趙は廉頗を迎撃に向かわせる。両軍は長平で衝突するが、秦軍が精強なのを見た廉頗は籠城戦による長期戦を企図。そこで秦の宰相范雎は趙の国内で廉頗を貶める噂を流し、それを真に受けた趙の孝成王は、廉頗を解任して、趙括を総司令官に任命。ここで秦は新たに白起を派遣。趙の名将趙奢の子で兵法家を自負する趙括は積極策に出たが大敗。長平に籠城するも食料が尽き、趙括は再出撃して戦死。20万の趙兵は降伏するが、食糧不足を理由に少年兵240人ほどを除いて全て殺されたと言う。范雎は、白起の名声と権力の増大を恐れ、韓・趙との和睦を図る。これにより白起との関係が悪化。
    紀元前259年
    贏政(後の始皇帝)が趙の国都邯鄲で生まれる。父親は秦の昭襄王の孫で、人質として趙に送られていた公子異人(子楚)、母親は呂不韋が寵愛していた趙姫とよばれる歌姫。
    紀元前258年
    秦が、将軍王陵を派遣して趙の国都である邯鄲を包囲。魏からは信陵君が独断で軍を動かして趙の援軍に駆けつける。秦から人質として送られていた子楚は呂不韋の手で秦に脱出し、趙姫と政の親子は匿われる。王陵は邯鄲を攻め落とすことができず、昭襄王は白起を起用しようとするが、白起はこれを受けず。代わりに王齕が派遣される。
    紀元前257年
    今のベトナム北部に甌雒国が建国される。都は古螺。古蜀王朝の王族出身だった蜀泮(開明泮)が文郎国を滅ぼして起こしたとされる。
    秦の名将白起が、昭襄王の不興を買い自殺に追い込まれる。白起の名声を恐れた宰相の范雎との不和がきっかけで、趙攻略戦における昭襄王と范雎の対応を白起が非難したため。巻き添えで白起の副将だった司馬靳も自害させられた。
    紀元前256年
    秦の昭襄王は、西周の文公が各国と合従して秦と敵対したことを受けて、楊摎に命じて西周を攻めさせ、文公は秦に降伏。これにともない文公を頼っていた周の赧王も秦の管轄下に置かれたが、まもなく死去。秦は周の都だった王畿(洛陽)を併合して九鼎(周の王権を象徴する宝物)を接収し、周王朝は事実上滅亡。なお、この時点ではまだ東周の昭文君が残っており、九鼎も確保していたという説もある。
    秦の昭襄王の宰相を務めた范雎が死去。権力の対抗者がいなくなったことを受けて引退し天寿を全うしたとも、恩人であるため推挙した王稽が他国と通じたために誅殺され、それに連座して殺されたとも言われる。
    紀元前251年
    50年に渡り秦王の地位にあり、秦を強大国に押し上げた昭襄王が死去。
    紀元前250年
    秦の昭襄王の子で、喪が明けて正式に秦王の地位に付いた孝文王がわずか3日で死去。呂不韋が支援した荘襄王が即位。
    紀元前249年
    東周が秦によって滅ぼされる。昭文君は呂不韋によって殺されたとも、命は救われ、周の祭祀を執り行うことを許されたとも言われる。東周の場所に秦の三川郡が設置される。
    紀元前247年
    河外の戦い。魏の公子信陵君(魏無忌)が率いる魏・趙・韓・燕・楚の合従軍が、秦に攻め込む。秦は大敗して函谷関まで後退する事態に追い込まれる。勝利した魏の安釐王と信陵君の兄弟は、その後、秦の工作によって関係が悪化し、信陵君は失意のまま前244年に病死。秦は勢いを盛り返すことになる。
    秦の荘襄王が死去。
    紀元前246年
    贏政が秦の王位を継ぐ。後見役として呂不韋が仲父の称号を与えられ、宰相として国政を担う。
    セレウコス朝アンティオコス2世が、前妻のラオディケに暗殺される。後継に息子のセレウコス2世をつける。ラオディケはその前にアンティオコス2世の後妻でエジプト王プトレマイオス2世の娘ベレニケも暗殺しており、エジプトとの関係が悪化。第3次シリア戦争が始まる。
    紀元前240年
    5月 (秦王政7年)中国で彗星が目撃される。ハレー彗星か。
    この頃、エジプトのギリシャ人科学者エラトステネスが、ナイル川中流のシエネ(現在のアスワン)で、夏至の日に太陽が天頂に来ることを知り(北回帰線)、ナイル河口のアレクサンドリアで夏至の日に立てた鉛直の棒の影の角度から、両都市の緯度の差を計算。地球の50分の1であることを算出。両都市の距離から、地球の全周距離は250000スタディアと計算。スタディアの長さについては諸説ある。
    紀元前239年
    (秦王政8年)秦王贏政の異母弟である成蟜が反乱を起こすも鎮圧される。
    (秦王政8年)秦王贏政の母である太后に仕える嫪毐が、長信侯に封じられ、山陽の地を与えられる。また嫪毐は自身の領地である太原郡の汾河以西を「毐国」と称する。
    紀元前238年
    (秦王政9年)贏政の母の太后と嫪毐の醜聞が発覚し、嫪毐は反乱を起こして咸陽へ攻め込むも、すでに備えていた嬴政側の昌平君と昌文君によって鎮圧され、嫪毐と、大后との間にできた2人の子、その一族が殺害される。嫪毐側の衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉など20人も処刑され、4千家が爵位を剥奪されて蜀の房陵に移住させられる。大后も旧都の雍に移される。
    (秦王政9年)衍氏の戦い。秦の将軍の楊端和が魏の衍氏を攻略。秦による本格的な統一戦争が始まる直前にあった小規模の攻略戦。
    (秦王政9年)彗星が現れる。西から北の空に現れ北斗の南に80日間とどまる。
    (考烈王25年)楚の考烈王が死去。後を公子悍(幽王)が就く。その際、春申君が李園によって殺害される。考烈王の王后李環は李園の妹であったため権力闘争のためと見られるが、「史記」春申君列伝には、李環はかつて春申君に寵愛されており、生まれた子は王の子ではなく春申君の子であったため、その事を知る春申君を殺害したとも言う。
    紀元前237年
    (秦王政10年10月)秦の宰相の呂不韋が嫪毐の反乱に関与したとして相国を罷免されて領地の河南に蟄居となる。
    (秦王政10年)秦王政は桓齮を将軍とする。斉と趙が秦に使者を送る。その宴が開かれる。斉の茅焦は嬴政に対し「大王は母大后を追放すると噂されてます。これを聞けば諸侯は背くでしょう」と進言し、嬴政は大后を雍から都に呼び戻し甘泉宮に住まわせる。
    紀元前236年
    (秦王政11年)秦の王翦、桓齮、楊端和が、趙の将軍龐煖による燕への侵攻に乗じて、趙に侵攻。鄴と周辺の9城を攻略し、閼与と轑陽も攻略。通称「鄴の戦い」。秦の統一戦争の始まりとされる。
    紀元前235年
    (秦王政12年)秦の元宰相だった呂不韋が失脚後も各人と付き合い名声を保っていたことが贏政の警戒を招き、嬴政は詰問状を送って呂不韋に蜀への移住を命じる。呂不韋は将来を悲観し自殺する。一族と食客は蜀へ移住したと見られる。漢の武帝の時代に南越の相の呂嘉が益州に追放になった際に呂嘉が呂不韋の後裔だったため、追放先を呂不韋から「不韋県」としたとされ、三国時代の同地出身の呂凱は呂不韋の子孫と言われる。
    (秦王政12年)秦王政は呂不韋が自殺したことを受けて、蜀の房陵に流刑にしていた嫪毐の食客を赦免する。
    紀元前234年
    (秦王政13年 1月)彗星が現れる。
    (秦王政13年)秦の桓齮が、趙の平陽を攻撃し、趙軍は大敗を喫し、将軍扈輒は戦死する。通称「平陽の戦い」。秦王政は河南に巡行。
    紀元前233年
    (秦王政14年)秦の桓齮がふたたび趙に攻め込み、趙の宜安・平陽・武城を攻略。趙の王都邯鄲に迫ったため、趙の幽繆王は北方の匈奴を担当していた李牧を呼び戻す。
    (秦王政14年)趙の李牧率いる趙軍が、桓齮率いる秦軍を攻撃。秦軍は大敗を喫し退却。通称「肥下の戦い」。桓齮はこの戦いで敗死した説と敗走した説がある。
    (秦王政14年)韓王安が、秦に攻められたため、韓非を秦に送って和睦を図る。秦王政は韓非の著作を読んで気に入るが、李斯と姚賈の讒言に遭い、韓非は獄死する。
    紀元前232年
    (秦王政15年)秦軍が、鄴・太原を経由して狼孟と番吾を攻略。これに対し李牧が反撃、秦軍を撃破して、奪われていた領土を奪還。通称「番吾の戦い」。連続して李牧に敗れたことを受けて、秦は李牧を失脚させる工作を始めたと見られる。
    (秦王政15年)この年、秦(?)で大きな地震が起きる。
    紀元前231年
    (秦王政16年 9月)秦は、韓の南陽を併合。
    (幽繆王5年)代で大地震があり、楽徐以西、北は平陰まで大きな被害を出す。
    紀元前230年
    (幽繆王6年)趙で大飢饉が起きる。
    (秦王政17年)秦の内史騰が韓を攻め滅ぼし、韓王安は捕らえられる。秦はここに潁川郡を設置。
    紀元前229年
    (秦王政18年)秦王政は、王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせ、趙都邯鄲を包囲。李信は別動軍を率いて太原へ侵攻。趙は李牧と司馬尚を迎撃に出すも、秦の工作を受けた郭開の讒言により李牧は殺され、司馬尚も解任される。趙は代わりに趙怱と斉將の顔聚を迎撃に出すも、趙怱は戦死し、顔聚は敗走。
    紀元前228年
    (秦王政19年)王翦と羌瘣の軍勢が東陽を攻略し、趙の幽繆王が捕虜となる。趙が滅亡。趙公子嘉が逃れて代王を称する。秦の軍勢はそのまま中山国へ侵攻。政は、出身地である邯鄲に入ると、母を貶めようとした人々を捕らえ生き埋めにする。
    (秦王政19年)この年、中華の各地に飢饉が起こる。
    紀元前227年
    (秦王政20年)秦王贏政暗殺未遂事件。燕の太子丹が企図し、降伏の使者を装って贏政の前に現れた荊軻が贏政を刺殺しようとして失敗した事件。
    (秦王政20年)先の暗殺未遂事件を受けて、秦王政は王翦と辛勝に燕の攻略を命じる。
    紀元前226年
    (秦王政21年)秦王政、王賁に楚を攻めさせる。王翦には援兵を送り、燕の国都薊を攻め落とす。燕王喜と太子丹は遼東に逃走。降伏を望む燕王喜は反対する子の丹を殺すも秦王政はこれを許さず。
    (秦王政21年)燕の攻略後、秦王政は李信と王翦に楚の攻略に必要な兵数を問い、李信を採用したため、王翦は老病を理由に引退を表明。楚の公子であり秦王族の血も引く秦の相国だった昌平君が王翦引退を認めた秦王政を批判して失脚。
    紀元前225年
    (秦王政22年)秦王政が王賁に命じて、魏の国都大梁を水攻めにし、大梁は3ヶ月耐えたが城壁が崩壊。魏王假は降伏し魏は滅亡する。
    (秦王政22年)新鄭で旧韓の臣らによる反乱が起きる。これを受けて動揺が広がったため、昌平君を楚の旧都郢陳の民衆慰撫のため派遣。李信と蒙恬率いる20万の兵力による楚の攻略を開始。李信は平与を、蒙恬は寝丘を攻撃して勝利し、さらに李信は鄢と郢を攻略、城父で蒙恬と合流しようとしたが、三日三晩追撃してきた楚軍の攻撃を受けて7都尉を失う大敗を喫する。
    紀元前224年
    (秦王政23年)楚での敗戦を受けて、秦王政が引退していた王翦の元を訪れ、再登用して60万の兵を動員し楚の侵攻を命じる。王翦は楚に侵攻し、郢を攻略。楚王負芻を捕える(前223年説もある)。楚の将軍項燕は、秦・楚両王家の血を引く昌平君を楚王に擁立して淮南で抵抗を続ける。
    紀元前223年
    (秦王政24年)王翦と蒙武が率いる秦軍が楚を攻略。抵抗を続けていた公子昌平君と将軍項燕を殺害し(項燕は前224年に戦死という説もある)、楚は滅亡。
    アンティオコス3世がセレウコス朝の王となる。
    紀元前222年
    (秦王政25年)李信と王賁率いる秦軍は燕の残存領土を攻め、燕王喜を捕らえ、燕を滅ぼす。広陽、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の6郡とする(広陽郡以外は燕の時代に設置された郡県制を踏襲)。
    (秦王政25年)王翦率いる秦軍は会稽に至り、百越(東越)を降伏させる。
    紀元前221年
    (秦王政26年)斉王田建は、宰相の后勝と諮り、西の国境に兵を送って封鎖。
    (秦王政26年)秦王政は、燕に駐留する王賁、李信、蒙恬に北から斉を攻めさせ、斉王田建は戦わずして降伏。
    (秦王政26年)秦王政は、六国を平らげたことから、丞相の王綰、御史大夫の馮劫、廷尉の李斯らと諮って、上古の三皇のうちの泰皇と五帝から、新たに皇帝の称号を作り、始皇帝と称する。また子が父に、臣が帝に、死後の諡を贈るのは良くないとして、以降は二世、三世と万世まで称するよう決める。
    紀元前220年
    アポロニアの戦い。セレウコス朝に反旗を翻し勢力を広げるメディア総督モロンに対しセレウコス王アンティオコス3世が行った遠征。モロンは敗れ自殺。モロンの兄弟でペルシス総督アレクサンドロスも自殺。
    紀元前219年
    (始皇帝28年)始皇帝、第1回目の天下巡遊を行う。途中、泰山で封禅の儀式を行う。
    (始皇帝28年)秦の都咸陽の南、渭水を挟んだ対岸にある上林苑に、朝宮の前殿として阿房宮の建設が始まる。
    紀元前218年
    (始皇帝29年)始皇帝、第2回目の天下巡遊を行う。
    紀元前217年
    6月22日ラフィアの戦い。セレウコス朝アンティオコス3世とプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス4世とのシリア領を巡る戦い。プトレマイオス朝側が勝利し領土を維持するが、被支配層だったエジプト人の力が強まることにもなる。
    紀元前216年
    8月 2日第二次ポエニ戦争・カンナエの戦い。カルタゴの将軍ハンニバルがローマ軍を包囲殲滅する。
    紀元前215年
    (始皇帝32年)始皇帝、第3回目の天下巡遊を行う。
    紀元前214年
    8月 2日(始皇帝33年)秦が運河「霊渠」の開削工事を開始する。
    紀元前213年
    (始皇帝34年)秦に仕える儒者の淳于越が郡県制を否定し始皇帝の子息を各地の王にすべきだと進言したこと受けて、丞相の李斯が、挟書律を進言。始皇帝はこれを良しとして全国の郡に命じて、庶民が所有する四書六経(楽経を含む)や諸子百家の書物を没収して焚書させる。なお、生活に関わる医学書・農学書・卜筮(占い)書は除外とされた。
    紀元前212年
    (始皇帝35年)秦の始皇帝、学者・方士ら460人を生き埋めにする。いわゆる坑儒。不老不死の仙薬作りを命じられていた方士の盧生と侯生が、実際には仙薬を作れず、しかも始皇帝を誹謗して逃亡。激怒した始皇帝は同様の人物がいるか咸陽の学者・方士らを取り調べたところ、お互いの告発が相次ぎ、始皇帝は見せしめに彼らを処刑した。儒者が対象だったわけではなく、叔孫通のように引き続き始皇帝の顧問として残った儒者もいる。坑儒を諌めようとした皇太子の扶蘇は北方辺境の軍務を命じられたという。思想弾圧の言葉として焚書とまとめて呼ばれるが、焚書と坑儒は全く異なる事件。
    セレウコス王アンティオコス3世が東方遠征を開始。領土を拡大する。
    紀元前210年
    (始皇帝37年)始皇帝、第4回目の天下巡遊を行う。巡遊中に平原津で病気に倒れる。
    9月10日(始皇帝37年7月)始皇帝、巡遊の帰路、沙丘の平台で病死。趙高・李斯らの陰謀により始皇帝の末子胡亥が2代目皇帝として即位。皇太子だった扶蘇や他の皇子らは自害に追い込まれる。
    紀元前209年
    陳勝呉広の乱が勃発。反乱が各地へ拡大。
    匈奴を大国家にした、記録上最初の単于である攣鞮頭曼(頭曼単于)が、息子の冒頓単于の謀反で殺害される。冒頓単于は後継者から外された上に月氏国へ人質に出され、その際に父親が月氏を攻撃して殺されかけたことから、反発していたと見られる。冒頓単于は、継母や異母弟らも殺害して王位を奪った。
    紀元前208年
    劉邦、沛公となり、泗水郡の秦軍と戦う。
    魏の周芾が、泗水・沛付近に侵攻し、胡陵・方与・豊などが降伏する。
    劉邦、碭を占領し、6千の兵を手に入れる。
    劉邦、項梁の軍勢に加わり、指揮官の一人となる。この頃、魏に奪われていた故郷の豊を奪還する。
    南越国の趙佗が、甌雒国を調略で分裂させた後、攻め滅ぼす。
    紀元前207年
    張良、景駒のもとへ向かう途上、留の町で劉邦と出会う。劉邦の度量の大きさに感銘し、そのまま劉邦の幕下に加わる。
    雍丘の戦い。秦軍を率いる三川郡守李由と、劉邦軍が衝突し、李由が敗死。
    定陶の戦い。秦軍を率いる章邯が定陶を攻撃。雍丘の戦いの勝利に油断していた項梁が敗死する。そのことを予測していた宋義が懐王の信任を受け楚軍のトップに立つ。
    鉅鹿の戦い。章邯と王離率いる秦軍は、秦からの独立を画策した趙を攻撃。章邯が首都邯鄲を攻める一方、王離らが趙王と張耳が逃げた鉅鹿を攻撃する。救援の要請を受けた楚軍の項羽は、時間稼ぎをする宋義を誅殺して卿子冠軍を吸収し、全軍を掌握すると英布を派遣。更に自ら出撃し、秦軍と交戦。秦軍は大敗を喫し、王離は捕虜となり、蘇角は戦死、渉間は自殺した。これにより項羽は反秦連合軍の事実上の盟主となる。
    章邯率いる秦軍が9度に渡り項羽率いる連合軍と交戦するが全て敗北し、司馬欣、董翳とともに項羽に降伏する。
    項羽、英布に命じて、投降した秦兵20万を、新安で坑(穴埋め)にして殺害。秦軍はここにほぼ壊滅する。
    劉邦の軍勢が武関を突破し、秦の中心地である関中へ進軍する。
    8月この頃、趙高が秦の二世皇帝胡亥の前で、鹿を馬と呼び、群臣の中で自分に味方する人間を探ったという(指鹿為馬)。
    8月秦の2世皇帝胡亥が宦官の趙高の指示で、趙高の娘婿の咸陽令閻楽に殺される(望夷宮の変)。
    9月趙高は子嬰を王に擁立するが、子嬰は病と称して出てこず。趙高は子嬰の見舞いに訪れたところ、子嬰は韓談とともに趙高を殺害。一族を滅ぼす。趙高は歴史上、悪宦官の代表的人物だが、閻楽という娘婿がおり、宦官ではないという説もある。
    10月劉邦が咸陽に攻め寄せ、子嬰は劉邦に降伏。劉邦は子嬰を殺さずにおく。なお子嬰については、始皇帝の長男扶蘇の子、胡亥の兄の子、扶蘇の弟で胡亥の兄、始皇帝の弟などの説があるが、はっきりしない。
    紀元前206年
    項羽軍が函谷関を突破し関中へ侵入。先に首都咸陽を制圧し函谷関を閉じた劉邦の謀反の罪を問い、両者は項伯の仲介で鴻門の会を開く。劉邦は許される。
    項羽が、咸陽に進軍し秦王子嬰らを殺害。咸陽を焼き払い、秦が滅亡する。なお、阿房宮は焼失しなかったとみられる。
    項羽が秦への反乱軍に加わった諸将や旧六国の王族らを各地の王として封ずる。劉邦は漢王とされ、辺境の巴蜀漢中を領土として与えられる。この恩賞を受けられなかった各地の有力者や恩賞に不満を持つ王らが続出し、その後反乱や謀反が相次ぐことになる。項羽は主君筋の楚の懐王に義帝という称号を与えて辺境へ流し、九江王に封じた英布に命じて殺害。
    紀元前205年
    (漢高祖2年)漢王劉邦が漢中から関中へと進出しこれを占拠。楚漢戦争が勃発する。
    (漢高祖2年4月)彭城の戦い。項羽が斉の攻略に手間取っているさなか、関中より出撃した劉邦に諸侯が集まり、総数56万の兵力で西楚の首都彭城になだれ込む。略奪に狂奔する連合軍に対し、項羽率いる3万が襲来。連合軍は大敗を喫し、10万人以上が殺害される。さらに睢水に追い詰められた10余万も殺害され、遺体は川をせき止めたという。
    (漢高祖2年8月)劉邦、韓信と張耳に魏を攻略させる。
    (漢高祖2年9月)井陘の戦い。韓信は張耳とともに趙を攻略するために出陣。対する趙の宰相陳余は、正攻法にこだわったうえ、韓信が「背水の陣」を敷いたことで油断し、城(王都?)を奪われる大敗を喫する。陳余は捕らえられ処刑。趙王歇も逃亡したが捕らえられて処刑された。
    紀元前204年
    滎陽の戦い。彭城の戦いで大敗した劉邦は、九江王英布を寝返らせるが敗北。残兵を滎陽に集結する。項羽は滎陽を包囲。陳平が反間の計を用いて楚軍の君臣を離間させ項羽の軍師范増が失脚する。その上で囮を出して注意をそらし劉邦を関中へと逃がす。
    (漢高祖3年6月)劉邦、再び関中より出撃し、宛・葉に進出。成皋へ軍を進める。この頃、彭越が下邳を攻撃。項羽、彭越軍に勝利したのち、滎陽を攻め落とす。漢の御史大夫周苛ら処刑される。さらに成皋を包囲。劉邦、成皋を脱出し韓信と張耳のいる趙の修武まで行く。ここで韓信の軍を奪い、韓信には斉攻略を命じる。
    プトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス4世が死去。5歳のプトレマイオス5世が即位する。セレウコス朝アンティオコス3世は再びシリア方面への進出を再開。
    紀元前203年
    (漢高祖4年)韓信、斉を制圧。濰水の戦いで楚の龍且を敗死させる。
    成皋の戦い。項羽が彭越を討伐するため外黄攻略に向かった留守中に成皋で楚漢両軍が衝突。楚軍が大敗を喫し、曹咎・董翳・司馬欣ら自害。
    広武山の和睦。劉邦は広武山に陣取り、項羽と対峙。項羽との論戦中に劉邦は負傷。また食糧不足のため両者は領土を分割することで合意し和睦。楚軍は撤兵を開始。劉邦は張良・陳平の進言を受け、楚軍を攻撃するも失敗に終わる。
    固陵の戦い。劉邦は項羽軍を追い、韓信と彭越に出陣を要請して固陵に至るも、両軍は現れず敗北する。張良の献策で勝利すれば恩賞として広大な領地を約束することで両者に出兵を促す。韓信と彭越はこれを受けて出陣する。
    秦の南海郡尉だった趙佗が、秦王朝の滅亡を受けて南海郡、桂林郡、象郡などを領土として独立。南越と号する。その後は漢と交渉しながら領土を広げ、福建からベトナム北部までの広大な領地を支配した。趙佗は漢の景帝の代に100歳以上で死去したといわれる。
    紀元前202年
    垓下の戦い。項羽は劉邦を盟主とした韓信・彭越らの連合軍に敗れ、烏江に至りここで自刃。楚漢戦争が終結する。劉邦、項羽を弔う。
    2月28日劉邦が皇帝に即位し、漢帝国が成立する。
    10月19日ザマの戦い。第二次ポエニ戦争で、ローマとカルタゴが北アフリカのザマで衝突し、カルタゴが大敗を喫する。カルタゴは衰退していくことに。
    セレウコス朝がガザ方面へ侵攻。第5次シリア戦争が始まる。
    紀元前200年
    (漢高祖7年)白登山の戦い。匈奴の冒頓単于が40万の兵力で太原に攻め込み、それを受けて、劉邦が自ら32万の兵力で迎撃に赴くが誘い込まれて大敗。劉邦は匈奴に毎年貢納することで和睦する結果となった。
    紀元前198年
    セレウコス朝がカナン地方を支配。
    (漢高祖9年)劉邦の娘婿である趙王張敖の家臣貫高らが劉邦暗殺を企てたことが露見。貫高だけでなく張敖と劉邦の側室で元張敖の側室だった趙姫らも連座する。貫高の証言から張敖の罪は晴れるが、趙姫は呂后の嫉妬を受けて許されず、劉邦の子である劉長を産んで自殺。
    紀元前196年
    (漢高祖11年)春、淮陰侯韓信が鉅鹿太守の陳豨と反乱を計画。陳豨が挙兵するが、韓信の長安での挙兵は密告で露見し、蕭何の計略で捕らえられ一族ともども処刑される。陳豨も酈商に敗れ逃走。のち捕らえられ族誅となった。
    (漢高祖11年)梁王彭越が陳豨の反乱の際に出兵しなかったことで謀反の疑いをかけられ捕らえられる。一旦は蜀へ流罪とされたが、呂后の主張によって処刑される。
    (漢高祖11年)彭越の処刑を受けて疑心暗鬼となった淮南王英布が反乱を起こす。高祖劉邦自ら討伐に赴き激戦となるが、ついにこれを破る。英布、長沙王のもとへ逃走し、更に落ち延びようとして殺害される。
    (漢高祖11年)劉邦、英布討伐後、若い頃から暮らしていた沛に立ち寄り、「大風の歌」を披露。沛を永代免租とする。また沛の父老の訴えを受けて出身地である豊も同様の措置とする(豊の町はかつて劉邦を裏切ったことがあるため恨んでいたという)。
    紀元前195年
    (漢高祖12年)劉邦の幼馴染で、燕王であった盧綰が失脚。匈奴へ亡命する。盧綰の臣下だったとみられる衛満も千戸を率いて朝鮮に逃亡し、まもなく衛氏朝鮮を興す。
    (漢高祖12年 6月 1日)漢の高祖劉邦死去。
    紀元前193年
    劉邦の覇業を支えた相国蕭何が死去。
    紀元前192年
    セレウコス朝アンティオコス3世がテッサリア方面へ進出。
    紀元前191年
    テルモピュライの戦い。テッサリアに進出したセレウコス朝に対し、ローマが遠征軍を送った戦い。セレウコス軍は敗北し撤退。
    紀元前190年
    マグネシアの戦い。ローマ軍を率いるグナエウス・ドミティウスと、セレウコス王アンティオコス3世の軍勢が会戦し、セレウコスは大敗。
    紀元前188年
    ローマとセレウコス朝との間でアパメイアの和約が結ばれる。セレウコス朝はタウロス以西の領土を失った他、ローマに多額の賠償金を払うことになり、軍事力も大幅に制限されることになった。
    紀元前187年
    セレウコス朝アンティオコス3世が暗殺される。
    (高后元年)漢の恵帝が「三族罪」と「妖言令」を廃止。三族罪は罪人の家族まで処刑する制度で、妖言令は世を惑わしたという理由だけで処罰するもの。どちらも権力者が恣意的に利用した悪法。この一時期だけ廃止されていたと見られる。宮廷では呂后が実権を握って劉氏との熾烈な権力闘争を引き起こし、息子の恵帝は傀儡とされるが、一方で対外戦争も内乱もなく、法も緩和されて、民衆には安寧の時代であったという。
    紀元前186年
    (高后2年)漢の高祖劉邦の名参謀として漢帝国創業を補佐した張良(張子房)が死去。知力で主君を支える「王佐の才」として中国史上では最も評価の高い人物。韓の宰相一家の出身で、太公望兵法を学んだという。建国後の重臣らの失脚が相次ぐ中でも疑われず、権力闘争を引き起こした呂后ですら張良の健康を案じて食を勧めたと言われる。
    紀元前185年
    (高后3年)中国の各地で河川が氾濫。
    紀元前183年
    南越王の趙佗が、長沙国の数県を侵略。漢との交易をめぐる南越王と長沙王の紛争とみられる。
    紀元前181年
    エジプトのプトレマイオス5世が暗殺される。治世下で周辺国の侵略や民衆の反乱が相次ぎ、プトレマイオス朝エジプトが衰退したときの君主。
    紀元前180年
    漢の高祖劉邦の妻で事実上女帝として君臨した呂后(呂雉)が死去。「史記」では歴代皇帝と同じ「紀」のカテゴリに含まれている。
    漢の斉王劉肥の次男である朱虚侯劉章が、兄の斉王劉襄、元勲の周勃・陳平らと図りクーデターを起こす。呂一族が滅ぼされる。
    代王劉恒が5代皇帝として周勃・陳平らに擁立され即位。文帝。劉恒は生存している劉邦の子で最年長であり、母親の薄氏が没落した旧魏王族の娘と薄姓の男性との間に生まれており、外戚の力が弱いとして選ばれたと言われる。一方でクーデターの首謀者である劉章は城陽王にされた。
    紀元前178年
    (文帝前2年)陳平が死去。漢の高祖劉邦の軍師として策謀を担い、呂后の死後、呂氏一族の専横を排除して帝国の命脈を伸ばした人物。
    紀元前177年
    (文帝前3年)匈奴が漢の領土へ侵入。灌嬰が騎兵8万5千を率いて迎撃に出陣、文帝も太原まで親征を計画。しかし匈奴はその前に撤退。
    済北王劉興居が匈奴侵攻に便乗して謀反を起こす。しかし柴武が討伐軍を率いこれを撃破。劉興居は捕らえられ自殺。先に呂氏を滅ぼした際の、皇位継承も絡んだ内紛で恩賞が得られなかったことが原因とみられる。
    淮南王劉長が長安に赴いた際に、審食其を襲撃して殺害する。貫高の皇帝暗殺未遂事件に連座した母趙姫の助命嘆願を審食其がまともに取り上げず、自殺に至った恨みから。
    紀元前174年
    (文帝前6年)淮南王劉長が、柴奇らと反乱を計画し露見。文帝は死罪相当の意見を退け、劉長を蜀に流罪とするが、劉長は食を絶って自殺。
    紀元前171年
    共和政ローマとマケドニアのペルセウスとの間で第三次マケドニア戦争勃発。
    紀元前168年
    6月22日ピュドナの戦い。ローマ側が勝利し、マケドニアのペルセウスは敗走。ローマのアエミリウスに降伏して第三次マケドニア戦争も終結。アンティゴノス朝マケドニア崩壊。
    紀元前167年
    エルサレムを占領したセレウコス朝に対するユダヤ人の反乱が勃発。安息日でも戦うことを示して反乱を起こしたユダヤの祭司マタティアの息子で、後継者として乱を指導したユダ・マカバイの名を取って「マカバイ戦争」という。マカバイは西欧では「九偉人」の一人。
    紀元前166年
    匈奴の老上単于(攣鞮稽粥)が14万騎を率いて漢の朝那・蕭関に侵攻し、彭陽まで攻略。漢の文帝は盧卿を上郡将軍、魏遫を北地将軍、周竈を隴西将軍、張相如を大将軍、董赤を前将軍に任じて討伐軍を派遣。老上単于は1ヶ月ほどして引き上げる。
    紀元前164年
    (文帝16年)漢王朝で「人主延寿」の文字が彫られた玉杯が現れる。
    紀元前163年
    (文帝後元年)瑞兆をうけて文帝は新たに元年と定める。
    紀元前157年
    7月 6日(文帝後7年 6月 1日)漢の文帝が崩御。重農主義で、戦争を極力回避し、土木を行わず、減税や刑罰を軽くするなどの政策で戦乱時代からの民力休養を図った。安寧で豊かな時代だったことから次の景帝と合わせて文景の治と呼ばれる。また母親(薄太后)への孝行から、二十四孝の一人に数えられる。
    7月14日(文帝後7年 6月 9日)漢の文帝の5男劉啓が即位。景帝。
    紀元前154年
    (景帝3年)呉楚七国の乱が勃発。漢の西半分を直轄する皇帝政府に対し、東半分を支配していた劉氏諸王(呉王劉濞・楚王劉戊・趙王劉遂・膠西王劉卬・膠東王劉雄渠・菑川王劉賢・済南王劉辟光)が挙兵。直接的には呉王劉濞が、息子を皇太子時代の景帝に殺されたことと、景帝が晁錯の「中央集権化」の進言に従い呉王ら諸王の領土減封を図ろうとしたため。景帝は反乱鎮圧のため周亜夫を抜擢。
    (景帝3年)呉楚七国の乱が終結。景帝は大尉の周亜夫を抜擢して鎮圧軍の指揮を命じる。周亜夫は劇孟や鄧都尉らと協議し、呉軍とは直接戦わず、昌邑に城塞を築いて軍を集め、呉軍が梁を攻めている間にその補給線を断つ。窮した呉軍が昌邑に攻めてきたのを撃破。呉王劉濞は東越に敗走するが、すでに中央政府へ味方していた東越は呉王を殺害。また首謀者の一人である膠西王劉卬も斉の攻略に失敗後、遠征軍指揮官の頽当のもとに出頭して降伏し自決。他の王も自決し、反乱はわずか3ヶ月で鎮圧することに成功。
    紀元前148年
    第四次マケドニア戦争勃発。マケドニア王国の後継者を称するアンドリスコスが共和政ローマに対し反乱を起こすがローマに敗れる。ファランクスが使われた最後の戦争とも言われる。
    紀元前142年
    セレウコス朝の勢力が後退し、マカバイ戦争は終結。ユダヤ人が事実上の独立を果たす(ハスモン朝の成立)。
    紀元前141年
    3月 9日武帝が前漢の第7代皇帝に即位。
    紀元前132年
    (元光3年)黄河下流の濮陽付近で南側の堤防が決壊し、大量の水が南の淮河方面へと氾濫。甚大な被害をもたらす。
    紀元前120年
    (元狩3年)武帝、財政再建のため、桑弘羊、孔僅らに塩鉄酒の専売制を実施させる。
    紀元前119年
    (元狩4年)武帝、匈奴の本拠を攻める。大将軍衛青と驃騎将軍で衛青の甥の霍去病をともに司令官として、前将軍李広、左将軍公孫賀、右将軍趙食其、後将軍曹襄らに騎兵10万、歩兵ら数十万を派遣。漠北の戦いで漢軍が大勝する。
    紀元前110年
    (元封1年)司馬談が死去し、その事業を司馬遷が受け継ぐ。
    紀元前109年
    (元封2年)武帝が衛氏朝鮮の王衛右渠討伐を命じる。
    紀元前108年
    (元封3年)衛氏朝鮮が滅び、遼東半島から朝鮮中部にかけて楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡が設置される。古朝鮮の時代が終わる。
    (元封3年)この年、司馬遷が太史令となる。
    紀元前104年
    (太初1年)司馬遷、壺遂ら学者数十名によって、太初暦が制定される。司馬遷、この頃より『史記(太史公書)』の編纂を開始。
    紀元前99年
    (天漢2年)武帝、匈奴討伐の遠征を命じる。別軍を率いた李陵が寡兵で善戦するも敗北し捕らえられて匈奴に降伏する。武帝はこれに激怒。司馬遷は李陵を擁護したため、投獄される。
    紀元前98年
    (天漢3年)武帝のもとに、李陵が匈奴の兵に軍略を教えている誤報が届き(実際には李緒がしていた)、武帝は李陵の一族を処刑。司馬遷も宮刑に処せられる。
    紀元前96年
    (太始1年)司馬遷、釈放され中書令に任ぜられる。皇帝の詔書を扱う高官だが宦官が付く官職。
    紀元前91年
    (征和2年)巫蠱の獄が起こる。武帝の側近となっていた江充が、恨みを買った皇太子劉拠を陥れるため、呪詛を行っていると告発。劉拠は江充を捕らえて殺害するも、これにより武帝が劉拠の謀反を信じ、宰相劉屈釐に討伐を命じる。劉拠は敗北し、逃走先の湖県で自殺。一族や関係者も処刑される。しかしこれが江充の陰謀だと判明。武帝は江充の一族や関係者を処刑し、死んだ皇太子のために思子宮を建てた。
    紀元前90年
    (征和3年)匈奴討伐のため、李広利が出撃する。
    (征和3年)郭穰によって宰相劉屈釐らが武帝を呪詛していると告発され、一族とも処刑される。縁者である李広利の妻子も連座。それを遠征先で知った李広利は匈奴に降伏。
    (征和3年)この年、司馬遷『史記』を完成する。
    紀元前87年
    (後元2年 3月30日)漢の武帝死去。劉弗陵が即位(昭帝)。8歳であったため、政治は大司馬・大将軍の霍光、太僕・左将軍の上官桀、車騎将軍で匈奴の王子でもあった金日磾の3人が担当し、丞相の田千秋がこれを補佐する体制となる。
    紀元前86年
    昭帝の補佐役だった金日磾が死去。霍光と上官桀の両者が徐々に対立を深める。
    紀元前81年
    (始元6年)漢の朝廷において、有識者60人を召集し、桑弘羊の推進した塩鉄専売の是非を問う論争(塩鉄会議・塩鉄論)を行う。専売制は批判を受け、酒の専売制度が廃止されるが、財政逼迫のため塩と鉄は専売制が継続する。
    紀元前80年
    (元鳳1年)上官桀、燕王劉旦、御史大夫桑弘羊が反乱を企て失敗に終わる。上官皇后以外の関係者すべて処刑される(上官皇后は上官桀の子上官安と霍光の娘との間にできた子でまだ8歳)。
    紀元前75年
    1月10日漢の朝鮮半島北部にあった植民行政区の一つ「玄菟郡」が廃止される。
    ローマとポントスとの間で第三次ミトリダテス戦争が勃発。
    紀元前74年
    漢の昭帝が急死したため、霍光によって劉賀が皇帝となる。しかし行いに問題があるとして、在位27日で廃位され海昏侯に落とされる。劉賀の臣下らが処罰されたことから、政変説もある。
    霍光に擁立され劉病已(劉詢)が皇帝となる(宣帝)。巫蠱の獄で自殺した劉拠の子で、親族がすべて誅殺された際に、当時獄吏だった丙吉(後の宰相)に助けられ、獄中で養育されたのち、民間で育った異色の皇帝。
    紀元前68年
    (地節2年)漢の大権力者であった霍光が死去。宣帝は領尚書事を通さない封事を直接上奏することを認め、権力者霍一族の実態を知ることになる。
    紀元前66年
    (地節4年)霍禹らが反乱を企てたが露見し、一族及び関係する数千家が誅殺。霍皇后も廃され幽閉される。
    紀元前65年
    第三次ミトリダテス戦争でローマが勝利し、ポンペイウスは各地へ領域を拡大。
    紀元前64年
    ポンペイウスがシリアを占領し、ハスモン朝を事実上属国化する。
    紀元前57年
    新羅六部の村が赫居世居西干を王に擁立。新羅の建国とされる。神話上の話であるため、史実では辰韓十二国のひとつ斯蘆国を原点とする小規模国家から発展したものと考えられる。
    サビス川の戦い。ガリア遠征に来たカエサル率いるローマ軍と、ベルガエ人系ネルウィ族のボドゥオグナトゥスらの率いるガリア人勢力との戦い。ネルウィ族らは大敗して降伏。
    紀元前55年
    8月23日ガリア遠征中のカエサルが、ブリタンニアに遠征。ブリタンニアがガリアと協力関係にあったため。遠征隊はホワイトクリフ一帯に上陸したが、ブリタンニア側の反撃もあり、ケント地方の海岸地帯付近にとどまったのみで冬になり撤退。
    紀元前54年
    ガリア遠征中のカエサルが、ふたたびブリタンニアに遠征。5個軍団、800隻の船を動員する大規模な遠征となった。ブリタンニア側はカッシウェッラウヌスが中心となって反撃したが敗れ、ガリアのアトレバテス族の王コンミウスを通じて和睦。カエサルも同地を維持する兵を置くこともなく撤退した。
    アドゥアトゥカの戦い。ブリタンニア遠征から帰還後、ガリアに分散して冬営したローマ軍のうち、第14軍団をエブロネス族の王アンビオリクスらが攻撃。一旦は和睦するも、罠にはめてこれを壊滅する。ガリア遠征中、ローマ軍で最大の敗北となった。
    紀元前52年
    アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスが、全ガリア諸部族に呼びかけ、ローマに反乱を起こす。
    アウァリクムの戦い。ウェルキンゲトリクスは、ローマ軍への補給を断つため、焦土作戦を展開し、主要拠点を除く町や村を焼き払うが、ビドゥリゲス族の城塞都市であったアウァリクムはそのままにしていたため、カエサル率いるローマ軍の攻撃を受ける。カエサルは25日かけて攻城塔を建設し、城壁を攻撃占拠。さらに城内のガリア軍の混乱に乗じて城内へ攻め込み、市民約4万人を殺戮、助かったのは逃れた800人だけだったと言われる。
    ゲルゴウィアの戦い。アウァリクムを攻略したカエサルは、アルウェルニ族の城塞都市ゲルゴウィアの攻略にも取り掛かる。しかしローマ側についていたハエドゥイ族のコンウィクトリタウィス、リタウィックスらがウェルキンゲトリクスについたことや、ゲルゴウィアの攻略に失敗したため撤退。しかし追撃に来たウェルキンゲトリクスのガリア軍に反撃してこれを破る。
    8月アレシアの戦い。ウェルキンゲトリクス率いるガリア軍のこもるアレシアをローマ軍が大規模陣地を構築して包囲。
    10月 2日アレシアの戦い。ウェルカッシウェラウヌス率いるアレシア救援のガリア軍が、ローマの攻囲陣地の一角を攻撃。アレシアからも出撃し、はじめはガリア軍が優勢に進めていたが、カエサルの反撃によって壊滅。ウェルキンゲトリクスはカエサルの前に進み出て降伏。ガリアはほぼ平定され、カエサルの事実上支配するところとなり、カエサルの勢力拡大に繋がった。
    紀元前49年
    1月10日カエサルが、彼の勢力を恐れる元老院の召還命令に逆らい、「賽は投げられた」として、麾下の軍勢を率いてルビコン川を渡り、ローマ帝国本土へ侵攻する。
    紀元前47年
    8月 2日ゼラの戦い。ボスポロス王国の国王ファルナケス2世とローマのガイウス・ユリウス・カエサルが戦い、カエサルが勝利。「来た、見た、勝った(Veni vidi vici:ウェーニー・ウィーディー・ウィーキー)」の言葉で有名。
    紀元前46年
    古代ローマにおけるローマ暦最後の年。ガイウス・ユリウス・カエサルが改暦を行ったため、以降はユリウス暦となった。現在の9月、10月、11月、12月の英語名(September,October,November,December)がラテン語の第7、第8、第9、第10を意味するのは、3月から1年が始まるローマ暦の名残り。
    紀元前44年
    3月15日ガイウス・ユリウス・カエサルが元老院出席のためポンペイウス劇場に来た所で、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスやマルクス・ユニウス・ブルートゥスらに暗殺される。その権力はガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(のちの初代皇帝インペラトル・カエサル・アウグストゥス)に受け継がれる。
    紀元前37年
    扶余の金蛙王の子とされる朱蒙によって高句麗が建国されると建国神話にある。史実ははっきりしないが、旧玄菟郡の高句麗県侯となっていた在地の勢力とも考えられる。建国神話は夫余系民族に共通する東明聖王神話から来たものか。
    ユダヤのハスモン朝がローマによって滅びる。ローマに従っていたヘロデが王位についてヘロデ朝が成立。
    紀元前32年
    オクタウィアヌスが執政官として権力を握ったローマの元老院が、政敵であるアントニウスと手を組んだプトレマイオス朝エジプト王国に対し宣戦を布告。
    紀元前31年
    9月 2日アクティウムの海戦でオクタウィアヌス軍が、アントニウス軍に勝利。
    紀元前30年
    8月12日プトレマイオス朝エジプト王国のファラオ、クレオパトラ7世フィロパトルが自殺。事実上最後のファラオ。
    9月 8日聖母マリアが誕生したとされる日。
    紀元前27年
    1月13日全権を掌握したオクタウィアヌスが、三頭政治時代の全ての特権を元老院に返還して共和政に復帰すると宣言。ただし実質的な権力である執政官にはとどまる。さらに属州を分けて、軍団駐屯地の属州統治権と軍の指揮権の法的権利を元老院から取り、事実上の全軍統括権を獲得する。
    1月16日ユリウス・カエサルの副官だったルキウスが、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈ることを元老院に提案。元老院はこれを議決し、オクタウィアヌスは、「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」と名乗ることに。これをもって形式上も含め、オクタウィアヌスをローマ帝国初代皇帝アウグストゥスとし、帝政ローマが誕生。
    紀元前23年
    1月13日ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスに、護民官職権が与えられ、権力が強化される。
    紀元前18年
    高句麗建国の王朱蒙の三男温祚によって百済が建国される。これは建国神話に基づくもので、扶余系民族に共通する東明聖王神話に影響されているとみられる。
    紀元前8年
    ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが、誤って運用されていたユリウス暦を修正する際に、8月に自身の名アウグストゥスを付ける(Augustの語源)。
    紀元前7年
    (綏和2年)賈譲が黄河の治水案をまとめた「治河策」を著す。
    紀元前6年
    ローマがヘロデ王朝の王位を廃してユダヤの地を直轄領とする。ユダヤ属州の成立。
    紀元前4年
    この頃、ナザレのイエス(いわゆるイエス・キリスト)が生誕。ルカ福音書の記載などからイエスはヘロデ王時代の末期に生まれているとみて間違いないので、ヘロデ王が死去したこの年までには生まれていたと考えられる。
    1年
    西暦1年。後の西暦525年にローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、新たな紀元歴を決めるため、復活祭の一巡とイエスの没年齢からディオクレティアヌス紀元248年がキリスト紀元532年として算出し、紀元1年を定める。実際に西暦が使われるようになるのは15世紀ころから。なお、西暦の略号ADは、ラテン語で「主の年」を意味するanno Dominiの頭文字。
    この頃、日本列島南側で南海トラフの大地震が発生した可能性がある(高知県の津波堆積物のあとから)。
    8年
    (居摂3年11月)王莽が前漢の皇太子の孺子嬰(劉嬰)より禅譲を受けて国号を「新」と改め建国。初始元年と改元。同12月朔日を始建国元年正月朔日と定める。孺子嬰を定安公とし、前漢は滅亡。
    11年
    (始建国3年)黄河が大氾濫を起こす。河口の位置がさらに移動し、現在の流路に近い形になる。
    14年
    8月19日ローマ帝国の初代皇帝インペラトル・カエサル・アウグストゥス没。
    17年
    (天鳳4年)琅邪郡の老女呂母が人々をあつめて、天鳳元年に息子を死刑にした県令を襲撃して殺害。呂母はまもなく死去するが、集まった軍勢は解散せず後の赤眉軍につながる。
    この頃、王匡・王鳳らが人々をあつめて荊州江夏郡の緑林山に立て籠もる。緑林軍の反乱。
    21年
    (地皇2年)黎丘郷の県吏秦豊、黎丘郷で挙兵。その後、勢力を広げ、楚の黎王を自称する。
    22年
    (地皇3年)疫病の発生により緑林軍が下江軍と新市軍とに分かれて緑林を離れる。転戦中に劉玄の平林軍や、同年挙兵した劉縯・劉秀兄弟の舂陵軍なども反乱軍に加わる。
    (地皇3年 3月)王莽は反乱に対して王邑・王尋らに100万と号する討伐軍を出陣させる。
    (地皇3年 5月)王邑ら討伐軍は、昆陽を包囲。劉秀は援軍を集めるため、昆陽を脱出。一方、劉縯は、宛を攻略。
    (地皇3年 6月)劉秀は数千の援軍を率いて昆陽に戻り、王邑・王尋らを攻撃。昆陽城内からも呼応して出撃した結果、王尋が戦死し、王邑は敗走。討伐軍は大敗を喫する(昆陽の戦い)。
    (地皇3年 冬)赤眉軍討伐のため出陣した新の更始将軍・平均公廉丹、太師王匡の軍勢と、軍閥董憲の軍勢が成昌で戦い、廉丹が討ち取られ、王匡は敗走する。
    23年
    (地皇4年 2月)平林軍の劉玄が更始帝として即位。更始元年。劉縯は大司徒となる。
    (地皇4年 夏)更始帝が舂陵軍の一派に支持されている劉縯と劉稷を殺害。劉秀は監視下に置かれる。
    (地皇4年 9月)更始帝の軍勢が長安(常安)に攻め込み、混乱の中、王莽が商人の杜呉によって殺される。
    この頃、隴西で隗囂が方望を軍師とし年号を漢復と称して独自勢力を拡大。
    (更始1年10月)更始帝が劉賜の進言で、劉秀を河北への派遣軍の指揮官に任ずる。劉秀は各地を転戦。
    (更始1年12月)王郎が劉林らの支持を受け、邯鄲で即位。
    (更始1年)この頃、盧江郡の李憲が淮南王を自称し独立。
    24年
    (更始2年 2月)更始帝が長安に都を遷し、有力者らを各地の王に封じる。しかしこれがきっかけで政権は分裂状態となる。
    (更始2年 5月)劉秀率いる軍勢が王郎を邯鄲に追い詰め、これを陥落。王郎は逃走を図るが殺害される。
    25年
    (更始3年 1月)隗囂から離反した方望が長安にいた孺子嬰(劉嬰)を擁立して臨涇に政権を起こすが、まもなく更始帝の軍勢に滅ぼされる。
    (更始3年 6月)劉秀、家臣の支持を受け即位。後の光武帝。建武と改元。
    (更始3年 6月)赤眉軍の樊崇と徐宣が関中に侵攻。劉盆子を皇帝に擁立する。年号を建世とする。
    (更始3年/建世1年/建武1年 9月)劣勢となった更始帝の重臣王匡が赤眉軍に寝返り、赤眉軍は長安を攻略。更始帝を捕らえ殺害。
    (更始3年)更始帝敗北を受けて、更始帝から梁王に封じられていた劉永が独立し皇帝を自称。
    26年
    (建世2年/建武2年春)赤眉軍政権は食糧を確保するため、長安を出て西へと進軍するが、隗囂の軍勢に敗れ長安に戻る。
    (建世2年/建武2年春)真定王劉楊、光武帝劉秀の召還命令に応じず、耿純らによって誅殺される。劉秀、謀反は起こしていないとして劉楊の子の劉得を真定王に封じる。
    (建世2年/建武2年12月)赤眉軍政権は秩序を保てず瓦解。食糧もなくなり長安を放棄。
    27年
    (建世3年/建武3年)赤眉軍が光武帝劉秀の臣下である馮異らの軍勢によって阻まれ降伏。
    (建武3年 7月)光武帝劉秀配下の征南大将軍岑彭が黎丘郷へ進攻。秦豊らは大敗を喫する。秦豊は、軍閥の延岑と田戎らと姻戚関係を結んで陣営に引き入れる。
    (建武3年 秋)劉永が光武帝劉秀配下の呉漢・蓋延の軍に本拠地の睢陽を攻め落とされ、敗走中に殺害される。
    (建武3年 秋)この年、淮南王李憲が皇帝を称して九卿百官を置く。
    28年
    (建武4年 7月)光武帝劉秀と梁王劉永の子劉紆の両勢力が蘭陵をめぐって攻防戦となる。劉紆の重鎮となっていた董憲が勝利し蘭陵を確保。
    (建武4年 秋)光武帝劉秀自ら、寿春に親征。また舒で皇帝を自称し独立していた李憲に討伐軍を派遣。
    29年
    (建武5年 6月)光武帝劉秀の軍勢に黎丘郷を包囲され、窮した秦豊は一族を連れて降伏。洛陽に送られ処刑される。
    (建武5年 8月)光武帝劉秀の大司馬呉漢が、梁に攻め込み、梁軍は大敗。劉紆、董憲らは郯へ敗走。しかし郯も陥落し、劉紆は殺害され、董憲と龐萌はさらに朐へ敗走する。
    30年
    (建武6年 1月)長期の籠城戦となっていた舒が陥落。李憲は敗走し、部下の帛意に裏切られて殺害される。
    (建武6年 2月)光武帝劉秀の大司馬呉漢が、朐を攻め落とす。董憲と龐萌は降伏を決めるも呉漢軍校尉の韓湛によって殺害される。
    この頃、ユダヤ教の一派(初期のキリスト教)を率いたナザレのイエスがローマのユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑される。
    33年
    (建武9年)隴西の隗囂が病死し、後を継いだ隗純は光武帝に降伏。
    35年
    この頃、初期キリスト教の信者だったステファノがユダヤ教を批判して処刑される。最初の殉教者として聖人となっている。ユダヤ系ギリシャ人(ヘレニスト)で、初期教団内部のヘレニストの代表として教団内部のヘブライストとの調整役に就いていたという。
    36年
    (建武12年)光武帝劉秀の軍勢が成都を攻略。蜀で独立していた公孫述を滅ぼし、公孫述と手を組んでいた軍閥の延岑らも滅ぼされ、中国を統一。
    37年
    ヘロデ・アグリッパ1世がトランス・ヨルダンの統治権を任される。
    40年
    南越で有力者であった徴側と徴弐の姉妹が自立の動きを見せ、合浦・九真・日南各郡で65県の貉将・貉侯がこれに同調する。いわゆる徴姉妹の乱(ハイバーチュンの乱)。
    41年
    1月24日ローマ帝国の第3代皇帝カリグラが暗殺される。
    42年
    光武帝の派遣した伏波将軍馬援の遠征軍によって、徴姉妹は敗死。徴姉妹の乱(ハイバーチュンの乱)が鎮定される。ベトナムでは徴姉妹は英雄視されている。
    ヘロデ・アグリッパ1世がユダヤ王を認められる。
    43年
    ローマ帝国クラウディウス帝によるブリタンニア遠征。ブリトン人の王カラタクスを破り、その王都カムロドゥヌムを占領。ここを帝国ブリタンニア属州として植民地化。ブリタンニア属州はその後、ブリテン島全体へと拡大していく。
    48年
    ヘロデ・アグリッパ2世がユダヤの統治権を認められる。
    54年
    10月13日ネロがローマ帝国の第5代皇帝に即位。
    60年
    この年、もしくは翌61年に、ブリタンニアのイケニ族の女王ブーディカが、圧政を敷いていたローマ帝国の総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌス、行政官カトゥスらに対して反乱を起こす。反乱軍はカムロドゥヌム、ロンディニウム、ウェルラミウムの3つのローマ植民都市を攻め落として、市民7万人以上を殺戮。スエトニウスはモナ島の反乱から引き返して、ワトリング街道の戦いでブーティカの軍勢23万を打ち破る。ブーディカは敗戦後自殺したとも言われる。反乱は失敗に終わるが、スエトニウスの強権支配は批判され、皇帝ネロの宥和政策導入とも相まってスエトニウスは更迭。以後、ブリタンニア支配は穏健的な政策に変わった。
    64年
    7月19日ローマ大火。市内の大半を焼き尽くす。ネロが焼け跡に宮殿を立てたためにネロの仕業という噂が流れ、ネロはキリスト教徒を放火の罪で弾圧する。
    66年
    第一次ユダヤ戦争勃発。
    68年
    6月 9日ローマ帝国皇帝ネロが元老院から公敵の宣告を受け自殺する。
    70年
    4月14日ローマ軍によるエルサレム攻囲戦が始まる。
    9月 7日ローマ軍がエルサレムを陥落する。市街地やエルサレム神殿も徹底的に破壊された。ユダヤ戦争は事実上終結し、一部がマサダ要塞へと逃げ込み抵抗を続ける。これ以降、ユダヤ人は国を失い、各地へと離散していくことになる。
    73年
    5月 2日マサダ要塞の籠城戦が終わり、ユダヤ戦争が完全に終結する。
    79年
    8月24日イタリア中南部ナポリ近郊にある活火山のヴェスヴィオ山が大噴火を起こし、火砕流や大量の灰などで麓にあったポンペイやヘルクラネウムなどの都市が壊滅する。艦隊指揮官のガイウス・プリニウス・セクンドゥスは救援に向かってガスにまかれて死亡し、その状況を、甥の文人政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが、歴史家タキトゥスに伝えたことから、後世に詳しく残された。
    97年
    (永元9年)西域都護の班超が甘英を西の大秦に派遣。甘英は條支国を経て、大海の沿岸までくるが、安息国の西境の船乗りに大秦までの船旅の困難さを説かれて断念し帰国。大秦はローマ帝国、安息国はアルサケス朝パルティアとみられる。條支国については不明。大海はペルシャ湾・カスピ海・地中海など諸説ある。
    115年
    各地のユダヤ人が反乱を起こす(キトス戦争)。これを第二次ユダヤ戦争と称する場合もある。
    132年
    ローマ皇帝ハドリアヌスの政策に反発したユダヤ人が反乱(バル・コクバの乱:第二次ユダヤ戦争)。シメオン・バル・コクバというメシア(救世主)を称した人物が起こした反乱。エルサレムの再建に際して、かつてのユダヤの神殿あとにユピテル神殿を作るという計画と、割礼を禁止するという勅令が反乱の大きな要因。キトス戦争を含めた場合は、第三次ユダヤ戦争と称する。
    135年
    ローマ軍がエルサレムを占領。バル・コクバは戦死し反乱は終結。またハドリアヌス帝は、ユダヤ的なものをなくすため、ユダヤ暦を廃止し、かつての王都エルサレムをアエリア・カピトリーナと改名し、ユダヤ人が入ることを禁止。ユダの地という意味のユダヤ属州の名称も廃止して、かつてユダヤ人と対立したペリシテ人の地という意味で、シリア=パレスチナ属州と改めた。このため、ユダヤ人の離散がさらに拡大した。
    140~190年頃
    倭国で大乱が続いたが、その関係者らが後に、共に卑弥呼という女性を王に立てることで収束させたと言われる。
    160年
    倭国王帥升等が生口160人を後漢朝廷に献上し、安帝の謁見を求める。後漢書の記載を書写した諸書物から、倭面上国王、倭面土国王という説もある。生口とは捕虜あるいは奴隷という説が有力。
    166年
    大秦国王の安敦から後漢の交州日南郡に使者が至り、象牙・犀角・玳瑁などを献上する。大秦国はローマ帝国、安敦はアントニヌスの音訳とみられるため、15代皇帝アントニヌス・ピウス、16代皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスなどが考えられるが、ローマ帝国の正式な使者だったかは不明。
    181年
    ニュージーランド北島のオルアヌイ火山が大噴火し、カルデラを形成。現在のタウポ湖。
    184年
    4月 2日(光和7年 3月 5日)太平道の教組張角らが中国各地で36万人ともいわれる兵で武装蜂起。黄巾の乱が勃発。各地の役所などを襲う。
    (光和7年10月)このころ張角が病死し、主要幹部も戦死したため、組織的反乱は終息へ向かう。しかし以後も地域反乱は頻発することに。12月に中平元年に改元。
    185年
    超新星SN185が観測されたことが中国の記録に見られる。ケンタウルス座の3,300光年離れた星。記録に残る最古の超新星。
    187年
    張純の乱。黄巾の乱の混乱を受けて、元中山太守の張純と烏丸大人の丘力居らが幽州で挙兵。華北各地を席巻する。朝廷は公孫瓚に討伐を命じるが、平定できなかったため、劉虞に討伐を命じ、劉虞は丘力居を降伏させる。
    188年
    (中平5年10月)霊帝直属の西園八校尉(近衛軍司令官)を設置する。宦官(小黄門)の蹇碩を上軍校尉とし、その下に、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎校尉の鮑鴻を下軍校尉、議郎の曹操を典軍校尉、趙融と馮芳を助軍校尉、夏牟と淳于瓊を左右校尉とするもの。
    189年
    (中平6年 3月)鮮卑へ逃亡した張純が暗殺され、張純の乱は平定。
    (中平6年 8月~9月)専横を極める宦官勢力を討伐するため、袁紹が宮中に乗り込むが、その混乱に乗じて皇帝を手に入れた董卓が権力を掌握。
    190年
    (初平元年 2月頃)群雄諸侯による反董卓連合が結成される。しかし群雄同士の駆け引きにより一向に行動に移さず。
    192年
    5月22日(初平3年 4月23日)董卓が呂布に殺される。呂布、王允、士孫瑞、李粛らによる謀反。
    194年
    (興平元年)曹操が徐州へ出兵している間に、張超と陳宮が張邈を引き入れて反旗を翻し、呂布を迎え入れる。荀彧と夏侯惇が死守している間に、曹操は急遽引き返し、呂布と対戦。
    195年
    (興平2年12月)曹操が雍丘を攻め落とし、張超らが自殺し、曹操側の勝利で終結する。
    196年
    (建安元年 8月)曹操が献帝を自らの支配地域である許(のち許昌)に迎え入れる。
    200年
    (建安5年 2月)袁紹幕下の陳琳が檄文を記して曹操を誹謗し、袁紹対曹操の官渡の戦いが始まる。
    (建安5年 4月)曹操軍の関羽が白馬津で袁紹軍の顔良を斬り、さらに荀攸の献策で曹操軍は文醜軍を撃破。曹操軍の于禁と楽進は黄河を渡河し、北岸の袁紹軍の拠点を焼き払って退却する。
    (建安5年 8月)官渡まで退いた曹操軍に対し、袁紹軍が東西数十里に渡って陣を築き、総攻撃をかける。さらに曹操の本拠地である許周辺でも袁紹側に寝返る勢力が相次ぐ。曹操は許への退却を検討するが荀彧に諌められる。
    (建安5年10月)袁紹幕下の許攸が、袁紹を裏切って曹操に投降。烏巣にある袁紹軍の食料備蓄陣地の場所を教え、曹操自ら兵を率いて襲撃し焼き払う。その対応をめぐり袁紹軍内部で意見が対立し、張郃と高覧が曹操に投降。袁紹軍は撤退。官渡の戦いは終結する。
    205年
    (建安10年)袁紹と対立していた黒山賊の張燕が曹操に降伏する。張燕は平北将軍となる。
    207年
    (建安12年)袁熙と袁尚兄弟が烏桓王と組んで柳城で曹操と戦い敗れる。袁氏兄弟は遼東の公孫康のもとへ逃れる。
    (建安12年 9月)袁熙と袁尚兄弟が公孫康に殺害され、公孫康は曹操に降る。華北全域から遼東にかけてが曹操の勢力下に置かれる。
    208年
    (建安13年 9月)劉琮が曹操に降伏し、荊州は曹操の支配下となる。
    12月15日(建安13年11月20日)赤壁の戦い。朝廷の実力者で中原を支配する曹操の水軍と、長江流域の地域軍閥である孫権・劉備の連合軍が戦い、孫権側が勝利。孫権側の火攻めと疫病の流行も勝敗を決した理由とされる。
    211年
    (建安16年 3月)曹操が漢中の張魯討伐を名目に、その手前にある関中へ進出。韓遂、馬超ら関中の各軍閥と対峙。
    (建安16年 7月)曹操と馬超らが潼関で衝突。曹操も危うく殺されかけるが、軍を大きく迂回して黄河を渡る。
    (建安16年 9月)曹操が渭水を渡河し、離間策を企て韓遂・馬超に個別会談を持ちかける。韓遂と馬超は疑心暗鬼に囚われ分裂。曹操軍に敗北を喫する。
    213年
    (建安18年)曹操が臣下としては異例の魏公となる。本来は皇族のみが認められた地位。
    214年
    (建安19年)合肥の戦い。孫権が兵力10万で合肥へ侵攻。対する守将の張遼・李典・楽進と護軍の薛悌は7000の兵力しかなかったが、張遼が寡兵で孫権の陣へ突撃するなどして打ち破り、また揚州刺史劉馥が事前に準備していた物資のお陰で持ちこたえ、孫権軍は退却。
    (建安19年)献帝の伏后が廃される
    215年
    (建安20年)漢中の張魯が曹操に降伏。張魯を教祖とする五斗米道はその後各地へ広がり、のちに道教へと発展する。
    216年
    (建安21年)曹操が劉氏皇族以外では前漢初期を除いてほとんど例のない王位を与えられ、魏王となり、漢帝国内に魏国を興す。夏侯惇を除き曹操の家臣も魏の官職を与えられ魏臣となる(夏侯惇は曹操によって同列であるという特別扱いをうけ漢臣のままであった)。
    217年
    (建安22年)この年、中国では疫病が流行。罹患した司馬朗は兵士を救うために自分の薬を分け与えたため、死亡したと言われる。また建安七子の王粲、応瑒、徐幹、陳琳、劉楨らはほぼ同時期にこの疫病で死亡した。この疫病かは不明だが、呉でも魯粛が同時期に病死している。
    219年
    (建安24年)漢中の定軍山で曹操軍と劉備軍が衝突し、曹操軍の総指揮官だった夏侯淵が戦死。劉備が漢中を制圧する。
    220年
    3月15日(建安25年 1月23日)後漢の丞相で魏王だった曹操が死去し、曹丕が魏王位と丞相を継ぐ。
    12月11日(建安25年10月29日)曹丕が献帝からの禅譲を受け、皇帝(魏文帝)となり、魏帝国を建国。年号は黄初と改められる。献帝は山陽公に封ぜられる。
    221年
    5月14日(章武元年 4月 6日)劉備が蜀の皇帝に即位。蜀漢の昭烈皇帝。
    7月劉備が、関羽の復仇のため、呉に侵攻する(夷陵の戦い)。
    222年
    6月 (章武2年)呉の陸遜が呉軍を率いて長江を遡上し蜀の陣営に放火。蜀の多くの武官文官が戦死し、劉備は白帝城へ退却する。長江北岸にいた蜀将の黄権は退路を失い、魏に降伏。
    223年
    6月10日(章武3年 4月24日)劉備、白帝城で病没。劉禅があとを継いで即位する。
    228年
    (魏の太和2年・蜀の建興6年)街亭の戦い。蜀による第一次北伐で5回の北伐では最大の軍事作戦だったが、馬謖の作戦ミスから魏軍に大敗を喫し退却した。戦後、総司令官だった諸葛亮は自身を含む関係者を降格処分にし、愛弟子の馬謖を処刑した。「泣いて馬謖を斬る」の故事。
    234年
    (魏の青龍2年・蜀の建興12年)五丈原の戦い。蜀の第5次北伐戦だったが、魏の司馬懿は防衛に徹したため両軍対峙のまま、8月になって蜀の総司令官だった諸葛亮が病没し退却を余儀なくされた。追撃に出た司馬懿が蜀軍の反攻に驚いて退却し「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言われたとされる。一方で司馬懿は諸葛亮の北進を阻止した功績もあり、魏の要人として権力を掴んでいくことになる。
    238年
    (魏の景初2年 6月?)邪馬台国の使者難升米と都市牛利が魏へ赴く。公孫淵が滅び通行が可能になったことで魏へ赴いたと考えられることから、6月ではまだ遼東の戦役は終わっていないため、景初3年の誤りとする説もある(公孫淵は遼東戦役の途中から戦意を喪失しているため通行許可が降りた可能性もある)。皇帝(景初3年1月に病没した明帝曹叡か、次の曹芳)によって、卑弥呼に親魏倭王の印が贈られたという。
    (魏の景初2年・燕の紹漢2年 8月23日)魏の司馬懿が遼東を支配する燕王公孫淵を滅ぼす。
    241年
    (魏の正始2年・呉の赤烏4年)芍陂の戦い。呉の孫権が、揚州と荊州の4路方面から魏に侵攻。全琮が淮南、諸葛恪が六安、朱然が樊城、諸葛瑾が柤中を攻撃。また蜀にも出兵を求める。しかし淮南で魏の孫礼と王凌に敗れ揚州方面から撤退。樊城では籠城戦となるが、魏の胡質が抗戦し、司馬懿が援軍に来たうえ、蜀も出兵しなかったため、呉軍は荊州攻勢も断念。撤退中に追撃を受け大敗を喫する。
    244年
    2月11日ミシケの戦い。サーサーン朝とローマ帝国の戦い。ローマ皇帝ゴルディアヌス3世が戦死。暗殺説もある。
    (魏の正始5年・蜀の延熙7年)興勢の戦い。魏の有力者曹爽が、司馬懿に対抗するため、自らの軍歴を積もうと蜀出兵を計画。蜀の蔣琬が主力軍を引いたのを機に、10万の兵で攻め込む。しかし蜀将王平が興勢山まで迎撃に出て打ち破り、さらに費褘の援軍が到着したため、魏軍は撤退。
    248年
    (呉の赤烏11年)交州の九真で趙氏貞と兄の趙国達らが呉に対し反乱を起こす。交州刺史陸胤によって鎮圧される。
    249年
    (魏の正始10年 1月 6日)高平陵の変。魏の有力者司馬懿が病身を偽ったことで安堵した曹爽一派が、皇帝曹芳とともに先帝曹叡の高平陵を参拝して都洛陽を離れている間に、司馬懿がクーデターを決行。郭太后の勅を得て洛陽を制圧。洛水に陣を張り使者を送って曹爽らを説得。それを信じた曹爽らが降伏する。
    (魏の正始10年 1月10日)先の政変で捕らえられた曹爽一派が、謀反を企図していたとしてことごとく処刑が決定する。司馬懿が事実上の最高権力者となる。
    251年
    7月 1日アブリットゥスの戦い。ゴート族らゲルマニア人がローマ帝国領内に侵攻し、ローマ皇帝デキウスと息子で共同統治者ヘレンニウスが戦死し、ゴート族が大勝利をおさめる。
    9月 7日(魏の嘉平3年 8月 5日)魏の最高権力者である司馬懿が死去。司馬師が後を継ぐ。
    252年
    (魏の嘉平4年・呉の神鳳1年 4月)呉の初代皇帝孫権が死去。
    (魏の嘉平4年・呉の建興1年12月)東興の戦い。孫権の死を好機と捉えた魏は、司馬師主導のもと諸葛誕、胡遵、王昶、毌丘倹らに呉へ出兵させる。これを予期していた呉の諸葛恪は、巣湖の東興堤を強化。これを全端と留略が防衛し、さらに丁奉が魏軍に急襲をかけたため、魏軍は大敗する。しかしこの戦いで勝利した諸葛恪は権力を謳歌して呉に混乱を招き、敗れた司馬師は自ら敗戦の責任を表明して誰も罪に問わなかったため、支持を得ることになる。
    256年
    (魏の甘露元年・蜀の延熙19年)段谷の戦い。蜀の姜維が魏を攻めるが味方との連携が取れず魏の鄧艾に大敗を喫す。蜀将多数が戦死し多くの兵を失ったため、以後、姜維は戦線を漢城・楽城まで後退させて専守防衛に徹することになる。
    259年
    エデッサの戦い。ローマ帝国とサーサーン朝との戦い。ローマ側が大敗し、皇帝ウァレリアヌスが捕虜となりペルシアへ連行される(間もなく死去したとも)。これをうけて共同皇帝ガッリエヌスが単独皇帝となるが、ローマ帝国の権威は失墜。各地で皇帝僭称者が相次ぎ、「三十人僭帝」と呼ばれる時代に入る。
    260年
    6月 2日(甘露5年 5月 7日)魏の第4代皇帝曹髦が司馬昭の排除を企て、李昭・焦伯ら数百人と蜂起。王業・王沈の密告で事態を知った賈充が待ち構え、その命令で成済が曹髦を殺害。成済一族も皇帝弑逆の罪を着せられ処刑される。
    ローマ帝国の将軍マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが、ローマ皇帝を僭称し、帝国属州のガリア、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニアを領域として事実上独立。いわゆるガリア帝国。
    261年
    サーサーン朝の王シャープール1世が、ローマ帝国の弱体化を見て、ローマ領への侵攻を開始するも、東方属州の総司令官セプティミウス・オダエナトゥスに大敗。
    263年
    (魏の景元4年・蜀の炎興元年)夏から秋にかけて魏は鐘会・鄧艾・諸葛緒ら18万の軍勢で蜀に攻め込み、剣閣で姜維が防衛している間に迂回した鄧艾が成都へ向けて進撃。蜀帝劉禅は降伏。蜀が滅亡する。
    264年
    (景元5年・咸熙元年)蜀で鐘会と姜維が組んで反乱を起こすも失敗に終わる。鐘会と姜維は殺され、またこの反乱に巻き込まれて鄧艾・張翼ら魏将、劉禅の子で蜀の太子だった劉璿、関羽の孫の関彝ら多数が殺害される。
    266年
    3月10日(泰始2年 1月17日)魏の滅亡・晋の建国。魏の晋王司馬炎が、第5代元帝曹奐から禅譲を受け、晋を建国、魏が滅亡。
    曹操の時代から続いた屯田制が廃止される。代わりに280年ころから占田・課田制が導入されることになるが、実態は不明。
    267年
    ローマ帝国東方属州の司令長官だったセプティミウス・オダエナトゥスが暗殺される。妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを後継者にし自ら後見人として実権を握る。パルミラ王国として事実上の独立。
    268年
    晋が泰始律令を制定。初めて律と令を区分した法令。
    269年
    2月14日ローマの司祭ウァレンティヌスが処刑される。皇帝クラウディウス・ゴティクスが決めた兵士の結婚禁止を破って式を挙げさせたため。聖バレンタインデーの由来のひとつとされる。ウァレンティヌスの実在性については諸説ある。
    270年
    西晋の秦州で鮮卑禿髪部の樹機能が反乱を起こす。万斛堆の戦いで秦州刺史胡烈を敗死させ、反乱は雍州・涼州へも拡大。
    271年
    ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがパルミラの支配域へ攻略に乗り出す。ウァバッラトゥスは戦死。ゼノビアはパルミラ市へ敗走。
    呉が西晋の支配下にあった交州を制圧する。
    272年
    西陵の戦い。呉の西陵督である歩闡が西晋に寝返ったため、呉の将軍陸抗がこれを攻め滅ぼす。
    273年
    ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがパルミラ市を包囲攻撃し、ゼノビアは捕らえられ、パルミア王国は崩壊。
    274年
    ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがガリア帝国攻略に乗り出す。シャロンの戦いで、ガリア側が敗北。テトリクス1世が捕虜となり、ガリア帝国も崩壊。ローマ帝国に再統一される。
    275年
    ローマ帝国皇帝アウレリアヌスがサーサーン朝遠征の途上、秘書官や将軍らの企てた陰謀で暗殺される。
    277年
    西晋の将軍文鴦によって樹機能の反乱は一旦鎮圧される。
    278年
    若羅抜能が樹機能と再び反乱を起こす。西晋は軍の主力を呉の攻略戦に振り向けていたため、馬隆を派遣してこれを鎮圧させる。樹機能は部下の没骨能によって殺害される。10年続いた反乱は平定されたが、西晋の呉攻略計画は大幅に遅延した。
    279年
    (天紀3年)夏、呉の合浦太守脩允の部下だった郭馬が呉に対して広州で反乱を起こす。郭馬の乱、広州の乱ともいう。反乱は蒼梧郡・始興郡に拡大。呉は滕脩・陶璜・陶濬らに鎮圧を命じるがうまく行かないうちに晋の呉侵攻が始まる。
    (咸寧5年)西晋の司馬炎は、前年に亡くなった羊祜が推し進め、樹機能の反乱で大幅に遅れていた呉の攻略戦を開始。賈充は慎重論を説いて反対したが司馬炎は親征を匂わすことで賈充を半強制的に大都督にし、楊済を副将として、王濬と唐彬は水軍を率いて蜀から長江を下り、司馬炎の叔父の司馬伷は下邳から呉の都建業を目指して南下、王渾は寿春から建業を目指し、王戎は項城より武昌へ、胡奮は江夏から夏口へ、杜預は襄陽から江陵へそれぞれ進軍。
    280年
    (太康元年 1月)晋の王渾軍が長江の対岸から渡河して首都建業へ攻略の構えを見せたため、呉の皇帝孫皓は、張悌、沈瑩、孫震らを迎撃に向かわせるが大敗して呉軍は潰滅。
    (太康元年 2月)晋の王渾軍、司馬伷軍が建業周辺を制圧して孫皓に圧力を加える一方、王濬と唐彬の水軍は長江中流域の江陵まで進出、胡奮は夏口・江安を攻略、杜預は長江を横断して荊州南部を攻略。呉は建平太守吾彦のみが唯一維持している状態となる。
    5月 1日(太康元年 3月15日)晋の各攻略軍が建業を包囲、呉軍からは降伏が相次ぎ、呉の皇帝孫皓は降伏し呉は滅亡。西晋によって中国が統一される。三国時代の終焉。
    285年
    遼東の鮮卑慕容部の後継に慕容廆が就く。まもなく庶兄で分家した慕容吐谷渾との間で馬をめぐる紛争が起きる。慕容廆は和解を申し出たが吐谷渾は争いを避けるため故地を捨てて部衆を率い西へと向かう。慕容廆の子孫は勢力を拡大して前燕となり、慕容吐谷渾は遙か西方の甘松(青海)まで移り、子孫は同地に吐谷渾国を興した。
    290年
    5月16日(太熙元年 4月20日)晋の初代皇帝司馬炎が死去。皇太子司馬衷が即位(恵帝)。司馬衷の母親の一族である楊駿が権力を握る。
    291年
    (永平元年 3月)晋恵帝の后である賈南風が楚王・東安王らと組んで楊駿とその三族を殺害。八王の乱の始まり。
    293年
    ローマ皇帝ディオクレティアヌスが4人の東西正副皇帝によってローマ帝国の分割統治を行うテトラルキアを導入。ローマ帝国が分裂したわけではなく、便宜的に帝国を4人で分担した形。
    297年
    (元康7年)『三国志』の著者陳寿が死去。
    (元康7年)この年、李特が10万もの人民を連れて渭水上流から漢中を経て蜀へ移住する。
    300年
    (永康元年 4月)趙王司馬倫がクーデターを起こし、晋恵帝の后である賈南風、甥の賈謐ら賈一族が処刑される。また司馬倫と不仲であった張華らも処刑される(張華は元康年間に政権を担った人物で多くの人材を推挙。呉の生まれである文人政治家の陸機・陸雲兄弟を登用し、『三国志』の著者陳寿も孝廉に推挙されている)。
    (永康元年 8月)恵帝の弟淮南王司馬允が司馬倫に警戒されたことから石崇・潘岳らと挙兵するも敗死。司馬倫が九錫を授けられる。
    301年
    (永康2年 1月)司馬倫が恵帝に迫って退位させ、自ら即位。年号を建始とし、皇太孫である司馬臧を濮陽王に落としたうえで殺害。自分の気に入った人物に官位を乱発するなどしたため、他の皇族や朝臣らの反発を買う。
    (建始元年 4月)斉王司馬冏・長沙王司馬乂・成都王司馬穎らが挙兵。司馬倫は恵帝を復位させて自らは謹慎するが許されず、側近の孫秀らとともに殺害される。斉王司馬冏が実権を掌握。
    9月 3日現存する世界最古の共和国と言われるサンマリノが建国。ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教徒の迫害から逃れた石工マリヌス(聖マリノ)が、イタリア半島中部のティターノ山に籠り、キリスト教徒たちの共同体を作ったとされる。
    302年
    (永寧2年 5月)李特が大将軍・益州牧を自称。晋書などではこの年、年号を建初と改める(もしくは翌年)。実質上の成漢の建国。
    (永寧2年12月)斉王司馬冏が長沙王司馬乂・成都王司馬穎・河間王司馬顒らに殺害される。年号を太安と改める。
    303年
    (大安2年/建初2年 3月)李特が成都へ侵攻するが羅尚に敗死する。弟の李流が後を継ぎ、さらに李特の子の李雄が後を継いで羅尚と戦う。
    (大安2年 8月)司馬乂と対立した司馬穎・司馬顒らが挙兵し、陸機が指揮をとって司馬乂を攻めるが大敗。一方司馬乂も洛陽に籠城するが、東海王司馬越に捕らえられ処刑される。司馬穎は、陸機に恨みを持っていた宦官の孟玖らの進言で陸機と陸雲の兄弟及びその一族を敗戦の罪でことごとく処刑。しかしこれが世論の反発を買ったため、孟玖を処刑せざるを得なくなる。
    304年
    1月21日ローマ帝国によって13歳の聖アグネスが処刑される。帝国の長官センプロニウスの息子との結婚を宗教的理由で拒絶したため。
    (永安元年 7月)東海王司馬越・予章王司馬熾らが晋恵帝を擁して挙兵。蕩陰の戦いで司馬穎の軍に敗れる。
    (永安元年 8月)東海王司馬越・予章王司馬熾らを支持した幽州都督王浚・并州刺史司馬騰らが挙兵し司馬穎を打ち破る。司馬越、司馬熾を皇太弟とする。
    (建武元年10月)南匈奴の単于の家柄出身で、司馬穎と手を組んでいた劉淵が河西一帯で自立。国号を漢と称して建国。晋と激しく対立。五胡十六国の先駆け。
    (建初2年10月)李雄が成都王を自称し、年号を建興とする。
    306年
    (永興3年 2月)劉柏根と王弥が挙兵。
    (永興3年 5月)司馬越ら、長安を手中に収め、司馬穎ら殺害される。
    (建興3年 6月)李雄が皇帝に即位し、国号を大成と称する。成漢の建国。
    (永興3年12月)河間王司馬顒も殺害され、八王の乱はほぼ終息する。
    307年
    1月 8日(光熙元年11月18日)晋恵帝司馬衷が死去(病死とも暗殺とも言われる)。司馬熾が即位(懐帝)。事実上の司馬越政権が樹立。司馬越は残った皇族を各地に配して政権の安定化に務める。
    308年
    (永嘉2年 3月)王弥が河東一帯を攻略して許昌を制圧。洛陽に迫る勢いとなる。
    (永嘉2年 6月)司馬越が宮中に入り、懐帝の親族や側近を粛清。
    (元熙5年10月)劉淵が皇帝を称する。国号は漢(のち趙)。永鳳と改元。
    310年
    8月19日(河瑞2年 7月 8日)劉淵が死去。劉和が後を継ぐ。劉和は兵権を持つ異母弟劉聡を排除しようとして失敗し、逆に殺害される。劉聡が即位。
    311年
    (永嘉5年 1月)懐帝が苟晞に司馬越討伐の密詔を出し司馬越は軍を率いて洛陽を離れる。
    (永嘉5年 3月)復権を図ろうとしていた司馬越が項城で病死。その葬列のために集結した司馬越の一族や部下とその軍勢に対し、漢(劉淵)の将軍となっていた石勒の軍勢が襲いかかり、皇族ら100人余りを殺害し、その兵10万を壊滅させる。この事件で晋の軍事力は大幅に低下。
    劉聡・石勒・王弥らが洛陽へ向けて進軍、蒙城で苟晞の軍勢を破る。
    (永嘉5年 6月)洛陽が陥落し、晋懐帝は捕らえられ平陽へ連行され、3万人以上が殺害される。
    313年
    3月14日(永嘉7年 2月 1日)懐帝が処刑される。生き延びていた甥の司馬鄴が長安で即位(愍帝)。しかしその支配域は長安とその周辺のみとなる。
    316年
    (建興4年11月)劉曜の軍勢に長安を包囲されていた愍帝が降伏し、平陽へ連行される。
    318年
    2月 7日(建興5年12月20日)晋愍帝が処刑される。西晋は滅亡。江南の建業に派遣されていた丞相・大都督中外諸軍事の司馬睿が即位して晋王朝を興す(東晋)。
    324年
    ローマ帝国西方正帝コンスタンティヌス1世が他の勢力を打ち破って「唯一の正帝」となりテトラルキア(分割統治)が終了。しかし分割統治の影響は残り、コンスタンティヌス1世が死ぬと再びテトラルキアが復活する。
    325年
    5月20日第一ニカイア公会議がはじまる。6月19日まで。キリスト教で最初の全教会会議。ユダヤ教の一派として誕生し、各地で徐々に教義や教典が定まっていたキリスト教は、地域によって多種多様な流派に分裂していた。特にイエスの神性について被造物として否定的な主張をしているとされたアリウス派に対する扱いが論争となった。アリウス派は破門される。
    326年
    この年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母親フラウィア・ユリア・ヘレナが、エルサレムを訪れてヴィーナス神殿をゴルゴダの丘と特定し、そこでキリストを磔にしたときの十字架を含む3つの十字架と聖釘を発見したとされる(2つはキリストと同時に処刑された2人の盗賊の十字架)。ヘレナはロンギヌスの槍も見つけたという伝説もある。同地はその後、聖墳墓教会となった。
    (仁徳天皇14年)日本書紀に、猪甘津(いかいつ)に橋を架けたという記録がある。記録上では日本最古の架橋。西暦については計算上による。猪甘津は、現在の大阪市生野区桃谷付近。当時上町台地は河内湾の半島で、百済川河口付近に津(港)があったと考えられる。
    330年
    5月11日ローマ帝国によって建設されたコンスタンティノポリスが開都する。
    336年
    12月25日ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ローマのミトラ教の冬至祭の日25日をイエス・キリスト生誕の日と定めたとされる。クリスマスの原点の一つ。
    345年
    12月 6日ミラのニコラオスが死去。貧窮者や冤罪で処刑されかけている人を救い、サンタクロースのモデルとされる人。352年という説も。
    346年
    百済第13代の王に近肖古王が即位。新羅と同盟し、高句麗を撃破し、東晋に朝貢。倭にも使者を送ったことで中国や古事記、日本書紀にも記載のある人物。これより以前の王は記録に乏しい。
    347年
    東晋の桓温が蜀にあった「成漢」を攻め滅ぼす。桓温の名声が高まり権力を強める。
    351年
    4月後趙の将軍だった劉顕が冉閔討伐の遠征に失敗したことから、密かに冉閔に降伏して、後趙に戻ったあと後趙の君主石祗を始め、丞相楽安王の石炳、太宰の趙庶らを殺害して襄国を手中に収める。後趙は事実上滅亡。
    7月襄国の劉顕が冉閔からの独立を企てる。
    352年
    1月冉閔が、常山に侵攻した襄国の劉顕を撃破し、そのまま襄国まで侵攻。劉顕らは捕えられて処刑され滅亡。この混乱に乗じて後趙の将軍だった段勤が繹幕で独立。趙帝を称する。
    11月華北へと勢力を拡大した前燕の第2代王慕容儁が、皇帝に即位。東晋からは独立。
    356年
    新羅の王に奈勿尼師今が即位。初めて記録に現れる『秦書』に377年に前秦に朝貢使節を送った新羅の王が彼とみられるため、史実の「新羅」と称した初代王か、初期の王という説もある。
    367年
    (仲哀9年3月)筑紫に遠征していた神功皇后が、山門(筑後国山門郡)の土蜘蛛の女領主田油津媛を誅殺したとされる。土蜘蛛とは大和朝廷に従わなかった各地の在地勢力の総称。田油津媛は卑弥呼の子孫という説もあるが定かではない。史実とした場合の西暦には諸説あり。
    378年
    8月 9日ハドリアノポリスの戦いで、ローマ帝国軍が西ゴート諸族に敗北、皇帝ウァレンスも戦死する。
    381年
    第一コンスタンティノポリス公会議が始まる。ニカイア公会議に続く2回めの公会議で、前回同様アリウス派に対する問題が論議された。ニカイア・コンスタンティノポリス信条が定められる。
    393年
    超新星SN393が観測されたことが中国の記録に見られる。さそり座の方角にある星と考えられ、超新星残骸とされるRX J1713.7-3946がこれに該当すると考えられている。
    ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が古代オリンピックを廃止。
    395年
    1月17日ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が死去。長男アルカディウスを東の正帝とし、次男ホノリウスを西の正帝として分担統治させたことから、これをもって東西ローマ帝国に分裂したとする場合もある。
    404年
    アルメニア人のメスロプ・マシュトツが、アルメニア文字を考案する。布教のためとも言われる。
    405年
    (義熙元年 2月)東晋の益州刺史毛璩が出した桓振討伐の出兵命令に反発した蜀の兵らが安西府参軍で巴西梓潼二郡太守の譙縦を擁立して反乱。毛璩を殺して成都を占領し、譙縦は成都王を称する。後蜀の建国。
    407年
    ローマ帝国がブリタンニアから撤退。ブリテン島はブリトン人の小王国が乱立する時代へと移っていく。
    410年
    8月24日アラリック1世率いる西ゴート族4万の兵がローマに侵攻。3日間に渡り、暴行・略奪が繰り広げられる。その後もアラリック1世の軍勢はイタリア半島南部まで侵攻。古代都市ローマはすでに帝国首都ではなかったが、ローマに侵攻されたこと自体大事件であった。
    413年
    (義熙9年)この年、倭王讃が東晋に朝貢。
    415年
    3月アレクサンドリア図書館の女性科学者ヒュパティアが、キリスト教徒の手で惨殺される。異教徒に対する強硬派だったアレクサンドリア総主教キュリロスが関わっていたとされる。
    416年?
    8月22日(允恭5年7月14日)『日本書紀』に地震が起こったとある(日本の最古の記録。ただし年代は正確ではない)。地震のあと、允恭天皇は、反正天皇の殯(葬儀)を命じていた玉田宿禰の様子を尾張連吾襲に殯宮まで確認に行かせたところ、玉田宿禰はおらず、別のところで酒宴を開いていた。発覚を恐れた玉田宿禰は尾張連吾襲を殺害。允恭天皇は玉田宿禰を呼び出し、武装しているのを確認すると、兵を出してこれを捕らえ誅殺した。
    423年
    (永初2年)この年、倭王讃が宋に朝貢し、武帝より称号を与えられる。
    425年
    (元嘉2年)この年、倭王讃が宋に司馬の曹達を派遣する。
    430年
    (元嘉7年)この年、倭王が宋に朝貢。
    この頃、東北から関東にかけての太平洋岸で大規模な地震と大津波があったとみられる。
    431年
    エフェソス公会議が開催される。キュリロス派とネストリオス派の対立。
    438年
    (元嘉15年)この年、倭王珍が宋に朝貢。自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し承認を求める。
    (元嘉15年 4月)宋の文帝、倭王珍を安東将軍倭国王に任ずる。また珍の求めに応じ、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍とする。
    443年
    (元嘉20年)この年、倭王済が宋に朝貢。安東将軍倭国王に任ぜられる。
    449年
    エフェソス強盗会議。キリスト教内部の宗派対立で開かれた公会議のひとつ。
    451年
    6月20日カタラウヌムの戦い。アッティラ率いるフン族・東ゴート族・ゲピド族などのゲルマン諸族の軍勢と、西ローマ帝国・西ゴート族・アラン族などが衝突。双方大損害を出し、アッティラは撤退。ローマ帝国の勢力も弱体化して、ゲルマン諸族が拡大する。
    (元嘉28年)この年、倭王済、宋文帝から安東将軍に追加して「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。
    10月 8日カルケドン公会議が始まる。イエス・キリストの単性説を排除し、神性と人性がともにある両性説を採用する。
    (元嘉28年 7月)倭王済、安東大将軍に進号する。
    460年
    (大明4年)この年、倭王が宋に朝貢。
    462年
    (大明6年 3月)この年、宋の孝武帝、倭国王済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
    476年
    9月 4日西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン族の将軍オドアケルによって退位させられ、西ローマ帝国が滅亡。まだ年少だったロムルスは殺されず、恩給をもらい隠棲。ロムルスを帝位につけた、彼の父親オレステスは殺される。
    477年
    この年、倭王興が没し、その弟武が後を継ぐ。武、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称する。
    (昇明元年11月)倭王(武?)、宋に使者を送る。
    478年
    (昇明2年)倭王武、宋に上表して自ら開府儀同三司(府を開くことのできる三公(太尉・司徒・司空)と同じ扱いとするの意味)と称し叙正を求める。これに対し宋の順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。
    479年
    (建元元年)宋の斉王蕭道成が禅譲により即位し(高帝)、南斉を興す。高帝、倭王武を鎮東大将軍(征東将軍)とする。
    481年
    クローヴィス1世によってフランク人国家が統一される。メロヴィング朝フランク王国の成立。
    482年
    (清寧天皇3年3月~4月頃)富士山が噴火し、熱い灰が降り、五穀が実らなかったという。年代の正確性は不明。
    495年
    この年、中国の南朝斉で天然痘と見られる疫病が流行する。
    500年代前半
    現在の超新星残骸ベラ・ジュニアを生み出したとみられる超新星爆発が発生。650光年以上離れているため、地球上で観測されたのは1200年ころ。
    502年
    (天監元年)南斉の皇族である蕭衍が梁王朝を樹立(武帝)、倭王武を征東大将軍とする。
    515年
    (延昌4年6月)北魏で大乗の乱が起きる。冀州の仏教徒の法慶が李帰伯らと反乱。下生信仰(遠い未来に現れるはずの弥勒菩薩がまもなく現れるので世の中を変革すべきという終末論)を唱え、信徒5万人を率い、役所や仏教寺院などを攻撃。撫軍将軍・冀州刺史の蕭宝寅(もと南朝斉の皇族)の討伐軍を破るなどしたが、7月、征北大将軍の元遥の率いる援軍によって鎮圧される。
    525年
    ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、ローマ教皇ヨハネス1世の要請で、復活祭暦表を改定するため、ディオクレティアヌス紀元暦に代わる紀元歴として、キリスト暦(西暦)を定める。実際に普及するのは15世紀ころから。ディオクレティアヌス紀元暦は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教徒を迫害したことから、その殉教を記念して、皇帝の即位を1年とするキリスト教徒らが用いた暦。
    この頃、榛名山二ッ岳が大規模噴火。遺跡などから火砕流が麓に到達して人的被害がでたと見られる。この時代、榛名山は頻繁に噴火していたと見られる。
    528年
    4月河陰の変。北魏の有力者爾朱栄が長楽王元子攸を擁立し、軍を率いて洛陽に侵攻。政治を専横していた胡太后と、彼女が擁立した幼帝の元釗を捕らえると黄河に沈めて溺死させ、さらに皇族の諸王や朝臣ら2000人余りを殺害した政変。
    12月 7日(継体天皇22年11月11日)磐井の乱が終結。筑紫国造磐井が、朝鮮半島へ出兵しようとした近江毛野の軍勢を、新羅からの賄賂を受けて阻止し、朝鮮からの朝貢船も押さえたことがきっかけで、物部麁鹿火の討伐を受けたとされる内乱。磐井はこの日、麁鹿火の軍と筑紫三井郡で交戦したが敗死した。日本書紀には詳細に記載があるが古事記には一文しかなく、磐井の地位、乱の規模なども含め諸説わかれる。
    532年
    1月13日東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルでニカの乱が起こる。政治党派とつながっていた戦車レースの観客らが、重税などに反発してユスティニアヌス1世に対し暴動を起こしたことをきっかけに元老院議員などが加わった騒乱。
    1月13日東ローマ帝国の将軍ベリサリウスがニカの乱を鎮圧。皇帝権力が強化されるきっかけとなる。
    534年
    ユスティニアヌス1世の命令でベリサリウスがシチリアに上陸し、少数の兵で同地を制圧。
    535年
    この頃、クラカタウ山が大噴火を起こす。ジャワ島にあったカラタン文明が衰退した要因の一つと考えられる。世界各地で気象異変を引き起こしたとみられる。
    536年
    ベリサリウスがイタリア半島の東ゴート軍を撃破し各都市を制圧。東ゴート軍も反撃しローマ包囲戦に。
    538年
    (宣化天皇3年)日本に仏教が公式に伝わったと推定される有力な年。『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「欽明天皇御代の戊午年に百済の聖明王から仏教が伝来した」とあり、欽明天皇の御代が諸説あるため、近い戊午の年であるこの年が有力視されている。これ以前から大陸と繋がりのある個人で仏教を取り入れていたものはいたと考えられる。
    540年
    ベリサリウスが、サーサーン朝の侵攻を受けて、イタリア方面の指揮権を剥奪され、シリアへ送られる。
    542年
    この頃、ローマ帝国で腺ペストが流行。東ローマ皇帝ユスティニアヌスも感染したことから、ユスティニアヌスのペストとも呼ばれる。交通網の整備されていた帝国領内で猛威をふるい膨大な死者を出したが、それより外側の地域では比較的影響が少なかったとも言われる。
    544年
    ベリサリウスが、ふたたびイタリア方面の指揮官となり、東ゴート王トーテイラの軍勢と対峙。
    546年
    12月17日ローマを包囲していた東ゴート王トーテイラの軍勢が市内になだれ込む。翌年にかけてローマ市内を略奪し城壁などを破壊。ローマ側も内紛状態でまともに防衛も出来ない状態だった。
    548年
    (太清2年)南朝の梁に北朝東魏の有力者侯景が支配する河南13州をもって帰順。梁の武帝はこれを受け入れるが、反発した東魏の攻撃に敗北。10月、追い詰められた侯景は梁へ反乱を起こして首都建康に侵攻。
    東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが失脚。皇帝ユスティニアヌス1世による嫉妬とも、謀反を警戒されたともいわれる。イタリア半島での東ゴート王国の勢力が回復する。
    549年
    (太清3年)侯景が梁の首都建康を攻め落とす。武帝は捕らえられて幽閉され、2ヶ月後に死亡。侯景は簡文帝を擁立し、実質侯景政権となる。
    550年
    ローマが再びトーテイラの軍勢によって陥落し破壊される。ローマ市はほぼ衰退。
    552年
    ナルセス率いる東ローマ帝国軍がイタリア半島北方から南下し、トーテイラはローマを放棄して迎撃に向かう。ブスタ・ガロールム高原で両軍は衝突。ナルセスは弓兵を効率良く使いゴート軍を殲滅。
    7月 1日負傷したトーテイラが死去。東ゴート王位はトーテイラの部下のテーイアが継ぎ、ローマ人捕虜や元老院の人質らを殺害。
    (承聖元年)侯景、梁皇族の蕭繹が派遣した王僧弁や陳覇先の軍勢に敗れ、擁立した簡文帝を殺し自ら即位して立て直しを図るも再敗北し、逃走中に殺害される。蕭繹が元帝として即位。
    (欽明天皇13年)百済の聖明王から仏僧と経典が贈られる。このため仏教公伝の有力な年代の一つとされている。天皇は群臣を集めて仏像を礼拝すべきかを問い、蘇我稲目は「諸国は礼拝しており、日本だけしないのはおかしい」と答え、物部尾輿と中臣鎌子は「蕃神を礼拝すれば、天地百八十の国神の怒りを招く」と反対した。天皇は稲目に仏像を預けて、信仰させる(なお物部氏の拠点にも寺院の遺構があることから、単純な崇仏是非論争ではなく、豪族同士の対立だったとする説もある)。
    553年
    イタリア半島南部のモンス・ラクタリウスで東ローマ帝国軍と東ゴート軍が衝突。テーイアが戦死し、東ゴート王国は事実上の滅亡。
    554年
    (天成元年)西魏軍が傀儡として興した後梁の軍勢とともに江陵を攻め落とし、迎撃に出ていた元帝も捕らえられまもなく殺害。元帝を支えた王僧弁と陳霸先は北周との政策を巡って対立。
    555年
    (承聖元年)陳霸先が王僧弁を殺害し実権を握る。
    557年
    (永定元年)陳霸先が禅譲により即位し陳を興す。
    558年
    突厥の有力者室点蜜と、娘婿でサーサーン朝の王ホスロー1世が、エフタルを攻撃。ブハラの戦い。エフタル傘下の多くの都市国家が突厥に奪われる。
    562年
    (河清元年)この年の4月に黄河と済水が澄んだため、北斉の武成帝がこれを瑞兆として「河清」と改元する。「河」は黄河のこと。黄河は上流から大量の黄土を運ぶため常に黄色く濁っており、水が澄むことは非常に珍しい。なお、かつての黄河はもっと北を流れていたため、現在の黄河の最下流はかつての済水の下流にあたる。
    567年
    この頃、突厥の室点蜜が、エフタルを攻め滅ぼし、その領土を奪う。ただし、その後もエフタルを称する勢力があったとみられる。
    568年
    突厥の室点蜜が、東ローマ帝国に使者を送り、貿易に関する盟約を交わす。
    574年
    2月 7日(敏達天皇 3年 1月 1日)用明天皇の子として厩戸皇子(聖徳太子)が誕生。
    575年
    突厥の室点蜜が没し、玷厥(達頭可汗)が後を継ぐ。
    576年
    (10月)平陽の戦い。北周の武帝が大軍を率いて長安を出立し、北斉の晋州攻略戦を開始する。晋州の各都市を攻略し、中心都市平陽に至る。対する北斉の後主(高緯)は、事態の深刻さを理解せず、馮淑妃と狩猟を楽しむなどしたため、対応が遅れ、平陽は陥落。
    (12月)平陽陥落を受けて、北斉の後主は、観戦を望む馮淑妃とともに平陽奪還のための軍を率いて出立。北周軍は撤退を開始したため、北斉軍が平陽を包囲。攻略一歩手前まで来るも、後主が馮淑妃に観戦させるための準備に時間をかけてしまい、攻略に失敗。北周の武帝が再び軍を率いて平陽に現れ、両軍は平陽郊外で激突。その様子を観戦していた馮淑妃が負けるのを恐れてしまい、後主とともに逃走してしまう。これにより北斉軍は総崩れとなり、大敗を喫する。この時、北斉の有力者の穆提婆(後主の乳母陸令萱の子)は北周軍に降伏。武帝はそのまま、北斉各地へと侵攻を継続。北斉の後主は、副都晋陽を安徳王高延宗に押し付け、帝位も長男の高恒に譲位して逃走。晋陽も陥落する。
    577年
    (3月)北周軍が北斉の都、鄴を攻め落とし、逃走していた後主ら皇族も北周軍に捕らえられ、北斉は滅亡。北斉の皇族らは北周武帝によって許され貴族とされたが、まもなく穆提婆が反乱を起こそうとした、という嫌疑で討伐され、それに連座して北斉皇族らのほとんども殺害された。北周武帝は華北を事実上統一。
    578年
    (2月)呂梁の戦い。陳の司空で歴戦の名将だった呉明徹は、猛将蕭摩訶とともに北周の徐州城を水攻めにするが、北周の武帝は王軌を派遣。王軌は水中に罠を仕掛けて陳の水軍を撃破し、退却した呉明徹を捕らえる。武帝は呉明徹を懐徳公に封じるが、すでに重病だった呉明徹はまもなく死去。蕭摩訶は帰還し、軍の重鎮となる。
    (6月)北周の武帝は突厥攻略のため出兵するが、まもなく病に倒れ、21日に死去。あとを宇文贇が継ぎ即位(宣帝)。しかし暴君であり、妻女にすら鞭で打つことを好み、一族や忠臣を相次いで粛清する。
    579年
    (4月)北周の宣帝は即位わずか1年弱で、帝位を息子に譲り(静帝)、自らは天元皇帝と称して、猟色にふけり、政治を皇后の父親である隋国公楊堅に一任。王朝滅亡を早める要因を作った。
    581年
    3月 4日北周の大将軍・隋国公の楊堅が静帝より禅譲を受けて隋王朝を興す。
    585年
    4月 5日(敏達天皇14年 3月 1日)物部守屋が、疫病の流行は、異国の神(蕃神)である仏教を崇拝して、この国の神が怒っているためだとして、中臣勝海と仏教禁止の奏上を行う。
    587年
    8月(用明天皇 2年 7月)仏教崇拝を巡って対立していた蘇我馬子と物部守屋の両勢力が衝突。馬子は諸皇子や諸豪族の軍勢を引き連れ勝利する。物部守屋は戦死。丁未の乱。
    (用明天皇 2年)蘇我馬子が、飛鳥寺建立を発願。
    588年
    (崇峻天皇 元年)百済から技術者の派遣を受けて飛鳥寺の建設がはじまる。飛鳥の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の邸宅を壊した跡地を寺域とした。なお当時の寺の名前は法興寺とされる。
    589年
    2月 2日(禎明3年/開皇9年1月12日)が、楊広、高熲、賀若弼、韓擒虎ら51万8000の兵を派遣して陳を滅ぼし中国を統一する。陳の後主は隋の軍勢を過小評価して抗戦の指示を出さず、隋の軍勢が首都建康に迫ってきてようやく軍を送り、白土崗で応戦させたがすでに遅く、後主だけでなく有力将の蕭摩訶・魯広達らも捕らえられた。隋の文帝は後主を含め陳の有力者らを許した。
    592年
    12月12日(崇峻天皇5年11月 3日)蘇我馬子の意向を受けた東漢直駒による崇峻天皇弑逆事件が起こる。
    593年
    5月15日(推古天皇元年 4月10日)厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政に就任
    596年
    (推古天皇4年)この頃、飛鳥寺がほぼ完成したと見られる。
    599年
    5月26日(推古天皇7年 4月27日)大地震があり舎屋がことごとく破損したという。これを受け、四方に命じて地震の神を祭る。日本史上では最も古い地震被害の記録。
    604年
    1月11日(推古天皇11年12月 5日)厩戸皇子(聖徳太子)が冠位十二階制度が定める。
    5月 6日(推古天皇12年 4月 3日)厩戸皇子(聖徳太子)が十七条憲法を定める。ただし成立年は諸説がある。日本書紀に初出することや、その内容の文言の使い方から、奈良時代に日本書紀などと一緒に成立したという説も。
    610年
    この頃、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが、メッカのヒラー山で、ジブリール(大天使ガブリエル)の啓示を受けたとして、一族に独自の教義を広め始める。ムハンマドは以降も度々ジブリールの啓示を受けたとされる。
    隋の煬帝が京杭運河を完成させる。長江の南にある杭州から北上し、長江、淮河、黄河の三大河を横断して、天津に至るまでの総延長2500kmの大運河。いくつかの小運河をつなげ、文帝のときと煬帝のときで間を置いて実質わずか数年で完成させた。その工事には男女100万人以上が駆り出されたと言われ、特に工事の大半を推進した2代皇帝煬帝の評判は落ち、反乱が相次ぐ原因となった。一方で、南北の物流が盛んになり、次の唐王朝の繁栄の基礎にもなった。
    615年
    この頃、ムハンマドの教えを受けた信者らが迫害を逃れてキリスト教徒の国アクスム王国へ逃れる。
    618年
    6月18日(武徳元年5月20日)李淵が隋の恭帝楊侑から帝位を禅譲されて皇帝に即位。唐を建国。隋は滅亡へと向かう
    619年
    王世充が隋の恭帝楊侗(恭帝楊侑の異母兄)に迫って帝位を禅譲させ皇帝に即位。鄭を建国。恭帝楊侗は翌月殺害される。
    イスラムの開祖ムハンマドの最初の妻、ハディージャ・ビント・フワイリドが死去。ムハンマドはハディージャの親族で3番めの夫にあたり、彼女より年下だったが、ムハンマドにとって最愛の女性だったと言われる。ムハンマドはハディージャと結婚していたときは、他の女性を妻には迎えていない。ハディージャの産んだムハンマドの娘ファーティマの子孫が血統として続いている。
    620年
    12月30日(推古天皇28年12月 1日)「日本書紀」に「赤気」の記載がある。低緯度オーロラが目撃されたものか。
    東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシャ語に変わる。
    621年
    王世充が唐の李淵に敗れ降伏。鄭は滅び、庶民に落とされた王世充も恨みを持っていた定州刺史独孤修徳により殺害される。
    622年
    5月15日(推古天皇30年 2月22日)厩戸皇子(聖徳太子)が病没。
    7月16日ヒジュラ(聖遷)。メッカで布教を行っていたムハンマドは迫害を受けたため、信者を連れてヤスリブへ移住。のちにヒジュラ暦元年とされた。ヤスリブはマディーナ・アン=ナビー(メディナ)と改称。
    624年
    3月17日バドルの戦い。メッカのクライシュ族と、メディナに移住したムハンマドが戦い、寡兵だったムハンマドが勝利。ムハンマドはメディナでの権威を確立。
    625年
    ウフドの戦い。メッカのクライシュ族が、各部族らを味方につけて、ムハンマド率いるメディナに反撃。当初はメディナ側が有利に進めていたが、後退したメッカ側をメディナ側が追撃したことで陣形が乱れ、メッカに味方したアラブ騎兵に襲撃を許してしまう。ムハンマドが負傷したことでメディナ側は敗走。
    626年
    7月 2日(武徳9年 6月 4日)唐王朝で玄武門の変が起こる。唐を建国した初代皇帝李淵の長男で皇太子の李建成と、次男で天策上将の称号を持つ李世民の対立から起きた李世民側のクーデターで、李建成が宮中へ参内した際に起こされた。李建成と弟の斉王李元吉が殺された。これを受けて李淵は李世民を後継者と定め、8月に譲位する。李世民は皇帝となったあと、この一件はあくまで家中の内紛であるとして臣下を処罰することはしなかったため、李建成側についていた人々も李世民に従い、貞観の治と呼ばれる繁栄を築くことになる。
    627年
    ハンダクの戦い。ウフドの戦いに勝利したメッカのクライシュ族は、メディナ攻略に乗り出す。これに対しムハンマドはメディナに塹壕(ハンダク)を築いて籠城。対陣が長期化したため、メッカ側は退却した。勢いを得たムハンマドはクライシュ族に味方したユダヤ教徒のクライザ族を殲滅。
    ムハンマドがクライシュ族に味方したバヌ・ムスタリクとアル・ムライシで戦い勝利し、ムスタリクの部族とその財産を手に入れる。この戦いのあと従軍していたムハンマドの妻のアーイシャが、失くした首飾りを探していて軍の出発にはぐれてしまい、軍の兵士だったサフワーンが発見して軍に連れ戻る事件が起きる。この話が広まり、アリー・イブン・アビー・ターリブ(後の4代カリフ)が不義を疑って離縁すべきと主張したため、アーイシャやその父のアブー・バクルと対立するきっかけとなったと言われる。ムハンマドは天啓を受けて不義はなかったとして離縁を拒否した。
    628年
    3月ムハンマド、メッカ巡礼を企図。メッカのクライシュ族は、条件付きでこれを認め、両者はフダイビーヤで和議を結ぶ。
    4月15日(推古天皇36年 3月 7日)推古天皇崩御。
    この年、真臘のイシャーナヴァルマン1世が扶南国を支配下に収め、これを滅ぼす。
    629年
    2月 2日(舒明天皇元年 1月 4日)蘇我蝦夷によって田村皇子が即位。舒明天皇。
    (貞観3年)玄奘三蔵法師がインドを目指し唐を密出国。高昌王麴文泰の支援を受けインドへ向かう。
    ムハンマド、多数の信者を連れてメッカを巡礼。フダイビーヤの和約を遵守したことから評価が上がり、メッカでもイスラムの信徒が増え始める。
    東ローマ皇帝ヘラクレイオスが、皇帝の称号を「インペラトル」から「バシレウス」に改める。公用語をギリシャ語にしたことと合わせて、後世、東ローマ帝国を古代ローマ帝国と切り離して、ギリシャ帝国、中世ローマ帝国、ビザンチン帝国などと称する要因ともなった。
    630年
    (舒明天皇2年10月)舒明天皇、飛鳥岡に遷宮し岡本宮と称する。
    この年、メディナと同盟するフザーア部族と、メッカと同盟するバクル部族が紛争を起こし、ムハンマドはこれを機に、フダイビーヤの和約を破棄してメッカへ進軍。
    この頃、吐蕃王のソンツェン・ガンポ(ティン・ソンツェン)がチベット高原を統一。
    632年
    6月 8日イスラム教の開祖、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが死去。指導者にムハンマドの親友でムハンマドの妻アーイシャの父親でもあるアブー・バクル・アッ=スィッディークが選出されカリフ(ムハンマドの代理人)となる。スンナ派ではこれ以降を正統カリフ時代とする。
    634年
    8月23日イスラム教のカリフ、アブー・バクル・アッ=スィッディークが死去し、ウマル・イブン・アル=ハッターブが後を継ぐ。ムハンマドの4番目の妻ハフサの父親で、初期のイスラム共同体を支えた武将。ヒジュラ暦やシャリーア(イスラム法)を定めた人物。
    636年
    (舒明天皇8年6月)岡本宮が火災で焼失し、舒明天皇は田中宮に遷る。
    正統カリフ第2代のウマル・イブン・アル=ハッターブがエルサレムを占領。人頭税(ジズヤ)を払うことを条件に、キリスト教徒とともにユダヤ教徒も保護する政策を行う。
    641年
    5月13日ウマル・イブン・アル=ハッターブの部下アムル・イブン・アル=アースがローマの属州アエギュプトゥス(エジプト)のアレキサンドリアを包囲。
    11月 8日アレキサンドリア攻囲戦で、守備軍の東ローマ側指揮官キルスが降伏。
    11月17日(舒明天皇13年10月 9日)舒明天皇崩御。
    642年
    2月19日(皇極天皇元年 1月15日)皇極天皇即位。
    643年
    4月(皇極天皇2年4月)板蓋宮が完成し、天皇が居を遷す。
    12月20日(皇極天皇2年11月 1日)蘇我入鹿が巨勢徳多らと兵100名を派遣して山背大兄王の館を攻める。入鹿のいとこである古人大兄皇子を即位させるのに邪魔だったからとも言われる(ただし山背大兄王も入鹿のいとこであるため、皇族同士の後継者争いに蘇我入鹿が加担したという説も有力)。山背大兄王らは一旦、山中に逃れる。
    12月30日(皇極天皇2年11月11日)山背大兄王が一族らとともに飛鳥寺で自害し上宮王家は滅亡。事件を知った蝦夷は入鹿の行動に怒り、自身を危うくすると嘆いたという。
    644年
    11月 3日イスラム教の2代目カリフ、ウマル・イブン・アル=ハッターブがメディナのモスクで礼拝中、クーファの長官アル=ムギーラ・イブン・シュウバの奴隷アブー・ルウルウに襲われ、重症を負い、後継者のルールを定めた後死去。3代目カリフにムハンマドの親族で娘婿のウスマーン・イブン・アッファーンが就く。穏健派で大富豪としてイスラム共同体を支えた人物。
    645年
    玄奘三蔵法師が唐に帰国。657部の経典を唐にもたらす。密出国については不問とされた。
    7月10日(皇極天皇4年 6月12日)乙巳の変が起こる。三国の調の儀式の最中、中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我入鹿が暗殺される。外交儀式のさなかにクーデターが起きるという異様な点から、三国の調の儀式は史実かどうか疑問もあるが、外交は蘇我氏が担っていたため、蘇我氏と敵対したクーデター側が架空の外交儀式をでっち上げて事件を起こすという考え方にも無理がある。
    7月11日(皇極天皇4年 6月13日)蘇我蝦夷が自邸に火を放って自害。蘇我本家が滅亡。この時、『国記』『天皇記』のうち『天皇記』が焼失したとも言われる。『国記』は船恵尺が焼ける前に拾い出したとされるが現存していない。一般に蘇我一族は滅亡したか権力を失ったかのように見られるが、実際にはこの後も大臣(オホマヘツキミ)の氏族として高い地位を保持しており、歴代天皇と婚姻関係をもち、また藤原不比等も蘇我氏から妻を迎えている。その不比等系藤原氏の台頭で蘇我氏は地位を失っていった(天皇家・藤原北家は蘇我氏の子孫でもある)。なお奈良県橿原市の菖蒲池古墳の近くに破壊された巨大な小山田遺跡が発見されたことから、蝦夷の墓は破壊され、入鹿の墓と合葬されたとする説もある。
    7月29日(大化元年 7月 1日)日本最初の元号、大化が施行される。
    10月 7日(大化元年 9月12日)舒明天皇の第一皇子で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子が、乙巳の変後に隠棲していた吉野で、中大兄皇子の指示を受けたものらによって殺害される。日本書紀などでは古人大兄皇子が、蘇我田口川堀・物部朴井椎子・倭漢文麻呂・朴市秦田来津・吉備笠垂らと謀反を企てたが、吉備笠垂が密告したため露見し滅ぼされたとする。しかしこの謀反を企てた人物の殆どがその後も朝廷に仕えていることから、記録は古人大兄皇子を殺した口実だった可能性もある。この日付は密告日で殺されたのは11月30日ともされる。
    646年
    1月22日(大化2年 1月 1日)乙巳の変で蘇我本宗家を滅ぼした朝廷は、より中央集権を目指した政治改革の「改新の詔」を発布する。これがいわゆる「大化の改新」。
    ニキウの戦い。アムル・イブン・アル=アースが東ローマ帝国の軍勢を破り、ローマの属州だったアエギュプトゥス(エジプト)は完全にイスラムの支配下に入る。
    647年
    (大化3年)蝦夷に備えるため、越の国に渟足柵が作られる。
    648年
    4月28日(大化4年 4月 1日)七色十三階冠の制度が施行される。冠位十二階の制度を改めたもので、十二階を大錦・小錦・大青・小青・大黒・小黒までの六階層に再編した上で、その上にさらに大織・小職・大繡・小繡・大紫・小紫までの六階層を追加し、一番下に建武の位を加えて十三階とした。
    (大化4年)蝦夷に備えるため、越の国に磐舟柵が作られる。記録上1回しか見つかっていない「都岐沙羅柵(つきさらのき)」も磐舟柵かその近辺とする説もあるが、出羽国の何処かにあったとする説もある。
    649年
    3月(大化5年 2月)七色十三階冠の制度を改めて、冠位十九階の制とする。十三階の錦を花、青を山、黒を乙に変えてそれぞれ上下の2階級ずつにし、建武を立身と改めている。上位6階級はそのまま。より官僚制度に則したものにして、出世によって冠位が変わるようにした。地方の有力者も冠位を得るようになったとも言われる。
    5月15日(大化5年 3月25日)乙巳の変で、中大兄皇子側に味方した蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑をかけられ、討伐軍が派遣されたため、山田寺で妻子とともに自害。
    7月10日(貞観23年 5月26日)唐の2代皇帝(太宗:李世民)が死去。国家制度を整え、国土を拡大し、臣下の諫言をよく聞き、「貞観の治」と呼ばれる安定して穏やかだった時代を生み出したことから、名君とされることが多い。呉兢が編纂した太宗と45名の臣下との間の言行録「貞観政要」は政治のバイブルとして長く使われた。
    650年
    3月19日(大化6年2月 9日)穴戸国(のちの長門国)の国司草壁醜経から、麻山で捕らえた白雉が献上される。
    3月22日(大化6年2月15日)白雉の元号に改元(1月1日に遡って改元)。白雉の瑞祥により。
    この頃、マオリ族のウイ・テ・ランギオラが嵐で漂流し南の氷の浮かぶ海に到達したという伝承がある。
    651年
    サーサーン朝ペルシアのヤズデギルド3世が殺害され滅亡。
    第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンが唐王朝にはじめて使者を送る。
    652年
    2月14日(白雉2年12月30日)難波長柄豊碕宮が完成し、孝徳天皇が遷都する。
    653年
    (白雉4年)中大兄皇子が難波宮から倭京へ戻るよう主張するが、孝徳天皇が同意しなかったため、中大兄皇子は皇祖母尊(先の皇極天皇のこと)、間人皇后、皇族、貴族らを連れて倭河辺行宮へと移る。孝徳天皇はこれを恨んで退位を願うようになる。
    655年
    (白雉5年)白雉の元号(年号)が使われた最後の年(白雉5年12月30日は、ユリウス暦で655年2月11日)。次の元号は686年に始まる朱鳥。
    656年
    6月17日第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンが反乱を起こした兵士に邸宅で襲われ殺害される。一族を重用したことや、兵士の俸給を減らしたことで反発を買ったためと言われる。第4代カリフの地位をめぐり、ムハンマドのいとこで娘婿のアリー・イブン・アビー・ターリブと、3代目ウスマーンの近親者で有力武将だったウマイヤ家のムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーンが争い、アリーが選出される。
    12月ラクダの戦い。イスラム共同体内部のはじめての本格的内乱。第4代カリフのアリーと、ムハンマドの妻アーイシャら反アリー派が戦い、アリー側が勝利する。アーイシャがラクダの上に乗せた紅いハウダから指揮したことからこの名前がついている。アーイシャは敗北後、政治からは退き、ムハンマドの言行を伝える活動を行った。スンナ派ではアーイシャは尊敬される女性だが、シーア派は否定的に扱っている。
    657年
    6月26日スィッフィーンの戦いが始まる。第4代カリフのアリーと、ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーンの間で起こった戦い。
    7月27日スィッフィーンでアリー軍とムアーウィヤ軍が衝突。
    7月30日アリー軍優勢の中、ムアーウィヤ軍の兵士が、槍の穂先に聖典クルアーン(コーラン)を掲げたためにアリー軍内部で動揺が走る。アリーは和平派に押し切られて講和を進めたため、反発した勢力が分裂しハワーリジュ派となる。アリーの勢力は低下し、逆にムアーウィヤは勢力を拡大する。
    658年
    (斉明天皇4年 4月)阿倍比羅夫が軍船180艘を率いて飽田・渟代の蝦夷征討を行う。飽田の蝦夷の長である恩荷に位を与える。渟代と津軽を郡領とする。さらに粛慎を攻め、羆2頭と羆の皮70枚を献上する。
    第4代カリフのアリーが、分裂したハワーリジュ派をナフラワーンの戦いで打ち破る。
    659年
    (斉明天皇5年 3月)阿倍比羅夫が軍船180艘を率いて飽田・渟代の蝦夷征討を行う。さらに津軽や胆振の蝦夷を従え、後方羊蹄(しりべし)に進出し政所を置く。後方羊蹄が現在のどこに当たるかは不明だが、江戸末期の松浦武四郎の探検時に尻別川付近とされて、同地の山は後方羊蹄山と名付けられた。
    (顕慶4年)唐の2代皇帝太宗の重臣であり、唐初期の有力者として「凌煙閣二十四功臣」の第一位にされている長孫無忌が、讒言によって失脚、自殺に追い込まれる。長孫氏は武川鎮軍閥(関隴集団)の名門で、長孫無忌の妹は、賢后として名高い、太宗の寵愛を受けた長孫皇后。
    (顕慶4年)唐が百済討伐の準備を整える。百済と親しい関係にあることから遣唐使の帰国が認められず。日本国内でも唐(及び新羅)と百済のどちらの立場に立つかで揉めた可能性がある。
    660年
    (斉明天皇6年 3月)阿倍比羅夫が軍船200艘を率いて粛慎征討を行う。その際、渡島の蝦夷に救援を求められたため、粛慎と交渉したが決裂し、幣賄弁島(へろべのしま)に渡って粛慎と戦い破ったが能登馬身龍が戦死した。渡島や幣賄弁島がどこに当たるのかは不明。津軽半島から北海道南西部にかけてのいずれかとも言われるが、幣賄弁島は樺太とする説もある。
    (顕慶5年 3月)唐は百済遠征を開始。蘇定方を神丘道行軍大総管として、総勢13万を動員。新羅もこれに呼応して金法敏・金欽純・金品日ら5万の兵力を派兵。
    (顕慶5年 7月)黄山の戦い。唐は百済に侵攻。百済の階伯らが応戦して新羅軍は足止めされたため、唐軍と新羅軍は一時対立するも、圧倒的兵力で百済の王都を包囲したため、義慈王は熊津に逃走し降伏。百済は滅亡し、唐は朝鮮半島南部を羈縻政策下に置き、熊津都督府を設置して旧百済領を傘下に置く。また新羅についても属国ではなく鶏林州都督府としてその領土を組み込み、形式上は国ではなくなる。唐軍は高句麗討伐のために北上。
    (顕慶5年 8月)旧百済領で鬼室福信、黒歯常之らが百済再興を目指して活動を開始し、各地で反乱が起きる。唐はこれに対応できなかったため、新羅が鎮圧に向かう。
    (顕慶5年10月30日)百済再興軍は新羅軍に大敗するが、鬼室福信・黒歯常之・僧道琛・余自信らは、倭国に救援を依頼し、倭国にいた太子豊璋を擁立して抵抗を続ける。
    ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーンがカリフを自称し始める。
    661年
    2月10日(斉明天皇7年 1月 6日)斉明天皇が西国へ向かうため難波宮を出立。
    1月27日イスラム教第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブがクーファのモスクでハワーリジュ派のアブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャムに暗殺される。ハワーリジュ派はムアーウィヤも狙うがこちらは失敗し、ムアーウィヤが事実上の5代目カリフとなる。ムアーウィヤは、世襲王朝ウマイヤ朝を開き、イスラム教正統カリフ時代が終了。世俗的イスラム帝国の時代へとシフトする。ウマイヤ朝に反発したアリー派は弾圧を逃れ、後にシーア派となっていく。
    6月25日(斉明天皇7年 5月23日)済州島の耽羅国から王子の阿波伎らが倭国を訪れる。
    (斉明天皇7年 5月)倭国は百済の復興のため、朝鮮半島へ軍勢およそ1万を派遣する。
    8月24日(斉明天皇7年 7月24日)斉明天皇が行幸先の筑紫朝倉橘広庭宮で崩御。
    662年
    (天智天皇元年 3月)倭国が、朝鮮半島へ軍勢およそ2万7千を派遣する。
    663年
    10月 4日(天智天皇2年 8月27日)白村江の戦い。百済の復興のため、朝鮮半島へ派遣された倭の軍勢と百済遺臣勢力が、唐・新羅連合軍と衝突。
    10月 5日(天智天皇2年 8月28日)倭軍は4度の攻勢にも関わらず大敗し、半数近くを失って退却。百済復興を図る遺民らも多くが日本列島へと逃れる。
    664年
    10月 4日(天智天皇2年 8月27日)冠位十九階の制を改め、冠位二十六階の制に改める。十九階の花を錦に変え、錦・山・乙の大小各冠それぞれ上下2階層を上中下3階層にし、最下層の立身を大建・小建の2階層とした。国家体制が整うに連れて官職が増えたためか。
    668年
    2月20日(天智天皇7年 1月 3日)中大兄皇子が即位(天智天皇)。661年に斉明天皇崩御後、称制としてすぐに即位していないため、年号的には即位年は天智天皇7年となる。なぜすぐに即位しなかったのかは諸説あり、蘇我氏との関係が強かった、有力者の支持がなかなか得られなかった、女性関係の問題(特に孝徳天皇の皇后で天智の同母妹の間人皇女との関係)、「万葉集」の中皇命の記載から間人皇女が即位していた説などもあるが、定説がなく不明点が多い。
    (総章元年 8月)唐と新羅の連合軍による攻勢によって平壌城が陥落し、高句麗が滅亡。
    (総章元年 9月)唐が平壌城に安東都護府を設置する。
    (天智天皇7年)この年、僧の道行が草薙の剣を盗んで新羅に向かおうとするが、風雨に遭い戻ってきたという。
    (天智天皇7年)この年、近江令が制定されたといわれる。日本初の律令という見方もある(ただし令のみ)。「藤氏家伝」と「弘仁格式」にはあるが「日本書紀」には見られないことから存在しないという説もあり、また令に相当する法令はあったとする説もある。
    669年
    12月31日(総章2年12月 3日)唐の建国に大きく貢献した名将の李勣が死去。
    671年
    6月 7日(天智天皇10年 4月25日)朝廷が漏刻(水時計)を設置し、鐘鼓を鳴らしてはじめて時を知らせる。この日はグレゴリオ暦に換算すると6月10日になるため、時の記念日は6月10日になるが、この時代はグレゴリオ暦は存在していない(ユリウス暦)。漏刻自体はもっと前から存在している。
    672年
    1月 7日(天智天皇10年12月 3日)天智天皇が崩御。死の少し前に、同母弟の大海人皇子に皇位を譲ろうとしたが、大海人皇子は蘇我安麻呂の忠告からこれを受けず、大友皇子を推薦したとされている。天智天皇も実子の大友皇子を後継に望んでいたとされる。
    1月 9日(天智天皇10年12月 5日)天智天皇の崩御により、第一皇子の大友皇子が後継者となる。明治3年に諡が贈られ弘文天皇として39代目の天皇に列せられたが、天皇に即位していたがどうかは定かではない。
    7月24日(天武天皇元年 6月24日)大海人皇子が吉野を出立し東国へと向かう。壬申の乱が勃発。乱の原因は諸説あってはっきりしない。各地の有力者が大海人皇子に味方する。
    7月26日(天武天皇元年 6月26日)大友皇子は群臣と軍議を開く。天智天皇時代から近江朝廷では少人数の大臣で構成されていたため、それ以前にはあった多数の群臣(マヘツキミ)との協議はなく、少数の大臣と対策を諮り、各地の支援を得にくかったとみられる。
    7月31日(天武天皇元年 7月 2日)大海人皇子側が、美濃で集めた東国の兵力を大和と近江へ向けて派兵。大友皇子側の主力も出兵。
    8月20日(天武天皇元年 7月22日)瀬田橋の戦いで大海人皇子軍が大勝。
    8月21日(天武天皇元年 7月23日)壬申の乱に敗れた大友皇子が自殺。
    673年
    3月20日(天武天皇2年 2月27日)大海人皇子が即位。天武天皇。多くの史料では天智天皇の同母弟(「日本書紀」では生年の記載がないため異父兄という説も一部にある)。
    (天武天皇2年)この頃までに外位の制度が整備される。中央の有力者に与える内位に対し、地方出身者や低身分出身者の在庁官人に与えられたと考えられる。
    ウマイヤ朝がコンスタンティノポリスの攻略戦に乗り出す(687年まで)。
    676年
    このころ、飛鳥の都の北側に大規模な条坊制の都の建設が始まる。後の藤原京(新益京)。
    この年の11月ころ、新羅軍が唐の薛仁貴を破って唐勢力を朝鮮半島から駆逐し、半島を統一する。
    679年
    1月~2月(天武天皇7年12月)筑紫国で大地震。幅2丈(約6m)長さ3000丈(約10km)の地割れが生じ、上の住居ごと移動したという。豊後では五馬山が崩れて多数の温泉が出る。土塁や古墳の破損状態、噴砂痕などから、水縄断層が動いたと考えられる。
    680年
    10月10日カルバラーの戦い。ウマイヤ朝の2代目カリフであるヤズィード・イブン・ムアーウィヤ・イブン・アブー・スフヤーンが、正統カリフ4代目アリーの子でムハンマドの孫であるフサイン・イブン・アリー一行72人を反乱防止の目的で3000の兵で襲撃し殺害。アリー支持派であったシーア派がスンナ派と決定的に敵対することになった事件。
    (天武天皇9年 7月)駿河国のうち2郡をもって伊豆国が設置される。
    684年
    10月 (天武天皇13年)彗星が目撃される。ハレー彗星か。
    11月(天武天皇13年10月)八色の姓が制定される。真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8つの姓で、地位と結びついており、真人・朝臣・宿禰・忌寸の4つを皇族や皇族に近い氏族に与えた。従来からあった臣・連・伴造・国造はそのまま使われている。のちに氏姓制度が広まると、朝臣以外は消滅した。
    11月26日(天武天皇13年10月14日)白鳳大地震。西日本で大きな揺れがあり諸国の官舎、百姓倉屋、寺社が多数倒壊。人民と家畜の死傷多数。土佐沿岸は大津波に襲われ田苑50余万頃が海没。伊予や紀伊で温泉が止まる。東方より鳴動があったこと、伊豆島で300余丈が隆起(もしくは噴火)。南海トラフの南海大地震だが、地質調査で東海、東南海地震も同時に起きたという説も有力。
    685年
    4月 (天武天皇14年 3月)信濃国で降灰があり草木が皆枯れるという。浅間山など周囲のいずれかの火山の噴火とみられる。
    686年
    8月14日(朱鳥元年 7月20日)朱鳥の元号が制定される。前後に元号のない期間があり、唐突に定められ、同年だけ使われた。元号を定めた理由は不明だが、重病となった天武天皇の回復を祈願したものとも言われる(天武天皇は赤色を好んだとされる)。
    10月 1日(朱鳥元年 9月 9日)天武天皇崩御。権力を自らに集中させて政治を見る「皇親政治」を行った数少ない天皇。「天皇」の称号をはじめて使ったとされているほか、国号を「日本」としたとする説もある。律令体制や位階制度、恒久的な都の建設、国家神道の確立、仏教保護など、のちの日本国家体制の基礎を作った。
    10月24日(朱鳥元年10月 2日)天智天皇の第2子である川島皇子が、天武天皇の第3子大津皇子を謀反を企てたとして密告。大津皇子は捕らえられ、伊吉博徳、中臣意美麻呂、巨勢多益須、行心ら30人余りも捕らえられる。
    10月25日(朱鳥元年10月 3日)大津皇子が自害。妃の山辺皇女が殉死。他の連座して捕らえられたものの多くは赦される。実際に謀反の企てがあったのかは定かではない。大津皇子は「日本書紀」で優れた人物と称賛されている。
    689年
    5月 7日(持統天皇3年 4月13日)皇位継承第一位であった草壁皇子が死去。すぐに即位しなかった理由は定かではないが、日本書紀などで自殺した大津皇子が称賛されているのに対して目立たず、皇位継承者としての支持がなかなか得られなかった可能性がある。そのためか天武天皇の殯を繰り返し行い、草壁皇子がその喪主となっている。
    7月21日(持統天皇3年 6月29日)飛鳥浄御原令が発布される。律令のうちの令だけと考えられる。天武天皇の時から進められ、日本最初の律令制度とする見方もある。
    690年
    2月14日(持統天皇4年 1月 1日)天武天皇の皇后である鸕野讚良皇女が即位。持統天皇。自身の息子で天武天皇の皇位継承者だった草壁皇子が死去し、その子軽皇子がまだ幼かったことから、自身が即位したとされる。そのため年号上は持統天皇4年に当たる。
    10月16日(天授元年11月 9日)唐の太宗の側室で、高宗の皇后だった武照(武則天・則天武后)が自ら即位して皇帝となり、国号を周と改める。武周王朝の成立。中国では唯一の女帝。
    (持統天皇4年)唐から訪日新羅使とともに大伴部博麻が帰国する。白村江の戦いに参加した兵士で、捕虜として唐に送られた後、唐の日本侵攻計画を聞き、日本に知らせるための遣唐使らの帰国資金を得るため自ら奴隷に身売りした人物。持統天皇はその愛国心を称えて褒賞し勅語を与えた。
    694年
    12月27日(持統天皇8年12月 6日)藤原京に遷都。持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京(新益京)に移る。藤原京は面積上は古代最大の都で平城京や平安京よりも規模は大きい。一方で平城京や平安京と違い、最縁部に城壁がなく、大路の幅も狭い。王宮(藤原宮)は都の中央付近にあった。それまで代ごとに頻繁に変わっていた都をはじめて恒久的に置き換えたもので、中国の都城のように条坊制が整備された。平城京遷都までに完成しなかったとみられる。藤原京の名前は大正2年に歴史学者喜田貞吉が「藤原宮」から称したもので、「日本書紀」では新益京(あらましのみやこ・しんやくきょう)と称している。
    697年
    8月22日(文武天皇元年 8月 1日)文武天皇が即位。15歳という若年で即位したはじめての天皇。そのため祖母の持統天皇が初めて「太上天皇」と称して後見した。これは他の成人皇族の即位を抑える目的もあったとみられる。母親の阿閇妃は「皇太妃」とされた(のちの元明天皇)。
    ウマイヤ朝が北アフリカ地中海沿岸をほぼ制圧。
    698年
    大祚栄が唐(武周朝)から独立し、旧高句麗の東牟山で震国を建国。後に唐へ入朝した際に与えられた称号「渤海郡王」、さらに3代大欽茂が得た「渤海国王」から渤海国と呼ばれる(渤海という地名自体は中国の地名)。大祚栄の出自ははっきりしていないが、のちの新羅の孝恭王の唐の昭宗宛国書などからも、大祚栄は高句麗に仕えた靺鞨人の子孫と見られる。渤海の主な民族は靺鞨人で、領域は朝鮮北部、満州、沿海州にまたがる広大な地域となる。
    700年
    4月 3日(文武天皇4年 3月10日)法相宗の僧・道昭がその遺言によって火葬される。記録上は日本初の火葬とされる。
    この頃、ザガワ人の王セフによって、チャド湖の付近に王都ンジミが建設され、遊牧生活から定住交易生活をするようになる。カネム・ボルヌ帝国のはじまり。
    701年
    5月 3日(文武天皇5年 3月21日)新たに「大宝」の元号を施行する。それ以前の元号は一時的なもので、制度上の実態も不明なのに対し、大宝からは文書にも記されるようになり、途絶えることなく現代まで続くことになる。なお典拠は『易経』としているが、対馬から金が献上されたことによる(対馬ではない説もある)。
    5月 8日(大宝元年 3月26日)大宝地震。丹波国(のちの丹後国)で大きな地震が起こり、3日にわたって揺れるという。若狭湾一帯を大津波が襲ったとみられる伝承が多数あるが詳細は不明。
    9月 9日(大宝元年 8月 3日)大宝律令が完成。二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の行政機関を設立。日本の国号が制定され、元号が本格導入される。
    704年
    6月16日(大宝4年 5月10日)元号を大宝から慶雲に改元。藤原京で瑞兆を表す雲が現れたことから。漢籍の典拠としては『文選』『晋書』による。
    705年
    2月22日(神龍元年 1月24日)武照(武則天)が退位し、彼女によって皇帝の地位を失っていた中宗が復位する。武周王朝は終り、唐王朝が復活。武照については、儒教の影響などから女性の権力化が否定的に扱われること、武照が一族や張易之・張昌宗兄弟を重用したことなどで評価が低い。一方で、後の開元の治に活躍する有能な人材も積極的に登用された他、支持基盤の弱さから低い身分からも人材を獲得すべく科挙制度が発達した。また国内的には比較的安定し平穏な時代でもあった。武照は独自の漢字を創作したことでも知られる。
    707年
    8月18日(慶雲4年 7月17日)阿閇皇女(皇太妃)が即位。元明天皇。草壁皇子の妃で、文武天皇・元正天皇らの母親。息子の文武天皇が崩御したため、幼い孫の首皇子が成長して確実に皇位を継承するため、自身が中継ぎとして即位した。
    708年
    6月 3日(和銅元年 5月11日)和同開珎(銀銭)の使用が始まる。
    709年
    9月 9日(和銅2年 8月 2日)和同開珎の銀銭をやめ、銅銭のみの使用が決まる。
    710年
    4月13日(和銅3年 3月10日)藤原京から平城京に遷都。まだ未完成の状態。
    7月 3日(景龍4年 6月 2日)唐の第6代皇帝中宗が、韋皇后と娘の安楽公主の手で毒殺される。韋皇后が淫行を告発されたためとも、武則天に倣って権力掌握を画策した韋皇后と安楽公主が起こした政変とも言われる。韋皇后は温王李重茂を皇帝に擁立。武則天の即位と合わせて「武韋の禍」と呼ばれる。
    7月21日(唐隆元年 6月20日)唐の太平公主と臨淄王李隆基(後の玄宗)が政変を起こし、韋皇后と安楽公主を殺害して両者の身分を庶人に落とす。
    7月25日(唐隆元年 6月24日)唐の皇帝の李重茂は退位に追い込まれる(殤帝)。李重茂は元の温王に戻され、相王李旦(睿宗)が皇帝に復位。
    睿宗は、吐蕃などの西方異民族に対応するため、はじめて亀茲に安西節度使を置く。軍事権と徴税権をもった地方官で、後に各地に置かれて軍閥となり、安禄山の乱や、五代十国の騒乱時代を生むことになる。
    711年
    7月19日ウマイヤ朝のターリク・イブン・ズィヤードが、イベリア半島の西ゴート王国と戦い、国王ロデリックは戦陣で消息不明となる(戦死したという説が有力)。翌年にかけて残存貴族も処刑されるなどして西ゴート王国は滅亡。ウマイヤ朝がイベリア半島を制圧する。
    (和銅4年10月)蓄銭叙位令が出される。銭の流通を促進する目的で、銭を貯めると位階を与えることを決めた法令。
    712年
    3月 9日(和銅5年 1月28日)古事記が完成し、太安萬侶によって元明天皇に献上される。天武天皇の命で、記憶力に優れた稗田阿礼が「帝紀」「旧辞」を誦習し、それを太安万侶が編纂したとされる。「日本書紀」とともに記紀と呼ばれるが、内容はかなり異なる。日本書紀が勅撰であるのに対し、古事記は正史にその成立の記録がなく、序文の書き方が不自然なこと、稗田阿礼の記載に身分である「姓」がなく(太安万侶は「朝臣」とある。稗田阿礼には女性説もある)当時の氏族名鑑「新撰姓氏録」にも稗田氏がないこと(つまり相当身分が低いか実在しない)など奇妙な点が多く、平安から鎌倉頃に作られた「偽書」という説も古くからある(それでもかなりの古典)。一方で、神話の文学性は非常に高い。
    715年
    10月 3日(和銅8年 9月 2日)元明天皇が、娘の氷高内親王に皇位を譲り(元正天皇)、自身は太上天皇となる。女性天皇から女性天皇への譲位は現在まで唯一の例(血筋は天武天皇、草壁皇子に続くので男系女帝だが、元明天皇は男性孫にではなく娘に生前譲位しているため、この部分を女系相続とする見方もある)。元号は霊亀に改元。
    718年
    西ゴート王国の貴族で、ウマイヤ朝の攻撃から逃れたペラーヨが、この頃、イベリア半島北部のアストゥリアスにアストゥリアス王国を建国する。一般にはこれをレコンキスタの始まりとしている。
    720年
    4月11日(養老4年 2月29日)大隅国国史の陽侯史麻呂が殺害されたという報告が太宰府から朝廷にもたらされる。朝廷は討伐を決定。いわゆる隼人の乱の始まり。
    4月19日(養老4年 3月 4日)朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命。
    7月26日(養老4年 6月17日)隼人征討軍は隼人の立て籠もる7城のうち5城を攻め落とすが、曽於乃石城と比売之城は攻め落とせず膠着。
    9月 9日(養老4年 8月 3日)藤原不比等が死去。藤原鎌足の次男(古くから天智天皇のご落胤説がある)。最初の正妻は蘇我氏。鎌足の子孫の内不比等の子だけが藤原氏を名乗れたため、藤原氏の祖でもある。養老律令の編集に関わった。ご落胤説では母親が車持氏のため『竹取物語』に登場する車持皇子のモデルの可能性がある。
    9月18日(養老4年 8月12日)藤原不比等死去の報を受け、征隼人持節大将軍の大伴旅人も都へ呼び戻される。隼人征討は副将らが継続。
    11月 2日(養老4年 9月28日)陸奥国で大規模な蝦夷の反乱が起きたという報告が朝廷に伝わる。反乱によって按察使の上毛野広人が殺害される。
    11月 3日(養老4年 9月29日)長屋王の指示で、多治比縣守が蝦夷反乱に対する持節征夷将軍に、副将軍に下毛野石代が、持節鎮狄将軍に阿倍駿河が任命されて、遠征軍が派遣される。
    (養老4年)この年、「日本書紀」が成立したとされている。漢文で書かれた編年体の「正史」で六国史の第一。「帝紀」「旧辞」などの和書、各家伝、漢籍、百済三書、個人の記録などを元にし、舎人親王を長とした編纂組織によってまとめられた。
    721年
    5月(養老5年 4月)蝦夷の反乱討伐のために出兵していた多治比縣守らが都に帰還。
    8月 4日(養老5年 7月 7日)隼人征討を終えて派遣されていた副将らが都に帰還。
    722年
    6月13日(養老6年閏4月25日)百万町歩開墾計画が実施される。陸奥地方の開発計画。当時日本全国の開墾地ですら百万町歩もないため、陸奥だけでこれほどの開墾は不可能であり、一種のスローガンとも見られている。
    723年
    5月25日(養老7年 4月17日)三世一身法発布。灌漑施設と共に開墾すれば本人・子・孫の3代、既存の灌漑施設を利用して開墾すればその人1代に限り私有を認めるという、開墾奨励法令。前年の百万町歩開墾計画の具体的法令とも考えられる。20年余りで開墾地を捨てるものが相次ぎ、効力を失ったとされる。戦後の通説では、公地公民制が崩壊するきっかけになったとされてきたが、改新の詔で私有地を禁じたのは形式のみで実際には私有地は認められており、公地公民制は、マルクス史観の「アジア的生産様式」理論に影響を受けたもので、実際の考古学・文献史学の研究結果と異なるとする見方もある。
    724年
    3月 3日(神亀2年 2月 4日)聖武天皇が即位。直後に母親の藤原宮子(不比等の娘)を「大夫人(おおみおや)」と尊称するよう勅を出すが、これに対し翌月長屋王が、公式令を理由に「皇太夫人」とすべきだと反対。聖武天皇はそれに従ったが、これが天皇と藤原氏の不信を買い、のちの長屋王の変の遠因になったとされる(辛巳事件)。
    728年
    10月20日(神亀5年 9月13日)皇太子の基王が病死。
    729年
    3月14日(神亀6年 2月10日)長屋王の変。漆部造君足と中臣宮処連東人が長屋王が密かに左道を学び国家を傾けようとしていると密告(前年の皇太子死去のことを指していると思われる)。天皇と藤原氏は三関を封鎖させた上で、藤原宇合・佐味虫麻呂・津島家道・紀佐比物に六衛府の兵を率いさせて長屋王邸を包囲。
    3月15日(神亀6年 2月11日)天皇、舎人親王・新田部親王・多治比真人池守・藤原武智麻呂・小野牛養・巨勢宿奈麻呂を長屋王邸に派遣して問責を行う。
    3月16日(神亀6年 2月12日)長屋王と吉備内親王、二人の子の膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王が自殺。一方、長屋王の側室であり藤原不比等の娘であった藤原長娥子とその子や、長屋王の兄弟姉妹らは、みな赦免されており、連座して流罪となったものも上毛野宿奈麻呂ら7名と少なく、大赦も行われている。告発に関わった中臣宮処東人、漆部君足、漆部駒長は賞され位を与えられた。事件は藤原四兄弟の陰謀という側面があるが、長屋王は開墾や反乱鎮圧などに積極政策を進めて功績も大きい一方、非常に大きな権力を持ち、自身を特別扱いしていたこともあって敵が多く、天皇の夫人藤原光明子と、その子基王の地位を巡って批判的だったことから、天皇の不満も買っていたとみられる。
    732年
    10月10日トゥール・ポワティエ間の戦い。イベリア半島のウマイヤ軍がピレネー山脈を超えてフランク王国へ侵攻。迎撃に出た宮宰カール・マルテルの軍勢と衝突し、ウマイヤ軍の指揮官アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーが戦死したため、ウマイヤ軍は退却。勝利したカール・マルテルは権力を強め、息子ピピン3世の代にカロリング朝を興すことになる。
    734年
    5月14日(天平6年 4月 7日)大地震。建物多数が倒壊し、圧死者多数。朝廷、諸国に使者を出して神社の被害を調べる。畿内の地震だったのか、南海トラフのような広域地震だったのかは不明。
    5月19日(天平6年 4月12日)天皇、諸国に使者を出して神社の地震被害を調べる。
    5月24日(天平6年 4月17日)天皇、陵墓と功ある王墓の地震被害を調べる。詔勅を出して、政治の欠失を認め、改めるよう指示。
    5月28日(天平6年 4月21日)天皇、京と畿内各所に使者を送って人民の疾苦を調べる。
    8月15日(天平6年 7月12日)天皇、地震を受けて大赦を行う。
    735年
    新羅の使者が来訪し、国号を変更したことを伝えたため、朝廷は無断で国号変更をしたことを責め、使者を追い返す。
    九州北部で天然痘の流行が始まり、九州全土へと拡大する。異国船から広がったとも言われる。
    9月14日(天平7年 8月23日)大宰府は九州で拡大する天然痘を受けて、管内の調の免租を朝廷に申請し受理される。
    736年
    (天平8年 2月)遣新羅使を派遣。前年に続き両国関係は悪化しており、正使としての待遇を受けられず帰国の途につく。この派遣の最中に、使節一行に天然痘感染者が相次ぐ。随員の伊吉宅麻呂は、新羅へ向かう途中に壱岐で死去、正使阿倍継麻呂も翌年1月、帰国途中に対馬で死去。
    737年
    1月(天平9年 1月)遣新羅使の生存者一行が帰国し京に入る。この頃、本州各地でも天然痘が広がり始め、新羅と関連付けられるようになった。
    5月25日(天平9年 4月17日)藤原房前、天然痘で死亡。藤原氏主流北家の祖。
    7月25日(天平9年 6月23日)中納言多治比縣守が死去。天然痘によるものとの説もある。
    7月28日(天平9年 6月26日)太政官から疫病対策の指針が全国へ出される。症状に詳しく、治療法の記載、米の支給などを指示。この頃、朝廷を構成する多くの貴族が死亡したため、朝政の停止を余儀なくされる。
    8月17日(天平9年 7月13日)藤原麻呂、天然痘で死亡。京家の祖。
    8月29日(天平9年 7月25日)藤原武智麻呂、天然痘で死亡。死の直前、正一位左大臣を贈られる。南家の祖。
    9月 3日(天平9年 8月 5日)藤原宇合、天然痘で死亡。式家の祖。
    9月(天平9年 8月)天然痘の大流行を受けて、朝廷は九州のみに認めていた調の免租を全国に拡大。
    天然痘による日本国内での死者は100万人から150万人(当時の日本の人口の25~35%)という説もある。国内で広がった疫病では、最も犠牲者の比率が高かった疫病の一つ。また詳細に記録された最初の疫病。貴族・官人が多く死亡したため朝廷が機能しなくなり、生き残った大納言橘諸兄が政権首班となって権力を握ることになる。また多くの農民が死亡して農生産力が低下したため、のちの開拓私有制度(墾田永年私財法)へとつながったとされる。
    738年
    7月30日(天平10年 7月10日)長屋王の変で、長屋王を密告した中臣宮処東人(この時右兵庫頭)が、もと長屋王に仕えていた左兵庫少属の大伴子虫と囲碁を打っている最中、長屋王のことで口論となり、大伴子虫の手で惨殺される。長屋王の変からかなり経っていること、身分違い同士で囲碁を打っていることから、単に敵討ちとも言えないが、この事件を書いた「続日本紀」には東人の密告を「誣告」としているため、「続日本紀」が編纂された平安初期には密告は虚偽であるという認識が広まっていたのは確か。
    740年
    9月28日(天平12年 9月 3日)九州で大宰少弐藤原広嗣が挙兵したとの報が入り、大野東人を大将軍として征討軍の編成が命ぜられる。
    10月 9日(天平12年 9月14日)板櫃川の戦いが始まる。広嗣軍は敗走。
    11月16日(天平12年10月23日)藤原広嗣が逃亡潜伏していた値嘉嶋(五島列島の宇久島)で安倍黒麻呂に捕らえられる。
    11月24日(天平12年11月 1日)藤原広嗣が斬首される。
    741年
    3月 5日(天平13年 2月14日)国分寺・国分尼寺建立の詔が出される。
    743年
    6月23日(天平15年 5月27日)墾田永年私財法が発布される。開墾をしたものに永年の私有を認めるという法令。
    11月 5日(天平15年10月15日)聖武天皇紫香楽に大仏造営の発願を行う。
    745年
    2月26日(天平17年 1月21日)民衆への布教と様々な社会事業を行った行基が日本最初の大僧正になる。大仏建立に協力したことが評価され。
    6月 1日(天平17年 4月27日)美濃国で大きな地震が起こり、三日三晩揺れるという。正倉や寺院の堂塔、民衆の盧舎が大きな被害を受ける。以降20日間にわたって地震が続く。液状化とみられる現象もあったという。
    6月12日(天平17年 5月 8日)地震を受けて、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺で読経を行う。
    747年
    6月15日アブー・ムスリムがアッバース家を支持し、ホラーサーンの都市メルヴでウマイヤ朝に対して武装蜂起。いわゆるアッバース革命のはじまり。ウマイヤ朝はイスラムで初めて世襲化した王朝で、アッバース家はムハンマドの叔父の子孫に当たる。
    749年
    8月ウマイヤ朝がアッバース家を弾圧。当主イブラーヒームを処刑。
    9月アブー・ムスリム軍がクーファまで進出。
    11月アッバース家の生き残りであるアブー・アル=アッバースがクーファでカリフに選ばれる。
    12月 8日(天平勝宝元年10月24日)大仏の鋳造が完成。
    750年
    1月25日ザーブの戦い。ウマイヤ朝のマルワーン2世がアッバース家討伐のために遠征するも、アッバース軍のアブドゥッラー・イブン・アリーに大敗。マルワーンはシリア、パレスチナを経てエジプトへと落ち延びる。
    8月 5日ウマイヤ朝のマルワーン2世がエジプトでアッバース軍の兵に殺害され、ウマイヤ朝は崩壊へと進む。
    751年
    フランク王国の宮宰ピピン3世がメロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開く。
    753年
    5月26日(天平勝宝4年 4月 9日)東大寺蘆舎那仏の開眼供養
    755年
    12月16日(天宝14年11月 9日)唐の節度使の安禄山が、唐王朝最大の反乱、安史の乱を起こす。李林甫の死後、宰相となった楊国忠との対立が最大の要因。安禄山の軍勢は洛陽へ向けて侵攻。玄宗皇帝は、信頼していた安禄山の反乱を信じなかったが、事実と知ると安禄山の妻の康氏と、安禄山の長男安慶宗を処刑。西域で活躍していた高仙芝や封常清、張介然、後に名将と讃えられる郭子儀やその配下の李光弼らが勅命を受けて迎撃に向かう。
    756年
    7月15日(天宝15年 6月14日)馬嵬事変。安禄山の乱を受けて蜀へと落ち延びる途中の玄宗一行が、馬嵬に到着した際、陳玄礼や兵士らが、乱の原因を作ったとして宰相の楊国忠を襲って殺害。楊国忠の息子の楊暄や、楊貴妃の姉の韓国夫人らも殺害し、さらに、楊貴妃を殺すよう玄宗に迫る。玄宗は楊貴妃は無関係と拒否するも、事態の悪化を訴える韋諤や高力士の説得に玄宗は応じるしかなくなり、楊貴妃は高力士によって縊死させられた。
    757年
    1月29日(聖武2年 1月 5日)燕王朝初代皇帝となった安禄山が次男の安慶緒に殺される。安禄山が後継者から安慶緒を排除して、側室が生んだ3男の安慶恩にしようとしたためとされる。
    1月30日(天平勝宝9年 1月 6日)橘諸兄が死去。
    7月18日(天平宝字元年 6月28日)山背王が橘奈良麻呂の反乱計画を密告。
    7月22日(天平宝字元年 7月 2日)上道斐太都が小野東人の反乱計画を密告。東人は逮捕される。
    7月23日(天平宝字元年 7月 3日)小野東人が拷問の末に反乱計画を自白。
    7月24日(天平宝字元年 7月 4日)反乱を計画したとして、橘奈良麻呂、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足らが逮捕され、拷問などにより相次いで獄死。佐伯全成が自白後に自殺。以後、連座して443人が処罰を受ける。通称「橘奈良麻呂の乱」。藤原仲麻呂が台頭する。
    (天平宝字元年)この年、「養老律令」が制定される。「大宝律令」をより日本に適したものに改めたもの。藤原不比等によって律令撰修が進められ、不比等の死で一旦中断したが、その後改訂が進められて、藤原仲麻呂の手で施行された。平安中期には形骸化したが、明治維新後の「新律綱領」制定まで、公式に廃止はされなかった。
    758年
    9月 7日(天平宝字2年 8月 1日)孝謙天皇が大炊王に譲位し、大炊王は淳仁天皇となる。しかし引き続き孝謙上皇が権力を維持。
    759年
    4月10日(天成3年 3月 9日)燕の2代皇帝安慶緒を史思明が殺害。史思明は燕の3代皇帝となる。史思明は安禄山とは同郷の古い友人同士で、安禄山の乱に従って功績を上げた人物。安禄山が殺されると一旦唐に降ったが、唐の粛宗から命を狙われていると知り、自立を図って安慶緒を殺害、燕の皇帝となった。
    12月 9日(天平宝字3年11月16日)近江国勢多の付近に保良宮の造営が始まる。
    この年、新羅征討計画が藤原仲麻呂を中心に進められるが、孝謙上皇との関係が悪化したことで中止となったという。
    760年
    藤原仲麻呂が太政大臣(太師)に任じられる。皇族以外では初。
    7月23日(天平宝字4年 6月 7日)光明皇太后が崩御。甥である藤原仲麻呂の後援者でもあったため、仲麻呂にとっては大きな痛手となる(それを予期して仲麻呂は自身の太政大臣就任工作をしたとも言われる)。
    761年
    4月18日(順天3年 3月 9日)燕の第3代皇帝史思明が、長男の史朝義によって殺される。史思明が後継者に末子の史朝清を選んだため。史朝義が燕の4代皇帝となる。
    11月14日(天平宝字5年10月13日)淳仁天皇と孝謙上皇が建設中の保良宮に行幸。
    11月29日(天平宝字5年10月28日)淳仁天皇が保良宮を「北京」としてしばらく滞在する旨を勅する。
    762年
    6月19日(天平宝字6年 5月23日)淳仁天皇が保良宮から平城京へ戻る。孝謙上皇との対立が原因か。保良宮の建設も止まり、まもなく廃止される。
    10月21日(天平宝字6年 9月30日)御史大夫石川年足が死去。蘇我氏の出で、優れた政治家だったという。藤原仲麻呂の又従兄弟で補佐役だったため、仲麻呂の権勢を弱めることとなった。
    11月12日(宝応元年10月22日)唐で権力を握っていた宦官の李輔国が失脚後、暗殺される。
    763年
    (顕聖3年 1月)燕の4代皇帝史朝義が唐とウイグルの連合軍に追い込まれ、逃亡先の莫県で自殺。安史の乱は終息する。
    6月21日(天平宝字7年 5月 6日)唐の律宗の大僧正で、苦難の末に日本へ渡ってきた鑑真が唐招提寺で死去。
    764年
    10月10日(天平宝字8年 9月11日)藤原仲麻呂の乱。孝謙上皇が道鏡を重用するようになり、それを諌めたことで孝謙との関係が悪化した藤原仲麻呂(恵美押勝)が、「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられたのを利用して訓練の兵を動員しようとしたところ、反乱と判断した孝謙上皇側が淳仁天皇を幽閉し、御璽と駅鈴を押収。仲麻呂の官位を剥奪、三関を閉鎖する。仲麻呂は一族と都を脱出して近江へ向かう。孝謙上皇は重鎮の吉備真備に誅伐を命令。真備は兵を先回りさせて東山道を封鎖。仲麻呂は皇族出身の氷上塩焼を天皇に擁立して越前へ向かう。官軍側についた佐伯伊多智は仲麻呂の子で越前国司藤原辛加知を殺害して愛発関を封鎖。
    10月17日(天平宝字8年 9月18日)琵琶湖を横断して北陸道へ向かおうとした藤原仲麻呂は、嵐のために失敗。愛発関攻略にも失敗し、三尾で佐伯伊多智と藤原蔵下麻呂の軍勢に挟まれて大敗。仲麻呂や氷上塩焼らは殺害され、仲麻呂一族も皆殺しにされた。藤原南家は没落。淳仁天皇は廃位の上で淡路へ流罪。また仲麻呂側についていた船親王、池田親王、三方王、宗形王らも流罪となった。
    769年
    11月 7日(神護景雲3年10月 1日)宇佐八幡宮神託事件。宇佐八幡宮で「道鏡が皇位に就くべし」との託宣が出たと上奏があり、道鏡を寵愛する称徳天皇が確認のため、和気清麻呂を派遣するが、皇位は天皇家が継ぐべし、という託宣が下ったと報告したため、和気広虫・清麻呂姉弟が流刑になった事件。結局、天皇が詔で道鏡へ皇位を譲らないことを宣言し終息。
    (神護景雲3年)称徳天皇が河内国若江郡に離宮となる由義宮を造営。「西京」とも呼ばれた。道鏡の出身地であり弓削寺の辺りと思われる。
    770年
    (神護景雲4年)百万塔陀羅尼が印刷され、小型の塔に納めて10万基ずつ大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺・崇福寺に奉納される。藤原仲麻呂の乱で亡くなった人々を弔うために、称徳天皇が作らせた。現存する世界最古の印刷物。
    3月(神護景雲4年 2月)称徳天皇が由義宮に行幸。
    8月28日(神護景雲4年 8月 4日)称徳天皇崩御。病床に道鏡が呼ばれることもなく、平癒祈祷の記録もないことから、すでに権力体制が藤原永手・藤原百川らに移っていたとも見られる。
    9月14日(神護景雲4年 8月21日)道鏡に造下野薬師寺別当の命が下り、下野国へ下向。後ろ盾であった称徳天皇の崩御で左遷されたもので、弟の弓削浄人らも配流された。
    772年
    5月13日(宝亀3年 4月 7日)道鏡、左遷先の下野国で死去。早くから女帝との姦通が言われ、皇位継承にまで絡む問題を起こした割には、自身は左遷だけで終わっているため、誇張されたという説もある。
    8月12日(宝亀3年 7月 9日)豊後鶴見岳の北側にある伽藍岳が噴火。泥流が発生し死者多数。
    ザクセン戦争勃発。
    775年
    この頃、地球上に大量の宇宙線が降り注いだとみられることが屋久杉の年輪調査や南極の氷床の調査などで判明。超新星爆発説、ガンマ線バースト説、大規模な太陽フレア説などが考えられるが、原因を特定するまでには至ってない。
    780年
    5月 1日(宝亀11年 3月22日)陸奥上治郡の大領・伊治呰麻呂が陸奥牡鹿郡大領の道嶋大盾と、陸奥国按察使の紀広純を殺害し反乱を起こす(宝亀の乱)。藤原継縄が征討大使に任ぜられるも出兵しなかったため罷免され、藤原小黒麻呂が征討大使となる。
    781年
    1月30日(宝亀12年 1月 1日)伊勢斎宮に美雲の瑞祥が現れたことを受けて天応と改元。元日改元唯一の例。
    (天応元年8月)伊治呰麻呂の反乱征討に出ていた持節征東大使藤原小黒麻呂が征討を終了して帰京。反乱の行方、伊治呰麻呂の消息については記録が乏しく不明。
    782年
    2月26日(天応2年閏1月10日)氷上川継の乱。天武系皇族の氷上川継の家臣大和乙人が宮中で不審を咎められ捕縛。その尋問から氷上川継が反乱を企てたとして捜査が始まる。
    3月 2日(天応2年閏1月14日)氷上川継が捕縛され、連座して京家藤原浜成、皇族の三方王、陰陽師の山上船主らが処罰される。大伴家持や坂上苅田麻呂も、短期間だが官職を解かれた。
    3月(天応2年)勝道上人が日光男体山の登頂に成功。いわゆる「日光山」の開山。
    9月30日(天応2年 8月19日)延暦に改元。後漢書を出典とする。25年続き、一世一元の制度導入以前では応永についで長い年号となる。
    783年
    この頃までの間に万葉集が成立したと見られる。万葉集は759年までに詠まれた多数の歌の中から複数の編纂者の手を経たのち、大伴家持によってまとめられたとする説が有力。大伴家持が首謀者と疑われた藤原種継暗殺事件の影響もあり、実際に広まったのはさらに20年以上も後と見られる。
    784年
    12月27日(延暦3年11月11日)建設中の長岡京へ遷都。奈良の仏教勢力から距離を置くための遷都と見られる。水運に便利で、水資源にも恵まれた場所として選ばれた。宮殿は難波宮の宮殿を移築したもので丘陵上にあった。短期間で廃止されたことから、前後の平城京・平安京と比べると認知度の低い都だが、規模は相応にあったと見られる。
    785年
    11月 3日(延暦4年 9月23日)長岡京建設現場で指揮を採っていた造長岡宮使の藤原種継が弓で射られる。
    11月 4日(延暦4年 9月24日)藤原種継が死亡。早良親王を含む十数名が逮捕される。多くが処刑される事件に発展。大伴家持が首謀者とされたが直前に没していたため、官位剥奪の処分となった。
    11月 8日(延暦4年 9月28日)早良親王が抗議の絶食により、淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近で死亡。
    ザクセン人の領主ヴィドゥキントがカール大帝に降伏し、キリスト教に改宗する。
    788年
    (延暦7年 6月?)蝦夷征討で衣川まで来た紀古佐美率いる朝廷軍が蝦夷を攻撃するが大敗を喫する(巣伏の戦い)。
    794年
    7月14日(延暦13年 6月13日)大伴弟麻呂、坂上田村麻呂が蝦夷征討を行い大勝する。
    11月18日(延暦13年10月22日)桓武天皇が、物流の拠点と、仏教勢力から距離をおくため、山背国葛野郡と愛宕郡にまたがって建設された平安京に遷都する。山背国は山城国と改められることになる。
    797年
    7月17日東ローマ帝国イサウリア王朝の第4代皇帝コンスタンティノス6世が、母親エイレーネーのクーデターで失脚し、復位させないよう母親から目を潰される。
    8月15日クーデターで失脚し母親から目を潰されたコンスタンティノス6世が、傷がもとで死亡する。
    800年
    4月11日(延暦19年3月14日)富士山が大噴火し噴煙が覆う。火山雷などが観測され、大量の噴石や降灰があり、付近の河川の水が紅くなったという。
    (延暦19年)蓄銭叙位令廃止。銭の流通を促進する目的だったが、貯蓄するだけで流通する効果が必ずしも出なかったため。
    (延暦19年)藤原種継暗殺事件で流刑に処され憤死した早良親王へ、崇道天皇の称号を贈る。御霊を鎮め、呪いを解くため。
    12月25日カール大帝が教皇レオ3世よりローマ帝国皇帝の帝冠を受ける。
    802年
    2月13日(延暦21年 1月 8日)駿河の国司より富士山の噴火により相模国足柄路が廃止されたという報告が入る。
    5月19日(延暦21年 4月15日)蝦夷の武将、阿弖流爲と母礼が降伏
    6月22日(延暦21年 5月19日)富士山の噴火により筥荷路が新たに開かれる。
    8月11日(延暦21年 7月10日)阿弖流爲と母礼が京へ連行される。助命か処刑かで意見が分かれるが処刑が決定する。
    9月13日(延暦21年 8月13日)阿弖流爲と母礼が処刑される。
    803年
    5月31日(延暦21年 5月 8日)富士山の噴火で塞がれていた足柄路が復旧し、筥荷路が廃止される。
    8月 9日東ローマ帝国イサウリア王朝の皇帝で、初の女帝エイレーネーが没する。
    806年
    4月 9日(延暦25年3月17日)桓武天皇崩御。
    (延暦25年3月)藤原種継暗殺事件に関わったとして処罰された人に対し、生死に関わらず恩赦が下され、復位や帰京などが認められる。
    (延暦25年3月)磐梯山が噴火。大規模な山体崩壊があったとも言われる。
    807年
    10月 7日(大同2年 9月 6日)伊予親王の変。藤原宗成が桓武天皇の子で平城天皇の異母弟である伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が入手し藤原内麻呂に伝える。伊予親王も宗成が謀反を示唆したと奏上したが、宗成を尋問した所、謀反の首謀者は伊予親王であると白状したため、平城天皇は伊予親王と母親の藤原吉子を川原寺に幽閉。二人は無実を主張するも自殺。伊予親王の子等が流罪となった。藤原北家の藤原宗成、藤原南家の藤原雄友、藤原乙叡、藤原友人らも処罰。藤原南家はこの事件で衰退する。事件は藤原式家の藤原仲成が裏で暗躍したと言われ薬子の変の遠因の一つになった。
    810年
    10月 7日(大同5年 9月 6日)平城上皇が平城京遷都の詔を発し「薬子の変」が勃発。嵯峨天皇と平城上皇の対立事件。「平城太上天皇の変」とも呼ばれる。平城上皇が復位を狙い、上皇の寵愛を受けていた藤原薬子と兄の仲成が画策したとされる。嵯峨天皇は遷都に従うふりをして坂上田村麻呂ら有力者を造宮使に任じ阻止を図る。
    10月11日(大同5年 9月10日)嵯峨天皇が三関を封鎖。事実上遷都を拒否。藤原仲成を逮捕し左遷を決定。藤原薬子の官位を剥奪。
    10月12日(大同5年 9月11日)平城上皇は天皇方の動きを知って反発。挙兵を決意し藤原薬子と東国へ向かう。嵯峨天皇は上皇阻止を坂上田村麻呂に命じ、田村麻呂は上皇派と見られて監禁された文室綿麻呂を釈放させてともに上皇の動きを抑えるために出陣。また平城上皇の寵臣、藤原仲成が、紀清成・住吉豊継の手で処刑される(正規の処刑に則っておらず、左遷の罰が下った直後のことなので、暗殺とも言える)。
    10月13日(大同5年 9月12日)平城上皇が天皇方の兵力の動きを見て観念し、平城京に戻って剃髪し降伏。藤原薬子は自殺。薬子の変が終わる。
    10月20日(大同5年 9月19日)弘仁に改元。
    813年
    4月 3日(弘仁4年 2月29日)肥前の五島・小近島(小値賀島)に、5隻の船に乗った新羅人110人が現れ、島民9人を殺害し、101人を捕虜とする。
    816年
    9月11日(弘仁7年 8月16日)大風によって平安京最南端の羅城門が倒壊する。
    819年
    5月30日(弘仁10年 5月 3日)空海が天野社の地主神を高野山に勧請する。
    821年
    (長慶元年)唐王朝で、科挙を巡る不正をきっかけにして、権力闘争である「牛李の党争」が勃発。以後、20年にわたって、牛僧孺・李宗閔を中心とする牛党と、李徳裕を中心とする李党が頻繁に権力交代を繰り返し、国政を乱す。唐王朝滅亡の遠因となった。
    833年
    (天長10年)律令の解説書「令義解」10巻がまとめられる。淳和天皇の勅により、右大臣清原夏野を総裁として制作が進められた。これとは別に868年頃に惟宗直本によってまとめられた私撰本の解説書「令集解」がある。
    835年
    4月22日(承和2年 3月21日)弘法大師空海没。
    (大和9年11月)甘露の変。唐の文宗に抜擢されていた李訓と鄭注が、権力を持つ宦官勢力を滅ぼそうと計画を立てるが、鄭注が節度使として鳳翔から兵を率いて宮中に乗り込む前に、功績独占を狙った李訓が「宮中に甘露が降った」ことを理由に宦官を集めて殺害しようと企てこれが露見。宦官の圧力を受けた文宗によって処刑される事件が起きる。鄭注も鳳翔で殺害された。李訓と鄭注は、牛李両党からは中立であったために抜擢されていた。これ以降、宦官の権力がさらに増大することに。
    838年
    神津島で大噴火。島民全員が死亡したとされる。
    841年
    6月25日フォントノワの戦い。フランク王国の王位と領土をめぐって、ロタール1世、ルードヴィヒ2世、シャルル2世の兄弟が争う。
    842年
    8月24日(承和9年7月15日)嵯峨上皇が崩御。
    8月26日(承和9年7月17日)承和の変が勃発。伴健岑と橘逸勢が謀反を企てたとして逮捕される。仁明天皇と藤原順子との間に道康親王が生まれ、さらに嵯峨上皇の死によって皇太子恒貞親王の身に危険が及ぶ判断した両名が皇太子を東国へ連れ出そうとする計画を阿保親王が檀林皇太后に伝えたことで発覚したとされる。
    9月 1日(承和9年7月23日)藤原良相が近衛府の兵を率いて皇太子恒貞親王の座所を包囲し、大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文屋秋津らを逮捕。恒貞親王は無罪とされるも廃太子となり、逮捕された有力者はことごとく左遷や流罪にされた。代わって藤原良房が大納言になり、良房の甥でもある道康親王が皇太子となる。良房の権力掌握の第一歩としてその陰謀とされるが、処罰された人物の多くは良房よりも位が高く実力者であることから、良房単独の陰謀ではなく、仁明天皇が主導し、朝廷内の派閥抗争によって起きた政変とする見方が有力。ただ当時の朝廷の人間関係は複雑で誰がどの派閥に属していたかはよくわかっていない。処罰を受けた人物でも春澄善縄のようにすぐに許され出世した人物もおり、廃太子となった恒貞親王も皇位継承候補としては残っている。
    843年
    8月10日ロタール1世、ルードヴィヒ2世、シャルル2世は、ヴェルダン条約を締結し、フランク王国は3つに分裂する。
    845年
    (会昌5年4月)唐の宰相李徳裕と、皇帝武宗の師事する道士趙帰真が、かねてより進言していた廃仏政策を武宗のもとで実行に移す。4600の寺院が廃止され、26万人の僧が還俗させられる。いわゆる会昌の廃仏。唐に留学していた日本の僧侶らも影響を受けた。
    846年
    (文聖王8年)新羅の有力者で唐や日本との交易で勢力を築いた張保皐が反乱を起こし、閻長によって暗殺される。年代は異説あり。
    848年
    (大中2年)張議潮が帰義軍を組織し、唐の西域を占領していた吐蕃軍を打ち破り瓜州・沙州の二州を取り戻す。その後、11州まで取り戻す。
    850年
    11月23日(嘉祥3年10月16日)出羽地震。東北地方で大きな揺れがあり死者多数。津波もあったとされる。
    851年
    (大中5年)張議潮が、唐の朝廷から帰義軍節度使に任じられる。帰義軍節度使は中央から事実上独立しており(張議潮自身は唐朝廷の高官となっている)、張氏および縁戚の曹氏に代々受け継がれて、1035年に西夏に滅ぼされるまで続いた。十国には含まれていない。
    852年
    12月 5日(大中6年10月21日)朱全忠、唐の宋州に生まれる。
    アルメン・フィルマンという研究者がコルドバでパラシュート降下実験を行う。現在のものとは異なり、骨組みのついた大きな傘のようなものを使用。
    859年
    (大中13年12月)唐で浙東の賊の裘甫が決起し象山を攻め落とす。裘甫の乱の勃発。裘甫は自ら天下都知兵馬使と称し、年号を羅平と改める。
    860年
    (大中14年 3月)裘甫の乱に対し、唐朝廷は王式を抜擢。王式は討伐軍を編成。
    (大中14年 7月)裘甫の乱が王式率いる南路軍に鎮圧される。裘甫は捕らえられて長安で処刑される。
    861年
    5月19日(貞観3年 4月 7日)直方隕石が落下する。燃え残った隕石を人々は神社に奉納する。
    862年
    リューリクがラドガとノヴゴロド(ホルムガルド)を占領し、同地のスラブ人を征服。リューリクは半ば伝説化した人物で、ヴァリャーグのルス族の族長であるとされる。ヴァリャーグについては、スカンジナビアから来たバイキングであるという見方が主流。ロマノフ王朝以前の諸王朝はリューリクの子孫を名乗っていた。
    863年
    6月10日(貞観5年 5月20日)朝廷の主催で、神泉苑にて御霊会が行われる。かつて政争に敗れて死を遂げた6人の人物、早良親王(藤原種継暗殺の嫌疑をかけられ自殺)、伊予親王と藤原吉子(ともに謀反の嫌疑で自殺)、藤原仲成(薬子の変で殺害)、橘逸勢(承和の変で流罪)、文室宮田麻呂(謀反の嫌疑で流罪)の霊を鎮めるため。仲成を除く5人は死後に無実とされた人物。藤原仲成は有罪のままだが慰霊の対象にされている。
    864年
    7月 2日(貞観6年 5月25日)駿河国から報告があり、富士山が大噴火を起こすと伝える。溶岩が大量に流出し、本栖湖と剗の海に流れ込み、剗の海を埋めて、2つの小さい湖(西湖・精進湖)に分かれる。この溶岩の広がった跡が後の青木ヶ原樹海。大地震が3回発生。
    (貞観6年)冬、朝廷の実力者である藤原良房が病で政務から離れる。太皇太后藤原順子、良房の弟藤原良相、伴善男の3人が実権を握る。
    865年
    (貞観7年)秋、朝廷の実力者である藤原良房が政務に復帰。この頃には藤原良相との関係が悪化したものと思われる。
    866年
    4月28日(貞観8年閏3月10日)応天門の変。平安京大内裏の応天門が炎上する事件があり、伴善男は、対立関係にあった左大臣源信を放火犯として、右大臣の藤原良相に訴える。藤原良相が兵を源信の邸宅に差し向けるが、良相の兄で太政大臣の藤原良房は、養子の参議藤原基経よりこの話を聞いて驚き、清和天皇も知らなかったことから、勅により兵は引き上げさせる。
    9月15日(貞観8年 8月 3日)備中権史生の大宅鷹取が、応天門が炎上する直前に、伴善男、伴中庸、紀豊城の3人を見た、と訴える(大宅鷹取はこの頃、伴中庸の命で生江恒山らに襲われて娘を殺され自身も重傷を負っている)。清和天皇は勅を出して伴善男、伴中庸、紀豊城、生江恒山、伴清縄らを捕えて尋問にかけさせる。その結果、伴中庸と伴善男が「自白した」として、関係者が流罪に処せられる(大宅鷹取親子殺傷事件も伴中庸の有罪)。また、藤原良相も失脚して間もなく病死、疑われた源信も隠棲したあと落馬がもとで死亡し、藤原良房が実権を握ることとなった。良房が伴氏と紀氏の排除を狙ってしかけた政変とも取れるが真相は不明。また能書家で地方官として優れた業績を残した紀夏井は事件と無関係ながら連座して土佐に流されている。
    867年
    4月 6日(貞観9年 2月28日)豊後鶴見岳北側の伽藍岳が噴火。
    868年
    (咸通9年 7月)唐の桂州で同地に送られていた徐州の兵らが龐勛を盟主にして勝手に徐州へ帰還する動きを始める。地方官の横暴に反発していた豪族や民衆らがこれに参加し規模が拡大。龐勛の乱が勃発する。
    (咸通9年 9月)龐勛の軍勢が徐州に入り、彭城が攻め落とされる。龐勛は節度使の地位を要求するが、政府は交渉に応じつつ討伐軍を編成。康承訓、王晏権、戴可師らを司令官に任命する。
    869年
    7月 9日(貞観11年 5月26日)貞観地震。東北の沖合を震源とするマグニチュード8.3~8.6の巨大地震が発生。建造物の倒壊、大津波で千人以上が死亡。
    8月29日(貞観11年 7月14日)肥後の沿岸部で高潮か津波によるとみられる水害が起きる。
    (咸通9年 9月)龐勛の軍勢が朱邪赤心(李国昌)に攻められ壊滅。龐勛も討ち死にし反乱は終息。
    870年
    バイキングのインゴールヴル・アルナルソンらがアイスランドに移住。
    871年
    6月 7日(貞観13年 5月16日)鳥海山で噴火か。泥流が発生したとみられる。
    872年
    10月 7日(貞観14年 9月 2日)藤原良房が病死。人臣で初めて皇女を妻に迎えた人物、人臣で最初に摂政となった人物、はじめて准三宮の待遇を受けた人物。朝廷の実力者として君臨した。
    874年
    3月25日(貞観16年 3月 4日)薩摩開聞岳が大規模噴火。
    (乾符元年)唐で塩の密売業者である王仙芝が長垣で挙兵。仲間の黄巣も参加し、大規模な反乱へと発展する。いわゆる黄巣の乱。
    875年
    6月(貞観17年5月)上総の俘囚が反乱を起こす。
    後ウマイヤ朝の宮廷詩人で発明家でもあったイブン・フィルナースが、オーニソプター(羽ばたき式飛行機)を自作し、コルドバの花嫁の山(ジャバル・アル・アルース)で飛行実験を試み墜落、大怪我を負う。記録上人類最初の「飛行装置による飛行実験」ともいわれる。
    (貞観17年)平安朝の文人貴族である都良香が、「富士山記」を著す。山頂の様子などが詳しいため、本人か取材した人が富士登山をした可能性もある。
    878年
    10月28日(元慶2年 9月29日)相模・武蔵地震(元慶地震)。関東諸国で大きな地震が発生したという。関東は古代三関より東側、美濃・尾張より東方を指す。特に相模・武蔵両国で大きな被害があったという。
    879年
    ヴァリャーグの王でリューリク朝の始祖リューリクが死去。同じヴァリャーグのオレーグが、リューリクの幼い子イーゴリを擁して後継の座につく。
    880年
    12月(金統元年)黄巣の反乱軍が長安を攻め落とす。唐の皇帝僖宗は蜀へと逃れる。黄巣は皇帝と称し、国号を斉として建国。しかし虐殺や略奪などの非道が横行し、斉は国家としての体をなさず。
    882年
    ヴァリャーグの王オレーグが、キエフを征服して同地に拠点を移す。キエフ大公国の始まりとされる。
    883年
    12月13日(元慶7年11月10日)宮中で陽成天皇の乳母紀全子の息子である源益が殴殺される事件が起きる。事件は秘匿されるも宮中の行事がことごとく中止となる。事件の詳細は不明で犯人もわからないが、様々な記録には陽成天皇が何かしら関わっていると記されている。ただし天皇の生母藤原高子とその兄の藤原基経との関係が悪く、基経は皇位継承にも関与したため、後に陽成天皇を貶めた可能性もある。
    884年
    3月 4日(元慶8年 2月 4日)陽成天皇が退位。源益殺害事件を受けて藤原基経から強制されたと見られる(表向きは病気による)。基経が諸公卿を抑えて仁明天皇の第三皇子で55歳の時康親王を即位させる(光孝天皇)。陽成天皇は暴君的逸話が残されているが、生母藤原高子とその兄の藤原基経との対立によって排除された面もある。陽成天皇は退位後に長生きし上皇歴は65年と歴代最長で、光孝・宇多・朱雀・村上の4代に渡る。陽成源氏の祖であり、清和源氏の祖と云う説もある。
    5月(金統5年)王満渡の戦いで、黄巣軍は雁門節度使の李克用に大敗を喫し、斉はほぼ瓦解。
    7月13日(金統5年 6月17日)黄巣は故郷へと落ち延び、狼虎谷で自害。
    885年
    5月(仁和元年7月)薩摩開聞岳が大噴火。溶岩流出、および火砕流が発生。
    この頃、太宰大弐の源精が帰京した際に光孝天皇に黒猫を献上する。猫はすぐに天皇の子の源定省(のちの宇多天皇)に下賜された。宇多天皇がこの猫を非常にかわいがった様子が日記『寛平御記』に記されている。
    886年
    (仁和2年)新島で大噴火が起き、島の南部が形成されて現在の形になる。島民全員が死亡したとされる。
    887年
    8月22日(仁和3年 7月30日)仁和地震。五畿七道諸国の広範囲で大きな地震があり、畿内から日向にかけては津波の記録も残る。南海道地震とする説もあるが土佐での現存する被害の記録はないため、他の地域を震源とする広域地震の可能性もある。
    9月16日(仁和3年 8月25日)光孝天皇の病が重くなったことから、藤原基経は公卿らに諮って天皇の第15皇子で臣籍降下していた源定省を皇族に戻した上で立太子を行うこととする。基経としては皇位継承に皇統の嫡流だが仲の悪い妹藤原高子の子である陽成天皇の同母弟貞保親王を外すため、仲の良い妹藤原淑子の猶子でもあった源定省を選ぶという異例の措置を行った。
    9月17日(仁和3年 8月26日)光孝天皇が崩御。光孝天皇の第15皇子の源定省が皇族に戻り立太子の上で即位(宇多天皇)。皇統は嫡流から光孝系へと移動する。
    12月 9日(仁和3年11月21日)阿衡事件。藤原基経の関白任命をめぐって、橘広相が起草した任命詔勅の関白を指す「阿衡」の文字が「中身のない役職を意味している」と藤原佐世が指摘したことで基経が問題にし、職務を半年にわたって放棄する。菅原道真が間に入り、宇多天皇が折れて橘広相を更迭、誤りを認める詔を発して収拾した。基経は歴史上はじめて、関白という名前の役職についた人物で、就任の年月日には異説もある。
    888年
    6月20日(仁和4年 5月28日)前年の大地震で起きた八ヶ岳の山体崩壊によって出来た千曲川・大月川の天然ダムが決壊。下流域に大規模な洪水が発生する。潅水量5.8億立方mの巨大な天然ダム湖だったとされる。
    889年
    891年
    2月24日(寛平3年 1月13日)絶大な権力を有した関白藤原基経が死去。関白職は廃止にはならなかったが、政務は宇多天皇親政になり、菅原道真が重用されることになる。
    892年
    唐の盧州刺史楊行密が揚州一帯を手中に収め、淮南節度使となる。十国の一つ、呉の事実上の建国。
    894年
    (寛平6年)前年からこの年にかけて、対馬にたびたび新羅の軍勢が攻め寄せる。対馬守文屋善友がこれを撃退。
    896年
    杭州の軍閥杭州八都を率いる杭州刺史銭鏐が鎮海・鎮東両軍節度使となる。十国の一つ呉越の事実上の建国。
    福州の有力者王潮が威武軍節度使となる。十国の一つ閩の祖。
    潭州の有力者馬殷が湖南節度使となる。十国の一つ楚の事実上の建国。
    897年
    1月ローマのラテラン教会で「死体裁判」が行われる。
    8月 4日(寛平9年 7月 3日)宇多天皇が、突如皇太子の敦仁親王を元服させて譲位する(醍醐天皇)。突然の譲位は仏道に専心するため、上皇となって藤原時平の専横を抑えるため、陽成上皇系の皇統復活を阻止するためなどの説がある。なお醍醐天皇は父の宇多天皇が臣籍降下していた源定省の時に生まれており(源維城と名乗った)、歴代天皇で唯一、臣籍生まれの人物。
    威武軍節度使王潮が死去し、弟の王審知が後を継ぐ。閩の初代王。
    899年
    10月26日イングランドの原型を築いたウェセックスのアルフレッド大王が死去。
    新羅の王族を称する弓裔が高句麗復興を唱えて挙兵。
    900年
    新羅の将軍甄萱が後百済(国号は百済)を建国。
    901年
    2月16日(延喜元年 1月25日)昌泰の変で菅原道真が大宰府へ左遷される。
    弓裔が後高句麗を建国。最盛期には朝鮮半島の大部分を支配するに至る。
    902年
    南詔王の舜化貞が死去し、漢人の鄭買嗣が舜化貞の一族800人余りを殺して自ら皇帝を名乗り、大長和を建国。年号を安国と改める。
    904年
    封州刺史劉隠が、静海軍節度使の反乱を鎮圧して自ら静海軍節度使と名乗り、事実上独立。十国の一つ南漢の前身。
    905年
    5月21日(延喜5年 4月15日)古今和歌集成立(真名序による)。仮名序では旧暦4月18日(ユリウス暦5月24日)。
    8月 8日(天祐2年 7月 5日)白馬の禍。朱全忠が、側近の李振の進言で、唐朝廷の「衣冠清流」と呼ばれる有力な官僚ら30数人を滑州の白馬駅で殺害。遺体を黄河に投棄した事件。李振は「清流を自称する者を黄河に放り込めば、永遠に濁流となる」とうそぶき、朱全忠も同調したが、この事件によって朱全忠は有能な士大夫層の協力を得られなくなり、他の軍閥勢力と敵対する要因にもなったと見られる。
    907年
    2月27日耶律阿保機が、可汗に即位。のちの契丹(遼)王朝の前身。
    6月 1日(開平元年 4月18日)朱全忠が唐の哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。梁(後梁)を建国。五代十国のはじまり。
    11月 3日(天復7年 9月25日)唐の蜀王だった王建が、唐の滅亡を知って、後梁には従わずに自立。皇帝を名乗り、国号を「蜀」とする(前蜀)。
    909年
    4月26日(延喜9年 4月 4日)左大臣藤原時平が死去。39歳。優れた政治家であり、延喜の荘園整理令を実施するなど政治改革に取り組んで「延喜の治」の政策実行者であった人物。左右大臣として共に政策を行った菅原道真のことは高く評価していたが、菅原道真失脚を策した張本人とされて、道真を祀る天神信仰が広まると極悪人とみなされるようになった。
    911年
    4月 4日(乾化元年 3月 3日)後梁の南海王劉隠が死去。弟の劉龑が後を継ぐ。
    7月13日(延喜11年 6月15日)宇多上皇の主催で「亭子院酒合戦」が行われる。酒豪とされた8人が飲み比べを行い、藤原伊衡が勝利し駿馬を賜る。この時参戦した平希世は、後に清涼殿落雷事件で死亡した一人。紀長谷雄が「亭子院賜飲記」に記録。
    912年
    7月18日(乾化2年 6月 2日)後梁の太祖朱全忠が、後継者問題で第3子の朱友珪に殺害される。
    後梁の荊南節度使高季興が、荊州など3州をもって事実上独立。十国の一つ荊南。
    913年
    4月21日(延喜13年 3月12日)右大臣・左近衛大将の源光が、狩りの最中、泥沼に転落してそのまま浮かぶことなく溺死する事件が起きる。菅原道真の失脚に関わったと見られたことから、道真の祟りと噂される。
    4月22日(延喜13年 3月13日)宇多法皇の主催で「亭子院歌合」が行われる。
    915年
    (延喜15年)十和田湖が大噴火。火山爆発指数はVEI5の大規模なもの。周辺に火砕流が広がり、大量の火山灰などの噴出物が、西側に降り積もり、ラハールとなって米代川流域に広がる。
    916年
    3月17日耶律阿保機が「契丹」を国号に定める。
    917年
    南海王劉龑が皇帝を称し国号を大越とする。
    918年
    7月11日(光天元年 6月 1日)前蜀の初代皇帝王建が死去。無頼の徒から身を起こし、黄巣の乱で功績を上げ、唐の僖宗が蜀に脱出するのを助け、西川節度使から唐の蜀王、自立して皇帝を名乗った。独裁権力者として支配する一方、農業振興を図って内政を安定させ、文化事業も盛んに行った。王宗衍が後を継ぐ。
    大越高祖劉龑が国号を漢(南漢)と改める。
    後高句麗の王弓裔が暴虐の振る舞いが増えたため、洪儒、裴玄慶、申崇謙、朴智謙らが実力者の王建を擁立、弓裔は追放されのち殺害される。王建は国号を高麗(高句麗の自称)と定める。ほぼ同時代の前蜀の王建とは別人。この高麗の太祖王建は、唐の皇族の末裔説、淮河流域から移住した漢人の子孫説、中国系商人の子孫説、満州族の子孫説などがあり、朝鮮系という説はあまり見られない。
    923年
    4月 9日(延喜23年 3月21日)皇太子の保明親王が死去。21歳。先の皇太子保明親王は藤原時平の縁者であり、藤原時平は菅原道真を失脚させ死に追いやった人物であることから、菅原道真の祟りとの風聞が広がる。
    5月 8日(延喜23年 4月20日)醍醐天皇は大宰府に左遷されて死去した菅原道真の地位を太宰員外帥から右大臣に戻し、正二位を贈る。
    5月13日(同光元年 4月25日)李存勗が皇帝を名乗って後唐を建国。先祖が唐より李姓を賜ったことから、国号を「唐」とした。
    5月17日(延喜23年 4月29日)醍醐天皇は皇太子に保明親王の長男慶頼王を立てる。わずか3歳。
    12月30日(同光元年11月20日)朱全忠の右腕として辣腕を振るった李振が李存勗によって処刑される。
    924年
    (天祐21年)後唐の李存勗が、鳳翔一帯を支配した政権「岐」に圧力をかけ、岐王李茂貞は降伏し「岐」は滅亡。李茂貞は李存勗から「秦王」に封ぜられる。「岐」は十国には含まれていない。
    5月17日(同光2年 4月11日)李茂貞が死去。跡を子の李従曮が継ぐ。李従曮は946年まで生きて「岐王」に復し、その死で系統が断絶することから、「岐」を945年滅亡とする見方もある。
    925年
    7月12日(延長3年 6月19日)皇太子の慶頼王が病死。慶頼王も父の保明親王同様、藤原時平の縁者であることから、道真の祟りであるとの風聞が広がる。皇太子には同母弟の寛明親王が立てられたため、祟りに合わないよう保護されて育ったという。
    926年
    5月15日(同光4年 4月 1日)後唐の李存勗(荘宗)の悪政により反乱が多発。その鎮圧を任された李嗣源が、逆に部下によって皇帝に推戴される。追い詰められた李存勗は、禁軍の謀反により殺害される。李存勗は武将としては優れていたが、政治家としては暗愚で、側近の孔謙に一任して酒色に溺れ、演劇に熱を入れ、政治を顧みなかった。また宦官を重用して軍を監察させたため、軍の反感を買ったと言われる。
    6月 3日(天成元年 4月20日)李嗣源が正式に後唐の2代皇帝となる。
    契丹の皇帝耶律阿保機率いる軍勢が渤海の都である上京龍泉府を攻め落とし、渤海は滅亡。耶律阿保機は渤海の領地のうち、沿岸部を分離してあらたに東丹国を興して長男の耶律突欲を東丹王とし、残りを契丹国に編入する。この直後、耶律阿保機は遠征先で急死。耶律突欲は耶律阿保機の遺体とともに帰国。
    927年
    耶律阿保機の次男耶律堯骨が、契丹の皇帝位を継承。耶律阿保機の長男で東丹国王となったばかりの耶律突欲との間で対立を生むことになる。
    928年
    東川節度使の楊干貞が大長和の皇帝鄭隆亶を殺害し、清平侍中の趙善政を擁立し国号を大天興とする。
    929年
    東丹国の使者として、かつて渤海国使として来日したこともある裴璆が丹後に到着。しかし国号が変更になった理由を問われて、渤海が契丹に滅ぼされたこと、新しい支配者の非道を訴えたことが不興を買い、入京を認められなかった。
    東川節度使の楊干貞が、擁立したばかりの趙善政を廃して自立し、国号を大義寧とする。
    930年
    アイスランド全島から各集落の代表者が集まり、アルシング(民主議会)が開かれる。
    7月24日(延長8年 6月26日)朝議の行われていた最中の夕刻、清涼殿の南西側に落雷。大納言民部卿藤原清貫、右中弁内蔵頭平希世が焼死し多数の公卿が負傷。また紫宸殿にも落雷があり、右兵衛佐美努忠包が焼死する。清涼殿では火災も発生。宮中は大混乱に陥る。藤原清貫は菅原道真の失脚に関わっていたことから、道真の祟りにあったという噂が立つ。
    7月29日(延長8年 7月 2日)清涼殿落雷事件を受けて、穢れを祓うため、醍醐天皇が清涼殿から常寧殿に遷座するも、身近で起きた悲惨な事件の衝撃で病臥する。道真失脚に関わった人々の不審な死や、二人の皇太子の続けての急死、そして各地の飢饉に加えてこの落雷事件で、道真怨霊の話はかなり信じられていたと見られる。
    10月16日(延長8年 9月22日)病臥中の醍醐天皇が皇太子寛明親王に譲位。
    10月23日(延長8年 9月29日)醍醐天皇が亡くなる。
    東丹王耶律突欲が、弟で契丹皇帝の耶律堯骨の圧力を受け、後唐の2代皇帝李亶の誘いに応じて亡命する。東丹国は消滅したとされるが、制度は維持され、徐々に契丹に併合されていったものと見られる。なお突欲の長男の耶律兀欲は耶律堯骨のもとに残って将軍として活躍、耶律堯骨の死後、武力で権力を奪い契丹の第3代皇帝となった。
    931年
    9月 3日(承平元年 7月19日)宇多法皇が崩御。
    933年
    王建が後唐に朝貢し、明宗によって高麗王に封ぜられる。
    12月15日(長興4年11月26日)後唐の2代皇帝李嗣源(明宗)が死去。軍部に推されて即位したあとは、馮道を宰相に任じて内政を重視し、制度を固めて安定政権を築いたほか、文化事業も行い、五代十国時代では珍しい名君のひとり。しかしその死後、内紛が勃発し、3年で国家は崩壊した。
    934年
    1月28日(承平4年12月21日)土佐の国司だった紀貫之が帰京のため土佐を出発。この旅の紀行文が『土佐日記』にまとめられる。日本最初の仮名で書かれた本。
    アイスランドのラキ火山(ラーカギーガル山)が巨大噴火。
    935年
    11月新羅の敬順王が、後百済の圧力などで領土を大きく縮小したこともあり、高麗に降伏して、新羅は滅亡する。
    936年
    後百済が初代甄萱と二代神剣の内紛で高麗につけこまれ滅亡する。高麗が朝鮮半島の大部分を支配下に収める。
    937年
    李嗣源の娘婿だった石敬瑭が、反乱を起こし、契丹の耶律堯骨の支援で皇帝を称し、後晋を建国。
    1月11日(清泰3年閏11月26日)石敬瑭が、後唐の都洛陽を包囲。後唐4代皇帝李従珂(末帝)は自殺し滅亡。
    (2月 4日)大義寧の通海節度使の段思平が自立して国号を大理とする。
    十国呉の第4代王楊溥(睿帝)が徐知誥に禅譲して滅亡。徐知誥(李昪)は斉(南唐)を建国。
    12月18日(承平7年11月13日)富士山が噴火し、溶岩が流れ出て御舟湖を埋めたとされる。
    939年
    4月19日(天慶2年 5月10日)鳥海山(大物忌明神の山)が噴火か。
    940年
    1月 3日(天慶2年11月21日)常陸国府によって追補されていた藤原玄明を匿った平将門が、追補撤回を求めて、兵を率いて常陸府中へ侵攻。常陸国府との戦闘となる。常陸介藤原維幾は敗れて降伏。これにより将門が関わった戦乱は、一族同士の私闘から、朝廷に反旗を翻した形へと変質してしまうことに。
    1月22日(天慶2年12月11日)平将門が下野国へ侵攻。下野守藤原弘雅らは、降伏するも追放される。
    1月30日(天慶2年12月19日)平将門が上野国府を攻め落とし、坂東諸国を手中に収める。この直後「新皇」を称して、坂東諸国の除目を定める。除目の範囲が坂東のみで、朱雀天皇を「本皇」と呼んだことから、坂東限定の半独立国を想定したものか。
    2月29日(天慶3年 1月19日)平将門討伐のため、藤原忠文が征東大将軍に任ぜられる。忠文は直ちに出立。
    3月25日(天慶3年 2月14日)新皇と称し、関東平野の支配者となったばかりの平将門が、藤原秀郷ら討伐軍との戦闘で戦死する。
    閩の景宗王曦と弟の建州節度使王延政との間で内戦が勃発。
    941年
    7月21日(天慶4年 6月20日)瀬戸内地方で海賊団を率い、天慶の乱を起こした藤原純友が死去。
    呉越の都杭州で大火が起こり、大きな被害を出す。国王の銭元瓘も死去。敵国だった南唐の李昪は、このときだけは支援したと言う。
    942年
    契丹が高麗に使者を派遣し、ラクダを贈るが、高麗王王建は契丹を蛮族と嫌い、ラクダを餓死させた上、使者を離島に流したという。
    943年
    7月 4日(天福8年 5月29日)高麗の初代王王建が死去。
    閩の王延政が建州において皇帝を自称し、国号を殷とする。
    944年
    閩の朱文進が反乱を起こし、景宗王延羲を殺害して閩主を名乗る。後晋に臣従して威武節度使、つづけて閩王に封ぜられる。
    945年
    殷帝を称していた王延政が閩に侵攻。朱文進は林仁翰に殺害され、王延政が第7代閩王となる。しかしこの混乱に乗じて南唐が侵攻してくると降伏。閩は滅亡。
    946年
    朝鮮半島北部の白頭山(長白山)が大噴火を起こす。東北から北海道にかけて大量の降灰がある。
    947年
    1月11日(会同10年 1月1日)契丹の太宗(耶律堯骨)による親征で、後晋の都開封は陥落。2代皇帝の石重貴(少帝)は契丹に拉致され後晋は滅亡。太宗は開封に入城し、国号を「大遼」と改称、年号を大同とする。
    2月後晋の河東節度使で、突厥沙陀族の劉知遠が、皇帝を称して即位。後漢(こうかん)を建国。
    6月劉知遠、遼の軍勢が引き上げたのを受けて開封へ入城。節度使の地位を安堵する。
    948年
    1月後漢高祖劉知遠が死去。劉承祐(隠帝)が2代目皇帝となる。
    950年
    4月後漢の有力軍閥、郭威が天雄軍節度使に任ぜられ、対遼政策のため鄴都へ赴任。この間に隠帝側近らが有力武臣らの粛清を開始。
    4月郭威が粛清に対抗するため、反乱を起こし、軍を率いて南下、開封へ向かう。
    951年
    1月郭威は軍を率いて開封へ入城。その混乱のさなか、隠帝も殺害される。郭威は劉知遠の甥の劉贇(徐州武寧軍節度使)を擁立。
    2月13日郭威、遼に備えて移った澶州で部下から皇帝に推戴され、自ら帝位に就き後周を建国する。劉贇は殺害され、それを知ったその父の劉崇(河東節度使)は、晋陽で自立し、北漢を建国。
    楚の第6代王馬希崇が、内紛により南唐の支援を求め、南唐は潭州に攻め込み、楚は滅亡。
    954年
    5月21日(顕徳元年4月17日)五代十国時代を代表する政治家、馮道が死去。実に5つの王朝の11人の君主に仕えて政治を行った(五朝八姓十一君という)。名族である長楽馮氏の出自を称し、長楽老と号した。内政を重視して文化事業を行い、木版印刷の祖とも呼ばれる(木版印刷自体はそれ以前からある)。何度も政変や王朝交代に巻き込まれて左遷・失脚するも、その都度能力を買われて返り咲いている。そのため「忠臣は二君に仕えず」を良しとする中国では批判されることが多いが、戦乱時代に多くの民衆を救ったとする評価もある。
    957年
    後周の軍勢が南唐の淮河から長江にかけての一帯をほぼ制圧。南唐は後周に臣従することになり、国号を江南と改め、皇帝の称号も廃する。
    960年
    陳橋の変。後周の陳橋で、後周軍の有力者だった殿前都点検の趙匡胤が、弟の趙匡義ら部下に推されクーデターを起こす。この後、都の開封に戻り、3代恭帝から禅譲を受け、帝位につき、宋王朝(北宋)を興す。
    962年
    2月 2日東フランク王オットー1世が、教皇ヨハネス12世から皇帝の冠を授けられる。神聖ローマ帝国の誕生とされる。
    963年
    荊南の王高継仲が宋王朝に降伏し荊南は滅亡。
    964年
    ブワイフ朝の天文学者アブドゥル・ラフマーン・スーフィーが、アンドロメダ銀河を観測。
    969年
    4月14日(安和2年 3月25日)安和の変。左大臣の源高明が失脚し、藤原北家が権力を継続させるきっかけとなる。
    971年
    北宋が南漢に攻め込み、第4代皇帝劉鋹は逃走を図るも失敗して捕らえられ、南漢は滅亡。
    975年
    北宋軍が江南(南唐)の都金陵を包囲。第3代王李煜は降伏し、江南(南唐)は滅亡。
    976年
    11月14日(開宝9年10月20日)宋の太祖、趙匡胤が急死。死の際にそばにいたと言われる弟の趙匡義が2代皇帝(太宗)となる。同時代から趙匡義が趙匡胤を殺害したのではないかという疑惑「千載不決の議」が取り沙汰された。趙匡胤は中国史上で名君に挙げられる。
    978年
    (太平興国2年)中国南部で最後まで残っていた呉越の王銭弘俶が家臣とともに自国を宋王朝に献上。銭弘俶は淮海国王に封ぜられる。呉越国は消滅。
    979年
    北宋の太宗の親征により、十国最後の国家、北漢は滅亡。最後の皇帝である英武帝劉継元は宋より彭城公に封ぜられる。十国時代は終わり、再統一される。
    980年
    8月22日(天元3年 7月 9日)大風により平安京最南端の羅城門が倒壊。中にあった兜跋毘沙門天立像は東寺に移される。すでにかなり荒廃して遺体放置場所にされたともあり、以後、再建されることはなかった。
    982年
    赤毛のエイリークがグリーンランドを発見して命名。グリーンランドという名前の由来ははっきりしないが、入植を進めるため、あるいは当時温暖化の時代だったため、沿岸部は緑に覆われていたと言った説がある。
    985年
    8月 7日(寛和元年 7月18日)花山天皇の寵愛を受けた女御、藤原忯子が急死。懐妊していたと言われる。花山天皇は衝撃を受け、これが翌年の寛和の変に発展する。
    この頃から、赤毛のエイリークら、ヴァイキングによってグリーンランドに入植が始まる。現在の自治政府首都ヌーク付近にも入植。ただしこの入植地は16世紀までにすべて滅んでいる。
    986年
    (雍熙3年3月)北宋の太宗が遼に遠征軍を派遣。潘美、楊業、曹彬、王侁、劉文裕ら各将に指揮させる。
    (雍熙3年5月)北宋軍は、蔚州などで遼の耶律斜軫の軍勢に大敗を喫する。潘美・王侁らは楊業を讒言して耶律斜軫に対応させようと図り、楊業はかつて宋と敵対した北漢の武将で立場が弱く、出戦して陳家谷で耶律斜軫に敗北。捕らえられて自殺した。このことを知った太宗は潘美を降格、王侁、劉文裕らを更迭して流罪にした。中国で小説や京劇で人気の「楊家将演義」では楊業は前半の主人公で、潘美をモデルにした潘仁美は悪役。
    4月14日(寛和2年 8月 1日)寛和の変。花山天皇が突如出家し一条天皇が即位する。右大臣藤原兼家が起こした政変で、兼家の三男道兼が、天皇の寵愛していた女御藤原忯子の急死を悲しむ天皇を誘って出家させ、その間に兼家が長男の道隆と次男の道綱を使って三種の神器を皇太子の元へ運んだ。これにより天皇の外叔父藤原義懐と乳母子藤原惟成も失脚し、関白藤原頼忠も事実上引退した。兼家は権力を掌握すると大臣職を辞して摂政となったため、以後の先例となった。花山天皇が皇太子時代の副侍読だった藤原為時は式部丞となっていたが、この変により辞任し以後10年間散位として不遇となる。娘の紫式部の式部はこれが由来とも言われる。
    990年
    7月26日(永祚2年 7月 2日)藤原兼家が死去。右大臣・摂政・太政大臣・関白を歴任。藤原道隆・藤原超子・藤原道綱・藤原道兼・藤原詮子・藤原道長らの父親。藤原師輔の三男だったが次兄や一族らとの争いを制し、一条天皇の外祖父となって摂政に就任。氏長者として藤原氏の頂点に立った。
    991年
    10月26日(正暦2年 9月16日)一条天皇の生母である皇太后藤原詮子が出家して皇太后位から降りたのに伴い、「東三条院」の院号が贈られる。院は上皇を指し上皇に准ずる待遇を意味する。女院号の初例。
    995年
    5月 5日(長徳元年 4月 3日)藤原道隆が病のため関白を辞職。道隆は子の内大臣藤原伊周を後継の関白にするべく、天皇に伊周の「内覧」を願うが「関白病間」のみとして限定的にしか認められなかった。
    5月12日(長徳元年 4月10日)藤原道隆が死去。糖尿病と見られる。
    5月29日(長徳元年 4月27日)藤原道兼が関白宣下を受ける。道隆の弟で道長の兄。
    6月 2日(長徳元年 5月 2日)『蜻蛉日記』の著者、藤原道綱母死去
    6月 8日(長徳元年 5月 8日)藤原道兼が病死。関白就任からわずか数日での死去により、七日関白と呼ばれる。すでに病を得ていた道兼を関白にしたのは長幼の順で道長を関白にしたい姉の東三条院の意向だったとも言われる。道兼は花山天皇の出家騒動に関わったこともあり、物語で容貌や言動を悪く描かれる事が多い。権力は弟の道長と甥の伊周の争いに移る。
    6月11日(長徳元年 5月11日)藤原道長に内覧の宣旨が下る。
    7月19日(長徳元年 6月19日)藤原道長が右大臣となり、藤原伊周を上回る。これにより、道長が藤原氏長者の立場を獲得。
    7月19日(長徳元年 7月24日)藤原道長と藤原伊周が氏長者の所領帳を巡って激しい口論に及ぶ。
    8月30日(長徳元年 8月 2日)藤原道長の随身(警護官)の秦久忠が藤原隆家(伊周の弟)の関係者に殺害される。
    (長徳元年)この年、日本各地で疫病が流行し、有力貴族らも多数死亡。中関白家が衰退し、藤原道長が台頭するきっかけとなった。麻疹とも疱瘡とも言われる。
    996年
    2月 7日(長徳2年 1月16日)長徳の変。藤原伊周が、弟の藤原隆家に命じて花山法皇の一行を襲撃させ、その衣の袖を射抜く事件を起こす。花山法皇が藤原為光の娘の四の君(藤原儼子)のもとに通い始めたのを知った伊周が、自身の交際相手で同じ邸宅に暮らす三の君(寝殿の上)のもとに通っていると勘違いして起こしたとされる。このことを知った藤原道長がこれを口実に関係者の左遷などの処罰を決める。なお同時代の事件に詳しい「小右記」のこの前後の記事が欠落しており、真相ははっきりしない。
    2月19日(長徳2年 1月28日)25日の春の除目で淡路守に任ぜられてた藤原為時が、急遽越前守に変更される。藤原道長による人事とされ、先に越前守に任じられていた源国盛は秋の除目で播磨守に変更になったという。下国の淡路国に納得行かなかった為時が思いを書いた漢詩を宮中に提出し、それを読んだ一条天皇が苦悩したことを知った道長によって上国の越前国に変更されたとも、北宋商人朱仁聡が若狭に来航し越前に逗留していたことから、漢文の才を持つ為時に白羽の矢が立ったとも言われる。越前下向には娘の紫式部も同行した。
    2月26日(長徳2年 2月 5日)藤原道長は、一条天皇を動かして、検非違使別当の藤原実資に対し、藤原伊周、同家司の菅原董宣、同家郎党の右兵衛尉致光の家宅捜索を行わせる。
    4月21日(長徳2年 4月 1日)法琳寺の僧から、藤原伊周が私的に「大元帥法」を修したとの奏上が行われる。
    5月14日(長徳2年 4月24日)宣旨が下され、内大臣藤原伊周を太宰権帥に、中納言藤原隆家を出雲権守とする除目が行われる。また他の兄弟、中関白家に近い人物等に対しても左遷などの処罰的人事が行われる。
    5月20日(長徳2年 5月 1日)長徳の変。藤原伊周・隆家兄弟が、左遷の命令に応じなかったため、新たに宣旨が下され、二人が匿われていた姉の中宮定子の里第(私邸)二条宮を検非違使が捜索。隆家が逮捕され、留守にしていた伊周も3日後に出頭。これを受けて妊娠中の中宮定子は自ら髪を切って落飾する(出産後に再入内)。藤原道隆を祖とする中関白家が没落していく原因となった。
    6月 3日(長徳2年 5月15日)勅により、藤原伊周を播磨に、藤原隆家を但馬に留めることが決まる。
    11月24日(長徳2年10月11日)藤原伊周が、病臥した母親のために密かに京に戻って姉の定子のもとに匿われていたことが発覚し捕縛される。再度、太宰府へ送ることが決まる。
    997年
    5月13日(長徳3年 4月 5日)大赦が行われ、藤原伊周と藤原隆家は赦免が決定する。
    (長徳3年)この年、九州各地の沿岸を「高麗の賊」が襲来。長徳の入寇、南蛮の入寇などともいう。朝鮮半島からの他に奄美島人が加わっていたという記録もある。
    997年
    (長徳3年6月)一条天皇の希望で、長徳の変で落飾し脩子内親王を産んでいた藤原定子が中宮として再び入内する。異例の措置だったが、天皇の母親の東三条院や、その弟の藤原道長が意向を受けて動いたとみられる。一条天皇は大っぴらに定子の元に通うことをせず夜遅くに訪ねるなど配慮した。
    999年
    2月10日(長保元年 1月17日)長保に改元。疫病が流行していたため。出典は『国語』。
    7月29日(長保元年 6月14日)内裏で火災が起き焼け落ちる。
    9月 9日(長保元年 7月22日)長保元年令が発布される。一条天皇の勅旨に基づき藤原道長等によってまとめられた新制(法典)。災異が相次いだことを受けて、神事違例・仏事違例、社寺破損、服装や道具の奢侈禁制などを定めており、その後の公家法の原典となった。
    10月30日(長保元年 9月19日)内裏で生まれた子猫のために「産養」の儀式が内裏で行われ、皇太后藤原詮子やその弟の左大臣藤原道長らが多数が出席。人ではなく猫の子の儀式はかなり異例。一条天皇がかわいがった猫「命婦のおとど」と同じ猫と見られる。
    1000年
    4月 2日(長保2年 2月25日)藤原彰子が皇后に冊立されて中宮を号し、中宮だった藤原定子が皇后宮となって、はじめて一帝二后となる。
    4月(長保2年 3月)一条天皇がかわいがっている猫「命婦のおとど」を飼育していた「馬の命婦」が、猫が言うことを聞かないのに腹を立てて、飼われていた犬「翁丸」をけしかけたことで、驚いた猫が天皇のもとに逃げ込み天皇が激怒。犬を打擲して捨てさせ、馬の命婦も解任するよう命じる。犬は打擲されて捨てられたが、清少納言がそれを拾い中宮定子が保護したため、天皇が許したという。
    12月25日イシュトヴァーン1世が戴冠し、アールパード朝ハンガリー王国を建国。1001年1月1日という説もある。
    997年からこの頃にかけて、アイスランド出身のバイキング、レイフ・エリクソンが船団を率いて北アメリカに到達する。発見した土地を「ヘルランド(平らな石の地)」「マルクランド(森の地)」「ヴィンランド(葡萄の地あるいは草の地)」と名付ける。最初に上陸した土地はバフィン島かラブラドール半島と言われ、ヴィンランドと名付けられた土地は、バイキングの遺跡が見つかったランス・オ・メドーのあるニューファンドランド島と考えられているが、その呼称の意味から、もっと南のどこか温暖な土地ではないかという説もある。
    1001年
    1月13日(長保2年12月16日)藤原定子が媄子内親王を産んで間もなく死去。鳥辺野に埋葬される。
    1004年
    4月 6日(寛弘2年 2月25日)藤原伊周が准大臣に定められる。大臣の下で大納言の上に当たる新たな地位で、伊周は儀同三司と自称した。一旦は失脚した伊周が復権したのは、この時点ではまだ一条天皇の皇子が伊周の姉定子が産んだ敦康親王しかいなかったため、藤原道長としても権力維持には親王を立てる必要があったため。
    1005年
    遼の聖宗による南進を受けて、北宋と遼の間で交渉が行われ、宋から毎年絹20万匹・銀10万両を送ることで和睦が成立。澶淵の盟が結ばれる。
    1006年
    5月 1日(寛弘3年 4月 2日)超新星SN1006が観測される。明月記や宋史に記述がみられる。おおかみ座の7,200光年の距離にある星。
    この頃、アイスランドのバイキングが入植した現在のニューファンドランド島ランス・オ・メドー付近で、入植者と先住民「スクレリング」との間で戦闘があったとされる。先住民との対立が原因で、この付近の入植地は短期間で放棄されたと考えられる。
    1007年
    9月26日(寛弘4年 8月13日)藤原伊周と隆家の兄弟が、伊勢の平致頼とともに、大和の金峰山に参詣に向かった藤原道長を暗殺する陰謀があるとの噂が流れ、急遽、頭中将源頼定が勅使として派遣される。
    1008年
    10月12日(寛弘5年 9月11日)中宮彰子が敦成親王を出産。一条天皇の第二皇子。後の後一条天皇。藤原道長にとって待ちに待った外孫の皇子誕生であり、これにより道長の御堂流と、伊周の中関白家の立場逆転は強まっていくことになる。
    12月 1日(寛弘5年11月 1日)この日の紫式部日記にはじめて源氏物語の内容について記載が出てくる。少なくともこの年までには源氏物語が書き始められていたということになる。
    1009年
    3月19日(寛弘6年 2月20日)藤原伊周の叔母に当たる高階光子が、源方理らとともに、藤原道長と中宮彰子を呪詛する呪符の制作を円能に依頼していたことが発覚し捕縛される。伊周も出仕を一時停止させられた。
    1010年
    2月14日(寛弘7年 1月28日)藤原伊周が病死。中関白家の当主として、叔父の藤原道長最大の政敵だった人物。一度失脚するも復位したが、道長の娘の中宮彰子が皇子を産んだことで権力を取り戻すことはできなくなった。中関白家は子の道雅の素行が悪かったこともあり衰退していくが、長女はライバルの道長の次男頼宗に嫁いで藤原全子を生み、全子は藤原師通に嫁いだため、女系子孫は五摂家や羽林家に残った。
    この頃、バイキングのソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソンが、60~250人の人々を率いて、北米のヴィンランドへの移住計画を実施したという伝説がある(1009年とも言われる)。ソルザルソンの息子スノッリ・ソルフィンソンは、この頃ヴィンランドで生まれたと言われ、北米大陸で最初に生まれた白人とも言われる。エリクソンの発見からここまでに5回のヴィンランド遠征があった。ヴィンランド入植地はその後、原住民との争いや気候変動で短期間で失われたが、北米交易はしばらく続いたという説もある。
    11世紀の初頭に、イングランドのベネディクト会の修道士であったマルムズベリーのエイルマーが、両手両足に人工の翼を付けて、マルムズベリー修道院の塔から飛び降りる飛行実験を行う。一説には200mほど飛んで(滑空して?)路地に墜落し、エイルマーは重症を負って障害者となったが、それでも飛行実験に意欲を示したといわれる。
    1013年
    5月(長和2年4月)藤原道雅が、敦成親王の従者小野為明を拉致して暴行を加える事件を起こす。
    1019年
    5月 4日(寛仁2年 3月27日)刀伊の入寇。朝鮮半島から賊船50隻3000人ほどが対馬を襲撃。殺戮放火略奪を行う。そのまま壱岐を襲い島分寺を焼き住民を連行、さらに筑前に上陸。太宰権帥であった藤原隆家や、松浦の源知らに率いられた武士団によって撃退される。住民365人が殺害され、1289人が連れ去られた。高麗人の捕虜が複数いたため、高麗の襲撃と考えられたが、対馬判官の長嶺諸近が家族を探して高麗へ行き得た情報と、高麗から救出された住民270人が送り返されたことから、「刀伊(とい)」と呼ばれる集団であったと判明。女真族の一派ではないかと見られている。
    1024年
    6月24日イタリアの修道士グイード・ダレッツォによって音階を表す「階名唱法」が誕生する。いわゆるドレミファソラシの原型。
    1025年
    1月 8日(万寿元年12月6日)花山法皇の皇女上東門院女房が夜間に路上で殺害される事件が起きる。
    4月(万寿2年 3月)上東門院女房殺害事件で、法師隆範が犯人として捕らえられ、尋問の結果、藤原道雅の指示だったと自供。
    8月24日(万寿2年 7月28日)上東門院女房殺害事件で、盗賊が自首する。この盗賊が犯人なのか、藤原道雅が法師隆範に命じたのか、また刑罰が行われたのか詳細は不明。ただ藤原道雅は翌年左遷されている。
    1028年
    1月 3日(万寿4年12月 4日)藤原五摂家の祖である藤原道長が死去。当時の記録から、糖尿病、癌、ハンセン病などが死因の候補として考えられる。
    この年、上総・下総・常陸に勢力を持つ有力豪族の平忠常が安房守平維忠を殺害して反乱を起こす。
    1031年
    (万寿4年 6月)平忠常の乱が、追討使となった源頼信に忠常が降伏したことにより終結。中央の権力争いや追討使の人選ミスで事態が悪化し長期化していた。この結果、源頼信の力が増し、関東に源氏勢力が地盤を築くきっかけとなった。
    1034年
    (景祐元年)黄河が大氾濫を起こす。以降、しばしば氾濫を繰り返すようになり、河道も細かく変遷するようになる。
    1036年
    5月15日(長元9年 4月17日)後一条天皇が崩御する。糖尿病と見られる。急死だったことから譲位の儀式ができなかったため、喪を秘して、弟の敦良親王(後朱雀天皇)へ譲位を行ったことにし、「上皇」として葬儀を行った。これは後の先例となった。
    この年、西夏文字が公布される。李元昊の指示で野利遇乞・野利仁栄らによって創造された。タングート語を表す文字で、漢字に似た構造になっているがより複雑なものが多い。約6000文字があり、西夏滅亡後も長く使われ続けた。
    1038年
    8月15日ハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世が亡くなる。
    10月11日宋の夏国公で事実上独立勢力と化していた李元昊が皇帝を称し、国号を大夏と定め、いわゆる「西夏」を建国。
    1041年
    (長久2年)この頃以降に、女流歌人の赤染衛門が死去したと見られる。曾孫の時代まで生きておりかなりの長命だった。赤染時用(もしくは平兼盛)の娘で多数の和歌を遺したほか、「栄花物語」全40巻のうちの正編30巻の作者と考えられている。大江匡衡と結婚しており、子孫は大江氏・毛利氏と続く。
    1043年
    4月 3日エドワード懺悔王がイングランド王に即位。
    1047年
    1月22日(永承元年12月24日)火災で興福寺の伽藍の殆どが焼失。
    1054年
    6月16日ローマ教皇の使者としてコンスタンディヌーポリを訪れていたフンベルト枢機卿が、総主教ミハイル1世らへの破門状を渡し、ミハイル1世もローマ側を破門。東西教会の分裂。
    7月 4日(天喜2年 5月26日)SN1054と呼ばれる超新星が出現。23日間にわたって昼間でも見える。おうし座の7,000光年の距離にある星で、現在はその残骸が「かに星雲」となっている。藤原定家の『明月記』や中国の『宋史』に詳しく、『一代要記』『天文志』などにも記述がある。史上最も有名な超新星の一つ。
    7月20日(天喜2年 8月25日)左京大夫藤原道雅が死去。藤原伊周の子で、歌人として名を知られた人物だが、素行が甚だ悪く、暴力事件や密通事件を繰り返し、皇女殺害の嫌疑もかけられた。そのため従三位まで昇進したにも関わらず、中関白家に権力を取り戻すことはできず終わった。
    1056年
    4月 5日(天喜4年 3月18日)超新星が消える。653日間、夜空に輝いていた。最大で金星くらいの明るさがあったとされている。
    1066年
    10月14日ヘイスティングスの戦い。ノルマンディー公ギヨーム2世と、イングランド王ハロルド2世が、ヘイスティングス郊外のバトルで戦い、ハロルド2世は敗死。
    12月25日ノルマンディー公ギヨーム2世が、ウェストミンスター寺院で戴冠し、ウィリアム1世としてノルマン朝を開く。いわゆる「ノルマン・コンクエスト」。
    1068年
    5月22日(治暦4年 4月19日年)後冷泉天皇が崩御し、皇太弟尊仁親王が即位(後三条天皇)。後朱雀天皇の第二皇子で後冷泉天皇の異母弟。170年ぶりに藤原氏を外戚に持たない天皇(ただし藤原道長の外孫ではある)。東宮時代に、尊仁親王では外戚にならない関白藤原頼通から、藤原氏所有で東宮の証である「壺切御剣」を渡されないなどの仕打ちを受けていた。
    1069年
    (延久元年)後三条天皇によって、延久の荘園整理令が実施される。審査機関として記録荘園券契所を設立し、全国の荘園を調査、公験などの公式文書の有無を確認し、違法に設立されたり土地交換が行われた荘園は没収する。それまでの荘園整理令が形式的なものだったのに対し、延久の荘園整理令は、藤原氏や大寺社の荘園まで詳細に調査された。これは後三条天皇が藤原氏を外戚に持たず、反摂関家公卿らを側近に置いて親政を強行できたため。摂関家の荘園は大打撃を受け、摂関政治の衰退につながったとも言われる。
    1070年
    (延久2年)この年、後三条天皇の勅により、蝦夷征伐が行われる(延久蝦夷合戦)。陸奥守源頼俊が清原貞衡の軍事支援のもと陸奥北部へ侵攻。ところがこのさなかに陸奥の在庁官人藤原基通が国司の印と国倉の鍵を盗み逃走する事件が発生。基通は下野国まで逃亡後、下野守源義家に投降。義家はこれを理由に源頼俊罷免を朝廷に訴え、頼俊は解官され帰京することになるが、その際に大きな戦果を報告し、それを受けて清原貞衡が功績を賞せられて鎮守府将軍に任ぜられる。遠征や盗難事件自体、源頼俊と源義家の勢力争いが背後にあるともされる。蝦夷との合戦はその後も続き、下北半島北端まで朝廷の支配に入ったとする説もある。
    1073年
    1月18日(延久4年12月 8日)後三条天皇が貞仁親王に譲位(白河天皇)。後三条は上皇となる。後三条が院政を敷くために譲位したのか、病によって譲位したのかは説が分かれる。
    6月15日(延久5年 5月 7日)後三条上皇が崩御。
    1075年
    この頃、フマイ王によって、チャド湖周辺を基盤とするカネム帝国セフワ朝が成立する。イエメン人王朝を名乗っているが、ベルベル系王朝という説も有力。
    1077年
    1月25日カノッサの屈辱。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、破門を解いてもらうため、ローマ教皇グレゴリウス7世の滞在するカノッサ城門で3日間立ち尽くした出来事。ただし皇帝は、破門解除後に教皇を軍事力で追い払っている。
    ハンガリー国王にラースロー1世が即位。国内の混乱を収め、勢力を拡大。
    1084年
    北宋の歴史家司馬光によって『資治通鑑』が完成する。紀伝体が一般的な中国で、編年体で書かれた歴史書の代表作。全294巻。
    1085年
    イングランドで最初の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」が作られる。
    1087年
    12月11日(寛治元年11月14日)出羽清原氏の内紛から始まった後三年の役が終結。陸奥安倍氏の血を引き、出羽清原氏に育てられた藤原清衡が、奥州藤原氏の基礎を築く。
    1088年
    イタリアのボローニャ大学が創立されたとされる年。実際にはそれ以前から教育機関が存在していたとみられる。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つで、近代大学最古のひとつ。
    1095年
    ローマ教皇ウルバヌス2世によって聖地エルサレムの回復のために十字軍派遣が決まる。第1回十字軍。
    1096年
    8月第1回十字軍の本隊が出発。
    10月21日民衆十字軍壊滅。十字軍に合わせて編成された民衆や騎士らの十字軍が、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世の軍勢に襲われ壊滅する。
    1097年
    5月14日東ローマ帝国と十字軍がルーム・セルジュークの首都ニカイアを包囲。
    6月19日東ローマ帝国がニカイア側と降伏交渉を行い、ニカイアは降伏するも、十字軍は排除されたため、帝国と十字軍は対立。
    6月26日十字軍はニカイアを出発。
    7月 1日十字軍が、襲ってきたセルジューク軍とダニシュメンド朝の軍勢を破る。
    10月20日十字軍が、アンティオキアを包囲。
    1098年
    6月14日アンティオキアを攻略中に、ペトルス・バルトロメオによってキリストを貫いた「ロンギヌスの槍」が「発見」される。
    6月28日十字軍がアンティオキアを陥落。
    1099年
    2月16日(承徳3年1月24日)康和地震。興福寺や天王寺で建物の倒壊などの被害が発生。まもなく康和に改元。
    4月 8日幻視に従い「ロンギヌスの槍」を「発見」したペトルス・バルトロメオの主張が正しいかどうかを確かめるための神明裁判が行われる。炎の中を通り抜けようとしたペトルスは大やけどを負う。
    4月20日ペトルス・バルトロメオが大やけどがもとで死亡する。彼が「発見」した「ロンギヌスの槍」も偽物とみなされ、その後行方不明に。なお、これより前に「発見」された「ロンギヌスの槍」は、東ローマ帝国首都コンスタンティノープルのアヤ・ソフィア大聖堂に保管されていた。
    6月 7日十字軍がエルサレムを包囲。
    7月15日十字軍がエルサレムを陥落し、一応の目的が達せられる。
    1101年
    (康和3年)大宰大弐大江匡房から対馬守源義親の乱暴狼藉の訴えがある。
    1102年
    (康和4年)朝廷は、源義親を隠岐流罪の処分と決定するが、義親は隠岐へは行かなかったのか、出雲で騒動を引き起こす。
    この年、ロンドンの郊外にある平原スミス・フィールドに、イングランド王ヘンリー1世の道化師レヒアが、聖バーソロミュー修道院を建設。周辺に市が立ち、劇場・見世物市・家畜市場として賑わうようになる。のちには処刑場としても知られるようになった。
    1105年
    3月 3日(長治2年 2月15日)藤原清衡が平泉に最初院多宝寺(中尊寺)を建立。
    1108年
    2月 2日(嘉承2年12月19日)平正盛が、出雲で勢力を広げる源義親討伐を命ぜられる。
    3月 3日(天仁元年 1月19日)平正盛が源義親討伐を終える。
    3月13日(天仁元年 1月29日)平正盛が源義親の首級を掲げて京に凱旋。見物人で大騒ぎとなる。白河法皇の評価も高く、後の平清盛につながる伊勢平氏台頭のきっかけとなった。なお、源義親を名乗る人物がその後、次々と現れて、大きな騒動に発展するため、この討伐で殺されたのは別人ではないかという説も当時からあった。
    8月29日(天仁元年 7月21日)浅間山が大噴火。大量の降灰により上野国に甚大な被害をもたらす。火砕流も発生。
    1112年
    11月11日(天永3年10月20日)この日以降何度か、京の都で東方から大きな音が響きわたり人々が不安におののく。東から上洛した人が、富士山の噴火を伝えるが駿河国司からの報告はなかった模様。
    12月14日(天永3年11月24日)伊豆国司より使者が京に到着し、伊豆の東方沖合で火が見え大きな音がしたと報告。伊豆諸島で噴火があったと見て、27日に朝廷で吉凶を占う神事を行う。
    1113年
    11月13日(永久元年10月 3日)鳥羽天皇暗殺計画が発覚。永久の変(千手丸事件)。鳥羽天皇の准母令子内親王のところに暗殺計画を訴える密告書が投げ込まれ、内親王から話を聞いた白河法皇が検非違使を派遣。犯行を計画していたのは醍醐寺座主勝覚に仕える千手丸という稚児で、千手丸は尋問で、計画を立てたのは勝覚の実兄で三宝院阿闍梨の仁寛であると自供。仁寛は法皇の異母弟輔仁親王の護持僧であることから、天皇が崩御して輔仁親王が皇位を継承することを狙ったものとされた。白河法皇は公卿らと協議し、千手丸を佐渡に、仁寛を伊豆に流罪としたが、勝覚や、仁寛と勝覚の実父である左大臣源俊房は無関係として無罪にした。輔仁親王は無罪を主張して自宅に蟄居した。事件は白河法皇黒幕説と、輔仁親王黒幕説とがある。後三条天皇が白河天皇に譲位したあと、摂関家との関係が薄い輔仁親王に皇位を継がせるよう遺したことに白河上皇が逆らって自身の子孫に皇位を継がせたことが遠因。
    1115年
    1月28日(収国元年 1月 1日)女真族完顔部の族長阿骨打(アクダ)が、遼からの自立を図って皇帝を名乗り、大金国(アルチュフ)を建国。年号を収国と建元。上京路に会寧州を置いて都と定める。国号のアルチュフとは完顔部族の拠点だった按出虎水が砂金が採れることで「金」を意味するアルチュフと呼ばれていたこと、金は変質しない永遠の金属であることから。
    1120年
    (宣和2年)北宋は、金王朝の台頭を見て、遼を挟撃するための「海上の盟」を金との間で結ぶ。しかし宋は南方で起こった方臘の乱鎮圧のため、対遼作戦が遅れることに。
    11月25日ホワイトシップの遭難事件。ノルマン朝のヘンリー1世の嫡男ウィリアムや、王族らが乗ったホワイトシップ号がノルマンディー沖で遭難。ウィリアムの代わりにマティルダが王位を受け継ぐも内戦となる。
    1121年
    3月 7日遼の天祚帝と、金の阿骨打が入来山で戦い、遼が大敗。天祚帝は燕京から逃走。
    3月13日天祚帝が敗走したことを受けて、遼の皇族の耶律大石と李処温らが、天祚帝を湘陰王に格下げし、その従父の耶律涅里(劉淳・天錫帝)を強いて擁立。北遼王朝。
    6月天錫帝が死去。耶律大石らは、耶律定を擁立。天錫帝の蕭徳妃が摂政となる。
    1123年
    2月 (保大3年・徳興2年)阿骨打、燕京を攻め、耶律大石らは耶律定・蕭徳妃らと天祚帝のもとへ逃走。天祚帝によって、耶律定は王位に格下げされ、蕭徳妃は処刑される。
    5月 8日(神暦元年)蕭徳烈らが耶律雅里を北遼の皇帝として擁立。
    9月19日(天輔7年8月28日)阿骨打、遼の天祚帝を追撃中に部堵濼で病死。同母弟の呉乞買(ウキマイ)が後を継ぎ、第2代皇帝となる。
    10月 (神暦元年)耶律雅里は病没。そのため、耶律朮烈(英宗)が擁立される。
    11月 (神暦元年)金軍が燕京を包囲し、英宗は家臣たちに弑されて北遼は滅亡。
    1124年
    呉乞買、遼を攻め、耶律大石は西方へ逃走。北庭都護府可敦城で自立。
    1125年
    (天会3年)呉乞買、北宋との盟約に基づき遼を攻め、遼の天祚帝は捕らえられて、遼は滅亡。
    1127年
    1月 9日(天会5年・靖康元年11月 5日)靖康の変。金の2代皇帝呉乞買の軍勢によって宋(北宋)の都開封が陥落し、皇帝欽宗と太上皇徽宗、多くの皇族や官僚、および皇族や貴族女性ら1万1千人あまりが尽く金に連行され滅亡する。女性らは戦利品として金の有力者に分配された他、公営の売春施設である洗衣院など各施設に送られたという。
    6月12日(建炎元年)靖康の変を逃れた欽宗の弟の康王趙溝が江南に南宋王朝を興す。
    1128年
    1月13日テンプル騎士団が教皇ホノリウス2世によって正式に騎士修道会として認可される。
    (建炎2年)南宋の杜充が金軍の南下を阻止するため、黄河を決壊させる。このため南側で大氾濫し、水は淮河と合流。黄河の水の大部分は黄海へと流れ込むようになる。現在の位置に戻るのは700年後の1855年。
    1129年
    1月 (大治4年 1月)平清盛が、12歳で従五位下・左兵衛佐となる。
    1130年
    (天会8年)金、独立した耶律大石に対し、同族の耶律余賭を派遣して攻撃。しかし耶律大石は激戦を避けて西へ退却。ビシュバリクの天山ウイグル王国ビルゲ可汗のもとへ至る。ビルゲ可汗、耶律大石と対立するものちに従属。
    1131年
    秦檜が南宋王朝の宰相となる。金と手を組んで和平政策を推し進める。
    1132年
    (天承2年)平忠盛が、鳥羽上皇勅願の得長寿院造営を担当し、千体観音を寄進したことで、内昇殿を許される。武士としては当時かなり異例な破格の待遇で、反感を持った公家たちから命を狙われる。
    5月 6日(天承2年(長承元年) 4月19日)末代と頼然が富士山頂に登る。頂上で金時上人・覧薩上人・日代上人らの遺品を発見したという。
    耶律大石が西遼(カラ・キタイ)を建国。ベラサグンをグズオルドとあらため、都に定める。
    (天会10年)耶律余賭・蕭高六・蕭特謀らが金の太宗暗殺の計画を立てるも露見。蕭高六は捕らえられ処刑、蕭特謀は自殺、耶律余賭は西遼を建国した耶律大石のもとへ逃走を図るが、中途にある西夏の崇宗(李乾順)が出兵したため、モンゴルへ向かうも捕らえられ処刑される。
    1135年
    1月(天会13年 1月)高麗の西京で僧の妙清らが反乱を起こし、国号を「大為」とし、年号は中国のものを採用せず独自の「天開」とする。国粋的な思想から西京への遷都と金国討伐を主張して、中国寄りの守旧派の貴族層と対立したが、主張が受け入れられなかったため、西京の貴族層を取り込んで起こしたもの。仁宗は鎮圧軍を派遣。
    2月 9日(天会13年 1月25日)金の2代皇帝呉乞買(ウキマイ・太宗)が死去。金の領土を拡大させた皇帝。阿骨打の孫の合剌(ホラ)が3代皇帝に即位。
    1136年
    2月(天会14年 2月)高麗で起きた妙清の乱が金富軾らの率いる国軍によって鎮圧される。金富軾らは文官(文班)でこの功績により勢力を拡大。金富軾は「三国史記」を編纂したがその主張立場が出ている。
    1141年
    (紹興10年)南宋と金の間で、紹興の和議が結ばれる。領土が確定し、南宋は金に対し、銀25万両と絹25万疋を収めることになる。
    1142年
    1月27日(紹興11年12月29日)南宋の将軍で対金強硬派の岳飛が、和平派である宰相の秦檜の手で誅殺される。
    1143年
    耶律大石が、遼の故地を奪還するため、金に対し7万の兵で出兵するが病死し、遠征は中止される。西遼の皇位は耶律夷列が継ぐ。
    1147年
    7月14日(久安3年 6月15日)祇園闘乱事件。祇園社へ参詣に出た平清盛の一行が、携行する武器をめぐって神人と言い争いになり、清盛の家人が放った矢が宝殿に刺さった事件。
    7月25日(久安3年 6月26日)祇園闘乱事件を受けて、比叡山延暦寺が事件を上皇に告訴。平忠盛は下手人7人を差し出す。
    7月27日(久安3年 6月28日)祇園闘乱事件の平氏の対応を受けて、比叡山延暦寺が僧兵を繰り出し、忠盛と清盛の処罰を求めて強訴に及ぶ。上皇側が処置を決済すると院宣を出したので一旦は引き下がる。
    7月29日(久安3年 6月30日)上皇のもとで公卿らが集まり、祇園闘乱事件の処置について詮議が行われる。藤原頼長が平忠盛の責任を主張するも、大方は忠盛に非はなしと判断。
    8月13日(久安3年 7月15日)祇園闘乱事件の処置が遅れているため、延暦寺が再び強訴に及ぼうとしたため、上皇は院宣でこれを止めるよう延暦寺に求め、北面の武士を派遣する。
    8月22日(久安3年 7月24日)公卿等による祇園闘乱事件の処置が決まらないため、上皇が平清盛を「贖銅三十斤」の罰金刑とする決定を下す。
    8月25日(久安3年 7月27日)朝廷から祇園社に対して、祇園闘乱事件の謝罪のための奉幣使が派遣される。
    9月 1日(久安3年 8月 5日)平清盛が「贖銅三十斤」の罰金を支払う。
    1148年
    3月12日(久安4年 2月20日)祇園闘乱事件でこじれた関係を修復するため、平忠盛が祇園社へ自領を寄進し、法華八講を祗園社で行う。
    1149年
    5月24日(久安5年4月16日)末代が富士山頂に大日寺を建立。
    1150年
    1月 9日(皇統9年/天徳元年12月 9日)金の3代皇帝合剌(ホラ・熙宗)が、従弟の完顔迪古乃(テクナイ)、側近の徒単阿里出虎、大興国ら10人に寝室を襲われ、滅多斬りにされて殺害される。粛清を繰り返し暴虐だったことが理由とされる。迪古乃が4代皇帝に即位する。
    この頃、パリ大学が創設されたといわれる。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。
    1156年
    7月20日(保元元年 7月 2日)鳥羽法皇崩御。死に際に実子の崇徳上皇が見舞いに来るが拒絶される事件が起こる。
    7月23日(保元元年 7月 5日)崇徳上皇と藤原頼長が手を組み、国家を傾けんと画策している、との噂が広がり、検非違使が招集される。
    7月27日(保元元年 7月 9日)崇徳上皇が突如、鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河の統子内親王の御所に入る。平氏の拠点六波羅に近いため、平氏の支援を期待したものか(清盛の父、平忠盛の妻池禅尼は崇徳の子重仁親王の乳母で忠盛が後見を務めていたため)。しかし池禅尼は、崇徳方敗北を予測し、平氏は動かず。
    7月28日(保元元年 7月10日)崇徳上皇のもとに、藤原頼長、藤原教長、藤原盛憲、藤原経憲、源為義、平忠正らが合流。源為朝が夜襲を進言するが、藤原頼長はこれを卑怯だと一蹴する。一方、後白河天皇方にも藤原忠通、藤原基実、源義朝、平清盛、源頼政らが集結。軍議により相手方への夜襲が決定する。
    7月29日(保元元年 7月11日)保元の乱が始まる。後白河天皇方の軍勢が、崇徳上皇方を夜襲。一進一退の攻防となるが、源義朝らが白河殿に隣接する藤原家成邸を放火。崇徳方は混乱に陥り大敗を喫する。藤原頼長は逃走の際に首に矢が刺さり重症を負う。
    7月31日(保元元年 7月13日)崇徳上皇が仁和寺の弟覚性法親王を頼って出頭。
    8月 1日(保元元年 7月14日)藤原頼長が重症の身で大和奈良の父忠実のもとに逃走するが受け入れてもらえず、叔父千覚のいる興福寺に入り、そこで死亡。
    8月10日(保元元年 7月23日)崇徳上皇が讃岐へ配流となる。
    8月15日(保元元年 7月28日)平忠正が平清盛の手で処刑される。死刑は薬子の変以来行われていなかった。
    8月17日(保元元年 7月30日)源為義が、息子の義朝の手で処刑される。
    9月12日(保元元年 8月26日)源為朝が捕らえられる。伊豆大島へ流罪。
    11月 2日(保元元年閏9月18日)後白河天皇によって、保元新制の宣旨7カ条が発せられる。荘園整理を目的にしたもので、後白河の側近、信西が台頭し政権を担って国政改革に乗り出す。
    1157年
    5月 6日(保元元年 3月26日)後白河天皇によって、武蔵守藤原信頼が抜擢され、右近衛中将となる。以後、急速に台頭。
    1160年
    1月19日(平治元年12月 9日)平治の乱が始まる。政権を握っていた信西一族を滅ぼすため、平清盛の熊野参詣の留守中を狙い、藤原信頼を中心に、二条天皇派と後白河院派が連携して挙兵。源義朝、源光保、源頼政らが御所と三条殿を襲撃して、後白河上皇・上西門院を捕らえる。信西は逃走。
    1月23日(平治元年12月13日)信西は逃走不可能と判断し、山城田原で郎党の藤原師光らに自分を埋めさせ自害した(追手に見つかった後自害したという説もある)。信西の死により、二条派と後白河派の対立が再燃。
    1月27日(平治元年12月17日)京の異変を知った平清盛一行が、熊野から帰京。信西派の内大臣三条公教が清盛と二条天皇派を説得し反信頼派を形成。
    2月 4日(平治元年12月25日)平清盛は、藤原信頼に恭順の姿勢を見せる名簿を提出。一方で三条公教らと二条天皇の六波羅行幸を画策。天皇は軟禁場所から脱出し、六波羅の清盛邸へ入る。
    2月 5日(平治元年12月26日)二条天皇の六波羅行幸が知れ渡り、公卿らが相次いで平氏側に旗色を鮮明にする。源義朝は事態を知り、油断していた信頼を罵倒、信頼・藤原成親と出兵するが、源師仲は内侍所(神鏡)を持ちだして逃走。源頼政も離反。両勢力は六波羅付近の六条河原で衝突。兵力差で平清盛側が勝利する。
    2月 6日(平治元年12月27日)平治の乱の首謀者、藤原信頼が公卿の身で斬首される。藤原成親は、妹経子が平重盛の妻だった関係で、解官の軽い罪で許された。
    2月 8日(平治元年12月29日)平治の乱後、比叡山の僧兵による落ち武者狩りで負傷した源朝長が死亡。
    2月11日(平治2年 1月 3日)源義朝と鎌田政清が東国へ落ち延びる途中、政清の舅で義朝の家人であった長田忠致の尾張の邸宅で長田に裏切られ殺害される(裏切りに気づいて自刃したとも)。
    3月 4日(永暦元年 1月25日)源義平が捕らえられ六条河原で処刑される。
    1161年
    10月27日(正隆6年/大定元年10月 7日)金の葛王の完顔烏禄(ウル)が、東京副守の高存福を殺害した上で、臣下に擁立される形で即位。5代皇帝世宗。4代皇帝迪古乃(テクナイ)が南宋遠征中に起きたクーデター。
    12月15日(正隆6年/大定元年11月27日)金の4代皇帝の迪古乃が臣下に殺害される。世宗によって廃位され海陵郡王(さらに落とされて廃帝海陵庶人)とされたため、一般には海陵王と呼ばれる。文武両道だったが、即位後は奢侈が甚だしく、一族多数を次々と殺害した上でその妻女を後宮に入れ、さらに気に入った女性を次々と襲うなど淫乱暴虐な皇帝として記録されている。南宋を滅ぼそうと反対を押し切って侵攻したがそのさなかに完顔烏禄(世宗)が擁立される事態になり、臣下の完顔元宜(耶律阿列)によって揚州の亀山寺で殺害された。世宗が妻の烏林荅氏を自殺に追い込まれて恨んでいたことから、より悪く記録されるようになったという説もある。漢族を積極的に雇用し、国家制度を整え、析津府を大改造して中都大興府とし上京会寧府から首都を移した。これが今の北京の原型とされる。
    1164年
    9月14日(長寛2年 8月26日)保元の乱で敗者側に付いた第75代天皇だった崇徳上皇(崇徳院)が、流刑先の讃岐で崩御。後白河上皇へ送った和解の写経を破られて送り返されたのを苦にして自殺したとも、暗殺されたという話もある。これらから怨霊伝説が生まれた。
    1165年
    1月30日(長寛2年12月17日)三十三間堂が落慶。後白河上皇が平清盛に協力させて建設した院の御所「法住寺殿」の本堂。
    1167年
    3月 4日(仁安2年 2月11日)平清盛が太政大臣に就任。武士階級では前代未聞の出世だが、摂関時代以降、官職そのものには実質的な権力はなかった。
    (大定7年閏7月18日)王重陽が馬丹陽を弟子に迎え入れ、のちに道教二大宗派のひとつとなる全真教を興す。教団名は馬丹陽が提供した庵「全真」の名前から。人々が弟子に志願して集まってくるが、新たに弟子として認められたのは、丘長春(丘処機)・譚長真(譚処端)・郝広寧(郝璘)・王玉陽(王処一)の4人。
    イングランド王ヘンリー2世が、イングランドの学生がパリ大学で学ぶことを禁じたため、あらたにオックスフォード大学が開学する。ただしその前から、前身の教育機関があったと考えられる。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。
    1169年
    イタリア半島のエトナ火山が大噴火。16000人が死亡。
    1170年
    1月22日(大定10年 1月 4日)全真教の開祖、王重陽が死去。
    4月23日(嘉応2年 4月 6日)源為朝自害。生き延びて琉球へ旅だった説もある。
    8月16日(嘉応2年 7月 3日)殿下乗合事件。法勝寺に向かう途中の摂政松殿基房の一行が、鉢合わせした女車の無礼をとがめて乱暴。その後、女車の主が平資盛であることがわかり謝罪するが資盛の父平重盛が反発。
    9月(大定10年 8月)高麗で庚寅の乱が起こる。文臣(文班)の権力横行に反発していた武臣(武班)派の李義方と李高が、上将軍の鄭仲夫とともに起こした反乱で、都の開京に攻め込み、文臣らを虐殺。武臣政権が樹立する。
    11月22日(大定10年10月13日)高麗王毅宗が武臣政権によって退位させられ、巨済島へ流される。弟の明宗が即位。
    11月30日(嘉応2年10月21日)高倉天皇の加冠の儀に参加するため朝廷に向かった松殿基房の車列を、平重盛の兵が襲撃し、4人が髷を切られる事件が起こる。加冠の儀は中止に。殿下乗合事件の報復とされる。
    11月28日グウィネズの王で、ウェールズを事実上支配したオワイン・グウィネズが死去。グウィネズ家は内紛状態になる。またこの年、オワインの子とされるマドック王子が、100人の男女を率いて大西洋を横断し、北アメリカに到達し移住地を作ったとウェールズの伝承に出てくる。マドックは再度ウェールズに戻って移民を募り、再びアメリカへ渡り戻らなかったとされる。史実としては信憑性が薄いが、物語としては有名。
    1171年
    1月21日(嘉応2年12月14日)松殿基房、太政大臣となる。事態収拾を図る平清盛の推挙とも言われる。なお、『平家物語』では清盛と重盛の立場が逆で、清盛が報復し、重盛が収拾を図っている。
    1173年
    (大定13年)高麗の文臣である東北面兵馬使の金甫当が毅宗の復位を図って武装蜂起するも鎮圧される(癸巳の乱)。武臣政権はこれを機会と捉えてさらなる文臣弾圧を実施。
    11月 7日(大定13年10月 1日)高麗の前王が武臣政権側の李義旼によって背骨を折られ殺害される。李義旼はこれを認められて将軍となるが、その残忍さが後で大きな問題にされる。毅宗は在位中、文臣に政権を任せて遊興に耽り、土木工事に武臣を動員するなどして武臣側の反感を招いた人物。
    1175年
    モデナ・レッジョ・エミリア大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。
    1177年
    5月27日(安元3年 4月28日)平安京で大火。通称「太郎焼亡」。出火場所は樋口富小路付近で、北西方向へと延焼。大内裏に到達し、大極殿は焼失。高倉天皇と平徳子は、藤原邦綱邸へ避難。八省すべてと大学寮・勧学院・神祇官の建物も焼け落ち、朱雀門や応天門も焼失。関白松殿基房邸、内大臣平重盛邸、大納言徳大寺実定邸など公卿の邸宅14家が被害に遭い、面積にしておよそ200町近く、家屋2万軒、平安京の三分の一が焼失したとも言われる。死者は数千人とも。大極殿の天皇の政務所(朝堂)としての機能はすでに形骸化していたため、以降再建されることはなかった。
    6月28日(安元3年 6月 1日)平氏打倒の鹿ヶ谷の陰謀が発覚。陰謀に加わった多田行綱が平清盛に訴えでた。後白河院による山門(延暦寺)攻撃強行を避けたい平清盛による陰謀とも言われる。後白河院の側近で山門紛争にも関わった西光、藤原成親が捕らえられる。
    7月 1日(安元3年 6月 4日)鹿ヶ谷の陰謀に加わったとして俊寛、平康頼、藤原成経、中原基兼らが拘束される。西光は斬首され、藤原成親は備前に流罪(後に殺害)、中原基兼は奥州に流罪、俊寛、平康頼、藤原成経は鬼界ヶ島に流罪となった。鬼界ヶ島は喜界島、薩摩硫黄島などが候補にあるが平家物語の記載では火山島で硫黄島とも呼ばれるとあるため薩摩硫黄島の可能性がある。平康頼、藤原成経は翌年許されたが、俊寛は許されず絶食自殺している。
    1178年
    4月13日(治承2年 3月24日)平安京でふたたび大火が発生。通称「次郎焼亡」。前年の太郎焼亡の延焼地域の南側、七条東洞院から出火し、七条通り沿いに西に向かって延焼。朱雀大路に至った。30数町が焼失。
    1179年
    12月17日(治承3年11月17日)治承三年の政変。平清盛が反平氏勢力の一掃をはかり京を制圧。後白河院の院政を停止し、公卿ら多数が逮捕され殺害されたり所領を没収されたクーデター事件。諸国の国主の入れ替えも行われ、中央政権に与するものが抜擢された。それが後の源氏の蜂起に諸豪族が加勢する遠因となったとも言われる。
    1180年
    5月18日(治承4年 4月22日)安徳天皇が2歳で即位。第81代天皇。
    5月23日(治承4年 4月27日)源頼朝が、叔父の行家から以仁王の平家追討令旨を伝えられる。
    6月20日(治承4年 5月26日)南都へ向かう途中の以仁王と源頼政の軍勢が、宇治橋で平家の追討軍と対峙。平家側の渡河により頼政ら摂津源氏の軍勢は敗北し、宇治平等院から脱出した以仁王も逃走中に討たれる。
    9月 8日(治承4年 8月17日)源頼朝の軍勢が挙兵。伊豆目代山木兼隆と後見役の堤信遠を討ち取る。
    9月14日(治承4年 8月23日)石橋山の戦い。源頼朝の軍勢が平家方の大庭景親、伊東祐親の軍勢に大敗を喫す。当初、大庭景親は翌朝に攻撃を計画していたが、背後から三浦勢が接近していることを知り、暴風雨の中で夜討ちをかけた。圧倒的な劣勢の中で頼朝軍は奮戦するも佐奈田義忠は俣野景久らと戦い討ち死に。頼朝らは大庭景親に従っていた飯田家義に助けられて一旦退き、山中に隠れているところを同じく大庭方に付いていた梶原景時に見逃され、土肥実平の助けで真鶴より船で房総へ向かう。頼朝側についた北条氏や工藤氏・佐々木氏らも一旦散開して落ち延びるが、その過程で北条宗時は祐親の軍勢と遭遇して討ち死にし、工藤茂光は足手まといになると自害した。
    9月15日(治承4年 8月24日)小壺坂合戦。源頼朝の挙兵に応じた三浦義澄・和田義盛の軍勢が、大雨で酒匂川を渡れず、引き返す途中で、平家方に付いていた畠山重忠軍と遭遇。三浦氏と畠山氏は縁戚関係にあり、両軍は一旦争わずに引き返そうとしたが、あとから合流した和田義茂が事情を知らず攻撃したため、両者交戦に発展。畠山勢は50人余りが討ち死にし、三浦勢は衣笠城まで退却。
    9月16日(治承4年 8月25日)波志田山合戦。大庭景親の弟俣野景久と駿河目代橘遠茂の軍勢が、甲斐源氏の安田義定と波志田山で交戦。俣野景久は敗走。波志田山の場所は特定されてないが、富士山北麓と見られる。
    9月17日(治承4年 8月26日)衣笠城合戦。衣笠城まで退却した三浦勢に対し、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父氏一族が攻撃。当主で89歳の三浦義明が籠城戦を展開する中、一族の三浦義澄、佐原義連、大多和義久、和田義盛、援軍に来ていた金田頼次、長江義景らは、船で安房へと脱出。衣笠城は落城し義明は戦死。
    9月20日(治承4年 8月29日)源頼朝、安房に到着。三浦義澄、安西景益らと合流。千葉常胤、上総広常ら下総の有力豪族に使者を送る。
    9月23日(治承4年 9月 3日)源頼朝、上総広常と会うために出立。その夜、民家に泊まったところを、長狭郡の領主、長狭常伴に襲撃される。三浦義澄が防戦して長狭常伴は討たれる。これを受けて頼朝は一旦安西屋敷へ移り、和田義盛が交渉のために上総広常の元へゆくことになったとも言われる。長狭常伴が討ち死にしたことで安房の武士団は頼朝に付く。
    9月24日(治承4年 9月 4日)結城浜の戦い。源頼朝は安房を出立して、千葉常胤と上総広常が合流。これに平氏方の下総判官代藤原親正が応戦、親正は敗北し捕虜となる。日付と内容は『源平闘諍録』による。
    10月 3日(治承4年 9月13日)源頼朝の要請を受けて千葉常胤が味方につき、下総国府を襲撃。平家方の下総目代を殺害。
    10月 4日(治承4年 9月14日)千葉常胤と、下総守に任じられた判官代藤原親政が戦い、親政は敗北し捕虜となる。日付と内容は『吾妻鏡』による。
    10月 9日(治承4年 9月19日)上総・下総で最大の勢力である上総広常が2万騎を率いて、隅田川まで進出した源頼朝軍のもとに参向する。この時、遅参を指摘した頼朝を見て広常は帰服することを決めたとされるが、頼朝挙兵の時点ですでに味方になることを決めていたという説もある。関東の諸豪族の多くは平氏の出自だが、これらが頼朝に味方したのは、治承三年の政変後に国主の入れ替えがあり地元豪族が不利に置かれたことが背景にあると言われる。
    10月(治承4年 9月)肥後国で菊池隆直らが平家に対して挙兵。
    10月22日(治承4年10月 2日)源頼朝ら、武蔵国へ入る。平家方についていた畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父氏一族も降伏し許される。
    10月26日(治承4年10月 6日)源頼朝、鎌倉へ入る。
    11月 7日(治承4年10月18日)源頼朝の軍勢と武田信義ら甲斐源氏の軍勢が合流。
    11月 9日(治承4年10月20日)富士川の戦い。源頼朝ら関東諸豪族の軍勢と武田信義ら甲斐源氏の連合軍に対し、討伐のために遠征してきた平家軍が富士川両岸で対峙するが、戦闘に至る前に平家軍が総退却、壊乱状態となる。平家軍退却の理由で有名なのは鳥が飛び立つ音に驚いたというもの。しかし元々平家軍は統率に失敗し離反者が相次いでおり、戦闘前から結果は出ていたという。なお、日付は諸本によって違いがある。
    11月12日(治承4年10月23日)平家方の富士川の敗戦を受け、逃げ道を失った大庭景親が源頼朝に降伏。
    11月15日(治承4年10月26日)大庭景親が処刑される。
    11月16日(治承4年10月27日)源頼朝は富士川の戦いの勢いに乗って追撃戦を主張するが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、先に常陸の佐竹氏を討つよう訴え、源頼朝はこれを受け入れ常陸へ向けて出陣。佐竹氏は平氏側についていたが、伊勢神宮の荘園だった相馬御厨の支配権を巡って千葉常胤らと争っていたことが背景にある。
    11月22日(治承4年11月 4日)上総広常、縁者でもある佐竹義政が帰服の姿勢を見せたことを利用して誘い出し、大谷橋でこれを殺害。義政の弟秀義は、金砂城に立てこもる。
    11月23日(治承4年11月 5日)金砂城の戦い。源頼朝軍が、金砂城を総攻撃。これを攻め落とす。佐竹秀義は城を脱出し、奥州方面へと逃走。
    12月 5日(治承4年11月17日)美濃源氏の土岐光長らが挙兵。
    12月 8日(治承4年11月20日)近江源氏の山本義経・柏木義兼兄弟が挙兵。園城寺も協力して近江一帯を制圧。
    12月 9日(治承4年11月21日)各地で反乱が相次いでいることから、平氏政権は福原から京へ拠点を戻すことを決定。
    12月14日(治承4年11月26日)平清盛らが入京。
    12月19日(治承4年12月 1日)近江源氏の挙兵に対し、平氏側の攻撃が始まる。
    12月24日(治承4年12月 6日)平知盛の軍勢が山本義経・柏木義兼らを打ち破り、園城寺も攻撃。園城寺の権利や所領をことごとく没収。
    12月(治承4年12月)伊予の河野通清が挙兵。翌年はじめに阿波の田口成良と備後の沼賀西寂に攻められ討ち死に。通清の子通信が沼賀西寂を討ち取り、水軍を率いて源氏に味方する。阿波の有力者田口成良は南都焼討から壇ノ浦まで平家方として参戦。最後に源氏方に寝返ったが源氏方によって処刑された。
    この年から翌年にかけて、全国で飢饉が広がる。通称「養和の大飢饉」。特に平安京の惨状は大きく、築地沿いや路上に多数の死体が放置され、悪臭が漂ったという。
    1181年
    1月15日(治承4年12月28日)平清盛、対立する南都(奈良)の東大寺や興福寺などの寺院勢力に対しても、討伐の兵を送る。平重衡、平通盛が軍を率い、寺院勢力も応戦。平家軍は各地に放火して攻勢をすすめるが、これが予想以上の大火になったと見られ一帯に延焼。東大寺は伽藍の主要な建物が焼失。大仏殿も焼け落ち、大仏も焼け溶ける。興福寺も伽藍のほぼ全てを焼失。僧侶や住民3500人以上が焼死したという。
    1月30日(治承5年 1月14日)平氏政権の後ろ盾で院政を始めたばかりの高倉上皇が病気で崩御。21歳。
    3月20日(治承5年閏2月 4日)平清盛が高熱を発して死去。南都焼討の仏罰と噂される。
    3月31日(治承5年閏2月15日)源頼朝挙兵後、尾張・三河に独自勢力を広げ始めた源行家に対し、平氏政権は討伐の兵を送ることになり、平重衡が出陣。
    4月16日(治承5年 3月 1日)平宗盛、父清盛が東大寺と興福寺に出していた処分を撤回。
    4月25日(治承5年 3月10日)墨俣川の戦い。平重衡率いる平家軍に対し、源行家、源義円、山田重満らが応戦。源氏方は奇襲を仕掛けるが失敗し大敗。阿野全成の同母弟で、源義経の同母兄である義円は戦死、山田重満らも戦死した。行家は矢作川の戦いでも敗北し、鎌倉の源頼朝の元へ逃走。
    5月 3日(治承5年 3月18日)南都の被害状況を調べるため、興福寺に藤原(葉室)光雅と藤原(日野)兼光が、東大寺に藤原(葉室)行隆が派遣される。藤原行隆は造東大寺長官として、造東大寺大勧進となった重源と共に東大寺復興を担当。
    5月24日(治承5年 4月10日)平宗盛が推挙して、平家と関係の深い筑前の有力者原田種直を太宰権少弐とする。九州で起きた菊池隆直の乱に対応するため。
    5月28日(治承5年 4月14日)原田種直に菊池隆直追討院宣がくだされる。中央からは平貞能が派兵される。
    7月26日(治承5年 6月13日)横田河原の戦い。平家より命を受けた越後の城助職が信濃に侵攻、木曽義仲と対戦し敗北、越後へ退却する。
    8月 4日(治承5年 6月22日)超新星SN1181が出現。以降185日ほど輝いていた。カシオペア座26,000光年にある星。『吾妻鏡』や、藤原定家の日記『明月記』に書かれた超新星の一つで、これは同日記と同時代の現象となる。超新星残骸「3C 58」が残っており、中性子星か、クォーク星ではないか、と考えられている。
    1182年
    3月21日(養和2年 2月15日)源頼朝と対立した伊東祐親が、娘婿の三浦義澄の奔走で助命されるが、それを良しとせず自殺。息子の伊東祐清も死を願い殺害されたという(祐清は平家方に加わり戦死したという説もある)。
    5月(養和2年 4月)菊池隆直が平貞能に降伏。年号の養和は平家方で使われたもので、源氏方では治承5年。
    1183年
    3月15日(寿永2年 2月20日)源頼朝の叔父で、源平どちらにも関わらず常陸信太荘で独自勢力を持っていた志田義広が、頼朝から鹿島社領の押領を責められたことを口実に挙兵。下野の足利俊綱、小山朝政ら3万騎で鎌倉攻めを企図。
    3月18日(寿永2年 2月23日)野木宮合戦。志田義広らと源頼朝方の軍勢が下野国野木宮で戦う。志田義広に応じる姿勢を見せた小山朝政は、当初から頼朝方に味方しており、近づいた志田義広軍を奇襲攻撃、乱戦となる。これに鎌倉から派兵された下河辺行平らと、足利俊綱の異母弟で鎌倉方についた足利有綱ら、さらに八田知家、宇都宮信房ら御家人に、源範頼も加わり、志田義広は敗北。木曽義仲の元へと逃亡する。鎌倉攻めを主張しながら下野方面へ進出しているため、もとから木曽義仲と連携しての挙兵だったという説や、源範頼が初めて登場することから、源範頼勢力と志田義広勢力との私戦という説もある。源頼朝は坂東を平定。合戦の日付には異説あり。
    5月20日(寿永2年 4月27日)平維盛率いる平氏軍が越前火打城を攻め落とす。
    6月 2日(寿永2年 5月11日)倶利伽羅峠の戦い。木曽義仲、源行家、樋口兼光らが、平維盛・平通盛・平知度・平行盛、平忠度ら平氏10万の軍勢を奇襲して倶利伽羅峠の崖に追い落とし大勝する。牛の角に松明を付けて襲わせる話で有名だが後世に脚色された話とも言われる。
    8月14日(寿永2年 7月25日)木曽義仲の軍勢が京に迫り、後白河法皇も比叡山に退避したことから、平宗盛ら平氏一門は安徳天皇と三種の神器とともに京都を脱出する。
    8月17日(寿永2年 7月28日)木曽義仲、入京。
    8月19日(寿永2年 7月30日)朝廷で論功行賞が沙汰され、第一が源頼朝、第二が源義仲(木曽義仲)、第三が源行家となる。
    8月25日(寿永2年 8月 6日)後白河法皇は、平氏一門の解官を決定。天皇の権限である除目も強行。
    8月29日(寿永2年 8月10日)後白河法皇は、源義仲を従五位下・左馬頭・越後守、源行家を従五位下・備後守とする。
    9月 4日(寿永2年 8月16日)後白河法皇は、源義仲を伊予守に、源行家を備前守に遷す。
    9月 8日(寿永2年 8月20日)平氏が連れ去った安徳天皇と神器を戻すことが困難だったため、後白河法皇によって、高倉天皇の子で、安徳天皇の異母弟に当たる尊成親王が即位し後鳥羽天皇となる。この際に、木曽義仲が以仁王の子である北陸宮を推挙したため、九条兼実ら公家から反感を買う。
    10月 7日(寿永2年 9月19日)木曽義仲と後白河法皇が会談し、法皇は京の治安悪化などを問題にして責任を問うたため、義仲は平氏討伐を約束。西国へ向けて出陣する。
    10月19日(寿永2年10月 2日)鎌倉へ下向していた中原康定が帰京し、源頼朝の申状を後白河法皇に提出。これによれば「平家横領の神社仏事領の返還」「平家横領の院宮諸家領の返還」「降伏者は斬罪にしない」という内容だったという。後白河法皇ら朝廷は、木曽義仲とは違うとしてこれを評価。
    10月31日(寿永2年10月14日)朝廷より、源頼朝に対して「寿永二年十月宣旨」が下される。頼朝の提案(平氏に押領された寺社の領地や宮・公家の荘園を元に戻す、斬罪の計を緩和する)に基づき「東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべき」という内容。木曽義仲に対抗するため、後白河法皇と頼朝が手を組んだものとされる。頼朝は北陸道も加えようとするが義仲の反発を恐れて朝廷は了承しなかった。またこれと合わせて頼朝を従五位下右兵衛権佐に戻し、頼朝は名実ともに罪人の身分から脱した。頼朝は宣旨実行を名分に、範頼と義経を畿内へ向けて出陣させる。
    11月17日(寿永2年閏10月 1日)木曽義仲軍の足利義清ら、水島の戦いで平重衡らに敗北。義仲軍の将兵多数が戦死する。なお、この日、金環日食があったことが記録されており、これが戦闘に影響したという説もある。
    12月 1日(寿永2年閏10月15日)木曽義仲が少数の兵を連れて帰京。後白河院とその周辺は動揺し、義仲に対し懐柔策も検討。
    12月 6日(寿永2年閏10月20日)木曽義仲が後白河法皇に対し、頼朝上洛を認めたことと、寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことを抗議し、頼朝追討の院宣か御教書を要求、頼朝と敵対した源氏の一門志田義広の起用を要求する。
    12月19日(寿永2年11月 4日)源義経軍が不破の関に到着。木曽義仲はこれに対応するため出兵するが、義仲に不満を持つ源行家らと後白河法皇、延暦寺、園城寺などが手を組み、兵を集めて法住寺に立て籠もる動きを見せる。
    12月31日(寿永2年11月16日)摂津源氏を味方につけた後白河法皇は、義仲に対して対平家戦に向かうよう命じ、残るようなら謀反として扱うと通牒。義仲は頼朝が京に入らなければ西国へ向かうと返答。
    1184年
    1月 3日(寿永2年11月19日)木曽義仲、後白河法皇らの籠もる法住寺を攻め落とす(法住寺合戦)。院御所であった法住寺南殿は焼失し、脱出した後白河法皇は捕らえられ幽閉され、明恵・円恵法親王・源光長(土岐光長)らは戦死。
    1月 6日(寿永2年11月22日)木曽義仲と松殿基房が手を組み、基房の子、松殿師家が摂政となって、新政権が樹立。
    1月12日(寿永2年11月28日)摂政松殿師家によって前摂政基通の家領八十余所を木曽義仲に与えられることになり、また、中納言藤原朝方以下43人が解官となる。
    2月 3日(寿永2年12月20日)上総広常が源頼朝の命を受けた梶原景時・天野遠景によって誅殺される。嫡男の上総能常も自害。上総広常の大きな勢力が頼朝の権力にとって邪魔だったとも、朝廷の権威も認めない独立志向を危うんだとも言われる。
    2月19日(寿永3年 1月 6日)鎌倉軍が美濃に進出。
    2月28日(寿永3年 1月15日)木曽義仲、征東大将軍となる。
    3月 4日(寿永3年 1月20日)宇治川の戦い。源範頼・源義経率いる5万騎を超える大軍に対し、この時点ですでに木曽義仲は千騎ほどにまで激減しており大敗。義仲は今井兼平が防戦していた瀬田方面へ逃走。義仲体制は崩壊。
    3月 5日(寿永3年 1月21日)粟津の戦い。源範頼軍に追撃され木曽義仲戦死。今井兼平も自刃する。義仲の側室で今井兼平の妹とみられる巴御前は、直前に義仲より落ち延びるよう指示されたとも言われ、各地に生存説がある。
    3月20日(寿永3年 2月 7日)一ノ谷の戦い。源義経の「鵯越の逆落し」の奇襲で平氏が大敗。
    5月27日(寿永3年 4月16日)元暦に改元。ただし平氏側支配地では引き続き寿永が使われる。
    6月 1日(元暦元年 4月21日)源義仲の嫡男で、人質として鎌倉にいた源義高が、義仲敗死をうけて頼朝に誅殺される可能性が出たため、頼朝の娘で義高の婚約者である大姫らの意を受けて、海野幸氏を身代わりにして鎌倉を脱出。事態を知った頼朝は御家人らに、捜索と討ち取りのため派兵を命じる。
    6月 6日(元暦元年 4月26日)源義高が、逃走途中の入間河原で藤内光澄に討たれる。12歳だった。頼朝は甲斐や信濃方面にも派兵しているため、単に義仲の子の誅殺だけが目的ではなかったとみられる。なお海野幸氏も捕らえられたがその忠誠心に免じて許され御家人となっている。
    7月25日(元暦元年 6月16日)甲斐源氏武田信義の嫡男、一条忠頼が、鎌倉に招かれて酒宴のさなかに頼朝の命を受けた天野遠景の手で殺害される。殺害された理由は不明。朝廷から武蔵守に補任されていること、直前に源義高捜索の理由で甲斐まで派兵が行われていることから、武蔵の支配を巡る頼朝と甲斐源氏の対立も考えられる。なお同じ信義の子である武田信光は頼朝側についている。
    8月12日(元暦元年 6月27日)源義高を討った藤内光澄が処刑される。大姫が義高の死を知って病に臥せたことで、母親の北条政子の怒りを買ったためとされる。
    10月 7日(元暦元年 9月 1日)源範頼軍が西国へ向けて出陣。
    1185年
    1月10日(元暦元年12月 7日)藤戸の戦い。源範頼軍が平行盛の児島に築いた城を攻め、この時、佐々木盛綱が海峡を馬で渡りこれを落とす。
    3月22日(元暦2年 2月19日)屋島の戦い。源義経軍が海を迂回し、陸側から奇襲をかけ、平氏の拠点だった屋島を落とす。那須与一の扇の的のエピソードが起こる。
    4月25日(元暦2年 3月24日)壇ノ浦の戦いで平氏の主流は滅亡する。平氏側の年号は寿永4年。
    5月16日(元暦2年 4月15日)源頼朝が、京で頼朝の許しなしに朝廷より任官を受けたものを批判。鎌倉への帰還を禁じる。後白河法皇と接近した源義経を警戒しての対応。
    6月23日(元暦2年 5月24日)源義経、兄頼朝から鎌倉入りを拒絶されたため、大江広元に書状(腰越状)を託す。
    7月 7日(元暦2年 6月 9日)源義経、兄頼朝から平宗盛親子を連れて京に行くよう命じられる。義経、兄を恨む言葉を残したとされ、領地没収となる。
    7月19日(元暦2年 6月21日)平氏の頭領で壇ノ浦で捕らえられた平宗盛が、義経の命で処刑される。
    9月23日(文治元年 8月28日)戦火の被害にあった大仏の再建に伴い開眼供養が行われる。
    10月19日(文治元年10月17日)源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊率いる83騎が京の六条にあった源義経の館を襲撃。義経自ら応戦し、これを撃退する。
    10月20日(文治元年10月18日)源義経、後白河法皇に依頼していた頼朝追討の宣旨を受ける。しかし畿内の武士は義経のもとにはほとんど参集せず。
    11月22日(文治元年10月29日)源頼朝、義経追討のため、鎌倉を出陣。
    11月27日(文治元年11月 4日)前日に源義経一行ら数百騎が都落ちを決め西国へ向かおうとしたが、摂津河尻で太田頼基らがこれを襲撃。義経に撃退される。平家物語では3日。この後も、多田行綱、豊島冠者、藤原範資らが相次いで襲撃。義経の勢力は離散。
    12月18日(文治元年11月25日)源義経追討の院宣が発せられる。
    12月21日(文治元年11月28日)源頼朝が朝廷から諸国の守護・地頭の設置・任免を許可した勅許(文治の勅許)を得る。ただ、鎌倉時代の守護ではなく、その前段階にあたり、荘園地頭を発展させた、段別五升の兵糧米の徴税権と田地の知行権、武士の動員権を持つ国地頭の設置だったのではないかという説が有力。
    1186年
    6月 1日(文治2年 5月12日)後白河院の頼朝追討の院宣に従い源頼朝と敵対していた源行家が、潜伏先の和泉国で北条時定に捕らえられ、この日処刑される。
    7月 4日(文治2年 6月16日)源有綱が大和宇陀で義経探索を行っていた北条時定の手勢と交戦し自害。有綱は頼朝挙兵に参加し、義経の与力となっていた武将。義経の婿(もしくは妹婿)ともいわれる。
    1187年
    3月21日(文治3年 2月10日)この頃、源義経、弁慶ら側近と正妻郷御前(比企尼の孫娘)や娘らを連れて奥州藤原氏の元へ向かう。
    7月 4日サラーフッディーンがヒッティーンの戦いで十字軍王国に勝利。エルサレムに侵攻。
    11月30日(文治3年10月29日)奥州藤原氏の頭領藤原秀衡が死去。
    1189年
    1月20日(大定29年1月2日)金の5代皇帝烏禄(ウル・世宗)が死去。3代皇帝、4代皇帝と暴君が続いたことと、南宋と盟約を結ぶなどして戦争が殆どなかったことから名君とされ、その治世は大定の治と呼ばれる。一方で4代皇帝に続き漢化政策が進められて女真族の文化が失われ(女真文字の創設もしている)、長期の安寧によって武力も衰えたという。また増税によって民衆の反乱が相次いだ可能性もある。世宗の嫡孫である完顔麻達葛(マダカ)が即位。
    6月15日(文治5年閏4月30日)衣川合戦。藤原泰衡に攻められて、源義経、妻女を殺害後に自害。弁慶らも討ち死に。
    10月14日(文治5年 9月 3日)鎌倉軍が奥州征伐を行い、藤原泰衡ら滅びる。
    この頃、モンゴル部族キヤト氏族のテムジンと、同部族ジャダラン氏族のジャムカの間で十三翼の戦いが起きる。ジャムカが勝利したと見られるが、ジャムカが捕虜に残酷な措置をしたことで、むしろテムジンの方に人望が集まるようになったと言われる。
    1190年
    1月(文治5年12月)藤原泰衡の郎従であった大河兼任の乱が陸奥で起こる。
    2月13日(文治6年 1月 7日)源頼朝、大河兼任の乱討伐の動員令を発する。
    3月19日(文治6年 2月12日)鎌倉軍と大河兼任の軍勢が栗原郡で衝突。大河兼任は敗北。
    4月16日(文治6年 3月10日)大河兼任、逃走の末、栗原に戻ってきたところを、栗原寺で樵に殺害される。
    1191年
    9月 7日第3回十字軍アルスフの戦い。リチャード1世がサラーフッディーンの軍勢を破る。
    9月10日第3回十字軍。リチャード1世がヤッファを占領。
    1192年
    4月26日(建久3年 3月13日)後白河法皇が崩御。
    8月21日(建久3年 7月12日)源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられる。頼朝は「大将軍」の官職を求めたのに対し、征東大将軍、征夷大将軍、惣官、上将軍の4案の中から、平宗盛の官職だった「惣官」(畿内惣官)と木曽義仲の官職だった「征東大将軍」は前例が良くないとして外し、「上将軍」は古例がないため、「征夷大将軍」にしたとも言われる。
    キプロス王国が建国される。エルサレム共同統治者だったギー・ド・リュジニャンが、第3回十字軍としてきていたリチャード1世より、エルサレムの王位継承権を放棄する代わりにキプロス島の領有権を得たことによる。
    1193年
    3月 4日アイユーブ朝の創始者で、聖地奪回を成し遂げたことから、イスラムの英雄とされるサラーフッディーン(サラーフ=アッディーン。本名ユースフ・イブン・アイユーブ)がダマスカスで病没。ティクリート出身のクルド人で、有能な軍事指揮官だった一方、捕虜を無条件で解放するなど、穏健な人物だったことから、イスラム世界で絶大な支持を得ただけでなく、キリスト教徒の間でも著名な人物であった。ヨーロッパではサラディンと呼ばれる。
    6月28日(建久4年 5月28日)曾我兄弟の仇討ち。曾我十郎祐成、曾我五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を富士の巻狩りで殺害。源頼朝も狙うが兄は殺害され、弟も処刑される。
    1194年
    (南宋 紹熙5年・金 明昌5年)分流していた黄河下流の流れが大きく南へ移り、それに押される形で黄河の一部が合流していた淮河も南へと遷移。湖沼地帯に水が大量に溜まり現在の洪沢湖が形成される。淮河の流れはそこからさらに南へと移り、現在のような長江へ流れ込むルートに変わった。
    1196年
    6月ウルジャ河の戦い。テムジン(チンギスカン)が記録に初めて登場した戦い。金に反旗を翻し西遼側についたタタル部族のセチュに対して、金と同盟したモンゴル部キヤト氏族のテムジンが、同盟関係のケレイト部族王のトオリルとともに金朝の作戦に応じてタタルを攻撃し勝利。金朝の指揮官は完顔襄、完顔安国。テムジンはジャウト・クリ(百人長)の称号を得、トオリルは「王(オン)」の称号を得た(トオリルはオン・カンと称する)。テムジンは勢力を拡大していく。
    12月16日(建久7年11月25日)九条兼実が関白を罷免される(建久七年の政変)。兼実の子九条良経も籠居。兼実の権力体制と保守的な政策に反発した土御門通親や新興中下級公家のクーデター。
    1198年
    この年、ローマ教皇インノケンティウス3世が第4回十字軍派遣を企画。しかし各地の王は参加せず、フランス貴族らによって計画が進められる。
    1199年
    1月25日(建久9年12月27日)稲毛重成が病死した妻(北条政子の妹)の追供養のため、相模川に橋を架ける。その落成供養に源頼朝も出席するが、その帰途に急に体調を崩す。落馬が原因という説もある。関東大震災の時に液状化によって地中から出土した木製橋脚群がこのときの橋のものとする説もある(橋があったのは鎌倉時代のみでそれ以降明治まで橋は作られなかったため)。
    2月 9日(建久10年 1月13日)源頼朝が死去。死因は記録によって異なり、落馬による負傷、脳卒中などの病気(落馬の原因にもなる)、飲水病(糖尿病か)、亡霊を見て病気になったなどの説もある。
    2月22日(建久10年 1月26日)源頼家が家督を相続する。
    3月12日(正治元年 2月14日)一条能保の遺臣である後藤基清・中原政経・小野義成らが権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとして捕縛される。3人の官職名から「三左衛門事件」と呼ばれる。頼朝危篤の情報から京の情勢が不穏になった際に起こった事件。同じ頃、文覚も逮捕される。
    3月15日(正治元年 2月17日)「三左衛門事件」に連座して西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕停止。
    4月 6日イングランド王リチャード1世(獅子心王)が、アキテーヌ公領のシャリュ城攻略中に、戦傷がもとで死去。
    5月 8日(正治元年 4月12日)鎌倉幕府有力御家人13人による合議制が成立し、源頼家が直接訴訟を裁断することが禁じられる。いわゆる「十三人の合議制」。
    1200年
    2月 6日(正治2年 1月20日)梶原景時の変。失脚した梶原景時一族が、上洛しようとしたところ、襲撃を受けて滅ぼされる。
    1200年代前半
    超新星残骸ベラ・ジュニアの元となった超新星爆発の光が地球に到達したとみられる年代。実際の爆発は西暦500年代前半ころ。かなりの規模の地球近傍超新星だが、この時代の記録には見当たらない。星間物質などによって遮られた可能性もある。
    1201年
    2月27日(建仁元年 1月23日)城長茂が、京の大番役、小山朝政の邸宅を襲撃。小山朝政は留守だったため難を逃れる。長茂は後鳥羽上皇に鎌倉討伐の院宣を求めるが拒否される。建仁の乱。城一族は元平氏方だったが、鎌倉政権樹立後、身柄を引き受けた梶原景時のとりなしで許され御家人となっており、景時が滅ぼされたことに対して反乱を起こしたとみられる。また、同時期、越後で城資盛と坂額御前ら一族も鳥坂城に籠って反乱を起こす。
    3月28日(建仁元年 2月22日)城長茂が、大和吉野で小山朝政らによって滅ぼされる。
    4月 4日(建仁元年 2月29日)奥州藤原秀衡の4男で、城長茂に同調して挙兵した藤原高衡が討ち取られる。高衡も梶原景時のとりなしを受けていたため、反乱に同調したとも考えられる。
    6月11日(建仁元年 5月 9日)坂額御前が負傷したことをきっかけに越後鳥坂城が陥落。城資盛は行方不明となり、坂額御前は捕虜となる。
    7月29日(建仁元年 6月28日)坂額御前が鎌倉へ護送され、源頼家の面前に連れてこられる。堂々とした態度を崩さず、それに感銘を受けた甲斐源氏浅利義遠が頼家に申し出て妻に迎えたと言われる。
    第4回十字軍の参加希望者が少なかったため、資金も乏しい状態で出発できず。そこへ先の東ローマ皇帝イサキオス2世が息子アレクシオスを送り、資金提供と東西教会統一を条件に自分の皇帝への復帰支援を要請する。
    1202年
    8月11日(建仁2年 7月22日)源頼家を従二位に叙し、征夷大将軍の宣下が出される。
    テムジンとオン・カン(トオリル)は、反ケレイト・キヤト諸部族と決戦し、これを打ち破る。
    1203年
    6月29日(建仁3年 5月19日)阿野全成が捕らえられる。源頼朝の異母弟(義経の同母兄)で、北条氏と組んで将軍頼家と対立したため、頼家が先手を打って、武田信光に命じて捕縛したとされる。
    7月第4回十字軍が同じキリスト教国の東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスを攻撃。皇帝アレクシオス3世が逃亡したため、十字軍と組んだアレクシオス3世の兄イサキオス2世が復位し、その子のアレクシオス4世が共同皇帝となる。しかし市民と十字軍との関係は悪化。
    8月 1日(建仁3年 6月23日)阿野全成が、将軍源頼家の命を受けた八田知家によって殺害される。
    10月 8日(建仁3年 9月 2日)比企能員の変。将軍源頼家と御家人との対立から起こった事変で、頼家と近い比企氏の権力増大を恐れた北条氏によって滅ぼされる。頼家の子で、母親が比企氏の出身である一幡も殺害される。
    10月13日(建仁3年 9月 7日)病床にあった将軍源頼家に比企氏討伐の報が伝えられ、頼家は激怒して堀親家を使者に和田義盛らに北条討伐を命じるも応じる御家人はいなかったという。また比企能員の変の前後に、北条政子から京に将軍頼家死去の虚報が伝えられ、7日に千幡に将軍宣下が出され(15日とも)、後鳥羽上皇により源実朝の名が与えられる。頼家は将軍職を失い、北条時政が大江広元とともに実権を握る。
    テムジンとオン・カンが対立し、一旦はオン・カンがテムジンを追い落とすも、勢力を盛り返したテムジンがオン・カンを襲撃。これに勝利し、オン・カン率いるケレイト部は壊滅。テムジンはモンゴル高原中央部を制圧。
    1204年
    1月(建仁3年12月)伊勢で、若菜盛高ら伊勢平氏が蜂起。伊勢守護山内首藤経俊の館を襲撃する事件が起きる。三日平氏の乱のはじまり。当初は伊勢国員弁郡郡司進士行綱が事件を起こしたと間違われた。
    2月 8日東ローマ帝国前皇帝アレクシオス3世の娘婿アレクシオス5世ドゥーカスが反乱を起こし、皇帝イサキオス2世と共同皇帝のアレクシオス4世を殺害。
    3月(元久元年2月)伊賀で平惟基、伊勢で平度光が、武装蜂起。伊勢守護山内首藤経俊は敗走。三日平氏の乱。
    4月11日(元久元年3月10日)鎌倉幕府は、伊賀・伊勢の平氏の反乱に対し、京都守護平賀朝雅に追討を命じる。
    4月13日第4回十字軍がふたたびコンスタンティノポリスを攻撃し陥落。東ローマ帝国の皇族らは周辺地域に逃亡。複数の亡命国家を建設する。十字軍の兵士らは市民を虐殺し婦女子を見境なく暴行、美術品を略奪し、貴重な文化財をことごとく破壊する。東ローマ帝国は一旦滅亡。この事件は、現代にまで続く正教会のカトリックに対する対立姿勢の要因にもなった。
    4月22日(元久元年3月21日)後鳥羽上皇は、伊賀国を平賀朝雅の知行国と定める。
    4月23日(元久元年3月22日)平賀朝雅、兵200を率いて京を出兵。
    5月11日(元久元年4月10日)平賀朝雅率いる鎌倉軍が伊勢に入り、平氏軍を攻撃。
    5月13日(元久元年4月12日)平賀朝雅、伊勢の平氏軍を鎮圧。続いて伊賀の残党を倒し、三日平氏の乱を平定。平賀朝雅はこの功績により、伊勢平氏の所領を得た他、伊勢と伊賀の守護を兼務することになる。また後鳥羽上皇に殿上人として加えられ、権勢が拡大する。山内首藤経俊は伊勢守護の地位を失った。
    5月16日旧東ローマ帝国の一部を領土とし、コンスタンティノポリスを首都とするラテン帝国が成立。フランドル伯ボードゥアン9世が皇帝ボードゥアン1世として即位。しかし十字軍本来の目的である聖地奪回・エジプト攻撃には向かわず。
    8月14日(元久元年 7月18日)源頼家が幽閉先の伊豆修善寺で暗殺される。『吾妻鏡』には詳細がないが、『愚管抄』では北条義時の手勢によって入浴中に殺されたとある。
    11月26日(元久元年11月 4日)三代将軍源実朝の正室となった坊門信清の娘を迎える使者として京へ赴いた御家人らの歓迎酒宴が開かれた平賀朝雅邸で、平賀朝雅と、畠山重保(畠山重忠の嫡男)が言い争う事件が起きる。
    11月27日(元久元年11月 5日)北条時政と牧の方との間に生まれた北条政範が、三代将軍源実朝の正室となった坊門信清の娘を迎える使者として京へ赴いた際に急死する。前日の平賀朝雅と畠山重保の言い争いの話と共に北条時政・牧の方に伝わり、畠山氏に対する強行策に発展して畠山重忠の乱の要因の一つになったとされる(平賀朝雅は北条時政・牧の方夫妻の娘婿)。
    ヴィチェンツァ大学が設立される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。
    1205年
    7月10日(元久2年6月22日)畠山重忠の乱。由比ヶ浜で畠山重保が、二俣川で畠山重忠が、鎌倉の騒動を理由に招集を受けて出向いたところを、北条義時らに攻め滅ぼされる。武蔵国の支配権をめぐる国司平賀朝雅と御家人畠山重保の対立から、朝雅が妻の母である北条時政の後妻牧の方をして畠山を讒言し、時政が義時らの反対を押し切って畠山討伐を強引に進めた冤罪事件。乱の直後から冤罪とみなされていた。重忠は北条氏が滅ぼした御家人でありながら、「吾妻鏡」で称賛されており、義時も重忠は無実であると発言したとある。一方で、畠山氏の所領は北条政子を介して討伐の功績として御家人らに分割され、畠山氏の家督も、重忠の妻(北条政子らの妹)が重忠の遺領を相続した上で河内源氏系足利義純に再嫁し、義純が畠山氏の家督を継いだため、秩父平氏畠山家は滅亡(義純は重忠の娘と婚姻して相続したとも言われる)。武蔵国は北条得宗家が支配していくことになる。
    7月11日(元久2年6月23日)畠山重忠の乱討伐に加わっていた、同族の稲毛重成・小沢重政親子、榛谷重朝・榛谷重季・榛谷秀重親子らが畠山重忠を讒言して陥れたとして、三浦義村・大河戸行元・宇佐美祐村らの手で討伐される。
    9月 5日(元久2年閏7月20日)北条時政が将軍源実朝を廃し、後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようとしたが、畠山重忠の乱以来、時政と対立していた政子・義時が先手を打ち、時政の執権職を奪い、牧の方とともに幽閉。ふたりを伊豆に流罪とした。牧氏事件。平賀朝雅は新羅三郎義光の子孫で、頼朝の猶子にもなっていた源氏の出である。
    9月11日(元久2年閏7月26日)平賀朝雅が北条義時の命を受けた在京御家人の軍勢に襲撃され、一旦は逃げ延びたが、山内首藤通基(三日平氏の乱で伊勢守護を解任された経俊の子)によって誅殺される。
    旧東ローマ帝国の皇族が興したニカイア帝国とブルガリア王国が手を結び、ラテン帝国を攻撃。全土を蹂躙し、皇帝ボードゥアン1世も捕らえられ消息を絶つ。皇帝の弟アンリ・ド・エノーが摂政となって宥和政策を取ったことでかろうじて命脈を保つ。
    テムジンは、ナイマン部族、メルキト部族を破り、長年敵対してきたジャムカを捕らえて処刑。オングト部族も傘下に入り、モンゴル高原を平定。
    1206年
    2月テムジンがオノン川上流に諸部族を集めてクリルタイを開催。チンギス・カンの称号を得て、モンゴル帝国を建国。チンギスの意味や由来はよくわかっていない。
    6月14日(開禧2年/泰和6年 5月 7日)南宋の実力者韓侂冑らが主導して、金に対する北伐を開始。通称「開禧用兵」。
    12月(開禧2年/泰和6年11月)「開禧用兵」は失敗に終わり、南宋は金との和平交渉を開始。金は強硬姿勢を貫き、戦争責任者として韓侂冑の身柄引き渡しを要求。南宋の権力者韓侂冑は一転して窮地に追い込まれる。
    1207年
    (建永2年2月)承元の法難。かねてより諸宗派から批判されていた法然の教団に対して、後鳥羽上皇が処罰を命じた事件。ただし宗教的な理由ではなく、法然の弟子である遵西と住蓮が、後鳥羽上皇の熊野巡幸の留守中に、宮中の女官らの招きで宮中で説法を行い、そのまま宮中に泊まったあげく、女官のうち2名が出家してしまったことに上皇が激怒したため。2人は密通の疑いで処刑され、法然や親鸞も流罪となった。ただし当時の公的な記録に処刑された記載がないことから、検非違使などによって私的に殺害されたという説も根強い。承元となっているのは、この事件のさなかに改元したため。
    5月 3日(承元元年 4月 5日)九条兼実死去。平安末期から鎌倉初期の激動期に摂政・関白・太政大臣を務めた人物。有職故実家で、九条家・一条家・二条家の祖にあたる。同時代の一級史料『玉葉』の著者。
    11月24日(開禧3年11月 3日)南宋の権力者韓侂冑が暗殺される。講和の条件に韓侂冑の身柄引き渡しを要求していた金との交渉を進めるため、楊皇后と史弥遠らによって起きた事実上のクーデター。首は金に送られ、講和が成立。史弥遠の権力掌握のきっかけとなる。
    1208年
    12月29日(泰和9年11月20日)金の6代皇帝章宗(麻達葛)が死去。比較的穏健な皇帝で、前代世宗とともに安定した治世を行い、明昌の治と呼ばれる。一方でこの頃から徐々に国力が衰退し始める。子息6人が全員夭折したため、叔父の完顔果繩(ガジェン)が後をついで即位。
    史弥遠が南宋の右丞相となる。和平派の代表。1233年に死ぬまで25年の長期政権を築く。
    1209年
    オックスフォード大学の学者2人が市民とのトラブルで処刑されたことから、学者らが抗議して各地の大学に移り、一部が教会の教育施設があったケンブリッジに住んだことがきっかけでケンブリッジ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。
    1210年
    12月12日(承元4年11月25日)後鳥羽上皇の意向で、土御門天皇が弟の守成親王(順徳天皇)に譲位。
    1211年
    ナイマン部族のクチュルクが、彼を皇女の婿に迎えた西遼王朝を簒奪。
    モンゴル部族のチンギスが、兵を総動員して金遠征を開始。第1次対金戦争。
    4月モンゴル軍の侵攻を受けて、金は防衛のため宣徳行省と西京行枢密院を設置。
    6月モンゴル軍が、撫州などにある金の運営する広大な牧場地帯を占領。ここに侵攻拠点を置く。また金に属していた現地の契丹人勢力はモンゴル側に寝返る。
    8月野狐嶺の戦い。金は完顔承裕、紇石烈らの率いる30万の兵で迎撃に向かうも、戦意は低く、モンゴル軍に大敗。
    10月澮河堡の戦い。金軍は澮河堡まで退却した後、立て直してモンゴル軍と再度衝突。金軍は再び大敗を喫し、宣徳行省軍は壊滅。大きな戦力を失う。
    1212年
    2月29日(建暦2年 1月25日)浄土宗の開祖、法然死去
    金王朝に属していた遼の王族耶律留哥が、モンゴルの支援を受けて反乱。隆安・韓州地方で独立。いわゆる「東遼」王朝。
    1213年
    3月 8日(建暦3年 2月15日)信濃源氏の御家人泉親衡が、源頼家の遺児千寿丸を擁立して、執権北条義時を討とうと乱を起こす。泉親衡は敗北し逃亡。
    5月23日(建暦3年 5月 2日)和田義盛らが、泉親衡の乱に関与したとして一族の和田胤長が罰せられたことなど北条義時からの屈辱的な扱いを受けた恨みから鎌倉で武装蜂起。市街戦となる。劣勢になった義盛勢は一旦退却。
    5月24日(建暦3年 5月 3日)和田義盛軍と横山時兼の横山党が合流し鎌倉市内へ再突入。しかし時間とともに劣勢となり討ち取られる。和田義盛の三男の猛将朝比奈義秀は残党を引き連れて安房へ逃亡。
    8月(貞祐元年 8月)金の将軍紇石烈胡沙虎(フシャリクシャク)が反乱を起こす。モンゴルによる大金遠征を迎え撃ったが敗北したことで、対立関係にあった官僚らによって処罰されそうになったため。宮中に攻め込み皇帝を捕らえる。
    9月11日(貞祐元年 8月)反乱を起こした金の将軍胡沙虎が、宦官の李思中に命じて、皇帝果繩を毒殺。代わりに完顔吾睹補(ウトゥプ)を擁立して即位させる(宣宗)。果繩の帝位は剥奪され、東海郡侯とされたが、後に宣宗によって、即位前の地位である衛王に戻された上で、紹王と追贈されたため、衛紹王と呼ばれる。
    モンゴル軍が大規模に侵攻を再開し、金の領土を席巻する。胡沙虎が迎撃戦を展開し一定の成果を収めるも、朮虎高琪との連携に失敗して敗北。
    11月28日(貞祐元年10月15日)金の将軍胡沙虎が、遠征から戻った高琪に殺害される。モンゴル軍への応戦で連携できなかった高琪がその責任で単独迎撃を命じられて敗北したため、政敵である胡沙虎に対し先手を打った政変。
    モンゴル軍のケフテイ、サムカらが金の都、中都大興府を包囲。
    1214年
    5月 7日(貞祐3年 5月 2日)モンゴル軍、全軍で中都大興府を包囲しつつ、講和交渉を行う。金側は完顔福興(承暉)が交渉に当たり、衛紹王の娘である岐国公主がチンギスに嫁ぐことで講和が成立。モンゴル軍は中都大興府の包囲を解く。もともとモンゴルは中都大興府を攻め落とすつもりはなかったと見られる。
    5月 7日(貞祐3年 5月 2日)金王朝、南の開封に遷都を行う。モンゴルから距離を置くためと見られる。この時、契丹人で構成される傭兵部隊「乣軍」の武装解除をしようとして反乱を招き、「乣軍」が中都大興府近辺を占拠してモンゴル側に支援を要請。モンゴル側は和約違反として再出兵を決める。
    5月(貞祐3年 5月)モンゴルと契丹人の連合軍が中都大興府を再度包囲。
    7月27日フランス王国対神聖ローマ帝国・イングランド王国連合によるブーヴィーヌの戦い。フランスが圧勝。
    1215年
    2月金は、中都大興府救援のため、完顔永錫、烏古論慶寿、李英、孛朮魯徳裕らに大軍を派兵させる。
    3月金の慶寿、李英らがモンゴル軍に敗北し、中都大興府救援は失敗。
    5月31日(貞祐3年 5月 2日)中都大興府に残って防衛を担っていた右丞相・都元帥の完顔福興が、部下らにモンゴルへの降伏を認め、宣宗宛に高琪が救援を妨害したことを伝える書簡を残して自殺。福興は敵のチンギスからも高く評価されていた。抹撚尽忠は逃亡。中都大興府は陥落した。中都で金に仕えていた耶律楚材はこのあとモンゴルに仕えるようになった。
    6月15日イングランド王ジョンが、マグナ・カルタを承認する。王の権限を制限した基本法。
    金朝の女真将領・遼東宣撫使の蒲鮮万奴が自立を宣言し大真国を建国。
    1216年
    7月26日(建保4年閏6月10日)鴨長明死去。賀茂御祖神社の禰宜の子として生まれたが、一族との争いに敗れてその地位を失い、歌人として活躍。後鳥羽上皇から河合社の禰宜職に推挙されるがこれも一族の反対で認められず。以後出家して京の郊外に隠棲。随筆「方丈記」を記した。「方丈記」は無常観漂う中世文学の代表的な随筆だが、一方で同時代の事件、災害などが詳細に記載されている。
    東遼の耶律留哥は、モンゴル帝国から派遣された耶律可特哥が大真国を興した蒲鮮万奴の妻の李僊娥を娶ったことを非難して対立に発展。耶律可特哥は耶律留哥が死んだと称して独自政権を樹立。「後遼」と呼ばれる。耶律留哥は高麗と手を組んで後遼を攻撃。
    1217年
    第5回十字軍遠征が始まる。
    1218年
    モンゴルが、西遼を乗っ取ったクチュルクを滅ぼす。これにより領域が接することになったホラズム・シャー朝のスルターンに450人もの通商使節団を送る。交渉でモンゴルへの服属を求めたことからか、オトラルの長官イナルチュクが使節団をスパイ容疑で逮捕したことを受けて、イナルチュクの甥でホラズム・シャーのスルターンであるアラーウッディーン・ムハンマドは、使節団の殺害を命じる。チンギスカンはイナルチュクの処罰を求めたが受け入れられなかったため、ホラズム・シャーへの遠征を決定。
    スペインのサラマンカ大学が創立される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。それ以前から前身の教会付属の教育機関があったとみられる。
    1219年
    1月14日モンゴル帝国、大真国、高麗国が連合して後遼国に攻め込み、後遼は滅亡。耶律留哥が再び統治。
    6月 5日(承久3年 5月14日)前年の右大臣昇進の祝賀のため、鶴岡八幡宮を参詣していた鎌倉幕府第3代将軍源実朝が、甥の公暁(八幡宮寺別当)に襲われて殺害される。同行していた源仲章も殺害され、襲った公暁は三浦義村に支援を求める途中にその義村が派遣した討手に襲われ、三浦邸にたどり着いたところで討たれた。源仲章は北条義時と間違えられたとも言われ、その義時は体調不良で退出していた、あるいは中門で控えていたなど諸説ある。公暁の動機や事件の背後関係など不明な点が多い。
    カラ・クムの戦い。ホラズム・シャーのスルターンであるアラーウッディーン・ムハンマドが、侵入してきたメルキト部族を迎撃するために自ら出兵。メルキトを追撃していたモンゴル軍の存在を知り攻撃を仕掛ける。モンゴル軍は少数だったため、メルキトの戦利品を贈って友好を結ぼうとしたが、ホラズム側の攻撃を受けて応戦。逆にアラーウッディーン・ムハンマドの中央軍は敗北し、王子ジャラールッディーン・メングベルディーの右翼軍が救援に駆けつけたことで撤退した。モンゴルは自信をつけ、ホラズム側は以後消極的になる。
    モンゴルが、ホラムズ・シャー朝への侵攻を本格化。マー・ワラー・アンナフルへ進出し、オトラル、スィグナク、ジャンドを攻略。
    1220年
    1月 2日(興定3年11月25日)金の最高権力者となっていた高琪が宣宗によって誅殺される。高琪はモンゴル軍への応戦を行わず、開封の防備のみに兵を集中させたことで、中都大興府をはじめ、各州がモンゴルに奪われる結果を生んだことから、金を滅亡させた人物とみなされている。
    2月モンゴルが、主要都市ブハラ、首都のサマルカンドを攻略。アラーウッディーンはナフシャブへ退却。ホラムズ・シャー朝は、各都市を守備したが、軍を集中させず個別に撃破されて壊滅。
    4月アラーウッディーンはニーシャープールへ退却。短期間でここも離れる。ガズウィーン、ロレスターンを経由してマーザンダラーンまで落ち延びる。モンゴル軍はホラーサーンに侵攻。
    12月ホラムズ・シャー朝第7代スルターンのアラーウッディーン・ムハンマドが、最後にたどり着いたカスピ海の島アバスクン島で死去。ジャラールッディーンが後を継ぐ。
    1221年
    2月ホラムズ・シャー朝の都市メルヴが陥落。住民は職工など一部を除き虐殺される。
    4月10日ホラムズ・シャー朝の都市ニーシャープールが陥落。住民は虐殺され、都市も破壊される。
    4月ホラムズ・シャー朝の最後の王都ウルゲンチが陥落。住民は虐殺され都市も破壊され尽くした。
    4月ホラムズ・シャー朝の都市ヘラートがモンゴルに降伏。
    6月 5日(承久3年 5月14日)後鳥羽上皇が流鏑馬を口実に兵を集め、幕府に対し挙兵。承久の乱が始まる。
    6月26日(承久3年 6月 5日)大井戸の戦い。幕府軍5万が2000ほどの上皇軍を撃破。上皇軍は京付近まで撤退。
    7月 4日(承久3年 6月13日)宇治川の戦い。上皇軍と幕府軍が衝突し、上皇軍は宇治川の橋を落とすが、翌日に佐々木信綱らが増水の中、敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣を突破。京へなだれ込む。幕府軍の勝利に終わる。
    9月パルワーンの戦い。ホラズム軍を率いるジャラールッディーンが、カーブルの北方にあるパルワーンでモンゴル軍を撃破。この報が広まり、モンゴルが占領しているメルヴやヘラートで反乱が起きる。
    11月24日インダス河畔の戦い。ホラズム軍はモンゴル軍に包囲殲滅される。ジャラールッディーンはインド方面へ敗走。
    1222年
    3月30日(貞応元年 2月16日)日蓮が安房で誕生する。
    6月14日モンゴル軍の将軍イルジギデイがヘラートで起きた反乱を鎮圧。市民が大虐殺されたという。
    1223年
    5月31日カルカ河畔の戦い。ジェベ率いるモンゴル軍と、ルーシ諸公国連合軍との戦い。モンゴル軍の圧勝に終わる。
    モンゴル軍、ヴォルガ・ブルガール地方へ侵攻。
    ケルネク(サマラ屈曲部)の戦い。モンゴル軍と、ヴォルガ・ブルガール軍とが衝突し、ヴォルガ・ブルガールが勝利。
    1224年
    7月 1日(貞応3年 6月13日)鎌倉幕府第2代執権の北条義時が死去。
    7月16日(貞応3年 6月28日)北条泰時が鎌倉幕府第3代執権となる。義時の最初の子で嫡子ではないが、後を継いだ。母親の正体が不明。泰時が執権制度を整えたとして初代執権とする説もある。
    10月13日(貞応3年 8月29日)北条義時の後妻伊賀の方が、北条政子の手で伊豆に流罪となる。伊賀の方は12月末ころに配流先で死去。兄の伊賀光宗も信濃に流罪。伊賀の方が産んだ北条政村を次の執権に擁立しようとして、北条政子が弾圧した事件とされるが、北条泰時は陰謀を否定しており、伊賀光宗も後に赦されている。北条政村はこの後、長期にわたって幕府の宿老として政権を支えた。
    12月31日(貞応3年11月20日)天変炎旱により年号を元仁に改元。
    フェデリコ2世・ナポリ大学が創立される。ローマ教皇と対立した神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ(フェデリコ)2世が、教皇の庇護下にあったボローニャ大学に対抗するために創立したと言われる。
    1225年
    5月28日(元仁2年 4月20日)年号を元仁から嘉禄に改元。疱瘡が流行したためとも、前年の元仁への改元に幕府が不満を唱えたためとも言われる。
    7月16日(嘉禄元年 6月10日)大江広元死去。公家出身で源頼朝の側近となり鎌倉幕府初期の重鎮だった人物。
    8月16日(嘉禄元年 7月11日)北条政子死去。実子でもある頼家と実朝の死によって源家将軍が絶えたあと、実弟の義時とともに幕府の最高権力者として政治に関与し、尼御台、尼将軍とも呼ばれた。
    12月31日(太宗天彰有道2年12月1日)ベトナム陳朝の始まり。李朝大越国の実力者、陳守度によって、李朝最後の皇帝である女帝李昭皇が、夫の陳太宗に譲位。
    1226年
    2月25日(嘉禄2年 1月27日)藤原頼経が第4代征夷大将軍となる。九条道家の子だが、源頼朝の姉妹である坊門姫の曾孫に当たるため、源氏の血も引いている(坊門姫の娘で西園寺公経室が生んだ掄子と、坊門姫の娘で九条良経室が生んだ九条道家との間に生まれた)。
    10月 3日アッシジのフランチェスコ(ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ)が死去。フランシスコ会の創設者。生きているときから聖痕があらわれるなど聖人視されており、死後2年で列聖された。
    1227年
    モンゴル帝国の攻撃と、地震による飢餓などを受けて、西夏王朝の皇帝李睍が降伏。西夏は滅亡する。
    8月18日モンゴル帝国初代皇帝チンギス・カン没。
    8月28日西夏の最後の皇帝でモンゴル帝国に囚われていた李睍をはじめ、一族・有力者らが、オゴデイによって殺害される。
    1228年
    3月第一次大昌原の戦い。モンゴル軍8000を、完顔陳和尚率いる「忠孝軍」400騎が打ち破る。忠孝軍はモンゴルに滅ぼされた各国の亡命者で編成された軍という。モンゴルによる対金侵攻ではじめて、金軍の大勝利となり、陳和尚の名も知れ渡ることになる。
    1229年
    9月13日モンゴル帝国でクリルタイが開催され、チンギス・カンの3男オゴデイが第2代モンゴル皇帝に選ばれる。以後、オゴデイ・カアンとなる(カアンは王を意味するカンより上の称号)。
    この年、ククダイとブベデ率いるモンゴル軍が、再びヴォルガ・ブルガール地方へ侵攻。
    トゥールーズ大学が創設される。
    1230年
    1月第二次大昌原の戦い。ドゴルク・チェルビ率いるモンゴルの侵攻軍先遣隊を、紇石烈牙吾塔・移剌蒲阿らが率いる金軍が撃破。ドゴルクは敗戦の責任を取って処刑されたが、オゴデイは処刑を悔いて「4つの過ち」の一つに上げている。
    オゴデイ・カアンによって本格的な第2次対金侵攻が始まる。本隊として、中軍はオゴデイ自ら指揮を取り山西から黄河流域へ、右翼はトルイが指揮して京兆府を攻略し開封の南方側へと回り込む作戦、左翼はオッチギンが指揮して東側からゆっくりと侵攻して混乱を助長させるというもの。
    1231年
    皇帝フリードリヒ2世の勅令によってサレルノ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。前身のサレルノ医学校自体は9世紀ころにはすでに著名であった。
    倒回谷の戦い。侵攻するモンゴル軍に対し完顔陳和尚率いる「忠孝軍」が大勝。ただ陳和尚の勝利は局地的なもので、大勢はモンゴル軍の有利に進み、金は領土を次々と失う結果となる。
    8月15日ホラズム・シャー朝第8代スルターンのジャラールッディーン・メングベルディーが、モンゴル軍の襲撃から逃走中にマイヤーファーリキーンのクルド人集落で住民に捕らえられ殺害される。長期に渡り各地でモンゴル軍に抵抗し続けたことで英雄視され、その死後もモンゴルに抵抗する動きがあるたびに、存命しているかのような噂が流れたという。
    1232年
    2月 8日(太宗4年/正大9年1月16日)三峰山の戦い。モンゴル帝国の右翼軍トルイが漢水を越えて背後に回ったため、金軍は完顔陳和尚のもと15万の歩兵・騎兵を動員して迎え撃つが、厳寒の猛吹雪の中で猛将トルイの4万の軍勢に大敗。そこにオゴデイ軍10万が殺到し金軍は壊滅し、完顔合達は戦死、捕虜となった完顔陳和尚、移剌蒲阿らも処刑され、金帝国は一気に衰退する。勝利を受けてオゴデイとトルイは帰国することになり、スブタイ、グユク、テムデイ、タガチャルが開封攻囲戦を指揮することに。
    4月 8日(太宗4年/天興元年3月16日)モンゴル軍、金の首都汴州(開封)を包囲。金側は和平を望むも、オゴデイ・カアンは唐慶を派遣し歳弊の貢納、皇族の人質、孔子の子孫である孔元措など文人27名の引き渡しを要求。金側は曹王訛可を人質に差し出したため、一旦休戦。
    8月(太宗4年/天興元年7月)オゴデイ・カアンは再度、唐慶を派遣し、金の皇帝号を廃止して臣下となるよう要求。金の哀宗は、これを拒絶することにし、臣下と図って、唐慶やその弟の山禄・興禄らモンゴルの使者17人を殺害。
    8月27日(貞観元年 8月10日)鎌倉幕府は、初の武家法令である「御成敗式目」を制定。武家社会での先例や慣習などをもとに、律令などを参考にして、北条泰時指導のもとで51か条にまとめられた。基本的には武家だけに適用されるものだが、後に広く参考にされ各地の分国法の基にされた。土地の所有権と裁判に関する内容が多く、女性にも御家人の地位や所領の相続権・所有権を認めていることなどの特徴がある。当時はまだ読み書きの苦手な武士が多く、律令や公家法が理解できないことも多かったため、まとめられたとされる。
    トルイが遠征からの帰国途上に急死する。チンギスカンの4男で、末子相続により後継者と目されたが兄オゴデイに譲った。それまで「監国」の地位にあり、チンギスの遺産を継承して最大の勢力を持っていた人物。そのためオゴデイに暗殺されたという疑惑もある。モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケ4兄弟の父親。
    金の第9代皇帝哀宗(完顔寧甲速)が、家族らも捨てて汴州(開封)から逃走。
    1233年
    1月22日開封で守備の指揮を取っていた崔立がクーデターを起こし、参政の完顔奴申と習捏阿不を殺害。開封の実権を掌握。崔立は自分を顕彰する文を石碑に彫るよう元好問ら文人たちに要求したという。
    4月18日崔立が捕らえていた皇族500余名を差し出してモンゴルに降伏。開封が陥落する。
    1234年
    モンゴル帝国軍と南宋の連合軍、蔡州城を包囲。
    2月 9日(天興3年 1月 7日)金の第9代皇帝哀宗が、包囲された蔡州城で、軍の統帥であった完顔呼敦に帝位を譲り、幽蘭軒で自殺。その半日後、蔡州城は陥落し、第10代皇帝となったばかりの完顔呼敦(末帝)は、脱出を試みて捕らえられ、処刑される。末帝は中国歴代皇帝で最も在位が短かったとされる。
    8月23日(天福4年 7月27日)竹御所が死去。源頼家の娘で、北条政子の庇護下で将軍家の内紛に巻き込まれずに生き延び、政子の権威的後継者として、寛喜2年にまだ少年だった16歳年下の4代将軍藤原頼経の正妻となった。しかし4年後に頼経との間にできた男児の出産が難産となり、子供は死産。自身も死去した。33歳。源家の血筋を引く将軍候補の誕生の期待も大きかっただけに、御家人らの落胆も大きかったと言われる。源頼朝の直系はこれで断絶した。
    1235年
    1月18日(文暦元年12月28日)霧島山が大きな噴火。火口は御鉢と見られる。山中や周辺の多くの寺社が焼失。周囲の広範囲に大量の噴出物が積もる。
    キリナの戦い。マンディンカ(マンデ人)のスンジャタ・ケイタがソソ王国の呪術王スマングル・カンテと戦い勝利。スマングルは戦死したともいう。こののちスンジャタ・ケイタは、ニアニを首都と定めると、領土を拡大。マリ帝国へと発展していく。
    1236年
    2月バトゥ、モンゴル征西軍司令官となる。35000の兵を率いて西へ向かう。
    3月12日バトゥ率いるモンゴル軍、ヴォルガ・ブルガールの首都ビリャルを攻め落とす。ビリャルは完全に破壊され、住民と守備軍は全員処刑されたと言われる。
    1237年
    11月バトゥ、ウラジーミル・スーズダリ大公ユーリー2世に降伏を勧告。周辺のプロンスク公国、リャザン公国を攻撃してこれを滅ぼす。
    1238年
    2月 4日バトゥ、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルを攻め落とす。ウラジーミルは灰燼に帰し、ユーリー2世は脱出するが、一族は全員処刑される。
    3月 4日シチ川の戦い。ウラジーミル・スーズダリ大公ユーリー2世率いる軍勢がモンゴル軍と戦うも大敗を喫し、ユーリー2世も戦死。
    この年、モンゴル軍はルーシ諸公国のうち、従属を決めた西部のスモレンスク、北西の湿地帯にあったため侵攻を免れたノヴゴロド、プスコフ以外の北側の諸都市をほぼ壊滅させる。これが後にモスクワなどが台頭する遠因となった。
    1239年
    モンゴル軍、ルーシ南部へ侵攻。チェルニゴフ公国、ノヴゴロド・セヴェルスキー公国、フシチイシュ公国、ペレヤースラウ公国などを攻め滅ぼす。
    1240年
    9月 5日モンゴル軍、キエフに侵攻。
    12月 6日モンゴル軍、キエフを攻め落とし、キエフ大公国を滅ぼす。つづけてハールィチ・ヴォルィーニ大公国も占領。
    モンゴルの四大漢人世侯のひとり厳実が死去。元々は金に仕えていた人物で、一旦は南宋に付き、東平一帯を支配下に置く。その後、モンゴルや金の侵攻に対し、南宋の協力を得られなかったため、モンゴルに降った。東平の他、大名、彰徳などに勢力を拡大。大軍閥となり、東平路行軍万戸とされた(四大漢人世侯で最大の史天沢と同格)。文人を保護し、文化復興のため東平府学を設立して教育を行い、後に多数の帝国高官を輩出した。
    1241年
    2月13日トゥルスクの戦い。バイダル率いるモンゴル軍とポーランド軍の戦い。モンゴル軍の勝利。
    3月12日バトゥ率いるモンゴル軍、ハンガリーに侵攻。
    3月18日フミェルニクの戦い。モンゴル軍とポーランド軍の戦いで、モンゴル軍が圧勝。
    4月 1日モンゴル軍、クラクフに侵攻。クラクフを灰燼にする。
    4月 9日ワールシュタットの戦い。ポーランドのレグニツァ近郊で、侵攻してきたモンゴル軍と、ポーランド王国、神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団、ホスピタル騎士団、テンプル騎士団の連合軍との戦い。モンゴル軍が圧勝。連合軍を指揮したヘンリク2世は戦死。モンゴル軍はヴロツワフに侵攻しこれを破壊。
    4月10日ヘルマンシュタットの戦い。モンゴル軍とトランシルヴァニア軍とが衝突し、モンゴル軍が圧勝。
    4月11日モヒの戦い。ズブタイ率いるモンゴル軍とハンガリー軍とが衝突。回回砲を使ったモンゴル軍が圧勝。ハンガリー軍はほぼ全滅する。
    12月11日(太宗13年11月8日)モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ・カアンが「大猟」のために赴いていたウテグ・クラン山で急死。過度の酒色による病死とされている。これを受けてモンゴル征西軍のヨーロッパ侵攻が中止することになる。
    1242年
    2月10日(仁治3年 1月 9日)四条天皇が突如崩御。12歳。子供はおらず、兄弟もいなかったことから、後高倉院系の血統が断絶(京洛政変)。このため、承久の乱で幕府と敵対した後鳥羽上皇の血統から皇位継承者を出す事態に発展。太閤九条道家は順徳上皇の子忠成王を推挙、これに対し村上源氏土御門定通は土御門上皇の子邦仁王を対抗馬に推す。執権北条泰時は鶴岡八幡宮の神託という名目で、邦仁王を選んだ(後嵯峨天皇)。承久の乱の際、幕府打倒に積極的だった順徳上皇に対し、土御門上皇は消極的だったことが背景にある。なお四条天皇の死因は、いたずらで宮中の女官らを滑らせようと滑石の粉をまいたところ、自身が滑って転び、頭を打ったことによると言われる。
    7月14日(仁治3年 6月15日)皇位継承騒ぎのさなか、執権北条泰時が急死。この直前に北条朝時ら有力者50人が出家する事態が起きており、北条重時、北条時盛らが京から鎌倉に入るなど、鎌倉幕府内部で、得宗家をめぐる内紛が勃発したとみられる。この期間だけ幕府の公式記録も残っておらず、先の皇位継承騒動と合わせて「仁治三年の政変」ともいう。
    7月15日(仁治3年 6月16日)北条泰時の孫、北条経時が第4代執権の地位につく。
    1243年
    チンギス・ハンの長男ジョチの次男バトゥが、欧州遠征から撤退後、征服したキプチャク草原にとどまり、異母兄のオルダとともにジョチ・ウルスを事実上建国。金帳汗国やキプチャク汗国と呼ばれることもある。実質の宗主はバトゥだが、それを支えたオルダは敬意で以て遇され、オルダが東半分を、バトゥが西半分を支配したとされる。首都はヴォルガ川の支流アフトゥバ川のほとりにあるサライ。
    10月15日聖女シロンスクのヤドヴィガが死去。ポーランド王ヘンリク1世ブロダティの妻で、経験なカトリック教徒。死後24年で列聖された。
    1244年
    6月 5日(寛元2年 4月28日)執権北条経時によって4代将軍藤原頼経が将軍職を辞し、その子藤原頼嗣が第5代将軍となる。頼経は「大殿」と称して権力の座にとどまる。
    (寛元2年)道元が越前に傘松峰大佛寺を建立。のちに永平寺と改める。
    1245年
    1月25日(寛元2年12月26日)執権北条経時の屋敷で火災が起き、政所にまで延焼。前将軍藤原頼経の上洛計画が中止になる。
    1246年
    5月17日(寛元4年閏4月 1日)前執権北条経時が死去。北条一門の名越光時と反執権派の御家人らが執権北条時頼打倒を画策。
    6月 3日(寛元4年閏4月18日)以後の数日、鎌倉市内で武士団が横行し、さらに周辺諸国から参集する騒動発生。
    7月 8日(寛元4年 5月24日)鎌倉で地震。
    7月 9日(寛元4年 5月25)執権北条時頼、鎌倉を封鎖。
    7月 8日(寛元4年 5月24日)名越光時ら反執権派、北条時頼に降伏。
    7月15日(寛元4年 6月 1日)名越光時自害。
    8月23日(寛元4年 7月11日)前将軍藤原頼経が鎌倉を追放される。三浦光村が京まで同行し、頼経の復権を約束したといわれる。一連の騒動と頼経追放を総称して「宮騒動」と呼ばれる。
    8月24日ココ・ナウルでクリルタイが開かれ、オゴデイの長男グユクがモンゴル帝国第3代皇帝に即位。父親とは異なりカアンとは名乗らず、カンと称した。後継者を巡る対立でオゴデイ死去から5年もかかり、その間はグユクの母親でオゴデイ第6皇后のドレゲネが監国として称制が続いたが、グユク親政に移行。グユクは手始めにドレゲネの側近として各属領の総督ら高官を失脚させた女官ファーティマ・ハトゥンを残虐な方法で処刑。ファーティマの支持でヒタイ(漢地)総督となっていたアブドゥッラフマーンも処刑する。一方、失脚していたチンカイ、マフムード・ヤラワチらが復権。
    (寛元4年)南宋出身の禅僧、蘭渓道隆が来日。
    1247年
    7月 8日(宝治元年 6月 5日)宝治合戦。執権北条家と三浦氏の対立を危惧して、和平を模索していた北条時頼と三浦泰村を差し置いて、強硬派の安達景盛が三浦邸を急襲。一方、三浦側も強硬派の三浦光村主導で一族らが応戦。最終的に三浦一族は自刃して終結。有力御家人による合議制が終わり、北条(得宗)家の専制体制が確立する。
    1248年
    4月20日(定宗3年 3月25日)モンゴル第3代皇帝グユクがペルシア遠征の途上で急死。グユクは即位まもなく、過度の酒色によって病気がちとなり、政務を見れなかったと言われ、病死と見られるが、敵対したバトゥによる暗殺説もある。皇后のオグルガイミシュが監国として国政を代行(称制)。
    1249年
    6月第7回十字軍遠征で、総司令官ルイ9世はエジプトを攻撃。ダミエッタを占領する。
    11月23日アイユーブ朝スルタンのサーリフが病死。サーリフの妻シャジャル・アッ=ドゥッルがマムルーク(奴隷軍)を率いて一時的に権力の座につき、サーリフの前妻の子トゥーラン・シャーが帰国するまで、ファフル・アッディーンとともに十字軍に抗戦し、サーリフ生存を装い権力の動揺を防ぐ。
    1250年
    2月 8日マンスーラの戦い。侵攻してきた十字軍に対し、アイユーブ朝のファフル・アッディーンとマムルークのバイバルス・アル=ブンドクダーリーが応戦。ファフルは戦死するが、バイバルスの反撃もあり、11日、アイユーブ朝側が勝利する。
    4月 7日ファルスクールの戦い。アイユーブ軍が十字軍を攻撃。追い詰められた十字軍は降伏し、総司令官だったフランス王ルイ9世も捕虜となる。のち莫大な賠償金と引き換えにルイ9世は帰国した。
    5月 2日アイユーブ朝のトゥーラン・シャーが、スルタンの地位を継承するも、継母のシャジャル・アッ=ドゥッルが権力を維持していたため、その排除を企てて失敗。シャジャルの率いるマムルーク軍によって殺害される。アイユーブ朝の本体は滅亡(地方政権は残る)。このあとシャジャルがスルタンの地位につき、その3ヶ月後にマムルークの有力将軍イッズッディーン・アイバクと再婚して地位を譲ったことから、マムルーク朝の初代とされる。イスラム世界では珍しい女性の君主(アイバクを初代とする場合もある)。
    1251年
    7月 1日コデエ・アラルでクリルタイが開催され、モンケがバトゥらの支持を得てモンゴル第4代皇帝に即位。トルイの長男。皇位継承を巡ってトルイ家一族と、オゴデイ家一族が対立したため、クリルタイの開催が大幅に遅れた。
    1252年
    5月10日(建長4年 4月 1日)宗尊親王が11歳で鎌倉に入り、弟の後深草天皇から征夷大将軍の宣旨を受ける。皇族初の将軍。宗尊親王の立場を強化したい父親の後嵯峨院の意向と、前将軍藤原頼嗣の出自である摂関家・九条家による幕政への介入を阻止したい執権北条時頼の思惑が一致したことによって実現した。
    5月15日ローマ教皇インノケンティウス4世が、異端根絶のための手法(拷問の方法)を定めた勅書「Ad extirpanda」を公布。
    1253年
    モンゴル四代皇帝モンケ・カアンが征西司令官に弟のフレグを命じ、モンゴル軍が出発。
    1254年
    マムルーク朝2代目スルタンのアイバクが、自身の権力母体でもあったバフリー・マムルークを恐れ、有力者アクターイを殺害。バイバルスらもアイユーブ系有力者ナースィルの元へ亡命。
    1255年
    7月 7日ヒマラヤ山脈で大きな地震があり、カトマンズ盆地を中心に大きな被害を出し、当時の王も死亡したという。
    1256年
    (建長8年 5月)親鸞が息子の善鸞を破門にする。関東での布教で独自の教えを広めようとしたため。
    11月27日フレグ率いるモンゴル軍がイスラム教ニザール派を滅ぼす。
    1257年
    4月10日マムルーク朝の第2代スルタンで、初代スルタンのシャジャルの夫であるイッズッディーン・アイバクが、モースルのアミールの娘を妻に迎えようとしたため、地位を失うことを恐れた妻のシャジャルによって殺害される。
    4月28日シャジャル・アッ=ドゥッルが夫アイバクの殺害に関与したとして、アイバクの元妻やマムルークらの手で殺害される。マムルーク朝のスルタン位はアイバクの前妻の子マンスール・アリーが後を継ぎ、マムルークの将軍ムザッファル・クトゥズが後見となる。
    5月小スンダ列島ロンボク島のリンジャニ山で大規模な噴火。10月ころまで続く。
    フランス王ルイ9世の宮廷司祭であったロベール・ド・ソルボンが、パリ大学に学寮を設立。後に神学部も興し、パリ大学は通称ソルボンヌ大学と呼ばれるようになる。
    1258年
    2月フレグ率いるモンゴル軍がアッバース朝バグダードを壊滅させる。
    この年、ヨーロッパでは異常低温・異常気象などで不作となる。前年のリンジャニ山大噴火の影響とする説も。
    1259年
    8月11日モンゴル第4代皇帝モンケ・カアンが南宋遠征中の途上、合州の釣魚山で流行病によって死去。関係が悪化していた弟のクビライ派によって暗殺されたという説もある。モンケは文武両道の有能な皇帝だったが、一族を信じずに排除したことから、その後のモンゴル帝国分裂の遠因を作った。
    11月マムルーク朝の有力者ムザッファル・クトゥズが、モンゴルの侵攻に対抗できる人物をスルタンにすべきだと主張し、スルタンのアリーを廃して、自らスルタンに即位。
    鄂州の戦いで長江を渡河したクビライ軍を賈似道の指揮する南宋軍が撃破。その功績により賈似道が宰相となる。クビライは、皇位継承を巡る争いのため、北方へ退却。賈似道との間で密約があったとも。
    1260年
    2月フレグ率いるモンゴル軍がシリアのアレッポを攻め落とす。
    4月フレグ率いるモンゴル軍がアイユーブ朝の都ダマスクスを攻め落とす。
    5月 5日クビライがクリルタイを開いて、モンゴル帝国第5代皇帝(大ハーン)に即位を宣言。
    フレグのもとに、兄の皇帝モンケの死去の報が入り、モンゴル帝国本土へ引き返すことになる。遠征軍はキト・ブカに委任。
    9月 3日アイン・ジャールートの戦い。中近東へ遠征していたモンゴル皇弟フレグの部下キト・ブカの軍勢とエジプト・マムルークのスルタン、クトゥズとの戦いで、クトゥズが勝利。モンゴル軍の遠征が止まり、マムルーク朝拡大のきっかけとなる。
    10月24日マムルーク朝のスルタン、クトゥズが共にモンゴル軍と戦ったバイバルスによって、サラーヒーヤでの狩猟の最中に刺殺される。クトゥズがバイバルスにアレッポ総督の地位を約束していながら反故にしたことから恨みを買ったとされる。バイバルスがスルタンの地位につく。クトゥズもバイバルスもイスラムの英雄とされ、バイバルスが実質的なマムルーク朝の創始者とされることもある。
    1261年
    7月25日東ローマ帝国からの亡命国家ニカイア帝国が、コンスタンティノポリスを奪回。ニカイアの実質最高権力者であった共同皇帝で大貴族のミカエル・パレオロゴスがローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとして即位し、東ローマ帝国を復活させる。ニカイアの形式上の皇帝ヨハネス4世ラスカリスは廃位され、目を潰された上で幽閉された。
    1262年
    アイスランドがノルウェーの支配下に置かれる。
    1263年
    モンゴルがアムール川流域に進出し、同地域に住むギレミ(吉里迷)を服属させる。ギレミは何を指しているかわからないが、地元の民族ニヴフか、アイヌを指していると見られる。モンゴル帝国は同地に東征元帥府を設置。
    1264年
    9月 8日ポーランドのボレスワフ敬虔公によって「ユダヤ人の自由に関する一般契約」(カリシュの法令)が発布される。ユダヤ人の立場を法的に保護したはじめての法令。商業や旅行の自由を認め、キリスト教徒との争いに関してのユダヤ人の法的保護を認めた。この結果、ポーランドには多数のユダヤ人が移り住むようになる。この一帯の中小都市には「シュテットル」というコミュニティが多数誕生した。
    モンゴルの漢人世侯のひとりで済南を支配した張栄が死去。有力漢人世侯では最後にモンゴルの傘下に入った人物。モンゴル軍による虐殺を度々止めたと言われ、荒廃した地域の復興にも努めた。
    モンゴル軍が、樺太に兵を派遣。樺太に住むギレミが、クイ(骨嵬)やイリウ(亦里于)が毎年のように入寇することを訴えたため。クイやイリウが何を指しているのかも不明だが、海を隔てた北海道のアイヌではないかという説がある。
    1266年
    2月26日ベネヴェントの戦い。ローマ教皇の依頼を受けたフランス王アンジュー家のシャルル・ダンジューが、シチリアのマンフレーディ王(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子)を打ち破り、同地の支配を確立する。
    1268年
    4月18日(文永5年 3月 5日)北条時宗が8代執権に就任。
    8月 9日(至元5年 6月29日)モンゴルの四大漢人世侯のひとり、張柔が死去。元は金の軍閥苗道潤に属していたが苗道潤が賈瑀に暗殺された後、賈瑀討伐を主張して兵を挙げ、モンゴルの侵攻を受けてその傘下に加わると、賈瑀を倒してその勢力圏を吸収。トルイの指揮下で開封攻囲戦、蔡州の戦いなどで功績を上げた。オゴデイ、モンケ、クビライのもとで南宋攻略にも貢献したという。
    アジュ率いるモンゴル軍による南宋攻撃で、襄陽・樊城の戦いがはじまる。
    この年、津軽で蝦夷が武装蜂起し、蝦夷代官の安藤氏が殺害される。原因として鎌倉得宗家による支配の強化(安藤氏は得宗家の代官)、モンゴルによる樺太遠征がアイヌ交易に影響したとする見方もある。
    1270年
    8月10日エチオピア・アムハラの有力者となったイクノ・アムラクがザグウェ王朝を倒し、ソロモン朝エチオピア帝国の初代王となる。アムラクは古代イスラエルのソロモン王とエチオピアのシバの女王との血統とされるアクスム王国の後継者を名乗っていた。ソロモン朝エチオピア帝国は小中断を挟んで1975年まで続く。
    1271年
    范文虎率いる襄陽援軍10万がモンゴル軍に大敗。
    1272年
    3月11日(文永9年 2月11日)二月騒動が起こる。北条一門の名越時章・教時兄弟が得宗被官・御内人である四方田時綱ら5人によって誅殺される。前将軍宗尊親王側近の中御門実隆、六波羅探題南方の北条時輔、安達頼景、世良田頼氏らも連座。前将軍宗尊親王は出家した。
    3月17日(文永9年 2月17日)後嵯峨上皇が崩御。土御門天皇の子で、四条天皇急死を受けて、幕府の意向で即位。すぐに子の後深草天皇に譲位し長期に渡って院政を敷き、鎌倉幕府と協力して安定政権を築いた。一方で、後継者を、ともに自分の子である後深草天皇系統(持明院統)と亀山天皇系統(大覚寺統)に分けたため、のちの南北朝分裂につながった。
    9月25日(文永9年 9月 2日)二月騒動で殺害された名越時章は冤罪であったとして、討手の御内人5人が処刑される。ただ二月騒動は執権北条時宗と連署北条政村の命で行われたとみられる。
    1273年
    アジュ、史天沢らモンゴル軍が、回回砲を投入し、南宋の樊城を攻略。守将張漢英は降伏。漢水を挟んで隣接する襄陽城への砲撃も開始され、守将呂文煥も降伏。南宋は重要拠点を失い、一気に長江流域まで危機的状況に陥る。
    モンゴル帝国が塔匣剌(タカラ)を征東招討司に任命し、樺太侵攻を計画するも中止。
    1274年
    11月 4日(文永11年10月 5日)高麗の王子王賰(のちの忠烈王)の執拗な日本征討の主張により、元・漢・高麗の日本遠征軍4万が対馬に侵攻。文永の役(元寇)がはじまる。
    11月13日(文永11年10月14日)元・漢・高麗の日本遠征軍が壱岐に侵攻。激戦となり両方に大きな被害を出す。
    11月15日(文永11年10月16日)元・漢・高麗の日本遠征軍が平戸・松浦方面に上陸し、松浦党らと交戦。
    11月19日(文永11年10月20日)元・漢・高麗の軍勢と九州の軍勢が博多周辺で交戦。日本側が大敗するも、元軍側も副将の劉復亨が負傷、矢玉も付き、高麗へ撤退。沖合で暴風に遭遇して、1万3500人が未帰還という大損害を出す。暴風は季節的に台風とは考えにくいが、元軍側の軍船は朝鮮で建造されたもので、河川で使用することの多い平底型をしたものもあり、海洋での波浪に耐えられなかったものも多かったと見られる。なお、通信速度の遅さから、鎌倉に元軍対馬侵攻の報が伝わったのは、元軍が撤退したあとである。
    1275年
    2月21日(徳佑元年 3月19日)丁家洲の戦い。賈似道率いる南宋軍が、バヤン、アジュ、呂文煥らの率いるモンゴル軍に大敗。
    3月 5日(至元12年 2月7日)モンゴルの四大漢人世侯の一人で、クビライ即位後に宰相・南宋攻略総司令官となった史天沢が死去。真定の軍閥で金からモンゴルに降り、「真定・河間・大名・東平・済南」の五路万戸と呼ばれた。金の攻略、南宋の攻略には漢人軍閥を率いて功績を上げた。
    5月12日(建治元年 4月15日)モンゴルからの使者杜世忠、何文著ら一行が長門国室津に到着する、捕らえられて太宰府へ送られる。
    9月27日(建治元年 9月 7日)モンゴルからの使者杜世忠、何文著ら一行が鎌倉龍ノ口で処刑される。
    10月 9日(徳佑元年 9月19日)南宋の宰相賈似道が敗戦の責任で失脚し、追放される途上、会稽県尉の鄭虎臣によって殺害される。
    1276年
    (建治2年 3月)鎌倉幕府は元軍の再来を警戒し、逆に高麗への遠征を行う予定だったが、中止となった。一方で博多周辺の石築地(元寇防塁)の建設は進められた。
    1277年
    4月16日アブルスターンの戦い。ルーム・セルジューク朝のモンゴルからの解放を掲げたマムルーク朝の軍勢とモンゴル軍との戦い。マムルーク朝の勝利。バイバルスはセルジューク朝のスルタンとして迎え入れられるも、モンゴルの影響下にある有力者からの協力は得られず28日に撤退。
    6月 8日帰国したバイバルスが、急病に倒れる。毒をもられたとする説もある。
    7月 1日バイバルスが死去。スルタンの地位は息子のバラカが継ぐ。
    1278年
    8月26日マルヒフェルトの戦い。ボヘミア王オタカル2世とドイツ王に推戴されたルドルフ・フォン・ハプスブルクが戦い、オタカルは戦死し、ルドルフが勝利。ハプスブルク家の伸張のきっかけとなる。
    1279年
    3月19日(祥興2年 2月 6日)崖山の戦い。元艦隊と南宋残存艦隊が戦い、祥興帝が陸秀夫とともに自殺して南宋は完全に滅亡。南越方面へ逃走した張世傑も船が嵐に遭遇して沈み死亡。
    1280年
    (至元17年)元の郭守敬・王恂・許衡らが、新たな暦法をまとめて、皇帝クビライ・カーンに提出。「授時暦」の名を与えられる。元朝および明朝の大半で使用された。日本でも授時暦を元に経度の差を取り入れて補正した大和暦が採用されている。
    1281年
    5月22日(弘安4年 5月 3日)元が日本再侵攻を開始。弘安の役。元と高麗の東路軍900艘以上、兵力4万が朝鮮南部の合浦から順次出港。
    6月 9日(弘安4年 5月21日)元と高麗の東路軍が対馬侵攻。激戦が繰り広げられる。
    6月14日(弘安4年 5月26日)元と高麗の東路軍が壱岐侵攻。激戦が繰り広げられる。この時悪天候で被害を出している。
    6月23日(弘安4年 6月 6日)元と高麗の東路軍が博多に侵攻してくるも、防塁や逆茂木などで要塞化されていたため、上陸を断念。志賀島へ移動し上陸する。日本側も同日夜半に東路軍の軍船を襲撃。
    6月25日(弘安4年 6月 8日)志賀島の戦い。日本側は、二手に分かれて攻勢をかけ、東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘をあと一歩まで追い詰めるも取り逃がす。東路軍は大敗して壱岐まで後退。
    7月 1日(弘安4年 6月14日)元と高麗の東路軍の一部が長門に侵攻。
    7月 2日(弘安4年 6月15日)旧南宋の江南軍が壱岐まで到達する予定日だったが、江南軍が現れず、東路軍内部では撤退の論議も出たという。この頃、江南軍約10万、軍船3500艘は、数日かけて慶元や定海など複数の港湾から出港。予定より遅れたのは総司令官の日本行省左丞相・阿剌罕が病になったため、司令官職を阿塔海に交代したことなどによる。江南軍は、複数のルートに分かれて、壱岐ではなく、平戸へと目標を変更して進行。
    7月 9日(弘安4年 6月22日)この頃、江南軍は平戸島に到達、上陸して防塁の建設を進め、島の周辺に軍船を集める。
    7月15日(弘安4年 6月28日)鎌倉幕府は、九州と、石見、出雲、因幡、伯耆の、荘園の年貢米を兵糧として徴収することを朝廷に申し入れる。
    7月16日(弘安4年 6月29日)主に九州の御家人らが数万の兵で壱岐の東路軍を攻撃。
    7月18日(弘安4年 7月 2日)壱岐瀬戸浦の戦い。激戦となって両軍に損害が出るが、江南軍が平戸島へ到達したことが伝わり、東路軍は転進のため、壱岐を離れる。日本側では元軍が退却したと判断した様子。
    8月12日(弘安4年 7月27日)7月半ばころから東路軍と江南軍は鷹島を占拠しここに拠点を築く。27日、元軍の動きを察知した日本軍が海から攻撃を仕掛け、海戦となる(鷹島沖の戦い)。
    8月15日(弘安4年 7月30日)この日の夜、台風と思われる暴風雨が九州北部に襲来し、元軍の軍船は波浪に飲まれたり、衝突大破するなどして甚大な損害を被る。なお被害の殆どは江南軍で、東路軍側の被害は比較的少なかった模様。それでも高麗王族で東路軍の左副都元帥・アラテムルは溺死している。
    8月20日(弘安4年閏7月 5日)江南軍を実質率いていた范文虎と張禧の間で協議が行われ、退却が決定する。范文虎らは頑丈な軍船から兵士らを降ろして、自分たちが乗り込み先に戦線離脱。逆に張禧は軍馬を降ろして、兵4000人を収容すると離島した。日本軍側もその動きを把握しており、総攻撃を開始。御厨沖の戦い。元軍は司令官たちに見捨てられたも同然の状態だったため、大敗を喫する。
    8月22日(弘安4年閏7月 7日)日本軍は、鷹島で取り残され孤立していた元軍を総攻撃。元軍は壊滅。鷹島は中国側では白骨山などとも呼ばれている。元側の未帰還者は最大6万人を超えるともいわれる(うち日本側の捕虜となったものが2~3万人いた模様)。
    (至元17年)元の郭守敬・王恂・許衡らが、新たな暦法をまとめて、皇帝クビライ・カーンに提出。「授時暦」の名を与えられる。元朝および明朝の大半で使用された。日本でも授時暦を元に経度の差を取り入れて補正した大和暦が採用されている。
    1282年
    3月30日シチリアの晩祷事件。フランス系シチリア王シャルル・ダンジューの圧政に対し住民が蜂起した事件。教会の晩祷の鐘が鳴った時に住民が蜂起したため、こう呼ばれる。
    1283年
    1月 9日(至元19年12月 8日)南宋の臣で、モンゴルに囚われた後も、クビライの誘いを『正気の歌』を詠んで断り続けた文天祥が処刑される。
    (至元20年 8月)クビライ・カーンは第三次日本遠征計画を開始。各地に造船と徴発を命じる。疲弊した各地では群盗が跋扈し、反乱が起きたと言われる。
    1284年
    4月20日(弘安7年 4月 4日)北条時宗が死去。2度の元寇を退けたことから評価は高いが、強権的な政権運営を批判されることもある。得宗家は嫡男の貞時が後を継ぐ。時宗の死の直後に北条家内部の紛争が起きた可能性がある。
    6月26日ドイツ・ハーメルンの町で子供130人余りが消息不明になる事件が起こる。いわゆるハーメルンの笛吹き男事件
    モンゴル帝国が、聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任命し、樺太の骨嵬を攻撃。
    1285年
    12月14日(弘安8年11月17日)霜月騒動。最後の有力御家人、安達泰盛が、得宗家被官の御内人で内管領の平頼綱の兵に襲撃され合戦、滅ぼされる。また同じ時期に全国の安達氏の一門、及び与党御家人も相次いで襲撃されて滅ぼされるなど、計画的なクーデターであった。泰盛による御家人の権力強化の弘安徳政で負担を強いられた平頼綱や小規模の御家人、公家などの反発を買ったとも、泰盛、頼綱ともに北条得宗家の縁者であることから得宗専制内部の闘争とも言われる。
    モンゴル帝国が、塔塔児帯(タタルタイ)・兀魯帯(ウロタイ)らをして、樺太の骨嵬を攻撃。
    1286年
    (至元23年 1月)元による第三次日本遠征計画が中止になる。負担の重さに耐えかねて反乱などが相次ぎ、さらにチャンパ王国が元からの離脱を図ったため、そちらに派兵したことも影響した。
    モンゴル帝国が、前年に続いて樺太の骨嵬を攻撃し、屯田を置いたという。
    1287年
    11月27日(弘安10年10月21日)後宇多天皇の譲位により、持明院統の伏見天皇が即位。それまで大覚寺統の亀山上皇が院政を敷いていたが、安達泰盛と連携して徳政を進めていたため、霜月騒動の余波で亀山上皇の院政が停止。後宇多天皇が上皇として院政を敷き、亀山上皇と対立関係にあった持明院統の伏見天皇に皇位が移った。
    1288年
    4月白藤江の戦い。陳朝大越国に侵攻した元軍の補給線を攻撃した大越軍が、元軍の退却を見計らい、白藤江で奇襲。元軍は壊滅的な損害を被り指揮官のウマルは捕らえられる(後に殺害された)。また元軍司令官の鎮南王トガンは敗走したため、父のクビライの怒りを買ったと言われる。大越軍を率いたのは陳朝皇族の名将、陳国峻(陳興道)。
    この年、1220年から建設が続いていたアミアン大聖堂が落成。
    1289年
    モンペリエ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。それ以前から教育機関があったとされる。
    1290年
    4月19日(正応3年 3月 9日)浅原事件。浅原為頼とその2人の子の3人の武士が、天皇と皇太子を襲う目的で御所のある二条富小路殿に侵入。出くわした女官の機転で危険を察した伏見天皇と皇太子は、三種の神器と宝物の管弦2つを持って脱出。3人は失敗を悟って自害。霜月騒動に巻き込まれて所領を失い、悪党化した浅原親子が追補をうけたことを直接の原因とするが、為頼は大覚寺統系の公卿である前参議三条実盛の太刀「鯰尾」を所有していたことから、大覚寺統が、持明院統の天皇を狙ったという嫌疑も起きた。結局嫌疑不十分で三条実盛も釈放された。
    ポルトガル王ディニス1世によってコインブラ大学が創設される。9つの中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)の一つ。
    1291年
    8月 1日神聖ローマ帝国のウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州の代表者が、リュトリの野に集結し、ハプスブルク家アルブレヒト1世の支配権に対抗する永久同盟「誓約者同盟」を結ぶ。これが後のスイスの発祥となる。
    マムルーク朝スルタンのアシュラフ・ハリールの侵攻によって、最後の十字軍国家アッコが陥落する。
    1293年
    5月19日(正応6年 4月12日)鎌倉大地震。関東地方で津波を伴う巨大地震が発生。神社仏閣が多く倒壊。
    5月29日(正応6年 4月22日)平禅門の乱。北条得宗家の御内人で鎌倉幕府の実権を握っていた平頼綱一族が、地震直後の混乱の中、執権貞時に誅殺され一族93人も殺された。なお、頼綱の弟ともされる長崎光綱は執権側についていたためか処罰されず、また霜月騒動で滅ぼされた安達一門の生き残り安達時顕などが登用されるきっかけともなった。一方、頼綱討伐の直接のきっかけとなった、頼綱讒訴を執権に行った嫡男の宗綱は執権側についたにも関わらず流罪となっていて、内管領内部の権力闘争の様相もある。
    9月 6日(正応6年 8月 5日)地震や旱魃を受けて、永仁へ改元。出典は『晋書』。
    1294年
    2月18日(至元31年 1月22日)モンゴルの第5代皇帝で、元朝の初代皇帝でもあるクビライが、大都の紫檀殿で崩御。
    5月10日(至元31年 4月14日)クリルタイが開かれ、モンゴルの第6代皇族で、元朝の2代皇帝にテムルが即位。クビライの次男チンキムの3男にあたり、クビライから皇太子に指名されていたため、長兄のカマラを抑えて、母ココジンや知枢密院事バヤンらの支持を得られた(知枢密院事は軍政次官で、長官である枢密使が皇族を当てる形式上のものなので実質上の最高官)。
    1295年
    1月モンゴルの皇族ボルジギン氏族ボドンチャルの子孫で、バアリン部の出自としてクビライ・カアンの重臣となり、テムル(オルジェイトゥ・カーン)の即位に貢献した将軍バヤンが死去。
    1297年
    1月 8日ローマ教皇を支持するゲルフ派のフランソワ・グリマルディらが、修道士姿で神聖ローマ帝国皇帝派(ギベリン派)の抑えるモナコ要塞に侵入し占拠。すぐに奪い返されるが、これをしてモナコ建国としている。
    3月30日(永仁5年 3月 6日)永仁の徳政令が発令される。越訴の停止、御家人所領の売買・質入れの禁止、債権・債務に関する訴訟非受理の3か条とみられる。分割相続等によって零細化が進む御家人の救済のため。
    1301年
    9月24日(正安3年 8月22日)北条貞時が執権職を辞し、北条庶家出身の北条師時が第10代執権となる。貞時が引き続き権力を握り、幼い嫡男高時が成長するまでの間を、信頼関係のあった師時に中継ぎさせたものとされる。連署は北条時村が就任。
    1303年
    9月アナーニ事件。フランス国王フィリップ4世が対立していたローマ教皇ボニファティウス8世を襲撃し、イタリアのアナーニで捕らえる。
    1304年
    (嘉元2年)鎌倉幕府前半の公式歴史書である『吾妻鏡』がこの頃までにほぼ編纂されたとみられる(下記後深草院の院号が記載されていないため)。北条氏を擁護する曲筆が多いとされ、戦後は史料的価値を低く見られたが、近年編纂のもととなった原史料の研究が進んだこともあり、鎌倉幕府研究の第一級史料として再評価されている。なお『吾妻鏡』は完成しなかったとみられる。
    8月17日(嘉元2年 7月16日)第89代天皇だった久仁(後深草院)が崩御。持明院統の祖であり、長講堂領を支配した。
    8月18日(嘉元2年 7月17日)後深草院の院号を追号する。
    1305年
    5月16日(嘉元3年 4月22日)嘉元の乱。前執権で実権を握っていた北条貞時の屋敷で火災が起きる。
    5月17日(嘉元3年 4月23日)嘉元の乱。北条貞時の仰せと称して得宗被官や御家人ら12人が、連署の北条時村邸を襲撃。時村ら50余人が殺害される。
    5月25日(嘉元3年 5月 2日)嘉元の乱。北条時村邸を襲撃した12人のうち逃走した和田茂明以外の11人が捕らえられ、斬首される。
    5月27日(嘉元3年 5月 4日)嘉元の乱。引付頭人の北条宗宣らが、得宗家執事北条宗方を襲撃し、宗方は討手の佐々木時清と相討ちとなり、宗方邸も焼け落ち一族郎党の多くが討ち死に。嘉元の乱は事象の詳細は判明しているが首謀者や動機がはっきりしない紛争で、北条宗方が権力を握ろうとして起こしたクーデター説、北条貞時が霜月騒動に倣って北条庶家を排除しようとした陰謀説、貞時と宗方の対立説、貞時と対立関係にあった北条宗宣による陰謀説など諸説ある。この乱後、貞時は政務を放棄し、御内人と北条外戚の御家人らによる寄合衆が実権を握って得宗専制体勢は崩壊。
    1307年
    2月10日(大徳11年 1月 8日)モンゴルの第6代皇帝で、元朝第2代皇帝のテムルが死去。過度の酒色による病死とされる。敵対したカイドゥを滅ぼしてモンゴル帝国の内紛を終わらせた。
    8月22日(徳治 2年 7月24日)姈子内親王(遊義門院)が崩御。後宇多天皇が最も寵愛した女性で、後深草天皇の娘。持明院統と大覚寺統が対立する中、大覚寺統の後宇多天皇が持明院統の後深草天皇の娘を見初めて「盗み出し」問題になった。後宇多上皇は遊義門院の死去を受けて仁和寺で出家した。
    10月13日フランス王フィリップ4世の陰謀によりフランス国内のテンプル騎士団が異端とされて摘発され壊滅する。同騎士団は聖地エルサレムとその巡礼を守護し、巡礼者の財産を預かる金融機関でもあったため、その経済力と資産を狙われたと言われる。この出来事が、13日の金曜日を不吉だとする説の要因の一つに挙げられる。なお、フランス以外では大きな弾圧には至らなかった。
    11月18日弓の名手ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜く。代官ヘルマン・ゲスラーに逆らったことで強制された出来事。
    1308年
    9月教皇クレメンス5世がフランス王国の要請で教皇庁をアヴィニョンに移し、アヴィニョン虜囚がはじまる。
    1311年
    11月 3日(応長元年 9月22日)10代執権北条師時が評定中に死去。死去の直前に出家したとされる。
    11月13日(応長元年10月 3日)11代執権に連署で北条庶家の大仏流北条宗宣が就任。宗宣は9代執権北条貞時とは関係が悪かったことから、病身の貞時にはすでに実権がなかったものとみられる。
    12月 6日(応長元年10月26日)9代執権北条貞時が死去。満39歳。一旦は得宗専制政治を確立したが、嘉元の乱以降は酒色に溺れて政務を見なくなり、実権も失った。得宗家は9歳の高時が継ぐ。
    1312年
    4月27日(応長2年 3月20日)天変地異により正和に改元。出典は唐記から。
    7月 4日(正和元年 5月29日)幕府11代執権の北条宗宣が辞任。内管領長崎円喜や御家人安達時顕が実権を握っていたため、形式的な執権だったとみられる。
    7月 6日(正和元年 6月 2日)幕府12代執権に連署の北条熙時が就任。嘉元の乱の際に一族が滅ぼされたが生き延びた人物。実権は長崎円喜らが握っていたためか、連署は置かれず。
    7月16日(正和元年 6月12日)北条宗宣が死去。
    1313年
    9月フランス国王フィリップ4世の側近で、数々の陰謀・工作に関わったギヨーム・ド・ノガレが死去。
    1314年
    6月24日バノックバーンの戦い。スコットランドに侵攻したイングランド軍がバノックバーンの湿地帯で大敗を喫する。
    1315年
    8月11日(正和4年 7月11日)北条熙時が執権職を辞任。第13代執権に北条庶家の普恩寺流北条基時が就任。
    8月18日(正和4年 7月18日)北条熙時が死去。37歳。この頃の北条家有力者には30代で病死する例が多い。
    11月15日モルガルテンの戦い。スイス原初同盟と神聖ローマ帝国オーストリア公国との戦い。同盟側が勝利し原初同盟は発展することになる。
    ニュージーランド北島のタラウェラ山が大噴火。
    この年、ヨーロッパでは長雨と気温の低い状態が続き、穀物生産量が低下。家畜も多くが死に、大飢饉が起きる。タラウェラ山の噴火に伴う気象異変が原因という説が有力。
    1316年
    この年も、ヨーロッパでは長雨と気温の低い状態が続き、大飢饉は継続。
    1317年
    3月16日(正和6年 2月 3日)地震などにより、文保に改元。出典は『梁書』から。
    (文保元年)皇位継承順位に関する文保の和談が幕府、大覚寺統、持明院統の間で行われる。いわゆる両統迭立が決まったものとされているが、実際には提案だけされて具体的な決定には至らなかったとする説もある。
    この年の夏になり、ようやくヨーロッパの異常気象が回復するも、大飢饉の影響は1325年ころまで続いたと言われる。
    1319年
    1月12日(文保2年12月20日)鎌倉殿中問答がはじまる。北条高時のもと、法華宗の日印が諸宗派と問答を行う。日静によって記録された。
    10月28日(元応元年9月15日)鎌倉殿中問答が終わる。日印がことごとく論破し法華宗が布教を許されたという。
    1320年
    (元応2年)この年、蝦夷代官の安藤季長と従兄弟の安藤季久の内紛に、出羽の蝦夷までが武装蜂起。幕府が裁定に乗り出すも収まらず、紛争は1328年まで続く。
    この頃から数年間、中国でペストが流行する。
    1322年
    1月16日(元亨元年12月28日)後醍醐天皇の親政。院政の後宇多法皇の引退に伴い親政へ。
    1324年
    7月16日(元亨4年 6月25日)後宇多法皇が崩御。生前の法皇の意向に従い、大覚寺統の後二条天皇の皇子邦良親王に皇位を譲る動きが起こる(持明院統はこの次の皇位を受け継ぐことで了承)。本来中継ぎとして即位した後醍醐天皇はこれに反発し、鎌倉幕府の倒幕へ乗り出す。
    10月 7日(元亨4年 9月19日)後醍醐天皇の意を受けた日野資朝、日野俊基らが倒幕のための工作を進めていることが発覚(倒幕派の土岐頼員が妻(六波羅評定衆の斉藤利行の娘)に漏らして発覚したと言われる)。倒幕側に与して上洛していた御家人多治見国長・土岐頼兼らが六波羅探題の小串範行、山本時綱らの討伐を受ける。日野資朝らは捕縛。正中の変。日野資朝が首謀者として佐渡流罪となるが、天皇は無関係として不問とされた。
    マリ帝国の第9代王マンサ・ムーサが数万の従者を連れてメッカへの巡礼を行う。大量の金を持っていき、エジプトのカイロでばらまいた大量の金のために、金相場が下落したと言われる。
    1325年
    6月モロッコのイスラム教徒イブン・バットゥータが聖地メッカへの巡礼の旅に出る。以後30年に渡り、彼は中東、アフリカ東岸、西アジア、南アジア、東南アジア、中国、さらにサハラなど世界各地へ大旅行を行ったと言われる(ただし記録はイブン・ジュザイイが彼の口述を聞いて記した書しかないため疑問点も多い)。
    1326年
    4月16日(正中3年 3月13日)14代執権北条高時が病のために出家する。後継を巡って、高時の弟北条泰家を推す安達時顕(高時の妻の父)と、高時の長男邦時を将来の候補として中継ぎに金沢貞顕を推す内管領長崎高資が対立。
    4月19日(正中3年 3月16日)北条家の一門金沢貞顕が15代執権に就任。対立候補だった北条泰家は出家。
    4月29日(正中3年 3月26日)金沢貞顕の執権就任に反対するものが多数出て身の危険を感じた貞顕は、出家して執権職を辞任。
    5月26日(正中3年 4月24日)北条家の一門赤橋守時が16代執権に就任。最後の執権。実権は高時と長崎高資にあり、形式的なものだったとも言われる。なお守時は鎌倉幕府を倒した足利尊氏の義兄でもある。
    1328年
    フランス・カペー朝のシャルル4世が男児の後継者を残さず没したため断絶(カペー朝は男系相続)。分家のヴァロワ家のフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝フランス王国が成立。母方がカペー朝の血筋であるイングランド王エドワード3世がカペー朝の王位継承権を主張し、百年戦争の要因の一つとなった。
    1329年
    8月30日(天暦2年 8月 6日)モンゴル帝国第13代皇帝で元の第9代皇帝コシラが死去。モンゴル帝国第7代皇帝カイシャンの長男。内乱の中でチャガタイに亡命していたが、一旦カアンを名乗った弟トク・テムルに帝位を譲らせ、8月に入ってモンゴル高原から上都に入ったが、まもなく急死した。トク・テムルを擁立していたキプチャク軍閥のエル・テムルによる毒殺と見られる。実質数日の帝位となった。トク・テムルとエル・テムルがコシラ一派から権力を奪い返す事態に発展。
    1331年
    9月26日(元弘元年 8月24日)後醍醐天皇、京を脱出。
    9月29日(元弘元年 8月27日)後醍醐天皇、笠置山に入る。
    10月 4日(元弘元年 9月 2日)幕府軍が笠置山を攻撃。笠置山の戦い。
    10月13日(元弘元年 9月11日)楠木正成、下赤坂城で挙兵。
    10月22日(元弘元年 9月20日)光厳天皇即位。
    10月30日(元弘元年 9月28日)笠置山陥落。後醍醐天皇ら捕らえられる。
    11月21日(元弘元年10月21日)下赤坂城陥落。楠木正成は行方をくらます。
    1332年
    4月 2日(元弘2年 3月 7日)後醍醐天皇、隠岐の島へ流される。
    9月 2日(至順3年 8月12日)モンゴル帝国第12代皇帝で元の第8代皇帝であるトク・テムルが病死。側近のエル・テムルが実権を握っており、権力者としては傀儡皇帝に過ぎなかった。一方、文化事業には熱心だった。死の間際に暗殺された兄コシラの子供を後継とするよう遺言した。
    10月23日(至順3年10月 4日)モンゴル帝国第14代皇帝で元の第10代皇帝にコシラの次男のリンチンバル(イリンジバル)が即位。叔父トク・テムルの遺言に、実質の最高権力者エル・テムルが消極的ながらも従ったため(エル・テムルはリンチンバルの弟のエル・テグスを擁立していた)。
    12月14日(至順3年11月26日)モンゴル帝国第14代皇帝で元の第10代皇帝のリンチンバル(イリンジバル)が急死。在位わずか43日。エル・テムルは改めてエル・テグスの擁立を図るも、皇太后のブダシリが反対し、コシラの長男トゴン・テムルを立てることになる。
    1333年
    4月 9日(元弘3年閏2月24日)後醍醐天皇、隠岐の島を脱出。
    5月(至順4年 4月)モンゴル帝国の最高権力者として皇帝より力のあったエル・テムルが病死。キプチャク軍閥の出身。
    6月19日(元弘3年 5月 7日)足利高氏が幕府に対して反旗を翻し、六波羅探題を攻撃。六波羅の南北両探題は脱出し、京都及び西国監視機関であった六波羅探題は崩壊。
    6月20日(元弘3年 5月 8日)新田義貞が鎌倉に対し150騎あまりで挙兵。
    6月21日(元弘3年 5月 9日)新田義貞の軍勢に足利尊氏の嫡男千寿王(後の足利義詮)が合流し、関東中の軍勢が参集し始める。
    6月23日(元弘3年 5月11日)新田義貞率いる軍勢と鎌倉幕府軍が衝突。小手指原の戦い。新田軍が勝利する。
    6月24日(元弘3年 5月12日)新田義貞率いる軍勢と鎌倉幕府軍が衝突。久米川の戦い。新田軍が勝利する。
    6月27日(元弘3年 5月15日)翌16日にかけて新田義貞率いる軍勢と鎌倉幕府軍が衝突。分倍河原の戦い。一旦は鎌倉軍が勝利するも、新田軍が逆転勝利。
    7月 4日(元弘3年 5月22日)新田義貞率いる軍勢が3方から鎌倉を攻める。赤橋守時、大仏貞直らが応戦し激戦となるが、義貞自ら潮が引いたところを稲村ヶ崎から回って市街地へ侵入。鎌倉市街は火災となり、北条基時、北条高時、北条貞顕ら北条一族283人と、長崎高重、安達時顕らを含む計870人が東勝寺で自刃し、鎌倉幕府は滅亡。北条高時の子のうち、北条時行は諏訪盛高の手で落ち延びるが、北条邦時は同行した五大院宗繁が裏切ったため捕らえられ処刑された。なお、稲村ヶ崎の海岸部は干潮でも海底は露出しないため、どうやって海を渡ったかについて詳細は不明(船で渡った、稲村ヶ崎ではなく極楽寺坂を突破したなどの説もある)。
    7月 7日(元弘3年 5月25日)後醍醐天皇が、光厳天皇の即位と正慶の元号を無効と宣言。
    7月17日(元弘3年 6月 5日)後醍醐天皇らが京に入る。事実上の建武の新政の開始。足利高氏を鎮守府将軍とする。
    7月19日(至順4年 6月 8日)モンゴル帝国15代皇帝・元の11代皇帝に、トゴン・テムルが即位。コシラの長男。
    7月25日(元弘3年 6月13日)後醍醐天皇の皇子護良親王が征夷大将軍に補任される。足利高氏を警戒した護良親王は独自の軍事活動をしていて、後醍醐天皇との間には方針の違いなどから不和があり、一種の妥協案とされる。
    9月14日(元弘3年 8月 5日)元弘の乱における論功行賞として叙位除目が行われる。足利高氏には「尊」の偏諱がおくられ、足利尊氏となる。
    9月25日(元弘3年 8月16日)鎌倉幕府最後の将軍だった守邦親王が死去。死因は不明で、死去した場所は武蔵国比企郷とされるが詳細は不明。親王の位を与えられるも、その生涯はほぼ鎌倉在住で京に上ったこともなく、詳細な事歴もわかっていない。
    10月19日(元弘3年 9月10日)この頃までに雑訴決断所が設立されたとみられる。記録所から公家武家の所領などに関する訴訟関係を扱う部署として独立。
    11月19日(元弘3年10月12日)後醍醐天皇の皇后であった西園寺禧子が病死。天皇が皇太子時代に知り合い、駆け落ち同然の事実婚の関係となったことを受けて皇太子妃として認められ、そのまま天皇の即位で皇后になった。そのため天皇の寵愛が深く、破格の待遇を受けた女性。死を受けて即日「後京極院」の院号が授けられる。
    11月(元弘3年10月)護良親王が征夷大将軍から解任され、拘束される。敵対関係にあった足利尊氏の謀略とも言われるが、後醍醐天皇の不興も買っていたという。身柄は足利直義の元へ。
    1334年
    1月17日(元弘3年12月11日)北条氏の一門名越時如と安達高景(異説あり)らが御内人の曽我道性のもとへ逃亡。陸奥大光寺城に籠城する。地元豪族らと交戦(大光寺合戦)。
    1月30日(元弘3年12月24日)足利直義が、鎌倉府将軍となった成良親王を奉じて、いわゆる鎌倉将軍府が成立。
    3月 5日(元弘4年 1月29日)建武に改元。後漢(東漢)王朝を開いた中国の名君光武帝の元号「建武」にあやかったとされる。
    12月15日(元弘4年11月19日)大光寺城・石川城・持寄城などで繰り広げられた大光寺合戦が終結。名越時如らは降伏する。
    ポーランド王国を整備し発展させたカジミェシュ3世大王がユダヤ人を保護するカリシュの法令を改めて承認。
    1335年
    6月(正慶4年/建武2年 6月)西園寺公宗(元関東申次)と北条泰家(北条高時の同母弟)が、後醍醐天皇を暗殺して後伏見法皇(あるいは光厳上皇)を擁立するクーデターを企図するも、公宗の異母弟西園寺公重の密告で露見し、公宗は捕らえられ、泰家は逃走。
    8月 3日(正慶4年/建武2年 7月14日)北条高時の遺児である北条時行が諏訪頼重らと信濃で挙兵し鎌倉へ向けて侵攻。足利直義、渋川義季などが鎮定のために兵を挙げる。中先代の乱。中先代とは、鎌倉の主として、先代(北条高時)、当代(後代:足利尊氏)の間に位置するため。
    8月11日(正慶4年/建武2年 7月22日)女影原の戦い。北条時行軍が渋川義季軍を打ち破り、渋川義季、岩松経家らが敗死。
    8月12日(正慶4年/建武2年 7月23日)北条時行軍が鎌倉に迫る中、足利直義は、鎌倉で幽閉していた護良親王を、淵辺義博に命じて殺害。殺害した理由は、北条時行と連携することを恐れたとするのが通説だが、倒幕に積極的だった護良親王が時行と組むのはおかしいため、足利氏とも敵対していたことや、単に足手まといが理由とする説もある。
    8月14日(正慶4年/建武2年 7月25日)北条時行らが鎌倉を占拠する。
    8月19日(正慶4年/建武2年 8月 1日)足利尊氏が北条時行討伐のための出兵と、征夷大将軍と総追補使の官職を求めたのに対し、後醍醐天皇は出兵を認可せず、成良親王を征夷大将軍とする。
    8月20日(正慶4年/建武2年 8月 2日)足利尊氏が、後醍醐天皇の認可を得ないまま兵を率いて出立。後醍醐天皇は尊氏を征東将軍と追認。北条時行は応戦の準備を進めるが大嵐となり、兵が避難していた大仏殿が倒壊。多数の圧死者が出たという。
    8月20日(正慶4年/建武2年 8月 2日)西園寺公宗が処刑される。
    8月27日(正慶4年/建武2年 8月 9日)19日まで足利尊氏軍と北条時行軍が連戦。
    9月 6日(正慶4年/建武2年 8月19日)足利尊氏軍が鎌倉まで侵攻し、諏訪頼重らが自刃。北条時行は落ち延び、後に後醍醐天皇の南朝方に帰順する。
    1336年
    1月 2日(建武2年11月19日)建武の乱勃発。鎌倉に居続けて京への帰還を拒否し、新田義貞排除を訴えた足利尊氏に対し、後醍醐天皇が討伐を命じる。尊氏自身は恭順の意を示して出家引退を宣言するが、足利直義らが抗戦の姿勢を示す。
    1月 8日(建武2年11月25日)矢作川の戦い。鎌倉へ向けて進攻する新田義貞に対し、高師泰、足利直義が矢作川付近で応戦するも敗北。
    1月18日(建武2年12月 5日)手越河原の戦い。さらに鎌倉へ向けて進攻する新田義貞に対し、足利直義らが安倍川河口付近で応戦。激戦となるが足利方が敗北し鎌倉方面へ退却。新田軍は伊豆まで進攻。
    1月24日(建武2年12月11日)箱根・竹ノ下の戦い。直義らの敗北をうけて、足利尊氏自ら出兵を決め、箱根まで進出。新田義貞軍と衝突。足利軍が勝利し、京へ向けて進軍する。
    2月15日(建武3年 1月 3日)瀬田と宇治で足利軍と新田軍が衝突し、足利方が勝利。京への侵攻を開始。
    2月23日(建武3年 1月11日)足利尊氏入京。
    3月10日(建武3年 1月27日)糺河原の戦い。北畠顕家が軍勢を率いて京へ到着。比叡山を守る楠木正成・新田義貞の軍勢と合流して、鴨川三条河原近辺で足利方を攻撃。
    3月13日(建武3年 1月30日)糺河原の戦い。北畠顕家・楠木正成・新田義貞の軍勢が勝利し、足利尊氏らは京を退去し丹波へ向かう。
    3月23日(建武3年 2月10日)豊島河原の戦い。足利尊氏・直義らと、北畠顕家・楠木正成・新田義貞の軍勢が再度衝突し、尊氏ら大敗を喫して播磨室津へ退却。その後、赤松円心の進言で九州まで落ち延びる。豊島河原の場所は諸説ある。
    4月 2日(建武3年 2月20日)足利尊氏ら九州に到着。九州の少弐頼尚、宗像氏範、大友氏泰ら北部九州の有力諸将が味方につく。この間、赤松円心らは播磨白旗城を中心に播磨各地で新田・楠木軍に抵抗して足止めを図る。円心はもともと護良親王派で楠木正成とも縁戚関係にあったが、恩賞で冷遇されたために足利尊氏に味方したとされる。
    4月11日(建武3年/延元元年 2月29日)後醍醐天皇、年号を建武から延元に改元。足利方はこれを採用せず。改元した理由は庶民の間で不吉との声が上がったためと言われ、公家や寺社では建武の年号は好意的に受け止められており、改元に反対するものが続出している。また尊氏が改元に従わなかったのは、建武政権は自ら立てたという自負説や、政治的にはともかく心理的には尊氏は後醍醐帝を崇敬していたためとする説もある。
    4月13日(建武3年/延元元年 3月 2日)多々良浜の戦い。足利尊氏、少弐頼尚ら兵2000に対し、後醍醐天皇方に付いた菊池武敏、阿蘇惟直ら九州諸勢力の兵2万が戦う。兵力差は10倍だったが、九州の諸豪族らは尊氏側に寝返るなどして、尊氏側が勝利。阿蘇惟直は戦死し、菊池武敏は敗走。
    5月14日(建武3年/延元元年 4月 3日)足利尊氏、京に向かうため、博多を出発。
    6月12日(建武3年/延元元年 5月 3日)足利尊氏、光厳上皇の使者として来た三宝院賢俊(日野賢俊)から院宣と錦旗を受け取る。
    7月 4日(建武3年/延元元年 5月25日)湊川の戦い。東上してきた足利尊氏ら西国諸将の水陸軍と、楠木正成・新田義貞らの後醍醐天皇方諸軍が衝突。新田勢が後退したため、楠木勢は孤立し大敗。楠木正成・正季兄弟は自害。新田勢は立て直しを図るが大敗し退却した。建武政権に不満を持つ西日本の有力諸将の多くが足利方に付き、新田勢などからも離反が相次いだことと、水軍の有無が勝敗を決めたとされる。なお楠木正成はこれを予測し、新田義貞排除と足利尊氏との和睦を訴えていたと言われる。
    7月22日(建武3年/延元元年 6月14日)足利尊氏、京に戻る。
    7月23日(建武3年/延元元年 6月15日)光厳上皇、年号を延元から建武に戻す。
    9月20日(建武3年/延元元年 8月15日)光明天皇が光厳上皇の院宣により即位。北朝の最初の天皇だが、兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位していないことにされたため、光厳天皇を北朝初代と数え、光明天皇は2代目としている。光厳上皇が治天の君として院を開く。この時点では三種の神器がないままの即位だが、これは後鳥羽天皇が三種の神器がないまま、後白河法皇の院宣で即位した前例にならっている。
    11月13日(建武3年/延元元年10月10日)後醍醐天皇、京に戻り、花山院に幽閉される。三種の神器が光明天皇側に移される。
    12月10日(建武3年/延元元年11月 7日)足利尊氏、建武式目17条を制定。
    1337年
    1月23日(建武3年/延元元年12月21日)後醍醐天皇が花山院を脱出。
    1月30日(建武3年/延元元年12月28日)後醍醐天皇が吉野吉水院に行宮を定め、南北朝対立が始まる
    11月 1日ギュイエンヌをめぐる対立と、フランスの王位継承問題、スコットランド問題が絡んで、プランタジネット朝イングランド王エドワード3世が、ヴァロワ朝フランス王国フィリップ6世に対し宣戦を布告。百年戦争が始まる。
    1338年
    1月14日(建武4年/延元2年12月23日)杉本城の戦い。北畠顕家、北条時行、新田義興の連合軍勢が鎌倉に攻め込み、応戦した足利家長は敗死。連合軍勢は鎌倉を占拠。
    1月23日(建武5年/延元3年 1月 2日)北畠顕家、北条時行、新田義興の連合軍勢が京へ向けて鎌倉を出立。
    2月10日(建武5年/延元3年 1月20日)青野原の戦い。北畠顕家、北条時行、新田義興の南朝軍と、土岐頼遠、高師冬ら北朝の軍勢が、墨俣川から青野原にかけて連戦。最終的に29日に青野原で南朝方が勝利するも兵を失ったのか、京への進軍をやめ、また越前の新田義貞との合流もせず、伊勢から伊賀経由で吉野へと転進。
    6月10日(建武5年/延元3年 5月22日)石津の戦い。南朝方の北畠顕家と、北朝方の高師直・高師冬らが、和泉国堺浦・石津で衝突。北朝方が勝利し、北畠顕家・名和義高・南部師行らは戦死。北条時行は脱出し落ち延びる。
    8月17日(暦応元年/延元3年閏7月 2日)藤島の戦い。新田義貞、脇屋義助兄弟は、平泉寺宗徒を率いて北朝方の斯波高経の拠点である越前黒丸城攻略に向かうが、延暦寺と係争中だった平泉寺は藤島荘の寺領安堵を条件に北朝方へ寝返り、藤島城に籠城。黒丸城を攻撃中だった新田義貞は藤島城攻めに向かうも、その途中で斯波高経の派遣した細川出羽守らと遭遇戦になり討ち死に。新田軍は総崩れとなって敗走した。
    9月24日(暦応元年/延元3年 8月11日)足利尊氏、征夷大将軍となる。
    1339年
    9月18日(暦応2年/延元4年 8月15日)後醍醐天皇が義良親王に譲位。後村上天皇(南朝2代目、歴代で97代目)。
    9月19日(暦応2年/延元4年 8月16日)後醍醐天皇が崩御。
    1340年
    6月24日百年戦争スロイスの海戦。
    7月26日百年戦争サン・トメールの戦い。
    1342年
    1月30日(暦応4年12月23日)足利直義と夢窓疎石が交渉し、天龍寺造営のための資金を集めるため、元へ天龍寺船を派遣することを決める。8月(康永元年)天龍寺船を元に派遣。
    1345年
    9月25日(貞和元年8月29日)足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山とする天龍寺が落慶供養。足利尊氏が、敵対した後醍醐天皇の供養のために、夢窓疎石の進言で創建したもので、落慶供養は後醍醐天皇の七回忌に合わせた。
    10月21日百年戦争オーブロッシェの戦い。
    この年、イスラムの旅行家イブン・バットゥータが元朝の都、大都を訪れる。
    1346年
    7月26日百年戦争カーンの戦い。
    8月26日百年戦争クレシーの戦い。
    10月17日百年戦争ネヴィルズ・クロスの戦い。
    1347年
    8月 3日百年戦争中に起こったカレー包囲戦で、カレー住民がイングランドに降伏。この際、市民6人が、全市民の命を救うために処刑になるのを覚悟で自らイングランド王エドワード3世に出頭し、「カレーの市民」として有名になる。6人は最終的に許された。
    10月シチリア島メッシーナに到着したコンスタンティノープルからの船でペストが上陸。以降、沿岸交易都市などへ徐々に広がっていく。年代は1346年説あり。
    1348年
    2月 4日(正平3年/貞和4年 1月 5日)四條畷の戦い。南朝方の楠木正行と北朝方の高師直との間で行われた闘いで、楠木正行は敗死。高師直は勢いに乗って吉野まで攻め、後村上天皇らは賀名生にまで落ち延びる。
    4月23日イングランド王エドワード3世がガーター騎士団を創設。
    11月18日(正平3年/貞和4年10月27日)崇光天皇が即位。光厳天皇の子で、北朝の第3代天皇。
    ペスト禍がヨーロッパ全土へと拡大。1350年までにヨーロッパの人口の3分の1から3分の2(2000万から3000万人)が死亡し、農民の減少で荘園制が大きなダメージを受ける。また人手のかからない牧羊が盛んになったといわれる。また多数のユダヤ人がペストの原因だとして殺された。ペスト菌は非常に致死率が高く、感染力も高い。内出血で皮膚が黒くなるため、「黒死病」とも呼ばれた。酒で消毒するなど生活習慣の違いや、ネズミを捕食する肉食獣の存在から感染が広がらなかった地方もある。全世界では8500万人が死亡したとみられ、人類史上もっとも規模の大きかったパンデミックのひとつ。
    1350年
    8月29日百年戦争ウィンチェルシーの海戦。
    1351年
    3月 4日ラーマーティボーディー1世がアユタヤ王朝を興す。
    10月14日(正平6年/観応2年 9月24日)観応の擾乱で、対立する足利尊氏と足利直義が、近江興福寺で和睦交渉を行うが決裂。
    11月13日(正平6年/観応2年10月24日)観応の擾乱で、足利直義・直冬勢力に対し劣勢となった足利尊氏・義詮は、佐々木道誉らの提案を受け、南朝方に降伏する。これにより、南朝方の直義・直冬追討の綸旨を得る。いわゆる正平一統。
    11月26日(正平6年/観応2年11月 7日)南朝方により崇光天皇が廃され、年号を正平に統一することとなる。
    1352年
    1月10日(正平6年/観応2年12月23日)南朝方勢力が京へ進出し、三種の神器が引き渡される。ここで一旦南朝政権となる。
    1月14日(正平6年/観応2年12月27日)駿河まで進出した足利尊氏勢と、足利直義勢が由比・蒲原付近で衝突。尊氏側が大勝する。一般には薩埵峠の戦いと言われる。
    1月22日(正平7年/観応3年 1月 5日)足利尊氏が鎌倉に入り、足利直義は降伏。
    3月12日(正平7年/観応3年 2月26日)足利直義が急死する。敵対した兄尊氏による毒殺説も。
    4月 5日(正平7年/観応3年閏2月20日)観応の擾乱が終息する方向へ動き出したことから、南朝方の北畠親房は足利尊氏排除を決め、正平の一統を破棄。楠木正儀、北畠顕能らを京に侵攻させる。七条大宮の戦いで足利方の細川頼春が戦死し、足利義詮は近江へ脱出。南朝の後村上天皇は、行宮を賀名生から摂津住吉を経て、京に近い男山八幡へと移す。
    4月 5日(正平7年/観応3年閏2月20日)新田義興、新田義宗、脇屋義治、北条時行らも鎌倉へ侵攻。新田義宗軍は敗れるが、新田義興、北条時行らは足利基氏を破って鎌倉を占拠。
    4月13日(正平7年/観応3年閏2月28日)小手指原の戦い。足利尊氏が新田義宗ら南朝軍を破る。義宗は越後へ、宗良親王は信濃へ敗走。
    4月16日(正平7年/観応3年 3月 2日)新田義興、北条時行ら、鎌倉を放棄。新田義興、新田義治は越後へ向かう。北条時行は鎌倉周辺に潜伏。
    4月26日(正平7年/観応3年 3月12日)足利尊氏、鎌倉を再奪還。
    4月29日(正平7年/観応3年 3月15日)足利義詮は近江で各地の有力守護の軍勢を集結、京へ侵攻し奪還する。更に男山八幡の行宮を包囲。
    6月23日(正平7年/観応3年 5月11日)後村上天皇らが光厳・光明・崇光の北朝3上皇及び廃太子直仁を連れて男山八幡の行宮を脱出。
    9月25日(正平7年/観応3年 8月17日)足利尊氏・義詮は、三種の神器がないまま、南朝方の拉致を免れた第3皇子弥仁親王を即位させる(後光厳天皇)。即位の名分は廷臣によって擁立された継体天皇に倣ったが、権威としては弱い立場にあった。治天の君として祖母の広義門院(西園寺寧子。光厳天皇・光明天皇の母親)がつく。皇族ではない上に女性で治天の君となった唯一の例。
    1353年
    6月21日(文和2年 5月20日)北条高時の子で、中先代の乱で擁立され、その後は南朝方武将として各地を転戦した北条時行が鎌倉龍ノ口で処刑される。子孫は横井氏を名乗った(幕末の横井小楠(北条平四郎時存)など)。
    1355年
    (正平10年/文和4年)南朝方に拉致されていた北朝3上皇のうち光明上皇のみ京に戻される。
    1356年
    9月19日百年戦争ポアティエの戦い。
    (正平11年/延文元年10月)南朝方の菊池武光らが、侵攻してきた北朝方の一色範氏を打ち破る。
    1357年
    (正平12年/延文2年 2月)南朝方に拉致されていた北朝3上皇のうち残っていた光厳上皇と崇光上皇が京に戻される。この結果、北朝方の後光厳天皇と、戻った崇光上皇との間で、次の皇位継承に関する対立が起こる(後光厳天皇は緒仁親王を、崇光上皇は栄仁親王を推した)。皇位は緒仁親王が継ぐことになるが(後円融天皇)、のちに称光天皇のあとを崇光天皇のひ孫である後花園天皇が受け継ぎ、その弟貞常親王が伏見宮となるため、現在の皇室と、伏見宮家の血統である旧皇族11宮家は、すべて崇光天皇の系統となる。
    1358年
    5月フランス北部で農民主体の反乱ジャックリーの乱が勃発。ギヨーム・カルルを指導者として各地へと拡大。
    6月フランス王国軍によってジャックリーの乱が鎮圧される。
    (正平13年/延文3年)11月)南朝方の菊池武光らが、日向守護で独立勢力を保っていた畠山直顕を破り、豊後へと敗走させる。これにより、九州から北朝方の主な勢力は失われる。
    1359年
    8月29日(正平14年/延文4年 8月 6日)筑後川の戦い。南朝征西府の懐良親王と菊池武光らが、侵攻してきた北朝方の少弐頼尚、大友氏時らと筑後川で対陣。この日激戦となり、南朝方が勝利。以後13年に渡り、九州は南朝方が席巻することとなる。
    1360年
    4月21日(正平15年/延文5年 4月 6日)洞院公賢死去。最終官位は従一位太政大臣。有職故実の大家として歴代天皇の相談役となった。北朝の重臣だが、後醍醐天皇の側室阿野廉子(後村上天皇の母)の養父でもある。同時代の一級史料『園太暦』の著者。
    1361年
    7月24日(正平16年/康安元年 6月22日)正平地震(康安地震)。京・大和で大きな地震がある。難波浦では大津波が襲い死者多数。雪が降ったという記録もある。
    7月26日(正平16年/康安元年 6月24日)大きな地震があり、京・大和・摂津の各寺社の被害多数。
    1362年
    (正平16年/康安元年) 8月)長者原の戦い。九州探題斯波氏経が、大宰府を攻撃するが、菊池武義、菊池武光、城武顕らによって撃退される。
    12月28日(正平22年/貞治6年12月 7日)幕府2代将軍足利義詮が病死。死の前に管領細川頼之に後事を頼み、幼少の足利義満が跡を継ぐこととなる。
    1368年
    (至正28年1月)朱元璋が、応天府で即位。明朝を建国。
    (正平23年/応安元年 2月)将軍足利義詮の死去の混乱をついて、南朝征西府の懐良親王、菊池武光らは、全九州の諸勢力7万騎を率いて、東征を計画。手始めに周防・長門への進出を図るが、大内弘世に敗れ、早々に挫折することとなる。
    9月10日(至正28年閏7月28日)明の軍勢が大都に迫り、元朝の第11代皇帝(モンゴルの第15代皇帝)トゴン・テムル(恵宗)は大都を放棄して北走する。明は大都を北平府と改称。一般的には、これをもって元朝は滅亡したとするが、モンゴルはその後も中国の北方からモンゴル高原、西域にかけて大きな勢力を維持したため(北元ともいう)、厳密には滅んではいない。なお北京は、首都が置かれているときは北京だが、そうでないときは北平と呼ばれる。
    1370年
    5月23日(至正30年4月28日)元朝の第11代皇帝トゴン・テムル(恵宗)が落ち延びた先の応昌府で崩御。明朝からは天命を失い、明に譲ったという皮肉を込めた意味で順帝の諡号を贈られた。子のアユルシリダラが即位するが、直後に明軍の遠征によって応昌府も陥落。
    1371年
    4月 9日(応安4年 3月23日)緒仁親王が即位(後円融天皇)。崇光上皇は自身の子である栄仁親王を即位させようと図ったが、幕府管領細川頼之らが後光厳天皇側についたため、後光厳天皇の子である緒仁親王の即位が決まった。
    (洪武4年)明が、四川の大夏を攻め、2代皇帝明昇が降伏して、大夏は滅亡。
    1372年
    9月 9日(文中元年/応安5年 8月12日)今川了俊率いる北朝方が、大宰府を攻め落とし、南朝征西府の懐良親王、菊池武光らは、高良山へと撤退。征西府は事実上崩壊。
    1373年
    9月12日(文中2年/応安6年 8月25日)婆沙羅大名として知られた佐々木道誉(高氏)が死去。
    12月29日(文中2年/応安6年11月16日)南朝方の有力武将として九州を席巻した菊池武光が死去。
    1375年
    9月22日(永和元年/天授元年 8月26日)水島の変。北朝方の今川了俊が九州探題になって以降、勢力を拡大したため、同じ北朝方だった少弐冬資と対立。了俊は肥後の南朝方に対抗するため、九州の有力守護である島津氏久、大友親世、少弐冬資を肥後水島に呼ぶが、少弐冬資のみ応じなかったため、島津氏久を介して来援を求める。しかし現れた少弐冬資を宴席で暗殺に及んだ。この事件を受けて島津氏は反発し、北朝方から離脱。大友親世も協力しなくなる。少弐氏は少弐頼澄があとを継ぎ、南朝方に転じる。
    9月25日(永和元年/天授元年 8月29日)水島の変を受けて、南朝方の菊池武朝が菊池武義らとともに筑後で蜂起し、今川方が大敗する。
    マムルーク朝によってアナトリア南岸にあったキリキア・アルメニア王国が滅亡する。国王レヴォン6世らは捕虜になった後出国。
    1376年
    この頃、カネム帝国は、内紛と周辺諸国からの攻撃により、王都ンジミから、チャド湖西岸のボルヌへと中心を移す。ボルヌ帝国とも呼ばれる。
    1377年
    2月21日(永和3年/天授3年 1月13日)肥前蜷打の戦い。水島の変以降、勢いを盛り返した九州の南朝方勢力だったが、九州探題今川了俊が、大友親世・大内義弘の協力を取り付けることに成功し反撃。南朝方は大敗し、菊池武義、阿蘇惟武などが討ち死に。阿蘇氏はこれ以降内紛状態となり、菊池氏も肥後まで撤退。
    1378年
    4月 7日(天授4年/永和4年 3月10日)足利将軍家の邸宅として造営された花の御所(室町第)に幕府が置かれる。いわゆる「室町幕府」の語源。
    9月20日カトリック教会大分裂(大シスマ)。ローマ教皇ウルバヌス6世に反発したフランス人枢機卿らが、ロベール・ド・ジュネーヴを教皇(クレメンス7世)に選出し、カトリックの教皇がローマとアヴィニョンに分裂並立する。
    フィレンツェ共和国で、下層梳毛工らが反乱を起こす。チョンピの乱(~1382年)。
    1379年
    4月 7日(天授5年/康暦元年閏4月14日)康暦の政変。管領細川頼之が、対立した守護や宗教勢力の圧力を受けて失脚。足利義満が権力を強めるために画策したとも言われる。
    1380年
    2月12日(洪武13年 1月 6日)明の洪武帝によって、建国の功臣である胡惟庸が処刑される。洪武帝の軍師だった劉基と対立したことや、敵対した勢力に対する弾圧などを行ったことから、洪武帝の猜疑心が強まり、「北元や日本と通じた」として粛清された。胡惟庸の一派もことごとく処刑されたため、胡惟庸の獄と呼ばれる。ただ、洪武帝の権力強化や海禁政策のための口実で処刑されたという見方もある。
    1381年
    5月30日イングランドで農民らが反乱。農民ワット・タイラー、ジョン・ボール神父らを指導者とし、カンタベリー、ついでロンドンに侵攻。国王リチャード2世と会見。
    6月15日ワット・タイラー、国王リチャード2世との2度めの会見のさなかに、同席していたロンドン市長ウィリアム・ウォールワースによって殺害される。反乱も終息。
    7月15日ワット・タイラーの乱の指導者の一人ジョン・ボール神父が処刑される。
    (洪武14年)明が、雲南を平定して、中国を統一。
    (洪武14年)明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)が、「文字の獄」を引き起こし知識層を弾圧。知識層が文書などに「光」などの文字を使っただけで「皇帝をそしっている」と難癖をつけて処罰した。出自の身分が低かったために、過剰反応したものと思われる。
    1382年
    5月24日(永徳2年 4月11日)後円融天皇が幹仁親王に譲位(後小松天皇)して、院政を開始。3代将軍足利義満の支持を得ての譲位となったが、この後、権力を持つ義満と上皇との関係は悪化の一途をたどり、即位礼すらなかなか進まず、結局後円融上皇の参列のないまま即位礼が行われる。
    (洪武15年)明の洪武帝によって「空印の案」の粛清事件が起きる。中央への収支報告書の煩瑣な手続きをなくすため、あらかじめ印を押しておいた書類を用意して記載する慣習が行われていることに洪武帝が激怒し、各地の地方長官と印の管理者を処刑した事件。
    1383年
    3月19日(永徳3年 2月15日)後円融上皇が自殺未遂騒動を起こす。絶大な権力者足利義満に対する反発からか、妻妾と義満の密通を疑うなどして騒ぎ、義満と、もうひとりの実力者の二条良基が、上皇と近い公家を派遣して応対しようとしたところ、自分を配流すると疑って自殺を図ろうとした。
    1385年
    4月 7日(洪武18年2月27日)明の洪武帝の側近で、明朝建国に多大な功績のあった徐達が死去。右丞相・魏国公にまでのぼったが、あまりに功績が大きすぎたのと、地位に奢ることのなかった性格から人望が厚く、猜疑心の強くなった洪武帝に疎まれるようになっていたと言う。そのため、病死説のほかに暗殺説もある。
    1386年
    かねて同盟関係にあったイングランドとポルトガルの間でウィンザー条約が結ばれる。現存最古の二国間同盟条約。
    1388年
    7月16日(嘉慶2年/元中5年 6月13日)二条良基死去。何度も失脚しながらも復活し、摂政・関白・太政大臣を歴任して、武家の足利義満とともに朝廷で絶大な権力を握った人物。「菟玖波集」を編纂して連歌を大成させ、能を保護して世阿弥を後援するなど文化人でもあった。『増鏡』の作者の可能性がある。
    9月 2日(嘉慶2年/元中5年 8月 2日)三代将軍足利義満が、紀伊国和歌浦玉津島神社参詣のため京を出発する。
    9月 8日(嘉慶2年/元中5年 8月 8日)三代将軍足利義満が、紀伊国和歌浦玉津島神社を参詣し、帰京の途に就く。
    9月17日(嘉慶2年/元中5年 8月17日)平尾合戦。南朝方の武将楠木正勝が、足利義満の動向を聞いて奇襲を企て、花山院長親とともに兵1000を率いて出陣。しかし赤坂城にいた北朝方の山名氏清は情報を掴み、兵3500で河内国平尾に先回りした。正勝は攻勢に出たが氏清は守りを固めて疲弊を待ち反撃したため、南朝方は大敗。正勝は千早城へ退却できたが、南朝方はほぼ戦力を失い南北朝合一の遠因となった。
    1389年
    6月15日コソボの戦い。セルビア、ボスニア、ワラキアなどバルカン諸侯軍と、オスマン帝国軍が会戦し、オスマン軍が大勝。オスマン帝国のバルカン半島征服のきっかけとなる。
    1390年
    閏3月(明徳元年/元中7年4月)土岐康行の乱。将軍足利義満が任命した尾張守護を巡って起こった土岐氏の内紛から起きた反乱。敗北した土岐康行は美濃・伊勢の守護職を失い一時没落する(明徳の乱での功績で伊勢北半国守護に復帰)。
    1392年
    1月13日(明徳2年/元中8年12月19日)明徳の乱。11カ国を守護領有した「六分一殿」山名氏が、将軍足利義満と対立し挙兵。京・内野で戦闘となるが、1日で山名氏は大敗し、3カ国にまで減らされる。
    2月(明徳3年/元中9年 1月)南朝方の千早城が北朝方の畠山基国に攻め落とされる。城主の楠木正勝は大和へ落ち延びた。
    11月12日(明徳3年/元中9年10月27日)明徳の和約。北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)の皇位継承で合一が決まる。元々は将軍足利義満と、南朝総大将ながら一時北朝に属した経験のある和平派の楠木正儀との間で協議が行われ、その後を、北朝からは義満側近の神祇官吉田兼煕、南朝からは前内大臣阿野実為と、右大臣吉田宗房が交渉を受け継いだ。南朝の強硬派だった長慶天皇から穏健派の後亀山天皇に代わり、一気に交渉が進んだと見られる。南朝が北朝に「譲国」し、国衙領は大覚寺統に、長講堂領は持明院統に与えられ、後亀山天皇は京都へ戻り、皇位は北朝の後小松天皇がそのまま引き継いで、以降は両統迭立とするという内容だった。
    11月19日(明徳3年閏10月5日)後亀山天皇が入った大覚寺から、後小松天皇のいる土御門内裏へ三種の神器が移される。南朝の終了に伴い、南朝が使用した年号も廃止される。
    1393年
    3月27日権知高麗国事として事実上高麗国の王となっていた李成桂が正式に朝鮮王となる。李氏朝鮮の初代国王。なお出自は全州李氏とされているが、李成桂以前の歴代の記録が曖昧なため、女真族、モンゴル族という説もある。
    明の洪武帝によって、大将軍・涼国公の藍玉が粛清され、一族や関係者ら最大3万人が連座する。藍玉が大きな権力を持ったことと、傲慢な振る舞いが目立ったことが要因。
    1394年
    4月 7日(明徳5年 3月 7日)梶山城の戦い。九州探題今川了俊と対立する島津氏討伐のため、了俊とその指揮下の肥後相良氏、日向伊東氏・北原氏・土持氏が島津方の和田正覚が籠もる梶山城を攻撃。島津氏と一族の北郷氏が応戦するが、北郷久秀らが討ち死にし、梶山城は陥落。
    1395年
    1月 8日(応永元年12月17日)足利義満が、9歳の子、足利義持を元服させ将軍位を譲る。
    ルケニ・ルア・ニミがコンゴ一帯を統一し、コンゴ王国を成立させる。
    1396年
    9月25日ニコポリスの戦い。オスマン帝国と、ハンガリーを中心としてフランス、イングランド、スコットランド、ワラキア、スイス同盟、ポーランド、神聖ローマ帝国、ジェノヴァ、ヴェネチアの諸国連合軍が衝突し、オスマン帝国が圧勝する。
    1398年
    この頃、スコットランドとノルウェーの貴族であるオークニー伯ヘンリー・シンクレアが、グリーンランドと北アメリカを探検したという伝承がある。1400年ころにヴェネツィアのゼノ兄弟によって書かれたとされる手紙と北大西洋を描いたゼノマップ(1558年の書物に出てくる)に登場する人物ジクムニ王子に比定されているが史実の信憑性は低い。
    1400年
    1月17日(応永6年12月21日)応永の乱が終結。最大の守護大名、大内義弘と鎌倉公方による幕府への反乱。義弘は戦死するが、大内氏は滅亡せず、弟らが反乱し続けた結果、幕府が譲歩し守護大名に復帰する。
    1(応永7年7月)信濃守護の小笠原長秀が京から下向し、信濃支配を強めようとしたため、善光寺平で、村上氏・海野氏・高梨氏・井上氏など中小国人領主の連合軍と合戦となり、小笠原長秀は敗北して京へ逃げ帰る。大塔合戦。
    1402年
    7月20日アンカラの戦い。バヤズィト1世率いるオスマン帝国軍と、ティムール率いる各国連合軍との会戦。退却中にバヤズィトが捕虜となりオスマン帝国は大敗。
    1404年
    李氏朝鮮、済州島の耽羅王朝王族が称していた各種称号を廃止。事実上の耽羅国の滅亡。
    1405年
    2月18日ティムール帝国を築いたティムールが明への遠征の途上で病死。死後ティムール王朝は分裂。
    7月11日(永楽3年6月15日)明の時代の武将で宦官の鄭和、第1次航海へ出発。
    1407年
    明の鄭和艦隊、インドのカリカットに到着。同年帰国後、すぐに2回目の航海に出発。
    1408年
    3月21日(応永15年2月24日)那須岳が噴火。以後2年にわたって活発に活動する。溶岩流出、火砕流、泥流などを繰り返し、180人余りが死亡。
    1409年
    3月25日ピサ教会会議でローマとアヴィニョンの枢機卿が集結し、全会一致でアレクサンデル5世の選出を決めるも、二人の教皇が了承せず、教皇が3人鼎立する異常事態となる。
    明の鄭和艦隊、セイロンに到着。同年帰国後、すぐに3回目の航海に出発。
    1411年
    明の鄭和艦隊、インドやシャムなどをまわり帰国。
    1412年
    1月 6日ジャンヌ・ダルクがフランスのロレーヌ地方にあるドンレミ村の農家に生まれる。
    1413年
    明の鄭和艦隊、4回目の航海に出発。
    (応永20年)薩摩島津氏の一族伊集院頼久が、かねて島津家家督相続の問題で対立していた守護島津久豊の留守中に居城清水城を奪う。伊集院頼久の乱のはじまり。
    1414年
    11月 1日神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱により、コンスタンツ公会議がはじまり、3人の教皇が立つ教会大分裂の解消や、宗教改革運動などが議題となる。カトリックを批判したジョン・ウィクリフの著書が禁止され、ヤン・フスの処刑が決まる。
    1415年
    7月 6日宗教改革を訴えたヤン・フスが火刑に処せられる。
    明の鄭和艦隊、東南アジア、インド、セイロン、中東各地や東アフリカをまわり帰国。
    1416年
    10月22日(応永23年10月2日)上杉禅秀の乱勃発。鎌倉公方足利持氏に対し、関東管領職を追われた上杉氏憲(禅秀)が一族や縁者らを集めて起こした反乱。
    明の鄭和艦隊、5回目の航海に出発。
    1417年
    1月18日(応永24年 1月 1日)上杉氏憲らが足利持氏側に付いた江戸氏、豊島氏の勢力を世谷原の戦いで破るも、この隙に駿河より今川軍が侵攻してきたため鎌倉へ退却。
    1月27日(応永24年 1月10日)上杉氏憲らが自刃して上杉禅秀の乱が終息。しかしこの乱に関わったとして中央でも政変が相次ぐことに。
    11月11日ローマ教皇マルティヌス5世が選出され、教会分裂が収束する。
    (応永24年)数年に渡り争っていた島津久豊と伊集院頼久が、久豊が後妻に頼久の娘を娶り、頼久は家督を息子に譲って隠居することで和解し、伊集院頼久の乱が終結。
    1418年
    5月(応永25年4月)上杉禅秀の乱後の影響を恐れた上総の武士らが一揆を起こす。上総本一揆。
    7月 2日(応永25年 5月28日)平三城が陥落して上総本一揆が一旦終息。
    1419年
    3月29日(応永26年 3月 3日)上総本一揆が再燃し、坂本城で戦闘が繰り広げられる。
    5月30日(応永26年 5月 6日)上総本一揆の指導者埴谷重氏らが降伏し一揆は終結。
    5月31日(応永26年 5月 7日)倭寇の集団が朝鮮庇仁県などを襲撃。
    7月12日(応永26年 6月20日)李氏朝鮮の軍隊が対馬に侵攻。倭寇の拠点とみなされたため。
    7月18日(応永26年 6月26日)対馬糠岳の戦い。
    7月19日(応永26年 6月27日)李氏朝鮮の軍隊が退却を開始。朝鮮側の記録では宗貞盛が修好を求めたことと暴風の季節になったためとしているが、少弐満貞の記録では前日の糠岳での戦いで朝鮮側に大きな被害が出たためとしている。
    7月30日第一次プラハ窓外投擲事件。ボヘミアで宗教改革を訴えたフス派がカトリックや国王の態度に腹を立て、市庁舎を襲い、市長らを窓の外に放り投げて殺害する。
    8月16日プラハ窓外投擲事件を聞いてショックを受けたボヘミア王ヴァーツラフ4世が死亡する。
    明の鄭和艦隊、東南アジア、インド、セイロン、中東各地や東アフリカをまわり帰国。
    1421年
    明の鄭和艦隊、6回目の航海に出発。
    1422年
    明の鄭和艦隊、アラビア半島、東アフリカを回って帰国。
    この年、小栗満重の乱が勃発。常陸の豪族小栗満重が、対立関係にあった鎌倉公方足利持氏に対し、宇都宮持綱らと反乱を起こす。
    1423年
    この年、鎌倉公方足利持氏によって小栗満重の乱が鎮圧される。小栗満重は自刃したとも、三河に落ち延びたとも言われる。浄瑠璃や歌舞伎などの演目として知られる「小栗判官と照手姫」のモデルとなった事件。
    1425年
    ジャンヌ・ダルクが、聖女カトリーヌ、マルグリット、大天使ミカエルの、「オルレアンの包囲を解いてフランスを救うように」という「声」を聞き、王太子シャルルの元へ向かう。
    1426年
    6月27日(洪熙元年 6月12日)明朝の第5代皇帝として朱瞻基が即位(宣宗・宣徳帝)。
    10月 6日(宣徳元年 9月 6日)明朝の第5代皇帝宣徳帝の即位に反対し、自ら帝位につこうとクーデターを起こした朱高煦(宣徳帝の叔父)が捕らえられ処刑される。面会の場で温情を施そうとした皇帝を足蹴にしたため、巨大な銅釜に閉じ込められて火をかけられ、蒸し焼きにされたという。
    1427年
    12月 1日(応永34年11月13日)将軍足利義持の側近だった赤松持貞が自害に追い込まれる。義持が播磨の有力者赤松満祐の3カ国守護職継承を認めず、側近の持貞に与えようとしたことで、反発した満祐が播磨に戻って反乱を画策。管領畠山満家らは、事態収拾のため、持貞が義持の側室と密通したという告発を、3代将軍足利義満の側室で義持の相談役だった「高橋殿」の密書という形で行い、義持は持貞に自害を命じた。
    1428年
    9月(正長2年 8月)正長の土一揆が起こる。徳政などを求めた記録上最初の大規模農民一揆。
    1429年
    6月12日ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍がジャルジョーを占領し、イギリス軍司令官サフォーク伯を捕らえる。
    6月18日パテーの戦いで、リッシュモン大元帥、ジャンヌ・ダルク、アランソン公らの率いるフランス軍が、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットとジョン・ファストルフの率いるイングランド軍に大勝利を収める。
    7月17日シャルル王太子がノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げ、正式にフランス国王シャルル7世となる。
    8月15日(正長2年 7月15日)大和永享の乱勃発。大和で豊田氏と井戸氏が紛争を起こし、これに長年対立している越智氏と筒井氏がそれぞれに加勢。興福寺や幕府を巻き込む戦乱に発展。
    1430年
    5月23日ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュの戦いでフィリップ善良公の率いるブルゴーニュ軍に捕えられる。
    12月24日ジャンヌ・ダルクがイングランド軍に引き渡され、ルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。
    明の鄭和艦隊、7回目の航海に出発。
    1431年
    2月21日フランスのルーアンにおいて、イングランドの影響下でジャンヌ・ダルクの異端審問裁判が始まる
    5月24日ジャンヌ・ダルクにサン=トゥアン修道院の仮設法廷で死刑判決が言い渡される。一旦は改宗を条件に永牢に減刑されるが、ジャンヌが牢内で男装したとして、異端再犯として死刑が確定する。
    5月30日ジャンヌ・ダルクが火刑に処される。
    1432年
    5月 6日フランドル派を代表する祭壇画である『ヘントの祭壇画』が公開される。
    1433年
    10月28日(永享5年9月16日) 永享大地震。関東から近畿にかけて大きな地震が発生。特に鎌倉で被害甚大。利根川が逆流したという記録があり津波があったとみられる。相模トラフを震源とするマグニチュード7以上の地震か。
    明の鄭和艦隊、インド、セイロン、マラッカなどをまわり帰国。鄭和は間もなく死去。記録では鄭和艦隊の最大の船は全長137m、幅56m、重量8000t、9本マストの巨大なジャンクだったという。
    1435年
    (永享7年)この頃、窪八幡神社別当上之坊普賢寺の『王代記』に、富士山中腹で火炎を観測したという記録がある。若干の溶岩流出を伴う噴火があったものか。
    1437年
    6月25日(永享9年 5月22日)大和永享の乱で、越智維通と斯波持有ら幕府方が合戦となる。決着つかず。
    8月12日(永享9年 7月11日)足利義教の弟で対立関係にあった大覚寺義昭が大覚寺を出奔。大和吉野へ向かったという風聞が広まる。
    1438年
    7月(永享10年 6月)関東公方・足利持氏が、不和となっていた関東管領上杉憲実の諫言を無視して、将軍の許しを得ずに嫡男賢王丸の元服を鶴ヶ岡八幡宮で行い、八幡太郎義久と名乗らせる。永享の乱の始まり。
    8月(永享10年 8月)上杉憲実、上野平井城へ逃れる。足利持氏、討伐軍を派遣。将軍足利義教は持氏討伐を命じる。
    9月(永享10年 9月)大和吉野で大覚寺関係者などが討伐される。大覚寺義昭が関与していたかは不明。
    10月16日(永享10年 9月27日)幕府軍の今川範忠、上杉持房らが持氏方の軍勢を破り、鎌倉に迫る。
    10月22日(永享10年10月 4日)上杉憲実、上野平井城を出陣。持氏を攻めることをよしとしなかったため、家宰の長尾忠政が兵を率いて鎌倉へ向かう。
    11月21日(永享10年11月 4日)足利持氏、称名寺に入り出家。将軍足利義教は、上杉憲実の持氏助命嘆願に対し、討伐を命じる。
    1439年
    3月24日(永享11年 2月10日)足利持氏、上杉憲実の軍に攻められ、永安寺で自刃。
    4月(永享11年 3月)越智維通が討ち死にし、大和永享の乱は終息。
    1440年
    4月(永享12年 3月)結城合戦が勃発。永享の乱で滅ぼされた足利持氏に代わり、将軍足利義教は自らの子息を鎌倉公方にしようとしたため、結城氏朝・持朝らが持氏の遺児を擁して起こした反乱。
    6月14日(永享12年 5月15日)4カ国の守護を兼ねた有力者一色義貫が、大和永享の乱の関係者を匿ったという嫌疑で、将軍義教の命を受けた武田信栄に攻められ、大和信貴山で一族とともに自害。
    6月15日(永享12年 5月16日)伊勢の守護だった土岐持頼が、大和永享の乱の越智氏討伐の出兵中に、将軍義教の命を受けた長野満藤らによって攻められ自害。将軍義教が一色義貫、土岐持頼を滅ぼしたのは、その勢力を警戒したからとも言われるが、これにより赤松満祐の不信を招き、「嘉吉の乱」の遠因となった。
    7月23日(永享12年 6月24日)結城氏朝・持朝らに呼応した東北諸将が篠川御所を襲撃し、篠川公方足利満直を滅ぼす。
    8月26日(永享12年 7月29日)上杉清方や今川範忠らの率いる幕府軍が結城城を包囲攻撃。結城氏朝・持朝は滅亡、持氏の遺児春王丸、安王丸は捕らえられる。
    1441年
    4月 4日(嘉吉元年 3月13日)日向国串間に潜伏していた大覚寺義昭が、将軍義教の命を受けた島津忠国配下の山田忠尚・新納忠臣らに包囲され自刃。
    6月 5日(嘉吉元年 5月16日)足利持氏の遺児春王丸、安王丸が、将軍足利義教の命を受けた長尾実景によって美濃国垂井宿金蓮寺で処刑される。
    7月12日(嘉吉元年 6月24日)嘉吉の乱が起こる。播磨の有力守護大名赤松満祐が、京の自邸に結城合戦勝利の祝いと称して6代将軍足利義教を招待し、その宴席上で殺害。招待されていた守護大名山名熙貴も殺害、京極高数と大内持世も重症を負い、後死亡。細川持春も重症を負い、正親町三条実雅も負傷した。大名への圧力を強める将軍と対立したことが原因。伏見宮貞成親王の『看聞日記』には将軍が満祐を殺そうとして返り討ちにあったとある。
    7月28日(嘉吉元年 7月11日)赤松満祐討伐の大手軍が出発。
    8月17日(嘉吉元年 8月 1日)細川持之の要請で、赤松満祐討伐の綸旨が出される。
    9月25日(嘉吉元年 9月10日)討伐軍に包囲された播磨城山城で、赤松満祐らが自刃し嘉吉の乱が終結。
    1443年
    1月11日フランスの傭兵司令官ラ・イルが戦傷がもとで死去。本名エティエンヌ・ド・ヴィニョル。ジャンヌ・ダルクの戦友として知られ、トランプのハートの従者(ジャック)のデザインの元ネタになった人物。
    9月(嘉吉3年)禁闕の変。後南朝の皇族を称する金蔵主、通蔵主、源尊秀らと有力公卿の日野有光・日野資親らが京の宮中を襲い、天叢雲剣と神璽(八尺瓊勾玉)を奪い、比叡山へ逃亡。しかし幕府の軍事介入を嫌った比叡山側に討伐され、剣は奪還したが神璽は持ち去られる。金蔵主、日野有光、楠木正威らは討ち死に、通蔵主は謀殺され、日野資親は処刑、源尊秀は行方知れずとなった。
    1446年
    10月 9日(世宗28年 9月10日)李氏朝鮮第4代国王の世宗が朝鮮独自の文字としてハングルを発表する。
    1447年
    4月(文安4年 3月)足利持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方に任じられる。関東諸将の要請によるものと言われる。なお年月には宝徳元年(1449年)説など異説あり。
    1449年
    9月 8日土木の変。オイラトの首長でモンゴル高原を統一したエセンが、朝貢貿易が減額されたことと明の皇女の降嫁が守られなかったことを不服として明に侵攻。明の皇帝英宗(正統帝)は、宦官の王振が主張する「親征」を認め、自ら50万の軍勢で北京を出撃(司令官は王振)。しかしオイラトが長城を突破し大同まで侵攻したため、明軍は撤退を決めるが、オイラトの軍勢に追いつかれて土木堡でほぼ全滅するという大敗を喫する。英宗もオイラトに捕らえられた(王振は護衛将軍の樊忠に暗殺された)。
    10月エセンは英宗の身代金と朝貢貿易の復活を要求するが、兵部尚書于謙・吏部尚書王文らは英宗の弟の郕王朱祁鈺(景泰帝)を即位させて拒否。エセンは北京に侵攻するが、明側は北京に籠城して時間を稼ぎ、エセン以外の部族と交渉。エセンは大勝したにも関わらず、戦略的に行き詰まり、やむなく撤退した。
    11月10日シャルル7世はイングランド軍を破ってルーアンに入城。
    1450年
    1月28日イングランド王ヘンリー6世の側近である初代サフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールが逮捕される。大陸領を割譲する方向でフランスとの講和を模索していたが、その反発に加え、一連の敗戦により権威が失墜し失脚した。
    2月15日シャルル7世がジャンヌ・ダルク異端裁判の調査を命じる。
    5月 2日国外追放刑に処せられたサフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールがフランス行の船中で暗殺される。どの勢力による事件かは不明。
    6月 1日イングランドでジャック・ケイドの反乱が起きる。サフォーク公暗殺事件後の政界の混乱に巻き込まれたケント地方の農民らが、政治改革を要求して起こした反乱。指導者ジャック・ケイドから。
    6月18日ジャック・ケイドの反乱で、国王ヘンリー6世の軍と反乱軍が衝突。反乱軍が勝利し、ロンドンへ侵攻。
    7月12日国王軍の反撃に敗れたジャック・ケイドが逃走中に戦傷がもとで死亡。恩赦が出たこともあり、反乱軍は瓦解。
    1451年
    琉球王国の那覇の港に浮かぶ浮島と陸地とを結ぶ全長1kmほどの堤防と7つの石橋からなる「浮道」が建設される。のちに中国の冊封使とともに琉球を訪れた胡靖が「長虹の如し」と評したことから、長虹堤と呼ばれるようになった。
    1452年
    翌年にかけて現在のバヌアツ・シェパード諸島にある海底火山クワエが大噴火を起こす。火山爆発指数はVEI6とかなり大規模で、これが原因と見られる寒冷現象が、北欧や中国などで記録される。穀物生産に影響があったという。
    1453年
    5月29日コンスタンティノポリスがオスマンの君主メフメト2世によって陥落し、東ローマ帝国は滅亡
    10月19日百年戦争でイングランド軍最後の拠点であったボルドーが陥落。事実上イングランドが敗北。
    ポーランド王国のカジミェシュ4世王がユダヤ人の法的保護を定めたカリシュの法令を改めて承認する。
    琉球王国で、王位継承権に伴う志魯・布里の乱が勃発。5代王尚金福の世子である志魯と、尚金福の弟である布里が争い首里城も焼失した。両者とも死亡し、王位は布里の弟の尚泰久が継いだ。
    1455年
    1月15日(享徳3年12月27日)鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を殺害。以後30年に及ぶ享徳の乱が勃発する。
    7月30日(享徳4年 6月16日)上杉家援軍のために出陣した駿河守護今川範忠が、鎌倉を制圧。足利成氏は御料所があり支持者が多く住む下総古河に拠点を移す。以後、古河公方と呼ばれるようになる。
    11月 7日ローマ教皇カリストゥス3世の命で、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われる。
    グーテンベルクが、ヨハン・フスト、ペーター・シェッファーらと、金属活版で聖書を印刷する。
    1456年
    7月 7日ジャンヌ・ダルクの処刑裁判の判決破棄が宣告される。
    8月11日オスマン帝国をベオグラードの戦いで破ったハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュがペストで病没。
    1457年
    2月11日(景泰8年 1月17日)奪門の変。土木の変でオイラトに捕らえられ、帰国後も監禁されていた明朝の上皇英宗が、弟の景泰帝が病に臥せったのを捉えて、石亨・徐有貞・曹吉祥らとともにクーデターを起こし、帝位を奪って重祚する。景泰帝は幽閉される。
    2月16日(天順元年 1月22日)土木の変の際に景泰帝を擁立し王都北京を守ったうえ、エセンと交渉して英宗の帰還にこぎつけた于謙が、奪門の変で重祚した英宗らに反逆罪の名目で処刑される。成化帝の代になって名誉が回復した。
    2月24日(天順元年 2月 1日)景泰帝が死去。病死とも、兄の英宗によって暗殺されたとも言われる。
    5月 1日(長禄元年 4月 8日)太田道灌が江戸氏の拠点跡に新たに築城した江戸城に移転。
    12月18日(長禄元年12月 2日)長禄の変。後南朝に奪われていた神璽(八尺瓊勾玉)を、嘉吉の乱で一旦滅亡した赤松氏の家臣上月満吉、石見太郎、丹生屋帯刀左衛門、丹生屋四郎左衛門がお家再興のために奪い返そうとした事件。後南朝に付くふりをして1年以上をかけて実行に移した。奪取には一旦失敗するが、翌年3月に再び実行して成功、神璽は京に戻された。この功で赤松氏は再興を認められ、加賀半国を与えられた。なおこの事件で南朝の皇胤とも言われる自天王・忠義王兄弟が殺されている。
    1458年
    1月 4日(長禄元年12月19日)古河公方足利成氏に対抗するため、将軍足利義政の命で、異母兄の天龍寺香厳院主清久が還俗し、鎌倉公方に任命される。名も義政から偏諱を受けて足利政知と改める。
    7月(長禄2年 6月)足利政知が、伊豆の堀越に入る。しかし鎌倉には入れず、以後、堀越公方と呼ばれる。
    8月琉球王国で護佐丸・阿麻和利の乱が勃発。建国の功臣で有力按司の中城城主護佐丸盛春が謀反の疑いで討伐を受け自殺。直後に有力按司の勝連城主阿麻和利も反乱を企てたとして討伐され滅亡する。従来、王位簒奪を狙う阿麻和利が忠臣護佐丸を讒言で滅ぼしたという物語で知られるが、実際に護佐丸は反乱を起こそうとした、弱体化していた尚王家が二大按司の両者を滅ぼした、といった見方もある。
    1459年
    (長禄3年)この年、旱魃などの自然災害が相次ぎ、大規模な飢饉となる。いわゆる「長禄・寛正の飢饉」のはじまり。
    1461年
    (寛正2年)数年に及ぶ長禄・寛正の飢饉で、この年はじめの2ヶ月だけで洛中での病死者・餓死者が8万2千人に達する。後花園天皇は、将軍足利義政に「生き残った者らは首陽の蕨を食べている」という内容の漢詩を贈って、奢侈な政治を諌める。
    1462年
    (寛正3年 9月)京都で徳政令を求める大規模な土一揆が起きる。
    (寛正3年10月)奈良でも馬借らが大規模な一揆を起こす。
    1464年
    2月23日(天順8年 1月17日)明の英宗が死去。通常明の皇帝は一世一元の制により、「元号+帝」で呼ばれることが多いが、英宗は土木の変で帝位を失い、奪門の変で復辟したことから、2つの元号を持つため、英宗と呼ばれている。宦官の王振を重用して土木の変を招いたことや、于謙を処刑したことなどで暗愚な皇帝とみなされることが多い。一方、永楽帝のクーデターから50年以上も監禁されていた建文帝の皇子朱文圭を解放している。
    2月28日(天順8年 1月22日)明の英宗の長男朱見深が即位(成化帝)。
    1465年
    2月 4日(寛正6年 1月 9日)比叡山の衆徒が、蓮如のもとで独自の活動をするようになった大谷本願寺を襲って破却。いわゆる「寛正の法難」。本願寺が分離独立するきっかけともなった。
    10月15日(文正元年9月6日)文正の政変。権力を強めようとする将軍足利義政と大名との対立から、細川勝元らの圧力を受け、義政の側近、伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らが追放される。
    1467年
    黒羊朝最大の版図を築いたジャハーン・シャーが、白羊朝のウズン・ハサンを討伐するために出兵するも、野営地の奇襲を受けて殺害される。黒羊朝はこの後一気に崩壊。
    1468年
    1月17日アルバニアの領主スカンデルベグが死去。本名ジェルジ・カストリオティ。オスマン帝国に仕えてその勇猛さからアレクサンドロス大王の名をもらいイスケンデル・ベイ(スカンデルベグ)と呼ばれたが、後にオスマン帝国に反旗を翻し、ムラト2世・メフメト2世の軍を撃退し独立を保った。アルバニアの民族的英雄。
    2月 3日活版印刷術を発明したヨハネス・グーテンベルクが死去する。印刷の権利を失ったり、騒乱に巻き込まれるなどして財産を失い、聖書の印刷の功績でアドルフ大司教に召抱えられ、ひっそりとこの世を去ったと言われる。
    1471年
    1月18日(文明2年12月27日)退位して後花園院となっていた後花園天皇が崩御。各地の騒乱に対して綸旨を発給し、将軍家の失政を諌めるなど、皇室の権威を復活させた人物。北朝の世襲親王家伏見宮系統の出身で、現在に至る天皇家の直接の祖となる(弟の貞常親王が現在の「旧皇族11宮家」の祖であり男系で天皇家と分かれたのはこの代からなので、旧皇族と言っても、非常に離れている)。
    9月10日(文明3年 8月26日)天皇の支持を得られていなかった西軍が南朝の18歳の皇族を京へ招く。小倉宮を称しているが、系譜や諱などは不明。「西方新主」「西陣南帝」などと呼ばれる。
    10月25日(文明3年 9月12日)桜島文明噴火。死者多数。
    1472年
    6月27日ブルゴーニュ公シャルルがボーヴェ占領を企図するが、住民の農民の娘ジャンヌ・レーケが、城壁を登ってきた兵士を手斧で叩き落としたことで城兵の士気が上がり、撃退に成功する。ルイ11世が彼女を称賛したこともあり、「手斧のジャンヌ(ジャンヌ・アシェット)」と呼ばれるようになった。シャルルは「猪突公」などとも呼ばれる無鉄砲な君主で知られる。
    1473年
    オトゥルクベリの戦い。オスマン帝国と白羊朝による軍事衝突。オスマンが勝利しアナトリア半島全域を支配下に置く。
    1474年
    (文明6年)後土御門天皇が、勅命で一休宗純を大徳寺48世の住持に任ずる。一休は大徳寺の再興に尽力したが、自身は都の郊外にある酬恩庵に暮らした。
    1475年
    9月15日(文明7年 8月15日)桜島南西部で噴火(文明溶岩が流出)。
    この頃、インカ帝国がチムー王国を滅ぼす。
    1476年
    9月29日(文明8年 9月12日)桜島大噴火。死者多数を出し、沖小島と烏島が形成される。
    1477年
    1月 5日ナンシーの戦い。ブルゴーニュ戦争最後の戦いで、ロレーヌ公国首都ナンシーをめぐり、ブルゴーニュ公シャルルと、ロレーヌ公ルネの軍勢が衝突。吹雪の中、相手の陣形を見抜いたルネの軍勢が迂回攻撃に成功。ブルゴーニュ軍は殲滅され、シャルルも戦死した。男子後継者がいなかったブルゴーニュ公国は滅亡。
    12月16日(文明9年11月11日)11年続いた応仁の乱が、西軍の解体で公式に終結。乱後に織物業者が西軍本陣跡地に集まって「西陣」(西陣織)と呼ばれたことから、乱終結の日は西陣の日とされている。
    1478年
    白羊朝最大の版図を築いたウズン・ハサンが死去。
    1479年
    8月 6日(文明11年 7月19日)後南朝の皇族が、越後から越中を経て越前北ノ庄に移ったという。後南朝皇族の消息に関する史料上最後の記録。擁立されていた西軍解散後、東国各地を放浪していたとみられる。
    1481年
    12月12日(文明13年11月21日)臨済宗大徳寺派の僧一休宗純が酬恩庵で死去。一休は後小松天皇の子という説があり、悟りを開いたのち、数々の風狂的言動を行い、森侍者と呼ばれる女性と暮らすなど異色の僧侶だが、天皇からも信頼され、能筆家、詩人としても知られる。茶道では一休の作品が崇められたため、江戸時代に広く一般に名前が知られるようになった。
    1482年
    この頃、仏教界で一大勢力だった佛光寺の14世経豪が、主要48坊のうち42坊を率いて、蓮如の本願寺に帰依するという事件起きる。経豪は蓮敎の名を与えられ興正寺を興す。佛光寺13世光教は、経豪の弟経誉を新たに「14世」としたものの、佛光寺は急速に衰退し、本願寺が勢力を拡大することとなった。
    1483年
    1月 6日(文明14年11月27日)古河公方足利成氏と幕府との間で和議が成立し、享徳の乱が終結(都鄙合体)。成氏は伊豆一国の堀越公方支配を認める。
    1485年
    8月22日ボズワースの戦い。リッチモンド伯ヘンリー・テューダーが、ヨーク朝リチャード3世を打ち破り、薔薇戦争は終結。テューダー朝のきっかけとなる。一方リチャード3世は敗死し、英国王では戦死した最後の王となっている。2012年に発見された遺体から、脳を損傷する頭部への刺突で即死したと見られている。シェイクスピア作品で奸物として描かれたが、近年再評価されている。
    1486年
    8月25日(文明18年 7月26日)太田道灌が、主君扇谷上杉定正の居館糟屋館に招かれた際に暗殺される。定正が実力者道灌に恐れを抱いたためと言われるが、これを機に扇谷上杉家は離反者が相次ぎ、衰退していく。
    1487年
    6月16日ストーク・フィールドの戦い。テューダー朝ヘンリー7世がヨーク派に対して最終的な勝利を収める。薔薇戦争は終結。
    9月 9日(成化23年 8月22日)明の成化帝が死去。即位後は奪門の変で処刑された于謙の名誉を回復したり、比較的まともな皇帝だったが、後半は方術に傾倒し、乳母の万貴妃を寵愛したことでその専横を招き、さらに宦官の汪直を重用して、特務機関の「西廠」を設立し恐怖政治を敷いた。そのため暗愚の皇帝の評価が強い。
    9月22日(成化23年 9月 6日)明の成化帝の三男朱祐樘が即位(弘治帝)。
    1490年
    1月27日(延徳2年 1月 7日)第8代将軍足利義政死去。東山文化の担い手となったが、政治力は弱く幕府の衰退につながった。
    1491年
    8月 6日(延徳3年 7月 1日)堀越公方足利政知の子で、幽閉されていた茶々丸が、牢獄を脱して、自身を讒言した継母の円満院とその子の潤童子を殺害。堀越公方の座につく。茶々丸はまもなく伊豆の混乱に乗じた伊勢宗瑞(北条早雲)によって追放され、その後殺されたため諱が伝わっていない。
    9月30日(延徳3年 8月27日)将軍の座について間もない足利義材(のち義稙)が、近江の六角高頼征伐を行い、これを追放。
    1492年
    1月 2日イスパニア半島のイスラム教国ナスル朝が滅亡し、キリスト教徒によるレコンキスタが終結。
    4月 8日フィレンツェの事実上の支配者で大富豪メディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチが43歳で死去。メディチ家黄金期の当主で、芸術家たちのパトロンになってルネサンス文化の担い手になった他、庶民のためのカーニバルを開催するなど人気が高かった人物。
    10月12日クリストファー・コロンブスが率いたスペインの艦隊が「西インド諸島」に到達し、「サン・サルバドル島」に上陸。
    11月16日神聖ローマ帝国オーバーエルザス(現フランス・オー=ラン県)エンシスハイムの農園に隕石が落下する。
    11月スンニ朝ソンガイ帝国のスンニ・アリ大王が死去。ソンガイ帝国の領域を拡大し、国家制度を整備。強力な水軍でニジェール川流域を支配下に置いた。あとをスンニ・バルが継ぐ。
    1493年
    3月15日コロンブスの一行が帰国。大絶賛される。
    4月 2日ソンガイ帝国の将軍アスキア・ムハンマド・トゥレが、スンニ朝の王スンニ・バルに対し反乱を起こし、ガオ近郊でスンニ・バルを破り追放する。アスキアは王に即位し、アスキア朝を建てる。反乱を起こした要因は、スンニ・バルが非イスラム化をさらに進めたため。ソンガイ帝国は、スンニ・アリ時代、アスキア・ムハンマド時代、アスキア・ダーウード時代に最も栄えた。
    5月 7日(明応2年 4月22日)畠山氏への対応などで将軍足利義材と対立した管領細川政元が日野富子らとともにクーデターを起こし、義材が河内出兵の留守を狙い、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院の清晃を還俗させて(足利義遐のち義澄)将軍職に奉じる(ただし後土御門天皇の反感を買い将軍宣下がすぐには降りず)。
    教皇アレクサンデル6世の教書によって教皇子午線が引かれ、その東をポルトガル、西をスペインとすることが決まる。
    1494年
    6月 7日教皇子午線に不満なポルトガルがスペインと交渉し、トルデシリャス条約締結。ブラジルはポルトガルが、それ以外のアメリカ両大陸はスペインが進出することになる。
    1495年
    1月23日(明応3年12月27日)足利義遐(義澄)の将軍宣下が降りる。
    9月 3日(明応4年 8月15日)鎌倉で大きな地震があったとみられる。津波で大仏殿などの堂舎が壊れ、溺死者200余人という。明応7年の巨大地震の誤記という説もあったが、複数の史料で確認できることから、この日にも地震があった可能性が高い。なお鎌倉高徳院の大仏殿が失われた年月日には諸説ある。
    9月(明応4年 9月)伊勢宗瑞が大森藤頼の小田原城を計略を用いて奪取する。ただし年月日には異説も複数ある。
    1497年
    7月 8日ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ艦隊の4隻がリスボンを出発。約120人を乗せアフリカ周りでインドへ向かう。インド諸国との交易路確立が目的。バルトロメウ・ディアスが途中まで同行することに。
    11月25日ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊が南アフリカで輸送艦のキャラック船を解体処分し3隻となる。
    この年、ジョン・カボット率いるイングランドの探検隊が、現在のケープ・ブレトン島に到達。ヨーロッパ人による北米到達はバイキング以来とみられる。
    1498年
    5月20日ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が西インド洋を横断してインドのカレクト(カリカット:現コージコード)に到着。
    6月30日(明応7年 6月11日)この日、九州と畿内でそれぞれ比較的大きな地震が発生したと記録にある。南海地震説と日向灘地震説、両方の連動説がある。畿内と九州の被害は同一地震の記録の可能性も高い。家屋倒壊や山崩れなどにより死者多数。
    8月29日カレクト側と紛争状態になっていたヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が帰国のためカレクトを離れる。貿易風が弱く、一旦インド西岸を北上。
    9月11日(明応7年 8月25日)南海トラフを震源とする明応地震が発生。大津波が関東から紀伊半島にかけての太平洋岸を襲い、甚大な被害を出す。鎌倉大仏が露坐になったのは、この津波で大仏殿が流出したためとされているが、明応4年の大地震の津波で倒壊したとも、応安2年に倒壊して以降は再建されず、この地震時にはすでに露座だったとする説もある。
    ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に、レオナルド・ダ・ヴィンチによって「最後の晩餐」の壁画が完成する。透視図法を使って食堂から続く空間にイエスと弟子たちがいるように描かれており、壁画としては珍しいテンペラ画の技法を使っている。
    1499年
    1月 9日ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が復路アフリカ東部のマリンディに到着。インドからここまでの間に病死者が相次いで人員が減ったため、ここでサン・ラファエル号を焼却処分し、艦隊は2隻となる。
    7月10日ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊のうち先行していたニコラウ・コエリョ指揮のベリオ号がリスボンに帰還。
    1500年
    1月26日スペイン人のビセンテ・ヤーニェス・ピンソンの艦隊がブラジル北部に到着。アマゾン一帯の探検を行う。
    2月(弘治13年 2月2日)琉球王国尚真王は、大里親雲上を将軍に定めて、宮古領主の仲宗根豊見親(空広)に案内させて、軍船100艘、兵力3000人を付けて、八重山領主オヤケアカハチ(堀川原赤蜂:ホンカワラアカハチ)を攻める。少数の島民を除きほぼ全島民がアカハチに従って抵抗したと言われる。
    2月(弘治13年 2月13日)琉球王国の八重山遠征軍が、石垣を二方面から攻め、八重山領主オヤケアカハチが滅ぼされる。琉球王国側の記録では、朝貢を怠り、謀反を企てたので滅ぼしたとされているが、実際には独立していた宮古八重山のうち、宮古領主仲宗根豊見親が琉球王国に従ったのを機会に、琉球王府が八重山の武力併合を図って侵略したものとみられる。八重山は長田大主が勢力を拡大していく。
    4月22日ポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルの艦隊がブラジル(後のポルト・セグーロ)に到着。新発見の地としてポルトガル領を宣言したこともあり、一般にはカブラルが「ブラジル発見者」とされている。なおこの時、赤い染料ブラジリンが取れるスオウ(ブラジル)に似た木があったため、地名も「ブラジルの地」と名付けられた。
    ウズベクの部族長ムハンマド・シャイバーニー・ハンが、ティムール朝の内紛に介入してスルタン・アーリーからサマルカンドを奪い占領。一旦はティムール朝のバーブルがサマルカンドを奪い返すも維持できず間もなく放棄してタシュケントへ退き、シャイバーニーは、マー・ワラー・アンナフルを支配下に置いてシャイバーニー朝ウズベク=ハン国を興す。
    1503年
    ムハンマド・シャイバーニー・ハンが、タシュケントを攻略。同地を支配していたマフムード・ハンはモグーリスタンへ追放され、同家にいた甥のバーブルも敗走。モグール人らを糾合しホラーサーンへ向かう。
    1504年
    9月バーブルがカーブルを攻めて領主ミールザー・ムキームを降し、同地を征服。
    1505年
    1月バーブルが北インドに遠征。
    6月 8日(弘治18年 5月 7日)明の弘治帝が死去。風寒に罹り治療を受けた際に、大医が治療を誤って、鼻血が止まらなくなり死亡したと言われる。英宗、成化帝と暗愚な皇帝が続いたのに対し、弘治帝は、皇帝に取り入って権力を握っていた宦官・道士・僧を追放して、賢臣を登用するなど、まともな政策を行ったため、明の中興の祖と呼ばれる。
    6月19日(弘治18年 5月18日)弘治帝の長男の朱厚㷖が即位(正徳帝)。
    1506年
    5月20日スペイン王室からも見捨てられたコロンブスがスペインのバリャドリッドで病死。
    5月シャイバーニーによるバルフ攻略戦に、バーブルらティムール朝系の君主らが連合軍を派遣。バルフは陥落したため、連合軍は解散。
    1507年
    2月バルフ攻防戦の遠征に出ていたバーブルが、冬季行軍の苦難の末カーブルへ帰国。シャー・ベギムらの反乱を鎮圧。
    6月シャイバーニーがヘラートを征服。
    8月 1日(永正4年 6月23日)細川政元が細川澄之支持派の手で暗殺される。細川家は細川澄之、細川澄元、細川高国の三派に分かれて後継者争いに発展。
    1508年
    5月15日(永正5年 4月16日)10代将軍でクーデターにより地位を追われていた足利義尹(義材)が大内義興の支持を得て軍を京に進めたため、近江へ逃れた11代将軍足利義澄は失脚。
    7月28日(永正5年 7月 1日)足利義尹が細川高国らに迎えられて入京し征夷大将軍に復帰。
    サファヴィー教団の教主でサファヴィー朝を建国したイスマーイール1世が白羊朝を滅ぼす。同教団は白羊朝と対立したが、イスマーイール1世自身は白羊朝のウズン・ハサンの孫でもあるため、白羊朝を支えた部族らの支持を得たと言われる。
    この年から、カーブルの君主バーブルが、パーディシャー(皇帝)の称号を名乗り始める。
    この年、人文主義者デジデリウス・エラスムスが、友人トマス・モアの自宅で、「痴愚神礼讃」を執筆。出版は1511年。痴愚女神モリアーのセリフを介して人間の愚かさを風刺。王侯貴族や教会、学者らもその対象にしたことから禁書目録に入れられるも、欧州中で大ベストセラーになった。
    1510年
    (中宗4年 4月 4日)李氏朝鮮の貿易規制策などに不満を持つ慶尚道三浦の倭人が対馬の宗盛順らの支援を受けて反乱を起こす。
    (中宗4年 4月19日)三浦の乱が鎮圧される。
    サファヴィー朝のイスマーイール1世がシャイバニー朝ウズベク・ハン国に侵攻し、迎え撃ったムハンマド・シャイバーニーは敗死。
    1511年
    9月15日(永正8年 8月23日)船岡山合戦。足利義尹を支持する細川高国、大内義興、畠山義元らの軍勢と、失脚した足利義澄派の細川澄元、畠山義英、赤松義村らの軍勢が衝突。義尹派が勝利する。なおこの時すでに義澄は病死している。また細川氏、畠山氏、六角氏らの内紛も要因の1つ。
    (永正8年 8月)『妙法寺記』などから、富士山の6~7合目付近にあった「カマ岩」が燃えたという。その直前に大きな音がしていることなどから、小規模の噴火と考えられる。
    サファヴィー朝によってシャイバーニーが敗死したことをうけて、カーブルのバーブルは、サファヴィー君主イスマーイール1世に臣従を申し出て、マー・ワラー・アンナフルへ進出。かつての領地であるサマルカンドに再入城するが、シーア派系のサファヴィー朝に反発する住民の抵抗にあう。
    4月28日勢力回復を目指すシャイバーニーの甥ウバイドゥッラーと、バーブルがクリ・マリクで戦う。バーブルは敗北。
    11月ウバイドゥッラーとバーブルがグジュドワーンで戦い、バーブルはふたたび敗北。サマルカンドを失い、マー・ワラー・アンナフルから撤退。暫くの間バーブルはサマルカンドを伺っていたが、やがてティムール朝の旧領回復をあきらめ、東のインドへ進出するようになる。
    1513年
    9月25日黄金郷を目指すバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア率いる探検隊が、パナマ地峡を横断し南側の海に到達。いわゆる「太平洋の発見」。これによりアメリカは2つの大洋に挟まれた独自の大陸であることも判明した。
    この年、オスマン帝国の軍人アフメット・ムヒッディン・ピーリーによって作成されたピーリー・レイースの地図が皇帝セリム1世に献上される。おそらくアジア大陸から南北アメリカ東海岸までの世界地図だったと思われるが、現存するのは大西洋沿岸部分のみ。様々な地図をもとに作られ、コロンブスのアメリカ到達から20年ほどしか経っていないのに正確に描かれている。南米に続くようにアフリカの下まで陸地が描かれているため、南極が描かれているとする説もあるが、単に羊皮紙の大きさに入り切らなかったため、南米南部を下の方に曲げて描いている。
    1514年
    8月23日チャルディラーンの戦い。アナトリア東部へ勢力を拡大していたサファヴィー朝のイスマーイール1世に対し、オスマン帝国のセリム1世が親征をおこない、両軍はチャルディラーンで衝突。銃火器を装備したオスマン軍に対してサファヴィー軍は大敗。イスマーイール1世はこれ以降、積極性を失い、宗教的権威も衰えるようになる。ティムール朝カーブル君主のバーブルもサファヴィー朝から離れる。
    1516年
    4月23日バイエルン公ヴィルヘルム4世がビール純粋令を定める。「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」とし、価格や罰則などを定めたもの。
    この年、中国明朝のドン族とヤオ族の住む南丹に隕石が降る。現在の広西チワン族自治区南丹県。隕石そのものも1958年に大躍進政策で鉄の原材料調査を行って発見された。
    この年、トマス・モアの著作『ユートピア』が発刊。現実のイングランド社会を風刺する意味合いで、「素晴らしいがどこにもない場所」という意味の造語「ユートピア」の名を持つ架空の国家を描いている。共産主義のように私有財産を持たず、また人々は平等であることから、ユートピアは理想郷という意味になったが、作中の同国は都市も地形もすべて人工的に作り変えられ、住民は規則的な生活を送り、個性も存在しないことから、反理想郷(ディストピア)的に見られることもある。
    1517年
    カーブル君主のバーブルがサファヴィー朝の支配するカンダハールを攻めるが失敗。
    1518年
    ティムール朝系君主であるカーブルのバーブルが、かつてティムールが遠征したインド北部のパンジャーブへ進出し同地を制圧。この頃からバーブルは重火器を多用するようになる。
    1519年
    11月 8日コンキスタドールのスペイン人エルナン・コルテスがアステカの都テノチティトランに現れ、アステカ王モクテスマ2世から、コルテスはケツァルコアトルス神の化身と勘違いされる。
    11月14日エルナン・コルテスがアステカ王モクテスマ2世に改宗を強要し、さらに口実を作って王を幽閉する。
    1520年
    5月21日(永正17年 5月 5日)等持院の戦い。中央復帰を図り摂津まで進出した細川澄元の軍勢を指揮する三好之長と、細川高国らが京で衝突。三好之長が敗北。細川澄元の復帰はならず。なお高国と対立していた将軍義尹は澄元と和解していたため、戦後義尹と高国は対立。
    5月27日(永正17年 5月11日)三好之長が捕らえられ処刑される。
    6月24日(永正17年 6月10日)伊丹から阿波に逃げ戻った細川澄元が死去。
    7月 1日アステカ王モクテスマ2世が、エルナン・コルテスに反発するアステカ軍や市民をなだめようとして石や投げやりをぶつけられ、その傷が元で死去。
    10月21日マゼラン(マガリャンイス)の艦隊が南米大陸南端とその先の島の間に海峡を発見。島の原住民ヤーガン族が点けたと見られる火を目撃。海峡はマジェラン海峡、島はフエゴ島と名付けられる(ティエラ・デル・フエゴは火の島という意味)。
    11月 8日ストックホルムの血浴。デンマークの支配下にあったスウェーデンの反乱を鎮圧したクリスチャン2世が、スウェーデンの反乱関係者を和解の晩餐会と称して集め、皆殺しにした事件。生き延びた若き貴族のグスタフ・ヴァーサが反乱を起こす。
    カーブルの君主バーブルが再びインド遠征を行う。
    1521年
    4月13日(大永元年 3月 7日)将軍足利義尹が京を出奔し堺へ逃れる。細川高国は、代わりに義澄の遺児の足利義晴を将軍に擁立。
    4月20日(正徳16年 3月14日)明の正徳帝が死去。前年に水遊び中に船が転覆して水に落ちたのが原因で病気になり、それが元で病死したという。淫乱な上に戦争好きで、不要な出兵を繰り返しては、遠征先で美女を拉致して暴行するという悪行を繰り返したという。出兵の負担が重くのしかかり各地で反乱が相次いだ。中興の祖と呼ばれた弘治帝によって建て直された国力は失われ、明の滅亡のきっかけを作った人物。自覚があったのか、死ぬ直前に「罪己詔」を出した。
    5月27日(正徳16年 4月22日)弘治帝の弟興王の次男朱厚熜が即位(嘉靖帝)。
    4月27日航海途中のマゼランがフィリピンのマクタン島でイスラム教徒の領主ラプラプの手勢によって殺害される。マゼランが、友好関係を結び改宗までしたセブ島の領主ラジャ・フマボンへの従属と改宗を求めて周辺の諸領主に武力をもって圧力をかけたことがラプラプの反感を招いたとみられる。
    5月 1日マゼラン艦隊の指揮権を継いだドゥアルテ・バルボサら主な幹部24人のほとんどが、ラジャ・フマボンに招かれた席で殺害される。バルボサが、マゼランの奴隷だった「マラッカのエンリケ」(マラッカ人。マゼランは自分の死後、遺産を分け与え、奴隷から解放すると遺言していた)を引き続き奴隷にすると脅したため、エンリケがフマボンをそそのかしたと言われる。艦隊は幹部の一人だったバスク人フアン・セバスティアン・エルカーノが率いることに。
    8月13日エルナン・コルテスらの率いる軍隊によって、アステカの都テノチティトランが陥落。
    1522年
    9月 6日マゼラン艦隊で唯一残ったビクトリア号がスペインのサンルーカル・デ・バラメーダに帰港。世界一周を果たす。出発時の乗員265名のうち最後まで残ったのは最後の指揮をとったフアン・セバスティアン・エルカーノ、詳細な記録を残したアントニオ・ピガフェッタなど18名のみ。
    この頃、琉球王国尚真王が、宮古領主の仲宗根豊見親を派遣して、与那国の領主鬼虎(うにとら)を滅ぼす。仲宗根の兵力は精鋭数十人規模だったとある。年代は1513年以前とする説もある。鬼虎は宮古島の出身で怪力無双の豪傑であり、女領主サンアイイソバに従っていたが、野心をあらわにしたため、イソバが仲宗根豊見親を介して鬼虎討伐を求めたともされる。
    カーブルの君主バーブルがインド遠征から戻り、サファヴィー朝の勢力圏であったカンダハールを制圧。
    1523年
    グスタフ・ヴァーサが、スウェーデン議会の承認で国王グスタフ1世として即位。デンマーク(カルマル同盟)からの独立を果たす。
    1524年
    8月23日サファヴィー朝を建国したイスマーイール1世が死去。10歳のタフマースブ1世が受け継ぐが、サファヴィー教団の信者でもあり同王朝を軍事的に支えた遊牧部族集団クズルバシュが内紛状態になる。
    カーブルの君主バーブルが3度めのインド遠征を開始。パンジャーブの中心ラホールまで進出する。
    1525年
    カーブルの君主バーブルが4度めのインド遠征を開始。ダウラト・ハンを降す。
    1526年
    4月21日パーニーパットの戦い。カーブルの君主バーブルと、ローディー朝イブラーヒーム・ローディとが戦闘し、堅牢な陣と銃火器を多用したバーブルが、10倍の兵力と1000頭の象軍を率いたローディ軍に対し勝利。イブラーヒームは戦死。
    4月27日バーブルがデリーに入城する。デリーの大モスクで金曜礼拝を自身の名で唱え、インド支配を宣言。ムガル帝国を樹立する。ムガルとはペルシャ語でモンゴルを意味するムグルから。バーブルの出自であるティムール王朝はモンゴル帝国の後継王朝の一つ。
    5月10日バーブルがローディー朝の王都アーグラに入城する。ローディー朝は滅亡。ローディー朝王族によるバーブル暗殺未遂事件が起きる。
    1527年
    3月14日(大永7年 2月12日)桂川原の戦い。管領細川高国に弟香西元盛を自害に追い込まれ恨みを持つ波多野稙通・柳本賢治兄弟に細川晴元から援軍として合流した三好勝長・政長らの軍勢と、細川高国、武田元光の軍勢が衝突。高国らが大敗を喫し、京都から近江方面へ退却する。
    3月17日カーヌワーの戦い。ムガル帝国を興したバーブルと、ローディ朝の復興を目指すマフムード・ローディ、ローディに味方したラージプートの諸勢力連合軍が衝突。火器を使うバーブル側が大勝。マフムード・ローディは敗走。
    6月21日ニッコロ・マキャヴェッリが死去。『君主論』の作者でマキャベリズムのもととなった思想家。
    インカ帝国の皇帝で領土を拡張したワイナ・カパックが疫病により死去。同時期に皇太子のニナン・クヨチや、多くの兵士らも同じ疫病で死去していることから、各地に進出を始めていたヨーロッパ人から天然痘が広がり感染したという説も有力(マラリア説もある)。インカ帝国はこのあと、子のワスカルとアタワルパによる内戦が起き、スペイン人のフランシスコ・ピサロにつけこまれた。
    1529年
    4月22日アジアの領土分割を決める、スペインとポルトガルのサラゴサ条約が締結。
    5月 6日ガーグラー川の戦い。ムガル帝国のバーブル軍に対して、ふたたびマフムード・ローディが攻撃を仕掛ける。ローディにはベンガル王国のヌスラット・シャーなどが味方につくも、バーブル側が勝利。ローディは再び敗走し、ヌスラット・シャーはバーブルと和睦。
    1530年
    12月26日ムガル帝国を興したバーブルが死去。
    1531年
    7月17日(享禄4年 6月 4日)大物崩れの合戦。将軍側の細川高国、浦上村宗の軍勢が、堺公方側の三好元長、赤松政祐に敗北する。翌日、高国が尼崎で捕縛される。
    7月21日(享禄4年 6月 8日)細川高国が自害させられる。
    7月ムガル帝国2代皇帝フマーユーンが、ラクナウの戦いでマフムード・ローディを撃破。
    8月彗星が出現し、ペトルス・アピアヌスが観測する。ハレー彗星。
    シェール・ハーンが、ムガル帝国2代皇帝フマーユーンからの独立を宣言。のちのスール朝。
    1532年
    7月22日(享禄5年 6月20日)堺公方の有力武将だった三好元長が、一向宗徒に襲われ和泉の顕本寺で自害。堺公方体制も崩壊する。
    9月23日(天文元年 8月24日)法華宗徒の三好元長が一向宗徒に襲われ自害したことに反発した、京の法華宗徒や町衆が、六角氏らの支援を受けて山科本願寺を襲い、これを焼き討ちする。法華宗は京に勢力を拡大していく。
    11月16日フランシスコ・ピサロが、改宗を拒否し聖書を冒涜したという理由で、会見に現れたインカ皇帝アタワルパを捕らえ、インカ兵を攻撃。インカ兵7000人が殺され、アタワルパは幽閉される。
    1533年
    7月26日フランシスコ・ピサロが、インカ皇帝アタワルパを偶像崇拝と実兄ワスカルを殺害した罪で処刑。ワスカルは側近に殺されているため、アタワルパが殺害した証拠はない。
    1534年
    6月23日(天文3年 5月12日)織田信長、清洲三奉行のひとり織田信秀の嫡男として那古屋城で生誕(月日と出生地には異説あり)。
    サファヴィー朝の2代目君主タフマースブ1世が、クズルバシュ出身の大アミール・フサイン・ハーン・シャームルーを処刑。以降、親政を行い、クズルバシュの権力を削ぐようになる。
    1535年
    ムガル帝国皇帝フマーユーンが、グジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーを破り、グジャラートとマールワーを併合。
    12月29日(天文4年12月 5日)森山崩れ。西三河の有力者となった松平清康が尾張へ侵攻するが、この日の早朝、森山の陣中で家臣の阿部正豊にいきなり惨殺される。正豊は植村氏明に殺害された。松平宗家はあとを継いだ広忠も若くして亡くなったため、家康が出るまで衰退する。なお正豊の父親である阿部定吉は特に咎められておらず、事件の要因ははっきりとわかっていない。
    1536年
    4月 7日(天文5年 3月17日)駿河の守護大名今川氏輝と弟の彦五郎が急死。先代氏親の正室寿桂尼と太原雪斎らは、氏親の子である栴岳承芳を還俗させ(今川義元)、後継に押し立てる。
    6月13日(天文5年 5月25日)今川氏親の子で、今川義元の異母兄に当たる玄広恵探が、義元擁立に反発した母方の祖父(もしくは同族の)福島正成(もしくは福島越前守)に擁立されて久能山で挙兵。花倉の乱が勃発。
    6月28日(天文5年 6月10日)今川義元らの軍勢が、花倉城を攻め、玄広恵探は逃走。普門寺で自刃し、花倉の乱は終結。
    7月12日人文主義者デジデリウス・エラスムス・ロッテルダム死去。宗教改革に大きな影響を与えた人物だが、本人は敬虔なカトリック。
    8月13日(天文5年 7月27日)天文法華の乱。比叡山の僧兵と六角氏の軍6万が、京に勢力を伸ばしていた法華宗の寺院21カ寺を襲い放火。京の市街地も大きな被害を出す。
    1538年
    7月 8日フランシスコ・ピサロが、対立していたコンキスタドール(征服者)のディエゴ・デ・アルマグロを処刑。
    10月29日(天文7年10月 7日)第一次国府台の戦い。小弓公方の足利義明が真里谷信応、里見義堯らを率いて国府台まで進出。古河公方と組んだ北条氏綱も兵を出し合戦となる。足利義明は討ち死。北条氏綱は下総方面へ進出し、無傷だった里見義堯も上総方面へ勢力を拡大。
    この年、ゲラルト・デ・クレーマー(メルカトル)が最初の世界地図を出版。すでに南北米大陸がアメリカという名前になっており、アジア大陸とは切り離して描かれている。
    1539年
    ポーランド王国のジグムント1世王がユダヤ人の法的保護を定めたカリシュの法令を改めて承認する。
    12月チャウサーの戦い。シェール・ハーンの軍勢と、ムガル帝国軍が衝突。ムガル皇帝フマーユーンは大敗を喫し、アーグラへ敗走。シェール・ハーンはシェール・シャーとして即位し、スール朝を興す。
    1540年
    5月17日カナウジの戦い。シェール・シャー率いるスール朝軍がムガル帝国のフマーユーンの軍勢と衝突。ムガル帝国側が大敗を喫し、シェールはデリーとアーグラーを占領。ムガル皇帝フマーユーンはシンド地方へ逃走した後、一旦ペルシャのサファヴィー朝のタフマースプ1世のもとへと落ち延びる。
    7月28日トマス・クロムウェル処刑。イングランド王ヘンリー8世の離婚と再婚のために宗教改革まで行った挙句に、そのヘンリー8世の怒りを買って処刑された。同日、ヘンリー8世は、キャサリン・ハワードと再婚。
    1541年
    6月26日インカ帝国を征服したコンキスタドール(征服者)フランシスコ・ピサロが暗殺される。殺したのは、ピサロによって処刑されたコンキスタドールのひとりディエゴ・デ・アルマグロの息子。
    1542年
    1月26日(天文11年 1月11日)大内義隆が出雲尼子氏攻略のため出陣。
    9月 6日(天文11年 7月27日)大内軍が尼子側の赤穴城を攻略。
    11月27日(嘉靖21年10月21日)壬寅宮変。嘉靖帝の後宮の2人の側室と女官16人が、就寝中の嘉靖帝の首を縄で締めて殺そうとした事件。騒ぎの連絡を受けた方妃(孝烈皇后)が女官らを取り押さえさせた。嘉靖帝は一時昏睡状態に陥った。事件の背景は不明だが、皇帝が道教に凝って不老不死になるため処女の経血を欲して女性らを拉致監禁し、恐れた女性らが事件を起こした説や、側室が多いために相手にされない女性らが恨んで事件を起こした説などがある。首謀者とされた曹端妃、王寧嬪らは凌遅刑に処されたという。
    1543年
    3月(天文12年 4月)第一次月山富田城の戦いが始まる。
    6月 9日(天文12年 5月 7日)大内軍、月山富田城から撤退を開始。帰路、大内義隆の養嗣子である大内晴持は海路で遭難。殿軍の毛利勢も大敗を喫する。大内氏が衰退する一因となった。
    9月23日(天文12年 8月25日)種子島の西村に中国のものと見られる大型船が漂着。乗客の中にいた儒者五峯と筆談したところ、2名のヨーロッパ人(フランシスコ、モッタ)がおり、彼らが持参していた火縄銃を領主の種子島時尭に披露。時尭が2丁を購入し、研究させる。いわゆる鉄砲伝来。それ以前にも鉄砲という正体不明の武器の記述は各地に見られるが、銃火器かどうかははっきりしない(蒙古襲来時の「てつはう」のような火薬兵器か)。なお銃火器の原型は中国宋王朝のときに発明され、西へ運ばれ、ドイツなどで「銃」へと発展した。
    1544年
    インカ帝国の15代皇帝マンコ・インカ・ユパンキが、フランシスコ・ピサロを殺害したアルマグロ一派の手で殺害される。最後の皇帝。子のサイリ・トゥパックがあとを継ぎ、地方政権である「ビルカバンバのインカ帝国」皇帝となった。
    1545年
    5月22日スール朝を建国したシェール・シャーが砲弾の暴発事故で死去。イスラーム・シャーが後を継ぐも内紛状態へ。
    10月31日(天文14年 9月26日)小田原の北条氏が駿河東部で今川・武田と対立したことを受け、関東の山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏が同盟して、8万の大軍で北条氏の河越城を包囲。河越城主北条綱成は籠城。
    12月(天文14年11月)北条氏康、武田晴信の仲介の元、河東(駿河富士川以東)を放棄することで今川義元と和睦。
    1546年
    5月19日(天文15年 4月20日)北条氏康、河越城周辺の両上杉・古河公方連合軍に対して夜襲を仕掛ける。また河越城からも北条綱成が出撃し、連合軍は壊乱。上杉朝定、朝定の重臣で松山城主の難波田憲重らが討ち死に。上杉憲政は上州平井城へ逃走、足利晴氏も古河へ敗走する。通称「河越夜戦」。記録に乏しいため、詳細については諸説ある。北条氏は以後関東制覇へ向けて動き出す一方、扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏も衰退し、越後長尾氏を頼ることになり、上杉謙信の関東進出へとつながっていく。
    7月10日シュマルカルデン戦争勃発。カトリック教徒の神聖ローマ帝国皇帝カール5世に対し、皇帝の政策に不満を持つ反皇帝派プロテスタント諸侯同盟(シュマルカルデン同盟)が起こした反乱。
    1547年
    1月16日イワン雷帝の即位。モスクワの生神女就寝大聖堂でツァーリとして戴冠式を行う。
    4月24日ミュールベルクの戦い。神聖ローマ帝国皇帝カール5世がプロテスタント軍のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒを奇襲攻撃で破り勝利する。
    5月19日ヴィッテンベルク降伏条約が締結され、シュマルカルデン戦争はカトリック側の勝利で終結。
    8月 6日(天文16年 9月19日)小田井原の戦い。信濃へ勢力を広げる武田晴信に対し、信濃佐久郡の志賀城主笠原清繁は籠城。武田晴信は兵を出して城を包囲する。これに対し、上野の上杉憲政が笠原支援のため、金井秀景率いる軍勢を派遣。両軍は小田井原で衝突し、武田軍が勝利。
    8月11日(天文16年 9月24日)志賀城が落城し、笠原清繁らは討ち死に。武田晴信は捕虜とした敵兵やその家族女子供を人身売買にかけるなど、かなり厳しい処置を行う。
    1548年
    3月10日(天文17年 2月 1日)武田晴信率いる軍勢が、北信濃に進出。同地の村上義清も出兵し、千曲川支流沿いに兵を展開。
    3月23日(天文17年 2月14日)上田原の戦い。武田晴信と村上義清との戦いで、武田軍が大敗。板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門ら重臣が戦死する。
    3月26日(天文17年 2月17日)敗戦後も上田原にとどまっていた武田晴信が甲府へ帰還する。
    5月神聖ローマ帝国の帝国議会でアウクスブルク仮信条協定が結ばれる。皇帝カール5世が、帝国内の反発を回避するため、カトリック有利ながら、プロテスタントにも一定の妥協を図った協定。
    1549年
    1月28日(天文17年12月30日)長尾景虎が隠居する兄の晴景のあとを受けて家督を継ぎ、越後国の守護代となる。有能な景虎を兄に代わって推す勢力が強まり、越後守護上杉定実の調停によって。
    3月23日(天文18年 2月24日)織田信長と、斎藤道三の娘「濃姫」が結婚。
    4月15日フランシスコ・ザビエルがインドのゴアを出発し、日本へ向かう。
    6月(天文18年 5月)島津家家臣の伊集院忠朗が、樺山善久・北郷忠相らと、肝付兼演の加治木城を攻めた際に、鉄砲を使用したといわれる。
    8月15日(天文18年 7月22日)フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。
    1550年
    12月21日(天文19年11月14日)東山の戦い。足利義輝・細川晴元と、三好長慶側の三好長逸・十河一存らが京の市中で衝突した戦い。この戦闘で、幕府軍側が鉄砲を使用し、三好側の武将三好長虎の与力が撃たれたと、山科言継が日記に記録している。明確な鉄砲使用の実例が分かる最初の記録。
    12月28日(天文19年11月21日)中尾城の戦い。三好軍が東山の中尾城に籠もる足利義輝の背後に回ろうとしたため、義輝は中尾城を放棄して近江へ退却。
    1551年
    9月28日(天文20年8月28日)大寧寺の変。周防・長門の戦国大名・大内義隆の重臣で守護代の陶晴賢が主導する反乱が起こる。
    9月30日(天文20年9月 1日)大内義隆が長門大寧寺で自刃し、大内家は事実上滅亡。
    1552年
    3月プロテスタントながら、カトリックの神聖ローマ帝国皇帝カール5世に組みしたザクセン選帝侯モーリッツが、皇帝の政策に反発してカール5世を攻撃。
    8月ザクセン選帝侯モーリッツと、カール5世の弟でローマ王(神聖ローマ帝国におけるドイツ王)のフェルディナンド1世が交渉し、カトリックとプロテスタントの融和を図るパッサウ条約を締結。モーリッツはカール5世と和睦。
    10月イヴァン雷帝が、カザン・ハン国の首都カザンを攻略。タタール人の多くは殺されるか追放され、カザン・ハン国は形式上は残ったものの、事実上滅亡。
    12月 3日フランシスコ・ザビエルが中国上川島で病死。
    1553年
    7月 9日ジーフェルスハウゼンの戦い。ザクセン選帝侯モーリッツらが、パッサウ条約を拒否したブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスを攻撃。戦いには勝利するがモーリッツは戦死する。
    9月 8日(天文22年 8月 1日)東山霊山城の戦い。将軍位を継いだ足利義藤(義輝)が、京の三好政権を倒すため、三好長慶が留守を狙い、細川晴元とともに京に侵攻。船岡山と東山霊山で、三好側の今村慶満と戦うが敗北。義藤は近江朽木谷へと逃れ、しばらく逼塞することとなった。
    10月 8日(天文22年 9月 1日)第一次川中島の戦い。村上義清救援のために出陣した上杉軍が武田軍と衝突。
    1554年
    6月シュヴァルツァハの戦い。ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスはプフォルツハイムへと落ち延びる。
    12月ペルシャのサファヴィー朝に亡命していたムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが、スール朝の内紛を機に軍勢を率いてインド北部へ侵攻。
    1555年
    6月22日ムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが、スール朝の第6代君主シカンダル・シャーの軍勢をシルヒンドで打ち破る。
    7月23日ムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが、スール朝を滅ぼし、ムガル帝国を復活させる。
    8月 6日(天文24年 7月19日)第二次川中島の戦い。上杉・武田両軍は以降200日に渡って対峙。
    9月25日アウクスブルクの和議。神聖ローマ帝国皇帝カール5世、弟でローマ王フェルディナンド1世が、プロテスタント諸侯の圧力でルーテル派を認める。各領主は宗派を選ぶことが出来、その領民はその宗派に属すると定める。帝国自由都市はこの原則の除外として宗教的自治権を認めず。
    10月15日(天文24年 9月30日)厳島に布陣した大内家の実力者陶晴賢軍を攻めるため、毛利軍が荒天の中、二手に分かれて渡海。
    10月16日(天文24年10月 1日)厳島の戦い。毛利軍が陶晴賢の軍勢を攻撃。狭い島内に数万の軍勢がひしめき合い、大混乱となった陶軍は大敗。陶晴賢は敗死し、毛利家伸張のきっかけとなる。
    1556年
    1月27日ムガル帝国2代目皇帝フマーユーンが事故死。あとを13歳の息子のアクバルが継ぎ、バーブル時代からの重臣バイラム・ハーンが摂政となる。
    5月28日(弘治2年 4月20日)斎藤道三が実子の斎藤義龍と長良川河畔で戦い戦死する。
    8月 3日(弘治2年 6月28日)長尾景虎が、春日山城を出奔し、高野山へ向かう事件を起こす。家臣団同士の抗争や国人衆の謀反が頻繁にあったことに嫌気が差したためと言われるが、出奔してみせることで家臣団を結束させる狙いがあったという説もある。
    9月20日(弘治2年 8月17日)長尾景虎の家臣らが、大和葛城で景虎に追いつき説得して出家を思いとどまらせる。
    9月27日(弘治2年 8月24日)斎藤道三の戦死を機会と見た織田信長の同母弟織田信勝(信行)が、柴田勝家、林秀貞らと挙兵する。しかし稲生の戦いで敗北。
    10月 6日ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが遠征中に、スール朝の将軍だったへームーがムガル帝国領へ侵攻。デリーを占領する。
    11月 5日第二次パーニーパットの戦い。ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが、スール朝の将軍へームーの軍勢と衝突。兵力差ではへームーの方が多く勝利目前だったが、へームーが片目を負傷して意識を失い軍は壊乱。ヘームーは捕らえられて処刑される。
    11月 7日ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが、デリーを奪還。
    12月 7日スール朝最後の君主シカンダル・シャーが蜂起し、マーンコートに籠城。ムガル皇帝アクバルと摂政バイラム・ハーンが出陣し、これを包囲。
    1557年
    7月25日マーンコートの籠城戦でシカンダル・シャーがムガル帝国に降伏。
    9月(弘治3年 8月)第三次川中島の戦い。
    11月22日(弘治3年11月 2日)織田信長が河尻秀隆らをして清洲城内で弟の織田信勝(信行)を暗殺。
    シャイバニー朝ウズベク・ハン国の実力者アブドゥッラーフ2世が首都をサマルカンドからブハラへ遷す。以降ブハラ・ハン国と呼ばれる。
    1558年
    2月23日(弘治4年 2月 5日)寺部城の戦い。三河寺部城主鈴木重辰が今川氏から離反し織田方についたため、今川より松平元康が派遣されて、上野城主酒井忠尚とともにこれを火攻めにする。周囲の挙母城や、三宅高清の広瀬城なども攻撃した。これが松平元康(徳川家康)の初陣と言われている。今川義元はこの戦功に「山中三百貫」を松平家に戻したという。また今川家はこの戦いで初めて鉄砲を使用したともいう。
    3月18日(弘治4年 2月28日)正親町天皇即位に合わせて改元が実施され「永禄元年」となる。しかし本来改元の協議を行う将軍足利義輝には相談されず、京の支配者三好長慶との間で決定したため、義輝は反発。各地でも永禄の年号はすぐには浸透しなかった。
    7月 4日(永禄元年 6月 9日)北白川の戦い。京の三好政権に対し、将軍足利義輝と細川晴元が、六角義賢の支援を受けて、京方面へ侵攻。東山の将軍山城と如意ヶ嶽で攻防した後、この日、北白川で衝突する。しかし戦闘の膠着と、六角氏の消極な姿勢を受け、両者は協議し、6日に足利義輝と三好長慶は和睦。義輝が京に戻り、反発した細川晴元は離脱することになる。将軍が復権したこともあり、永禄の改元は全国に通達される。
    11月17日イングランドで、エリザベス1世が即位。主に信仰上の理由で敵対した異母姉の女王メアリー1世が病死したことを受けて。テューダー朝最後の王。
    1559年
    1月15日エリザベス1世がウエストミンスター寺院で戴冠。
    10月(永禄2年 9月)降路坂の戦い。石見銀山攻略のため山吹城を攻めていた毛利元就が、門司城を大友義鎮に攻められたことから退却を開始したところ、降路坂で追撃に遭い大敗を喫する。
    1560年
    3月ムガル帝国摂政のバイラム・ハーンが皇帝側の起こしたクーデターで失脚。バイラムは一旦皇帝の勧告を了承し、引退してメッカ巡礼に向かうも、追討の兵が来たため反乱を起こす。のちバイラムは降伏し、皇帝アクバルもこれを許す。
    6月12日(永禄3年 5月19日)桶狭間の戦い。織田信長が2000ほどの兵で10倍する今川軍を奇襲し、今川義元は戦死。
    9月16日(永禄3年 8月26日)長尾景虎(上杉謙信)が安房里見義堯の救援要請を受けて、北条氏討伐のため出陣。北関東の諸勢力も長尾側に参陣。北条氏は各拠点で籠城戦を強いられる。武田信玄と今川氏真は北条方に付くことを決める。
    1561年
    1月31日ムガル帝国の元摂政バイラム・ハーンがメッカ巡礼に向かう直前に暗殺される。個人的な怨恨だったとされる。皇帝アクバルはこれを悼み、妻子を引き取る。
    3月(永禄4年 3月)長尾軍とその同盟軍が、小田原城を包囲。
    4月30日(永禄4年閏3月16日)長尾景虎、小田原包囲戦のさなかに、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領職を相続。就任式を行う。名を上杉政虎と改める。
    5月28日(永禄4年 4月15日)善明堤の戦い。松平元康が深溝松平好景とともに吉良義昭の東条城を攻めたが、吉良義昭の作戦にはまり、松平好景らが戦死する。
    5月(永禄4年 4月)北条方についた武田信玄が北信濃へ出兵。また、北関東の諸将が長期遠征に不満を唱えて離反し始めたため、上杉政虎は小田原城包囲を解き、越後へ向けて退却を開始。
    10月17日(永禄4年 9月 9日)第四次川中島の戦い。武田軍の高坂昌信ら別働隊が妻女山の上杉軍を背後から衝くために移動。しかし上杉軍は察知し、夜半、密かに山を降り、武田軍本隊の前へ展開。
    10月18日(永禄4年 9月10日)第四次川中島の戦い。上杉・武田両軍の本隊が直接衝突。武田軍は武田信繁、山本勘助、諸角虎定らが討ち死にする大敗を喫する。しかし高坂昌信の武田別働隊が駆けつけ、上杉軍を挟み撃ちにしたため、上杉軍も大きな被害を出す。両者撤退。
    10月21日(永禄4年 9月13日)藤波畷の戦い。松平元康家臣の本多広孝・松井忠次らが、吉良義昭の東条城攻略を目指し、藤波畷で吉良家の将富永忠元と交戦、これを討ち取る。富永の戦死で吉良側は戦意喪失し東条城を明け渡し降伏。
    1562年
    7月12日スペイン出身のユカタン司教ディエゴ・デ・ランダが、マヤの絵文書を布教の障害になるとして焚書を命じ、マヤの貴重な書物のほとんどが失われる。
    1563年
    2月(永禄6年 1月)この頃、西三河で三河一向一揆が勃発。本願寺派の三河本證寺に侵入した無法者を松平家臣の西尾城主酒井正親が捕縛したことから、守護使不入を侵害したとして起きたとする説、松平氏家臣の菅沼定顕が上宮寺の兵糧を強奪したため起きたとする説などがある。一向宗、守護の吉良家、今川残党に加え、松平家臣団からも同調者が多数出たため、松平家康にとって危機的な状況となった。
    4月25日(永禄6年 4月 3日)湯所口の戦い。因幡守護山名豊数が、毛利氏に通じて離反した鳥取城主の武田高信を攻めるも、城内に討ち入った中村豊重が戦死したことで大敗。因幡国において山名勢が衰退するきっかけとなる。
    8月31日(永禄6年 8月13日)白鹿城攻防戦が始まる。毛利氏による月山富田城攻略の前哨戦。
    1564年
    2月19日(永禄7年 1月 7日)第二次国府台の戦い。江戸城守将の太田康資が北条氏から離反したことをきっかけに進出した里見義弘と北条氏康の戦い。里見側が大敗し退却。上総は北条氏の勢力圏となる。この前年の正月に起こった両軍の戦闘と混同していると考えられている。
    2月27日(永禄7年 1月15日)小豆坂・馬頭原合戦。三河一向一揆勢と松平家康が戦い家康が勝利する。家康に味方した水野信元が仲介し、また家康が一揆方に付いた家臣を赦免することで一揆は解体へと向かう。一揆側に付いていた本多正信は追放された。
    1565年
    5月16日(永禄8年 4月17日)第二次月山富田城の戦いが始まる。
    6月17日(永禄8年 5月19日)永禄の変。松永久通と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が、二条城に軍勢1万を送り、13代将軍足利義輝を襲撃。義輝側も激しく応戦したが、義輝を含め昼ころにほぼ全員が討ち死に・自害した。三好・松永側の動機は、将軍との対立、足利家の内紛への介入、訴訟取次から起きた偶発的な出来事など諸説ある。なお、この時大和にいた松永久秀が事件に関わっていたかははっきりしない。
    8月23日(永禄8年 7月28日)松永久秀の監視下に置かれていた覚慶(足利義輝の実弟で興福寺一乗院門跡。後の足利義昭)が一色藤長・細川藤孝らの手で助け出される。
    1566年
    1月12日(永禄8年12月21日)松永久秀と対立した三好三人衆の軍勢が大和に侵攻。筒井氏らと連携し松永久秀の居城多門山城を攻撃する。しかし攻略に至らず。
    1月22日(永禄9年 1月 1日)第二次月山富田城の籠城戦の最中、城の補給を担っていた宇山久兼が、大塚与三衛門の讒言を信じた尼子義久に殺害される。尼子勢内部で動揺が走り滅亡の要因の一つとなった。大塚与三衛門もこの後、大西高由に殺害された。
    2月24日(永禄9年 2月 5日)備中の戦国大名である備中松山城城主の三村家親が、美作興善寺で遠藤秀清・俊通の兄弟により火縄銃で撃たれて死亡。美作方面で対立する備前の戦国大名宇喜多直家が示唆した暗殺事件。三村家は次男の元親が跡を継ぐも、美作方面からの撤退を余儀なくされる。
    12月 7日(永禄9年10月26日)三ツ山城の戦い。日向の戦国大名伊東義祐が米良重方に命じて築城中の三ツ山城を、島津義久・義弘・歳久が2万の兵で攻撃。籠城戦となるが、米良重方・矩重兄弟の防戦により島津側は大敗し撤退する。島津義弘はこの戦いで重傷を負った。
    1567年
    1月 1日(永禄9年11月21日)尼子義久が毛利側に降伏し、第二次月山富田城の戦いが終結。
    1月23日(嘉靖45年12月14日)明の嘉靖帝が死去。死因は「丹薬」(水銀や鉛などで作る「不老長寿」の薬と考えられていた)の服用による薬物中毒。即位直後は正徳帝時代の悪政を改めたが、「大礼の議」の尊号問題で、皇帝ではない実父の興献王を「皇考」と定めるかどうかで臣下と長期にわたり対立することになり、反対した臣下を処刑・投獄。加えて道教に凝っていたことから道士を重用し朝政を混乱に陥らせた。また壬寅宮変を招くなど、暗愚な皇帝の一人とされている。
    2月 4日(嘉靖45年12月26日)嘉靖帝の三男の朱載坖が即位(隆慶帝)。
    2月 8日(永禄9年12月29日)松平家康が個人として勅許を得て名字を徳川に改める(このときは源氏ではなく藤原姓)。その後、秀忠も徳川を認められるが、それ以外の松平家は含まれず。
    8月(永禄10年7月)明善寺城の戦い。父親を暗殺された三村元親が、暗殺の黒幕である宇喜多直家を攻めるため、明善寺城を攻略。宇喜多直家も明善寺城周辺の豪族を調略。三村元親は、石川久智、植木秀長、庄元祐ら総勢2万で侵攻するが、直家は先手を打って明善寺城を攻略。続いて庄元祐、石川久智の軍勢を破ったため、三村元親は自らの軍で宇喜多直家を攻撃するも失敗。撤退した。この結果、三村氏は弱体化し、宇喜多氏が勢力を伸ばすことになる。
    9月16日(永禄10年8月14日)甘水・長谷山の戦い。毛利勢の支援を受け古処山城に入った秋月種実に対し、大友宗麟は兵2万で侵攻。続けて邑城、休松城を攻略。
    9月25日(永禄10年8月23日)三船山合戦。上総まで進出した北条氏政が、里見氏の拠点であった上総南部の佐貫城を攻略するため、三船台砦に入ったところ、里見義弘がこれを迎え撃ち、北条側が敗れ相模まで撤退した。これにより再び上総方面は里見勢力圏に入ることとなった。
    10月 5日(永禄10年9月 3日)休松の戦い。古処山城攻略中に毛利勢の動きを警戒した大友軍が撤退を始めたところを秋月種実が急襲。一旦は撃退されるも、翌4日も再度夜襲をかけ、大友勢に大きな損害を出す。
    11月10日(永禄10年10月10日)東大寺の戦い。松永久秀と三好三人衆が、東大寺の境内で戦い、おそらく失火から大仏殿などが焼失。大仏も溶け落ちてしまう。
    1568年
    11月 7日(永禄11年10月18日)足利義昭が従四位下に昇叙し、征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府15代将軍となる。
    12月24日(永禄11年12月 6日)武田信玄が駿河侵攻を開始し、甲府を出発。
    12月30日(永禄11年12月12日)薩埵峠の戦い。駿河侵攻を開始した武田勢に対し、今川氏真が迎撃の大軍を出すも、武田方の調略によって今川方の武将ら21名が内通し、氏真は駿府へ退却。これにより今川軍は総崩れとなり、武田軍は一気に駿府へ攻め込む。氏真、駿府籠城を諦め、朝比奈泰朝の居城、掛川城へ落ち延びる。この時、氏真正室の早川殿(北条氏康息女)が徒歩で落ち延びたことを知った北条氏康が激怒し、武田と手切れを決めたと言われる。
    12月31日(永禄11年12月13日)武田軍が駿河を占領。一方、徳川家康も遠江へ侵攻を開始。
    1569年
    1月14日(永禄11年12月27日)徳川家康、遠江の各国衆を取り込み、各地を攻略。掛川城を包囲する。
    1月21日(永禄12年 1月 5日)本圀寺の変。織田信長の畿内進出に反発する三好三人衆、斎藤龍興、小笠原信定らが、足利義昭の宿所である本國寺(現本圀寺)を襲撃した事件。明智光秀らが指揮する若狭衆が防衛に当たる。
    1月22日(永禄12年 1月 6日)本圀寺の変で、細川藤孝、三好義継らのほか、摂津衆らが織田方の援軍として京に入り、三好方は退却。桂川での戦いで三好側は敗北し小笠原信定が戦死。織田信長は連絡を受けて急遽岐阜を発ち、8日に本國寺に入る。本國寺に変わる京の拠点として二条城の建設構想が立てられたとされる。
    1月27日(永禄12年 1月11日)上杉謙信が、今川・北条から塩を止められた武田領へ塩を送る
    2月 3日(永禄12年 1月18日)北条氏康、今川家支援のため、氏政に4万5千の兵で駿河へ出陣。対する武田信玄は迎撃に向かう。両軍薩埵峠で対陣。武田信玄は常陸佐竹義重らを動かして北条を攻めさせ、北条氏康も越後上杉謙信と組んで信濃侵攻を画策。
    6月 1日(永禄12年 5月17日)今川氏真が掛川城を開城し、徳川家康に降伏。武田勢が遠江に侵攻したため、家康が武田との関係を切り、北条の仲介で今川家存続に方針転換したことを受けたため。しかしこれ以降、氏真は徳川の庇護下に置かれ、駿河国主に復帰することはなく、大名としての今川家は滅亡。
    7月 1日元来関係の深かったポーランド王国とリトアニア大公国による同君連合が成立。ポーランド・リトアニア共和国となる(王国だがまもなく貴族と法による支配体制へ移行し、王権の法的規制が強くなったことから、一般に共和国と呼ばれる)。実質、ポーランドによるリトアニア大公国の支配。6月28日に貴族らの合意が成立し、7月4日にルブリンで調印したため、ルブリン合同と呼ばれる。現在のポーランド、バルト三国の他、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの一部を含む大国。
    7月(永禄12年 7月)八流の戦い。土佐中央部を支配する長宗我部元親が、土佐東部に勢力を持つ安芸国虎と、土佐西部に勢力を持つ一条兼定とが同盟し、和睦を拒否したことなどから、安芸国虎に対して兵を動かす。安芸国虎も迎え撃つも、家臣の内応などで敗北。安芸城に撤退し籠城する。
    9月21日(永禄12年 8月11日)籠城していた安芸国虎が、家臣と領民の命を救う代わりに自刃。長宗我部元親が土佐東部を併合。
    11月13日(永禄12年10月 5日)武田信玄が小田原城の包囲を解き、退却を開始。北条方はこれを追撃する作戦を取り、北条氏照と北条氏邦の兵2万が三増峠に向かう。
    11月14日(永禄12年10月 6日)三増峠付近で武田・北条両軍が対峙。
    11月16日(永禄12年10月 8日)三増峠の戦い。武田・北条両軍が衝突し、前半は北条方が、後半は武田方が有利に進める。武田軍の箕輪城代浅利信種らが戦死。両軍とも自軍の勝利としている。戦に間に合わなかった北条氏政は進軍を停止し引き上げる。
    1570年
    3月30日(元亀元年 2月14日)布部山の戦い。尼子氏再興を図る尼子勝久・山中幸盛らの軍勢に対し、毛利輝元らの率いる軍勢が到着。布部山で激突し、尼子再興軍が敗れる。
    5月24日(元亀元年 4月20日)織田・徳川連合軍は、公家や畿内諸侯とともに、朝倉勢を攻めるために京を出発する。
    5月30日(元亀元年 4月26日)金ヶ崎の戦い。織田・徳川連合軍が、朝倉勢との戦いのさなか、浅井長政が朝倉方について出撃し、織田信長は躊躇せず京へ向けて撤退。朽木氏の協力と、羽柴秀吉ら殿軍の尽力で京にたどり着く。
    9月25日(元亀元年 8月26日)三好三人衆と織田信長の戦闘(野田城・福島城の戦い)が始まる。
    10月11日(元亀元年 9月12日)本願寺顕如の命により、門徒衆らが摂津福島で三好三人衆と対陣していた織田勢の陣を攻撃。石山合戦が始まる。
    11月 1日オールセインツの大洪水。オランダからドイツにかけての沿岸で大規模な高潮災害が発生。2万人が死亡したとされる。
    12月(元亀元年12月)上杉輝虎、不識庵謙信と称する。
    1571年
    9月30日(元亀2年 9月12日)織田信長による延暦寺焼き討ち。織田の敵対勢力に味方し、兵を擁し、女性を囲うなどの行為が要因となって、明智光秀らが主体となって攻撃。記録では堂宇500余りが焼失し、僧侶男女ら約1500~4000人が殺害されたという。なお被害の内容は主に焼き討ちに批判的な側からの記録による。後の発掘調査で山上の諸施設に焼け跡の痕跡が少ないことから、山下の近江坂本が主な攻撃対象だったという説もある。公家や諸大名の間で焼き討ちを非難する意見がある一方で、同時代から比叡山の堕落を批判する意見もあった。
    10月21日(元亀2年10月 3日)北条氏康死去。
    12月 6日(元亀2年11月20日)大隅の肝付氏・禰寝氏と日向の伊東氏が連合して島津氏の領する桜島を攻める。
    この年、イドリス・アローマが、カネム・ボルヌ帝国の皇帝に即位。火縄銃を導入して武力を高め、帝国建国の地カネム地方を奪還し、チャド湖周辺を制圧。さらに各地へ領土を拡張し、北西のアガデス・ビルマ地方や、北のフェザーン地方などを併合した。オスマンとサハラ交易を行い、カネム・ボルヌ帝国最盛期を生み出す。
    1572年
    6月14日(元亀3年 5月 4日)木崎原の戦い。日向伊東氏が大敗し、島津家九州制覇の端緒となる。
    7月 5日(隆慶6年 5月26日)明の隆慶帝が死去。先帝に取り入っていた道士を一掃して賢臣を登用し、対外政策を緩和するなど、比較的まともな政策を行ったが、自身は酒色に耽り、そのため36歳の若さで死去した。
    7月19日(隆慶6年 6月10日)隆慶帝の3男朱翊鈞が即位(万暦帝)。
    8月17日フランスでカトリックとプロテスタント「ユグノー」の対立を解消する名目で、ユグノーの指導者で王位継承権もあるナバラ王アンリと国王の妹マルグリットの結婚式が行われ、ユグノー派貴族も集まる。
    8月22日フランスでユグノーの指導者の一人、コリニー提督が狙撃され負傷。ユグノー派貴族らの反発が高まる。
    8月24日フランスでカトリック教徒の貴族ギーズ公アンリによるユグノー派貴族の虐殺事件が起こり、全土へと拡大する。サン・バルテルミの虐殺
    9月24日地方政権である「ビルカバンバのインカ帝国」最後の皇帝トゥパク・アマルがスペイン人によって処刑される。インカ帝国は完全に滅亡。この後も、権力への反乱の名前に「トゥパク・アマル」が使われている。
    11月 6日ヴォルフガング・シューラーが超新星SN1572を観測。カシオペア座の12,000光年ほどの距離にある。
    11月11日ティコ・ブラーエが超新星SN1572を消滅するまで詳細に観測し、「新星」と名付ける。これによりティコの星と呼ばれる。ティコ・ブラーエはこの功績によって天文学者としての道を開くことになった。白色矮星に連星から降着した物質によって質量が増大し、その重力収縮の結果引き起こされたIa型超新星爆発と考えられている。
    11月18日(元亀3年10月13日)一言坂の戦い。三河に侵攻した武田信玄に対し、徳川家康が派遣した偵察部隊の本多忠勝・内藤信成ら3000と、山県昌景・馬場信春らの率いる5000の兵との遭遇戦から拡大した合戦。徳川方が敗北し退却。二俣城の戦いへとつながる。
    11月21日(元亀3年10月16日)武田信玄は遠江の要衝二俣城の攻略に入る。城主の中根正照は降伏を拒否して籠城。
    1573年
    1月22日(元亀3年12月19日)武田軍は二俣城の天竜川の水を汲み上げる井戸櫓を破壊し、水の補給が絶たれた二俣城は開城。しかし武田軍は徳川家康のいる浜松城を無視するように三河方面へと進軍。
    1月25日(元亀3年12月22日)三方ヶ原の戦い。三河に侵攻した武田信玄に徳川家康が決戦を挑んで大敗した合戦。
    3月19日(元亀4年 2月16日)武田軍が東三河の野田城を攻め落とす。
    5月(元亀4年 4月)武田信玄の病状が悪化し、重臣らの協議で武田軍は本拠へ引き返し始める。
    5月13日(元亀4年 4月12日)武田信玄、病死。
    8月25日(元亀4年 7月26日)室町幕府の将軍、足利義昭が、彼を必要としなくなった信長によって京を追放される。征夷大将軍の地位を失ったわけではないが、事実上の室町幕府滅亡
    9月 4日(元亀4年 8月 8日)織田信長が北近江に侵攻。
    9月10日(元亀4年 8月14日)刀根坂の戦い。織田信長が朝倉氏を急襲。朝倉勢は大敗し敗走、一乗谷の攻防戦に続く。この戦いで信長と敵対し続けた斎藤龍興も戦死。26歳。
    9月14日(元亀4年 8月18日)織田信長の軍勢が、朝倉氏の拠点一乗谷に侵攻。一乗谷は焼け落ち、朝倉義景は一門の朝倉景鏡の勧めで大野郡へ落ち延びる。
    9月16日(元亀4年 8月20日)朝倉義景が避難していた六坊賢松寺で、朝倉景鏡に攻められ自害。越前朝倉氏は事実上の滅亡。
    9月26日(元亀4年 9月 1日)織田信長が越前侵攻に続けて北近江を攻略。小谷城が落城し、浅井長政、弟の浅井政元、重臣の赤尾清綱らが自刃。北近江浅井氏も滅亡する。
    1574年
    7月11日(天正2年 6月23日)浅井・朝倉勢を滅ぼした織田信長は、伊勢長島一向一揆の討伐戦に、水軍も含む過去最大の軍勢を投入し、攻撃を開始。
    10月13日(天正2年 9月29日)最後まで残っていた伊勢長島城(長島願証寺)の下間頼旦らが飢餓状態の門徒を救うため、織田方に降伏を申し出るが、織田信長は城から出てきた下間頼旦、願証寺顕忍ら指導者層を射殺。これに反発した門徒らが捨て身の出撃をして乱戦となり、信長の弟織田秀成、叔父の織田信次、従兄弟の織田信成、一門の織田信直、義弟の佐治信方らが戦死。信長は激怒し、残っていた輪中を包囲の上で放火、門徒2万人が焼死したと言われる。約4年続いた長島一向一揆は終結。
    11月(天正2年11月)毛利氏が宇喜多直家と同盟を組んだことに反発し、三村元親が離反し織田信長に付く。毛利勢は備中へ侵攻して三村氏領内の諸城の攻略を開始する(備中兵乱)。毛利・宇喜多同盟については、吉川元春が信義にもとるとして反対したが、推進派の小早川隆景の主張が通った。元春は三村氏攻略にも反対している。一方三村元親の叔父である三村親成は毛利からの離反に反対し、毛利側へ出奔している。
    1575年
    6月29日(天正3年 5月21日)織田・徳川連合軍と武田軍が長篠設楽原で戦い、鉄砲を多用するなどして織田・徳川連合軍が勝利。武田氏は重臣らが多数戦死し衰退していく。
    6月30日(天正3年 5月22日)戦国大名三村氏の本拠である備中松山城が毛利勢によって陥落。
    7月 9日(天正3年 6月 2日)三村元親が自害し、大名としての三村氏直系は滅亡。
    7月13日(天正3年 6月 6日)三村氏の最後の拠点だった備中常山城も毛利方の攻勢で陥落。城主上野隆徳は自害。妻の鶴姫も乃美宗勝に一騎討ちを挑むが拒否されたため、城に戻って自害した。
    7月(天正3年 7月)四万十川の戦い。長宗我部氏の圧力で一旦豊後に逃れていた一条兼定が旧領回復を企図して挙兵し3500の兵を集める。それに対し長宗我部元親は7500の兵を派遣。両軍は四万十川(渡川)で衝突。一領具足制で多数の兵を短期間で集められた長宗我部氏側が勝利し、一条兼定は再び落ち延びることとなる。長宗我部氏が土佐を統一。
    1576年
    8月 7日(天正4年 7月13日)第一次木津川口の戦い。石山本願寺を包囲している織田軍に対し、本願寺の求めに応じた毛利氏が兵糧などを運び込むため、毛利水軍、小早川水軍、村上水軍、宇喜多氏などの兵力を動員。対する織田方も九鬼水軍を出したが、毛利軍の使用する焙烙玉によって、織田方は大敗。
    9月21日イタリアの数学者・哲学者・医学者のジェロラモ・カルダーノが自殺。虚数や確率論に業績を残し、腸チフスを発見し、カルダンジョイントを発明するなど、多大な功績を残した人物だが、占星術にも凝っていて、自分の死没日時を占ったことにより、その予言当日に自殺した。
    11月 4日(天正4年10月14日)羽柴秀吉の子ではないかとされる石松丸(羽柴秀勝)が死去した日。秀吉の実子説と養子説、秀吉と無関係説がある。実子の場合でも母親が誰かははっきりしない。
    12月15日(天正4年11月25日)三瀬の変。織田信長が、前の伊勢国司北畠氏を完全に滅ぼすため、伊勢の三瀬御所に滝川雄利、柘植保重、加留左京進を派遣。北畠具教らを襲撃して殺害。北畠氏の養子となっていた織田信意(信雄)も、田丸城で長野具藤、北畠親成、坂内具義、大河内具良らを殺害。
    12月23日(天正4年12月 4日)三瀬の変で北畠一族が討ち取られたことを知った家臣らが、北畠政成の霧山城に立てこもるも、織田信長が派遣した羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信らの兵15000人によって陥落。北畠政成らは自害。
    1577年
    2月19日(天正5年 2月 2日)織田信長が、石山本願寺に加勢する紀伊雑賀勢力の攻略を開始する。
    7月(天正5年 7月)北条・里見両者の間で房相一和(「相房御和睦」)がなされる。安房上総の両者の勢力圏を確定することと北条の姫(龍寿院)が里見氏へ嫁ぐことで和睦が成立した。
    11月 3日(天正5年 9月23日)手取川の戦い。能登攻略に出た上杉謙信と、七尾城の救援に赴いた織田軍が衝突。上杉軍の攻撃に対し、手取川に退却路を阻まれた織田軍は大敗を喫する。
    11月19日(天正5年10月10日)信貴山城の戦い。織田信長に反旗を翻した松永久秀が、信貴山城に籠り、筒井順慶らを先陣に織田軍が攻撃を行う。久秀は落城の際に平蜘蛛の茶釜に火薬を詰めて自爆したとも言われる。
    1578年
    1月14日(天正5年12月 7日)島津軍が高原から日向の伊東領へと侵攻を開始。伊東義祐の重臣福永祐友と野村文綱が島津方に寝返る。
    1月17日(天正5年12月10日)島津軍が日向南部を攻略して伊東氏の拠点佐土原へ接近したため、伊東義祐は領地を放棄。縁戚関係の大友宗麟を頼り、一旦は沿岸部を北上したが、財部城主落合兼朝が反旗を翻したため、やむなく米良山中を通って豊後へと落ち延びる。飫肥の伊東祐兵(後の飫肥藩初代藩主)も脱出。伊東家臣団の崩壊は、伊東一族の伊東祐松の横暴が反感を買った事が要因の一つ。
    2月 8日(天正6年 1月 2日)日向懸領主の土持親成が島津方へ寝返る。土持氏は伊東氏が関東から下向する以前の平安時代から南北朝期頃まで日向各地に勢力を持っていた一族。元々は豊後とつながりが強かった。土持氏離反の動きを、高千穂領主三田井親武が大友側に通報。
    3月29日(天正6年 2月21日)伊東義祐が島津方に敗れて落ち延びてきたことから、大友宗麟・大友義統は、伊東氏復帰を名目に日向へ侵攻。大友家臣団には反対意見もあったと言われる。
    4月15日(天正6年 3月 9日)上杉謙信が春日山城内の厠で倒れ、意識不明となる。
    4月19日(天正6年 3月13日)上杉謙信が春日山城内で死去。15日ころを予定していた遠征の出陣は取りやめとなる。
    5月16日(天正6年 4月10日)日向へ侵攻した大友勢が、島津方へ寝返った懸領主土持親成の松尾城を攻め落とす。土持親成は捕らえられ殺害される。大友宗麟は縣領の寺社をことごとく破却したという。
    6月12日(天正6年 5月 7日)武田四天王の一人で甲越同盟を推進した春日虎綱(高坂昌信)が死去。
    8月 4日アルカセル・キビールの戦い(マハザン川の戦い)。ポルトガル王セバスティアン1世が、モロッコのサアド朝の内紛に乗じてに侵攻するも、この戦いで大敗を喫し、セバスティアンも消息を絶つ(戦死したものと思われる)。ポルトガル軍と戦ったサアド朝のアブー・マルワーン・アブドゥルマリク王も戦死し、アブドゥルマリクによって追放されセバスティアンに支援を求めた前王ムーレイ・ムハンマドも戦死したため、「三王の戦い」ともいう。ポルトガルはこの戦争で王を失い、多数の貴族の子弟が捕虜となり、その身代金の支払と軍事費で財政が破綻したため、スペインに併合されることになる(セバスティアンは死んではおらず、いつか帰還して祖国を救うという伝説が広まった)。一方サアド朝は、戦死したアブドゥルマリクの跡を継いだ弟のアフマド・アル=マンスール・アル=ザハビーのもとで繁栄する。
    11月13日(天正6年10月 4日)月岡野の戦い。越中月岡野で織田方の武将斎藤利治と、上杉方の武将河田長親、椎名小四郎が今泉城を巡って戦い、織田方が勝利する。飛騨の姉小路頼綱も織田方で出兵している。越中は織田方が優勢となる。
    11月24日(天正6年10月25日)伊賀国進出を狙う織田信雄が、滝川雄利に命じて伊賀丸山城の改修に動き出したことから、伊賀国衆がこれを襲撃。第一次天正伊賀の乱の始まり。
    12月 7日(天正6年11月 9日)耳川の戦い。日向高城川原で、大友勢と島津勢が戦い、島津軍が勝利。敗北した大友勢は耳川まで撤退したが大きな損害を出し、大友家臣団が崩壊していくきっかけとなった。
    12月 4日(天正6年11月 6日)第二次木津川口の戦い。織田信長は九鬼嘉隆に建造させた6隻の鉄甲船を回航させて大坂湾に配備。侵攻してきた毛利水軍に対し砲撃戦を行い、毛利方は退却。織田方が勝利する。
    12月 8日(天正6年11月10日)織田信長に反旗を翻した荒木村重の居城有岡城の包囲戦が始まる。
    1579年
    8月24日(天正7年 8月 3日)徳川家康が岡崎城に入り、長男の松平信康を岡崎城から大浜城へ移す。その後信康は、さらに堀江城、二俣城と移される。
    8月30日(天正7年 8月 9日)明智光秀が丹波黒井城を攻撃し攻め落とす。丹波平定戦はほぼ終結。
    9月19日(天正7年 8月29日)徳川家康の正室、築山殿が殺害される。武田方に内通したという説も有力だが、息子信康の自刃に至った問題に連座した可能性が高く、密通などの築山殿の不行状は後世記されたものが多い。
    10月 5日(天正7年 9月15日)徳川家康の長男、松平信康が切腹。従来は乱暴狼藉を正室の五徳姫を経由して知った織田信長の命令で殺されたというのが通説だったが、近年は家康と信康の対立に家臣団を巻き込んだ内部紛争という見方が有力になっている。なお信康に粗暴な面があったのは事実と見られる。
    10月 6日(天正7年 9月16日)織田信雄が独断で兵力8000を率い、伊賀国に侵攻。しかし伊賀十二人衆らの反撃で大敗。柘植保重らが戦死する。織田信長はこれを知って激怒し、信雄を叱責。第一次天正伊賀の乱。
    11月 7日(天正7年10月19日)有岡城が陥落。
    1580年
    2月 2日(天正8年 1月17日)秀吉が別所氏の播磨三木城を兵糧攻めにした三木合戦「三木の干殺し」が終結。
    4月20日(天正8年閏3月 7日)正親町天皇の勅命で立入宗継が織田信長と石山本願寺の調停を行い、石山合戦が終結。
    5月22日(天正8年 4月 9日)顕如が石山本願寺から鷺森別院に退去。
    9月10日(天正8年 8月 2日)織田信長が石山本願寺を接収。直後に火災が起き、寺域の堂舎・寺内町が二日一夜に渡り燃え続け灰燼に帰す。失火説のほか、講和反対派による放火との説もある。
    1581年
    3月27日(天正9年 2月23日)織田信長とアフリカ・モザンビーク付近の出身とされる黒人「弥助」が面会。信長に気に入られ家臣となる。
    4月 1日(天正9年 2月28日)織田信長が京都御馬揃えを行う。正親町天皇の御前で、信長の他、信長の武将、織田一門、公家衆、信長側近、柴田与力などが参列。
    9月14日(天正9年 8月17日)織田信長、各地で捕らえた多数の高野聖を安土で処刑。荒木村重配下の者が高野山に逃げ込み、高野山が引き渡しに応じなかったことへの対抗措置と言われる。
    9月30日(天正9年 9月 3日)織田信長、織田信雄を総大将に兵力5万で伊賀に侵攻。第二次天正伊賀の乱。日付は諸説あり。伊賀国衆は比自山と平楽寺の2箇所を拠点に抵抗。
    10月 8日(天正9年 9月11日)織田軍勢、伊賀をほぼ制圧したとみられる。第一次と異なり、織田方の調略で伊賀国衆は分裂していた。
    10月29日(天正9年10月 2日)織田信長、高野山攻めを開始。同山を巡る攻防は本能寺の変を受けて織田軍が撤退するまで続いたと言われる。
    11月24日(天正9年10月28日)伊賀柏原城の滝野吉政が降伏。第二次天正伊賀の乱は終結。伊賀国の人口9万のうち、3万が死亡したと言われる。日付は諸説あり。
    12月 1日元イングランド国教会執事で信条からカトリック教会へ変わりイエズス会に所属した司祭エドマンド・キャンピオンが、カトリック普及のため亡命先のネーデルランドドゥエーからイングランドへ戻っていたところを逮捕され、信仰を捨てなかったことから、エリザベス1世殺害の企図容疑で首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑される。1970年に列聖。
    1582年
    2月 3日(天正10年 1月 1日)近江近隣の大名・小名、御連枝衆、それらの従者等による安土城参賀が行われる。百々橋から摠見寺へ続く道で、人の重みで石垣が崩れて多数の人が落ち死傷者が出たという。参賀者はまた、摠見寺毘沙門堂、天主白州、江雲寺殿、さらに本丸、御幸(みゆき)の間などを見学。織田信長自ら見物料を取ったという。
    2月20日(天正10年 1月28日)天正遣欧少年使節が長崎を出航する。
    2月23日(天正10年 2月 1日)武田信玄の娘婿で木曽の領主だった木曽義昌が、武田勝頼が進める新府城建設の賦役の負担に反発して織田方に寝返る。勝頼、人質としていた木曽義昌の母親と側室及びその子供を殺害。
    2月25日(天正10年 2月 3日)織田信長が、武田攻めを下知し、動員令を発する。森長可、団忠正ら先発軍が岐阜城を出発。
    3月 5日(天正10年 2月11日)浅間山が大噴火。織田軍の武田領侵攻と重なったため、武田側の敗北の要因の一つとも言われる。
    3月10日(天正10年 2月16日)織田の支援を受けた木曽義昌と、武田勝頼の派遣した軍勢が鳥居峠で戦闘し、武田側が敗北。
    3月12日(天正10年 2月18日)織田信忠軍の信濃侵攻を受けて保科正直は飯田城を、武田信廉は大島城を放棄。徳川家康は掛川城を発って、依田信蕃の田中城攻略を開始。
    2月15日(天正10年 2月21日)徳川軍が駿府城に入る。
    3月24日(天正10年 3月 1日)この前後に武田の御一門衆であった穴山梅雪が徳川方に寝返る。
    3月25日(天正10年 3月 2日)武田方の高遠城が陥落。仁科盛信、小山田昌成らは討ち死に。
    3月26日(天正10年 3月 3日)武田勝頼は新府城を放棄、小山田信茂の要害岩殿城へと向かう。なお、武田信勝は新府城での籠城を、真田昌幸は真田領の上野岩櫃城への退避を、長坂光堅が岩殿城への退避を主張したとも言われる。
    3月30日(天正10年 3月 7日)織田信忠が甲府に入り、武田残党狩りを始める。
    4月 1日(天正10年 3月 9日)この頃、小山田信茂が武田家を離反。武田勝頼一行は行き場を失い、天目山へと向かう。
    4月 3日(天正10年 3月11日)滝川一益の軍勢に追いつかれた武田勝頼らは、天目山の戦いで敗れ自刃。甲斐武田氏が滅亡する。
    4月 6日(天正10年 3月14日)武田方で最後まで残っていた駿河田中城の依田信蕃が開城。徳川家康に家臣に誘われるも、これを断り本拠地信濃へ戻る(のち徳川家臣となる)。
    4月16日(天正10年 3月24日)織田家に帰順を表明した小山田信茂が、人質に出す息子を連れて織田陣営に出頭したところ、織田信忠の命で、武田勝頼に対する不忠を理由に妻子ともども処刑される。
    6月21日(天正10年 6月 2日)本能寺の変。明智光秀が謀反し、京に織田信長を襲撃。織田信長、織田信忠親子は自刃。グレゴリオ暦では7月1日。
    6月23日(天正10年 6月 4日)羽柴秀吉の高松城水攻めで、城主清水宗治が自刃し開城となる。秀吉は本能寺の変の情報を得ていたが、切腹を見届けてから、畿内へ向かう。
    6月27日(天正10年 6月 8日)天正8年に織田家を追放されていた安藤守就が本能寺の変の混乱を機と見て西美濃で挙兵。北方城を攻めるも、北方城主の稲葉一鉄に敗北。一族ともに自刃し安藤氏は滅亡。ただ甥の山内可氏は母親が山内一豊の姉だったため、守就8男安東郷忠とともに山内家に仕えたことからその系統は残った。
    7月 1日(天正10年 6月12日)羽柴秀吉率いる諸将の軍勢と明智光秀の軍勢が摂津と山城の境にある山崎で対陣。
    7月 2日(天正10年 6月13日)羽柴秀吉軍の中川清秀隊と、明智光秀軍の伊勢貞興隊が衝突。山崎の合戦が始まる。一旦は明智勢が優勢に進めるが、池田恒興隊、加藤光泰隊らの襲撃で逆転し、明智軍は敗走する。明智光秀は敗走中に百姓の落ち武者狩りに襲われ殺害される(負傷後自刃したとも)。
    7月16日(天正10年 6月27日)清州会議。織田信長の後継を決める重臣会議。織田信孝を推す柴田勝家と、織田信忠の子、三法師を推す羽柴秀吉が対立。諸将の協議の結果、三法師を後継、織田信雄・信孝が後見し、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興が補佐することでまとまる。柴田勝家も三法師を後継とすることでは一致していた可能性が高い。またお市の方が柴田勝家に再嫁することは、勝家と秀吉の間で合意していたことが勝家の書簡でわかるため、秀吉が勝家に譲歩するため斡旋した可能性もある。領地の再配分も決定。
    10月15日カトリック教会がグレゴリオ暦を導入。イタリア半島諸国とスペイン、ポーランド・リトアニアが改暦を実施。ユリウス暦10月5日。
    12月26日(天正10年12月 2日)羽柴秀吉が、近江長浜の柴田勝豊を攻め降す。
    1583年
    1月13日(天正10年12月20日)羽柴秀吉が、岐阜城の織田信孝を攻め降す。
    1月24日(天正11年 1月 1日)滝川一益が、柴田勝家側に与して伊勢長島で挙兵。
    5月 3日(天正11年 3月12日)柴田勝家、佐久間盛政、前田利家ら兵力3万が近江柳ケ瀬に進出し、賤ヶ岳の戦いが始まる。
    5月10日(天正11年 3月19日)羽柴秀吉も、兵力5万で木ノ本へ進出。
    6月 6日(天正11年 4月16日)織田信孝が、柴田勝家、滝川一益に呼応して挙兵し、美濃へと侵攻を開始。羽柴秀吉はこれに対応するため、美濃へと軍を移動させる。
    6月 9日(天正11年 4月19日)柴田軍佐久間盛政による攻勢により羽柴勢の中川清秀が戦死。
    6月10日(天正11年 4月20日)羽柴秀吉が大垣より前線に引き返し、丹羽長秀も琵琶湖を横断して賤ヶ岳の佐久間盛政を攻撃。
    6月11日(天正11年 4月21日)前線から柴田勢の前田利家が撤退を開始し、その影響で柴田勢は混乱に陥る。羽柴軍が佐久間盛政を撃破したため、柴田勝家も退却。
    6月14日(天正11年 4月24日)羽柴軍の攻勢により、北ノ庄城が落城。柴田勝家、お市の方ら一族80余名は自害。お市の方の3人の娘は、主筋だから身柄を保証するよう求めるお市の手紙とともに秀吉に引き渡された。佐久間盛政は加賀へと逃走を図るが捕らえられる。
    6月19日(天正11年 4月29日)織田信孝が自害。
    7月 1日(天正11年 5月12日)佐久間盛政が秀吉の臣下への誘いを断り、自害も拒否して処刑される。
    7月(天正11年 5月)滝川一益が出家して秀吉に降伏する。
    シャイバニー朝ブハラ・ハン国王イスカンダルが死去し、実質上の最高権力者だった子のアブドゥッラーフ2世が10代目として即位。シャイバニー朝は最盛期を迎える。
    エディンバラ大学開学(国王の勅許は前年)。
    1584年
    4月16日(天正12年 3月 6日)織田信雄が、3人の家老(浅井長時・岡田重孝・津川義冬)を秀吉方に与しているとして処刑。小牧・長久手の戦いが始まる。
    4月27日(天正12年 3月17日)羽黒の戦い。小牧・長久手の戦いの一つ。
    5月 4日(天正12年 3月24日)沖田畷の戦い。島津方に付いた有馬晴信を討伐するため出陣した龍造寺隆信が川上忠堅に討ち取られ、龍造寺軍は大敗を喫する。百武賢兼、成松信勝、江里口信常、円城寺信胤、木下昌直らもことごとく討ち死に。出兵を諌めた鍋島信生(直茂)もあわや7騎まで撃ち減らされるも、かろうじて脱出に成功。
    5月18日(天正12年 4月 9日)長久手の戦い。羽柴秀吉勢と、織田信雄・徳川家康同盟軍が衝突。森長可、池田恒興、池田元助らが戦死する。
    6月 9日(天正12年 5月 1日)羽柴秀吉が、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に比叡山の再興を認める。
    8月10日(天正12年 7月 5日)天正遣欧少年使節がポルトガルの首都リスボンに到着。ローマを目指し各国を訪問していく。
    12月12日(天正12年11月11日)織田信雄が、羽柴秀吉の求めに応じて単独講和が成立する。徳川家康は名分を失い戦争は終結。近年、信雄が家康を説得する書簡なども発見されている。
    1585年
    3月 1日天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
    3月31日(天正13年 3月 1日)羽柴秀吉による紀州根来攻めのため、小早川隆景に毛利水軍の進発を命じる。
    4月 4日八十年戦争のさなか、スペインによるアントワープ包囲戦(現ベルギー。当時はオランダ最大の都市)で、スヘルト川に掛かる橋を要塞化したスペインに対し、オランダ側が爆薬を満載した4隻の火船「ヘルバーナー」を投入。うち1隻が橋までたどり着き、スペイン人が調べているさなかに大爆発を起こす。スペイン人800人が死亡。元フリースラント総督のカスパー・デ・ロブレスも巻き込まれ死亡。
    4月19日(天正13年 3月20日)羽柴秀次軍が和泉の紀州勢力攻めを開始。
    4月21日(天正13年 3月22日)千石堀城が羽柴軍の火攻めを受けて落城。畠中城の城兵は城に火を放って逃走。
    4月21日(天正13年 3月23日)貝塚御坊の卜半斎了珍の説得を受け、積善寺城が降伏。同日、沢城も降伏し、和泉から紀州・根来勢力は撤退。羽柴軍はそのまま根来寺攻略を開始。根来寺の伽藍の多くが炎上する。
    4月22日(天正13年 3月24日)粉河寺、雑賀勢の有力者土橋氏、日高郡の有力者湯河氏も攻められる。
    5月 9日(天正13年 4月10日)羽柴秀吉、高野山に降伏を勧告。
    5月15日(天正13年 4月16日)高野山が秀吉に降伏。
    8月 6日(天正13年 7月11日)羽柴秀吉が、近衛家の猶子となった上で関白に就任する。五摂家ではない上に公家でもない武家の秀吉が関白に就任するのは前代未聞の出来事。
    8月17日アントワープがスペイン軍に降伏。住民の多くがアムステルダムへ移住し、後にオランダ黄金時代と呼ばれる繁栄を築く。
    8月31日(天正13年 8月 7日)羽柴秀吉が越中の佐々成政討伐のため出陣。
    9月12日(天正13年 8月19日)羽柴軍が越中に侵攻。また同時期に金森長近をして飛騨にも侵攻し、佐々成政と同盟していた姉小路頼綱や内ヶ島氏理らを攻撃。
    9月19日(天正13年 8月26日)佐々成政が、織田信雄を介して羽柴秀吉に降伏。
    11月29日(天正13年10月 8日)粟之巣の変。二本松義継が伊達輝宗を拉致して逃走を図るが、輝宗の子である政宗は父親もろとも義継を殺害。
    モンゴルのカラコルム近郊ハルホリンに仏教寺院エルデネ・ゾーが建立される。仏塔が連なる独特の長い外壁をもった大規模寺院。建築物の多くは共産党によって破壊されているが外壁などは現存。
    1586年
    1月 2日(天正13年11月13日)徳川家康の重臣で徳川家の外交交渉を担当した石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔
    1月16日(天正13年11月27日)天正地震(前震)が発生。庄川断層のズレによるものか。
    1月18日(天正13年11月29日)天正大地震が発生。養老断層のズレによるものか。2つの大地震は、ともに近畿全域、東海・北陸地方で大きな揺れをもたらす。飛騨の帰雲城は帰雲山の山体崩壊の直撃を受け、城下町もろとも埋没。秀吉によってほぼ本領安堵が決まった城主の内ヶ島氏一族はその祝宴のために在城していて一族滅亡の憂き目にあった(篠脇城主東常慶の子常堯も在城して死亡)。越中木舟城も倒壊し、城主になったばかりの前田秀継らが死亡。近江長浜城も倒壊し、山内一豊の娘と、助けようとした家老の乾和信らも死亡。ほかに美濃大垣城、尾張蟹江城、伊勢長島城も倒壊。京市中も大きな被害を出す。琵琶湖と、若狭湾・伊勢湾、富山湾などで津波を観測。三陸でも津波があったとされるが、別の地震の可能性もある。飛騨焼岳が噴火したという記録もある。かなりの死者があった模様。他に余震、誘発地震が複数起きている。
    3月(天正14年 2月)聚楽第の建設が京の内野(かつての大内裏の跡地)で始まる。
    8月28日(天正14年 7月14日)島津軍が大友領へ侵攻し、岩屋城の戦いが始まる。島津忠長らの島津軍2万以上が、大友側岩屋城の高橋紹運を攻めるが、高橋紹運は763名で防戦に徹する。
    9月10日(天正14年 7月27日)岩屋城が陥落し、高橋紹運ら城兵は全滅。しかし半月もの籠城戦と兵の損害を受けて島津軍の侵攻は中断。
    10月(天正14年 8月)奥熊野で国侍や農民らが一揆を起こす。天正の北山一揆。太閤検地が原因ともいうが詳細は不明。
    11月 4日(天正14年 9月23日)羽柴秀長軍により北山一揆がほぼ鎮圧される。
    11月(天正14年10月)島津軍が再び大友領へと侵攻を開始する。日向から侵攻した島津家久軍は豊後大野郡の諸城を次々と攻略し北上する。一方、肥後路から豊後へ侵攻した島津義弘軍は、志賀親次の岡城と周辺の支城の攻略に失敗。
    12月 3日(天正14年10月23日)島津家久は栂牟礼城の佐伯惟定に降伏を勧告するが、惟定はこれを拒否。攻撃を開始した島津軍に対し、佐伯家の軍監となっていた山田匡得(日向伊東氏の家臣)が反撃を指揮して島津軍は大敗。これを受けて、先に島津方に降伏していた柴田紹安の家臣芦別大膳が佐伯勢に内応して星河城が陥落。柴田氏は滅ぼされる。岡城と栂牟礼城の攻略に失敗したことで、島津軍は戦略が狂うことになった。
    1587年
    1月 5日(天正14年11月26日)島津家久は、大友宗麟の籠城する丹生島城の手前にある鶴賀城の攻略に取り掛かるが、城将利光宗魚、成大寺豪永らの徹底抗戦によって12月に入っても落とすことができず。
    1月20日(天正14年12月12日)戸次川の戦い。鶴賀城攻略中の島津家久軍に対し、大友義統、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保の軍勢が攻勢をかける。しかし仙石秀久の強行論と、長宗我部元親らの慎重論が対立し、意見が一致しないまま出撃にいたり、島津側が勝利。長宗我部信親、十河存保らが戦死する。
    1月21日(天正14年12月13日)戸次川の勝利の勢いで、島津家久は豊後府内城を攻略。大友義統はすでに城を離れており、ほぼ抵抗なく占領した。一方、大友宗麟の籠もる海上の丹生島城には攻略に手間取り、宗麟がポルトガル人から手に入れたとされる複数の大砲「国崩し」(弾倉後装式のフランキ砲)による反撃もあり被害を出す。丹生島城の支城である鶴崎城は抗戦の末に降伏するが、このとき城代として指揮した妙林尼は、巧みに島津方をもてなして油断させ、豊臣軍の侵攻に便乗して奇襲をかけ大きな損害を与えたと言われる。
    1月27日(天正14年12月19日)羽柴秀吉が、太政大臣となる。この頃、氏を藤原から豊臣朝臣に変えたと考えられる(当時は氏姓と名字は別であり、羽柴秀吉が豊臣秀吉になったわけではなく、羽柴藤原朝臣秀吉が羽柴豊臣朝臣秀吉になったということ)。
    4月 8日(天正15年 3月 1日)九州征伐で秀吉が大坂を出陣。
    7月24日(天正15年 6月19日)九州に遠征していた豊臣秀吉が、筑前箱崎においてキリスト教の布教に関する禁制を発する。バテレン追放令。
    10月(天正15年 9月)聚楽第の大部分が完成する。
    11月 1日(天正15年10月 1日)豊臣秀吉が北野天満宮の森で、北野大茶会を催す。
    1588年
    2月 9日(天正16年 1月13日)形式的にも室町幕府が滅亡する。豊臣秀吉が島津氏を降服させるのに合わせるように足利義昭が将軍職を辞して出家。
    5月 9日(天正16年 4月14日)後陽成天皇が聚楽第に行幸。
    5月15日(天正16年 4月20日)黒田長政が、地元豊前の有力者だった城井鎮房を中津城に招いて謀殺。合元寺にいた城井家臣団もことごとく討ち取られる。また肥後国人一揆鎮圧のため出陣していた城井朝房も黒田孝高の手で殺害。鎮房の娘も磔に処せられ殺害された。黒田家は後々まで「城井家の呪い」に悩まされたという。なお懐妊していた朝房の妻龍子は子の宇都宮朝末を生んで父秋月種実のもとに逃れ、子孫は越前松平家に仕えた。鎮房の弟も薩摩に逃れたと言われる。
    5月スペインの無敵艦隊が、イングランド侵攻のために出発。
    7月31日スペインとイングランドによるプリマス沖海戦。いわゆるアルマダの海戦の始まり。イングランドではまだユリウス暦で7月21日。
    8月 2日スペインとイングランドによるポートランド沖海戦。
    8月 5日スペインとイングランドによるワイト島沖海戦。
    8月 7日スペインとイングランドによるカレー沖海戦、続けてグラヴリンヌ沖海戦となる。
    8月18日エリザベス女王が軍隊を鼓舞するためティルベリーで演説。
    8月29日(天正16年 7月 8日)豊臣秀吉の刀狩令が発令される。百姓らの所有する刀のみを対象にしたもので、完全な武装解除ではなく、身分制を定めるためとも言われている。
    8月アルマダの海戦で敗北したスペインの無敵艦隊が、補給のためアイルランドに向かうが、多くが座礁し、兵も殺される。
    9月22日スペイン無敵艦隊の残存艦が母国に帰還をはじめる。兵の過半を失う。
    サファヴィー朝5代目君主として、アッバース1世がクズルバシュの支援を受けて即位。しかしアッバース1世はクズルバシュの権力を削ぎ、宮廷奴隷や異民族から有能な人材を抜擢し、衰退していた同王朝を復興させる。
    1589年
    1月21日(天正16年12月 5日)豊臣秀長の家臣で紀伊湊の領主吉川平介が、紀伊産材木の売買代金を着服したとして大和西大寺で処刑される。この一件は秀長も秀吉の不興を買ったという。秀吉政権の確立で京や大坂では建築ラッシュとなり、材木の需要が高まっていた。
    1590年
    1月18日(天正17年12月13日)豊臣秀吉が、惣無事令の違反を咎めて、北条氏討伐の陣触れを発する。
    5月19日(天正18年 4月11日)茶人で豪商だった山上宗二が処刑される。利休の弟子と言われ、秀吉の茶匠でもあったがその言動が秀吉の怒りを買い、北条氏のもとにいた。小田原の戦いが始まり、交流のあった北条方武将の皆川広照が秀吉側に投降した際に同行。利休の仲介で秀吉の赦免を受けたが、茶席で北条側に義理を立てる言動をしたため、秀吉の怒りを買って処刑された。茶道の秘伝書「山上宗二記」の作者で、同書の自筆写本は皆川広照にも贈られている。
    7月 6日(天正18年 6月 5日)小田原遠征に関連して、忍城の攻防戦が始まる。
    8月 4日(天正18年 7月 5日)北条氏直が豊臣秀吉に降伏、小田原城開城
    8月16日(天正18年 7月17日)北条側で唯一陥落しなかった忍城が開城する。
    8月25日(天正18年 7月26日)豊臣秀吉が宇都宮に入り関東・東北各地の諸大名の配置を決定。宇都宮仕置、奥州仕置。徳川家康の関東移封、蒲生氏郷の会津移封、木村吉清の大崎移封、小田原に参陣した佐竹義重、岩城常隆・貞隆、津軽為信、戸沢盛安・光盛、南部信直ら各在地領主を本領安堵、遅れて小田原参陣した最上義光も本領安堵、相馬義胤も本領はほぼ安堵したが伊達氏との係争が惣無事令違反として一部領地替え、小田原参陣に遅れた伊達政宗は一揆扇動もあり減封、秋田実季は安藤通季との湊合戦が惣無事令違反で減封(ただし失った領地は太閤蔵入地となりその代官となる)、小野寺義道は仙北一揆を理由に減封、伊達氏に従属していた石川昭光・留守政景・田村宗顕・白河結城義親は小田原には参陣せず伊達政宗に仲介を頼むも認められず改易、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠、江刺重恒、黒川晴氏ら在地領主も小田原参陣せずに改易。ただ小田原参陣をしなかった領主でも参陣の予定が領内の事情でできなかったものや秀吉に反発してしなかったものなど事情は異なる。不満を持った領主らの反乱が相次ぐ一方、領地が確定して領主同士の係争関係が解消した地域もある。また早くから秀吉に接近し南部氏影響下から独立した津軽氏と南部氏との対立は江戸時代後期まで続く。
    8月30日(天正18年 8月 1日)徳川家康が江戸城に入る。いわゆる八朔の記念日。
    10月12日(天正18年 9月 4日)織田信長、豊臣秀吉が寵愛した絵師の狩野永徳が、東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れ死去。
    11月13日(天正18年10月16日)豊臣政権による奥州仕置で没落した在地領主等による反乱「葛西・大崎一揆」が起きる。改易された葛西晴信・大崎義隆の旧領13郡は木村吉清が入封したが、実際には旧主の影響が強く残っていたとも。木村吉清・清久親子は佐沼城に籠城。
    11月23日(天正18年10月26日)伊達政宗と蒲生氏郷が「葛西・大崎一揆」の鎮圧で協力することで合意。
    11月25日(天正18年10月28日)豊臣政権による奥州仕置で没落した在地領主等による反乱「和賀稗貫一揆」が起きる。和賀義忠、稗貫広忠らが主体となり、旧領の二子城を攻め落とし、同じく旧領の鳥谷ケ崎城に迫る。南部信直が応戦するも冬が到来したことで一旦三戸城へ引き上げ、鳥谷ケ崎城は一揆勢が入城。
    12月11日(天正18年11月15日)蒲生氏郷のもとに伊達政宗の家臣の須田伯耆・曾根四郎助が「葛西大崎一揆」は政宗の扇動で起きたと訴え出て、政宗が出したとする密書を提出。蒲生氏郷は単独で出兵し豊臣秀吉に事態を通報。伊達政宗も独断で出兵。
    12月20日(天正18年11月24日)蒲生氏郷が、佐沼城の一揆勢を打ち破って木村吉清・清久親子を救出。政宗に対し人質を要求し、政宗は伊達成実・国分盛重を送る。
    1591年
    1月13日(天正18年12月18日)改易された大崎義隆が石田三成を介して謝罪したことから、豊臣秀吉は大崎義隆の旧領のうち3分の1を還すことを認める朱印状を出す。ただこの約束は実行されず。
    2月 3日(天正19年 1月10日)葛西大崎一揆の調査のため、石田三成が現地に到着。
    3月21日トンディビの戦い。ソンガイ帝国の王イツハーク2世は、スペイン生まれでサアド朝のアフマド・アル=マンスールに仕える軍事指導者ジュデル・パシャに敗北し、翌年サアド朝の攻勢で滅亡する。
    3月28日(天正19年 2月 4日)葛西大崎一揆の弁明のため、伊達政宗が上洛し査問が行われる。政宗は一揆扇動の密書は捏造されたものと主張。秀吉は弁明を受け入れ政宗に対し一揆鎮圧を命じる。
    4月21日(天正19年 2月28日)千利休切腹。
    5月 6日(天正19年 3月13日)陸奥南部氏の一族である九戸政実が、南部一族の内紛から挙兵。九戸政実の乱。
    7月29日(天正19年 6月 9日)九戸政実の乱に対応するため、南部信直が息子の南部利直と重臣の北信愛を秀吉のもとに派遣し支援を求める。
    8月 9日(天正19年 6月20日)豊臣秀吉は奥州各所で起きている争乱に対応するため、再仕置軍を編成し派遣。豊臣秀次を総大将に、東日本各地の大名を動員して平定させる。稗貫広忠・和賀義忠は敗走し、稗貫広忠は大崎氏に匿われて出家、和賀義忠は落ち武者狩りにあって死亡したと言われる。
    8月22日(天正19年 7月 4日)伊達政宗ら寺池城を攻め落とす。葛西大崎一揆は終息に向かう。
    10月 1日(天正19年 8月14日)伊達政宗は葛西大崎一揆の関係者を集めて謀殺。
    11月 9日(天正19年 9月23日)伊達政宗に一揆で荒廃した旧大崎義隆領の葛西・大崎13郡30万石が与えられ、代わりに伊達氏歴代の領地だった長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田の6郡44万石が没収され蒲生氏郷に与えられる。この措置から、伊達政宗が冤罪を主張した一揆扇動に対する実質的な懲罰との見方が強い。なおこのあおりで大崎義隆の旧領回復の約束は反故にされたため、大崎義隆は蒲生氏郷、ついで上杉景勝に仕えた。
    1592年
    2月11日(天正19年12月28日)豊臣秀吉が関白を辞職し、秀次が2代目の武家関白となる。太政大臣はもとのまま。
    (天正19年)豊臣秀次の名で人掃令が布告される。村単位で老若男女の人数と職分を記録提出させた政令。朝鮮出兵のための兵士・人夫の動員数を調べるのが目的だったものか。
    5月24日(天正20年 4月13日)釜山近郊に上陸した豊臣軍が総攻撃を開始し、文禄の役が始まる。
    1593年
    2月27日(文禄2年 1月26日)文禄の役、碧蹄館の戦い。日本軍と明軍が衝突し、日本軍が勝利をおさめる。中国では万暦21年。
    5月30日劇作家クリストファー・マーロウが酒場での喧嘩に巻き込まれて刺殺される。29歳。単なる事件ではなく、マーロウが諜報機関と関わっていたために謀殺された、マーロウが無神論を主張し結社に関わっていたため殺されたなどの説もある。またマーロウの死の前後にシェイクスピアが活動を始めており、作風に共通点があることから、マーロウがシェイクスピアになった説まである。
    7月25日ユグノーのアンリ4世が、国民の支持を獲得するため、サン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗。
    1594年
    2月27日フランス王の地位についたアンリ4世が、正式に戴冠。ブルボン王朝初代フランス王となる。
    10月 8日(文禄3年 8月24日)京で盗賊団が捕らえられ、その首領、石川五右衛門が処刑される。
    12月 2日地図製作者ゲラルト・デ・クレーマーが死去。一般にはゲラルドゥス・メルカトルと呼ばれる。メルカトルとはラテン語で「商人」という意味。メルカトル図法の原型を作った人物。
    1595年
    3月17日(文禄4年 2月 7日)会津の大大名、蒲生氏郷が癌とみられる症状で死亡。40歳。蒲生家お家騒動の始まり。
    8月13日(文禄4年 7月 8日)豊臣秀次の元に石田三成らが訪れ、高野山追放を伝える。
    8月20日(文禄4年 7月15日)豊臣秀次、雀部重政、東福寺の僧・玄隆西堂が青巌寺で切腹(豊臣秀次事件)。
    9月 5日(文禄4年 8月 2日)豊臣秀次の妻子ら39人が処刑され、遺体は地面に掘った穴に捨てられる。この事件で秀次の側室になる前だったにもかかわらず娘を処刑された最上氏は、豊臣家を恨み、徳川家へ接近することになる。
    9月22日(文禄4年 8月19日)豊臣秀次の重臣で、秀吉の側近として活躍してきた前野長康が秀次事件の責めを受けて自害。
    10月13日(文禄4年 9月10日)豊臣秀吉主催で、方広寺千僧供養が行われる。各宗派に出仕を命じたため、法華宗(日蓮宗)が受不施派と不受不施派に分裂する原因となった。
    前年に亡くなったゲラルト・デ・クレーマー(ゲラルドゥス・メルカトル)の息子ルモルドが、父親の遺した世界地図107葉を完成させる。遺言で地図帳の名前を、ギリシャ神話の天を支える巨人の名前(もしくは最初に地球儀を作ったマウレタニアの王)から「アトラス」と名付けたため、地図帳のことをアトラスと呼ぶのが広まった(アトラスという呼び方自体はそれ以前にも見られる)。
    1596年
    9月 1日(文禄5年閏7月 9日)慶長伊予地震。
    9月 4日(文禄5年閏7月12日)慶長豊後地震。瓜生島沈没伝説で知られる。
    9月 5日(文禄5年閏7月13日)慶長伏見大地震。伏見城が崩壊し死者多数を出す。大和の大名で秀吉直参の横浜一庵も巻き込まれて圧死。石田三成との対立で謹慎中の加藤清正が、秀吉を救出して許されたという俗説もあるが真偽不明。方広寺の大仏も壊れたため、秀吉が怒り、破却させたとも言われる。阪神・淡路大震災と同じ震源域とする説もある。
    10月?(文禄5年 9月)豊臣秀吉と明の使者との会談が行われるが、明側が秀吉に順化王の称号を与えて冊封しようとしたため、秀吉は、明の皇女の天皇への降嫁、朝鮮南半の割譲という秀吉の要求が一切認められてないのを知り、会談は決裂する。秀吉は再戦を決定。事前の講和交渉で小西行長・石田三成らと沈惟敬らの偽装講和の工作が裏目に出たとみられる。
    12月16日(文禄5年10月27日)相次ぐ災害を受けて、慶長に改元。
    12月23日(慶長元年11月 4日)服部正成(半蔵)死去。家康の重臣で伊賀衆・甲賀衆を率いる。
    1597年
    2月 5日(慶長元年12月19日)長崎でキリシタンの日本二十六聖人が処刑される。日本人は20名で、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名。
    5月26日(慶長2年 4月11日)徳川秀忠と江の娘、千姫生誕
    9月(慶長2年 8月)聚楽第に変わる豊臣氏の邸宅「京都新城」が完成する。当時は太閤御屋敷などと呼ばれた。のちの仙洞御所(現在の京都御所南東部)の位置に当たる。
    イングランドで最初の救貧法が制定される。貧困層が増加し、社会的不満が高まったことに対して、病気などで働けず貧困に陥った人々を救済する制度。
    朝鮮半島北部の白頭山(長白山)が大噴火を起こす。
    1598年
    4月20日(慶長3年 3月15日)豊臣秀吉が醍醐寺で豪華絢爛な花見を行う。いわゆる醍醐の花見。
    4月30日フランス国王アンリ4世がナントの勅令を出して、プロテスタントの信仰を認め、ユグノー戦争以来の宗教紛争は終結。
    9月18日(慶長3年 8月18日)豊臣秀吉、伏見城にて死去。
    11月13日(慶長3年10月15日)朝鮮半島に在陣する諸将に対し、半島からの撤退命令が発せられる。
    サファヴィー朝のアッバース1世が王都をカズヴィーンからイスファハーンに遷す。同年、北のホラーサーン地方へ侵攻しこれを奪う。
    1599年
    4月 4日(慶長4年 3月 9日)薩摩藩主島津忠恒が、伏見島津邸内で、島津家宿老で日向庄内8万石の領主である伊集院忠棟を殺害。忠棟が謀反を企てたとも、中央政権に近かった忠棟を島津家が警戒したためとも、島津家の内紛に巻き込まれたとも言われる。
    4月27日(慶長4年閏3月 3日)島津義久が、日向庄内地方への交通を遮断。伊集院忠棟の息子の伊集院忠真は家臣の白石永仙の意見を入れ、島津家に対し反乱を起こす。庄内の乱。
    6月 5日(慶長4年 4月13日)豊臣秀吉を阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬。麓には木食応其により鎮守社が創建される。
    6月 8日(慶長4年 4月16日)朝廷より豊臣秀吉に豊国大明神の神号が与えられる。
    6月10日(慶長4年 4月18日)鎮守社を元に豊国神社が設立される。
    9月11日ベアトリーチェ・チェンチ斬首される。横暴で暴力的な父親を家族と共に殺害したことで家族ともども罪に問われた。背景にはチェンチ家の財産を狙ったローマ教皇クレメンス8世の暗躍も。
    1600年
    2月17日ジョルダーノ・ブルーノが異端を理由に火刑に処せられる。ドミニコ会出身の神学者・哲学者で、当時カトリックで主流だった天動説とは異なる理論を主張。ヨーロッパ各地を転々としながら著作を発表した。各国でその優秀さが評価される一方、トラブルも多く、最終的に異端審問にかけられ有罪と認定された。1979年にヨハネ・パウロ二世によって名誉回復。
    4月28日(慶長5年 3月15日)伊集院忠真が徳川家康の調停を受けて島津氏に降伏。庄内の乱も終結する。忠真は島津義弘の娘婿であり、再反乱も警戒されて、義弘が関ヶ原で島津家の支援を得られず孤立参戦の原因のひとつとなったという。また、加藤清正は忠真に密かに味方していたことが発覚して家康の怒りを買い、会津征伐(ひいては関ヶ原)に直接参戦できなかった(九州で東軍方についている)。
    4月29日(慶長5年 3月16日)オランダの極東船団で唯一アジアまでたどり着いたリーフデ号が豊後の臼杵に漂着。
    9月 8日(慶長5年 8月 1日)伏見城の戦いで伏見城が落城。関ヶ原の戦いの前哨戦。
    10月21日(慶長5年 9月15日)関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利し、石田三成の西軍は壊滅。
    10月24日(慶長5年 9月18日)石田家の佐和山城落城。開城交渉が進んでいるさなかに城内にいた長谷川守知が東軍に寝返り(間者だったとも)、これに乗って東軍に寝返っていた小早川秀秋、小川祐忠、脇坂安治と、東軍の田中吉政が城を攻撃したため、石田一族は自刃。石田方で開城交渉にあたっていた石田正澄の家臣津田清幽はこれに激怒し、人質をとって旧知の徳川家康の陣へ赴き抗議。家康が非を認め、清幽が連れてきた三成の子と11人の石田家臣を助命している。
    10月26日(慶長5年 9月20日)伊達政宗が、上杉景勝を巡る一連の騒乱「慶長出羽合戦」に乗じて、庇護していた和賀忠親を扇動し二子城で蜂起させ南部領へ侵攻させる。通称「岩崎一揆」。和賀忠親らは南部氏が出羽合戦や田瀬・安俵一揆に出兵して手薄の花巻城を夜襲。しかし和賀氏の縁者でもあった柏山明助の通報で知った城主北信愛の指示でわずか十数名で籠城。南部勢の援軍到着を受けて一揆勢は退却。蜂起は失敗に終わる。柏山明助はこの功で南部氏に仕え、伊達政宗はこの一件が露見してしまい、徳川家康よりの「百万石のお墨付き」を反故にされてしまった。
    10月27日(慶長5年 9月21日)石田三成が田中吉政の軍勢によって捕縛される。
    11月 4日(慶長5年 9月29日)長曾我部元親の三男の津野親忠が謀殺される。父との諍いで幽閉されていたが、関ケ原の敗戦を受け、旧知の藤堂高虎・井伊直政らを通じて長宗我部家の本領安堵を徳川家康に願い出るも、長宗我部家重臣の久武親直の讒言で殺された。長宗我部家が改易された理由の一つとされている。
    11月 6日(慶長5年10月 1日)石田三成が京の六条河原で処刑される。一方で三成の子どもたちはいずれも家康から助命されたり落ち延びるなどして、子孫は津軽氏や各松平家の庇護も受け、次女の子孫は徳川家光の側室となり、尾張徳川家、公卿の二条家と九条家を経て皇室にまで血が繋がっている。
    この年、南米アンデス山脈のワイナプチナ山が大噴火を起こす。
    1601年
    1月 5日(慶長5年12月 1日)土佐浦戸一揆。関ケ原の戦いで西軍についた長宗我部氏が改易され、井伊直政が浦戸城の明け渡しを求めたのに対し、長宗我部家の一領具足らがこれを拒否し一揆を起こす。長宗我部家重臣の桑名吉成らが一揆勢を浦戸城外に出して鎮圧。
    1月 9日(慶長5年12月 5日)浦戸城が徳川方に接収される。
    2月10日(慶長6年 1月 8日)山内一豊が浦戸城に入る。
    イングランドでエリザベス救貧法が制定される。救貧法を改正し、国家管轄のもとで救貧を行うようにした初の法令。労働不能者の救済や孤児の養育をすすめる一方、健常な貧困層に強制労働させるなどの問題も残る。
    12月26日(慶長6年閏11月 2日)江戸で大火。記録上最初の江戸の大火だが詳細は不明。
    この年、異常気象の影響で、西ヨーロッパでぶどうの収穫が激減。ワインの生産が大打撃を受ける。また各地で飢饉と疫病が広がったという。前年のワイナプチナ山の大噴火が原因という説が有力。
    ロシアでも寒冷気候によって穀物生産が壊滅的な打撃を受け、1603年にかけて大飢饉が起き、人口の3分の1に当たる200万人が死亡したと言われる。その後の大動乱の要因ともなった。
    1602年
    10月 2日(慶長7年 8月17日)薩摩藩主島津忠恒が上洛の途中、日向野尻で催した狩りの最中に、同行させていた伊集院忠真を射殺。表向きは押川則義と淵脇平馬の誤射とされ、両人は切腹。しかし忠真の妻と娘を除く家族も同じ日に殺害されており、計画的暗殺であった。なお重臣平田増宗の嫡男宗次も巻き添えで死亡しているが、のちに増宗ら一族も処罰されており、島津家の内紛にともなう暗殺説もある。
    12月 1日(慶長7年10月18日)岡山藩主、小早川秀秋が21歳で死去。
    1603年
    1月15日(慶長7年12月 4日)再建中の方広寺大仏殿と大仏が失火により焼失。
    3月24日イングランド女王エリザベス1世がリッチモンド宮殿で死去。生涯結婚をせず、後継者も定めなかった。
    3月24日(慶長8年 2月12日)後陽成天皇が勧修寺光豊を派遣し、徳川家康を征夷大将軍、右大臣、源氏長者・淳和院奨学院両院別当に任ずる。江戸開幕。
    5月 8日(慶長8年 3月27日)二条城で徳川家康の将軍就任の祝賀の儀が行われる。
    5月26日(慶長8年 4月16日)徳川秀忠が右近衛大将に任官される。征夷大将軍ではない秀忠の任官は、次期将軍を意味する。
    7月25日スコットランドの王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームス1世としても戴冠し、イングランドとスコットランドの同君連合が成立。
    9月21日(慶長8年 8月16日)山形藩主最上義光の長男で、ほぼ後継者の立場にあった最上義康が失脚し暗殺される。義康側近の浦山源左衛門、寒河江良光らも殺害された。元々義光と義康の親子関係は良好で、文武両道の義康は君主の資質も備えた人物だったが、義光の近臣里見氏らによる讒言、義康が豊臣家や伊達家と親しかったこと、徳川家康の近侍となっていた次男の最上家親を後継者にしたほうが得策と考えたことなどから、親子関係が悪化して起きたとされる事件。しかし義光が命じたかは不明で、義光は義康の死後、失意で病がちになったとも言われる。里見一族は後に誅殺された。この事件は後の最上騒動の遠因にもなった。
    12月16日(慶長8年11月14日)米子藩中村一忠の重臣横田村詮が、藩主の慶事の催しの最中に暗殺される。米子の開発に辣腕を振るった横田を妬み権力を握ろうとした藩主の側近安井清一郎、天野宗杷らが、14歳の藩主一忠に讒言したため。横田は三好一族で、中村一氏に抜擢され、中村家本領安堵の際に家康から家老に任命された経緯から、家康はこの事件に激怒。首謀者の安井、天野両人を切腹させた。中村一忠にお咎めはなかったが、これが心理的に尾を引いたのか、20歳で死去し米子藩は無嗣断絶として改易となった(側室との子はいたが鳥取藩池田氏に仕える)。
    星図書『ウラノメトリア』が発刊される。編纂したヨハン・バイエルは天文の専門家ではなかったが、同書は天文学に大きな影響を与え、同書に記載された星の命名規則バイエル符号は現在でも使われている。
    1604年
    3月 4日(慶長9年 2月 4日)江戸幕府が、大久保長安を奉行に、東海道・東山道・北陸道に一里塚の設置をはじめる。
    10月 9日超新星SN1604が地球上で初めて観測される。へびつかい座20,000光年以内。通称ケプラーの星。銀河系内で起こったものとしては記録上最後に観測された超新星(超新星自体は珍しくないが、地球から観測できていないだけと考えられる)。
    10月17日この日、超新星SN1604をヨハネス・ケプラーが観測し記録を残す。ケプラーの星と呼ばれる所以。18ヶ月輝き、金星に次いで明るかったとされる。白色矮星に降着した物質による質量増大で引き起こされたIa型超新星爆発とみられる。
    1605年
    2月 3日(慶長9年12月16日)大規模な地震が発生。マグニチュードは推定7.9。地震そのものの被害より、大津波による被害の記録が多く、伊豆諸島、遠江、紀伊、阿波、土佐などで大きな被害を出す。
    5月24日(慶長10年 4月 7日)徳川家康が、朝廷に将軍職の辞任と、嫡子秀忠の推挙を奏上。
    6月 2日(慶長10年 4月16日)徳川秀忠が征夷大将軍に任じられる。
    7月13日(慶長10年 5月27日)織田秀信が死去。織田信忠の嫡男で、信長の孫。岐阜中納言。関ケ原で西軍に付いたため、改易され高野山に送られたが、高野山で冷遇され、山麓の向副に追放され同地で死去した。病死とも自殺とも言う。26歳。真偽不明ながら子孫とされる人物が各地にいる。
    9月 6日(慶長10年 7月23日)かつて二条昭実と関白の座をめぐって争い、その結果、豊臣秀吉に関白の地位を奪われた近衛信尹が関白に就任する。
    11月 5日イングランドの国王ジェームズ1世を国会もろとも爆殺しようと計画された火薬陰謀事件で、実行直前に主要メンバーのガイ・フォークスが逮捕される。
    1606年
    4月12日イングランド王ジェームス1世がユニオンフラッグを制定する。
    4月25日神聖ローマ帝国にある、プロテスタントが多数を占める帝国自由都市ドナウヴェルトで、カトリック信徒が行進しようとしたのを市の評議員が止めようとして対立に発展。
    1607年
    2月(慶長12年 2月)公卿で左近衛少将の猪熊教利が宮中の女官と密通したことが後陽成天皇に露見し、勅勘を受けて追放される。しかしまもなく密かに戻って公卿らと乱交に耽るようになる。
    4月 5日(慶長12年 3月 9日)徳川家康の元側近で駿河興国寺藩主の天野康景が改易される。同藩の藩材を盗んだ人物を追った家臣が天領領民を殺傷した事件で、家康から派遣された本多正純の発言に康景が腹を立て、一族とともに領地を捨てて出奔したため。
    4月25日ジブラルタルの海戦。八十年戦争で、オランダ海軍艦隊が、ジブラルタルに入港していたスペイン艦隊を奇襲し圧勝する。
    8月16日(慶長12年 6月24日)御牧藩主津田高勝、清水藩主稲葉通重、旗本天野雄光、織田有楽斎の子の織田頼長らが、祇園で酒宴した際に商人の妻女らに狼藉を働くなどの事件を起こす。津田、稲葉、天野は改易。織田も咎めを受けたとされる。
    10月26日佐賀藩の主権回復を訴えていた龍造寺高房が急死。一説には藩を事実上支配した鍋島家への恨みで、妻である直茂の孫娘を殺害して自殺をはかり、その傷が悪化して死亡したとも言われる。
    10月27日彗星が出現し、ヨハネス・ケプラーが観測する。ハレー彗星。
    神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世が帝国自由都市ドナウヴェルトに対して「帝国アハト刑」の適用を決め、弟のカトリック教徒であるバイエルン公マクシミリアンに執行を命じて軍を派遣させる。同市はバイエルンに接収される。さらにカトリックとプロテスタントの和約であったアウクスブルクの和議を修正する動きを見せたため、プロテスタント側の反発を買う。
    1608年
    5月14日神聖ローマ帝国に属するプロテスタント派の諸侯らが、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主としてプロテスタント同盟(ウニオン)を結成。
    7月27日(慶長13年 6月16日)丹波八上藩主前田茂勝が改易となる。茂勝が発狂したため、という理由だが、酒色に溺れて政務を見なくなった茂勝を諌めた尾池清左衛門親子らを茂勝が殺害したことで、尾池を知っていた徳川家康の怒りを買ったためと言われる。
    10月 2日ハンス・リッペルハイが、凸レンズと凹レンズを組み合わせた実用的な屈折式望遠鏡を世界で初めて開発し、この日特許を申請。この技術情報が広まって、翌年ガリレオ・ガリレイがより高倍率の望遠鏡を開発したことからガリレオ式とも言う。
    イングランドでカルヴィン裁判の判決が出される。臣民とは国王との個人的関係であり、イングランドとスコットランドが同君連合になったあとにスコットランドで生まれたカルヴィンは、スコットランド王の臣民であり、スコットランドの王はイングランドの王であるため、カルヴィンはイングランド王の臣民と認められ、イングランド王の保護の元、イングランドの土地を所有する権利を有するというもの。国籍の出生地主義(血統に関係なく生まれた場所の国籍を得られる)を明文化した先例。
    (慶長13年)幕府が永楽通宝の通用を禁ずる。国産の慶長通宝が十分でなかったため、実際にはこの後も流通していたとみられる。また、永楽銭を年貢貫高の計算基準とする永高も引き続き使われた。永楽銭は本来明銭だが、国内流通規模から国内で私鋳されていた説も有力。
    カール1世リヒテンシュタインが、神聖ローマ皇帝となった主君のマティアス・ハプスブルクより侯爵に叙任される。現在まで続くリヒテンシュタイン家の直接の始祖となる。現在のオーストリアとスイスの間にあるリヒテンシュタイン国は後に購入した領土の一部(シェレンベルク=ファドゥーツ領)で、この頃はニーダーエスターライヒや、モラビア、シュタイアーマルク、シレジアなど各地を領有していた。
    (慶長13年)伊賀上野藩主筒井定次が改易される(筒井騒動)。定次の寵臣であった中坊秀祐が徳川家康に定次の悪政や不行状を訴えたためとされる。しかし定次は伊賀の開発を進めた人物でもあるため、悪政は口実で、家康が豊臣寄りで要衝を領する筒井氏を排除するために中坊秀祐を利用したという説もある。伊賀には藤堂高虎が入封された。中坊は旗本に取り立てられ奈良奉行に抜擢されている。
    1609年
    4月 3日(慶長14年 2月29日)筒井騒動のきっかけを作り、筒井家が改易になった後、旗本として奈良奉行の地位についていた中坊秀祐が急死。筒井家の旧臣山中氏に暗殺されたと言われる。
    7月10日神聖ローマ帝国に属するカトリックの諸侯らが、プロテスタント同盟(ウニオン)に対抗してカトリック連盟(リーガ)を結成する。
    7月~8月(慶長14年 7月)猪熊教利と公卿らが、女官らと乱交を繰り返していたことが、後陽成天皇の耳に達し、天皇は激怒。全員を死刑にせよと命じる。いわゆる「猪熊事件」が発覚し、幕府が調査に乗り出す。猪熊教利は日向へ逃亡するも懸藩領内で捕らえられる。
    10月20日(慶長14年 9月23日)朝廷の大スキャンダル「猪熊事件」の関係者の処罰が決まる。中心人物の左近衛少将猪熊教利と宮中歯科医の兼康頼継が斬首。左近衛権中将の大炊御門頼国(甑島流罪)、いずれも左近衛少将の花山院忠長(蝦夷松前流罪)・飛鳥井雅賢(隠岐流罪)・難波宗勝(飛鳥井の弟、伊豆流罪)・中御門宗信(硫黄島流罪)、新大典侍広橋局・権典侍中院局・中内侍水無瀬・菅内侍唐橋局・命婦讃岐の女官5人が伊豆新島に流罪、参議烏丸光広と右近衛少将徳大寺実久は赦免された。後陽成天皇は処分が軽いと非常に不満だったという。
    10月26日(慶長14年 9月29日)三河水野藩主水野忠胤の江戸屋敷で、親族の浜松藩主松平忠頼を茶席に招いた際、水野の与力であった久米佐平次と服部半八郎が口論となり、それを仲裁しようとした忠頼を、久米佐平次が刺し殺すという事件が起きる。水野忠胤は責任を問われて切腹、水野藩は改易、服部半八郎も切腹となり、殺された忠頼の浜松藩も改易となった。浜松は混乱状態になり、水野一族が鎮圧。忠頼の嫡男忠重はのちに掛川藩主として大名に復帰した。
    1610年
    1月 6日(慶長14年12月12日)マードレ・デ・デウス号焼き討ち事件。マカオでのトラブルを受けて、長崎に寄港したデウス号を有馬晴信が家康の許可を得て攻撃し撃沈する。これがその後の岡本大八事件へ発展し、有馬晴信が改易されることに。
    1月 7日木星の衛星イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストがガリレオの観測によって発見される。いわゆるガリレオ衛星
    3月26日(慶長15年閏2月 2日)越後福嶋騒動。越後福嶋藩45万石の家老職を巡って、死去した家老堀直政の長男で三条藩主の堀直清と、その異母弟の坂戸藩主堀直寄が争い、この日、駿府城で福嶋藩主堀忠俊と、堀直清、堀直寄らが呼び出されて徳川家康・秀忠の審問を受ける。家康は直清が年少の藩主を利用した讒臣として改易、藩主忠俊も大藩主の器にあらずとして改易を決定。直寄の言い分は通ったものの、飯山藩4万石に減らされ転封となった。
    5月10日中国にヨーロッパ文化を伝え、宣教活動を行う一方、中国文化を西洋に紹介したマテオ・リッチが北京で死去。
    9月24日(慶長15年 8月 8日)織田秀雄が江戸で死去。織田信雄の嫡男で参議・越前大野城主だったが関ケ原で西軍に属したため改易。その後は江戸で暮らしたと言う。父親に先立っての死去。27歳。
    12月 3日(慶長15年10月18日)徳川家康の側近中の側近で、徳川四天王に数えられた猛将、本多忠勝が死去。
    1611年
    4月18日ジョン・セーリス率いる日本派遣船団がイングランドを出発。
    5月10日(慶長16年 3月28日)徳川家康と豊臣秀頼が京の二条城で会見。
    8月 2日(慶長16年 6月24日)肥後熊本藩主の加藤清正死去。徳川家康と豊臣秀頼との会見に警護で同行した帰りの船中で発病したことから、会見時に毒をもられたという説もある(同じ会見に同行した平岩親吉が年末に、浅野幸長と池田輝政も2年後に死去しているため出た説か)。
    9月27日(慶長16年 8月21日)会津で大きな地震。3700人が死亡。山崩れで会津川と只見川が河道閉塞し氾濫。
    10月30日グスタフ2世アドルフが17歳でスウェーデン王に即位。スウェーデンを軍事大国化し「北方の獅子王」と呼ばれた人物。
    12月 2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震。大津波が起き、仙台藩で1783人が死亡、南部藩・津軽藩領内では人馬3000あまりが死ぬ。
    デンマーク=ノルウェーとスウェーデンの間でカルマル戦争が起こる。
    ヨハネス・ケプラーが、凸レンズと凸レンズの組み合わせの望遠鏡のアイデアを発表(制作はせず)。いわゆるケプラー式屈折望遠鏡。
    1612年
    5月13日(慶長17年 4月13日)宮本武蔵と佐々木巌流(岩流・小次郎)が舟島(巌流島)で決闘。佐々木巌流が倒される。
    6月 5日(慶長17年 5月 6日)岡本大八事件で領地獲得のために贈賄を行ったとして流罪になっていた有馬晴信が切腹を命ぜられ、キリスト教徒であったため、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせて死す。
    11月 9日(慶長17年10月17日)越前騒動。藩の重臣久世但馬守の領民と岡部自休の領民との争いから、重臣同士の対立に発展。久世派に家老の本多富正、重臣の竹島周防守・由木景盛・上田隼人らが、岡部派に家老の今村盛次・中川一茂・清水孝正らが参加。今村らが兵を出して北ノ庄城を押さえ、藩主忠直の身柄を確保し竹島周防守を捕縛し投獄。
    11月12日(慶長17年10月20日)越前騒動。今村盛次らが藩主の名前で久世派の本多富正に対し、久世但馬守を切腹させるよう命令を出す。久世は切腹を拒否し本多はやむなく久世一派を討伐し、久世但馬守と家臣らは全員討ち死にもしくは自害。
    11月13日(慶長17年10月21日)越前騒動で今村盛次らは久世派の由木景盛・上田隼人を自害させ、その家臣らを討伐。岡部・今村派が騒動に勝利し幕府に報告。しかし幕府は越前藩祖結城秀康が家康の次男ながら秀吉の養子だった関係で豊臣家とも関係が深く、騒動が大坂方に利用されることを警戒して調査に乗り出す。
    1613年
    1月13日(慶長17年11月27日)徳川家康と秀忠は越前騒動の関係者を江戸城に呼び出し裁定を行う。当初は今村派の主張が優位に立ったが、本多正信の介入もあり、本多富正の久世但馬討伐の際に今村派が後ろから銃撃したことや、今村盛次の越権行為などが問題視され、それに今村が若年である藩主忠直の責任を出したことで家康の怒りを買い、騒動の結末とは逆に岡部・中川らは流罪、今村・清水らは各藩へ預けとなり、本多ら久世派はお咎めなしとなった。なお竹島周防守は今村らに罪人扱いを受けたことを恥じて自害。
    1月20日デンマーク=ノルウェーとスウェーデンの間でクネレド条約が結ばれ、カルマル戦争は終結。デンマークは莫大な賠償金を獲得したが、スウェーデンはその代償に領土保全に成功。
    4月25日(慶長18年 6月13日)幕府勘定奉行大久保長安が死去。優れた財務官僚として江戸幕府草創期の財政を一手に支えた人物。
    6月11日(慶長18年 4月23日)ジョン・セーリス率いるイングランドの日本派遣船グローブ号が平戸に到着。<イングランド王からの書状と献上品を幕府に提出。
    8月24日(慶長18年 7月 9日)大久保長安の子息7人が切腹に追い込まれる。長安の莫大な不正蓄財が主な原因とされるほか、長安が所属した老中大久保忠隣と本多正信らとの対立や、大久保忠隣の権勢を排除する目的が原因とする説もある。この後に起こる複数の大名の改易にも影響したとされている。
    9月26日(慶長18年 8月12日)盗賊の向崎甚内(高坂甚内)が密告によって捕らえられ、この日、浅草鳥越で処刑される。様々な伝承が広まり、処刑の際に、「我は瘧に罹らなければ捕まることはなかった。我の魂魄はこの世に長く残るゆえ、瘧に悩むものは我に祈るがよい。そのものの瘧を治してやろう」と言い残したため、彼を祀る甚内神社が創られたという。
    10月28日(慶長18年 9月15日)伊達政宗がヨーロッパへ派遣する使節団が陸奥国月の浦を出港。ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使とする。いわゆる慶長遣欧使節。目的は貿易の交渉であったという説もある。
    10月28日(慶長18年10月 1日)上野板鼻藩主里見忠重(義高)が、職務怠慢を理由に改易される。改易後は妻の弟である酒井忠勝の家臣となった。後に僧侶となり、民衆を救うために即身仏になった伝承がある。
    11月19日(慶長18年10月 8日)伊予宇和島藩主富田信高が改易される。信高夫人の弟で石見津和野藩主坂崎直盛の婢と夫人の甥の宇喜多左門が密通したことを知った直盛がその婢を家臣に斬らせたところ、左門がその家臣を殺害。直盛の父宇喜多忠家が左門を出奔させ当時伊勢津藩主だった富田信高に預けたために、直盛と信高の対立に発展。直盛は家康に訴えたが取り合ってもらえず、信高は宇和島に転封。左門は日向懸藩主高橋元種のもとに身を寄せたが、信高夫人が密かに支援していたことが発覚。幕府は夫人の行動を問題にし、富田信高を改易とした。ただ罪が曖昧なことから、大久保長安事件の縁者として連座したとも言われる。
    12月 5日(慶長18年10月24日)日向懸藩高橋元種が改易される。富田信高と坂崎直盛の争いの要因となった直盛の甥宇喜多左門を密かに匿っていたことが発覚したため。元種は棚倉藩主立花宗茂に預けられる。
    12月 5日(慶長18年10月24日)ジョン・セーリスが平戸から出国。家康からは貿易の朱印状が下されて、平戸にイングランド商館を開設し、商館長にリチャード・コックスを残す。翌年イングランドに帰国し、国王に献上品を提出した後、日本から持ち帰った品々はイングランドで最初のオークションにかけられた。
    1614年
    1月28日(慶長18年12月19日)慶長遣欧使節の一行がヌエバ・エスパーニャのアカプルコに到着。日本人として初めて太平洋を横断。
    2月27日(慶長19年 1月19日)小田原藩主大久保忠隣が突如改易される。京でキリシタン取締の任を開始した翌日、所司代板倉勝重より言い渡された。理由として常陸牛久藩主山口重政の息子と、自身の娘との婚儀を幕府の許可無く進めたためとされる(山口重政も改易)。本多正信との対立、謀反の噂が流れた、豊臣方や上方大名との関係を疑われたなどの説もある。
    5月24日(慶長19年 4月16日)豊臣秀頼による方広寺大仏殿の再建にあわせて梵鐘が完成する。しかし銘文「国家安康・君臣豊楽」が徳川家康の名を分断し豊臣家の繁栄を謳ったものだとして問題に。言いがかりとも取れるが、諱を分けるのは当時はかなり重大な問題でもあった。もっともこの鐘は豊臣氏滅亡後も特に鋳潰されてはいない。
    6月10日(慶長19年 5月 3日)慶長遣欧使節の一行がヌエバ・エスパーニャ大西洋側のベラクルスを出港。ハバナを経由してスペインへ向かう。
    9月 1日(慶長19年 7月27日)下野佐野藩主佐野信吉が改易される。表向きの理由は前年に改易された兄の富田信高に連座したものとされるが、大久保長安事件や大久保忠隣改易の連座とも言われる。
    10月 5日(慶長19年 9月 2日)慶長遣欧使節の一行がスペインのサンルーカル・デ・バラメーダに上陸。日本人で初めて大西洋を横断。
    11月 2日(慶長19年10月 1日)豊臣秀頼の重臣片桐且元が大坂城を退去。徳川方との内通を疑われ、他の重臣たちとの不和が解決しなかったため。これが大坂の陣の直接の理由とされた。
    11月26日(慶長19年10月25日)東北から四国に至るかなり広範囲で地震を観測。池上本門寺五重塔が傾いたほか、銚子や越後高田で津波を観測、京でも多数の負傷者、大坂では寺社の被害が大きく、伊予松山の温泉が一時的に涸れたなどの記録がある。ただ被害が広範囲なことから震源域がはっきりせず、一部の被害を疑問視する説もある。
    12月19日(慶長19年11月19日)大坂木津川口で徳川・豊臣両軍が衝突。大坂冬の陣の始まり。
    12月26日(慶長19年11月26日)鴫野・今福の戦い(大坂冬の陣)。
    12月29日(慶長19年11月29日)博労淵の戦い、野田・福島の戦い(大坂冬の陣)。
    1615年
    1月 2日(慶長19年12月 3日)大坂城南・真田丸を巡る戦いで徳川方に大きな損害が出る(大坂冬の陣・真田丸の戦い)。同時に和睦交渉も始まる。
    1月15日(慶長19年12月16日)この頃より徳川・豊臣両軍の砲撃戦が激しくなる(大坂冬の陣)。徳川軍は海外から輸入した大型砲を投入。大坂城本丸付近にも着弾し淀殿の側仕えのものが死傷するなどして豊臣方に動揺が走る。
    1月19日(慶長19年12月20日)徳川・豊臣両軍の間で和睦が成立。大坂冬の陣が終結する。
    1月27日(慶長19年12月28日)今川氏真が江戸で死去。
    1月30日(慶長20年 1月 2日)慶長遣欧使節の一行が、スペイン国王フェリペ3世に謁見。
    2月 4日(慶長20年 1月 8日)キリシタン追放でマニラに移った高山右近が客死する。
    4月12日(慶長20年 3月15日)大坂城の浪人処遇問題で豊臣・徳川の間で再び対立が起こる。
    5月 1日(慶長20年 4月 4日)徳川義直の婚儀に出席するという理由で、徳川家康が駿府を出立。
    5月 3日(慶長20年 4月 6日)徳川家康が、諸大名に軍令を発する。
    5月 7日(慶長20年 4月10日)徳川家康が名古屋に到着。徳川秀忠も江戸を出発。
    5月15日(慶長20年 4月18日)徳川家康が京に入る。
    5月18日(慶長20年 4月21日)徳川秀忠が京に入る。翌日、徳川軍の軍議が開かれる。
    5月24日(慶長20年 4月27日)大和郡山城の戦い。豊臣軍の大野治房、箸尾高春、細川兵助ら2000の兵が大和郡山城を攻撃。大坂夏の陣の始まり。1万石の大和郡山藩主筒井定慶には僅かな兵しかなく、浪人や農民ら1000人ほどを集めて応戦したが、侵攻軍の兵数を見誤り、多勢に無勢と判断して城を放棄し福住中定城へと落ち延びた。筒井定慶は大坂落城後の5月10日に逃亡を恥じて自害したとも言われるが、逼塞して生き延びたという説もある。
    5月26日(慶長20年 4月29日)樫井の戦い。豊臣軍の大野治房、塙直之、岡部則綱、淡輪重政らが、徳川方の浅野長晟を攻撃。豊臣方は一揆を起こす予定だったが失敗し、また武将間の連携が取れず大敗。塙直之、淡輪重政らが討ち死にする。
    6月 2日(慶長20年 5月 6日)道明寺・誉田の戦い。大和路を大坂へ向けて進軍する徳川軍に対し、豊臣方の後藤基次が迎撃。連携が出来ないまま、明石全登、薄田兼相、さらに真田信繁らが順次援軍に来るも間に合わず、後藤基次、薄田兼相らが相次いで討ち死にする。同日、河内路を進む徳川本隊に対して、木村重成、長宗我部盛親、増田盛次らが奇襲をかけ一定の戦果を上げるも、衆寡敵せず木村重成らが討ち死に(八尾・若江の戦い)。
    6月 3日(慶長20年 5月 7日)天王寺・岡山の戦い。天王寺口に集結した豊臣方は、野戦築城の上で、真田信繁・毛利勝永・大野治房・大谷吉治・御宿政友・明石全登らが猛攻し、徳川方は総崩れとなる。先鋒大将の本多忠朝が討ち死に、小笠原秀政が重症を負い(後死亡)、徳川旗本衆も壊乱。家康自身も敗走し援軍に出た秀忠の陣も混乱状態に陥るなどの事態になるが、豊臣方の被害も大きく、最終的に兵力差で徳川方が勝利。真田信繁らは討ち死に。毛利勝永は残存部隊を率いて大坂城へ撤退。午後4時ころ大坂城が炎上する。
    6月 4日(慶長20年 5月 8日)豊臣秀頼・淀殿が自刃。介錯を務めた毛利勝永も自刃し、大坂の陣は終結。豊臣姓羽柴宗家は滅亡する。
    6月26日(慶長20年 6月 1日)江戸で大きな地震が起き死傷者が多数出る。
    7月 6日(慶長20年 6月11日)古田織部が豊臣側に内通した嫌疑で切腹。将軍茶頭木村宗喜の豊臣方内通疑惑に巻き込まれる形で。
    7月28日(慶長20年閏6月 3日)飛騨高山2代藩主金森可重が急死。死因は不明で、自刃説や暗殺説もある。理由は不明だが跡を長男重近や次男重次ではなく3男の重頼が継いだ。可重自身は長屋景重の子で金森長近の養子であり、後継者の重頼は初代長近の実子伊東治明の子という記録もあり、死因及び家督継承には謎が多い。
    8月 7日(慶長20年閏6月13日)徳川秀忠が諸大名に対し一国一城令を発令。国持大名は一国につき一城ずつ、一国に複数の大名の場合、一藩に一城というもの。
    9月 5日(慶長20年 7月13日)元和(げんな)に改元。後水尾天皇の即位と、戦乱を理由にしている。徳川家康が漢朝年号の吉例を使うよう朝廷に示し、唐の憲宗時代の年号「元和(げんわ)」をもとに採用された。将軍が中国の元号を採用するよう求めたのはこの一例のみ。なおこの時候補に上がったものの1つとして、平安時代後期にも候補に上がり文字の縁起が悪いとして却下された「天保」があり、後に採用されている。
    9月 9日(慶長20年 7月17日)江戸幕府が天皇と公家の道徳的規範と、僧侶の地位について定めた禁中並公家諸法度を発布。
    10月25日(元和元年 9月 1日)慶長遣欧使節の一行が、ローマに到着。
    11月 3日(元和元年 9月12日)慶長遣欧使節の一行が、ローマ教皇・パウロ5世に謁見。
    1616年
    1月 7日(元和元年11月18日)慶長遣欧使節の一行が、帰国の途につくべくローマを出発。セビリアを経由して、ヌエバ・エスパーニャへと向かう。
    4月23日劇作家ウィリアム・シェイクスピアが亡くなる。歴史上最も著名な作家の一人だが、劇壇に登場するまでの前半生はよくわかっていない。
    6月 1日(元和2年 4月17日)徳川家康、駿府城にて死去。元来は天ぷらの食中毒説が知られていたが、近年は胃がん説が有力。
    8月18日(元和2年 7月 6日)徳川家康の6男で越後高田藩主の松平忠輝が、将軍徳川秀忠の命で改易される。改易の理由は過去の軍律違反などだが、家康晩年からの冷遇、岳父伊達政宗との関係、大久保長安との関係なども理由とされる。後に流罪地となった諏訪で長命を保った。粗暴だったとする一方、文人だったとも言われる。
    10月21日(元和2年 9月11日)石見津和野藩主坂崎直盛(宇喜多詮家)が幕府と対立して死亡。自害とも家臣に殺害されたとも屋敷に立てこもって幕府に攻め滅ぼされたとも言われる。対立の原因は坂崎が大坂の陣で救出したと主張する千姫を巡る処遇にあるとされ、坂崎に再嫁する約束を反故にされた、あるいは坂崎が千姫と公家との再縁組を斡旋したところ幕府に無視され面目を失ったなどの説がある。坂崎は千姫の身柄を奪おうとして露見し幕府に攻められたともいう。津和野藩は改易。
    1617年
    1月19日(元和2年12月12日)旗本の別所孫次郎の邸宅で、別所と客としてきていた旗本の伊東治明が喧嘩になり、別所の家人が伊東を斬殺、仲裁しようとした客の桑山一直も負傷する事件が起きる。別所は切腹し改易、桑山も閉門の処分を受けた。別所は戦国大名別所重棟の甥、伊東は飛騨高山藩主金森長近の子、桑山は大和新庄藩主。
    3月28日(元和3年 2月21日)朝廷は、徳川家康を祀る久能山東照社に対し、正一位を贈り、東照大権現の神号を宣下。
    ネイティブアメリカンのポウハタン族出身の女性マトアカ(通称ポカホンタス)がイギリスのケント州グレーブゼンドで病死。23歳。当時彼女は新大陸でタバコ栽培業をしていた商人ジョン・ロルフの妻となっていたが、イギリスに連れてこられ、インディアンの姫という扱いで話題になっていた。3月21日に同地で葬儀。彼女の死後に、ポウハタン族領地に作られたヴァージニア入植地の指導者ジョン・スミスが「白人である自分を救ってくれた美談」を創作して広めた。彼女の孫娘がボーリング家に嫁いだため、ポウハタン族の血を引く多数の著名な子孫がいる。
    1618年
    4月 2日(元和4年 3月 7日)慶長遣欧使節の一行が、ヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出港。
    5月23日第二次プラハ窓外投擲事件。ハプスブルク家出身でカトリック強硬派のフェルディナンドが、ボヘミア王に即位してプロテスタント諸侯らを迫害。これに反発したプラハの市民が、王の顧問官2人と秘書官を捕まえてプラハ城の3階の窓から外へ放り投げた事件(干し草の上に落ちたため助かる)。プロテスタント諸侯は、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎えて神聖ローマ帝国からの離反の動きを見せる。
    7月24日(元和4年 6月 3日)肥前龍造寺氏に代わって佐賀藩の基礎を築いた鍋島直茂が耳の腫瘍で苦しみながら亡くなる。そのため、主権を回復できずに恨んで死亡した龍造寺高房の呪いと噂され、鍋島化け猫騒動の話が生まれる。
    8月10日(元和4年 6月20日)慶長遣欧使節の一行が、ルソンのマニラに到着。
    1619年
    明軍10万が後金の拠点ヘトゥアラ(のちの興京)攻略に向かう。
    2月12日ガルシア・デ・ノダルの探検隊が、南米最南端のホーン岬よりさらに南方約100kmのドレーク海峡の中にディエゴ・ラミレス諸島を発見する。南緯56度29分に位置する。
    (3月 1日)サルフ山付近でヌルハチ率いる後金軍が明軍を奇襲攻撃。後金軍が大勝し、明軍の司令官杜松らは戦死。
    (3月 2日)ヌルハチ率いる後金軍は、続けてシャンギャンハダの明軍を攻撃。乱戦になるも、後金軍が勝利し、明軍は退却に追い込まれる。
    (3月 4日)ダイシャン、ホンタイジらの率いる後金軍が、アブダリおよびフチャの一帯で劉綎率いる明軍を攻撃。後金軍が勝利。明軍に参加していた朝鮮軍は降伏。
    5月 1日(元和5年 3月17日)肥後で地震。八代麦島城などに被害が出る。
    10月25日(元和5年 9月18日)およつ御寮人事件。天皇家に娘の徳川和子を嫁がせることを企図していた徳川秀忠が、後水尾天皇と四辻与津子との間に男女二人の子(賀茂宮・文智女王)が生まれていたことを知って激怒し、四辻与津子と子供を宮中から追放し、万里小路充房・四辻季継・高倉嗣良を流罪、中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にする。憤慨した天皇は譲位を口にするが、幕府の使者藤堂高虎が和子入内が実現しないなら宮中で切腹すると脅し、天皇は幕府に従うことになった。四辻与津子は猪熊事件の猪熊教利の妹でもある。
    オランダ船ホワイトライオン号がスペイン船と交戦した際にアフリカから連れてこられた奴隷20人を捕らえバージニア植民地へ輸送する。アメリカに送られたアフリカ人奴隷でもっとも古い記録。この頃はまだ年季奉公に近く、年季明けには解放されていた例もあったとみられるが、彼らがアフリカに戻れたわけではない。
    1620年
    1月23日(元和5年12月19日)直江兼続が死去。上杉景勝の家老で、上杉藩のトップとして差配した戦国武将。
    5月26日(元和6年 4月24日)イングランド出身の船乗りで徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムス(三浦按針)死去
    7月28日(元和6年 6月29日)宇和島藩で和霊騒動が起きる。初代藩主伊達秀宗に父親の政宗がお目付けとして付けた筆頭家老山家公頼が、重臣桜田元親の一派に自邸を襲撃され殺害される。子供と、娘婿の塩谷内匠、その子供も殺害された。桜田元親は大坂にいたことや秀宗がこの事件を幕府にも仙台の政宗にも報告しなかったため、秀宗が山家公頼を疎んじて命じた事件とされる。政宗がこれを知って激怒し宇和島藩の改易を幕府に申し出たが老中土井利勝は受理せず事なきを得た。その後、桜田元親をはじめ山家公頼の政敵だった重臣らが相次いで事故死し、秀宗の子供らも早世するなど不幸が続いたことから、山家公頼の怨念の噂が広がり、秀宗は後に山頼和霊神社(のち和霊神社)を創建した。なお、政宗と秀宗の関係は事件以前に悪化していたが、これを機会に話し合って改善したという。
    8月18日(万暦48年 7月20日)明の万暦帝が死去。初期の10年は厳格で権力者だった宰相の張居正のもとで大規模な改革が行われ、経済も盛んになり、国家財政も良くなったが、張居正死去後はその反動で堕落し、党人官僚と宦官の党争、対外戦争や反乱の頻発で財政が悪化。増税と厳しい取り立てで民衆の反感を買い、国家崩壊を加速させた。「明朝は万暦に滅ぶ」と史書にある。
    8月28日(泰昌元年 8月28日)万暦帝の長男朱常洛が即位(泰昌帝)。
    9月20日(元和6年 8月24日)慶長遣欧使節の一行が、日本に帰国。
    9月26日(泰昌元年 9月 1日)即位したばかりの明の泰昌帝が急死。下痢となったため、紅丸(丸薬)を服用したところ、2回目の服用時ににわかに悪化して死亡したという。そのため暗殺説もある。即位に伴う改元は翌年元日のため改元されていなかったが、皇帝が急死したため、遡って予定されていた泰昌に改元した。
    10月 1日(泰昌元年 9月 6日)泰昌帝の長男朱由校が即位(天啓帝)。
    11月 8日白山(ビーラー・ホラ)の戦い。ボヘミアのプロテスタント諸侯らが神聖ローマ帝国から離反しようとしたため、ボヘミア王国の支配者ハプスブルク家などが制圧を図った戦い。半日でカトリック側の勝利に終わり、諸侯ら27人が処刑され、多くのプロテスタント諸侯や市民が追放される。ハプスブルク家によるボヘミア支配が強化され、三十年戦争が激化する要因となった。
    11月20日メイフラワー誓約が交わされる。アメリカ初期の移民が乗った船、メイフラワー号が、目的地と違う場所に到着したため、乗船していた亡命ピューリタンらが安定した入植のために、公正で平等な法律を整備することをお互いに契約する。
    1622年
    5月29日(元和8年 4月19日)日光参詣に赴いていた将軍徳川秀忠が、帰路に泊まる予定だった本多正純の宇都宮城を素通りして壬生城に入る。宇都宮城内で将軍暗殺の仕掛けが用意されているという話が起きたため。いわゆる宇都宮城釣天井事件。
    8月19日(元和8年 7月13日)朱印船船長の平山常陳とスペイン人で宣教師のペトロ・デ・スニガ、ルイス・フロレスほか、船員12名が処刑される。朱印船に2人を乗せていたことを、スペイン・ポルトガルから日本市場を奪おうと考えていたイギリスとオランダの商館が問題視したことから起きた事件。以降のキリシタン弾圧事件のきっかけとなった。
    9月10日(元和8年 8月 5日)元和の大殉教。キリスト教の司祭9名を含む信徒55名が、長崎西坂で処刑される。
    9月26日(元和8年 8月21日)出羽山形57万石が改易となる。若年の藩主最上家信(義俊)に対して家臣らが反発し、家信の叔父で山野辺家を継いでいた山野辺義忠の擁立を画策したことで藩内が分裂。幕府が仲裁に入ったが両者譲らず、改易処分となた。通称「最上騒動」。家信は近江大森1万石を新たに与えられ、山野辺義忠は岡山藩に預けられたが、後に幕命で水戸徳川家に仕えることになり家老職を与えられた。また改易に伴う山形城接収のさなかに、城受取の役についていた本多正純へ、謀反の問使が送られる事件が発生。
    (元和8年 9月)宇都宮15万石藩主本多正純が改易となる。直接の原因は4月に起きた宇都宮城釣天井事件だが、実際には権勢を誇った正純への不満が、将軍秀忠や幕閣らにあったためとも言われる。
    1623年
    2月10日アンボイナ事件。オランダ領東インドに属していたアンボイナ島で、オランダ東インド会社が、同地のイギリス東インド会社を襲撃した事件。モルッカ諸島の香辛料については、オランダ・イギリス両政府で交渉が成立していたが、現地総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンはこれに不服で、独断でイギリス勢力の排除に乗り出したものと思われる。
    3月 9日アンボイナ事件で、オランダ東インド会社は、捕らえたイギリス東インド会社の関係者のうち、イギリス人9人、日本人10人、ポルトガル人1人を処刑。この時代、東南アジア一帯に大勢の日本人が渡っており、傭兵などをしていたとされる。イギリスはこの事件を機に極東・東南アジアから撤退しインドの植民地化に乗り出す。のちに英蘭講和条約でこの事件の解決が図られ、その内容として賠償金の他アメリカ東岸のマンハッタン島の支配権も移ることになる。結果的にこの事件はイギリス躍進のきっかけになっている。
    12月 4日(元和9年10月13日)江戸高輪大木戸の処刑場でキリスト教徒50人が処刑される。
    1624年
    4月 2日(寛永元年 2月15日)山城の狂言師出身の猿若勘三郎が江戸で座を開き興行をはじめる。のちの中村座。江戸歌舞伎の始まり。
    8月26日(寛永元年 7月13日)豊臣秀吉の親族で、安芸広島藩の大名だったこともある福島正則が死去。
    10月17日(寛永元年 9月 6日)豊臣秀吉の正室、高台院が死去。通称北政所ねね。「北政所」は公卿の正室の呼称だが、ねね以降は彼女を指す言葉になった。大名並みの約1万7000石を遺し、そのうち、3000石を親族で養子の羽柴利次(のち木下利次)が受け継いだ。利次は豊臣家の社稷継承を幕府から許されており、子孫は豊臣姓木下家として旗本寄合となっている。
    1625年
    1月21日(寛永元年12月13日)安芸国で大地震。広島城などに大きな被害が出る。
    7月21日(寛永2年 6月17日)肥後国で大地震。熊本城内の火薬庫が爆発し、城内に大きな被害が出る。地震の死者はおよそ50人。
    (寛永2年11月)上野山に寛永寺が創建される。創建したのは天海。このときは徳川家の菩提寺ではなく祈願寺。
    1626年
    5月 6日オランダ西インド会社がインディアンからマンハッタン島を25ドルで買収し、ニーウアムステルダムと命名(25ドルの話はあくまで伝承)。実際、この頃入植が始まったと見られる。
    5月30日(天啓6年 5月 6日)王恭廠大爆発事件。北京の西南にあった兵器廠・火薬庫である「王恭廠」が突如大爆発を起こす。家屋など多数が倒壊。爆風などで2万人以上が死亡、膨大な数の負傷者が出る。紫禁城内でも爆風で飛ばされたり、破片が当たるなどして多数が死亡。幼児だった皇太子も死亡した。爆音は北京郊外にまで轟き、地面が大きく揺れて振動は遠く天津や大同などにまで到達。大きなキノコ雲が上がり、瓦礫や人畜のばらばらになった死体が降り注いだという。また遺体の多くが裸になっていた。記録などからTNT火薬換算で20ktもの爆発だったとされる(広島の原爆とほぼ同じ)。火薬庫だったため、大量の火薬の爆発とも考えられるが、当時の黒色火薬でここまでの爆発が同時に起きるのか、また爆心地付近で火災が起きてないことなどから、小型の隕石が衝突したという説も有力。天啓帝は「罪己詔」を発して反省を唱えざるを得なかった。
    11月 3日(寛永3年 9月15日)江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠の正室、崇源院(江)が死去。浅井三姉妹の三女。
    1627年
    9月30日(天啓7年 8月21日)明王朝16代皇帝の天啓帝が死去。政治の実権は宦官の魏忠賢が握っていたため、傀儡の皇帝だった。
    10月 2日(天啓7年 8月24日)明王朝15代皇帝の泰昌帝の5男の朱由検が17代皇帝に即位(崇禎帝)。
    10月22日(寛永4年 9月14日)信濃松代で大きな地震。
    12月11日(天啓7年11月 4日)明王朝の宦官で政治の実権を握り権勢を誇っていた魏忠賢が、即位したばかりの崇禎帝により罪に問われたことで自殺。一族も処刑された。
    この年、江戸幕府は、朝廷が幕府に相談もなく紫衣を勅許したとしてこれを無効にし、紫衣を取り上げる(紫衣事件)。沢庵宗彭らがこれに抗弁。
    この年、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが「ルドルフ星表」を作成。占星術などに使うため惑星の位置推算表や恒星カタログなどを付けたもので、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の勅命によって作られた。
    この年、家畜牛の先祖でもある野生のオーロックスが絶滅。
    1628年
    6月(寛永5年 5月)台湾のオランダ支配地タイオワン(台南安平)でオランダ行政長官のピーテル・ノイツと朱印船貿易商人浜田弥兵衛が紛争を起こしノイツを人質にする事件が起きる。貿易船への関税と日本人への態度が原因とされる。この一件で長崎代官の末次平蔵は解任・捕縛されたが、オランダ側がノイツの身柄を差し出したため、オランダ貿易は存続することになり、台湾も自由貿易地となった。
    8月10日(寛永5年 7月11日)武蔵国から相模国にかけて大きな地震が発生。江戸城などで被害。
    8月10日スウェーデンで建造された大型の戦列艦ヴァーサ号が初航海の出港まもなく横風を受けて横転沈没。333年後の1961年に引き上げられたが、低温のバルト海海底だったこともあり保存状態がよく、原型の姿を留めていた。
    9月 7日(寛永5年 8月10日)江戸城西の丸で、旗本で目付の豊島信満が老中井上正就を突如斬り殺す。初の江戸城中刃傷事件。また、その場に居合わせた番士の青木義精が豊島を押さえようとしたところ、豊島は脇差を自分に突き刺し自害、脇差は体を貫いて青木に突き刺さり、青木も死亡。事件の背景には、井上正就の子正利と大坂町奉行島田直時の娘の縁談を、豊島が仲立ちして成立したのに、春日局が横槍を入れて鳥居成次の娘の縁談を持ち込んで破談させたことにある。老中酒井忠勝は、豊島の行為を認めた上で嫡男のみを連座で切腹させて収拾を図った。紀州藩は信満の別の子を藩士に登用。正就の横須賀藩は正利が相続。
    10月23日(寛永5年10月 7日)江戸城西の丸での旗本豊島信満による老中井上正就殺害事件を受けて、原因となった破談の当事者であった島田直時は豊島信満に申し訳ないとして切腹。
    ウイリアム・ハーベーが、『動物における血液と心臓の運動について』を発表。この中で初めて血液循環説を唱える。これは大論争に発展するが、徐々に浸透していく。
    1629年
    1月19日サファヴィー朝のアッバース1世が死去。絶対君主制、近代化、西欧諸国との同盟で同王朝の最盛期を作り上げたが、その死後、サファヴィー朝は徐々に衰退していく。
    江戸幕府、紫衣事件に抗弁した沢庵宗彭らを流罪とする。
    翌年にかけて、ミラノなどでペストが流行。大勢の死者を出す。
    1630年
    6月10日(寛永7年 4月30日)織田常真(信雄)死去。織田信長の次男。本能寺の変の後、一時期織田家の当主だったともいわれる。秀吉政権下で改易された後、御伽衆の筆頭。関ケ原では親子ともども西軍についたとされ改易。大阪の陣では一旦豊臣方に付くも離脱。役後に大和や上野など各地に5万石を与えられ大名に復したが子供に任せ、自身は京で悠々自適に暮らしたという。
    7月 5日(寛永7年 5月25日)元長崎代官の末次平蔵が、江戸で収監中に殺害される。詳細は不明。幕府高官の密貿易を知っていたための謀殺とも。
    8月 2日(寛永7年 6月24日)江戸で大きな地震。江戸城で石垣などに被害。
    9月22日(崇禎3年 8月16日)明の武将袁崇煥が、崇禎帝によって凌遅刑に処され殺害される。明に侵攻していた後金のホンタイジ側にとって、袁崇煥の存在は邪魔だったため、謀反の噂を流し、崇禎帝がそれを信じたと考えられる。袁崇煥を殺害したことで、明は防衛能力を大幅に失い、滅亡を早めた。
    11月15日近代天文学の祖と呼ばれる天文学者であり数学者でもあるヨハネス・ケプラー死去。
    1631年
    6月17日ムムターズ・マハルが亡くなる。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの第1皇妃。皇帝は彼女の死をいたみ、タージ・マハルの建設を開始。
    1632年
    7月 9日(寛永9年 5月22日)肥後熊本藩主加藤家の2代目加藤忠広が、江戸参府途上、入府を禁じられて、池上本門寺で改易を言い渡される。身柄は出羽庄内藩へ預けられた。加藤家改易の理由は諸説あるがはっきりしない。
    この頃、オスマン帝国の発明家だったヘザルフェン・アフメト・チェレビが、人工の翼を発明して、イスタンブールのガラタ塔から飛び降りる飛行実験を実施。ボスポラス海峡を飛び越え、ユスキュダルのドアンヂュラル広場に無事着陸したと言う。飛行距離は3000m以上と言われる。グライダーのようなものか。
    1633年
    1月26日(寛永9年12月17日)江戸幕府が大目付を設置する。
    3月 1日(寛永10年 1月21日)相模国、伊豆国、駿河国で大きな地震と津波が発生。小田原では小田原城や城下町で大きな被害を出す。
    4月 6日(寛永10年 2月28日)江戸幕府が鎖国令を発する。
    6月22日検邪聖省の裁判でガリレオ・ガリレイに有罪判決が下り、自説の地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。
    オスマン帝国の発明家だったラガリ・ハサン・チェレビが、7枚の羽がついたロケットのような装置に火薬を詰め、それに乗り込んだ上で点火し有人飛行実験を行ったといわれる。数十メートル飛行し、火薬が燃え尽きると、体につけた翼で降下し、ボスポラス海峡に着水したという。この実験の話はヨーロッパにも伝えられた。事実であれば、記録上人類最初の動力装置による飛行実験をした人物となる。ラガリの兄は人工の翼で飛行実験をしたヘザルフェン・アフメト・チェレビ。
    1634年
    12月26日(寛永11年11月 7日)鍵屋の辻の決闘。日本三大仇討ち一つ。渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟で岡山藩主池田忠雄の小姓だった渡辺源太夫の仇である河合又五郎とその護衛を討つ。
    この年、将軍徳川家光が向井将監に建造を命じた御座船「安宅丸」が完成。竜骨の長さが125尺、肩幅53.6尺、二層の天守があり、銅板張りで、帆と2人掛かりの100挺の艫で動かす巨船。軍船構造だったが実用性は乏しかったとみられる。
    1636年
    9月18日マサチューセッツ湾植民地議会でカレッジの創設が決定する。ジョン・ハーバードの遺産をもとに設立されたのがハーバード大学。
    1637年
    2月 3日オランダで庶民まで巻き込んだチューリップバブルが崩壊。
    12月11日(寛永14年10月25日)島原の乱勃発。肥前島原半島を領有する島原藩(藩主松倉勝家)と、肥前唐津藩(藩主寺沢堅高)の飛地である肥後天草諸島の領民が、それぞれに圧政に抵抗して起こしたもので、改易された小西家や加藤家の旧藩士やキリシタンも加わっていた。一揆勢はその後合流して益田四郎時貞(天草四郎)を擁立。島原では島原藩の代官所を襲い、天草では本渡城を襲うなど大規模なものに発展。長崎を襲う計画もあったと言われる。
    12月30日(寛永14年11月14日)天草諸島の一揆勢が、富岡城を攻め、富岡城代の三宅重利は自刃。三宅重利は明智秀満の子と言われる。両藩で手に負えなくなったことから、幕府は板倉重昌と石谷貞清を派遣して、九州諸藩の大名に動員令を発する。
    1638年
    1月24日(寛永14年12月10日)島原の乱で、板倉重昌が原城を攻めるが失敗。
    2月 3日(寛永14年12月20日)島原の乱で、板倉重昌が再度原城を攻めるが失敗。原城が堅固な上に、一揆勢の士気は高く、逆に攻め手側の九州諸藩は負担が重い上に、指揮を執る板倉重昌は1万5千石の三河深溝藩主、石谷貞清は旗本と地位が低かったこともあって、その指揮下に置かれることに反発もあったと見られる。
    2月14日(寛永15年 1月 1日)幕府は島原の乱で進展が見られないことから、老中松平信綱が新たに指揮官として派遣されることになり、それを知った板倉重昌が焦りから総攻めを強行。4000人が戦死する大敗を喫し、板倉自身も三会村金作(駒木根友房)に狙撃されて戦死する。
    2月19日(寛永15年 1月 6日)オランダ商館長クーケバッケルが、長崎奉行の依頼を受けて、艦載砲を幕府方に提供。
    2月24日(寛永15年 1月10日)幕府は島原の乱への増援を決め、水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じる。
    2月26日(寛永15年 1月12日)オランダ船デ・ライプ号が、原城への艦砲射撃をはじめる。
    3月13日(寛永15年 1月28日)川越で大火。市街地と川越城、喜多院、中院、南院、東照宮なども焼失。このあと松平信綱が新たに町割りをして再建したのが現在の川越の原型。
    4月11日(寛永15年 2月27日)松平信綱指揮する12万の兵が、原城への総攻撃を行い、原城は陥落する。乱側はほぼ全滅。天草四郎は肥後藩士陣佐左衛門に討ち取られた(幕府は天草四郎の容姿を知らなかったため、天草四郎の母親マルタが陣佐左衛門の討ち取った少年の首を見て泣いたので判断した)。実質の指導者とも言われる天草四郎の父親益田好次や参謀役の蘆塚忠右衛門らも討ち死にした。なお一揆軍は脱出に成功したものや降伏したものもかなりいるという説もある。
    1640年
    7月31日(寛永17年 6月13日)蝦夷駒ヶ岳の噴火が始まる。山頂600mほどが大きく崩壊し、土砂が内浦湾になだれ込んで大津波が発生。火道が崩壊したことで火砕流が起き、続けて大規模なプリニー噴火が発生する。規模の大きな噴火は3日ほどで収束したが津波被害などで約700名が死亡、100艘あまりの船が流出。
    11月23日(寛永17年10月10日)加賀大聖寺で地震。多数の家屋が損壊。死傷者多数。
    (寛永17年)この頃から各地で飢饉が広がり始める。蝦夷駒ヶ岳噴火による降灰の影響もあったと見られる。
    1641年
    3月10日(寛永18年 1月29日)桶町の大火。江戸京橋桶町1丁目から出火。強風に煽られて延焼していき、東は海岸まで、南は芝宇田川町まで、西は麻布まで広がる。97町が被害を受け、大名・旗本屋敷121、同心屋敷56、全体で1924軒が焼失。数百人が焼死。消火活動の陣頭指揮を執った旗本で大目付の加賀爪忠澄も煙に巻かれて死亡。要所の火消役(所々火消)を担当した相馬中村藩主の相馬義胤は消火作業中に落馬して重症を負う。大名火消し制度の設立のきっかけになった大火。
    (寛永18年)天候不順などで飢饉が全国規模に拡大。寛永の大飢饉。幕府による武断政治の悪影響も大きかったとされる。
    1642年
    (寛永19年 5月)幕府が各大名に、帰藩して飢饉対策をするよう命じる。
    7月10日第1次イングランド内戦勃発。王党派(国王軍)と議会派(議会軍)の内戦。王党派はアイルランドと、議会派はスコットランドと盟約。
    8月10日ポーツマス包囲戦(第1次イングランド内戦)。
    1643年
    (寛永20年 3月)幕府より田畑永代売買禁止令が発布される。大飢饉による農民の没落を防ぐため、天領の代官あてに出された法令。
    6月30日アドウォルトン・ムーアの戦い(第1次イングランド内戦)。この頃まではまとまりの欠く議会軍が劣勢にあった。
    7月25日(寛永20年 6月10日)オランダの金銀島探索隊の2隻の船のうちブレスケンス号が補給のため盛岡藩山田浦に現れる。住民は歓待し、補給を受けて出港。この一件が盛岡藩に伝わる。
    9月11日(寛永20年 7月28日)ブレスケンス号がふたたび盛岡藩山田浦に現れる。乗員10人が歓待を受けているところを狙い盛岡藩によって捕縛される。藩主南部重直は、彼らを謁見して身元を確認。オランダ人で、宣教師ではないことから、その後は待遇を改め、身柄は江戸へ移される。
    11月 6日ベイジングハウス包囲戦が始まる(第1次イングランド内戦)。
    この年、エヴァンジェリスタ・トリチェリが、水銀を満たしたガラス管を使って実験を行い、水銀の高さが約76cmで止まり、その上は真空になることを発見。大気圧によるものであるとの結論に至る(トリチェリの真空)。水銀気圧計の元ともなった。
    1644年
    1月17日(寛永20年12月 8日)ブレスケンス号の船長以下10人が、江戸に出府したオランダ商館長の交渉もあり、帰国が認められる。
    1月25日ナントウィッチの戦い(第1次イングランド内戦)。
    4月25日(崇禎17年/永昌元年 3月19日)李自成が北京を陥落させて、崇禎帝が自殺し明王朝が滅亡。李自成による順王朝が成立。崇禎帝は自ら家族を斬ったうえで自殺したが、ただ一人最後まで皇帝に従っていた宦官の王承恩は負傷した長平公主らを逃した後で殉死した。そのため、崇禎帝の評価は低いが、王承恩は宦官には珍しく忠義の人として評価されている。一方、山海関の守将だった呉三桂が満洲族の清王朝に寝返り(寵愛する陳円円を李自成軍に奪われたためという)、清軍とともに南下し北京を攻略。李自成はわずか40日で北京から敗走した。
    7月 2日マーストン・ムーアの戦い(第1次イングランド内戦)。議会派が圧勝。東部連合軍を率いたオリバー・クロムウェルが台頭する。
    7月22日(崇禎17年 6月19日)明の鳳陽総督の馬士英・阮大鋮らによって福王朱由崧が擁立されて即位(弘光帝)。南明政権の初代皇帝。
    10月18日(正保元年 9月18日)羽後で大地震。本荘藩の本荘城や周辺で大きな被害を出す。
    1645年
    4月 3日イングランド長期議会で、辞退条例が可決成立。貴族の軍司令官のいい加減さを批判したオリバー・クロムウェルが訴え、上下両院議員は軍人を兼任しない(40日以内に辞任する)という内容が成立。新軍編制のニューモデル軍が強化される。司令官のロバート・フェアファクスや、オリバー・クロムウェル自身も辞任し、ロバートの息子のトーマス・フェアファクスが司令官に、またクロムウェルは例外的に副司令官に再登用される。この二人が議会軍を勝利へと導くことになる。
    4月11日(正保2年 3月15日)赤穂藩主池田輝興が、突如正室の亀子姫と侍女数人を斬殺、側室を負傷させる事件を起こす。それまで比較的まともな治世を行っていた人物だけに何があったのか不明。後の浅野内匠頭改易(「元禄赤穂事件」)、脇坂家在番時代の家臣刃傷事件(「脇坂赤穂事件」)、森主税暗殺(「文久赤穂事件」)と区別し、「正保赤穂事件」と呼ばれる。
    4月16日(正保2年 3月20日)赤穂藩主池田輝興が改易され岡山藩主池田光政預かりとなる。赤穂には笠間藩主浅野長直が転封。
    6月10日(永昌2年 5月17日)各地を転戦していた李自成が九宮山で農民の手で殺される(僧侶に変装して落ち延びたという説もある)。李自成を単に時勢に乗った流賊とみるか、圧政に抗した農民反乱指導者と見るかは、中国でも意見が分かれている。
    6月14日ネイズビーの戦い(第1次イングランド内戦)。王党派(国王軍)が甚大な被害を出して敗退。
    6月(順治2年/弘光元年)清朝の予親王多鐸の率いる軍勢が南明の揚州に攻め込み南京も攻略。弘光帝も捕らえられる。この際、多鐸軍が揚州で大虐殺を行う(いわゆる「揚州十日」)。80万人が殺されたと言われるが、人口よりかなり多い数なので誇張と見られる。
    9月10日ブリストル包囲戦(第1次イングランド内戦)。王党派(国王軍)のブリストルが陥落。
    10月13日ベイジングハウス包囲戦が終結(第1次イングランド内戦)。最終的に議会派が勝利するも、国会議員に多数の犠牲者を出す。
    1646年
    1月19日(正保2年12月 3日)神号東照大権現となっていた徳川家康に対し、朝廷から東照宮の宮号が宣下される。
    2月16日トリントンの戦い(第1次イングランド内戦)。王党派と議会派の市街戦のさなかに、トリントン教会に保管されていた火薬に引火、大爆発を起こし、王党派は敗退。
    6月 9日(正保3年 4月26日)東北南部から関東にかけて大きな地震。仙台や会津、日光などで被害。
    6月24日オックスフォード包囲戦(第1次イングランド内戦)。王党派の拠点だったオックスフォードが陥落。国王チャールズ1世は敗走してスコットランドへ亡命することになる。
    1647年
    1月 2日(大順3年11月27日)大西の皇帝を称していた張献忠が、清の粛親王ホーゲの軍勢に敗れ射殺される。張献忠は蜀の主要部分を一時支配して「大西」を建国したが、人民から官僚、部下の兵士、側近、自分の家族に至るまで空前の大虐殺を行ったと言われる人物。蜀の人口は1578年に310万人いたが、1685年には1万8000人しかいない。四川人がほぼ絶滅し、その後、中央から大規模な移民が行われたため、四川方言が中央の言葉に近い要因ともされる。この大虐殺を「屠蜀」と呼ぶ。ただし、張献忠の記録の多くが清朝時代に書かれており、清朝軍による蛮行も張献忠の仕業に置き換えられたという見方もある。
    6月16日(正保4年 5月14日)武蔵国から相模国にかけて大地震。江戸市中や小田原城下で建物や城壁などの倒壊被害。
    1648年
    4月 7日(正保5年 2月15日)正保から慶安に改元。正保が焼亡に似ているとか、保元の時のように乱世になると否定的な意見が広まったため。
    10月24日ヨーロッパの主要国が参加してヴェストファーレン条約締結。カトリック勢力とプロテスタント勢力の講和を図るオスナブリュック講和条約と、神聖ローマ皇帝とフランス国王との講和を図るミュンスター講和条約が成立。三十年戦争は終結。神聖ローマ帝国の集権化が崩壊し、以後主要な地域大国に分かれていく。またスイス誓約者同盟とネーデルラント連邦共和国が神聖ローマ帝国から公式に分離し独立国となる。
    ロシアの探検家セミョン・デジニョフがロシアとアラスカの間の海域(のちのベーリング海)を探検。
    1649年
    7月30日(慶安2年 6月21日)武蔵国から下野国にかけて大地震。江戸や川越などで大きな被害を出す。上野東照宮の大仏の頭が落下。石垣の崩落や建物の倒壊が多数発生し死者多数を出す。
    9月 1日(慶安2年 7月25日)武蔵国南部で大地震。川崎で町家の150軒ほどと寺院7つで建造物が倒壊。死傷者多数。
    1650年
    5月 7日(慶安3年 4月 7日)オランダ東インド会社からの特使が江戸城に登城。老中と会見(将軍家光はこの時病臥中だった)。ブレスケンス号事件の際に幕府が乗員の釈放を認めたことに対する返礼がなかったことで幕府が態度を硬化させたため、オランダ東インド会社側から謝礼使として送られたもの。外科医のカスパル・シャムペルゲル(蘭方医学カスパル流外科術の祖)も同行。また先のオランダ商館長でこの時同社のバタヴィア商務総監だったフランソワ・カロンは、幕府が破壊力のある炸裂弾を発射できる臼砲を欲しがってることを知っていたため、同社のスウェーデン人砲術士官ユリアン・スヘーデルを一行に加え、同じ砲術士官のヤン・スミットとともに、幕府に臼砲2門を献上している。
    5月13日(慶安3年 4月13日)町奴の頭領、幡随院長兵衛が死去。なお、歌舞伎などの物語では1657年8月27日(明暦3年7月18日)に敵対する水野十郎左衛門の屋敷で殺害されたことになっている。
    5月 7日(慶安3年 9月 1日)オランダ東インド会社からの特使とともに来て江戸に残っていた砲術士官ユリアン・スヘーデルとヤン・スミットが、江戸郊外の牟礼野(現三鷹市牟礼)で、軍事演習と実地指導を行う。スヘーデルの測量砲術は北条氏長(北条流軍学者で鉄砲頭・後大目付)を経て紅毛流測量術として伝わる。また三角測量法を日本に最初にもたらした人物と言われる。
    11月 4日(慶安3年10月11日)沢野忠庵ことクリストヴァン・フェレイラが死去。もとはポルトガルの宣教師で日本管区長代理を務めていたが幕府に捕らえられ、拷問の末に棄教。以後は沢野忠庵と名乗り、キリスト教弾圧に協力した他、天文学や医学の知識を伝えた。フェレイラの棄教はカトリック教会、宣教組織である修道会イエズス会にとって大きな衝撃だったと言われる。
    1651年
    6月 8日(慶安4年 4月20日)徳川家光死去。
    9月 7日(慶安4年 7月23日)密告により丸橋忠弥が捕縛され、由井正雪の陰謀が露見する。いわゆる慶安の変。
    9月10日(慶安4年 7月26日)由井正雪が駿府の宿で捕り方に囲まれ自決。
    9月14日(慶安4年 7月30日)由井正雪の同志だった金井半兵衛が由井正雪の死を知り大阪で自決。
    9月24日(慶安4年 8月10日)丸橋忠弥が処刑される。長宗我部盛親と側室との子、長宗我部盛澄という説もある。
    10月 2日(慶安4年 8月18日)徳川家綱が第4代征夷大将軍となる。
    1652年
    10月15日(慶安5年 9月13日)承応事件。浪人別木庄左衛門らが徳川秀忠夫人崇源院の27回忌を利用して火を放ち老中らを暗殺しようとした事件。
    1653年
    2月10日(承応2年 1月13日)幕府が玉川上水建設を許可。
    このころ、タージ・マハルが完成する。
    1654年
    5月 8日マクデブルクの半球実験。神聖ローマ帝国の都市マクデブルクの市長で科学者のオットー・フォン・ゲーリケが、自作した銅製の半球同士をくっつけて内部を真空にした球体を馬16頭で引っ張って分離する実験を、レーゲンスブルク市の帝国議会議事堂前で行う。神聖ローマ皇帝フェルディナント3世がこれを見学。この実験で、真空と大気圧の力が証明される。
    10月12日オランダのデルフトで、クラリスト修道院の火薬庫に保管してあった火薬店の火薬約30tが爆発。市街地に大きな被害をだし、100人以上が死亡。
    1655年
    3月25日オランダの天文学者クリスティアーン・ホイヘンスが自作の望遠鏡で土星の衛星タイタンを発見。
    12月17日(明暦元年11月20日)「最後の戦国大名」宇喜多秀家が八丈島で死去。戦国大名宇喜多直家の子で、秀吉の猶子となり豊臣政権の五大老の一人。関ヶ原後に改易され八丈島に流される。元和2年に幕府より罪は許されたが、妻の実家の加賀前田家や元宇喜多家重臣で旗本の花房正成による大名復帰の斡旋を断ったという話もある。
    1656年
    8月22日(明暦2年 7月 3日)美濃青野の領主で旗本の稲葉正吉が、駿府城護衛のさなか、男色のもつれから、家臣の安藤甚五右衛門・松永喜内と争いになり、殺害される。領地は嫡男の稲葉正休があとを継ぎ、正休は要職を歴任して加増され大名となったが、のちに江戸城中で老中堀田正俊を殺害する事件を起こす。
    11月(明暦2年10月)幕府は江戸日本橋葺屋町に隣接していた吉原遊郭に対し、本所か浅草への移転を命じる。吉原遊廓は浅草日本堤への移転に同意(新吉原)。幕府は移転の代わりに遊郭の敷地拡大、夜間営業の許可、風呂屋と呼ばれた私娼窟の取り締まり、周辺火事への対応免除、15000両の賦与を決定。
    1657年
    1月30日(明暦2年12月16日)茶人金森宗和が死去。元は武将で金森可重の嫡男だったが、大坂の陣に異論を唱えたことで廃嫡となり、以後茶人として生きた。皇族や公家、将軍家にも親しまれた宗和流茶道の祖。御室焼の陶工野々村仁清を指導したことでも知られる。
    2月 7日(明暦2年12月24日)吉原遊郭を日本橋から浅草千束日本堤へ移転させる。幕府は約束通り、丹前風呂と呼ばれた堀丹後守下屋敷前の風呂屋群など200軒を廃業とした。丹前風呂の人気湯女で「丹前文化」の担い手だった勝山、幾夜、采女なども、新吉原に移っている。
    3月 2日(明暦3年 1月18日)明暦の大火「振袖火事」が起こる。死者3万~10万人とも言われ、江戸入府以来の江戸の街は焼失し、新たに拡大された江戸が誕生することになる。
    4月10日(明暦3年 2月27日)水戸藩で『大日本史』の編纂がはじまる
    8月27日(明暦3年 7月18日)歌舞伎などで、町奴の頭領、幡随院長兵衛が敵対する旗本奴の水野十郎左衛門の屋敷で殺害された日(あくまで創作上の日付)。
    11月16日(明暦3年10月11日)肥前大村藩で郡村矢次の農民でキリシタンの兵作が捕らえられる。キリシタン大量検挙となった郡崩れのはじまり。
    この年、メディチ家の支援で科学研究団体アカデミア・デル・チメントがフィレンツェに設立される。活動期間は10年ほどだったが、各国の科学アカデミー設立へと広がっていくことになる。
    1658年
    この年、明の復興を目指す鄭成功が大軍を率いて北伐に向かう。しかし南京攻略戦に失敗。
    1659年
    4月21日(万治2年 2月30日)会津から下野にかけて大きな地震。猪苗代城で石垣崩落、会津田島で民家297軒倒壊、塩原温泉郷で土砂崩れにより死者多数。
    1660年
    7月25日(万治3年 6月18日)大坂城青屋門の焔硝蔵に落雷があり、貯蔵していた火薬2万1985貫600匁が大爆発。爆風で天守・御殿などが損壊、城外も含む1481戸が倒壊する。城内にいた29人と城外の3人が死亡。130人以上が負傷する大惨事となる。青屋門は東に14kmの生駒山系暗峠まで飛んだと言われる。
    8月23日(万治3年 7月18日)幕府は仙台藩3代藩主の伊達綱宗を、放蕩を理由に強制的に隠居させ、嫡子でまだ2歳の亀千代を4代藩主に据える。一関藩主で叔父に当たる伊達宗勝が縁戚の池田光政、立花忠茂、京極高国と連名で老中首座の酒井忠清に願い出たものを受けてのこと。伊達騒動の始まりとなり、のちの寛文事件の原因となった。伊達綱宗が放蕩だったかははっきりせず、後西天皇の従兄弟だった綱宗を隠居させて伊達氏の力を削ぎたい酒井忠清と、仙台藩の実権を握りたい伊達宗勝による陰謀説もある。綱宗の4人の側近も殺害された。隠居後の綱宗は絵画や工芸に没頭し、多数の名作を残している。
    1661年
    この年、鄭成功が再起を図るため、台湾に移動。オランダ東インド会社の勢力を駆逐し、政権を樹立。
    1662年
    5月 4日(寛文2年 3月16日)徳川家光の側近で川越藩主の老中、松平信綱が死去。
    6月16日(寛文2年 5月 1日)畿内を中心に東海・信濃にかけて大地震。特に琵琶湖周辺の被害が甚大で、唐崎、大溝、彦根などでそれぞれ家屋倒壊千軒以上、死傷者多数。京都でも町家など千軒以上が倒壊し200人余りが死亡する。比良断層、花折断層などが震源か。
    6月23日(永暦16年 5月 8日)鄭成功死去。台湾政権はのちに東寧王朝と呼ばれる。
    10月31日(寛文2年 9月20日)外所(とんところ)地震。日向灘で発生した推定マグニチュード7.6の大地震。日向国内各藩で大きな揺れを観測後、大津波が日向国と大隅国の沿岸部に襲来。沿岸部の7つの村8500石が水没し、また家屋3700件が損壊。死者200人以上。飫肥藩領の正連寺平野(宮崎平野南部)一帯は水没。清武川の流れが変わり水没した入江に流れ込む。この水没地域に近い現宮崎市木花島山には、災害を伝えるため50年ごとに供養碑が作られており、現在も続いている(7基目は2007年建立)。近年、もっと巨大地震だった可能性が指摘されている。
    1663年
    8月16日(寛文3年 7月14日)有珠山が大規模噴火。焼け石などが麓に降り注ぎ、火災で5人が死亡。
    スコットランドの数学者ジェームス・グレゴリーがグレゴリー式反射望遠鏡を考案。どちらも凹面の主鏡と副鏡を対面させ、反射した像を主鏡の中央の穴を通して見る方式。実際に制作されるようになったのはニュートン式よりあと。
    1664年
    1月23日(寛文3年12月25日)明暦の大火の際に焼けた金銀の吹き直しを行った際に、目方をごまかして利潤を得ようとしたとして銀座人5人が遠島の処分を受ける。
    4月23日(寛文4年 3月27日)旗本奴として知られた水野十郎左衛門こと水野成之が行跡怠慢を理由に祖母の出自である蜂須賀家にお預けとなるところ、伊達男を気取った姿で出頭したため、切腹となる。息子百助も処刑され旗本水野家は断絶。町奴との対立を懸念したという事情もあるとみられる。
    1665年
    翌年にかけてロンドンでペストが流行。7万人が死亡したとされる。
    1666年
    1月22日ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン、幽閉先のアーグラ城で死去。タージ・マハルの建造者。
    2月 1日(寛文5年12月27日)越後西部地震。大雪の中、越後高田などで、武家屋敷や町屋敷多数が倒壊。高田城にも被害出す。火災も発生し、1500人余りが死亡する。
    9月 1日ロンドン大火。市内のパン屋から出火した火災が4日間燃え続け、市街地の85%を焼失する大火となる。死者は5名と人的被害は少なかったが、木造家屋の殆どが焼失した。現在のロンドンの原型はこのあとの都市再開発による。市街地が焼失し、菌を媒介するネズミが激減したことでペストの流行が収まったという説もある。
    3月11日(寛文6年 2月 6日)千姫死去。
    深良用水の建設が始まる。水資源に乏しい駿河東部に、箱根芦ノ湖から外輪山中を通って水を引く計画。深良村名主大庭源之丞の計画に江戸の4人の商人が資金を出して進められた。1670年完成。
    1667年
    7月31日第二次英蘭戦争が終結。ブレダの和約で、北米ニーウネーデルラント(現ニューヨーク州)はイングランド領、南米ギアナはオランダ領となる。ニーウアムステルダム市もヨーク公領となってニューヨーク市と改められる。
    11月 9日(寛文7年 9月23日)蝦夷樽前山が大噴火。
    この年、ジョン・ミルトンが長編叙事詩『失楽園』を完成する。神と戦うルシファーと、知恵の実を食べたアダムとエヴァが楽園を追放される物語。旧約聖書を題材にしているが、この作品自体がその後のキリスト教にも影響を与えた。ルシファーを英雄として描くのは、ミルトンが絶対王政と戦う共和主義者だったことも影響している。
    1668年
    3月31日(寛文8年 2月19日)宇都宮藩「追腹一件」事件。この日、宇都宮藩藩主奥平忠昌が病死。この直後、世子の奥平昌能は、忠昌の寵臣だった杉浦右衛門兵衛に「まだ生きてるのか」と詰め寄り、杉浦は切腹。当時主君の死に家臣が殉死するという悪弊が流行っており、幕府は殉死を禁じていたが、この一件を聞くと問題視し、8月に奥平家を2万石削減の上で山形9万石に転封。杉浦家の相続者を死刑とした。
    4月13日(寛文8年 3月 2日)宇都宮興禅寺刃傷事件。宇都宮藩前藩主奥平忠昌の法要の席で、奥平家の親族である奥平内蔵允と奥平隼人の重臣同士の口論から刃傷事件が起こる。奥平内蔵允は切腹。この後、藩は両家を取り潰したが、内蔵允の子息・親戚は追放処分にし、隼人とその親族は護衛を付けて江戸に送ったため、藩内でこの処分に反発し脱藩するものが40人以上でた(「追腹一件」の不満もあったとみられる)。彼らがのちに「浄瑠璃坂の仇討事件」を引き起こす。
    5月31日(寛文8年 4月21日)アイヌ部族シュムクルの指導者でハエクルの首長だったオニビシが、対立していたアイヌ部族メナシクルの首長シャクシャインとの仲介をしていた砂金堀りの和人文四郎宅で、シャクシャインの軍勢に攻め込まれ殺害される。シュムクルは松前藩と関係が良かったが、これ以降勢力を失う。
    6月 7日(寛文8年 4月28日)仙台藩士の伊東重孝が、藩主の隠居を訴えた一関藩主伊達宗勝を討つ計画が露見して処刑される。伊達騒動の事件の一つ。儒学者で剛直の士であったことから評判となり、寛文事件の要因の一つとなった。後に神社も立てられている。
    アイザック・ニュートンがニュートン式反射望遠鏡を開発。凹面の主鏡で反射した像を焦点の手前で斜めの平面鏡で方向を変え筒外に出し、焦点の接眼レンズで拡大して見る方式。コストが抑えられる上に、観測姿勢が楽なので天体観測用の大型望遠鏡で普及した。
    1669年
    3月 8日イタリアのエトナ山で噴火が始まる。7月まで大規模な噴火が続き、死者1万人。
    6月21日(寛文9年 6月 4日)蝦夷でシャクシャイン主導のもと2000人以上のアイヌの大規模蜂起が起きる。シャクシャインの戦い。各地の和人が襲われ、主に老人や婦女子ら356人が殺される。背景にはシャクシャイン率いるアイヌ部族メナシクルと、オニビシが率いていたシュムクル部族の争いがあり、アイヌ交易の独占権を得た松前藩による蝦夷島各地での商場知行制への移行(アイヌの交易範囲が限定された)などによる和人への不満のなか、シャクシャインに殺されたオニビシの一派が松前藩に武器の提供を求め、争乱を避けたい松前藩に拒否される。ところが、この交渉にあたったオニビシの姉婿のウタフが病死したことで、和人に殺されたという話が広がり、これに乗じてシャクシャインが蜂起を呼びかけた。松前藩は幕府に支援を要請し、幕府は弘前藩、南部藩、秋田藩に援兵を命じる。
    7月コサックのアタマン(指導者)スチェパン・ラージン率いる盗賊団に対し、ペルシアが討伐軍を出すも敗北。
    9月16日(寛文9年 8月21日)松前藩がシャクシャインに対し攻勢を開始。兵を指揮した松前泰広(松前藩主の一族で旗本)は、各地の部族の首長に恭順を呼びかけ、部族間の対立や、松前藩と親しい関係にあったものもあり、シャクシャインから離反する部族が相次ぐ。
    11月16日(寛文9年10月23日)松前藩がシャクシャインに和睦を呼びかけ、それに応じたシャクシャインがピポクの松前陣営に出向いたところ、和睦の酒宴中に謀殺される。松前藩としては戦乱が長期化して交易ができなくなることや、蝦夷島の権益を失ったり改易を恐れたためと見られる。
    11月17日(寛文9年10月24日)シャクシャインの居城だったシブチャリのチャシも陥落。シャクシャインの戦いは終結に向かう。これ以降松前藩のアイヌに対する支配が強まる。一連の背景には1600年代前半に相次いだ蝦夷地での火山の大噴火による環境の悪化もあるとされる。この戦いで弘前藩の援兵を率いた杉山吉成は、石田三成の孫(石田重成の子)で、石田家と交流があった弘前藩津軽家に保護され、藩主津軽信枚の娘を妻にして重臣となった人物。幕府に乱鎮定の報告をし褒賞を受けていることから、幕府もその出自を知っていたと見られる。
    この年、ドイツの研究者ヨハン・ベッヒャーが、物質の元素を「空気」「水」「石の土」「燃える土」「流動する土」と区分する。
    1670年
    4月 9日(寛文10年2月20日)紀伊国宮崎を出帆した阿波国所属の蜜柑輸送船が遭難漂流し、無人島だった母島へ流れ着く。同船に乗っていた荷主の長右衛門ら生き残った6人は、しばらく島で滞在した後、乗ってた船の廃材や見つけた和船などを利用して帆船を作り出帆。
    6月12日(寛文10年4月25日)母島から出帆した長右衛門ら6人が、父島、聟島を経由して八丈島にたどり着く。5月5日に八丈島を出帆し、5月7日に下田に到着。奉行所に報告したことで幕府に小笠原諸島の詳細が伝わる。
    6月24日スチェパン・ラージン率いる盗賊団が、アストラハンを占領し、同地に平等社会の共和国建設を唱え、ロシア・ツァーリ国に対して反乱。
    10月 1日ロシア・ツァーリ軍とスチェパン・ラージン率いる反乱軍が、スヴィリ川で戦う。
    イタリアの司祭フランチェスコ・ラナ・デ・テルツィが、小型船に真空球を4つ付けて浮かばせる空飛ぶ船「真空飛行船」を発案。これを使った空襲も考えている。実際には作成はされなかったが、軽い気体で浮かせる「飛行船」のアイデアの原型とも言える。
    1671年
    5月 6日(寛文11年 3月27日)寛文事件。仙台伊達家の親族(伊達宗重と伊達宗倫)の領地争い(谷地騒動)で、一関藩主伊達宗勝の介入を受けたことに反発した伊達宗重の訴えで、両者から関係者が出席し幕閣による審問が行われた大老酒井忠清邸で、出席していた伊達家重臣で宗勝側の原田宗輔が抜刀し伊達宗重を斬殺。宗重側で出席していた柴田朝意と、聞役の蜂屋可広が応戦するが、事態に駆けつけた酒井家家臣によって3人共区別なく殺害される。事件を受けて、原田家は男子すべて処刑となり断絶。仙台藩の実権を握っていた伊達宗勝は改易となり、宗勝とその家族は各藩に永預りとされた。創作では真の黒幕とされる大老酒井忠清だが、宮将軍擁立に動くなど絶大な権力を振るった一方、5代将軍綱吉の代になって将軍との確執で失脚したことも悪役にされた可能性がある。歌舞伎の演目「伽羅先代萩」や山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」のモデルとなった。
    6月16日スチェパン・ラージンがロシア・ツァーリ国によって赤の広場で処刑される。
    10月25日ジョバンニ・カッシーニが土星の衛星イアペトゥスを発見する。このあと数度に渡って観測するが、土星の東側では観測できず、西側にいるときだけ観測できた。これはイアペトゥスの表面の公転先行側と側面が非常に暗く、公転後行側と極地方が非常に明るいという極端な二色構造になっており、そのどちらが地球側に向いているかで変わるため。
    1672年
    3月 2日(寛文12年 2月 3日)浄瑠璃坂の仇討事件。奥平藩で起きた刃傷沙汰で自刃した奥平内蔵允の子、奥平源八と支持者計42人が江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭戸田七之助邸に匿われていた奥平隼人を襲撃。十数人を倒すも、奥平隼人を見つけられず引き上げる途中、牛込御門近くで手勢を率いて追ってきた奥平隼人と交戦。隼人を討ち取る。出頭した奥平源八らに対し、幕府は私闘として厳罰に処す方針であったが、大老井伊直澄が減刑し伊豆大島流罪に処した。6年後に天授院13回忌の恩赦で許されている。赤穂浪士が討ち入りと処罰の参考にしたとも言われる。
    8月20日第三次英蘭戦争のさなか、ネーデルラント共和国の指導者ヨハン・デ・ウィットが兄コルネリスとともに、戦争に苦しむ民衆の怒りを買い殺される。ホラントの君主オラニエ=ナッサウ家が事実上の復位。
    この年までに、フランス人司祭で天文学者だったローラン・カセグレンがカセグレン反射望遠鏡を考案したと考えられる。凹面の主鏡と凸面の副鏡を対面させて反射した像を主鏡の中央の穴を通して見る方式。構造とカセグレンの姓だけ伝わったため発明の詳細は不明。ローランは有力候補の一人。
    1673年
    2月 4日(寛文12年12月18日)徳川秀忠の子で、松平会津藩の祖である保科正之が死去。
    (康煕12年)清朝で三藩の乱が勃発。康熙帝がこの年、漢人の平西王呉三桂が領する雲南、平南王尚之信が領する広東、靖南王耿精忠が領する福建の三藩の廃止を決定。これを受けて呉三桂が反乱。
    1674年
    アントニ・ファン・レーウェンフックが自作顕微鏡でバーケルス湖から採取した水を観察し、微生物を発見。アニマルクルと名付ける。
    (康煕13年)呉三桂の反乱が拡大。耿精忠も呼応し、陝西、広西でも反乱が相次ぐ。
    1675年
    3月 4日イングランド王チャールズ2世によって、ロンドン市郊外にグリニッジ天文台が設立される。初代イングランド王室天文官にジョン・フラムスティードが任命され、初代天文台長となる。フラムスティードの時代に、グリニッジ標準時が定められた。
    5月23日(延宝3年4月29日)母島へ漂流した長右衛門らの報告から幕府は32人の調査団を富国寿丸に乗せて派遣。この日、父島に到着。6月6日まで小笠原諸島を調査。この報告がのちの領有権問題で日本領とする根拠となった。
    この年、デンマークはスコーネ領を奪還するため、スウェーデン・バルト帝国へ宣戦布告。スコーネ戦争が始まる。
    この年、ロンドンの商人アンソニー・デ・ラ・ロッシュがフォークランド諸島の1000km東でサウスジョージア諸島・サウスサンドイッチ諸島を発見する。サウスジョージア島は、古地図では「ロッシュ島」と記載されている。
    1676年
    イギリス領バージニア植民地でナサニエル・ベイコンらが反乱を起こす。重税や物価高騰などに伴う貧困への不満やインディアン部族への強攻策を主張してバージニア総督らに対して起こしたとみられる。
    10月26日ナサニエル・ベイコンが病死。反乱はそのまま継続するも、バージニア総督ウィリアム・バークリーの反撃で終息していく。
    この年、加賀藩4代藩主前田綱紀が、金沢城そばの御作事所跡地に別荘「蓮池御殿」を建設。ずっとのちの1822年(文政5年)前田斉広が同地に竹沢御殿を作った際に松平定信によって兼六園と命名される。
    1677年
    5月14日(延宝5年 4月13日)延宝八戸沖地震。
    11月 4日(延宝5年10月 9日)延宝房総沖地震。夜、突如大津波が関東から東北南部の太平洋岸を襲う。沿岸各地で千軒以上の家屋が流失。船舶にも大きな被害を出し、房総から磐城までの沿岸で数百人が流されるなどして死亡。大きな地震の揺れの記録がないことから、房総半島沖合で起きたマグニチュード8クラスの巨大地震による津波と考えられる。
    1678年
    2月27日(延宝6年 1月 7日)初代夕霧太夫が死去。京の花街島原の「扇屋」の太夫となり、のちに大坂新町に移転したことから新町の太夫としても知られた女性。江戸文学・浄瑠璃などの題材となった。命日は夕霧忌ともいう。
    4月(康煕15年/昭武元年 3月)三藩の乱を起こした呉三桂が即位して周王朝を興し昭武と改元。
    10月 2日(康煕15年/昭武元年/洪化元年 8月17日)呉三桂が病死。孫の呉世璠が後を継ぎ、元号を洪化とする。
    1679年
    9月ルンド条約により、スウェーデンとデンマークが和睦し、スコーネ戦争は終結。領土は結局変わらず。フランスが介入してきたことに両国は反発し、結果として両王家は婚姻関係を結び、両国は同盟国となる。
    12月 5日(延宝7年11月 3日)130人も殺したと言われる辻斬り強盗の平井権八が処刑される。絵画や歌舞伎の演目では白井権八という名で知られるほか、白浪五人男の赤星十三郎のモデルともされる。
    1680年
    9月13日(延宝8年 8月21日)徳川綱吉に征夷大将軍宣下。第5代将軍となる。
    1681年
    8月 5日(延宝9年 6月22日)将軍徳川綱吉が越後騒動の決着をつける。親藩である越後高田藩の家臣同士の内紛で、一度は幕府の裁定で決着がついていたものを再審したもの。逆意方と呼ばれた元家老小栗美作とその子に切腹、小栗と対立しお為方を自称した永見大蔵、荻田本繁らを遠島とする両成敗となる。
    8月 9日(延宝9年 6月26日)越後高田藩は改易となる。先に裁定を下した幕府関係者も改易などの処分を受けた他、高田藩松平家の旧本家越前松平家の一門である姫路藩松平家は減封の上豊後へ移され、出雲広瀬藩松平家は減封となった。
    12月31日(天和元年11月22日)沼田藩真田家が改易される。藩主真田信利(信直)は、松代藩真田家初代真田信之の庶長子信吉の次男だが、松代藩は信之の次男信政が2代藩主となり信利は沼田領のみ相続した。藩主信政の死後は、その子の幸道が3代目となったため、信利は自分こそ後継者であると訴えたものの認められず、代わりに沼田領は3万石の独立藩となった。信利は本藩に対抗して検地を行い実高14万4000石と届け出、江戸屋敷も豪奢に建て替えたが、その負担が領民にかかる。さらに幕府からの両国橋架替えの材木調達に失敗。領民杉木茂左衛門が、輪王寺宮の文書を偽って将軍綱吉に圧政を上訴したため実態が発覚。沼田藩真田家は治世不良として改易となった。
    (康煕20年/洪化4年)清朝政府軍が昆明を攻め落とし、周王朝2代目呉世璠は自害して滅亡。
    この年、マスカリン諸島モーリシャス島で最後のドードー鳥(モーリシャス・ドードー)が目撃される。間もなく絶滅。最初の目撃例からわずか83年。人間による乱獲と人間が持ち込んだ動物による捕食、森林伐採が原因。
    1682年
    9月15日彗星が出現し、エドモンド・ハレーが、過去の彗星と同じではないかと気づく。次の彗星の出現を予言。
    (天和2年)江戸幕府、勘定吟味役を設置。老中に属し、勘定所を監察、幕府直轄領や代官を監督する役職。
    1683年
    1月25日(天和2年12月28日)天和の大火。この大火で罹災した少女、八百屋お七が、避難先で出会った寺小姓に会いたいがために、後に放火をして処刑されたことから、通称「お七火事」と呼ばれる。死者3500人以上。
    6月イングランドでライハウス陰謀事件が発覚。カトリックへ接近する国王チャールズ1世とその後継者ヨーク公ジェームズの排除を狙った「ホイッグ」(ジェームズ即位反対派)による暗殺計画の陰謀が発覚し、一網打尽となる。陰謀は国王あるいは「トーリー」(ジェームズ即位支持派)による捏造という説もある。なおカトリックに対する抵抗感は、ホイッグもトーリーも共通しており、あくまでジェームズ即位の是非による違いでしかなく、後に両者は手を組み名誉革命を引き起こしてジェームズ2世を追放する。
    7月13日オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャによって第二次ウィーン包囲戦が始まる。直前に脱出した神聖ローマ皇帝が各地の諸侯に救援を要請。
    8月17日(天和3年 6月25日)江戸城西の丸で下馬をめぐり旗本柳沢信花と大番士高橋正武が口論から刃傷沙汰となり、柳沢信花が殺害される。信花が婿養子に入っていた叔父柳沢安忠の実子が柳沢吉保。
    (康煕22年/永暦37年 8月)台湾東寧王国の鄭克塽が清朝に降伏し、鄭氏王朝は3代で滅亡。鄭克塽は海澄公に封じられた。
    9月12日オスマン帝国軍に包囲されているウィーン郊外に救援のポーランド国王ヤン3世ソビエスキ率いるポーランド・ドイツ諸領邦連合軍が到着。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒらも参戦。夕刻、救援軍は早々にオスマン陣地を攻撃。オスマン軍は大敗を喫し、退却。オスマン帝国の衰退のきっかけとも言われる一方、トルコ行進曲やコーヒーなどのトルコ文化が西洋に広まるきっかけともなった。勝利を祝してクロワッサンやベーグルが作られたとも言われる。
    10月20日(天和3年 9月 1日)下野国で大きな地震。三依川沿いで山崩れにより河道閉塞。日光、会津などでも被害。
    12月25日オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャが、第二次ウィーン包囲戦の敗北の責任を問われ、メフメト4世の勅によって処刑される。強権的だったことで政敵が多かったことも要因の1つ。同時に指導者を失いオスマン帝国は弱体化していく。
    1684年
    10月 7日(貞享元年 8月28日)堀田正俊暗殺事件。江戸幕府大老・堀田正俊が、江戸城内で、従叔父で若年寄の地位にあった稲葉正休に殺害される。正休は駆けつけた老中の大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らに斬り殺される。事件の原因は不明だが、前年に正休が提出した淀川治水工事の見積りを正俊が採用せず、その任から正休を外したことで恨んだとする説もある。正休の青野藩は取り潰しとなったが、正俊の剛直な性格を嫌い、加害者である正休への同情論のほうが強かった。事件の背後には正俊を嫌った将軍綱吉がいるという説もある。
    1685年
    7月15日イングランド国王ジェームズ2世に対して反乱を起こし失敗に終わった初代モンマス公爵ジェイムズ・スコット(ジェームズ2世の甥)が、タワーヒルで斬首される。死刑執行人ジャック・ケッチによって処刑されたが、斧での斬首を何度も失敗し、結局ナイフで首を切り落とされた。
    8月24日(貞享2年 7月25日)岡本三右衛門ことジュゼッペ・キアラが死去。もとはイタリア出身のイエズス会宣教師。師であり日本管区長代理のフェレイラが棄教したという話を聞いて日本へ渡航。幕府に捕らえられ、拷問を受けて棄教。刑死したキリシタン岡本三右衛門の妻女を娶り、名を受け継いだ。幕府の宗門改方の職につき、キリスト教について「天主教大意」を執筆提出しており、後に新井白石のシドッティ尋問の際にも参考にされた。遠藤周作の小説「沈黙」の主人公ロドリコ司祭のモデルとなった人物。
    10月18日フランス国王ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令に署名。ナントの勅令を破棄し、新教徒ユグノーをカトリックに改宗させるための法令。多くのユグノーがフランス国外へ脱出・亡命し、ユグノーを受け入れたオランダでは金融業が、ドイツでは農業が、スイスでは時計産業が発達するきっかけとなった。一方のフランスでは産業・経済が大打撃を受けたと言われる。
    1686年
    1月 4日(貞享2年12月10日)安芸国・伊予国・周防国・長門国で大きな地震。
    4月30日(貞享3年閏3月 8日)石田三成の嫡子で、家康によって助命された石田重家(宗享)が104歳で亡くなる。年齢は諸説あるが、いずれにせよかなりの長命だったとみられる。
    11月29日(貞享3年10月14日)信濃松本藩で大規模な一揆「貞享騒動」が起きる。重税に反発した農民らが多田加助の指導で年貢減免の要求を提示したもので、藩は一旦条件を呑むも撤回し、加助ら28名が処刑された。藩主は藩士の説得で刑執行を中止にしたが間に合わなかったとも。
    この年、イングランドの死刑執行人ジャック・ケッチが死去したとされる。下手なのか意図してなのか、斧での斬首に何度も失敗して受刑者を苦しめることで悪名高き人物だった。
    1687年
    7月 5日アイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica)を発刊。万有引力の法則などが記された古典力学の書。題名を略して「プリンキピア」「プリンシピア」とも呼ばれる。科学史上非常に重要な書だが、この時は王立協会からの支援が得られず、執筆のきっかけを作ったエドモンド・ハレーが資金を支援して出版にこぎつけた。
    9月26日ヴェネツィアとオスマン帝国とのモレアス戦争のさなか、アテネを占領したヴェネツィア軍が、パルテノン神殿にあったオスマン軍の火薬庫に向けて迫撃砲で攻撃。火薬庫が大爆発を起こし、爆風と火災で神殿の壁やレリーフが大きく崩れ落ちる。トルコ兵300人も死亡。
    生類憐れみの令発布。
    1688年
    3月(貞享5年 2月)水戸藩主徳川光圀が建造させた「快風丸」が蝦夷地探検を行う。通算3度めでようやく石狩川まで到達。蝦夷の産物を積んで帰還。「快風丸」は通説では長さ37間、幅9間、積載量1万2千石といわれ、将軍家光が建造させた御座船「安宅丸」を上回る巨船だった。本来は大船建造の禁令に触れているが、水戸徳川家であるため黙認されたものか。
    8月25日イギリスの海賊で、後に判事やジャマイカ代理総督など要職を歴任し、海賊を取り締まる側に付いたヘンリー・モーガンが死去。
    ドイツのザールラント州で炭層火災が発生。鎮火せず、21世紀の現在も内部でくすぶり続けている。ブレンネンダー・ベルク(燃える山)と呼ばれて早くから観光地化した。
    1689年
    2月13日オランダ総督ウィレム3世が、国王と対立する英国議会の要請を受けて、オランダ軍を率いてイングランドに侵攻。叔父のジェームズ2世を追放してイングランド王ウィリアム3世となる(妻のメアリー2世が女王として即位し、その共同統治者となる)。少数の犠牲者だけで権力を確立し、権利の章典、議会政治の確立、カトリックに代わるイングランド国教会体制など、イギリスの歴史的転換点の一つとなったことから、「名誉革命」と呼ばれる。
    9月 6日(康熙28年7月23日)ロシア帝国と清がネルチンスク条約に調印。満洲地方の両国の国境を定めた条約。
    1690年
    10月20日(元禄3年 9月19日)日向国坪谷・山陰一揆が起こる。有馬氏延岡藩の圧政に苦しんだ農民1422名が高鍋藩領に逃散、高鍋藩に保護される。
    11月14日(元禄3年10月14日)徳川光圀が隠居。水戸藩の家督相続で差し置いてしまった兄の松平頼重(讃岐藩主)の子である綱條に藩主の地位を譲る。
    12月頃パリ天文台の天文観測図の中に、ジョバンニ・カッシーニが木星面で小天体の衝突痕のようなものを観測し記録したものがある。当時は天体衝突とは気づいていないと思われるが、1994年のシューメーカー・レビィ彗星の衝突痕とよく似ている。
    1691年
    7月18日(元禄4年 6月23日)日向国坪谷・山陰一揆の幕府の裁定が下る。農民7名が首謀者として処刑され7名が遠島処分となり、残りは元の土地へ戻ることとされたが、一方で延岡藩の郡代梶田十郎左衛門と代官大崎久左衛門も追放。
    8月27日名誉革命でイングランド王となったウィリアム3世が、北部ハイランド地方の氏族らに翌年1月1日までに、自身と妻メアリー2世に忠誠の契約を行うよう命令。
    12月27日(元禄4年11月 8日)延岡藩主有馬清純は糸魚川へ転封処分となり、山陰・坪谷は天領となる。
    1692年
    2月13日グレンコーの虐殺事件。イングランド名誉革命の強硬派だったステア伯と、ハイランドで革命側にいち早く味方したキャンベル氏族が組んで、国王ウィリアム3世が許可し、キャンベル氏族と対立していたマクドナルド氏族を「忠誠の誓約が遅れた」として襲撃。族長ら一族38人を殺害し、グレンコーの同家領地の家々に火を放って住民ら40人が焼き殺される。犠牲無しで革命を成功したとして「名誉革命」と称賛されたウィリアム3世らは内外から激しい非難を受ける結果となる。またマクドナルド家は村に来たロバート・キャンベルをもてなした後で虐殺されたことから、キャンベル一族はその行為を長く責められることになる。
    3月 1日セイラム魔女裁判が始まる。アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラムで、悪魔と契約したという理由で、住民同士が告発しあい、村人19名が処刑され、1名が拷問で死亡し、5名が獄死した事件。
    1693年
    5月 5日(元禄6年 3月30日)美濃郡上八幡藩2万4千石の藩主遠藤常久が7歳で病死。当然嗣子もなく改易となるはずが、藩祖遠藤慶隆の功を賞するという理由で、遠藤家とは全く無関係の、徳川綱吉の側室「お伝の方(瑞春院)」の妹と旗本白須正休の長男数馬を遠藤家の親族である戸田氏成の養子にした上で、遠藤家の再養子にして遠藤胤親に改め、常陸・下野1万石で存続することとなった(のち近江三上藩)。親族を大名にしたい瑞春院の意向が働いたとみられる。なお遠藤常久の死因には重臣池田主馬による毒殺説がある。
    この年、シチリア島で大地震が起こり、カターニアは壊滅。
    1694年
    3月 6日(元禄7年 2月11日)高田馬場の決闘。伊予西条藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が江戸高田馬場で決闘におよび、剣客中山安兵衛(のちの赤穂浪士堀部武庸)が助太刀した事件。
    6月19日(元禄7年 5月27日)能代地震。羽後国能代付近の能代断層を震源とする。能代一帯の42ヶ村が被害に逢い、家屋倒壊1273戸、焼失859戸、死者394人。被害の殆どは能代に集中し壊滅状態となった。
    11月28日(元禄7年10月12日)松尾芭蕉が、大坂の御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で死去。
    1695年
    1月 8日(元禄7年11月23日)江戸小石川の水戸藩邸で行われた能会において、家老の藤井徳昭が、前藩主の徳川光圀の手で刺殺される。光圀は自ら舞台で演じる直前に藤井を部屋に呼んで殺害したと言われる。藤井は光圀に重用されて小姓から家老にまで登った人物であり、なぜ光圀が藤井を直接殺害したのか、動機は不明。
    12月 5日(元禄8年10月29日)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生類憐れみの令によって、現在の中央線中野駅付近に16万坪もの広大な犬飼育施設「中野犬屋敷」が完成する。
    1696年
    10月25日(元禄9年 9月30日)明からの来日僧である東皐心越が死去。明末の混乱で日本へ亡命。各地を巡るが、幕府によって長崎で幽閉された。その後、徳川光圀の尽力で釈放されると、水戸に居住し篆刻や古琴を伝授したため、日本篆刻の祖、鎌倉以降衰微していた日本琴楽の中興の祖とも言われる。
    1697年
    9月11日ゼンタの戦い。神聖ローマ帝国を主体とする神聖同盟とオスマン帝国の戦いで、神聖同盟が勝利。オスマンの大宰相エルマス・メフメト・パシャは戦死。
    9月20日レイスウェイク条約締結。大同盟戦争終結。
    ドイツの医師ゲオルク・エルンスト・シュタールが、ヨハン・ベッヒャーの唱えた元素「燃える土」を元に、物が燃える現象を司る元素を「フロギストン(燃素)」と名付ける。フロギストン説。物質が燃えたり錆びたりするのは、物質とくっついたフロギストンが離れる現象とした。以降、フロギストン説は広まっていく。
    11月25日(元禄10年10月12日)鎌倉で地震により鶴岡八幡宮の鳥居が倒壊。江戸城などでも石垣に被害。
    1698年
    7月31日ウィーンで細川ガラシャをモデルにした戯曲「勇敢なる婦人、その真実の価値は遠い果てより到来した真珠のような婦人グラツィア。丹後国の王妃である彼女は、キリストのための受難に耐えて光り輝く」が上演される。作曲はヨハン・ベルンハルト・シュタウト、戯曲の作者はヨハン・バプティスト・アドルフ。内容は史実とはかなり異なり、典型的な殉教劇。
    9月(元禄11年 8月)将軍徳川綱吉の50歳誕生日を祝って、隅田川に永代橋が架けられる。
    10月 9日(元禄11年 9月 6日)江戸で勅額火事が起こる。昼少し前に京橋南鍋町(山下町)の仕立物屋より出火し、強風により数寄屋橋の大名邸へ類焼、更に北側へと広がり、神田一帯を焼き、火勢は北上して下谷、浅草に、更に東進して両国橋を超え本所に達する。夜、雨によって鎮火。死者3000人を超える。落成したばかりの寛永寺根本中堂に掲げる東山天皇の勅額が届いた日に火災になったことから勅額火事と呼ばれる。
    1699年
    オスマン帝国とロシアを除くヨーロッパ各国が、カルロヴィッツ条約を締結。ゼンタの戦いで敗北して後、勢力が弱まったオスマン側が、各国に領土を割譲。
    1700年
    3月大北方戦争が勃発。北方同盟(反スウェーデン同盟)のデンマーク軍がスウェーデン(バルト帝国)の同盟国ホルシュタイン=ゴットルプ公領へ侵攻しテンニングを包囲。ほぼ同時期、ザクセン・ポーランド王アウグスト2世もスウェーデン領へ侵攻しリガを包囲。
    4月15日(元禄13年 2月26日)壱岐・対馬で大きな地震。家屋倒壊や石垣の崩壊多数。
    7月14日ロシア・ツァーリ国とオスマン帝国が、コンスタンティノープル条約を締結。オスマン側はロシアが占領したアゾフ地方の割譲に同意。一方ロシアもスウェーデン・バルト帝国との大北方戦争が迫り余裕がなく、黒海の自由航行権は取り下げて妥協が成立。露土戦争は終結。
    7月スウェーデンはイングランド、ネーデルラントの両国の支持を得て、デンマークの王都コペンハーゲンへ侵攻。
    8月18日スウェーデンとデンマークはトラヴェンタール条約を締結。大北方戦争からデンマークが離脱する。
    11月30日(スウェーデン暦11月20日)ナルヴァの戦い。バルト海沿岸の都市ナルヴァでスウェーデン軍とロシア軍が衝突。スウェーデン軍が吹雪の中ロシア軍を奇襲攻撃し勝利。
    1701年
    1月16日(元禄13年12月19日)深堀事件。長崎で佐賀藩深堀領の重臣深堀三右衛門が雪どけの泥をはねたことに対し、長崎会所の有力町人高木貞親の家来が咎めて口論となり、高木家の家臣10数人が深掘邸を襲撃する事態に発展。それをうけて三右衛門と深堀家家臣の計12人が高木邸を襲撃し、高木貞親が殺害される(深堀三右衛門と志波原武右衛門はその場で自刃)。長崎奉行から報告が上がった幕府が判決を出し、深堀家の10人を切腹、後から加勢に来た9人を五島に遠島にし、先に騒ぎを起こした高木家の9人を斬首とし、高木家は家財没収となった。江戸でも話題になったと記録にあり、まもなく起きた赤穂浪士討ち入りの参考にされたとする説もある。
    3月13日(元禄14年 2月 4日)東山天皇の勅使饗応が行われることになり、饗応馳走役は播磨赤穂藩主浅野長矩と伊予吉田藩主伊達村豊で、高家肝煎の吉良義央が指導に当たることと決まる。
    4月21日(元禄14年 3月14日)東山天皇の勅使饗応が行われる予定にあった江戸城中松の廊下において、突如、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に対して抜刀の上襲いかかり、吉良上野介は額などに負傷するも品川伊氏と畠山義寧によって助けられる。浅野内匠頭は梶川頼照に取り押さえられ、即日、収監された田村建顕の屋敷で切腹。赤穂藩は取り潰しと決まる。
    5月26日(元禄14年 4月19日)赤穂城が開城となる。龍野藩主脇坂安照が赤穂城を預かる。
    7月19日(スウェーデン暦 7月 9日)ドヴィナ川(ダウガヴァ川)の戦い。スウェーデン軍がリガ救出のためにドヴィナ川を渡河し、ザクセン・ポーランド軍を撃破。リガを解放。
    7月29日(元禄14年 6月24日)赤穂城在番中の龍野藩脇坂家家臣左次兵衛が同僚の貞右衛門を惨殺する事件が起きる。
    9月21日(元禄14年 8月19日)幕府は吉良義央に旗本松平信望が本所に持っていた比較して小さな屋敷への屋敷替えを命じる。吉良への贔屓が批判されたためとも、赤穂浪士の討入を黙認したため、とも言われる。
    9月23日(元禄14年 8月21日)幕府は吉良義央実弟の東条冬重、吉良よりの高家大友義孝、浅野長矩を室内ではなく庭で切腹させた大目付庄田安利も役職を取り上げる。これも世情の批判をかわすためとみられる。
    1702年
    1月 9日(元禄14年12月12日)吉良義央は高家肝煎職を返上し隠居。吉良義周が跡を継ぐ。
    1月 9日(スウェーデン暦1701年12月30日)大北方戦争、エーレスターの戦い。ロシア軍がリヴォニアのスウェーデン軍を撃破。
    8月11日(元禄15年 7月18日)播磨赤穂浅野家再興の最後の可能性であった内匠頭弟浅野大学長広が広島の浅野本家に預けられることになり、再興の望みが消える(のち旗本となった)。大石内蔵助良雄ら再興派が討ち入りを決意することになったとされる。
    8月23日カディスの戦い。八十年戦争。イングランド・オランダ連合軍が、スペインのカディスを9月30日まで1ヶ月以上に渡って攻めるが失敗に終わる。
    1703年
    1月30日(元禄15年12月14日)元禄赤穂事件。赤穂浪士四十七士が吉良邸へ討ち入る。吉良義央は死亡。吉良義周も重症を負う。四十七士に死者は無し。
    3月20日(元禄16年2月 4日)赤穂浪士四十七士のうち、姿を消した足軽寺坂信行以外の46人は預けられた四大名邸で切腹し、その子らも流罪の処分を受ける。一方の吉良家も正式に改易され、吉良義周は信濃諏訪藩高島へ配流となる。
    5月27日サンクトペテルブルク建都の日。ユリウス暦では5月13日。ロシア初代皇帝ピョートル1世によって建設。
    11月19日バスティーユ監獄に収監され、人と会うときは面布を付けることを命ぜられていた「仮面の男」が死亡する。のちアレクサンドル・デュマ・ペールの小説で「鉄仮面」として取り上げられる。位の高い人物と考えられるが正体は諸説ある。
    12月31日(元禄16年11月23日)元禄大地震。房総半島南端を震源とする大震災。深夜2時ころに発生。マグニチュードは8以上と推定される。小田原城下で火災が起き、天守も焼失するほどの大きな被害を出す。小田原藩領内で家屋8000が倒壊し、死者およそ2300人。川崎などでも被害が出る。江戸でも建物の倒壊が起き御堀の水が溢れたという。江戸市中にまで津波が押し寄せる。各藩が提出した家屋被害は28000軒、死者6700人。直後の11月29日の大火の犠牲者も合わせると、死者20万人以上とも言われる。震源は相模トラフか。三浦半島や房総半島の突端が大きく隆起した。この震災を受けて宝永に改元することになる。同日、名古屋や京都でも地震を観測。液状化や発光現象も記録されている。
    12月31日(元禄16年11月23日)元禄豊後地震。早朝に豊後で大きな地震があり、府内を中心に数百軒の家屋が倒壊。震源は由布院付近と見られ、元禄大地震とは別の地震。
    1704年
    1月 6日(元禄16年11月29日)江戸で大火。通称「水戸様火事」。小石川の「水戸宰相御屋敷」から出火し、本郷へ延焼した後、風向きが変わり東へと拡大。本所に到達した。武家屋敷275、寺社75、町家2万軒が焼失。元禄地震でも火災が起きたことから、被害面積は明暦の大火より広い。かなりの死者を出した可能性があるが、元禄地震直後の混乱で詳細は不明。地震全体の犠牲者とあわせて20万人以上が死亡したとも言われる。
    3月24日(元禄17年 2月19日)歌舞伎役者初代市川團十郎が、市村座で『移徙十二段(わたましじゅうにだん)』の佐藤忠信役を演じている最中に、役者の生島半六に舞台上で刺殺される。
    5月 6日(宝永元年 4月 3日)生島半六が獄死。
    5月 6日(宝永元年 5月27日)羽後陸奥地震。津軽から羽後能代にかけて、家屋2000戸が焼失。死者70余人。西津軽の崩山崩壊により河道閉塞が起きて十二湖(33の湖沼)が形成される。10年前に起きた能代地震の復興間もなく再び起きた大地震により甚大な被害を出す。それまで「野代」と記載されていたが、「野と代わる」と読めることから「能代」に改めたと言われる。
    8月 1日スペイン継承戦争で、イングランド、オランダ、オーストリアの連合軍がジブラルタルへ派兵。4日までに占領。ジブラルタルがイングランドの海外領土となる。
    8月24日マラガの海戦。スペインのマラガ沖でフランス・スペイン連合艦隊とイングランド・オランダ連合艦隊の間で海戦となる。
    1705年
    10月14日ポーランド=リトアニア共和国の大半を占領したスウェーデン(バルト帝国)は、スタニスワフ・レシチニスキを同国の国王に就ける。同国国王であったザクセン選帝侯でもあるアウグスト2世との間で内戦状態に。
    エドモンド・ハレーが『彗星天文学概論』を発表。過去に観測記録のある彗星が、実は同じ彗星で、太陽の周りを周回しており、次の出現年を予測した。この彗星が後にハレー彗星と名付けられる。
    1706年
    10月13日スウェーデン(バルト帝国)とザクセン・ポーランド=リトアニアとの間でアルトランシュテット条約締結。ザクセン選帝侯兼ポーランド=リトアニア共和国国王アウグスト2世は大北方戦争から離脱。
    1707年
    10月28日(宝永4年10月 4日)宝永大地震。震源域は紀伊半島沖から、四国沖、日向灘にかけて。いわゆる東海地震と南海地震が連続して起こったもので、激しい揺れと大津波の襲来で、大坂や土佐など西日本各地で大被害を出す。揺れは東北から九州の広域で観測。死者は推定で2万人。駿河の安倍川上流にある大谷嶺が大規模な山体崩壊を起こしたほか、各地で山体崩壊や山崩れが起きた。土佐では各地で地盤が隆起した一方、高知付近では沈降している。震源域が広いためか、数分から20分以上の長時間揺れたという記録が多い。津波は中国大陸にも到達し被害を出している。
    10月29日(宝永4年10月 5日)大地震の約16時間後に富士宮付近を震源とする強い地震が発生。富士宮などで大きな被害を出した他、江戸や名古屋でも大きな揺れを観測。
    11月20日(宝永4年10月27日)江戸幕府、震災後の物価統制のため、買い溜め禁止令を発する。
    12月16日(宝永4年11月23日)昼少し前に富士山の噴火が始まる。宝永の大噴火。直前に鳴動と地震が観測されている。江戸などで空振を観測。江戸でも灰が降り、日没頃その色が黒く変色したため、マグマ噴火に変化したとみられる。宝永大地震がきっかけになったという説もある。
    12月17日(宝永4年11月24日)富士山の噴火は収束の方向へ向かう。この日の夜、比較的広範囲で大きな地震を観測(噴火に関連するものか、宝永地震の余震かは不明)。
    12月25日(宝永4年12月 2日)富士山が再び活発に噴火を始める。
    12月31日(宝永4年12月 8日)夜、富士山で大きな爆発があった後、翌未明の爆発を最後に終息する。
    1708年
    2月28日(宝永5年閏1月 7日)江戸幕府、大名・旗本に石高100石に付き2両を供出させる「諸国高役金令」を公布。火山被害対策として。
    12月 9日(宝永5年10月28日)富士山が再び噴火。『鸚鵡籠中記』などでは江戸でも降灰があったという。約1ヶ月で沈静化。
    1709年
    7月 8日(ユリウス暦 6月27日)大北方戦争、ポルタヴァの戦い。スウェーデン軍および同盟軍であるウクライナ・コサック軍と、ロシア軍が、ウクライナ東部で会戦。スウェーデン軍は大敗を喫する。北方同盟は復活し、バルト帝国は凋落へ進むことに。
    8月 8日ポルトガルの飛行研究者バルトロメウ・デ・グスマンが、屋内で熱気球を飛ばすことに成功。
    1710年
    4月 4日(宝永7年 3月 6日)勘定奉行荻原重秀が、幕府の財政窮乏の打開策として、勘定組頭保木弥右衛門、勘定小宮山友右衛門、鋳造を担う御用達商人である銀座人とともに、将軍の承認を得ないまま、銀の含有量を減らした銀貨の吹き替え(貨幣改鋳)を密かに行う。宝永永字丁銀とよばれるもの。
    4月30日(宝永7年 4月 2日)勘定奉行荻原重秀は、さらに悪銀の銀貨吹き替え(貨幣改鋳)を実施。宝永三ツ宝丁銀とよばれるもの。
    6月25日(宝永7年 5月29日)桑名藩「野村騒動」で野村増右衛門が処刑される。桑名藩の財政改革を推進した野村が、譜代の重臣らによる告訴を受け、突如逮捕。公金横領などの疑惑18か条の尋問内容のうち3つに明確に反論できなかったため処刑されたもので、一族44人(13人の子供を含む)も死刑、関係者370余人が処罰されるという大規模な粛清事件に発展。事態を知った幕府は久松松平家を越後高田藩に懲罰転封とする。譜代重臣らの私怨による冤罪とも、強引な改革による反発ともいわれる。
    10月 3日(宝永7年閏8月11日)伯耆国・美作国で地震。死傷者多数。
    1711年
    9月14日(正徳元年 8月 2日)勘定奉行荻原重秀が、三度目の悪銀の銀貨吹き替え(貨幣改鋳)を実施。宝永四ツ宝丁銀とよばれるもの(改元後の鋳造だが宝永と呼ばれる)。前年からの宝永永字丁銀・宝永三ツ宝丁銀・宝永四ツ宝丁銀の3種類の悪貨は将軍の承認がなく、密かに市場に流され、市場を混乱させた。物価高騰を招いた他、鋳造の一部を支給される銀座人(御用達商人)の利益にもつながった。この件で荻原重秀は将軍家宣から問い糾されるが財政悪化を理由に正当性を主張。このため新井白石との間で激しく対立することになり、荻原の失脚の要因となったほか、銀座人の粛清に発展する。3種の銀貨は享保7年に通用停止となるまで市場に出回っていたが、品質の良い慶長銀とは交換されず、正徳銀とも扱いに差が付き、停止後はほとんどが正徳銀と交換されたため、皮肉にも現在では非常に希少価値が高くなっている。
    1713年
    2月26日イングランドとフランスの間でユトレヒト条約締結。スペイン継承戦争にともなう北米でのアン女王戦争が終結。
    1714年
    2月26日(正徳4年 1月12日)絵島生島事件。江戸城大奥御年寄の江島が、月光院の名代として徳川家宣の墓参のため、奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣し、その帰途、呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座に行き、芝居を見物。看板役者の生島新五郎と宴会を開き、大奥の門限に遅れてしまったことが問題となり、多くの処分者を出した事件。
    3月 6日神聖ローマ帝国とフランスの間でラシュタット条約締結。スペイン継承戦争が終結。
    4月28日(正徳4年 3月15日)信濃大町で地震。家屋全壊194軒、半壊141軒。死者56人。
    6月24日(正徳4年 5月13日)正徳の銀座粛清事件。勘定奉行荻原重秀が密かに行った貨幣改鋳による市場の混乱と物価の高騰の責任と、さらに鋳造に関わった銀座人(御用達商人)らが不当に利益を得たとして、貨幣をもとに戻すことを狙った新井白石が銀座年寄り深江庄左衛門、荻原と手を組んでいた銀座人関久右衛門らを捕縛し、遠島に処す。荻原と関によって失脚させられた五代目大黒長左衛門常栄が復帰。
    8月 7日(ユリウス暦 7月27日)大北方戦争、ハンゲ沖海戦。フィンランドのハンコ半島(ハンゲ・ウト。ロシア語でガングート)の沖でスウェーデン海軍とロシア海軍が海戦。ロシア海軍が勝利し、バルト海東方の制海権を得る。
    11月27日(正徳4年10月21日)宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが収容されていた江戸茗荷谷の「切支丹屋敷」で獄死。世話人の老夫妻に対し布教したことが発覚したため投獄されて10ヶ月ほどであった。それまではその学識や丁寧な態度もあり、高待遇を受けており、面談した新井白石も上策としては本国に帰すべきと進言していた。
    12月 8日(正徳4年11月 2日)柳沢吉保死去。将軍徳川綱吉の館林藩主時代からの側近で、大老格に昇り、甲府藩15万1200石の大名にまでなった。朝廷とも交流があり文化人としても知られる。
    1715年
    2月 2日(正徳4年12月28日)尾張・美濃・越前などで地震。大垣城、名古屋城などで被害。
    7月 6日(正徳5年 6月 6日)万役山事件。周防国の萩藩と支藩徳山藩の境界付近にある丘「万役山」で、萩藩の西久米村の農民喜兵衛とその子らが、以前植えた松の木を伐採したところ、それを徳山藩の山回り方の足軽井沢里右衛門と福田久助に咎められて争いになり、里右衛門が喜兵衛を殺害。これが萩藩と徳山藩の領有権争いに発展。
    8月 4日(正徳5年 7月 6日)府中秣場騒動が発生。是政村の農民ら80人が下小金井村の秣場で刈り取りを行う。下小金井村民が代官所に訴えると、是政村民が下小金井村を襲撃する騒動に発展。
    8月 6日(正徳5年 7月 8日)下小金井村民が是政村の行為を代官所に訴える。代官所は両村の住民の出頭を命じる。
    8月 7日(正徳5年 7月 9日)是政村、上染谷村、下染谷村、車返村、人見村の村民など1500人余りが下小金井村を襲い、伐採などを強行。
    8月21日(正徳5年 7月23日)評定所から是政村など5ヶ村の関係者に出頭を命じる。
    11月29日(正徳5年11月 4日)勘定奉行の伊勢貞敕により秣場騒動を起こした是政村の3人を流罪、4人を追放するなどの処分を決める。のちに罪が軽いとして問題になる。
    1716年
    6月 2日(正徳6年 4月13日)万役山事件で、萩藩からの訴えを受けた幕府は、老中らの審議の結果、徳山藩の改易を言い渡す。支藩の改易という重い処分は、訴えた萩藩にとっても予想外の事態だったとみられる。
    10月 8日(享保元年 8月23日)8代将軍徳川吉宗が諸国調査のため、御庭番を創設。
    4月26日イギリスの海賊で海賊プリンスとも呼ばれたサミュエル・ベラミーが、マサチューセッツ州ケープコッド近海で遭難し消息を絶つ。はるか後の1984年にベラミーの海賊船ウィダー号が発見される。
    5月13日(享保2年 4月 3日)東北で地震。仙台や花巻で被害。地割れや液状化現象を観測。
    1718年
    8月22日(享保3年 7月26日)信濃から三河にかけて地震。伊那遠山谷で山崩れにより遠山川が河道閉塞。その後決壊して50人余りが死亡。
    11月22日黒髭のあだ名で知られたイギリスの海賊エドワード・ティーチが殺害される。
    12月11日(スウェーデン暦11月30日)大北方戦争のさなか、スウェーデン(バルト帝国)のカール12世が、フレデリックスハルドを包囲中に、何者かの狙撃で死亡。独身で子がいなかったため、妹のウルリカ・エレオノーラが王位を継承することに。
    1719年
    5月25日オスマン帝国(現在のトルコ)にあるイズミットのイズミット断層を震源とする巨大地震が発生。イズミット、ヤロヴァ、アダパザル、イスタンブールなどマルマラ地方一帯で約6000人が死亡。
    1721年
    9月10日ロシアとスウェーデン(バルト帝国)の間でニスタット条約締結。大北方戦争が終結。スウェーデンはロシアに対してカレリア、エストニア、リヴォニア、イングリアなどを割譲し、バルト海の覇権を失う。ロシアは列強へと名乗り出ることに。
    1722年
    3月 8日ミール・マフムード・ホータキー率いるホータキー朝カンダハール王国の軍勢がサファヴィー朝の王都イスファハーンに迫ったため、サファヴィー朝の9代目君主フサインが迎撃軍を出すも、グルナーバードの戦いで大敗。王都は包囲される。
    4月 5日オランダ海軍提督、ヤーコプ・ロッヘフェーンがイースター島を発見。
    7月25日北アメリカのイングランド植民地であるマサチューセッツ湾植民地の総督サムエル・シュートが、かねて紛争状態にあったネイティブのワバナキ連邦アベナキ族に対し宣戦を布告。背景には英仏の北米での対立と、それに巻き込まれた本来の住民であるネイティブの反発にある。ネイティブ側で指導していたセバスチャン・ラル神父の名をとってラル神父戦争とも、シュートのあとに総督になったウィリアム・ダマーからダマー戦争とも呼ばれる。ほかにネイティブ側の指導者としてはグレイ・ロック、ポーガスなどの部族長が有名。
    10月23日サファヴィー朝の君主フサインが、ホータキー朝のミール・マフムードに降伏し、サファヴィー朝は滅亡。マフムードはイスファハーンで旧王朝関係者などを虐殺。そのため信頼を失ったホータキー朝の支配は短期で終わる。
    (享保7年)江戸幕府、財源を確保するため、大名に対し1万石につき100石を幕府に上納すれば、参勤交代での江戸滞在期間を半年に短縮する「上米の制」を定める。
    1723年
    1月10日(享保7年12月 4日)小石川薬園に小石川養生所が設立される。発案者の町医者、小川笙船が肝煎職に任命され、幕府の7人の医者が就任。
    12月19日(享保8年11月22日)肥後国・筑後国などで地震。980軒あまりが倒壊。2名が死亡。
    1724年
    ハンス・エゲデによってグリーンランドの再入植が行われる。ヴァイキングがかつて入植した場所の付近に入植地を作りゴットホーブ(希望)と名付ける(現在の自治政府首都ヌーク)。
    (享保9年)江戸小石川茗荷谷の切支丹屋敷が火災で焼失。棄教した宣教師や、キリシタンの縁者などを収容していた施設で、もとは宗門改役だった大目付井上政重の下屋敷。この頃には収容者もいなかったため、のちに宗門改役廃止とともに形式上も廃止された。跡地の発掘でジョヴァンニ・シドッティの遺骨と見られる遺体が見つかっている。
    1725年
    6月29日(享保10年 5月19日)新井白石死去。将軍徳川家宣のもとで正徳の治を行う。数多くの著作物を残した。無役で小禄の旗本という身分でありながら将軍の信任を得て幕政を動かした異色の人物。
    8月14日(享保10年 7月 7日)信濃諏訪地方で地震。諏訪高島城、高遠城などで石垣などが崩落し、塀や門などが倒壊。周辺36ヶ村でも347軒が倒壊。4人が死亡。
    9月 4日(享保10年 7月28日)江戸城中で、信濃松本藩主水野忠恒が、自身の婚儀の報告を将軍吉宗にした直後、松の廊下ですれ違った長府藩世子毛利師就に対し斬りかかる。師就は刀を抜かずに応戦し重症を負ったが、忠恒の刀を叩き落としている。忠恒は近くにいた大垣新田藩主戸田氏房が取り押さえ、目付の長田元鄰が師就を押しとどめた。忠恒が事件を起こした動機は不明だが、自分が領地を奪われ、師就に与えられると思ったと供述しており(そのような事実はない)、普段から暗愚な人物だったとされる。松本藩水野家は改易となり、叔父の水野忠穀が7000石で存続し、忠恒の身柄も預けられた。水野忠恒が事件の日に将軍に報告した結婚相手は、大垣藩主戸田氏定の娘で、氏定は赤穂事件でも巻き添えを受けている。忠恒を取り押さえた戸田氏房は氏定の弟の子。
    12月15日マサチューセッツ湾植民地と、ネイティブのワバナキ連邦との間で和平条約が結ばれ、ラル神父戦争は終結。背景には、フランスとの植民地争奪戦があり、フランス寄りだったネイティブと戦争するより取り込むほうが良いと判断したことがある。
    1726年
    10月26日ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』初版が刊行される。イギリス人に対する強烈な批判・風刺内容だったため、出版したベンジャミン・モットによって内容の一部が改変・改竄されたものであったが、またたくまに人気作品となった。
    1728年
    8月16日ヴィトゥス・ベーリングがロシアとアラスカの間の海域を探検。その名が付いてベーリング海と呼ばれるようになる。
    1729年
    5月18日(享保15年 4月15日)8代将軍徳川吉宗の紀州時代のご落胤を自称して浪人らを集めていた山伏の天一坊改行が、関東郡代伊奈忠逵と勘定奉行稲生正武の取り調べの上、鈴ヶ森刑場で処刑される。いわゆる「天一坊事件」。
    8月 1日(享保14年 7月 7日)能登国で地震。珠洲郡・鳳至郡で791軒が損壊、山崩れ1731箇所。輪島で28軒が損壊。5人が死亡。
    1730年
    5月31日(享保15年 4月15日)江戸幕府、上米の制を停止し参勤交代制度を元に戻す。
    7月 9日(享保15年 5月25日)チリのバルパライソ沖で起きた大地震の津波が日本に到達。陸前などで被害。
    12月19日(享保15年11月10日)8代将軍徳川吉宗が、次男宗武をして田安家を起こす。御三家に変わる新たな藩屏を興すことを想定したもの。のちに一橋家、清水家が興され、御三卿と呼ばれる。
    1731年
    10月 7日(享保15年 9月 7日)岩代などで地震。白石城などに被害。桑折で300軒あまりが倒壊し、84の橋が落ちる。仙台などでも被害。
    この年、ジョン・ベヴィスによって、かに星雲が発見され名付けられる。1054年に出現した超新星の残骸。
    1733年
    7月 7日(享保18年 5月26日)大森代官兼笠岡代官の井戸正明(正朋?)が、備中笠岡の陣屋で死去。享保の大飢饉の際に、独断で年貢の減免や官金の投入を行い、またサツマイモの栽培を奨励して民衆を救った人物。過労死とも独断で行った対策の責任を取って切腹したとも言われる。
    7月 9日(享保18年 5月28日)両国の花火大会がはじめて開催される。
    1734年
    7月26日(雍正12年 6月26日)平敷屋・友寄事件。琉球王国で平敷屋朝敏と友寄安乗ら15人が処刑され、関係者多数が流罪となる。詳細は不明だが対立関係にあった三司官の蔡温を批判した文を薩摩藩琉球在番奉行の屋敷に投書したという。平敷屋朝敏は文学者・歌人として知られた人物で、友寄安乗は三司官友寄安満の弟。
    1735年
    ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の未改変版が、ジョージ・フォークナーによって刊行される。現在のガリヴァー旅行記の初版はこちらを指す場合が多い。
    1736年
    9月16日ポーランド出身の物理学者ガブリエル・ファーレンハイト没。水銀温度計を開発し、温度の単位「華氏」のもととなった人物。
    1738年
    ヴェスヴィオ山の噴火で埋没していたヘルクラネウムが発見される。
    アフシャール朝の君主ナーディル・シャーが、ホータキー朝の王都カンダハールを攻め落とし、ホータキー朝は約30年で滅亡。
    1739年
    9月20日(元文4年8月18日)蝦夷樽前山が大噴火。30日まで噴火が継続。四方山麓へ4回の大きな火砕流が発生。北海道の広範囲に降灰。噴火に伴う総噴出物量は4立方km。頂上部に外輪山が形成される。
    フランス人の探検家ジャン=バティスト・シャルル・ブーヴェ・ド・ロジエがアフリカのはるか南方で、絶海の孤島を発見。この際、正確な位置の記録が出来なかったため、再発見が遅れた上に、再発見ごとに新しい島と勘違いされ、複数の名前を付けられた。後にブーベ島と名付けられる。地球上で最も他の陸地から隔絶された島。
    1740年
    10月20日神聖ローマ帝国皇帝カール6世が崩御。娘のマリア・テレジアがハプスブルク家の後継となるが、各国が介入を始める。オーストリア継承問題に発展。
    12月16日オーストリア継承問題に介入したプロイセンが、シュレージエンに侵攻。同地域を制圧。マリア・テレジアは抗戦を決意。オーストリア継承戦争勃発。
    1741年
    4月10日モルヴィッツの戦い。プロイセンとオーストリアがモルヴィッツで衝突。プロイセンが勝利し、列強としての地位を得る。
    8月18日(寛保元年 7月 8日)蝦夷の渡島大島の寛保岳が大噴火。
    8月29日(寛保元年 7月19日)蝦夷渡島大島の大噴火に関係するとみられる大津波が日本海沿岸各地を襲う。山体崩壊が起きたためか。松前藩では家屋791棟・船舶1521艘が被害を受け、和人1467人が溺死。他も含めて和人2033人が死亡した。アイヌの被害については記録がなく不明。弘前藩でも33人が死亡。
    1742年
    5月17日コトゥジッツの戦い。プロイセンとオーストリアの戦い。プロイセンが勝利。
    6月11日プロイセンとオーストリアの間でブレスラウ条約が締結される。シュレージエンとグラッツはプロイセンに割譲される。プロイセンはこれを受けて同地方を担保としたオーストリアの債権を引き受ける。また、プロイセンは神聖ローマ帝国皇帝選挙でマリア・テレジアの夫であるロートリンゲン公フランツ1世を支持することを確約。またオーストリアは対フランス戦に戦力を集中することで継承戦争を優位に進めることになる。
    (寛保2年)江戸幕府の法典である公事方御定書がまとめられる。
    8月28日(寛保2年 7月28日)京で暴風雨。桂川が氾濫を起こす。以降、信濃や関東でも暴風雨が広まる。
    8月30日(寛保2年 8月 1日)江戸で暴風雨。江戸で高潮が発生。さらに利根川などの洪水が江戸に達する。
    9月 6日(寛保2年 8月 8日)江戸で再び暴風雨。洪水が広がる。幕府は西国10藩に救援を指示。
    1744年
    5月22日オーストリアのハプスブルク家伸長に対抗するため、プロイセン、バイエルン、プファルツ、ヘッセン=カッセルがフランクフルト同盟を締結。
    8月 2日プロイセンがオーストリアのベーメンに侵攻。第二次シュレージエン戦争勃発。
    9月 8日プロイセンによるプラハ攻略戦が始まる。
    9月16日プラハ市がプロイセンに降伏。しかし、フランスが参戦を取りやめた他、在地の協力が得られず、プロイセン軍は物資不足が目立つようになる。
    10月26日オーストリア側の反撃と物資不足のため、プロイセン軍はベーメンからの撤退を開始。
    1745年
    3月14日(延享2年 2月12日)六道火事。江戸千駄ヶ谷の青山六道辻付近から出火。北西風に煽られて南東方角へと火災が広がり、麻布、白金、高輪へと延焼。2万8678棟が焼失し1323人が死亡する。
    5月11日フォントノワの戦い。オーストリア継承問題に端を発し、ネーデルラントを巡ってフランスとイギリス・ハノーファーなどの連合軍が衝突。フランス側が勝利。
    1747年
    4月20日(延享4年 3月11日)東海地方を荒らし回った盗賊団の頭だった日本左衛門こと濱島庄兵衛が処刑される。歌舞伎「白浪五人男」に出てくる日本駄右衛門のモデル。
    9月19日(延享4年 8月15日)江戸城中で、肥後熊本藩主細川宗孝が、厠に立ったところ、突如旗本寄合席板倉勝該に背後から襲われ殺害される。板倉勝該は普段から狂疾だとして、板倉本家の老中板倉勝静が勝該を廃する予定でいたとされ、恨みに思った勝該が、勝静と間違えて、家紋がよく似た細川宗孝を襲ったと見られる(勝該と宗孝の屋敷同士が隣接していることから排水の揉め事が原因という説もある)。板倉勝該は切腹。細川家は子がいなかったため改易の可能性があったが、現場に駆けつけた仙台藩主伊達宗村が、宗孝はまだ息があると証言して時間を稼ぎ、肥後藩は急遽宗孝の弟紀雄を末期養子として申請し、その後、宗孝は死亡したことにした。家紋を見間違えたため、細川家では家紋のデザインを変更している。
    1748年
    9月 6日(寛延元年 8月14日)大坂竹本座で人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」初演。
    ヴェスヴィオ山の噴火で埋没していた古代都市ポンペイが発見される。
    1749年
    1月19日(寛延元年12月 1日)大坂中の芝居で歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」初演。
    1751年
    5月21日(寛延4年 4月26日)深夜に宝暦高田地震が発生(宝暦はこの年改元)。高田城などで被害。各地で山崩れが多発し、特に越後国頸城郡名立小泊で山体崩壊が発生。海岸沿いの名立小泊村の家屋の殆どを海まで押し流す。通称「名立崩れ」。住民525人のうち406人が死亡(生存者数は諸説あり)。全体の死者は1500人以上。
    1752年
    2月 3日(宝暦元年12月19日)大岡忠相が死去する。
    5月第6代ロシア皇帝エリザヴェータがエカテリーナ宮殿の建設に取り掛かる。設計は宮廷付き建築家バルトロメオ・ラストレッリ。
    6月ころベンジャミン・フランクリンが、雷雲に凧を上げ、ライデン瓶を繋いで雷が電気であることを確認。先にトマ・ダリバードが行ったともいわれる。
    9月14日イギリスとその植民地で、グレゴリオ暦が導入される。
    1753年
    8月 6日ドイツの物理学者ゲオルク・ヴィルヘルム・リヒマンが、サンクトペテルブルクの研究室で、雷の中での絶縁の実験をしている最中に感電死。雷に打たれたとも、窓から飛び込んできた球電の直撃を受けたとも言われる(球電は雷雨のときなどに稀に発生する発光体。プラズマとも言われる)。
    1754年
    3月20日(宝暦4年 2月27日)宝暦治水工事着工。薩摩藩の財政弱体化が目的の公共工事で、幕府の妨害により抗議の自害や、疫病による病死で大勢の犠牲者を出すことになる。ただ死者の詳細な要因はわかっていない部分が多い。薩摩藩は莫大な借金を抱えることになった。
    1755年
    この年までに、スコットランド・エディンバラ大学の研究者ジョゼフ・ブラックが炭酸カルシウムなどの研究から、「燃焼を止めてしまう」固定気体を発見。のちに二酸化炭素と名づけられた。
    1756年
    7月30日ロシア・サンクトペテルブルク郊外プーシキンのツァールスコエ・セローにエカテリーナ宮殿が完成。
    1757年
    3月27日ルイ15世の殺害を図ったとしてロベール=フランソワ・ダミアンが八つ裂きの刑に処される。死刑執行人「ムッシュ・ド・パリ」ことシャルル=アンリ・サンソンが詳細に記録したことで知られる。
    1758年
    5月 9日(宝暦8年 4月 3日)広島宝暦八年大火。広島城下白神5丁目から出火。夕方に鎮火するも、翌日国泰寺から出火。比治山町まで延焼。
    9月12日シャルル・メシエが「かに星雲」を観測し、メシエ・カタログの1番目(M1)に記載。
    12月25日エドモンド・ハレーが予言したのとほぼ同時期に彗星が出現しヨハン・ゲオルク・パリッチュが観測。ハレー彗星と名付けられる。
    1759年
    1月15日ハンス・スローンの膨大なコレクションを収蔵展示するための博物館として大英博物館が開館。
    1月27日(宝暦8年12月29日)講釈師で近世講談の祖とも言われる馬場文耕が処刑される。幕府が審理中だった金森騒動を素材にした講談を行い、それを『平良仮名森の雫』という本にして頒布したことが咎められたためとされる。馬場文耕の出生や経歴ははっきりしないが、多数の著作物がある。
    9月 6日(宝暦9年閏7月15日)人吉藩竹鉄砲事件。肥後人吉藩薩摩瀬屋敷で、藩主相良頼央が、何者かに狙撃されて負傷。9月26日(8月3日)に死亡。しかし、何故か藩は狙撃事件ではなく、狙撃音は子供の遊ぶ竹鉄砲(爆竹)だったとして、縁戚関係の日向高鍋藩藩主秋月種美の3男晃長を末期養子にし、藩主は病死と公表した。なお晃長は秋月家出身の上杉鷹山の実弟にあたる。
    1760年
    2月 6日(宝暦10年 3月22日)宝暦の大火(明石屋火事)。同日夜、江戸神田旅籠町の足袋屋「明石屋」から出火。北西付の風に煽られて佐久間町、馬喰町、日本橋、木挽町へと延焼。更に火災は大川を超えて深川、洲崎まで広がった。460町、寺社80、橋104などを焼失。
    10月31日(宝暦10年 9月23日)葛飾北斎生誕とされる日。生誕地は武蔵国葛飾郡本所の割下水付近とされる。出自、生誕日、生誕地、若い頃の経歴など不明なところの多い人物。
    1761年
    7月 4日近代小説初期の作家で書簡体小説を書いたサミュエル・リチャードソンが死去。
    1762年
    2月27日(宝暦12年 2月 4日)人吉藩9代藩主相良晃長が病死。11歳だったため、17歳未満の末期養子は認められないことから、藩上層部は急遽縁戚の公家鷲尾隆煕の子頼完(晃長より3歳年上)を密かに藩主にして、幕府には晃長が病気回復したと「同一人物」を装う報告をした。
    9月15日(宝暦12年 7月27日)後桜町天皇が即位。第117代。令和に至るまでの時点で最後の女性天皇。
    10月31日(宝暦12年 9月15日)佐渡・越後で地震。佐渡では銀山道が崩れる。津波、液状化、地割れなどを観測。
    1763年
    1月29日(宝暦12年12月16日)宝暦八戸沖地震。マグニチュードは7.4以上。夜間に発生し、津波が襲来。寺社・民家などが損壊。十勝沖地震と同様とする説も有力。余震が相次いだ。
    2月10日パリ条約が調印され、ヨーロッパ中を巻き込み、北米やインドでも戦った七年戦争が終結する。
    3月22日(宝暦13年 2月 8日)米沢藩の有力者、森利真が米沢城内で竹俣当綱らによって暗殺される。藩主上杉重定の側近として強引な商業主義と増税による藩財政建て直しを図ったことと一族重用が恨みを買ったため。
    5月22日(宝暦13年 4月10日)豊後国耶馬渓の崖を掘った青の洞門が開通
    メルヒオール・バウアーが「空中車」という飛行装置を考案。揚力を生む主翼と、推力を生む可動翼を分けた航空機の原型のようなもの。ロイス=グライツ侯ハインリヒ11世らに図面を提示したが、実物は制作されなかったとみられる。
    ジャマイカのフォートオーガスタ要塞で、落雷が原因で火薬庫が爆発。300人が死亡する。
    1764年
    4月 5日英国議会で砂糖法が成立。西インド諸島の非英領植民地から輸入される糖蜜にかかる関税を下げる代わりに、消費財に課税し、徴税逃れや密貿易を取り締まり、確実に徴税するための関税法。フレンチ・インディアン戦争の負債を減らす目的もあったが、英領アメリカでは経済的悪影響と「代表がいないのに課税される」ことに不満が高まっていく。
    1765年
    清の軍勢が雲南省からミャンマーに侵攻。清緬戦争。チャイントンで起きた殺人事件を理由にミャンマーのコンバウン王朝を影響下に収めようとした。しかしミャンマー側の反撃で敗走。以後、清は1769年まで4回に渡ってミャンマーに攻め込む。
    1766年
    3月 8日(明和3年 1月28日)津軽で大地震。マグニチュードは7クラス。津軽藩領内で甚大な被害を出す。家屋倒壊5000軒あまり、焼失200軒あまり。死者1300人。
    ヘンリー・キャベンディッシュが、金属と酸が反応した際に出る、軽くて燃える気体を、フロギストンではないかと発表。のちにこの気体が(酸素と反応して)水を生むことがわかり、ラヴォアジエによって水素(hydrogen)と名づけられた。
    1767年
    第一次マイソール戦争勃発。南インドのマイソール王国と、イギリス東インド会社との戦争。
    9月14日(明和4年 8月22日)明和事件。尊王論・大義名分論を唱えて幕府に警戒されていた山県大弐、藤井直明が、不敬罪を理由に処刑される。直接的には山県と関係の深かった小幡藩の内紛に巻き込まれた形となっている。竹内敬持も流罪処分。
    1768年
    7月22日(明和5年 6月 9日)琉球で大きな地震。石垣などが崩落。津波を観測。
    8月 8日ジェームズ・クックのエンデバー号がイングランドのプリマスから出航。第一回太平洋探検の航海はじまる。
    9月ゴルカ王プリトゥビ・ナラヤン・シャーが複数の小王国を征服してネパールのカトマンズ盆地を統一。シャー王朝を興す。
    1769年
    4月 2日南インドのマイソール王国と、イギリス東インド会社との間でマドラス条約が締結され、第一次マイソール戦争終結。戦争は一進一退を繰り返したが、最終的にマイソール側がマドラスに攻め寄せたことから、イギリス東インド会社側が譲歩した。
    8月18日イタリアのブレシアにある聖ナザロ教会で、ヴェネツィア共和国が保管していた90tともいわれる大量の火薬が、雷によって発火。大爆発を起こす。爆風の他、吹き飛んだ巨石が落下するなどしてブレシア市街地の6分の1が破壊され、死者は多い記録で3000人、公式記録では400人を出す惨事となる。各国で避雷針の研究・導入や、火薬の保管に関する法律が検討されるきっかけとなった。
    8月29日(明和6年 7月28日)日向国、豊後国、肥後国、伊予国で大地震。家屋損壊多数。延岡城、大分城に被害。津波襲来により沿岸部で水没地域も発生。死者多数。日向灘地震かプレート内地震かは説が分かれる。
    11月 9日(明和6年10月12日)青木昆陽が病死。甘藷の関東地方普及に関わったと言われる他、書物奉行として古文書の調査、古銭の分類、オランダ語の研究なども行った人物。
    清緬戦争、清の4回目のミャンマー侵攻。6万の大軍を擁したが反撃され大敗。皇帝の命により退却する。4回すべて清の敗北に終わる。清軍から和平が求められたため、ミャンマー側のマハティハトゥラ将軍が独断で和睦に応じる。清王朝はこれをもってミャンマーに勝利し朝貢国としたと称した(乾隆帝十全武功のひとつ)。
    1770年
    3月 5日ボストン虐殺事件。当時のマサチューセッツ湾植民地のボストンで、駐留イギリス軍兵士と住民との間でトラブルとなり、住民5人が銃で撃たれて殺害された事件。アメリカ独立戦争のきっかけの一つ。
    9月17日(明和7年 7月28日)蝦夷地から九州に至る各地で夜空に「赤気」が出現。北極での大規模なオーロラの発生に伴う低緯度オーロラとみられる(オーロラの色はエネルギーの量と反応する窒素や酸素との違いで、高度が上がるほど紫→緑→赤と変わるため、低緯度で見えるときは高高度の赤い部分だけが見える)。
    1771年
    4月18日(明和8年 3月 4日)杉田玄白、前野良沢、中川淳庵が小塚原刑場で「腑分け」を見学。オランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」の図解の正確さを確認。
    4月24日(明和8年 3月10日)八重山地震が発生し、地震の被害は記録がないが、大津波が宮古・八重山地方を襲う。「八重山地震」「明和の大津波」「八重山地震津波」「八重山大津波」「乾隆大津波」などと称される。石垣島が特に大きな被害を受けた。波高は石垣島宮良で最大85mとされているが不正確であり、現代の計測では石垣島で25~30m、多良間島で18mほどと考えられる。それでも巨大な津波であり、全体の家屋流出2000軒あまり、死者・行方不明者1万2000人で、八重山では人口の3分の1が死亡。田畑が海水につかったことで塩害が起き、翌年以降大規模な飢饉をもたらす。明治初期の人口でも津波の前の3・4割程度。一方、沖縄本島以北には被害がなく、津波襲来は限定的だったとみられる。地質調査から600年周期で大津波が襲来していたとされる。
    6月12日ジェームズ・クックの最初の航海が終わり、エンデバー号は南イングランドのダウンズに帰還。
    この年、スウェーデンの研究者カール・ヴィルヘルム・シェーレが炎を強くする気体を発見する。いわゆる酸素の発見。しかしシェーレはこれをしばらく発表しなかったため、後に別に酸素を発見したプリーストリーに発見者の地位を奪われた。
    (景興32年)この年、ベトナム中南部の西山(タイソン)県で、阮岳・阮侶・阮恵の三兄弟が、広南国(後黎朝大越の有力者広南阮氏の半独立国)で摂政張福巒排除を唱えて反乱を起こす。西山党の乱。
    1772年
    4月 1日(明和9年 2月29日)明和の大火。目黒行人坂大円寺の真秀という僧侶の放火による。904町が焼失し、死者は1万5000人、行方不明者は4000人。出火場所から目黒行人坂の火事とも言われる。
    6月 3日(安永元年 5月 3日)陸奥国で地震。各地で山崩れ、家屋倒壊。死者12人。
    1773年
    1月17日ジェームズ・クック率いる探検隊が、初めて南極圏に達する(南極大陸から121kmの地点まで進む)。伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)を探している途上。この後、北上したため、南極大陸の発見には至らず。しかしクックは、テーブル型氷山の存在などから大陸があると確信し、氷雪に覆われた不毛地帯であると推測。これにより理想化された伝説の南方大陸という考え方は衰退していく。
    9月ロシアでプガチョフの乱が勃発。ドン州のコサック領主の生まれであるエメリヤン・プガチョフが、ピョートル3世を名乗って挙兵。反乱はヴォルガ川からウラル山脈にかけての広大な地域に拡大。
    11月28日(安永2年10月15日)京都西町奉行の山村良旺が朝廷の財務管理に関する不正の調査に乗り出す。朝廷側の財務担当をしている地下官人らによる架空請求と帳簿改ざん、横領、収賄、幕府への批判などが明るみになる。天皇・上皇らの助命嘆願があったものの、翌年、官人154名と御用商人らの処罰が決定され、うち4名が死刑となる。
    12月16日ボストン茶会事件。植民地をめぐるフレンチ・インデアン戦争での莫大な負債に苦しむイギリス政府が、新大陸における東インド会社の茶葉独占販売権を決めたことで、貿易独占と課税権に反発した急進派市民約50人が、ボストン港に停泊していた貿易船を襲い、大量の茶箱を海に放り込んだ出来事。100万ドルもの損害を出し、イギリスは植民地支配を強化。これがアメリカ独立戦争の直接のきっかけとなった。
    (景興34年)ベトナム中南部で起きた西山党の乱で、反乱軍は広南国の歸仁(クイニョン)を攻略。さらに広義(クアンガイ)、広南(クアンナム)へと北上し、中南部地方から広南阮氏の勢力を追放。
    1774年
    7月12日カザンの戦い。プガチョフの乱で、エメリヤン・プガチョフ軍2万5千人がカザンに侵攻。皇帝軍を打ち破り、市街地を占領・破壊する。しかしまもなく皇帝軍に増援が到着し、プガチョフ軍は大敗。以後、反乱は急速に縮小していく。
    9月14日エメリヤン・プガチョフが捕らえられる。
    ジョゼフ・プリーストリーが、水銀灰(酸化第二水銀)を燃焼させて新たな気体を発見する。翌年再実験を行い、これが「火を強くし」「動物を長生きさせる」「良い気体」と結論。当時広く信じられていた物質「フロギストン(燃素)」を吸収する「脱フロギストン空気」と発表する。しかし、プリーストリーはフロギストン説支持者であったため、これがいわゆる酸素だとは気づかなかった。
    (景興35年)ベトナム中南部で起きた西山党の乱で広南国が衰退したのを受け、ベトナム北部を勢力圏とする東京鄭氏(後黎朝大越の有力者「鄭主」10代目鄭森)が、中南部へ侵攻。富春を攻略。西山阮氏三兄弟は、鄭森に臣従して「広南鎮守宣撫大使」となり、一転してベトナム南部へ侵攻を開始。
    1775年
    1月21日エメリヤン・プガチョフがモスクワで処刑される。反乱は終息。
    4月19日レキシントン・コンコードの戦い。イギリス軍と大陸民兵軍が衝突。アメリカ独立戦争に拡大。
    この年、ジェームズ・クックの探検隊が、サウスジョージア諸島を再発見し、イギリス領を宣言。
    1776年
    1月10日思想家トマス・ペインが、『コモン・センス』というパンフレットを売り出す。アメリカ独立を主張した内容で、民衆の間にも独立機運が高まる。
    6月10日アメリカ独立宣言起草委員会が発足。独立宣言書は、トーマス・ジェファーソンが起草し、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンが修正を加えて完成する。
    7月 2日バージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーが提出していた『独立の決議』が、大陸会議で可決承認。
    7月 4日アメリカ独立宣言書が大陸会議で承認され、13植民地が、イギリスからの独立を宣言。アメリカ独立記念日。
    (景興37年)ベトナム中南部で起きた西山党の乱で西山党軍は、南部の嘉定を攻略し広南阮氏を滅ぼす。しかしこのとき、阮福暎のみ逃亡に成功する。阮福暎はのちの阮朝越南国(グエン朝ベトナム)の初代皇帝。
    1777年
    6月14日アメリカの国旗として正式に星条旗が選定される。フラッグデー。
    1778年
    1月18日ジェームズ・クック率いる調査隊がハワイ諸島に到着。クックはこの諸島を調査探検の後援者であるサンドウィッチ伯爵の名を取って、サンドウィッチ諸島と命名。
    (景興37年)西山党の阮岳が、歸仁で西山王に即位。西山朝が成立。
    1779年
    2月14日ジェームズ・クックが、北西航路探検の拠点にしていたハワイ島のケアラケクア湾で、盗品を巡って先住民といさかいになり、小競り合いで殺害される。
    6月18日アメリカ独立戦争に絡んで、アメリカ大陸軍のジョン・サリバンによってサリバン遠征が始まる。イギリス王党派とイロコイ連邦のイギリス側についたインディアン部族討伐を目指したもの。
    8月29日アメリカ独立戦争、ニュータウンの戦い。サリバン率いる大陸軍と、イギリス王党派・イロコイ連邦の連合軍との戦い。
    11月 8日(安永8年10月1日)桜島各所で噴火。火砕流と降灰を伴い、翌9日には溶岩の流出が始まる。10日に溶岩が海岸に到達(安永溶岩)。
    この年、アントワーヌ・ラヴォアジエが、プリーストリーの発見した気体を、金属と結合して酸化させる物質という意味で「oxygène(オキシジェーヌ)」と名付ける。酸素の語源。ラヴォアジエは、プリーストリーと異なり、フロギストン説にこだわらず、空気は2つの気体から構成されていると考えた。
    1780年
    1月24日(安永8年12月18日)科学者、発明家、戯作者などで知られた平賀源内が死去。大工の棟梁秋田屋九五郎とのトラブルで殺傷事件を起こし投獄中に獄死したと言われるが、田沼意次や高松藩松平家に匿われて生き延びたといった異説もある。
    8月 6日(安永9年 7月6日)桜島北東海上で海底噴火。
    1781年
    3月13日ウィリアム・ハーシェルが天王星を発見。当初は彗星と考えていたが、アンデル・レクセルが軌道計算をして惑星と判明。なお、これ以前にも何度か観測されているが新惑星とはみなされなかった。
    4月11日(安永10年3月18日)桜島北東海上で海底噴火。津波が発生。安永の一連の噴火の死者は153人。
    1782年
    4月 6日アユタヤの王族で、トンブリー王朝の将軍ソムデットチャオプラヤー・マハーカサット・スックが、遠征先から戻り、乱心していた国王タークシンを処刑。自ら即位してチャクリー王朝シャム王国を興す。初代国王ラーマ1世。
    8月23日(天明2年 7月15日)関東地方で2回大地震。小田原城で被害。家屋800軒あまりが損壊。箱根山・大山・富士山で山崩れ。津波を観測。
    1783年
    4月13日(天明3年 3月12日)岩木山が噴火。
    6月 5日モンゴルフィエ兄弟による無人熱気球の公開飛行実験に成功。
    6月 8日アイスランドの活火山ラキ山(ラーカギーガル山)が大噴火を起こす。二酸化硫黄ガスやフッ素化合物が大量に噴出。膨大な量の玄武岩質溶岩も流れ出す。多くの家畜が死亡し、住民も2割が死亡。ヨーロッパ各地へも大量の火山性ガスの流出と降灰があり、多数の死者を出す。その後、数年にわたって北半球全体で気象異変が起こる。この時、隣接するグリムスヴォトン山も噴火。
    8月 4日(天明3年 7月 7日)小規模の噴火が続いていた浅間山が大噴火を起こす。大量の溶岩が流れ出す。現在の「鬼押出し」。
    8月 5日(天明3年 7月 8日)浅間山の中腹で大規模な爆発が起きる。溶岩、火砕流、土石流が麓へ広がり、比較的大きな街道の集落だった蒲原村は土石流で完全に埋没し村人の9割が死亡。噴火はこのあと急速に終息するが、土石流は吾妻川をせき止め、決壊後の洪水によって流された人馬の遺体は江戸川にまで流れ着く。
    9月 3日パリ条約でアメリカ独立宣言書がイギリスに承認され、アメリカ合衆国が正式に独立。
    9月19日モンゴルフィエ兄弟、フランス国王ルイ16世とマリー・アントワネットの前で動物を乗せた気球飛行実験に成功。
    11月21日モンゴルフィエ兄弟、世界初の熱気球有人飛行の実験を行なう。当初は死刑囚を乗せるはずだったが、研究者ピラトール・ド・ロジェとフランソワ・ダルランド侯爵の二人が名乗りを上げ、25分の飛行に成功。
    1784年
    2月 7日噴火していたアイスランドのラキ山がほぼ終息。
    2月27日音楽家・画家で、錬金術を行い、不老不死者などの噂もあったサンジェルマン伯爵が死去。スペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブールの私生児とも言われる。
    4月12日(天明4年 2月23日)筑前志賀島で「漢委奴國王」の金印が発見される。
    5月13日(天明4年 3月24日)江戸城中で、旗本佐野政言が、若年寄田沼意知に襲いかかり重症を負わせる。事件を起こした動機は諸説あるがはっきりしない。政言は乱心ということで切腹、佐野家は改易となった。天災などで米価が高騰していたこともあり、世間では佐野を称える風潮となった。
    5月20日(天明4年 4月 2日)江戸城中で佐野政言に襲われ重症を負っていた田沼意知が死去。
    広南阮氏の生き残りである阮福暎が、シャム王国の援軍5万を率いて西山朝へ侵攻し嘉定を占領。シャム軍による略奪などで反発を買う。
    1785年
    1月19日(泰徳7年12月 9日)ラックガム=ソアイムットの戦い。シャム軍の侵攻に対し、西山朝は阮恵が5万で迎撃に当たり、前江(メコンデルタの東側)流域で両軍は激突。阮恵はメコンデルタの大きな干満差を利用するなどしてシャム軍を撃破。シャム軍は大敗を喫して退却。阮福暎も敗走した。
    6月15日世界最初の気球飛行者ピラトール・ド・ロジェが自ら考案した気球で、ドーバー海峡横断に挑戦中、爆発事故で墜落死し、同乗していたジュール・ローマンとともに人類最初の航空事故死者になる。
    備前の表具屋だった浮田幸吉が自作のグライダーで、岡山の旭川に架かる京橋から滑空飛行を行う。騒動を聞きつけた岡山藩士によって捕らえられ岡山を追放された。のち、移り住んだ駿府でも飛行実験を行ったといわれる。
    この頃から、ラヴォアジエは、フロギストン説を否定する理論を主張。妻マリー・アンヌとともに批判を展開し、支持者を増やしてフロギストン説は衰退していく。化学が大きく進むきっかけを作った。
    1786年
    (泰徳9年 6月)西山朝が北進を開始し、富春を占領。
    8月 8日医者のジャック・バルマとポーターのミッシェル・ガブリエル・バッカールが、近代登山の祖オラス=ベネディクト・ド・ソシュールの支援を受け、初めてモンブラン登頂に成功。
    8月(泰徳9年 7月)西山朝が昇龍に到達し、事実上の権力者だった東京鄭氏(鄭氏東京国)を破って、形式的な君主である大越後黎朝を支配下に置く。皇帝顕宗は侵攻軍の司令官阮恵を元帥に任じ娘を嫁がせる。
    8月10日(泰徳9年 7月17日)後黎朝の皇帝顕宗が崩御。黎維祁が即位(黎愍帝)。
    1787年
    1月11日ウィリアム・ハーシェルが天王星の衛星チタニアとオベロンを発見する。天王星で1番目と2番目に大きな衛星。
    5月(泰徳10年 4月)西山朝の阮岳が歸仁で皇帝に即位(泰徳帝)。北平王阮恵を富春に封じ、北定王阮侶を嘉定に封じて南定王とする。
    7月21日畿内で飢饉が深刻化する中、京の市民が御所の周りに集まり回り始める。いわゆる「御所千度参り」の始まり。次第に人数が増え、大坂や近江などからも人が集まり、7万人に達する事態に発展。後桜町上皇は御所内にあった和りんご3万個を人々に提供。公家衆も、お茶やおにぎりを供出した。光格天皇と関白鷹司輔平は事態を受けて幕府に飢饉難民への救済策を求める。政治行為は「禁中並公家諸法度」に反する行為だったが、幕府は非常事態を受けてのこととして問題にせず、京に1500俵の米を出した。幕末に天皇家が発言力を持ち始めるきっかけになったとも言われる。
    9月17日フィラデルフィア憲法制定会議が、アメリカ合衆国憲法案を採択。
    10月(泰徳10年/乾隆53年 9月)西山朝の阮恵と阮有整の内紛を受けて、黎愍帝が清朝に支援を要請。清の乾隆帝は両広総督の孫士毅に後黎朝支援の遠征を命じる。
    11月 7日フランス国王ルイ16世が、ヴェルサイユの勅令に署名。フォンテーヌブローの勅令を廃止し、カトリックへの強制改宗をやめ、プロテスタントの信仰の自由が認められることになる。
    12月 7日アメリカ独立13植民地のうち、デラウェアが最初に合衆国憲法を批准。1番目の州となる。デラウェア州の愛称は「First State」。
    12月19日(泰徳10年11月22日)西山朝の軍勢を駆逐して昇龍に入城した孫士毅が黎愍帝を安南王に封じる。
    1788年
    1月26日イギリスから囚人や貧困者ら1030人が、アーサー=フィリップ海軍大佐に率いられ、オーストラリアのポート・ジャクソン湾に到着し、初めて上陸する。
    3月 7日(天明8年 1月30日)京都天明の大火。京の市街地の大半が焼失した大火で、御所や二条城、京都所司代、主要な寺社も焼け落ちた。焼亡した地域は応仁の乱の被害を上回るともいう。何者かによる宮川町団栗辻子の町家への放火が原因で、出火場所から団栗焼けとも呼ばれてる。死者は150~1800人。
    4月 9日(天明8年 3月 4日)第11代将軍徳川家斉が、老中松平定信を将軍輔佐に任命。寛政の改革がはじまる。
    4月 9日(天明8年 3月 4日)イギリス人ジョン・ミアーズ率いる船が、伊豆諸島で海から突き出た巨大な岩を発見。聖書の「ソドムとゴモラ」のエピソードに出てくる塩の柱にされたロトの妻から「ロッツワイフ」と名付ける。これをもとに明治になって孀婦岩と命名された。
    7月27日(天明8年 6月24日)幕府の側用人・老中として権力をふるった田沼意次が病死。松平定信の政権下では非常に冷遇された。
    8月 3日ベルサイユ広場で車裂きの刑に処せられる予定だった死刑囚ジャン=ルイ・ルシャールが、無実を訴えたことに群衆が同情し、処刑台を破壊して助け出す。これ以降、苦痛の大きい刑罰は行われなくなり、即死するギロチンの開発へとつながっていく。
    10月(泰徳11年 9月)西山朝の内紛を受け、広南阮氏の阮福暎がふたたびシャム王国の支援のもと侵攻し、嘉定を占領。
    12月22日(泰徳11年/光中1年12月28日)西山朝の泰徳帝阮岳の弟阮恵が、自ら光中皇帝と称して即位を宣言。清軍の侵攻に対抗するためか。阮岳との関係は破綻。
    1789年
    1月30日(泰徳12年/光中2年 1月 5日)ドンダーの戦い。光中皇帝阮恵率いる西山軍が、埬栘(ドンダー)で正月の準備で油断していた清軍を攻撃。清軍は大敗を喫して敗走。これを受けて後黎朝の昭統帝も清朝へ亡命し、後黎朝は滅亡する。清朝は両広総督の孫士毅を更迭し、各地の総督を歴任した有力者の福康安(フカンガン)をあらたに両広総督とする。また清朝は、阮恵が講和を求めてきたとして安南王に封じ、勝利を装った(乾隆十全武功)。後黎朝の昭統帝は事実上見捨てられることになる。
    2月 4日ジョージ・ワシントンが初代アメリカ合衆国大統領に選出される。
    2月26日サラブレッドの近代始祖エクリプス死す
    5月11日(寛政元年 4月17日)阿波国・土佐国で地震。阿波冨岡・土佐室津などで被害。
    7月14日バスティーユ監獄襲撃。第三身分の一般市民が政府に反発して蜂起。フランス革命の勃発。
    8月26日フランス革命の基本原則として「人間と市民の権利の宣言」が採択される。通称「フランス人権宣言」。
    8月28日ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星エンケラドゥスを発見する。近年の探査機カッシーニの観測で氷の地殻の下に広大な海が存在することが判明し、生命体がいる可能性も指摘されている。
    9月17日ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星ミマスを発見する。後にボイジャー1号が観測した際に、直径の3分の1もある巨大なハーシェルクレーターを持つ姿が、映画『スターウォーズ』に出てくる宇宙要塞デス・スターにそっくりだったことから話題になった。
    10月10日フランスの医師で議員のギヨタンが立憲議会に、当時複数の手段があった死刑方法を斬首に統一することと、苦痛の少ない機械的な斬首法の導入を提案。この提案を元に処刑執行人シャルル=アンリ・サンソン、外科医アントワーヌ・ルイ、楽器製造者トビアス・シュミットが開発したのがギロチン。なおギヨタン自身がギロチンで処刑されたというのは間違い。
    1790年
    5月29日アメリカ独立時の13植民地の最後の1つロードアイランドが合衆国憲法を批准し州となる(イギリスからの独立には積極的だったが、中央集権体制には反発していたため最後になった)。
    7月 6日(寛政2年 5月24日)松平定信が、朱子学を正学とし、それ以外の学問を禁止する、寛政異学の禁を通達。主に幕府の教育行政についての指導で、諸大名・一般に対する強制では必ずしもない。
    1791年
    3月フランスでメートル法が導入される。地球の大きさをもとに長さの単位を決めたもので、その大きさをもとに決められた質量から重さの単位(g)もこれに合わせる。度量衡の不正がフランス革命の要因の一つにもなっていたため、革命後に統一化が進められた。
    6月22日フランス国王一家が、国外の支援者と合流するため、一家で宮殿を脱出、国境へ向かうも発見され捕らえられる。ヴァレンヌ事件。
    1792年
    2月10日(寛政4年 1月18日)雲仙の普賢岳地獄跡火口で噴火が始まる。
    4月25日ギロチンが初めて死刑に使用される。死刑に処されたのはニコラ・ジャック・ペルティエという人物。
    5月17日ニューヨーク証券取引所の前組織「ぼたんの木協定」(Buttonwood Agreement)が設立される。
    5月21日(寛政4年 4月 1日)島原半島で大きな地震が起き、雲仙普賢岳のそばにある火山眉山が山体崩壊し島原城下が飲み込まれて壊滅。大量の土砂はそのまま有明海に流れ込み、発生した大津波で、対岸の肥後や天草も甚大な被害をうける。死者は1万5千人(島原で約1万人、肥後で約4600人、天草諸島で約300人)。いわゆる「島原大変肥後迷惑」。
    8月10日フランス革命で、ジャコバン派がテュイルリー宮殿を襲撃して国王一家を拘束。
    8月16日(寛政4年6月29日)甲府、江戸などで大きな地震があり、富士山では落石により20数人が死亡する。
    9月 2日フランス革命で、ジャコバン派に扇動された民衆が反革命派に対する九月虐殺事件を引き起こす。収監されていた貴族や聖職者などを含む1万4千人以上が殺されたと言われる。多くは特に反革命とは無関係だったとみられる。
    9月16日(泰徳15年/光中5年 8月 1日)西山朝大越の光中皇帝阮恵が、南部で勢力を盛り返す広南阮氏の阮福暎を討伐する軍を起こす直前、急病に倒れ崩御。阮恵はベトナムでは、徴側・徴弐姉妹、陳興道とならんで英雄視されている。
    9月21日フランス革命で、王政が廃止される。
    9月22日フランス革命で、革命歴起点日。革命歴1年ヴァンデミエール(葡萄月)1日となる。
    1793年
    1月21日フランス革命で、ジャコバン派が主導して、国王を処刑。
    2月 8日(寛政4年12月28日)西津軽地震。陸奥国沖合の日本海で発生した大地震で、津軽藩領に津波が襲来。鰺ヶ沢・深浦などで大きな揺れを観測。154軒が倒壊。12人が死亡。大戸瀬一帯の海岸が隆起する。
    2月17日(寛政5年 1月 7日)寛政地震。仙台沖の太平洋側で発生した地震で、東北・関東地方でやや強い揺れを観測。東北沿岸に津波が襲来。仙台などで家屋1千軒が損壊。気仙沼では津波で家屋300軒が流出。マグニチュード8クラスの大地震。
    3月11日ヴァンデの反乱勃発。フランス革命による教会弾圧と三十万人募兵令に反発したフランス西部ヴァンデ地方の農民らが王党派と組んで武装蜂起。大規模な反乱へと発展する。革命政府が強権的になるきっかけとなった事件。
    5月15日スペインのディエゴ・マリン・アギレラがオーニソプター(羽ばたき式飛行機)を開発し初飛行。360mほど滑空して墜落したという。
    7月14日ヴァンデの反乱を指揮したジャック・カトリノーが戦傷がもとで死亡。もと行商人で軍隊経験はないが指揮能力が高く、農民らに支持されていた。その死により反乱軍は求心力を失っていく。のちの王政復古時にカトリノー家は貴族に列せられた。
    7月17日フランス革命で「暗殺の天使」シャルロット・コルデーが処刑される。ジャコバン派の中心人物ジャン=ポール・マラーを暗殺したため。
    8月 8日フランス革命に反発したリヨン市を共和国軍が包囲。いわゆるリヨンの反乱が起きる。
    9月18日フランス革命に反発した王党派とそれを支援するイングランド、スペインなどがトゥーロンを占領したため、共和国軍が攻勢を開始。共和国軍を率いたジャン・フランソワ・カルトーが負傷したため、ナポレオン・ボナパルトが指揮権を委ねられる。
    10月 9日リヨン市が共和国政府に降伏。政府の有力者ジョルジュ・クートンは穏便に済ませようとしたが、国民公会はジャン=マリー・コロー・デルボワとジョセフ・フーシェを派遣。両者は市内を徹底的に破壊したうえ、市民2000人以上を処刑した。リヨンの大虐殺とも言われ、これがもとでロベスピエールとフーシェらとの間で対立に発展。テルミドールのクーデターの遠因の一つになった。
    10月16日フランス革命で、マリー・アントワネットらが処刑される。
    11月24日フランス革命で、革命歴が採用される。前年9月22日を起点とし、時間の単位を十進法に改めたもの(1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒)。
    12月18日フランス共和国軍が、トゥーロンを攻略。指揮をしていたナポレオンは負傷したが准将に昇進。イギリス軍などは港湾施設などを焼き払って退却。制圧後、ポール・バラスやルイ=マリ・スタニスラス・フレロンらが到着し、捕らえた王党派や市民を虐殺。フレロンはこの虐殺でロベスピエールとの関係が悪化し、テルミドールのクーデターに加わることになる。
    1794年
    7月27日フランスで、国民公会会議中にロベスピエールに反発する議員ら主導で「テルミドールのクーデター」が起こる。恐怖政治に対する穏健派や市民の反発だけでなく、恐怖政治を強行してロベスピエールと対立した強権派の議員もクーデターに加わっていた。一方、ロベスピエールを支持する国民衛兵や市民も集結するが、ポール・バラス率いる国軍がパリ市中心部を制圧。ロベスピエールら恐怖政治を敷いていたジャコバン派の主要幹部らが逮捕される。
    7月28日ロベスピエールら22人が処刑される。クーデターを実行したテルミドール派が権力を握る。
    1795年
    6月 8日マリー・アントワネットの息子ルイが病死。テルミドール派が実権を握ったのち、幽閉されていたタンプル塔の日の射さない汚物だらけの部屋で衰弱しているのが発見され、医者の手で治療が施されたが手遅れだった。10歳。
    6月26日(寛政7年 5月19日)火付盗賊改方長官を8年務めた長谷川宣以が死去
    8月25日詐欺師・山師として知られ「首飾り事件」に巻き込まれたこともあるカリオストロ伯爵ことアレッサンドロ・ディ・カリオストロ(本名ジュゼッペ・バルサーモ)が獄死。様々な創作に登場するカリオストロ伯爵のモデル。ちなみに投獄されたのはフリーメイソンに関わって、カトリック教会の総本山ローマでエジプト・メイソンリーのロッジ(支部)を開いたため。
    10月 5日フランスのテルミドール派政府が、法改正をして選挙に有利になる工作を行い、反発した王党派や民衆が暴動を起こす。通称「ヴァンデミエールの反乱」。ナポレオンが砲兵隊で鎮圧。ナポレオンはこの功績で国内軍総司令官となり、暴徒を鎮圧した「革命広場」は、後に融和を意味する「コンコルド広場」と改められた。
    10月24日ブランデンブルク=プロイセン王国・ハプスブルク帝国・ロシア帝国による第三次ポーランド分割で、ポーランド・リトアニア共和国は消滅。
    カメハメハ1世がハワイ王に即位しカメハメハ王朝ハワイ国が成立。
    1796年
    4月11日(嘉慶元年 3月 4日)清朝に対する大規模な民衆の反乱、白蓮教徒の乱が起こる。
    5月15日エドワード・ジェンナーが、ウシの牛痘の膿を用いることで、病気にならずに体内で抗体を作り、天然痘を予防する「種痘」を行なう。なお、この種痘に使われたウイルスは、正確には牛痘ではなく、牛に感染していた馬痘の一種と考えられる。これ以前にも経験的に天然痘に感染して治癒した人は発症しないことがわかっており、患者の膿を使う「人痘」はあったが、リスクが大きかった。ジェンナーの「種痘」は当時の医学界から批判を受けるも、またたく間に世界中へと広がった。この手法はラテン語の「牛(ヴァッカ)」から「ヴァクチン」と呼ばれるようになり、「ヴァクチン(ワクチン)」は免疫療法の代名詞になる。
    6月 9日(寛政8年 5月 4日)油屋騒動事件(古市十人斬り)。日本三大遊郭、伊勢古市の遊郭「油屋」で刃傷事件が起こる。客の医者孫福斎が、酒の相手をしていた遊女のお紺が別の客のところへお呼びがかかって座敷を離れたことに腹を立て、脇差しで店の遊女や下男らを次々と襲い、3人が死亡し、6人が負傷。孫福斎は6日に自殺を図り14日に死亡。お伊勢参りで賑わう古市の大規模遊郭で起きた事件のためすぐに広まり、わずか10日後には松坂で芝居になり、2ヶ月後には後に歌舞伎の人気演目となる『伊勢音頭恋寝刃』が作られた。
    1797年
    2月13日(寛政9年 1月17日)昌平坂学問所設立。幕府の朱子学以外の学問を規制する寛政異学の禁により、林大学頭家の私塾だった湯島聖堂を改称。幕府の機関とする。
    9月 4日フランス総裁政府のポール・バラス、ジャン・フランソワ・ルーベル、ルイ=マリー・ド・ラ・ルヴェリエール=レポーが、五百人会選挙で王党派の勢力が盛り返してきたことを受けて、ナポレオンを取り込んでクーデターを起こす。議員216人が逮捕される。通称「フリュクティドールのクーデター」。
    10月22日フランスの気球研究者アンドレ=ジャック・ガルヌランが自作の熱気球から自作の布製の落下傘で飛び降り、無事着陸。それまでとは違い骨組みのない現代のパラシュートの起源となる。
    ロバート・フルトンが手動式潜水艦ノーチラス号を設計。
    1799年
    2月20日(寛政11年 1月16日)幕府はロシアの蝦夷方面への進出に備えるため、松前藩から浦河より東の東蝦夷を7年間上知とすることを決定。
    6月29日(寛政11年 5月26日)加賀国で大地震。金沢城下で4169軒が倒壊。能美郡・石川郡・河北郡で家屋倒壊964軒、家屋損壊1003軒。死者15人。
    7月15日ナポレオン・ボナパルトによるエジプト・シリア遠征の際、戦役の途上フランス軍人ピエール=フランソワ・ブシャールによってエジプトの港湾都市ロゼッタでロゼッタ・ストーンが発見される。
    9月11日(寛政11年 8月12日)幕府は、松前藩から残りの蝦夷地の大半(浦河から箱館まで)も上知とすることを決定。代わりに松前家には武蔵国に5千