建安七子

曹操が実権を握った後漢王朝末期の建安年間、自身が詩人でもあった曹操によって生み出された新しい文学の潮流を建安文学という。詩の創作や文学論などが盛んに行われた。
それまでは宮中などで朗読される散文的な辞賦と、民間で歌われた情緒的な俗謡である楽府があったが、曹操らは楽府をもとに、より個人の思想と感情を歌詞に込めた詩を作るようになった。これが後に漢詩へと発展する。
曹操の支配域が比較的安定してくると、この文学の潮流は大きくなり、多くの文人が集まったが、なかでも孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀の7人を指して、特に建安七子と呼んだ。これに曹操・曹丕・曹植を加えて、三曹七子ともいう。
文人として全員が同じ方向性をもっていたわけではなく、また出自や経歴もバラバラだったが、曹操のもとに出来た文人サロンで活躍した。
変わった人物が多く、人材集めが趣味だった曹操の元だからこそ、活動できたとも言える。

孔融は孔子の直系の子孫で儒者としても知られたが、変わり者が好きで、理屈をこねくり回した言い方をしたと言われ、曹操とは仲が悪かった(文才は賞賛されていた)。最期は刑死している。
陳琳はもと袁紹の家臣で官渡の戦いの前に檄文を記し、その中で曹操一族に対し罵詈雑言を並べた文章を作った。曹操自身が「これを読むと曹操というやつが腹立たしくなる」と言ったほどだったが、同時にその文才を賞して許したという。
徐幹は、その詩才を曹丕から高く評価されたが、その一方で地位や俸禄にはこだわらない性格だったという。
王粲は風体の上がらない人物だったゆえに劉表には評価されなかったが、大学者蔡邕に気に入られてその蔵書を譲られた人物。
応瑒は、曹植の側近でのちに曹丕の側近となった。その際に、曹植との間で別離の詩を交わしている。
劉楨は曹丕の宴会に参加した際に、曹丕が自慢の美人妻である甄氏に挨拶をさせた。妻を人前に出すのは、当時としてはあってはならぬ行為で、その場にいた文人らは皆平伏したが、劉楨だけはマジマジと見てしまい、それを知った曹操が不敬であると激怒して死刑になりかかるも、原因を作った曹丕がとりなして労働刑に処された。しかし平然と労働していたと言われる。
阮瑀は陳琳と同じく袁紹に使えて檄文を記した人物で、詩よりも文章を得意としたという。阮瑀の息子阮籍は竹林の七賢の一人で白眼視の語源となった人物。
七子以外にも、蔡邕の娘で悲運の女流文学者であった蔡琰(蔡文姫)、曹丕の四友の一人として曹家の後継者問題に関わった呉質、ナルシストとして知られた学者の何晏、七子応瑒の弟である応璩も文人として知られた。
建安七子の多くが、217年に広まった疫病によって亡くなった。



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