1985年
日本航空123便墜落事故

単独機による事故では史上最悪の犠牲者を出した航空機事故です。日本航空123便は、羽田発伊丹行で、ビジネスの人気路線な上にお盆の帰省で満席でした。
同機は離陸後、伊豆半島付近で圧力隔壁が崩壊。その時吹き飛んだ破片が、尾翼を破壊し、舵が効かなくなり、油圧系統も全滅しました。操縦不能に陥った同機はかろうじてエンジンの出力調整で高度と方向をコントロールしながら、羽田へ戻ろうとしますが、完全に旋回できず、北上していきます。
米軍横田基地への緊急着陸も認められますが、上手く行かず、急上昇と急降下を繰り返すフゴイド運動と、左右にふらふらと滑るダッチロールを繰り返しながら飛行を続け、三国山付近の尾根に接触した後、その先の群馬県と長野県の県境にある高天原山の御巣鷹の尾根に激突。乗員乗客524人中520人が死亡しましたが、4人が助かりました。事故直後にはさらに複数の生存者がいたようですが、墜落場所が山奥で夜間だったために場所がわからず、救助が遅れてしまったのです。
犠牲者の中には、人気歌手の坂本九、宝塚出身の女優北原遥子、阪神タイガースの中埜肇社長、ハウス食品の浦上郁夫社長などもいました。
1978年6月2日の伊丹空港で尻もち事故で、破損した機体をボーイング社が修理した際に、完全に修復できていなかったのが、圧力隔壁が壊れた原因とされています。
山崎豊子の航空会社の内部を描いた『沈まぬ太陽』や、自身も記者として取材した経験がある横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』ではこの事故をモデルにした話が大きなキーポイントになっています。

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