1912年
白瀬矗率いる日本の南極探険隊が南極大陸に到着

白瀬矗は秋田の生まれ。子供の時に聞いた話から極地探検を目指します。
彼は陸軍に入り、領土の実効支配も絡めた郡司成忠大尉の千島探検に参加しますが、ここで郡司の意向で千島最北の占守島に越冬隊として残されることになり、仲間を失い自身も死にかけたことから、郡司や彼の指導した千島報效義会と決別。
アラスカへ渡ったり、日露戦争に出征した後、陸軍輜重兵中尉に任官されます。彼は北極探検を夢見ていましたが、1909年、ロバート・ピアリーの北極点到達のニュースを聞き、南極点到達を目標に変更。イギリスのスコット探検隊の話を聞き、、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議します。議会では可決しますが、政府は失敗を恐れ、3万円の支援を出したのみで、渡航にかかる14万円は、国民からの寄付を受けることになりました。
船を調達することも困難で、やむなく関係の悪化した郡司成忠に頭を下げ、木造船(204トン)を買い取り(一旦は拒否されたが大隈重信の斡旋で購入できた)、中古の蒸気機関を取り付け、東郷平八郎によって「開南丸」と命名されました。
1910年11月29日に芝浦埠頭を出港。途中、殆どの犬が病死し、仲間内での対立が起こり、さらに資金不足、氷によって先に進めないなどのトラブルが散々に重なり、ニュージーランドやオーストラリアに滞在したのち、1912年1月16日に南極に上陸。極点への踏破は断念し、学術調査と領土確保のために進み、28日に南緯80度5分・西経165度37分の地点で「大和雪原」と名づけ、国旗を掲げ、領土宣言をして帰国しました。この際、天候悪化で犬を置き去りにする出来事も起こっています。
帰国後、国民は大歓迎し、皇太子の謁見も受けましたが、探検隊の内紛も絡んで白瀬は4万円(今の1億5千万円ほど)の借金を背負い、家財を売却し、満洲にまで講演に行き、借金返済の後半生を過ごしました。
1946年、次女の間借りしていた部屋で病気により亡くなりました。その後、3代目南極観測船(砕氷艦)の名前になり、3代目が退役して4代目になる時も、人々の請願で引き続き「しらせ」の名前が受け継がれるなど、今では高く評価されています(※)。
※自衛艦の命名規則には人名がないため、公式には南極の白瀬氷河からとったことになっているが、白瀬氷河は白瀬矗の名が由来。

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