1572年
木崎原の戦い/覚頭合戦(元亀3年5月4日)

元亀3年5月4日に日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)で起こった合戦です。
戦ったのは、当時日向の大半を支配していた伊東義祐と、日向真幸院の領主だった島津義弘。現在は島津氏のほうがダントツ知名度が高いので、わかりにくいですが、当時伊東氏は島津氏を各地で圧迫し、肥後相良氏や大隅肝付氏ら諸領主と連携し、大きな勢力を持っていました。この時も、肥後の相良義陽が伊東方で参戦を予定しています。
一方、島津勢力の最前線、加久藤城の島津義弘の軍勢は300人ほど。伊東氏は3000人の兵を送り、義弘を駆逐しようとします。一説には伊東方の小林城攻略に失敗した義弘が、情報を操作して伊東勢を誘い出したとも言われています。
義弘は旗を並べて大軍に見せる計略で相良氏を撤退させ、伊東勢に加久藤城を攻めさせます。地形が狭い加久藤城は攻略が難しく、伊東勢は一旦退却。そこで義弘は少数の兵を分けて突撃し、義弘自身があわや殺されかける(※)ほどの激戦となり、兵力の大半である257人が戦死しますが、一方の伊東勢も伊東祐安、米良重方、落合兼置ら有力武将をはじめ800人が戦死する敗北を喫しました。義弘は戦のあと、敵味方に関係なく戦死者を供養しており、その六地蔵塔は現在も残っています。また伊東方が建てた各戦死者の供養塔の一部も小林に残っている他、戦死者の首を埋葬した首塚などもあります。
この戦いを境に、伊東氏は内紛を起こして衰退し、一方、島津氏は周辺諸領主を攻略して勢力を拡大していきます。島津拡大のきっかけとして「九州の桶狭間」とも呼ばれています。
ちなみに伊東祐青(伊東マンショの父親)、伊東祐審(のちの初代連合艦隊司令長官伊東祐亨の先祖)も参陣し、祐審は戦死しています。
※島津義弘は、伊東祐信(もしくは柚木崎正家)との一騎打ちで槍を突き込まれた際に、乗っていた栗毛の馬が前足を折り曲げて(従者が足を叩いたとも)前のめりになり、あわや刺されずに済んだという。この馬は「膝突栗毛」として知られている。

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