1221年
承久の乱勃発。旧暦承久3年5月14日

成立して間もない鎌倉幕府と後鳥羽上皇を中心とする朝廷との戦いです。
幕府は当時、主に東日本を支配し、西日本には影響を持つのみでした。後鳥羽上皇は当初、幕府と協調していこうと考え、源実朝を支持していたと言われてます。しかし実朝は公暁に暗殺されてしまいます。あとに権力を握ったのは北条政子と北条義時の姉弟。後継の将軍位について皇族を求めた北条氏に対し、上皇は地頭職の配置などで条件を出したために決裂。両者の関係は悪化します。
源頼茂の殺害事件とそれに関する朝廷による鎌倉調伏の疑惑もあり、後鳥羽上皇は鎌倉攻めを企図。順徳天皇も賛同して懐成親王(仲恭天皇)へ譲位し準備が進められます。
5月14日、上皇は流鏑馬を口実に兵を集め挙兵しました。翌日、京都守護伊賀光季を攻め殺し、さらに院宣を全国の守護・地頭へ発します。
これで守護・地頭は自分に味方するだろう、そう考えていたようです。
しかし、御家人等を集めた北条政子が、一大演説を行い、動揺を抑え、鎌倉軍は出撃。最終的には19万人に達し、6月5日(ユリウス暦6月26日)の大井戸の戦い、6月13日(ユリウス暦7月4日)の宇治川の戦いなど僅かな戦闘で上皇は院宣を取り下げ、臣下に責任を負わせて乱は終わりました。
武家による全国支配が実質を伴い、これは明治維新まで継続します。

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