1590年
北条氏直が豊臣秀吉に降伏、小田原城開城(天正18年7月5日)

小田原城は戦国時代の関東で最大の城郭。惣構えと呼ばれる構造になってました。惣構えとは、堀や城壁、土塁が城本体だけでなく城下町も囲んでいる巨大な城。街を囲む城はヨーロッパや中国では普通ですが、日本では戦国後半から戦闘ではなく政治拠点の城によくみられるようになります。
北条氏は、氏綱、氏康、氏政の代に関東で急速に勢力を拡大し、豊臣政権下では、ほぼ関東を支配下に置いていました。当初から秀吉と対立していたわけではなく、豊臣大名としてその政権に従っていましたが、真田氏と名胡桃城を巡る争いを起こしたことを理由に討伐を受けました。東北平定や、徳川との関係など、秀吉にとって強大な北条氏の存在が都合が悪くなったためかもしれません。秀吉は全国の諸大名を動員し、20万の兵力を動かし、北条と対立した関東の諸勢力も参加しました。北条勢も8万を超える大軍を各地に配置しました。
開戦後、関東各地の北条方城郭の多くは陥落しましたが、小田原城は維持されてました。小規模の小競り合いしか起こらない中、秀吉は、殺害した北条方将兵の妻子の生首を並べるなどの心理戦を展開。小田原城内部では士気の低下により、離反者が出るようになり、石垣山に突貫で城が築かれたのを見て、開城を決めました。開城までの論議から、結論が出せない長い会議を「小田原評定」と呼ぶようになります(本来は、北条氏の重臣らが月に二度行う会議のことを小田原評定と呼んでいました)。
戦国大名の北条氏は滅亡しました。秀吉は北条氏直を大名として復活させるつもりだったとも言われますが病死したため、秀吉と協力した北条氏政の弟氏規があとを継ぎ、江戸時代には河内狭山藩の大名となっています。

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