192年
董卓殺される

初平3年4月23日。
董卓(董仲穎)は、後漢末の群雄のひとりで、一時期政権をになった人物です。
『三国志演義』の中では、極悪非道の人物として描かれています。各史書にも非道のことがみられます。
董卓は漢の西の端にある涼州隴西郡の出身で、腕っ節が良かったことから盗賊退治や異民族討伐に参加して頭角を表します。一時期、并州刺史()・河東太守なども歴任しており、このころまではさほど評判の悪い人物ではありません。
中平元年(184年)に勃発した黄巾の乱で中国全土は騒乱状態になります。こういう世情では彼のような人物は重用されます。
中平6年(189年)并州牧()に任じられると、軍閥化。司隷校尉()の袁紹が宮中の宦官を討伐する事件が勃発した際、隙を突いて皇帝を確保、宮中に乗り込み、一気に権力の中枢に入り込みます。
董卓は権力の座に着くと、暗愚な少帝劉弁を退位させ(のち殺害)、劉協を皇帝にし(献帝)、丁原らを殺害して呂布を味方につけ、位は大尉、さらに相国()となり、絶対権力を握ります。金品略奪、住民殺害、宮中女官の陵辱など悪行の限りを尽くしますが、群雄が「反董卓連合」を結成して挙兵すると、洛陽を焦土にして長安へ遷都を強行。連合軍との戦争は一進一退となりますが、群雄同士の連合は長続きせず、結局解散して、董卓の天下は維持されました。
しかし、思わぬ敵がすぐそばにいました。政治を任せた王允と身辺警護を担った呂布が反旗を翻し、董卓は暗殺されてしまったのです。呂布は以前、機嫌の悪かった董卓に殺されかけた恨みや女性をめぐる関係で董卓を恐れ、同郷の王允がそそのかしたといいます。
漢王朝末期の大混乱を象徴するような董卓。しかしその事歴は、後世に記されたものであるため、どこまでが真実かはわかりません。全く捏造とも言えないのでやはり暴虐だったのかもしれませんが、有能な人材を登用している面もあり、単純な悪人とも言えないようです。彼を悪く描くことで、その後に権力を握った曹氏、司馬氏らは正当性を主張できた側面もあると思います。

刺史は州の役人を取り締まる監察官で、牧は州の行政官。牧の方が権力があり軍閥化につながります。
司隷校尉は、後漢では帝都地区の行政長官で牧よりも上位。
大尉は、三大長官の一つで、今でいう国防大臣。
相国は、漢帝国における家臣の最高位。臣下の簒奪を警戒して、前漢初期に置かれた時以外は董卓が就くまで空位だった。

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