1980年
ハプニング解散

きっかけは5月16日、当時の日本社会党が自民党の度重なる不祥事を理由に、大平内閣不信任案を提出したことです。公明党と当時あった民社党もこれに同調します。
が、実は、彼ら野党は、これが成立するとは思っていませんでした。自民党が当然反対すると考えていたからです。いわば責任をとらない野党のパフォーマンスみたいなものです。
ところが自民党内部では主流派と反主流派が攻防を繰り返していました。内輪もめの結果、反主流派の三木派や福田派など69人は議決を欠席してしまいます。こうして内閣不信任案は賛成243票・反対187票でまさかの可決となったのです。野党もあとのことなど考えていません。予想外の可決となったため、大平首相は対応を協議し、3日後の5月19日、衆議院を解散しました。不信任決議との同日解散ができなかったわけです。さらに6月22日に参議院選挙と一緒に行うことも閣議で決定し、衆参同日選挙という前代未聞の事態になります。
これだけでは終わりませんでした。
自民党内部での対立がくすぶる中の6月12日、かねてより体調不良を訴えて入院していた大平首相が、容態を急変させ、死去してしまいます。現職首相の死は、犬養毅暗殺以来48年ぶりの事態でした。
皮肉にもこの死がきっかけで自民党議員らは抗争を中止し一致団結して「弔い合戦」を旗印に掲げます。
結果、自民党は大勝して終わりました。選挙期間中に亡くなった首相は、当選しなかった現憲法唯一の首相となりました。
まさにハプニングだらけの政治的変動だったと言えます。

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