1932年
春秋園事件

相撲界を揺るがした、いわゆる労働争議事件が春秋園事件。
1932年1月場所番付発表の翌日の1月6日、出羽海一門の関取が、東京大井町の春秋園での食事会に招集されます。そこで、天竜や大ノ里らが相撲協会改革の必要性を訴え、それを以下の10項目にまとめて、協会側に提出しました。
1:相撲協会の会計制度の確立とその収支を明らかにすること、2:興行時間の改正、夏場所は夜間興行にすること、3:入場料の値下げ、角技の大衆化、枡席を少なくし、大衆席を多くすること、4:相撲茶屋の撤廃、5:年寄の制度の漸次廃止、6:養老金制度の確立、7:地方巡業制度の根本的改革、8:力士の収入増による生活の安定、9:冗員の整理、10:力士協会の設立と力士の共済制度の確立
当時、相撲協会は大きな負債を抱えており、財政も不透明で、親方が相撲茶屋の経営に関わって収入を得る一方で、力士らは給与では到底足りず、貧窮に苦しんでおり、親方から借りたり、支援者を回って「カネ集め」に奔走するような状況でした。しかし国技館の入場料は高く、枡席も相撲茶屋が一手にしていて、大衆向けとは言えず、改革をしない限り大幅に収入が上がる状況ではなかったわけです。
天竜らは良い返答を求めますが、協会側は、年寄春日野と藤島を派遣して説得するも決裂し、9日に西方の関取全員が協会から脱退する事態に。東方の力士の賛同者も出て、48人に達しました。西方力士は新興力士団、東方力士は革新力士団を結成(後に合併して大日本相撲連盟)。
協会に残った力士(幕内12名、十両3名)ではまともに番付を組めず、幕下からも上げざるを得なくなりました(しかも総当たり制となる)。このために、非常に不人気な場所となり、一方脱退して新たな組織を立ち上げた力士たちの方は同情も買って根岸での初興行は成功しました。
しかし、脱退メンバーだった出羽ヶ嶽が協会へ戻ると、内部分裂。翌年1月には多くの力士が協会へ戻り、協会側の人気も回復。残った天竜らは、1933年2月に関西角力協会を設立し、大阪に移ります。それでも人気は衰えていき、1937年12月に関西角力協会は解散。残った力士のほとんどが1938年1月場所付けで協会に戻りました。天竜や大ノ里らは戻ることなく廃業。相撲界の改革はならず、敗北に終わりました。
その後も何度か改革の動きが出て、茶屋制度も若干変わりましたが、昨今の不祥事に見られるように、相撲界内部の不透明性や、入場料の高さなどは、今でも問題になっています。

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