下山事件
1949年、日本国有鉄道が発足して間もなく起こった下山定則国鉄総裁失踪死亡事件。三鷹事件、松川事件とともに、国鉄三大ミステリー事件とも呼ばれるが、その中でも特にミステリー性の高い事件として知られる。
1949年6月1日に日本国有鉄道は発足。鉄道マン出身の下山が総裁に就任する。
当時、中国や朝鮮半島で共産主義政府が出現。日本国内でも日本共産党が躍進していたことから、GHQには危機感が広がっており、日本の民主化よりも、日本を反共の砦にする方向へ政策転換が進められていた。GHQは大規模な人員整理を各行政組織に求めており、国鉄も例外ではなく、10万人の人員削減が突きつけられていた。そのため、共産党などが支持する労働組合とは不穏な空気にあった。
第一次人員整理通告後の7月5日、下山総裁は自宅を出たあと、運転手付きの車で出勤。途中、日本橋三越デパートへ寄るよう運転手に要請。銀行などに寄ったあと、三越前に停車させ、「5分で戻る」と残して三越内に消え、以後消息不明となった。出勤してこないことを知った国鉄関係者は情勢不穏でもあり警察に通報。
翌6日未明、常磐線の東武伊勢崎線ガード下近くの線路上で、バラバラになった無残な轢死体となっているのが発見される。轢いたのは少し前に走行した貨物列車。
総裁の足取りを調べていた警察関係者は、目撃証言が多かったことから、前日夜までの動きをほぼ掴んだ。しかし遺体を調べた医学者らの間で、生きたまま轢かれたのか、死んだあと轢かれたのかで意見が別れる。生きたままであれば自殺説が濃厚だが、死後轢かれたのであれば別の場所で殺され、現場まで運ばれた可能性が出てくる。
バラバラになっているにも関わらず、現場には出血の跡がほとんど無く、遺体の一部には暴行されたような内出血痕も見られた。さらに足は無事だったにも関わらず靴は轢断されている、遺体に植物性油が大量についているなどの不審な点もあり、またルミノール反応でも線路沿いに血痕が点在していることが判明。血痕は、線路沿いの小屋の中でも発見され、殺害現場かと疑われた。下山が三越で姿を消してから死ぬ少し前まで何人かの人間に会っていた様子が目撃されていること、几帳面な下山が遺書を残さず自殺するのはおかしいという知人の証言もあった。
しかし警察は自殺説に傾く。瞬間的に切断する轢死体の場合、出血量が乏しいこともあり、雨が降っていたことで血痕が少なくなる可能性もありうること。線路上の血痕は列車のトイレから落ちた経血などの反応の可能性があり、また小屋の血痕は持ち主が作業中に怪我した時のものと判明。内臓の損傷も、立った状態で列車と衝突した可能性を示唆していた。下山が人員整理問題でうつ症状になっていたことは周囲の人が証言しており、家族が自殺の可能性を指摘するなど、自殺する動機もあった。
ところが警察はなぜか、どちらの結論も出さずに捜査を終了。捜査本部も解散してしまう。
その後、松本清張ら作家などが、他殺説を疑い、私的に調査組織を作って調べ、米軍の謀略説を発表することになる。また旧陸軍関係者によるものという説も多い。
一方、自殺説でも、あえて自殺を公表せず、世間に他殺を匂わせれば、総裁と敵対している組合を支持する日本共産党などへの批判が強まるだろうという、米国の間接的謀略があったという説もある(※)。
自殺か他殺かは今もって不明だが、仮に他殺だった場合、1964年7月6日に時効が成立している。
※当時GHQの参謀第二部にキャノン機関という諜報工作機関があり、作家の鹿地亘を拉致するなどの事件を起こしていることから、米軍の関与疑惑はリアリティがあった。
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