220年
曹操が死ぬ

小説『三国志演義』の悪役、魏の太祖武帝曹操。日本では字とくっつけて曹操孟徳と呼ばれますが、本来は曹操か曹孟徳となります。また中国では魏武と称されます。実際には魏王朝を興したのは息子の曹丕であり、曹操自身は形式上は漢の丞相で、帝国内の公認された独立領主である魏王として死にました。その支配領域は、史書『三国志』も小説でも蜀や呉と併記されてますが、実際には蜀や呉の支配領域は小さく、国家体制も未熟であったため、ほぼ曹操の漢(魏)による統一国家でした。
曹操は漢の建国の功臣曹参の子孫ということになってますが、祖父曹騰が4人の皇帝に支えた大宦官(※1)で、その功績により、名門夏侯氏から養子を取りました。それが曹操の父親曹嵩で、この人物は大臣の地位を金銭で買ったと言われています(※2)。
曹操は豊かな大臣の息子として生まれますが、儒教的倫理上地位の低い宦官の孫というレッテルからは逃れられませんでした。それでも20歳で孝廉に推挙され、洛陽の北部尉(※3)となり、地方官や議郎を歴任し、近衛司令官である西園八校尉にまでなります。ところが30代で隠棲。その後、董卓の専横で挙兵し、群雄としては小規模の勢力から始まります。
当初は裏切りや周辺諸侯との攻防に苦しめられ、呂布との戦いでは重症を負い、張繍との戦いでは息子曹昂を失っています。
有力軍閥となるのは、黄巾族の一派である青州黄巾党を傘下に収めてから。また献帝を自分の拠点「許」に招き入れてからは大義名分を手にし、やがて河北の大軍閥、袁紹と対戦するに至ります。この官渡の戦いで勝利。その後、袁氏一族を駆逐し、黒山党、遼東の公孫氏、異民族の烏桓や南匈奴を支配下に収め、華北を平定。荊州へ進出。これを難なく手にします。
ところが、江南に勢力を伸ばしていた孫権との赤壁の戦いは惨敗。江南平定は夢に終わりました。もっとも影響は小さかったのか、その後も揚州方面に勢力を広げ、西には関中へ進出して10軍閥を駆逐し、漢中の五斗米道を降し、蜀と長江以南以外の殆どを支配下に収めました。
曹操は官僚軍人の多かった時代に前線で自ら戦い、人材を儒教的価値ではなく才能で評価し、五言詩などの基礎となる漢詩を生み出し、息子や文人らと建安文学の時代を開花させました。高台を築いて宮殿を建て、お酒の新たな醸造法を皇帝に上奏した記録も残っています。器と才能で言えば、孫権や劉備よりずっと上でしょう。
しかし、東晋王朝以降は蜀漢正統論が台頭し、曹操は漢の皇帝をないがしろにし、徐州の虐殺や孔融・華佗を処刑したという負の部分が強調され(※4)、以後、庶民の間では劉備が善玉、曹操は悪玉として歴史に名を残しました。
一方で史書『三国志』の著者陳寿、注釈者裴松之らは曹操を高く評価し、歴代詩人らの題材になり、近代に入ると、西洋文明への危機感から、現実主義的だった曹操への再評価も高まりました。
日本では小説や漫画の影響もあり、また英雄曹操として見る向きが強いことから、人気のある歴史上の人物の一人です。

※1:宦官は男性器を去勢することで皇帝やその妻子の側近として仕える者。故に権力者になりやすい。しかし、親から得た体を欠損し、子孫を残せないことで先祖の御霊や社稷を祀り続ける事ができないため、儒教倫理上、身分は非常に低かった。曹騰は自分を批判するものでも有能な人物は皇帝に推挙したことで評判が良く、養子を取ることが許された。
※2:曹操の親族武将のうち、養祖父曹騰の兄曹褒の孫に当たるのが曹仁・曹純兄弟、曹騰の兄(弟?)曹鼎の甥が曹洪、父親曹嵩の兄弟の子が夏侯惇と夏侯淵であるため、同じ曹姓の曹仁・曹純・曹洪よりも、夏侯惇・夏侯淵のほうがずっと近い(三国志演義などでは夏侯惇・夏侯淵は兄弟だが、実際はいとこ同士)。
※3:帝都洛陽の北門地区の警察長官のような役目。司馬防(司馬懿の父親)に推挙されたと言われる。曹操は法令違反に関して権力者でも容赦しなかったという。
※4:孔融は孔子の直系の子孫で、曹操とは文人仲間であったが、言動から曹操とは仲が悪かった。華陀は半ば伝説に近い名医。自身は儒者として評価されることを望み、曹操は医者として評価したが、医者はこの時代「方技」と呼ばれ、占い師などと同じ低い身分だった。そのため華陀は不満に思い嘘を言って曹操の元を去ろうとしたため捕らえられ獄死したと言われる。曹操は可愛がっていた息子の曹冲が病死した際、華陀を死なせたことを悔やんだという。

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