1968年
チェコ事件(「プラハの春」崩壊)

かつて存在した東欧の共産主義国家チェコスロバキア。ゴットワルトに続き共産党第一書記に就いたのがアントニーン・ノヴォトニー大統領。当時スターリン批判が起こって、東欧諸国は混乱した上、経済の悪化で、ノヴォトニーに対する改革要求が強まります。また、同国はチェコとスロバキアによってなりますが、ノヴォトニーはスロバキアを軽視し、同地域から不満が上がっていました。
1968年1月5日のチェコスロヴァキア共産党中央委員会総会において、スロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロバキア共産党第一書記に就任。ノヴォトニーは大統領を辞任。ドゥプチェク体制は、言論の規制を緩和し、計画経済を改め、粛清された人々の名誉回復などが図られました。
市民側からも6月27日、ルドヴィーク・ヴァツリークが起草した『二千語宣言』(政府の政策を追認するような内容)が発表され、改革の動きが加速しました。これをプラハの春と呼びます。これに対し危機感を持ったソ連は、ワルシャワ条約機構軍の軍事演習で圧力を加え、ついに8月20日、ワルシャワ条約機構軍の兵士20万人と5000輛の戦車がチェコスロバキアに侵攻。ドゥプチェクらを拘束します。
ソ連はチェコスロバキア保守派の要請という建前でいましたが、同政府は混乱に陥り、保守派も含むソ連批判声明が出されました。このため、ソ連はドゥプチェク政権を反革命を理由に倒そうとしましたが混乱により出来ず、ドゥプチェクと交渉するはめになり、彼は無事帰国。しかし1970年に除名され、改革は終わりました。
アマチュア無線で世界に知らされたこの事件は国連安保理でも議題に上がりましたが、ソ連の拒否権で撤退決議は無効となりました。
国際共産主義運動もこの事件で分裂。日本では日本社会党(現社民党)がソ連の軍事行動を支持したほか、軍事行動容認の冊子などが出版された結果、左派、左翼への市民の支持は失われていくことになります。

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