1615年
一国一城令(慶長20年閏6月13日)

豊臣家を滅ぼして、事実上の天下人となった徳川家康の諸藩を統制する意向により、土井利勝、安藤重信、酒井忠世が連判して、徳川秀忠が発令した法令です。
一国に城をひとつだけにし、ほかは破却するという内容です。これには2つの解釈があり、令制国(武蔵国とか山城国といったもの)を、複数の藩が分割統治している場合は、それぞれの藩で一城とし(国に複数の城がある)、一つの藩が複数の令制国にまたがって領有している場合は、それぞれの令制国で一城(藩全体では国の数だけ城が残る)というもの。残す城は基本的に大名の居城であり、藩の政庁が置かれた城でした。
ただしいろいろ例外もありました。強大な外様に備える藩には複数の城が認められたほか、大名の重臣で徳川家と縁が深かったり、幕府成立に貢献した者の城を大名とは別に残したり、転封の見返りに認めるといった例もありました。城を陣屋と称して複数残した例もあります。
また、仙台藩や薩摩藩など地方では、表向き一国一城としつつ、領内に多数の拠点となる城塞を残しています。逆に長州藩は領内統制のため二国で一城としました。徳川家の大名に対する統制の考えは、大名による家臣の統制でも同じであるため、大名もあまり強大な力を持つ家臣は望みませんでした。そのため、安定した時代にはむしろ城は藩主の居城だけでよかったわけです。
一国一城令により、3000もの城は陣屋(※)を含めても300にまで激減しました。

※陣屋とは江戸時代に小藩の政庁がおかれた施設のことで、塀や簡易な堀しかない小規模の城郭が多かったため、城とは区別されてました。それなりの城を陣屋と称したり、陣屋に城門だけをつけて「城主格」に格上げした例もあります。本格的な城に政庁を置くことを認められた大名を城主大名、それに次ぐものを城主格大名、陣屋に政庁を置いた大名を無城大名といいます。幕府の代官所も陣屋と称しました。

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