1595年
豊臣秀次切腹(文禄4年7月15日)

秀次は、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(木下弥助)の長男。弟には大河ドラマにも登場したお江(のちの徳川秀忠夫人)の2番目の夫秀勝、大和大納言羽柴秀長の養子となった秀保がいます。
秀吉の嫡男・鶴松が死去すると、養子となり、秀吉のあとを継いで、武家関白の2代目となり、朝鮮出兵時には留守を預かり内政を担当しました。しかし秀吉に実子豊臣秀頼が誕生すると疎まれるようになり、それでも秀頼と自身の娘を婚約させるなどしましたが、文禄4年7月8日、秀吉の命令で突如捕縛され、高野山に追放、出家し、同年7月15日に青巌寺で雀部重政、玄隆西堂と共に切腹。仙千代丸ら妻子39人も同年8月2日に殺害され、前野長康ら秀次重臣も改易されました。
この事件で、秀次は「殺生関白」(摂政関白をもじっている)と称され、淫乱・非道の人物とされました。このイメージはその後長いこと残り、現代でもドラマでは無能で素行の悪いイメージで描かれることが多いです。しかしこれは改易する理由付けで悪く喧伝された面が強く、実際とは異なるといいます。
文化人で、古書の保存に努め、また朝廷・公家や、諸大名とも親しく、秀次事件で大名らが混乱しているところからも、かなりまともな人物だったと思われます。領地では水利騒動を自ら調停するなど善政を敷いています。また、戦下手のように言われますが、負けたのは小牧・長久手の戦いのみで、他では戦功をあげていますから、むしろ戦上手だったかもしれません。
実子の後継のためとはいえ、このような事件を起こしたことは、秀吉自ら豊臣政権を衰退させることになりました。娘を処刑された最上氏をはじめ多くが関ヶ原で東軍についたのはこの事件を恨んだからとも言われます。また文化人で諸大名と関係の深かった秀次がもし生きていて、秀頼政権を支える豊臣家の長老となっていたら、歴史も大きく変わったことでしょう。

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