1815年
ワーテルローの戦い

ロシア遠征の失敗などで、一旦は失脚したナポレオンは、流刑地のエルバ島から脱出すると、再びフランスに戻って、3月20日パリに入ると、皇帝に復帰します。フランスには彼の支持者が大勢いました。
それに危機感を持つ各国は、対仏大同盟を組んで対抗しようとしたため、ナポレオンは先手を打って、各個撃破しようと図ります。
6月16日、まずリニーの戦いでプロイセン軍を撃破し、死傷者1万6000もの大損害を与えますが、ナポレオンはプロイセン軍を壊滅させるべく、軍を分けて3万の兵で追撃を図ります。一方で、ナポレオン自身が残りの7万2千の兵を率い、ブリュッセルを目指す途中、イギリス・オランダ連合軍に出くわします。連合軍は6万8千。プロイセン軍と合流するために待機していました。
ここでナポレオンは、進撃を遅らせたために、時間を与えてしまいます。英仏軍が衝突し、一進一退の中、双方に大きな被害が出ますが、そこにプロイセン軍4万8千が連合軍に合流してしまうのです。両軍に対応せざるを得なくなったフランス軍は、それでも猛攻を繰り返しますが、イギリス軍の守りが堅く、プロイセン軍との連携によりフランス軍はついに潰走しました。
ナポレオンは6月22日に退位し、イギリスへ亡命。セントヘレナ島へ流されることになります。
なお、イギリス側はウォータールー(ワーテルロー)の戦いと呼び、この名は世界中の地名になりましたが、勝利に貢献したプロシア(ドイツ)側では戦場となった場所の名からラ・ベル・アリアンスの戦いと呼んでいます。

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