1260年
アイン・ジャールートの戦い

チンギス・カンの諸国遠征以来、モンゴルは領域を拡大。特に西方への侵攻は、二代皇帝オゴデイ・カアンの時に、ルーシ諸公から、ドイツに達する大遠征を行いました。
オゴデイの死後、分裂混乱した帝国をまとめた四代皇帝モンケ・カアンは、征西事業を継続しました。征西軍を率いたのは弟のフレグ。彼は中近東からエジプトにかけてのイスラム諸王国を滅ぼすため、遠征しました。
1253年より始まり、1256年11月27日にイスラム教ニザール派を滅ぼし、1258年2月にアッバース朝バグダードを壊滅させ、1260年2月にはアレッポを攻め落とし、4月にはアイユーブ朝の都ダマスクスも陥落します。イスラム諸王朝はモンゴルに敵対する力もなく、モンゴル軍には各地の諸民族軍から西洋のキリスト教徒まで加わるなど、向かうところ敵なしの勢いを見せていました。
しかし、フレグのもとに、兄モンケの死が伝わります。フレグは帝国へ引き返さざるを得なくなりますが、後継を巡る争いが勃発するとそれには参加せず、現在のイランからアゼルバイジャン付近に独自の王朝イルハン朝を建国しました。その頃、遠征先でフレグの留守を任されたのがナイマン部族の将軍でネストリウス派のキリスト教徒キト・ブカ。彼はシリア付近に駐留しますが、フレグの撤退を知ったエジプトのマムルーク(奴隷兵)のスルタン・クトゥズは勢いづき、両軍はガリラヤで衝突します。同地の川の名から、アイン・ジャールート(ゴリアテの泉)の戦いと呼ばれました。
モンゴル軍は包囲殲滅されて、キト・ブカは戦死、もしくは処刑され、モンゴル軍は撤退しました。しかしクトゥズも共に戦ったバイバルスに殺されます。バイバルスはスルタンとなり、奴隷兵出身による王朝マムルーク朝が拡大するきっかけとなりました。

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