1868年
王政復古の大号令(慶応3年12月9日)

江戸幕府は大政奉還で終わった、という認識は、基本的には間違いではないわけですが、徳川慶喜は政権を放棄したわけではなく、むしろより強力な体制への改革を意図して大政奉還を進めたと言われます(大名を廃した将軍-郡県制など)。
それに対し大政奉還を進めた側は、徳川家を含めた新体制を考える土佐藩や、緩やかな政権交代を意図する越前藩や尾張藩などの親藩、徳川家を排除したい薩長の意図が交錯しますが、少なくとも、幕府の解体は共通する必須条件でした。しかし、政権を譲られる側の天皇、公家はまったく政治経験がなく、準備も整っておらず、形式はともかく実質は徳川家が引き続き政権を担うものと考えている公家も多かったとか。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が宮中を下がった直後、薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩は待機させていた兵を繰り出し、御所の九門を封鎖。皇族も公家衆も御所への立ち入りを禁止しました。公家らは大騒ぎになりますが、混乱の中、黒幕とも言える岩倉具視らが参内し、新政府を樹立。天皇が臨席して小御所会議が行われ、三職(総裁、議定、参与)の人事を決定し、将軍、京都守護職、京都所司代、摂政、関白を廃止し、幕府の解体を決定しました。これが「王政復古の大号令」です。
12月14日に諸大名へ通達、16日に庶民に布告されました。
王政復古、つまり武家時代の前の天皇を頂点とする支配体制に戻す、とは言っていますが、従来の律令体制は廃止しており、実際には、幕府の解体と改革を主導する一部公家・諸藩の体制を確立するためのものでした。会議では徳川家を含めるべきだと主張する土佐藩と、徳川家排除を進める岩倉や薩摩藩とが対立しますが、結局薩摩側の主張が推し進められました。また、松平春嶽らは徳川宗家の完全な滅亡を避けるために行動しており、徳川家の朝廷への納地は半減に許されました。より新体制を整えるため、翌慶應4年閏4月に太政官制度に移行します。

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