1972年
あさま山荘事件

1960年代後半の大規模な学生運動のあと、左翼学生らは、複数のセクトに分かれ、より凶暴化していきます。その中の一つ、京浜安保共闘から生まれた連合赤軍は、銃砲店を襲って猟銃と弾薬を奪い逃走。群馬県の山中で軍事訓練を行い、さらに少しでも幹部の意見に合わないものや、幹部の嫉妬を買ったものはリンチされて殺害されるなど、異常な方向へと転がり落ちていきます。
しかし警察の包囲網がしかれたことを知り、メンバーの坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5人は、山中を移動して長野県佐久市へ向かいますが、冬の雪山で方向を見失い、軽井沢の別荘地帯へ出てしまいます。
2月19日、別荘地帯にあった「さつき荘」に潜入した彼らは、捜索中の警察に発見され、銃撃戦になります。そしてさつき荘を出て、浅間山荘に逃げ込み、居合わせた管理人の妻を人質にします。
彼らは、連合赤軍最高幹部の森恒夫と永田洋子の釈放、そして自分たちの逃走ルートの確保を要求しようとしますが、吉野雅邦が反対し、結局籠城することになりました。山荘内には食料が保管されていて、比較的長期戦が可能でした。
包囲した警察は、説得を試みますが、発泡によって応じられたため、強行制圧に方針を変えます。
警視庁の機動隊が行ったのは、クレーン車からぶら下げた重さ1tの鉄球をぶつけて穴を開け、放水しながら突入するという作戦。
28日に突入を行なうも、犯人は銃や鉄パイプ爆弾などで応戦。警察側の死傷者が相次ぎ困難を極めますが、午後6時10分、山荘の3階に突入し、全員を検挙。人質を無事救出しました。
機動隊員2名、民間人1名が死亡、機動隊員26名、報道関係者1名が重軽傷を負いました。
その後、連合赤軍メンバーは全員逮捕されますが、1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、坂東國男が「超法規的措置」で釈放されました。
この事件では、厳冬期の山間部での作戦に、警察側の食料としてカップヌードルが支給され、放送されたことから有名になりました。

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