1879年
梟首刑の廃止

梟首刑とは、わかりやすく言えば「さらし首」のこと。つまり、罪人を斬首にしたあと、その首を衆人に晒すことで、さらなる罰の意味を込め、抑止力の効果も図った刑です。平安時代から実施されていました。なお、ごく一部の例外を覗いて、斬首は庶民に科した刑罰です(※)。その中でも強盗殺人、主家の殺害、升や秤などの偽造などの刑罰で行われたのが梟首で、死刑が全て梟首になったわけではありません。
首は地面から4尺(全体は6尺)の台座の上に五寸釘で打ち付け、首の周りを粘土で固めて固定したもの。罪状を記した立て札を建て、2晩3日晒され、関係者に取り戻されたり、野犬に食われたりしないよう、非人階層の見張りを置きました。
胴体の方は、江戸時代には刀の切れ味を試す試し切りに処されたり、解剖されたりしています。肝臓などを抜き取り、それを元に漢方の薬を作って販売もされていました。首を晒した後、関係者が引き取り、柄杓の柄などで胴体とつないで埋葬する場合もありました。 この首を晒す刑罰を、獄門ともいいます。これは平安時代に、市中の左右に設置されていた獄舎の門の前に晒したために、こう呼ばれるようになったものです。
明治に入っても、江藤新平が梟首刑になっています。明治12年太政官布告第1号により、1879年に廃止されていますが、それ以前に西洋人によって撮られた写真が数枚残っています。
※逆に西洋では斬首は貴族に対する処刑法。車裂きや火刑のような、即死せずに苦痛を伴う刑罰が多かったためで、瞬時に殺害できる斬首の方が良いとされた。ただ処刑人の手元が狂い即死しなかった例も多く、機械的に斬首するギロチンの開発へとつながっていく。

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