1773年
プガチョフの乱

ドン州のコサック領主の生まれであるエメリヤン・プガチョフが、ピョートル3世を名乗って挙兵。
反乱はヴォルガ川からウラル山脈にかけての広大な地域に拡大しました。
ロシア帝国の、ジュンガルや清との対立、さらに露土戦争による疲弊と、歴代皇帝が推し進めた農奴制で苦しむ農民や、都市部の労働者、少数民族、イスラム教徒ら皇帝政府に反感を抱く人々が反乱に加わっています。
プガチョフが称した「ピョートル3世」は前ロシア皇帝で女帝エカチェリーナの夫。制度改革などを進めたが、敵だったプロイセンと講和し、ドイツ風にこだわったことで反感を買い、軍の支持を得た妻の起こしたクーデターで失脚し殺害されています。
その後即位したエカチェリーナがドイツ貴族の出身でロシア人ではないことや、ピョートル3世の改革を支持した地方では生存説もあり、プガチョフはその高い知名度を利用したと見られます。
プガチョフは行政制度を整え、軍隊を編成し、国家体制を築いていきます。
当初ロシア政府はこの反乱を軽視していたため、事態を拡大させることになりました。また地の利をもつコサックが皇帝軍に勝利を重ねたことも反乱が拡大した要因です。
しかしエカチェリーナは事態を重く見て、本格的に鎮圧軍を派遣。反乱軍の勢力に比して領土が広がったこともあり、カザンの戦いでついにプガチョフは敗北。反乱勢力は一気に瓦解、プガチョフは身内に裏切られて捕らえられ、処刑されました。
女帝エカチェリーナは大規模な反乱に衝撃を受け、それまでの方針を180度転換して農奴制を強化し、対外拡張政策も進めました。

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