1164年
崇徳院崩御(長寛2年8月26日)

第75代崇徳天皇は、鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の間に生まれました。しかし、鳥羽天皇は彼の祖父で、この当時権勢を極めていた白河法皇を不快に思っており、また女性関係も見知っていたことから、生まれた皇子を、白河法皇の子だと疑っていました。
白河法皇が崩御すると、鳥羽天皇は皇子(崇徳天皇)に譲位して院政を開始します。しかし鳥羽院は、寵愛していた美福門院・藤原得子に産ませた子供・体仁親王(近衛天皇)に、帝位を与えようと、崇徳天皇に譲位を迫りました。ところがこの時、体仁親王を崇徳の養子の皇太子とせず、皇太弟としたため、禍根を残します。皇太弟になると、新天皇は弟ということになり、崇徳は将来院政を敷くことができなくなるからです。
それでも鳥羽法皇は、崇徳の皇子を美福門院の養子にして、次の帝位への可能性を残すなど、両者は関係の維持に務めています。ところが近衛天皇が子供のないまま崩御すると、鳥羽法皇は美福門院の別の子を即位させます(後白河天皇)。さらに鳥羽法皇は死の間際に崇徳院の見舞いを断ったため、両者は断絶。鳥羽法皇の崩御で起こった保元の乱では、崇徳院は、後白河天皇に対抗する藤原頼長らに付きました。しかし乱はあっけなく敗北。
崇徳院は讃岐へ流されました。彼は京に戻ることを願い、後白河天皇に5種類の写経を送って反省の意を示しますが、その写経はズタズタに切り裂かれて送り返されたとか。崇徳院は怒りのあまり、舌を噛み切り、その血で呪いの言葉を書き記して死んだと言われます。
ただし、この話が出てきたのは少し後の事。崇徳院は、保元の乱の関係者の中でも特に、死後も許されないなどの、かなり厳しい処置を受けて死んだため、十数年後の平氏政権の頃に、社会情勢が不穏になると、崇徳院の怨念ではないかと、囁かれるようになったのです。
崇徳怨霊伝説は深く浸透し、のちに土御門上皇、管領細川氏、明治天皇、昭和天皇などは、あらためて崇徳院を祀っています。

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