1572年
サン・バルテルミの虐殺

中世末、東欧から中欧にかけて起こった宗教改革運動で、旧来のカトリック教会に批判的なプロテスタントは急速に拡大。フランスにも浸透して行きました。
フランスでは彼らのことをユグノーと呼んでいました。カトリックとユグノーの対立は激化し、ユグノー戦争と呼ばれる内乱に発展します。
フランス王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスは、事態を改善するために、ユグノーの指導者で王位継承権もあるナバラ王アンリと国王の妹マルグリットの結婚を決め、1572年8月17日に結婚式が行われました。この結婚式を祝うため、ユグノーの有力貴族らがパリに集まります。
ところが8月22日にユグノーのコリニー提督が狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノー貴族らは国王に真相究明を求めたため、カトリックのギーズ公アンリ(ユグノー戦争のきっかけを作った強硬派)が、国王の命によりユグノー貴族を次々と殺害する挙に及びました。ところが、この騒ぎが市中へ、更には地方へと拡大。大虐殺事件に発展し、1~3万人が死亡したと言われています。
この対立の背景には、熱烈なカトリックのスペインと、プロテスタントのエリザベスが女王であるイングランドが存在していました。
虐殺でふたたびユグノーは態度を硬化、1574年にシャルル9世が亡くなると、その弟で即位したアンリ3世と、ナバラ王アンリ、そして事件を起こしたギーズ公アンリの3アンリ戦争が起こります。最終的に生き残ったナバラ王アンリは、国民の支持を得て敵対するカトリック同盟を崩すため、あえてカトリックに改宗して権力を掌握。正式にアンリ4世として戴冠(ブルボン王朝初代王)。1598年4月30日にプロテスタントの信仰を認めるナントの勅令を出して、ようやく宗教戦争は収まりました。
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