十三人の合議制

十三人の合議制とは、鎌倉幕府初期、源頼朝の死の直後に、頼朝の息子源頼家の独裁権力を阻止するため、有力な御家人13人が合議体制を確立したとされるもの。
建久10年1月13日(ユリウス暦1199年2月9日)、源頼朝が急死。嫡男の源頼家が跡を継ぐことになり、すぐに朝廷からも諸国守護の地位を承認されて、名実ともに二代目となります。この時まだ18歳。
頼家は早速政務に取り掛かりますが、わずか3ヶ月後の4月12日、有力な御家人13人が、頼家が訴訟を直接決裁することを禁じ、13人の合議でのみ決めるという決定を下します。頼家が慣例を無視して、自分の判断で訴訟を執り行なおうとしたことに、御家人が反発したとされてます。
ただ、以降も頼家が決裁した事例もあり、幕府の制度が整備されていくこと、権力をめぐる御家人同士の駆け引きがすでに始まっており、その中和策的な意味合いで、有力者13人が、将軍のもとで合議制を敷くという体制を築いたものとも考えられます。
十三人の合議制は、名実共に機能していたわけではありません。体制が出来てすぐに梶原景時が失脚し、翌年には、長老格の安達盛長と三浦義澄が亡くなり、次世代へ代わっているため、すでに破綻しています。
この後も、有力者同士で争いが繰り返され、力を持っていた13人は徐々に減っていき、最後に残ったのが、十三人の合議制時点ではあまり目立たなかった北条義時でした。義時は独裁的な執権体制を確立し、後鳥羽上皇との間で起きた承久の乱にも勝って、朝廷を上回る武家による全国政権を築き上げました。これが江戸幕末まで650年続くことになります。

<十三人の合議制>のメンバー
北条時政
伊豆の小領主。親兄弟については詳細は不明で、娘の政子が源頼朝と結婚したことで歴史に登場する。頼朝側近として挙兵以降行動をともにした。豪傑だったと言われる。頼朝政権下では京に赴いて朝廷に睨みを効かせたり、富士の巻狩りを差配するなど、頼朝の代理として行動している。3代将軍に実朝を擁立して政所別当にもなっている。政子が起こした、頼朝の愛人亀の前の居宅破壊事件で、時政の後妻牧の方の父親牧宗親が頼朝の懲罰を受けると、腹を立てて、一族と伊豆に引きこもるという事件も起こしている。頼朝の死後、頼家のもとで十三人の合議制に加わるが、次々と有力御家人を失脚に追い込んだ。特に比企能員、畠山重忠を謀略じみたやり方で滅ぼしている。将軍頼家の失脚にも関与。その後継問題では自ら擁立した将軍実朝を殺害して、牧の方とともに娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたが、子の政子・義時の政変によって失脚した。
露骨な権力掌握をしたためか、執権北条氏一族の祖であるにも関わらず、子孫からはあまり評価されていない。

北条義時
北条時政の次男。兄の宗時が石橋山の戦いで戦死後、北条氏の後継者となる。しかし江間の領主として江間小四郎も名乗っていた。頼朝の挙兵に従い、頼朝の側近(家子)として重用された。亀の前事件でも、頼朝のそばに残っている。源平の戦いでは源範頼軍に属し、九州へ赴いて武功を挙げる。一方で、頼朝時代には、政治的には殆ど目立たたない存在であり権力にも関わっていない。
頼朝の死後、源頼家が二代将軍となると、十三人の合議制に加わる。
義時の存在が目立つようになるのは、将軍頼家が失脚した頃から。頼家の暗殺や、有力御家人の排除に、父時政とともに関わる。その後、時政が牧の方とともに平賀朝雅の将軍擁立を図ったため、義時は姉政子とともに政変を起こし、父時政を追放した。引き続き権力争奪戦を繰り広げ、守護職の任期制を導入しようとしたり、また侍所別当の和田義盛を挑発して滅ぼしている。将軍実朝暗殺事件の黒幕かどうかははっきりしないが、将軍後継問題で皇族をまねこうと後鳥羽上皇と交渉。これがこじれて、承久の乱につながっている。
承久の乱では大江広元の積極策を取り入れて勝利。執権体制を確立し、朝廷を凌ぐ武家政権を築いた。
江戸時代前半ころまでは、優れた政治家とみなされていたが、その後、朝廷と争った人物として、昭和前期ころまでは陰険な悪人の一人とされた。近年は再評価されつつある。

大江広元
出自は大江家、中原家など諸説あるが、下級公家の出身。当初は天皇に仕えていた。源頼朝が東国で権力を持ち京へ進出すると、頼朝に仕えていた兄の中原親能の誘いで鎌倉へ下向。京の情勢に詳しく、政治力もあったことから公文所(のちの政所)別当に抜擢される。以後、頼朝政権の実務を担当。京の朝廷との交渉にも当たる。頼朝に守護・地頭を置くことを進言したという。頼朝政権に加わったのは後からだが、すぐに政権No.2となっている。
頼朝の死後は、北条時政とともに政権運営を担当。時政失脚後も政子・義時姉弟と協力して引き続き政権に関与。和田義盛討伐でも義時に協力している。承久の乱では、慎重になる御家人の中で、北条政子とともに主戦論を展開。鎌倉方に勝利をもたらした(ただし嫡男親広は朝廷側について失脚している)。
熾烈な権力闘争の中でも、常に安定した地位を保った。
多数の子供がいて、男子はいずれも一定の地位に付き、娘は有力者に嫁いでいる。そのため各地に子孫が広がった。毛利元就なども大江広元の子孫。

中原親能
大江広元の兄で、下級公家の出身。幼少に相模国に暮らしたことがあり、頼朝とは旧来の知人であった。そのため頼朝が挙兵して東国に基盤を持つと、早々と加わった。源義経が上洛する際に同行。弟の大江広元を誘って頼朝に仕えさせる。また元の主君である源雅頼を通じて、摂関家の有力者九条兼実らと交渉した。平氏追討の工作を担当。自らも戦地へ赴いている。平家滅亡後も、鎌倉政権の朝廷担当として活動。全国に領地を持ち、特に九州に多数の所領や荘園があった。相模出身とされる大友能直は、母親が中原親能の妻と姉妹で、中原親能の猶子となった。その縁で豊後大友氏の祖となった。
中原親能の妻は、頼朝の次女三幡の乳母となった。そのため、三幡が病死した際、中原親能は出家し権力中枢から退いた。

二階堂行政
下級貴族の出身。母親が熱田大宮司藤原季範の妹だが、藤原季範の娘は源頼朝の母親であり、頼朝と行政は縁戚関係にある。この関係で、頼朝が鎌倉に拠点を置くと下向して加わった。奥州合戦を担当、政所で大江広元の業務を補佐した。 源頼家が将軍になると、十三人の合議制に加わった。三代将軍の実朝の代には記録がないが、子孫は代々政所執事の職についている。

三善康信
下級貴族の出身。算道を司る三善一族の出身とされている。朝廷に仕えていたが、母親が源頼朝の乳母の妹という関係で、頼朝が伊豆に流罪になると、月に3回も京の情勢を伝える手紙を送っていた。以仁王と源頼政が反平氏を掲げて挙兵し敗死すると、康信は、平氏が頼朝追討を画策しているという連絡をよこし、奥州へ逃げるよう促した。実際には、源頼政の子が伊豆にいることから出た話で、頼朝は関係なかったようだが、頼朝はこれを受けて挙兵を決意したとも言われる。
頼朝が鎌倉に東国政権を樹立すると、鎌倉に呼ばれ、武家政権の政務を頼まれる。康信はこれを承諾して、問注所の執事となった。問注所とは訴訟を審議する裁判所であり、当初は訴訟事務手続きだけして、頼朝に提出する機関だったが、徐々に権限が拡大した。頼家の時代には十三人の合議制に加わっている。
承久の乱が起きると、大江広元、北条政子とともに、主戦論を主張した。乱の終結後まもなく死去。子孫は問注所に関わったものが多い。

比企能員
武蔵の有力御家人の一人。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、その猶子だった人物。乳母はお乳を与え、養育する役目の女性だが、それゆえに有力者の乳母と一族は強い立場になりやすい。比企尼は、源頼朝の乳母だった縁で、頼朝が伊豆に流された後も、比企郡の代官だった夫と共に頼朝を支援し続けた。しかし息子ができなかったため、甥の能員を猶子とした。比企能員は、源頼朝の挙兵後にその勢力に加わり、頼朝の側近として活動した他、奥州藤原氏討伐では北陸道大将軍、藤原氏残党の大河兼任の乱でも東山道大将軍となっている。頼朝の嫡子頼家は比企邸で生まれ、比企尼の次女・三女・比企能員の妻が、乳母として乳を与えた。そのため頼家との結び付きが非常に強く、頼朝急死後に頼家が後継者となると、十三人の合議制に加わる。また自身の娘は頼家の側室となり、一幡を生んだため、外戚となった。
しかしこの権勢が、北条時政との対立を生む。時政は、頼家が病に伏すと、頼家の子の一幡には東国28カ国の地頭と日本国総守護職の地位を、頼家の弟実朝には西国38カ国の地頭職を与えることを、比企能員には相談なく決めた。能員はこの分割案に反発。頼家に北条時政が謀反と訴え、頼家も時政討伐を命じる。ところが、この密議を隣の部屋にいた北条政子が聞いてしまい、時政に通報。時政は大江広元の承認のもと政変を企て、比企能員に相談事を持ちかけて自邸に招き寄せて暗殺。一幡の屋敷に立て籠もった比企氏を攻め、一幡もろとも、比企一族を滅亡に追い込んだ(一幡は母親と逃走したが殺されたとする説もある)。後で事態を知った源頼家は激怒して北条時政を滅ぼそうとしたが失敗に終わり、失脚して殺された。

三浦義澄
三浦半島を領有する有力豪族の当主。三浦氏は坂東八平氏のひとつ。
北条時政と三浦義澄は、ともに伊東祐親の娘を妻にしている義兄弟であった。そのため、源頼朝の挙兵には最初から協力していた。
しかし援軍として向かう途中、大雨によって酒匂川を越えられず、引き返す途中で畠山重忠と交戦。さらに拠点の衣笠城を攻撃され、父の三浦義明が犠牲になることで時間を稼ぎ、知己の多い安房へと落ち延びた。それを受けて頼朝も安房に落ち延びている。
その後、頼朝は房総で安西景益、千葉常胤、上総広常らを味方につけて勢力を盛り返し、鎌倉に入って坂東政権を打ち立てると、三浦義澄はその宿老となった。
源平合戦、奥州合戦にも従軍。頼朝の上洛時に同行して、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の一人に選ばれた。
頼朝の成功推挙10人の1人にも選ばれているが、子の義村に功を譲った。頼朝死後、源頼家が将軍となると、十三人の合議制に加わる。
その直後、梶原景時追放に関わり、景時一族らが殺された3日後に亡くなった。
北条義時の盟友でありつつ、独特の権謀術数を駆使した息子の三浦義村のほうが知名度は高いが、十三人の合議制は父親の義澄の方である。


和田義盛
三浦一族の一人で、三浦義明の孫の一人(杉本義宗の子)。源頼朝が挙兵すると、味方となった三浦一族とともに、和田義盛・義茂の兄弟も参戦。しかし豪雨による増水で酒匂川を渡河出来ずに引き返す途中、畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛は相手を挑発したためあわや戦闘になりかけたが、一旦は戦を避けようという話になったものの、遅れて到着した義茂が突撃してしまい、合戦となったという。その後、衣笠城を攻められた三浦一族は海路、安房国へ脱出。和田義盛も同行した。遅れて頼朝が到着すると、「天下を取った暁には、私を侍所別当に」と願い出たという話もある。義盛は房総の有力者上総広常を説得する使者となった。さらに上総広常とともに、常陸佐竹氏を討っている。鎌倉に拠点を置いた頼朝は、義盛の願いどおり、侍所別当に任じた。
侍所別当としての職務に勤め、その後、源範頼の軍勢に従軍する。九州を目指したが、飢饉と平家の妨害で行軍が遅れると、義盛は鎌倉へ帰ることを策するようになったという。それでも九州へ到着し、葦屋浦の戦いで平家に勝利した。義盛は奥州藤原氏討伐に従軍、右近衛大将拝賀の随兵7人の一人、頼朝の成功推挙10人の一人に選ばれている。この頃、梶原景時と侍所別当の地位を交代しており、これが景時との対立の要因となったと伝承にはある。頼朝の死後に十三人の合議制に加わる。梶原景時の横暴を訴える66人の弾劾状を作成。大江広元に促して景時失脚を図った。これにより侍所別当に復する。比企能員の変では北条側に付き、比企氏を滅ぼしている。この直後、事態を知った源頼家は、和田義盛に北条氏討伐を命じるが、義盛は北条時政に通報している。時政は畠山重忠も討伐するが、これにも従った。時政が失脚し、北条義時が後を継ぐと、義盛は北条政子・義時姉弟に働きかけて、上総国司の地位を得ようとしたが、拒絶される。さらに泉親衡が頼家の子を擁して北条氏打倒の陰謀を企てていることが露見、これに義盛の息子義直・義重と甥の胤長が加わっていることが判明。息子は許されるが、甥が許されなかったため、義盛は一族90人を連れて将軍御所で助命嘆願をしたが、その場で胤長は連行されてしまう。さらにその邸宅を北条義時が別の御家人に下げ渡したことから、屈辱に耐えかねた義盛は挙兵を決意。本家の三浦義村に支援を求める。義村は同意したが北条義時に通報。それを知らない義盛は、将軍実朝の説得も聞かず挙兵する。鎌倉市街地での戦闘で、一時は北条側を追い詰めるも、将軍の御教書が出されると御家人らは北条側に味方し、和田一族は敗れて滅びた。

安達盛長
武蔵国足立郡の領主、藤原遠兼の弟とみられる。遠兼の子である足立遠元は甥に当たるが、年齢的には遠元の方が年上になる。
当初は足立を称しており、安達と名乗るようになったのは、晩年になって、陸奥国安達郡を領有したため。
源頼朝の乳母であった比企尼の長女、丹後内侍を妻に迎えたことから、頼朝に仕えるようになった。頼朝が流人だった頃の、ほぼ唯一の家臣である。
妻が二条院に仕える「女房」(宮中女官)だった関係で、京の公家らと親しく、三善康信らから情報をもたらされており、情報通だったとされる。
頼朝と北条政子の間を取り持ったという伝承もある。
頼朝の挙兵に従い、石橋山合戦で敗れて安房に落ち延びた後、下総の有力者千葉常胤のもとに使者として赴き味方につけた。
鎌倉政権樹立後も、頼朝の相談役として存在。奥州合戦に従軍して、陸奥国安達郡を得た。
頼朝が亡くなると出家したが、十三人の合議制に加わっている。上野や三河の守護も担当したが、幕府の官職には付いていない。
梶原景時の追放に関わった後、まもなく亡くなった。
安達氏は、その後、鎌倉幕府の有力者となっていく。
なお妻の丹後内侍は、島津氏の祖である島津忠久を生んでおり、安達盛長の前に関係のあった惟宗広言あるいは惟宗忠康の子とも、源頼朝との子とも言われている(安達盛長の子の安達景盛も頼朝ご落胤説がある)。


梶原景時
坂東八平氏鎌倉氏の出身で、同じ鎌倉氏の大庭景親の一族に当たる。梶原氏は源義朝に従ったが、平治の乱で敗れると平氏に従っていた。
源頼朝挙兵後、大庭景親の軍勢に従って、石橋山合戦で頼朝軍を打ち破る。しかし、しとどの窟に隠れていた頼朝を発見した景時は、それを見逃して、大庭景親らを別の場所に誘導したという有名な話がある。慈円の書いた『愚管抄』では、景時が頼朝の挙兵に従ったとある。また大庭景親軍に従った飯田家義も頼朝を密かに支援しており、もともと源氏に従っていた彼らには頼朝に同心していたものが多かったと思われる。
富士川の戦いのあと、大庭景親が斬られると、景時は土肥実平に仲介を頼んで頼朝に降伏、許されて御家人となった。
景時は、後に源義経と対立したことなどから、陰険な悪人のイメージが強いが、実は、当時の坂東武者では例外的に、教養があり、文章も書け、和歌も学び、軍略にも通じていた(義経との逆櫓論争も景時のほうがまともな主張である)。そのため、頼朝の信任が厚く、各事業を任され、侍所所司にも任じられた。坂東独立を志向したとされる上総広常の暗殺には直接関わっている。
軍務では源義仲討伐戦に参加し、つづけて源平合戦に出陣。義経とはしばしば対立しているが、範頼とはうまく行ったらしく、範頼軍に属しているときは戦功を上げている。
しかし戦勝後に景時は、頼朝に対して、義経の傲慢さを報告。義経を讒言したと後世言われるようになった。ただ源平合戦に従軍した他の御家人の間でも、義経の評判は悪く、さらに義経が勝手に後白河法皇から官位をもらったのは事実。
義経が奥州で殺された後、鎌倉に送られた首を、和田義盛とともに実検した。
景時は御家人の間でも評判が良くなかった。夜須行宗の戦功を認めようとしなかったり、畠山重忠の罪を問うたり、奥州藤原氏の家臣由利八郎の尋問で反発を買うなど、エピソードが多い。一方で、敵討ちを行った曾我兄弟を許すよう進言もしている。
それでも、頼朝の右近衛大将拝賀の随兵7人の一人に選ばれ、頼朝による成功推挙の10人にもなった(子供に譲っている)。また侍所別当を和田義盛と交代して就任しており、信任は厚かった。
頼朝が急死し、頼家があとを継ぐと、景時は十三人の合議制に加わったが、頼家との対立関係を嘆いた結城朝光の言動を謀反だと訴えたことで、他の御家人が反発。66人が景時追放を求める連判状を大江広元に提出。広元経由で受け取った頼家がこれを景時に示すと、景時は特に反論もせず引退、領地に引きこもった。まもなく、一族と京へ向かおうとしたが、駿河清見関で在地の御家人吉川友兼らに襲われ、一族郎党33人全員が討ち死にした(友兼も死亡している)。京に向かおうとした理由は、謀反を企てたとも、朝廷に仕えようとしたともされる。
後世、判官贔屓もあって、景時はひどく悪く言われるようになった。

足立遠元
武蔵国足立郡の領主。藤原遠兼の子。頼朝の側近である安達盛長は、遠兼の弟と言われている(ただし遠元の方が盛長より年上と考えられる)。
平治の乱で、源義朝の軍勢に従い戦った。その関係もあり、源頼朝の挙兵にも応じており、頼朝が房総を回って進出してきた際には、武蔵の武士らを引き連れて出迎え、鎌倉で最初に本領安堵を受けた。
頼朝の右近衛大将拝賀の布衣侍7人の一人、成功推挙10人の一人に挙げられる。
坂東武者としては珍しく、教養のある人物で、京の公家とも交流があった。そのためか、公文所に属して鎌倉政権を支えた。
義朝時代の武将であり、鎌倉政権では年長者の一人で、1210年前後には亡くなっていると見られる。

八田知家
下野の豪族宇都宮宗綱の子だが、源義朝の子(すなわち頼朝の兄弟)という説もある。
源義朝に従い、保元の乱に参加し、頼朝挙兵にも加わった。頼朝の叔父で常陸に割拠していた志田義広が、鎌倉軍と下野で衝突した際にも参陣。
源範頼率いる平氏追討軍に加わって出陣した。この時、源義経らとともに後白河法皇から任官を受け、頼朝から非難されている。
十三人の合議制にも参加。頼家の叔父である阿野全成が、頼家と対立した際、頼家の命を受けて殺害している。


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