1882年
岐阜事件

自由民権運動を推進していた自由党総理(党首)の板垣退助は、東海道各地の遊説を行い、この日、岐阜の中教院で内藤魯一らとともに演説を行いました。午後6時半頃、帰途につこうと、中教院の玄関の階段を下りはじめたところ、「将来の賊」と叫びながら相原尚ぶみ(※)が襲いかかり、刃渡り9寸(約27cm)の短刀を板垣の左胸に刺しました。さすがにかつて土佐藩兵を率いたこともある板垣は、応戦しますが、二人がもみ合っている中で、胸や手、顔など7箇所も傷を負いました。
内藤魯一が駆け寄り、暴漢を抑えこみ、板垣を付近の民家に運び込んで応急処置を行いました。板垣はいわば「反政府勢力」でしたが、板垣遭難の情報は政府を動揺させ、明治天皇からの勅使の派遣が決まり、当時愛知県病院長だった後藤新平が直接治療に当たりました。
4月11日、大阪朝日新聞が、板垣退助が襲われた際に「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだと、記事に載せたことから、「板垣死すとも自由は死せず」の名ゼリフが広まりました。しかし、実際にこのセリフを叫んだのは、内藤魯一だという説もあり、詳細はわかっていません。
相原は無期懲役となったのち、憲法発布の恩赦で釈放、板垣の元を訪れて謝罪し、板垣もこれを許しましたが、その後、北海道へ向かう途中消息を絶ちました。自殺したとも殺害されたとも言われています。
※ふみは、耳火の下に衣。

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