1580年
三木合戦「三木の干殺し」が終結(天正8年1月17日)

織田信長の勢力拡大の過程で、播磨の別所氏との間で起こったのが、三木城の攻防戦。
担当したのは羽柴秀吉でした。織田と毛利の両勢力に挟まれていた播磨には、強大な勢力はなく、諸豪族は、どちらに付くかで揺れますが、ほとんどが比較的近い織田方に付きます。しかしまもなく別所氏が、織田氏から離反して毛利側に付きました。重臣別所吉親が、秀吉との会談で反発し、当主である甥の別所長治を説得して反乱したといいますが、その背景には信長への不信感や、縁戚の丹波波多野氏の織田からの離反など様々な要因があったようです。この時、織田派だった吉親の弟の重宗は出奔しています。
別所氏は播磨守護赤松氏の一族で名門。そのため、別所長治が旗幟を鮮明にすると、影響下にある東播磨の諸勢力も従い、織田方の勢いが弱まり、毛利氏が勢力を伸ばしてきます。
そこで秀吉は、別所氏の三木城攻略を進めました。麾下の兵や浄土真宗の宗徒、国人層などとともに城に籠った別所氏に対し、秀吉は別所氏に同調して起こった毛利による尼子上月城攻略の救援を優先するか、三木城の攻略を優先するかで迷いますが、信長の指示もあってやむなく三木城を優先(※)。周囲を抑え、城への補給路を断ちます。連携して反した有岡城の荒木村重、丹波の波多野氏も敗れ、毛利による補給作戦も失敗し、飢餓状態に陥った別所側は、秀吉に対し、城主一族の切腹を条件に城兵の命を助けることで合意。悲惨な三木合戦は終結しました。この時、吉親は切腹に応じず、怒った兵らに襲われて殺害されました。
秀吉はこれ以降も、鳥取城の兵糧攻めや、高松城の水攻め、小田原城包囲戦、忍城攻めなど、包囲戦によって味方の兵の損失を抑える手段を度々行います。これは秀吉側から見れば家臣や兵士を大事にした形になりますが、敵側は悲惨な状況に置かれる事が多く、その意味では人道的とは言えません。
しかし、さすがに三木城の籠城戦が悲惨だったためか、それとも復興を早めて毛利戦に備えるためか、秀吉はすぐに戦死者の供養を行い、三木城下町の再興に尽力しました。

※上月城は陥落して尼子氏は滅亡し、山中幸盛らも殺害されました。秀吉は救援を望みながら尼子を見捨てたことで主君信長の名声に傷がついたと嘆いたとか。

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