陳寿
陳寿は正史『三国志』の著者。生没年は233年(建興11年)~297年(元康7年)。没年は異説があります。
『三国志』というと英雄物語として有名ですが、一般に広く知られてるのは小説の『三国志演義』で、これは明の時代に書かれたもの。内容は史実をもとにした創作であり、史実と異なる部分もかなりあります。それより前から、多数の三国志関係の小説(三国志平話)が出ていますが、それらの大原点となったのが、歴史書の『三国志』。唐の時代以降に順次公式に認められた24の歴史書を「正史」(※1)といいますが、その一つに含まれています。
この三国志を書いたのが、陳寿でした。彼は三国時代末期の蜀の生まれで、蜀の大儒学者譙周に学びます。しかし権力を握っていた宦官の黄皓に睨まれ、不遇でした。またこの頃、父親が亡くなりますが、その喪中に体調を崩し、侍女に薬を調合させたことが人々に知られて批判されます。今だったら何がおかしいのかわかりませんが、当時儒教が極まっていた時代には、父親の喪中に我が身を案じるとは親への孝行心が欠けているとされたわけです。
その蜀が魏によって滅ぼされ、魏も司馬炎によって滅んで晋王朝(西晋)が誕生します。陳寿は母親を伴って洛陽へと出ると、知人の羅憲のツテで晋王朝に仕えます。彼は主に自分の出身地である蜀の歴史について著作しました。その内容は、皇帝の司馬炎を始め、天下統一に貢献した名臣張華、名将杜預などにも評価されました。同時代の文人で『魏書』を編纂した夏侯湛は、『三国志』を読んで、自分の筆を折ってしまったと言われます。
しかし陳寿は、洛陽で亡くなった母親の意を汲んで、その亡骸を洛陽で葬った所、蜀にある夫の墓に葬るべきである、としてふたたび孝行心に欠けていると批判されました。このことで、陳寿は才能を評価されながら出世することなく終わりました。
さらに後世、陳寿は『三国志』の内容を巡って批判にさらされます。特に諸葛亮(諸葛孔明)の扱いが悪い、というものでした。彼が『三国志蜀志諸葛亮伝』の最後の批評でその功績を称賛しつつも「歴年軍を動かしながら成功しなかったのは、応変の将略が得意ではなかったためか」と記し、諸葛亮の子の諸葛瞻についても「名声が実質以上だった」としたことが、蜀漢正統論が台頭した時代の文人・学者らの癇に障ったわけです。たしかに、諸葛亮は後に天才軍師、オカルト的な才能まで付加されるようになったのと比べると、厳しい批評とも言えます。陳寿は父親が諸葛亮によって処罰された為恨んでいた、などという俗説も広まりました。
もっともこれは一部を取り上げての誹謗中傷でした。陳寿は『三国志』で正統王朝である「魏」のほかに、「呉」と「蜀」もまとめたわけですが、より国家体制を整えていた呉よりも、地方政府に過ぎなかった蜀の方を高く位置づけており(※2)、諸葛亮については1人で1伝という別格の扱いをしています(※3)。また『諸葛亮集』を編纂して同時代の人々から高い評価を得ています。諸葛亮が北伐に失敗したのは事実であるため、公正な評価だったとも言えますし、諸葛亮は軍事よりも政治で有能だったというのが同時代の評価だったとも言えるでしょう。むしろ敵国だった魏の後継国家である晋で諸葛亮を評価させ、後世にも残したのは陳寿の功績とも言えます。
諸葛瞻についても、人々が功績を賞した結果として名声が高まったことを説明したものでした。ただ諸葛瞻は、宦官の黄皓とも組んで政治に介入していたことや、魏の侵攻に対して消極的だったこともあり、若干皮肉な目で見ていたかもしれません。陳寿自身が諸葛瞻の下役として恥辱を受けたからという説もあります。
『三国志』は極力、余計な内容を省き、事実だけを記す傾向にあります。そのため、文章が簡潔で、中国の歴史書では当たり前の物語的な要素が乏しいものになっています。『史記』以来の史書としての体裁も整っていません。これは、蜀が三国の中で極端に情報が乏しいことから、魏や呉と並べると貧相に見えるため、魏や呉の情報を省いたためではないかとも言われています(※4)。
このあまりに簡潔な内容を、150年ほどあとになって、裴松之という南朝宋の歴史家が、その頃まで残っていた三国時代に書かれた他の多くの書物をもとに補填しました。この裴松之が補填した各書物の内容は、荒唐無稽なものもふくめ玉石混交でした(※5)。しかし面白いエピソードも多く、後世、様々な劇や小説の元ネタにされました。それらの集大成としてまとめられたのが小説『三国志演義』です。

※1:正史とは王朝が正式に認めた歴史書の意味で、現代の歴史学で言うところの「正しい歴史」ということではない。中国の歴史書は、いかに「それっぽい」作り話を載せるか、が史書の作法であったため、かならずしも事実が書かれているわけではない。この感覚は現在の中国の歴史観にも通じている。
※2:呉の孫権は「権」と呼び捨てだが、劉備は「先主」劉禅は「後主」などと微妙に敬称をつけて書いている。また劉備・劉禅の夫人を皇后扱いしていることや、死去の際の文字も「崩」の文字を使うなど、皇帝に準じた書き方をしているが、孫権については「薨」の文字を使うなど諸侯の扱い。さらに蜀志楊戯伝の中に楊戯著作の「季漢輔臣賛」という文を入れている(季漢とは蜀のことで、前漢・後漢に続く漢の後継者を意味する)など。
※3:魏の有力者ですら数人まとめて1伝にしてある。1人で1章を使っているのは曹操および魏の歴代皇帝の「紀」と、「伝」である孫権、劉備など主君クラスで、臣下としては諸葛亮は別格の扱い。蜀志のなかでも長文。
※4:物語では縦横無尽に活躍する関羽や張飛すらちょっとしか記載されていない。これは、蜀が国家としての官僚機構が未熟で、公的な史書編纂部門も置かれていなかったため、敵側の記録などを参考にするしかなかったためと思われる。
※5:裴松之は荒唐無稽な内容を信じて載せたわけではなく、「こんなくだらない話を書くとはけしからん!」「矛盾していて全くのデタラメだ!」などと怒り心頭の批評をつけつつも排除せずに掲載している。あえて玉石混交の註釈にしたところが裴松之の変わっていたところで、むしろ現代的には出典を比較できる客観的な手法として評価されている。

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