1170年
源為朝自害(嘉応2年4月6日)

鎮西八郎と呼ばれて伝承も多い英雄、源為朝は、源為義の子。
身長は7尺(2m10cm)の巨躯、容貌魁偉、左腕が長く、弓の名手でした。
剛勇の武者で、性格も傍若無人。それゆえ、13歳で父親から勘当され、九州に追放されると、豊後に住み、肥後阿蘇郡の平忠国の婿となり、勝手に鎮西総追補使と称して、九州の豪族と戦いに明け暮れました。香椎宮の神人が、その乱暴狼藉を朝廷に訴え、出頭するよう宣旨を下されますが、為朝はこれを無視。その結果、父の為義が解官されてしまったため、やむなく京に戻ることを決め、28騎を率いて上洛しました。
翌年、保元の乱が起こると、為義は崇徳上皇側に招かれます。為義の嫡男、源義朝は後白河天皇に付き、源氏は分裂。為朝は父に付き従って、上皇側に付きますが、夜討ちを進言して、乱の首謀者で実力者の左大臣藤原頼長に拒絶され、逆に義朝らの夜討ちを受けました。それでも、義朝や平清盛の軍勢を退けますが、頼長は負傷し、戦いもあっけなく敗北。義朝に期待した父は降伏を決め、その義朝に首を刎ねられました。一方、為朝は逃亡。近江で病に罹り湯治していたところを捕らえられました。
彼の武勇を惜しんだ天皇方は、彼の肘を傷つけて弓を使えないようにした上で、伊豆大島に流します。ところが傷が治ると武勇を発揮して島を事実上占領。さらに伊豆七島全体を支配します。伊豆介工藤茂光の訴えを聞いた朝廷は、討伐の院宣を下し、嘉応2年4月に兵力500余騎をもって攻め、為朝は子の為頼を殺すと、敵の軍船をその強弓をもって矢を放ち、見事これを沈めると自害しました。
為朝の庶子は鎌倉幕府より大島と八丈島の領主に任じられたと言われ、大島氏はその後、太田氏に仕えました。
ところで、この為朝、実は死んではおらず、琉球へと渡り、その子が初代琉球王「舜天」とする伝承が、琉球王国の正史『中山世鑑』や歌集『おもろそうし』にあります。なぜ為朝だったのかは不明ですが、日本との関係を重んじる王家や重臣らによって、権威付けのために創作されたと言われています。

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