1127年
靖康の変(靖康元年11月5日)

金の軍勢によって宋の首府開封が陥落し、皇帝欽宗と太上皇徽宗、多くの皇族や官僚らが金に連行された事件です。
金は女真族の起こした王朝。現在の黒龍江省、すなわち満洲地方の東部、松花江の支流・按出虎水流域に根拠地を持っていました。
彼らは遼王朝に支配されていましたが、その過酷な政策に反発し、1114年、遼の節度使でもあった女真族完顔部の族長家の出身である阿骨打によって反乱が起き、寧江州を占領すると、翌年、彼らは「大金」(アルチュフ)という国を興しました。金は瞬く間に勢力を拡大します。
一方、宋王朝は、軍閥を抑えるために文治政治でした。初代皇帝の趙匡胤は、五代十国の混乱を収めて建国した背景から、軍閥が力を持ち、皇位を簒奪する歴史を知っており、文治主義を進めたわけです。しかし、これは周辺の強力な諸民族と対抗できない欠点が生じました。特に北方の遼王朝には悩まされ続けたわけです。やむなく宋王朝は遼に歳幣と呼ばれる莫大な安全保障料を支払っていました。この負担が重く、解消するための王安石による行政改革は官僚との対立を産み、国内は疲弊して反乱が相次ぎます。
贅沢三昧な暮らしをしてきた8代帝の徽宗は、遼に反乱して生まれた新興勢力の金に目をつけ、歳幣を贈って同盟(海上の盟)。ともに遼を挟撃しました。
軍事力の弱い宋は遼に敗退したため、金が遼の都、燕京を攻め落とします。宋としては遼だけでなく金も衰退することを期待したわけですが、意に反し、金は強大化。遼を滅ぼし、宋に約束通り歳幣を求めますが、宋はこれをごまかし、領土を奪う気配を見せたため、金の2代皇帝呉乞買(阿骨打の弟)は、宋へ攻め込みました。首都開封を包囲され、徽宗は「己を罪する詔」を発して退位し、帝位を欽宗に譲り、欽宗は金軍との間で領土の割譲、賠償金の支払いなどで講和を結びます。
しかし、主戦派によって講和は破られ、金軍は攻撃を再開。開封は陥落しました。皇帝や皇族・貴族の女性らは尽く連れ去られ、悲惨な境遇に置かれました。これにより宋は滅亡。難を逃れた欽宗の弟の康王構が江南に興したのが、南宋王朝です。南宋によって、それ以前の宋王朝は北宋と区別されました。

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