1908年
日本初の美人コンテスト

この日、時事新報社が、シカゴ・トリビューンからの「世界美人コンクール」の日本予選の依頼を受け、「新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや」として、日本初の美人コンテスト「日本美人写真募集」を開催しました。そのため、ミス・コンテストの日となっています。今と違い、応募された写真を、画家や歌舞伎役者などが見て選考するものでした。
このコンテストで最優秀賞を獲得し、日本初のミスに選ばれたのが、学習院女子部3年生の末弘ヒロ子16歳。小倉市長も務めた末弘直方の四女で、小倉小町として知られた美人。審査員13人のほぼ一致する結果で、写真はアメリカにも送られ、大評判だったといいます。
実は、彼女の義兄が、本人に無断で写真を郵送したことで選ばれたわけですが、学習院の学長、乃木希典は彼女がこのような大会に応募したことを不満に思い、女学部長の訴えを認めて彼女を諭旨退学処分にしてしまいます。このこともニュースになり、末広家には彼女を嫁に迎えたい、という話が殺到したとか。
しかし、本人が望んだことではなかったこともあり、処分後に事情を知った乃木は、退学にしたことを後悔。自らよい縁談を見つけてやろうと、陸軍内部で探しますが、事情を知った陸軍大将の野津道貫が申し出て、彼の長男で、侯爵位を継いだ鎮之助と見合い、結婚に至りました。縁談も本人が望んだことではなかったわけですが、見合い縁談が普通の当時としてはミスコンが結果的に良縁につながったということになります。
なお、ミスコンや乃木希典とは関係なく、もともと末弘直方と野津道貫は知人同士で、末弘ヒロ子と野津鎮之助は婚約していた、という説もあります。


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