208年
赤壁の戦い(建安13年11月20日)

中国史上数ある戦いの中でも最も有名なのが「赤壁の戦い」。
袁家を滅ぼして河北と中原の大部分を支配下に収めた曹操は、荊州の劉琮を取り込んで支配下に置くと、長江沿いへと進出。中下流域を支配下に置く孫権に対し、「80万を率いてそちらへゆくから、共に狩りをしよう」と脅しをかけます。
これに対し、孫権の家臣団は曹操へ帰順するか、荊州から逃げてきた劉備一党と手を組んで曹操に対抗するかで意見が分かれますが、孫権の周囲にいたまだ若くて血気盛んな周瑜や魯粛らが抗戦を主張。孫権もそれを受け入れます。
両方の水軍は烏林と呼ばれるところで激突し、そのあとそれぞれ対岸に陣を築いて対峙します(曹操の陣営が赤壁)。まもなく、孫権軍は曹操陣営に火攻を仕掛けて成功(劉備側が火攻したという記述もある)。曹操側は疫病が流行っていたこともあって、戦意を失い、陣を焼き払って退却しました。
しかしこの話、実は謎だらけ。烏林から赤壁の敗北までの正確な日程はわかっておらず、肝心の烏林と赤壁の場所もどこかわからない。何ヶ所か候補地があるがどれも確実とは言えない状況。両軍の出兵数も不明で、誰と誰が参加したのかも、正確なところはわかっていないのです。
わからない最大の理由が、正史『三国志』の主体である魏側が敗北したこと。大敗戦を記録に正確に書くわけにもいかず、微妙な言い回しでごまかしてしまっている(敗北と書かず不利と書いたりする。各武将の列伝でも、そのあたりに遠征したようなことしか書いてない)。かといって呉の記録も『三国志』では各列伝にチラホラ見られるもののまとまって書かれていない。劉備一党に至ってはほとんど一言しか記録してない(流浪の一党だった上に、蜀を建国したあともまともな史官すら置かれてなかったため記録がない)。もちろん、諸葛孔明が台を築いて東南の風を呼び込んだとか、関羽が曹操を見逃して咎められたといった話は作り話。ついでに言うと、曹操が諌めた劉馥を処刑したとか(劉馥はすでに故人)、孔明・周瑜の策にはまって蔡瑁・張允を殺したとか、魏に降った徐庶が「曹操のためには働きません」と述べて情報を漏らして逃げたとか、そういった事実もありません(蔡瑁も徐庶ものちに出世している。ちなみに諸葛孔明の妻黄夫人の母親は蔡瑁の姉)。
孫権側も全面勝利というわけではありません。赤壁の前後に、孫権は自ら合肥を攻めましたが、攻撃を見越していた揚州刺史劉馥が防禦策を練っていたこともあり、孫権は攻略もままならず退却。一方曹操軍を追って進撃した周瑜も夷陵・江陵の攻防戦で矢が腹に刺さって重症を負い、それが遠因か1年ほどで死去しています。しかもこのあと、劉備一党が勢力を拡大し、孫権側との間で不穏な状況に。一方、大きな被害を受けた曹操側は、荊州こそ樊城・襄陽ラインまで後退しますが、揚州はかろうじて維持し、西に転じて関中攻略に乗り出します。
周瑜は死の直前、「いまのうちに馬超と組んで益州(蜀)を攻略し、自らは襄陽より北進して、曹操と天下を争う」という大戦略を企図しますが、幻に終わりました。劉備一党はその益州を劉璋から奪い、天下三分が成立。つまり赤壁の戦いは「三国時代」のきっかけとなった戦いでした。
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