荀彧(字は文若)
163年(延熹6年)~212年(建安17年)

荀彧は曹操の重臣で、その覇業を支え、王佐の才と評された人物。
潁川の大一族荀氏の出身。董卓が献帝を擁して政権を握った際に宮中の職に就くも、間もなく辞して一族郎党を率いて韓馥に招かれる。が、韓馥は袁紹に地位を奪われた(譲った)ため、袁紹は荀彧を丁重に扱った。しかし荀彧は袁紹の器の小ささを見て、曹操に鞍替えした。曹操は「我が子房(※)」と喜んで重臣に迎える。
荀彧は曹操の覇業を助けて様々な献策をしたが特に重要なのが以下の3つ。

1つめが、曹操が陶謙討伐に出征している最中、陳宮らが謀反し呂布を引き込んだ際に3つの城(都市)を守って曹操の帰還まで維持したこと。曹操最大の危機はかろうじて回避できた。
2つめが、献帝が長安から洛陽へ東駕した際に根拠地である許へ迎え入れることを献策したこと。これで曹操は大義名分を手に入れる。
3つめが、袁紹との官渡の戦いで弱気になった曹操に「至弱を持って至強に当たる。我慢すれば袁紹陣営に必ず異変が起こる」と説得し、持ちこたえさせたこと。華北併合は荀彧の励ましの結果でもある。

また、一族の荀攸をはじめ、郭嘉や鍾繇、司馬朗・司馬懿兄弟、陳羣、杜畿など多数の人物を推挙した。
しかし、建安17年(212年)、董昭らが曹操を魏公の地位に付けようと運動を始めたところ、荀彧は、公は本来皇族の地位であり、臣下が付くのは簒奪の第一歩、漢朝を支える曹操が就くべきではない、と反対の姿勢を取った。これを曹操は不快に思ったという。
このことから、荀彧は後世、漢朝の忠臣と讃えられることになる。
まもなく曹操の呉遠征に呼ばれるが、その途上、病に倒れ死去した。
その死は自殺説も言われている。漢王朝への忠義と、覇業を目指す曹操との板挟みになって憂悶していたところへ、曹操から見舞いの食べ物が贈られてくる。しかし入れ物を開けてみると中は空っぽ。空ではお礼を言いようもなく、空だったとも言えないわけで、荀彧はこれを自殺せよという隠喩と受け止め自殺したという。
もっとも中国の史書でこのたぐいの話は大抵が作り話なので事実かは怪しい(いかにもそれらしい話をこさえるのが史書の作法)。
そもそも、曹操の覇業を助けたのは荀彧であり、自分が何をして、その結果、曹操がどうなって、漢王朝がどうなっていくかは、わかっていたはず。ここでにわかに漢への忠義立てもおかしい。漢を救うには曹操しかいなかったのでそれを助けた、というのが多くの史家の荀彧評だが、荀彧が曹操に仕えた時、曹操はまだ小勢力だった。唐の杜牧は荀彧が曹操を漢高祖や光武帝になぞらえたことを挙げ、「盗人に壁に穴を開けさせ柩を盗ませておいて、あとで手を切ったからといって、盗人ではないといえるのか」と批判した。
荀彧の、曹操の魏公就任反対は、まだ呉や劉備一党がいる中で、効果と弊害を考えると時期尚早と考えたか、あるいは、簒奪者王莽に倣っているかのように取られ反発を買うのを恐れたということも考えられる。
また、曹操が弱小勢力だった頃は、頭脳明晰で勢力家でもあった荀彧の存在は大きかった。しかし強大化した曹操の周りには多くの人材が揃うようになり、自分のあずかり知らぬところで話が進んでしまったことや、それを受け入れる曹操への不満もあっただろう。そして真っ先に賛成すると思っていた荀彧に反対されたことが曹操にとっても意外だったはず。
曹操と荀彧の晩年の関係は、史家が主張する儒教的大義名分云々よりも、創業者とその功臣にしばしば起こる心理的葛藤だったということかもしれない。

※子房とは漢の高祖劉邦の重臣張良(張子房)のこと。

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